Theme 3 ~乙女の祈り~
――なんて良い天気。
電車に揺られながら、次第に焼けていく空を見ていた。さっきまで途切れながら浮かんでいた雲は風に消え、青とオレンジのコントラストが空を彩っている。
むこうの市とは違ってごみごみとした建物が立ち並ぶの中でも、空は同じように高く水のように澄み切っている。そんな空に、別れ際の浅田の言葉を重ねていた。
お前にあんな面があるって、意外だった。もっと見てみたい。
もっと見てみたい。その言葉にどんな意味があるのか弥生にはよくわからなかった。人の言っている事、行動や表情が示すものを理解するのは昔から苦手だった。無神経な言葉で人を傷つけるのはよくある事で、人の言った言葉の意味を理解できないせいで鈍い奴だと非難されることもよくあった。彼の言葉が理解できないのもきっとそのせいだと思う。
言葉を遣わずに音楽だけで語り合えたら楽なのに。
叶わない妄想を一瞬頭に浮かべて、弥生は小さくため息をつく。
ピアノは弥生にとって体の一部であり、唯一人に誇れる特技でもあった。祖母の勧めで三歳から習い始め、幼い頃から小さなコンクールで何度も賞を取り、中学の頃には全国大会に出場したこともある。あまり両親はその事で弥生を褒めた事はなかったが、祖母だけは練習する弥生を励まし、時には大昔に自分が培った技術を弥生に教えもした。
会話が苦手な弥生にとって、祖母は――ピアノは、唯一の外の世界との繋がりだった。
電車が速度を緩めていく。また戻ってきた。
こっちより向こうの方が好きだな。
窓の外で流れていくビルは弥生の好きな景色ではなかった。スーツを着込んだ大人は下を向いたりスマートフォンをいじったりしていて前を見ていない。それを見ても体が小柄だから押しつぶされそうだとか息苦しいといった感情を浮かべたことはなかったが、前を見ない大人の中を歩いているといつか自分もそうなるのだという得体のしれない感覚を嫌でも思い起こされて過呼吸を起こしてしまいそうになる。
自分を気になると言ってた彼もよく下を向いていた。
別れ際に不思議な言葉を投げかけてきた彼。いつも苦しそうに微笑む表情の下に、なにか重いものを背負っている彼。
別れ際の言葉が異性としての好意ではないことくらいは分かった。なんとなく直感がそう告げているだけなのだが。
自分の彼に向けるこの感情は何なのだろう。転校してきた彼の第一印象は、背が高くて、良く言えばクールで悪く言えば暗い人だった。冷たくて怖い人かもしれない、そう思った。しかし隣に座ってガイダンスを受ける彼が時々嬉しそうだったり悲しそうだったりと色々な表情を浮かべるものだから、そんな人間の奏でる音楽はどんなものなのだろうと気になって声をかけたのだった。
実際、彼はモーツァルトの次々変化する曲調をよく弾きこなしてみせた。細かく見れば音の粒はそこまで揃っているとは言えないし、指が回りきらずに所々遅れたり、テンポキープも若干甘い。それでも彼の感情表現――特にピアニッシモの繊細さ、dolceの甘くて優しい歌い方に彼の本質、心の中にある彼の暖かく優しい一面が見えて、思わず聞き惚れてしまったのだ。
表現力。普通ならその一言で片づけられてしまうそれが、弥生が今もっとも欲しているものだった。今のクラスに自分よりもピアノを弾ける人間はいない。それは彼も同じで、技術だけで見ればいくらでもいる大勢の中の一人に過ぎなかった。だというのに、彼のピアノには技術だけではない、言葉でも言い表せない不思議な魅力があった。
乗務員の声で我に返った。
いつの間にか電車は止まっている。他の客はもうみんな降りて、運転手が清掃の為に見回りをしているところだった。急いで鞄に買ってきた楽譜を詰めてから、ごめんなさいと立ち上がる弥生を、年老いた小柄な乗務員が怪訝な目で見ている。その視線が怖くて思わず電車から飛び出してしまった。
ここが終点で良かった。危うくまた乗り過ごすところだった。
考え事をすると周りが見えなくなるのは弥生の悪い癖だった。大抵はピアノと音楽の事。高校に入学してからはクラスメイトの事もまたよく考えるようになっていた。
