第二節 dolente


dolente




 日を追うごとに次第に暑くなる空気に飛び込むように、春月は駅の重いドアを押し開けた。むわっとした熱気に一瞬咳き込みそうになって、ゆっくり息を吐ききる。

 六月になってからというものの、朝からこんな暑さを漂わせる日が毎日続いている。今年は夏バテ必至か。

 高校を変えて毎日家の外に出る機会が無くなってから、急激に体力が落ちているのは春月自身もよくわかっていた。元々運動があまり好きでなかったせいもあって、ただでさえ少ない体力がこうも落ちていったらこの先どうなるのか、という一抹の不安が頭をよぎる。

 週に一回のスクーリングの日になると毎週同じ事を考えている気がした。


 それでもめげずに毎週朝起きて学校に来られていたのにも、それなりの理由があった。

 弥生の前でピアノを弾いた五月の出来事以来、春月と弥生は毎週スクーリングの後に音楽室を占領しては互いのピアノを聴かせ合っていた。毎週お互いの共通のレパートリーを決めて、次の週に聴かせあっては互いにアドバイスや意見交換を行うのだ。

 共通のレパートリーの他に買ってきたアンドレ・ギャニオンの楽譜から毎週新しい曲を一つ練習してくる弥生のピアノを聴くのは好きだったし、ほんの僅かではあるが少しずつ彼女のピアノが変わってきている事に春月は気付いていた。

 変わっているのはピアノだけではなかった。少ししか表情を変えないところは相変わらずだったが、変化する弥生の表情の幅が、ほんの少しずつ大きくなっていたのだった。

 その小さな表情の変化を見るのが楽しかった。


 熱気の中をかき分けるようにして、学校へ向かう足が自然に速くなっていく。

 駅の周辺に少しだけ存在するビル街は春月の住んでいる市内にはない光景だった。ぱりっとしたスーツを着込んでその中に吸い込まれていく人たちとすれ違ってビル街を抜けながら、春月は今日の学校の事を考える。

 授業の事ではない。放課後の弥生とのピアノの事だ。


 ショパンから始まった二人のピアノは初めは順調に登っていたものの四週目で若干の停滞を漂わせ、先週からドビュッシーを弾き始めたのだった。

 先週はポピュラーな月の光。今週は、ほんの少しだけマイナーなベルガマスク組曲の中のプレリュードを弾く予定だった。

 先週と先々週の自分の演奏を思い出して、春月は若干笑みを浮かべていた。

 先々週は弥生の得意な方面の曲で、先週もその曲調の中に自分の苦手なフレーズが含まれていたのだった。


「ハルキ!」

 背後から声をかけられて振り返った。

 同じ方向に歩いてくる人ごみの中でも、見覚えのある長身は探す必要もないくらいすぐに目につく。かけるが手を振っていた。

 今の通信高校だけが春月にとって唯一の人との繋がりである事もあって、自然に顔に微笑が浮かぶ。

「翔さん、おはようございます。今日は驚かせてこないんですね」

「お前の中の俺のイメージどうなってんの?」

 長い足をゆっくりと動かして、翔が春月の隣に並んだ。毎週のように後ろから突然両肩を掴む行為を繰り返しておきながらそんな事を言うのがおかしかった。

 軽い口調の彼にのせられているのは感じていたが、春月も楽しくなって「驚かせてくる人です」と軽口を叩いてみせた。

「随分生意気な事言うようになったじゃないの。年上だぜ、俺」

「スキンシップですよ」

 春月の言葉に翔は肩を揺らした。

「たかだか一ヶ月ちょっとで、お前も大分変わったな」

 変わったとするならば理由は幾つか思いついたが、多分弥生とのピアノが大きいのだろう。

 十分しか弾けなかった春月はあれから三十分までピアノに向かい合えるようになって、普段のレッスンや真由美との教室のレッスンでも自然に笑うようになっていたのを自分でも気付いていた。


