dolente2 ~潮騒~

 残りの三十分ほど、休み時間が終わるまでの時間を三人で過ごす事になった春月は、その時間をひどく懐かしいと思った。男は自分一人、女子の中で音楽について語り合う。それがどうして懐かしいと思ったかは考えなくても分かった。


 吹奏楽をやっていた時は、よくこんな事をしていたっけ。

 逃げてきた先でも同じ事をやっているという後ろめたい気持ちと、自分はこの時間が好きなのだという開き直ったような気持ちの二つを同時に感じながら春月は楽譜と向かい合っていたのだった。


 ヴァイオリンで音大を目指しているという絵里香は、ピアノの事にも随分詳しかった。

 音大に行けば、入学試験にピアノがあって入学した後も副科でやる事になる。当然といえば当然だったが、音楽に向き合う気持ちは弥生にも負けていない、と思う。



 昼休み、昼食を取り終わった後に春月は一人音楽室の窓際で心地良い風を頬に浴びていた。

 午前休みは、絵里香が話題に合わせるのが上手だったお陰で密度の濃い話ができた。二人だけで視点が偏っていた事にも気付けて、指使いについてや曲調で変化させる音色についても話し合えた。


 クラスメイト一人一人とゆっくり交流するのも良いかも知れない。 


 そう思った時、朝の翔の言葉を思い出した。たかだか一ヶ月ちょっとで、お前も随分変わったな。

 その言葉通りだと思う。人と目を合わせて話すのは相変わらず怖かったが、話していても裏で自分は嫌われているという考え方はあまりしなくなったし、逆に話をするのが楽しくて仕方ない自分がいる事にも気付いていた。感情を表に晒すような機会をもっと持ちたいと思った。


 自分が変わり始めたきっかけがあるというなら――。

 そこまで考えて、やめた。早見弥生の事を思い出して顔が火照ったのだ。


 こうして休み時間に一人でいるのも、さっきの休みで放課後に向けての用意がある程度終わってしまったという理由があったが、絵里香が入ってきた時の最初の話を弥生が引きずっているせいもあった。

 それは春月自身も同じだった。


 これは恋愛感情ではない。そう思えば思うほど気付けば弥生との距離感を測っていた。あの後の授業で彼女の隣の席を外したのもそのせいだった。

 弥生に恋愛感情はあるのだろうか。あそこまで顔を赤くしていたのは何故だろう。


 弥生。感情。

 ふと、その言葉が春月の頭の中で何かにひっかかった。


 あの子のピアノには感情がない。まるで本人のように。

 朝の言葉の続きを思い出す。楽しそうに小さく笑う横顔や恥ずかしがって顔を赤くする彼女を見て、弥生に感情がないという言葉が嘘である事はわかっていた。

 だがそれが本当に本人の為になるのか?

 その言葉にどんな意味があるのだろう。彼女がどんな環境で育ってきたかについて詳しくは知らないが、今の弥生がそんな環境に身を置いているようにも見えなかった。


 これからも抑えていくべきというようなニュアンスを含むその言葉に、気持ちの悪い違和感を拭えない。

 翔に会って直接問い詰めたかった。


 午後は授業が三時間あるせいで長く取れる休みは今が最後だ。

 弥生とのピアノの時間の前に翔と話をしておきたい。気付けば窓際に寄り掛かっていた体が自然に三階を目指していた。


 普通コースが普段使う教室に、音楽コースの人間が足を運ぶ事は滅多にない。どんなタイミングでどうやって人間関係を広げているのか春月には分からなかったが、翔が休み時間になるとそこで他のコースの男子と集まって昼食を取っている事を春月は知っていた。

 だが、そんな事は今はどうでも良かった。弥生の事について知っておきたい。楽しそうに笑う翔の顔を見て、その思いが風船のように大きく膨らんでいく。


「春月じゃねえか、ここ来るの珍しいな」

 開け放されたままのドアの元に立つなり翔がこちらに声をかけてきた。大きな音を立てたつもりはなかったが、彼は本当に注意深い人間らしい。何をさせても本当に器用な人で、自分と彼は違うタイプの人種なのだという気になってしまう。

「お前も混ざれよ。普通コースの奴らはうちらと違って面白いぜ」

 翔が楽しそうに手を上げたが、春月の顔を見るなり溜息を小さく一つついた。


「なんて雰囲気でもなさそうだな」

「すみません」

 衝動的にここまで来たのはいいものの、彼の休み時間の邪魔をしてしまった気がして急に申し訳ない気持ちになった。考えが浅かったか。今日は放課後の時間を少し借りたほうがいいかもしれない。

