Theme 4 ~雨ふりのあとで~
一体、どういうことだ。
目の前の光景に春月は目を疑った。
弥生ちゃんはピアノうまいからね。担任の真由美の言葉を思い出したが、その言葉に素直に同意ができなかった。
うまい、などというレベルではない。
繊細なタッチと本当に細かいところまで揃えられた音の粒、ここぞとばかりに揺れ動くテンポに乗せられて波のように変化する強弱表現――。
プロの演奏を聴きに来ているような気分にすらさせられた。鍵盤を通じて自由自在にピアノを操る。これはもう体全体がピアノの一部になっていると言ってもいい。
だというのに、何なのだろう。この違和感は。
ミスがある訳ではない。弾ききれていない所がある訳でも、拙い部分がある訳でもない。そんな所あるはずがないという気にすらさせる演奏だというのに、本当に聞き惚れていないと気付く事すらない程の自然さで欠けている何かに不気味な物足りなさを感じた。
揃いすぎた粒や統一された音色。どこか、非常に精密に作られた機械の演奏を聴いているかのような――。
完璧な演奏をこなす彼女の音楽には素直に魅せられる。もっと聴いていたいと思ったが、別れの曲の静かな終わりの後に早見が両手を持ち上げた。
「指、慣れた。次はね、前に浅田くんが言ってたピアニストの曲」
言葉が出ない春月の目を少しだけ見つめてから、一曲目の余韻も収まらないうちに早見の指が黒鍵を撫でる。
今の演奏には何の価値もないとでも言わんばかりに、ゆっくりと深く、次の演奏の為に息を吸い込んでいった。
――アンドレ・ギャニオン?
グランドピアノから溢れてきた音楽に春月は心の中で呟いた。早見はこんな曲も普段から弾いているのか。
だとすると、たった今一曲目を弾いている時に感じた違和感が余計に大きくなっていく。
彼の曲はピアノの技術だとか純粋なうまさではなく、演奏者が素直に感じたものや心の中の風景を共有するような、表現力というものが重要視されているせいで彼女に向いているとは言い難いのだ。何故彼女はわざわざこの曲を選んで自分に聴かせるというのか。
自分がこの作曲家が好きだという事を、彼女が覚えていたからだろうか。
演奏を終えると、背負っていた荷物を降ろすように早見が息を小さく吐き出した。いつもより少しだけ力強い目でこちらをまっすぐに見つめてくる。
「どうだった?」
聞き惚れていた春月を現実に呼び戻すかのようなその素朴な問いかけに、慌てて適当な言葉を必死に探した。うまかったとか上手だったとか、そんな単純な言葉では言い表せない。もっと複雑で、芸術的に光っていて。
「……すごかった」
そうして探して出てきた言葉がそれだった。単純な言葉では言い表せないはずなのに、レベルが違いすぎて逆に言葉が出てこなかった。
彼女と自分では見えている景色すら違うのだと素直にそう思った。
そんな感想が欲しいのではないと言わんばかりに、早見はそう、とだけ言った後に、
「景色」と呟いた。
「景色?」
その意味がわからずに、少し間をおいてから問いかける。
「何か、見えた?」
ようやく、彼女がわざわざあの作曲家を選んだ意味がわかった。
練習していたのだ。アンドレ・ギャニオンが好きな自分を呼び出して、彼女はピアノの練習をしていたのだ。もっとうまくなりたいというその一心で。
その問いかけに素直に答えることはできなかった。自分がただ彼女の技量に見惚れていたというのも理由の一つではあったが、恐らく彼女自身が一番気付いている決定的に欠けているそれを、率直に言葉に出すのは気が引けたのだ。
自分と彼女の間には、差がありすぎるという理由も手伝って。
それに気付いたのか、早見は今度は残念そうに、そう、とだけ呟いた。
「浅田くん」
「何?」
「次は浅田くんの番」
そう言って早見が立ち上がった。くるくると椅子の横に付いたノブを回していく。
そんな早見を見て銃で撃たれたかのように心臓が突然大きく鳴るのを感じる。ピアノを弾く? 俺がこの演奏の後で、彼女の前で?