「それはそうと」

 少し間を置いてから不意に翔が話題を変えた。

「どう? 弥生ちゃんのピアノは」

 どう。何を聞かれているのかわからずに若干答えに迷った。

 技術的に見れば弥生のピアノは文句のつけようがない。それが一番初めに浮かんだ春月は肩をすくめた。

「すごいです。あいつのピアノは。俺なんかとはレベルが違う」

「それは知ってるよ」

 そんな答えが欲しいではないと言わんばかりに残念そうに言ってから、翔が声のトーンを低くした。

「あの子のピアノに足りないものは?」


 彼女のピアノを最初に聴かせてもらった時の事を思い出す。

 その技量にひどく感動しながらも、機械に打ち込まれた演奏を聴いていたような違和感。

「感情表現……ですか?」

 その違和感を言葉にして表すと多分これになるのだろう。

「そう。あの子はまるでピアノを弾く為に生きてるような天才だっていうのに、あの子のピアノには感情がない。音楽が弥生ちゃん本人を映し出しているかのようにな」

 翔の表情と言葉はどこか寂しげだったが、ここ一ヶ月弥生を見て彼女の事を考えながらピアノを弾いてきた春月は、彼女が変わってきている事を知っていた。

「でも、だんだん変わってきています」

 その言葉は迷い無く春月の口を突いて出てきた。

「そんなのは見てれば誰にだってわかる」


 不意に翔が足を止める。

「でもな春月。果たしてそれは、本当に弥生ちゃん本人の為になるのか?」

「どういう意味ですか?」

 真剣な目でこちらを見据えた翔の言葉の意味がわからなかった。感情を表に出すのが悪い事な訳がない。人間にとって感情はごく自然な物で、そこから生み出されたのが音楽なのだから。

「言葉通りの意味だよ。感情を表に出す事を知らずに育ったあの子が、ここにきて急激な変化を見せた。周りの人間はどんな反応をすると思う?」

「それは、悪い事じゃないと思います」

 弥生の笑顔を思い出す。ぎこちない作り笑いを浮かべたり、自分の音楽を聴いて微笑んでくれたり。五月の初めは表情を崩さずにピアノを弾いていたのに、最近では口元を緩めてみせたり。

 それがここにきて否定された気がして、春月の口調は強くなっていた。

 いつもならここでふっと笑ってみせる翔の表情は変わらなかった。

「確かに、普通に見れば悪い事じゃない。でも全員が全員、変化するあの子を受け入れられる訳じゃないって事は覚えておいたほうがいい」

 すぐには返す言葉が見つからなかった。どうして、とか何故、とか、そんな言葉で深く聞くのが怖くなってしまった気もしたのだが、何となく感じた苛立ちをどう処理すれば良いのかわからなかった。


 弥生個人の感情を否定するような人間がいるとするなら、自分はその人間に会ったときどんな事をするのだろう。握った拳に、平静を保っていられるような気はしなかった。


「まあ」

 春月が口を開くよりも先に、翔がいつもの軽い口調とトーンで言ってみせた。大きく息をついた後に、穏やかに口を開く。

「今の関係を続ければ、嫌でもわかる事になるよ」


 その後、春月は言葉を見失って一方的に翔の話を聞く側に回ってしまった。彼は音楽の話をあまりせず、中学の頃にやっていた馬鹿な事や自分が乗っている車の話を好んだ。春に誕生日を迎えて免許を取りに行き始めたもののあまり車に興味の無かった春月にとってつまらない話もあったが、中学時代を吹奏楽でつぶしてしまった春月にはやんちゃだった翔の話は退屈ではなかった。

 二人で笑い声を上げながら四階の重い扉を開くとクラスのほとんどが既に席についていた。

 どうやら、話し込みながらだらだら歩いてしまったせいで駅からだいぶ時間を掛けてしまったらしい。その事に自分でも気付かなかった春月は、珍しく後から来てしまった事に驚いた。


「春月くんは珍しくギリギリだね。翔くんはいつも通り。あんまり悪い影響与えないでね」

 担任の真由美も既に前に立っていた。真由美の方を向きながらへらへらと笑いながらすみません、と間延びした口調で言ってみせて、翔は一つだけ開いていた後ろの席へさっさと移動してしまう。この辺り、器用な人だと思った。

 残り一つの空いている席は――。

 ああ、やっぱりお前が隣になるのか。小さく手を振る弥生を見て、春月は肩を落とした。




*




 ――二人ってどんな関係なの?