ヴァイオリンで音大を目指す子。吹奏楽をしていたが、周囲と打ち解けられず高校は通信を選んだ子。自分と同じく小さい頃からピアノを習っていたが、両親の離婚をきっかけに不登校になり今の学校を選択した子。いつも明るい笑顔で授業をして、悩み事をなんでも聞いてくれる担任の先生。
一カ月前、その中に飛び込んできた彼は――。
いや、もうやめよう。これではまるで恋する乙女ではないか。
改札を抜けて駅の東口を目指した。夕方だけあって駅の構内はひどく混雑している。歩きずらかったが、学校や会社から解放されて嬉しそうにしている人々の中を歩くのは嫌いではなかった。
自分が変わり者なのはもう知っているし、変わっていると言われるのもなれっこだ。
駅を出て、二階になっている歩道橋デッキも通り過ぎると、人の波もだいぶ穏やかになる。頭上を埋めるビルは嫌いだったが、所詮はこの田舎。五分も歩けばそんなものは視界に入らなくなった。
そうして駅から少し歩いたところに、祖母の家はある。少し狭い道に入っているから車の音は気にならないし、駅から少し離れているから空気も汚くない。酔っ払いだって、わざわざこっちまで歩いてはこない。
そんな祖母の、今は自分の住んでいるこの家を弥生は気に入っていた。
ただいまとだけ短く言って廊下を横切った。祖母は台所か。料理の匂いを嗅ぎつけて、手も洗わずに廊下の突き当りを曲がった。
「ただいま、おばあちゃん」
祖母は自分と同じで小柄、パーマがかかって広がった髪はまさしく日本のおばあちゃん、といった雰囲気だ。細い腰に花柄の赤いエプロンを巻き付けて、台所で野菜を切っている最中だった。
「おかえり弥生。一人で楽譜は買いに行けた?」
「ううん、クラスの人が付き合ってくれたよ」
「エリカちゃん? 前橋だから……クルちゃんかな?」
おっとりした口調で、野菜を切っていた手を止めて祖母が記憶漁りに夢中になる。あまり物を覚えるのが得意でない祖母だが、高校に行ってようやくできた弥生の友達を覚えるのだけは早かった。
「ううん、先月転校してきた人。前橋に住んでるの」
「あれ、男の人? やよちゃんにも彼氏ができたの」
「違うわおばあちゃん。前橋に住んでただけだから」
そうかいそうかい、と言って、祖母が再び野菜を切る手を動かした。
「ピアノが弾けない人だっけか。仲良くなれそう?」
「うーん、わかんない。今度ピアノ弾いてあげるんだ」
「やよちゃんが? 珍しいねえ」
祖母が小さな肩をクスクスと揺らした。
「珍しいかなぁ。よく弾いてあげるよ。今のクラスの人に」
「じゃあ今度は私にも聞かせてな」
「うん。じゃあピアノ弾いてくるね」
そう返して、一階の奥にある自分の部屋を目指した。買ってきた楽譜を少しでも早く音にしたくてうずうずが止まらない。
「手ぇ、洗うんだよ」
ああ、そうだった。
こうして細かい事まで面倒を見てもらわないといけないのも、悪い癖だと思った。
*
次のレッスンはクラシックをお休みしよう。
そんな事を思いついたのは、ピアノを弾く手を止めてベランダで月を眺めている時だった。譜面だけ見ればなんてことはない、三日もあれば暗譜して弾けそうな曲だというのに、これは自分一人ではどうしても完成させることができない。そんな思いに駆られたのだ。
真っ白な壁紙で埋め尽くされた部屋に大きく居座るグランドピアノに反射して映る自分の顔は疲れている。ピアノが綺麗じゃないと綺麗な曲なんて弾けないから――。そんな事を言いながら、祖母が自分に気を遣っていつもピカピカにピアノを綺麗に磨いてくれているお陰で、こうして離れていても鏡のようにピアノが自分の顔を映し出してくる。
音楽は自分の心を映す鏡とはよく言ったものだ。
普段弾かない曲というのは、どうしてこんなにも心に負担をかけるのだろう。さっき譜読みの為に点けてそのままにしてあった机のライトを見て、弥生は大きくため息をついた。
今の自分に足りないものは感情表現。レッスンの度に言われるせいで言葉ではよくわかっているのに、それが一体どういう事なのかいまいちよく理解ができない。いくら強弱表現を大げさにして音色を変えてみても、あるいはテンポを揺らしてみても、先生の言う言葉は変わらなかった。