「浅田くんのピアノが聴きたい」
抑え込みこそしたものの隠し切れない動揺を彼女はどう見ているのだろう。春月の左手をその小さな両手で握って、
「弾いて欲しい」
そう繰り返した。
断る理由などない。無いはずだ。
まっすぐに見つめてくる早見の目と鍵盤を交互に見たところで、自分の手が震えている事に気付いた。
「どうして」
「浅田くんのピアノは景色が見えるから」
背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。急に見つめてくる瞳が怖くなって、やめてくれ、と目を逸らしていた。
「ピアノを弾いてると嫌な事を思い出すんだ。俺に見えてるのは暗い景色ばかりだよ」
それが彼女にも見えているのだとしたら、そんな景色を共有したいとは思えない。
春月の意思に反して、春月の左手を握る早見の両手に次第に力強さが込められていった。
「そんな事ない。浅田くんのピアノはやさしい景色が見える」
まっすぐな目と言葉にも力強さを感じた。
思えば、こうして自分の音楽が求められている状況は随分久しぶりかもしれない。
転校する前はピアノを弾くのが楽しかった。同じ打楽器パートのメンバーにねだられたり、自分よりもピアノがうまい友人が見てやるから弾いてみろと催促してきたり。それに応えて自分の音楽を表現すれば、自分という人間をもっとよく知ってもらえる。そう思っていた。
ピアノを弾くときに自分の中を駆け巡る暗い景色を思い出す。楽しい時間は終わりを告げて、冬の到来と共に長くなる暗闇に自分の心が侵されていく風景。ピアノを弾いている時はそればかりが頭の中でガンガンと鳴り響いていた。
そうだというのに、目の前のこの少女には違う景色が見えている。
「また見せてほしい」
曇りのないその瞳で、早見がもう一度繰り返す。
「……暗い景色でも?」
「うん。それが浅田くんの音楽なら」
「少しだけ」
溜息をつきながら肩を落として、春月は目をピアノのほうに向けて呟いた。
そんな姿を見せられては折れるしかない。そんな事を言われては。
自分の右手を見つめた。
この一年、この手が生み出す景色に追い詰められていた。それでも、もし、自分が気付いていないだけで同時に優しさも生み出しているのだとしたら。
――弾けるかもしれない。
自然に手の震えが収まっていった。
椅子に座って鍵盤を見つめる自分がひどくリラックスしている事に気付いた。こんな気持ちでピアノに向かい合ったのはどれくらいぶりだろう。弾きたい、ではない。言葉にならない感情が全身をくすぐっては体中を駆け巡っているのを感じた。
「別れの曲」
せっかくだから彼女と同じ曲を弾いてやろう。技術では絶対に勝てないし、その面で彼女を聞き惚れさせる事なんかできないのはわかっていた。だったら、例え暗いものだとしても自分の心象風景で勝負してやろうじゃないか。
目を閉じて歌いだしのフレーズを思い浮かべた。あまり弾かずに鈍ったこの手ではあまり速く弾けないからゆっくりと確実に、歩くような速さで。自分の好きなスローペースのテンポで。
鍵盤を押し込んでいく――。
たっぷりとした歌いだしの後に続くテンポが、体全体を支配する高揚感を待ちきれずに速くなっていった。
別れを惜しむ最後の語り。悲しみよりも切なさの溢れる美しい思い出をオレンジ色の空が彩っていて、その感情を抑えることなく静かに、笑顔で友と語り合う。
美しい旋律の一音一音は、過ぎていく思い出の一ページ達。旋律の通り過ぎる速さは、次第にオレンジから暗い青に染まっていく空の時間の早さ。
次第に静かな旋律は終わりを告げ、和音と左手の低音が音楽を激しく演出する。思い出というのは決して甘いだけではない。時には心を突き刺すような、引き裂いてしまうようなものだって確かに存在する。気付けば、いつもピアノを弾く時の景色を重ねていた。
激しいフレーズを前にして最初に少し速く弾きすぎたのを今後悔しても遅い。ここまでくれば弾くしかない。
だがリラックスした肩に力が入る事もなく、両手は自然にそのフレーズをこなしていった。
丁寧さなどいらない。溢れる思い出は美しいだけではないから。
弾きながら溢れてくる声を聞いても、弾けなくなるとは思わなかった。今だけは――そう、今だけは。そんな景色すらも自分の音楽だと認めてくる人間が一人でもいるという事実が、自分を安心させている事に気付く。
再び静かな旋律に戻ってきた。青く暗い空に、さよなら。おやすみ。いつかまた巡り合う日まで。そんな言葉を浮かべながら、今度は丁寧に、最後まで音を繋ぐ。
最後の音が止んでようやく息を大きく吐き出したところで、服が汗でひどく濡れている事に気付いた。気付けば息遣いも荒くなっていて、過呼吸を起こしたかのように全身がびりびりと痺れていた。
不思議と不快感はなかった。この感覚はステージの上でピアノを弾いたときのものだ。
音楽室という小さなステージで、観客は一人だけ。
そのたった一人の観客は目を大きく輝かせて、ぎゅっと両手を胸の前で握っている。
その様子を見てようやく春月の顔に笑顔が浮かんできた。
「景色、見えた?」
彼女の問いかけを今度はこちらから投げかける。
「早見に比べたら拙い演奏だったと思うけど。どうかな」
「見えた。拙くなんかないよ。浅田くんのピアノ、やっぱり好き」
俺も――。それは流石に言葉にはできなかった。彼女に比べれば自分などどこにでもいて、ピアニストなどという肩書きを名乗るのも恥ずかしい存在でしかないのはよくわかっていた。
それでも、ピアノは春月にとって唯一自分で自分の事が好きになれる要素なのだ。
どうしてそんな事まで忘れていたのだろう。
「少し休憩したら、もう一つ弾くよ。早見が弾いたのと同じ曲を」
プロローグ。心の旅と名付けられたその曲は春月にとってお気に入りのレパートリーの一つだった。
自分の音楽が彼女の練習台になるというのなら、それだって決して悪い事じゃない。それこそ自分の望む自分自身の音楽の形だ。
心の底から溢れてくる笑顔に、こんな気持ちになったのはどれくらいぶりかと問いかけながらそっと目を閉じた。
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