 クラスメイトである狩野絵里香かのうえりかにそう問いかけられたのは、午前の休み時間に弥生と二人で譜面を見ながら曲の歌い方を話し合っていた時だった。

 三十分という春月の限界があっても、学校が五時には閉め切られてしまうせいもあって、休み時間はよく二人一緒に放課後の打ち合わせやピアノの相談をしていたのだった。そうしてずっと二人一緒にいても付き合っているという訳ではないし、お互いを名前で呼び合っている訳でもないから、そんな二人を不思議に思って声を掛けてきたのだ。


 音楽コースという、普通とは違うコースなりの授業の組み方がされている事もあって、音こそ出せないものの一時間自由な空き時間を手にした二人は周りから隠れる事もせず傍から見ればまるで恋人のように隣に座って先週の事について話し合っていた。

 浅田くんの月の光、細かい音下手。小さな笑いを隠す事すらせずに言った弥生に、

「そりゃあさ」

 練習時間も取れないんだから、と半ば開き直るように春月が笑った時だった。


「二人ってどんな関係なの?」

 同時に驚いて、え、と振り返った。

 こうして隣に座って笑い合っていれば付き合っているようにも見えるかもしれない。顔を赤くする弥生の顔を一瞬見て春月の顔も火照った。

「友達……かな」

「付き合ってないの?」

 不思議なものでも見るように首を傾げた絵里香に、弥生が首を横に振る。

「うん。一緒にピアノ弾いたりしてるだけ」

 言葉選びに失敗した、と思う。一緒に、という言葉でますます顔を赤くして俯いた弥生を見て、絵里香がふーん、と呟いた。

「弥生ちゃんは春月くんの事好きなの?」

 ぷるぷると首を震わせるようにした弥生の顔は驚くほど赤くなっていて、今にも顔から火が出そうな程だ。

「そうなんだ」

 絵里香の表情は納得がいかないようで、

「すごく仲良さそうなのに」

 とだけ呟いて黙ってしまった。


「そんな風に見えるのかな」

 一瞬の沈黙の後、気まずさを隠せないまま春月が言った。意外そうに絵里香のトーンが上がる。

「だってみんな言ってるよ。付き合ってるんじゃないかって」

「俺転校してきてまだ二ヶ月だよ」

「うん、だから大人しい弥生ちゃんがこんなに近づいてびっくりしてる」

 そう言ってから絵里香はため息を漏らした。

「私も翔とそんな風にできたらいいのに」


 二人が長い事付き合っているのは翔の口から直接聞いていた。幼馴染で年の差は二つ。いつも軽いテンションで人をからかう翔といかにもこの純粋そうな絵里香は不釣合いな気もしたが、翔が彼女の為に二年待って同じ高校を選んだというのだからその気持ちが言葉で言い表せないくらいには強いのも知っていた。

 だが、二人がそこまでの様子を周囲に見せる事はない。むしろ絵里香の口ぶりからすれば、翔が彼女を避けているようにすら感じられた。


「もしかしたらさ」

 素直に聞いてきた絵里香に負けないように春月も素直な言葉をぶつける。

「俺と早見よりも、そっちの方が不思議な関係かもしれないよ」

 絵里香はふふっと笑って、

「普通がいいんだけどね」

 そう言ってから一つ前の席の椅子を引いた。

「恋人の時間じゃないなら、お邪魔してもいい?」

 黙っていた弥生がこくりと頷く。そんな風に言われては、春月も嫌だとは言えなかった。確かに恋人同士の時間という訳ではないのだ。

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