やろうとしている事は分かるんだけども、どうしても弥生ちゃんのピアノからは感情というものが感じられないのよね。
どうすればその感情が音色に載せられるのか。一体どんな指の動きをすれば良いのか。学校の担任の真由美先生も、師事しているピアノ教室の先生も、こればかりは体で覚えるものと言わんばかりに、肝心の所を教えてはくれない。
その大事なところを覚えないままここまできてしまった。技術的な事はどんどん覚えていくというのに、この指は自分の複雑な頭の中を表現するのに必要なことだけ頑なに覚えようとしなかった。
どうすればいいのだろう。小さい頃からそればかり頭の中で反復し続けて、ようやくその答えを運んできたのが彼だった。
細かくて小難しいモーツァルトの曲ではない。あの曲名もわからない、恐らくは外国の作曲家の簡単なピアノ。ゆったりとしたテンポで揺れる、朝焼けとも夕焼けともつかない海を連想させるその曲の中に、弥生が求め続ける答えが転がっている気がしたのだ。
この一カ月、あの演奏ばかり思い出す。最後まで聴けずに終わった曲。次第に乱れる息遣いとテンポ、苦しそうに変化していく顔と音色。
それすらも複雑な感情が絡み合って生み出された曲の一部なのだと思うと、この不思議なもやもやは弥生の中で大きく膨らみ続けた。
別れ際に彼が言った言葉をもう一度思い出した。
お前にあんな面があるなんて。もっと見てみたい。
私の音楽。決して単調ではないはずなのに、まるで機械の演奏だと講評に書かれる音楽。色んな面――私のどんな面を見て、彼はそんな風に思ったのだろう。
そういう自分だって、自分自身の全部を知っているわけではなかった。
ああ、どうして自分はこうなのだろう。
もっとうまくなりたい、と思った。
楽譜をなぞるだけじゃない。音に、言葉ではうまく伝えられない自分の気持ちを載せて表現する事ができたらどんなに楽しいだろう。音を通して自分を見つめることができたらどんなに楽だろう。
楽譜をめくりながらそう考えていた。
子洒落たタイトルに似合った旋律の数々。それを頭の中でなぞっていくと、楽譜のページが色とりどりの絵本に見えてくる。
自分には見えているのだ。楽譜に書かれた絵や景色が、解説を見なくともそのままページに描かれていて、鍵盤に触らなくとも作曲者の描く世界がそのまま自分の頭の中に映りこんでいくのが。
その景色が見えない他の皆に伝える術を持っていないのが悔しかった。
一度指を止めてしまうと、また鍵盤を撫でるのが辛くなってしまった。確か多動性といったか。小さい頃から言われていた落ち着きのなさを、医師はそう説明していた。
重い腰を持ち上げて部屋に戻ると、ベッドに仰向けに倒れた。発達障害と診断されたのはもう二年半前になるのか。最初こそ悩みはしたものの、他人と話ができない事だとか他人とは違う世界観を持っている事を考えれば、その診断結果に納得するのにそう長い時間はかからなかった。
何よりもその時告げられた診断結果に、納得できなかったことが他にあったせいもあった。
他の人には見えない、自分だけのともだち。気が付くとか気が付かないとか、弥生がそんな感情を覚えるよりも先に彼女は弥生の中に存在していた。何をするのもどこへ行くのも一緒で、自然に隣に立ってはアドバイスや共感をくれたり、悩みを聞いてくれたりもした。
外の友達を作らずに黙り込んでは自分の世界に浸る弥生を両親が気に掛けることはなかったし、弥生自身、いつも一緒にいて自分という存在を理解し受け止めてくれる存在がいるのは気が楽で、それがどんなに他人と違っていようと気にかけもしなかった。
イマジナリーフレンドという単語を知ったのは中学校に入学した後の事だった。空想の友達。まだ物心つかない子供の前に現れては、遊び相手になって子供の人格形成を手伝うのだという。そうして子供が自立した後は、自然にその姿をどこかへ消してゆく――。
<消えちゃうんだって。あき
<やよちゃん自立してないじゃん>
図書館で考え込んでいた弥生に、
<一人でやっていけるの?>