「何でお前が謝るんだよ。悪ィ、俺これで外すわ」

 翔はそんな事を気にするような小さい男ではない事に、ほんの少しの安心を覚える。


 階段を上がって四階の音楽室に着くまで二人は一言も話さなかった。どこかで春月は翔のほうから口を開くのを待っていたのだ。自分から話があると言いに行って身勝手だというのは分かっても、一年という差がある以上、春月よりも翔のほうが弥生の事を良く知っているのだ。

「こっちの方がいい」

 音楽室のドアを開けようした時に翔が隣のドアを親指で指した。次の授業は通常の音楽室で行われるから、もう人がいても不思議ではない。この話題は他の誰にも聞かれたくないと思った春月は素直に彼に従った。


「お前さ」

 列になって並べられた長机の一番前の席に腰を下ろして足と腕をほぼ同時に組んだ翔が切り出す。

「絵里香に何か余計な事言ったろ。休み時間べたべたされて大変だったんだぞ」

 彼の口から出てきた名前に春月は目を逸らした。知りたいのは翔が絵里香を避けているかどうかではない。

「と、それは関係ないか。弥生ちゃんの事が知りたいんだろ」

 組んだ腕をだらりと垂らす。

「今朝の会話が気になって」

「だと思ったよ」

 彼の目を見た。自分よりも少し高い身長と常に余裕のあるような表情に尻込みしそうになったが、逃げる訳にも行かないと自分に言い聞かせる。

「どうして早見が感情を抑えないといけないのか、わからないんです。あいつの自由なところを否定する人間って、どんな人なんです」

「それを俺に聞いてどうする」

 どうすると言われた所でどうしようもないのは分かっていた。自分と彼女は週に一回ピアノを弾くだけの仲でしかない。

 ただただ、彼女が誰かに締め抑えられるように生きているという現実が気に入らなかった。


「まあ、何ができるかはお前次第ってところか」

 翔は見透かすように言ってから、

「弥生ちゃんの感情を否定するのは、あの子自身だ」

 謎めいた言葉を呟く様に、はっきりと力強く言ってみせる。

「わかるように言ってください」


 謎掛けがしたいのではなかった。はっきりとした答えが欲しい。何もできないかもしれないけど、自分にできる事が一つでも見つかるなら。


「本当にそのまま、言葉通りの意味だよ。時間が経てばお前もすぐにわかる」

「どうしても教えてもらえないですか」

 視点が下がっていた。

「俺から教えられるようなもんじゃないし、お前が時間を掛けてあの子本人から知らないと意味がないんだ」

 翔にはその答えを教えるつもりが無いようだった。そこに、話をする時間を作った意味も、わざわざ人の来ないここを選んだ理由もないという奇妙な矛盾を感じて春月は口を噤むしかなかった。


 一瞬の沈黙。

「なあハルキ。お前、あの子のどんな面を知っても今の関係を続けられる自信あるか?」

 沈黙を破った翔の言葉に春月はまたしても口を噤んだ。一ヶ月前に言った自分の言葉を思い出す。

 お前の色んな面が知りたい。


 どこかで分かっているような気になっていた。少しずつではあるが彼女は色々な面を自分に見せてくれていて、彼女という人間に対する理解が深まっていた――。そんな春月の思いを破壊するかのようなその言葉に、胃の辺りに何か重いものがどすんと落ちたような感触に駆られる。

「……場合によります」

「なら今日の放課後はさっさと帰るべきだ。いや、もうあの子とピアノを弾く機会は作らないほうがいい」

 弥生とピアノを弾かなくなったら。彼女は元の機械の様な演奏をする無表情な少女に戻って、自分はここに来たばかりのピアノが弾けない暗いだけの人間に戻ってしまうのではないか。胃の辺りに存在する何かがより一層重くなった気がした。


「いいか春月。あの子との関係を維持したいなら、どんな面を見ても、知っても、逃げないだけの覚悟が必要になる。俺にはできなかった事だ。これだけ言っても二人でピアノが弾きたいというなら、肝に命じておくといい」


 覚悟。返す言葉は見つからなかったが、翔の口から出てきたその単語に思わず目を合わせていた。

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