実際、弥生が大きくなってからも暁達はよく彼女をサポートしていた。中学校に入っても友達ができない事を気にしている弥生をよく励ましてくれたし、両親の暴力からも守ってくれた。彼女がいなくなったら、自分は生きていけなくなる。子供ながらにその事はよくわかっていた。
電気も消さずに目を閉じた。
もう一度考えをピアノに戻す。
――どうして私のピアノはこんなにもつまらないのだろう。
自分に問いかけるように心の中でそっと呟いた。このまま一人で考え込んでいたら頭がおかしくなりそうで、そのともだちに相談したくなったのだ。
「別につまらなくなんてないと思うよ」
その答えは決まって弥生に気を遣っている言葉だった。
弥生は、さっきまで眺めていた怖いくらいに丸い月を思い浮かべる。きっと彼女――
「あき
「ひどい。本心なのに」
微笑む気配がした。
彼女がただの姉ではない事は弥生自身が一番よく知っている。家族であって、姉であって、自分にとって守り神のような存在であって、自分であって自分ではない他人であって。
「ねえ」
小声で、今度は口から言葉に出してみる。
「あき姉ぇは、彼のピアノをどう思う?」
「別に、なんとも。ピアノじゃなくたって、何とも思わないよ」
どこかで自分の事を見透かしている暁の答えに、弥生はただ、そうとだけ呟いた。
五日後の火曜日、スクーリングの日でもないのに学校に足を運んでいた弥生は一人音楽室のピアノの前に佇んでいた。
授業が終わるまであと十五分。学校が終わったら少しピアノを見てほしいという弥生の無理な願いを、担任は嫌がることなく受け入れてくれた。
与えられた時間は一時間。普通に考えればこの簡単な曲を見てもらうのには十分すぎる時間に感じたが、自分のピアノに足りないものの事を考えればまだ足りないと思った。
結局いくら練習しても、思うようには弾けなかった。日曜日のレッスンで楽譜の読み間違えがない事も確認してもらって、強弱やテンポの揺らし方も一緒に考えて音色も曲に合わせて調整した。これ以上自分ではどうしようもできないところまで練習したのに、決して納得のできる仕上がりとは言えなかった。
彼の真似をしてピアノの前に立っていれば何か思いつくだろうかとも考えたが、ずらりと並べられた白と黒の鍵盤を見つめていても見えてくるものは何もない。
一体彼は何を考えているのだろう。頻繁にこうしている彼を見ながら思い浮かべるその考えを、弥生は頭の中で繰り返していた。
そっと白鍵の上を人差し指で撫でる。
指で押すだけ。指で押すだけで、みんな自分の世界を音にして響かせる。
私にはできない事。小さい頃から才能があると言われ続け、小さな賞ならいくつも取ってきた。それなのに、自分は周りの皆と同じようにピアノを弾くことができない。
窓から、隣の音楽室で流されているDVDの音楽が聞こえてくる。今日は一年生のスクーリングの日で、多分これから感想文でも書くのだろう。
この学校には音楽室が二つあった。一つは通常の音楽の授業で使う部屋。そこまで広くはない教室にピアノと椅子が並べられている普通の音楽室だったが、向こうのグランドピアノの方が弥生は好きだった。
こっちのピアノは、なんとなく音が重い感じがする。
もう一つの音楽室、いま弥生がいる部屋には二メートル近くある机が綺麗に列になって並べられていて、すべての机にフルサイズのキーボードが備え付けられていた。それを授業で使ったことはないし、あまり興味を持ったことがなかったが、よくよく考えてみると普通科の音楽コースの割にはお金がかかっている。
窓から流れてくる音楽に耳を傾けた。声楽。いや、オペラか。甲高い女性の歌声は小さな音量でもよく聴きとれる。
<マリオ、本当に死んでしまうなんて。ああ、どうしてこうなってしまったの?>
<スカルピアが殺されたぞ! 犯人はトスカだ!>
こんな歌詞だったか。嘘の処刑だと言われていた銃殺刑は本物で、銃弾を何発も体に浴びたマリオ・カヴァラドッシにトスカが涙を流すのだ。
<罪を償うわ>
<何で?>
<私の命で!>
それだけ言い残してトスカは屋上から身を投げる。いかにもイタリアオペラらしい展開で、物語は幕を閉じるのだ。
どうしてイタリア人はこんなにも人の死が好きなのだろう。男遊びや恋といったものの結末は、大体登場人物の誰かが死んで終わってしまう。恋とか愛の結末が死だというなら、どうしてそこに惹きつけられるのだろう。それが美しいというのなら、オペラの作曲家たちはよほど心が捻じ曲がっていると思った。
こんな時間にトスカの最後を聴いているという事は、一年生はあのつまらないオペラを全編見せられたのだろうか。そんな事を考えると彼女たちに同情したくなった。
人の死というものは、決して美しくなどないのだから――。
チャイムが授業の終わりを告げた。静かだった教室の中で、女子たちの話し声と鞄を漁る音が次第に大きくなっていく。
音楽コースは今年の一年生もほとんど女子だけで成り立っているらしかった。放課後の解放感は生徒たちの話し声のボリュームを上げるというのに、男子の話し声は全くと言っていい程聞こえてこない。
わざわざ高校生活を音楽に振るほどなのだから、ある意味自然といえばそうなのだろうか。
話の内容に興味を持てずに、弥生はピアノの前に座った。
先生に見てもらう前に指を慣らしておかないと。何を弾こうか考えるより先に指が動き始めた。ショパンの別れの曲。今までこの曲を納得できるレベルで弾けた事はなかったが、暗譜している中で気に入っているこの曲をゆっくりなテンポで弾くと指慣らしに丁度良かった。
別れといっても、この曲からは決して悲しい別れというものを感じない。新しいスタートラインに立つ前に、あちこちに散らばった暖かい思い出を友と語り合う――。
出てくる低音に負けないように、でも音が尖らないように優しく右手の音量を維持する。次第にそれを情熱的に、優しいフォルテへと変化させていった。
指慣らしだから、ゆっくり、確実に。中盤に差し掛かると少しずつ指が忙しくなって、ショパンらしさを感じさせる少し激しいフレージングが入ってくる。ここをミスタッチせずに弾けるようになったのは、確かこの曲で指慣らしをするようになって一年ほど経った時だ。
丁寧に音を重ねる。思い出。別れを惜しんで語り合う思い出――。
再び静かなフレーズの後に、曲の頭へと戻った。同じことを繰り返すだけではいけない。芸術として、激しいフレーズを過ぎた後の優しさに変化を持たせなければいけない。一回目よりも音量を落として、眠りに落ちる前の一声をそっと呟くかのようにゆっくり、確実に一音一音を鍵盤の奥まで押し込んでいった。
最後の和音を弾き切ったあとに、そっとペダルを戻して指を持ち上げた。やはりこの曲は指を温めるのに丁度良い。感情表現が大事な曲というのはよく言われている曲だが、人に聴かせる訳でもないからそんな事は関係なかった。
人に聴かせるといえば、最近そんな機会がなかったことを思い出した。中学の中頃から音楽教室の発表会でしか人前で演奏していない。ある出来事をきっかけに、祖母が自分を人前に出すのを拒むようになったのだった。
音楽室のドアが開いた。
「弥生ちゃん、お待たせ。ちょっと名簿とか置いてくるからもう少し待っててね」
担任の
立ち振る舞いや喋り方、その匂いから表情に至るまで、女性らしさに満ち溢れた人だと思う。長い髪を肩のあたりでゆるく一つにまとめて落ち着いた雰囲気こそ出しているものの、話してみればそんな雰囲気はどこかへ行ってしまって、同年代のように生徒の目線に立って何でも相談できる。あの人が担任で良かったと感じた。
音楽の表現力の他に自分に足りていないものといえば、あの女性らしさもそうだ。
同年代の女子と会話する機会がほとんどなかったのだから無理もない。男子に至っては余計に話さなかったのだから、接し方すらわからなかった。
今、同じ二年生の男子は二人。一人は一年生の時から一緒の、二つ歳上のピアノ弾き。ニヒルな雰囲気を醸し出しては人をからかう彼の事は苦手だった。そしてもう一人。
どうしても彼の事を考えるとあの演奏を思い浮かべてしまう。自分に足りないものを感じれば感じるほど、最後まで聴きたかったと願わずにはいられなかった。
「弥生ちゃん、おまたせ」
若干息を切らせながら真由美が教室に入ってきた。出産してから一年以上は経っているはずだが、それでもその体で職員室のある二階とこの四階を往復すれば疲れるのも無理はなかった。
落ちた体力で自分の為に一時間も時間を作ってくれた事が、急に申し訳なく思えてくる。
「それで、今日はこの間の続き?」
「ううん。臨時でお願いしたいのは新しい楽譜を買ったからで。クラシックじゃない曲です」
「春月くんと買いにいったやつ?」
ハルキ、という単語に指がピクリと動いた。彼と買いに行った楽譜。彼が好みそうなジャンルの楽譜。
「弥生ちゃんらしくない本を買ったんだねぇ」
ピアノの譜面台に立てかけてあった楽譜を手に取って、真由美が大げさに驚いてみせた。確かにこんな楽譜を買ったのは初めてかもしれない。クラシックの他にディズニーや流行歌のピアノアレンジの楽譜なら買った事はあったが、癒しだとか大人の、だとか、そういったジャンルで始めからピアノ用に作られている楽譜を買った記憶は少なくとも弥生の中にはなかった。
「勧められたの?」
「ううん。自分で選びました」
珍しいねぇ、と元々大きい目を丸くしながら真由美が楽譜をめくっていく。楽譜を見るとき、先生にはどんな景色が見えているのだろう。周りの人にはわかってもらえないかもしれないけど、音楽の先生になるくらいの人なら自分が楽譜を見ている時に見える景色も、もしかしたら共有できるかもしれない。
「影響された?」
その言葉に返す言葉が見当たらず、うーんと間を濁してみせる。影響されたと言われれば間違いなくされているだろう。でも彼のピアノは技術的に見ればお世辞にもうまいとは言えなかったし、ピアノを始めたのもつい最近だと言っていたから、素直に影響されたと言うのはなんとなく悔しかった。
「不思議な魅力があるよねぇ、あの子のピアノ。本人は黙っちゃって、あんまり喋ってくれないのに」
「先生も聴いたことあるんですか?」
こうして話に上がってくると食いつかずにはいられなかった。真由美先生はどんな曲を聴いたのだろう。それはどんな風に、どんな世界観で奏でられたのだろう。
そりゃあね、と呟いて、残念そうに真由美は肩をすくめてみせた。
「三十分のレッスン枠、毎回十分で終わっちゃうけどね。でも何ていうのかなあ、あの子はもう自分の世界を持ってる。不思議な才能だよね」
不思議な才能。自分の世界。どちらも自分だって持っていて、ピアノの技術だって自分の方が上なのに。自分のピアノはどこかで彼に及ばない。
負けたくなかった。
「それで、どの曲を聴いてほしいの?」
「このプロローグっていう曲です」
真由美から返された楽譜のページを開く。日曜日のレッスンで言われた事や自分で気付いた事が書き込まれていて、このページだけインクの黒が滲んで少し汚れて見えた。
「弾いてみて」
促されるまま人差し指を黒鍵の上に置いて、弾く前に音をイメージする。プロローグ。始まりと名付けられた曲名の意味はまだ分からない。
深く息を吸い込んで人差し指を押し込んだ。何か壮大な物語の、静かな一ページ目をめくるように。
――
―――
――――
「すごい。先週買いに行ったばっかりなのに、もう弾けてるじゃない。上手」
最後の和音が止んでから少し間を置いて、真由美は驚いたように目を輝かせていた。時々感嘆のため息をつきながら終始無言で聴いていた彼女の言葉を聞いて弥生の顔にも微笑みが浮かぶ。
だがその内心では自分の演奏に物足りなさを感じていた。
すごい。上手。それだけでは足りない。納得できる演奏ではなかった。
「先生」
「どうしたの、せっかく弾けたのに浮かない顔して」
弥生の心の中を見抜くかのように真由美が目を丸くする。
「この曲、浅田くんの前で弾きます。彼に聴いてほしい」
他人に言うのは躊躇いがあったが、言わなければ本題に入れない。弥生なりに言葉を選びはしたが、その意図まで伝わっているかはわからなかった。
真由美は特に驚いた様子も見せず、うん、知ってるよ、とさも当然のように受け流してみせた。
「影響されたんでしょう。あの子のピアノは不思議な魅力があるから」
ついさっき負けたくないと思って曖昧に濁した質問の答えを弥生はすぐに答えることになった。
首を縦に振って溜息をついてみせる。この人には嘘を付けない。一年生の頃からそうだったというのに、どうしてそんな事を忘れていたのだろう。
「私、浅田くんみたいに弾きたい。先生はどうすればいいと思いますか?」
「どうすればかあ。難しい質問だね」
今度は真由美が肩をすくめてみせる。
「どうやればあんな風に感情をこめられるのか知りたいです。私、もっとうまくなりたい。彼がどんなものを見てきたのか、知りたい」
「なんか恋してるみたい」
真由美の言葉に顔が熱くなるのを感じた。否定したかったがうまく言葉が出なかったせいで、弥生は慌てて首を横に振った。
「先生はあの人が前の学校でどんな事があったか聞いてますか?」
先週の本屋の出来事を思い出す。彼の怒鳴る声を聞いたのはあれが初めてだった。きっと彼が衝動的に鍵盤を叩くのとあの怒鳴り声は似たようなものなのかもしれない。
「私も詳しくは知らないんだ。あの子、全然話してくれないから」
食い下がろうとしたが、弥生が口を開く前に咎められてしまった。
「でもね、弥生ちゃん。いくら弥生ちゃんが音楽が好きでも、聞かないほうがいい事もあるんだよ」
その真剣な眼差しに弥生は一瞬言葉を失ってしまった。沈黙が訪れる事はなく、それに、と真由美が目元を緩めて付け加える。
「弥生ちゃんは他人の事を気にする前に、自分の病気をどうにかしたほうがいいと思うな」
弥生はもう一度ピアノに目を戻した。
使い込まれて若干白さが失われた鍵盤。
その失われた白さに、このピアノが奏でてきた景色を思い浮かべる。
*
ピアノ教室のレッスンと真由美との臨時レッスンの二回で得た感触を確かめるように楽譜を思い浮かべていく。始まりの音階に和音を重ねていく場面は、物語のページを丁寧に一つずつめくっていくように。動き続ける左手の和音はこれから展開されていく旋律の基礎となる部分だから、確実に優しさをもって、同時に物語の膨らみを予感させる力強さを持たせる。そうして自由に海原を駆けるような旋律へ――。
何度それを繰り返しただろう。病院の待合室、お風呂、車での移動。暇を見つけては何度もピアノを弾くイメージを繰り返した。
これだけ用意をしてきても納得のいく演奏はできなかった。頭の中では音楽ができあがっているというのに、それを音という形にすることができない。いつものクラシックならある程度弾ければレッスンが次の段階に進むお陰でそれでも良いと妥協できるのだが、今回に限ってはそうもいかなかった。
自分一人すら納得させられない演奏を他人に聴かせたところで、説得力の無さに呆れられてしまうのがオチだ。
練習すればするほど、今までコンクールだとか発表会で人前に出る時には思いつきもしなかったその考えが弥生の胸を締め付けていった。
この気持ちは一体何なのだろう。どうして木曜日が来るのがこんなに怖いのだろう。
そう思う一方で、自分が納得する演奏をできるようになる為に彼に聴いてもらうのだという気持ちも日に日に強くなっていく。
彼は私が持っていないものを持っているのだから。それを教えてもらえる気がするから。
そうして迎えた木曜日の朝は、ステージに立つ日のような緊張に包まれた空気を漂わせていた。
いつもならはっきりと覚えていられるようなクラスメイトと交わす会話も、授業の内容すらろくに頭に入らないまま時間だけが過ぎていく。
ピアノが弾きたい。純粋なようで沢山の感情が入り混じったその言葉が、我慢する事を知らない子供のように弥生の頭の中をただひたすらに駆け巡っている。
だから、教員が六限の終わりを告げると同時に席を立って春月の袖を掴んでいた。
「浅田くん。先週の約束」
言葉を選ぶ事もせず頭に浮かんだ単語だけを乱暴に並べる。
彼がそれをどんな風に受け取るのかとか、彼から自分がどんな風に見えているのかなどという事は頭に浮かびすらしなかった。
ピアノが弾きたい。ただその一心で。
「ピアノ?」
一瞬驚いたように目を丸くした春月が、考えるように間をおいてから首をかしげてみせる。
弥生が黙ったまま首を縦に振ると、分かったと立ち上がった。
「音楽室の鍵、借りてくるから。先に行って――」
その春月の言葉が終わるより早く袖を掴んだまま教室の外へ歩き出した。
鍵を借りないといけないんだった。
一秒でも早くピアノが弾きたい。高揚感にも似た感覚がお腹の辺りで燻っていた。ピアノが弾きたい。ずっとこの指が覚えようとしなかった事がもうすぐ手に入る。そう思えば思うほど職員室へ向かう足取りが速くなった。
「早見!」
力強く肩を鷲掴みにされて我に返った。軽く掴んだつもりだった春月の袖を、拳で強く握りしめていた事に自分で驚いて思わず手を放して声を出してしまう。
「どうしたの。何か怒ってる?」
緊張した表情を浮かべて声を潜める春月に、弥生は慌てて首を横に振った。
何をやっているんだろう。ピアノが弾きたい一心で周りが見えなくなってしまっていた自分が急に恥ずかしく思えて、両手で顔を覆い隠した。ああ、体が熱い。
「どうかした?」
心配しないでほしいと思った。何でもない、何でもないと繰り返しながら何度も首を横に振る。何か言わないと、と少ない言葉の引き出しを必死で漁って、
「ピアノ、弾きたかった」
ようやく出てきた言葉がそれだった。
騒がしい廊下の中で二人の間に漂う一瞬の沈黙がすごく気まずくて、言葉の引き出しを何度も探しては沈黙を破るのに丁度いい何かを探し続ける。
弥生がそれを見つけるより先に沈黙を破ったのは、クスッ、と吹き出した春月の笑い声だった。
最初の笑いに続いて堪えるように小さく俯きながら肩を揺らしていたが次第に抑えきれなくなったようで、お腹の辺りに手を当てながら楽しそうに何度も息を吸い込んでは笑い声に変えていく。
恥ずかしさに沸騰した顔から何かが吹き出しそうになる。それとは逆にどこか冷静な自分が、目の前の光景に驚いてもいた。
小さく笑ったり音楽を聴いて楽しそうにニヤける彼なら見てきたが、ここまで楽しそうに笑う彼は初めて見る。
「ごめんごめん。いや、お前ピアノの事になったらそんな風になるんだって思ったらなんか面白くて」
「どういう事?」
「お前の新しい面、また見れた」
弥生は再び顔を赤くした。
「先に四階行っててよ。真由美先生から鍵借りてくるから」
一秒でも早くこの場を離れたかったせいで、ゆくりでいいよ、と後ろからかけられた言葉も無視して早足で階段まで歩いた。三階から降りてくる生徒に熟れたトマトのように真っ赤になってしまった自分の顔を見られないように俯きながら、ほとんど駆け足で四階を目指す。
「やよちゃん、転ぶから危ないって」
見かねて声をかけてきた
階段を全て上りきって切らした息を整えた時に、狭まっていた視界がようやく広くなった気がした。二つある音楽室の扉を交互に見て、そういえば彼はどっちの鍵を借りてくるのか、重い音と甘い音のどちらのピアノを弾くことになるのかを考えた。
甘い音の方が良い。重いほうがよく響く気もしたが、今日弾く曲はそんな音が似合わない優しいものだ。
何よりも彼にはそっちの音のほうがよく似合っている気がする。
深呼吸してもう一度楽譜を思い浮かべる。一週間待ち続けた時が、すぐそこまで迫っていた。
「早見」
落ち着いてきていたはずなのに、後ろから飛んできた言葉に上半身が跳ね上がった。
丁度彼の事を考えていたからだろう。自分が弾くだけではなく、あの優しくて温かい歌い方のピアノをもう一度聴きたいと思っていたところだった。
「そんなに驚くなよ。鍵、持ってきた」
鍵を見せびらかすようにしながら春月が肩をすくめた。二つ握った鍵を空中でゆらゆらと揺らしながら、
「どっちがいい?」
僅かに笑ってみせた。
迷わず、401と書かれた鍵を指さす。
「こっち。ピアノの音が好きだから」
開かれたドアの先にある音楽室の空気は、いつだって新鮮な匂いに満ち溢れていると感じる。
三歳の頃からピアノを習っている影響で小学生から音楽の授業が好きだったこともあって、今日はどんな音楽を聴くのだろうとかどんな新しい知識を覚えられるのだろうかと、新しい音楽に出会える事に対する高揚感を、その匂いが呼び起こしてくれるのだ。
音楽関係の授業が多くてホームルームも音楽室で行う音楽コースを選んで本当に良かったと思う。
ピアノの蓋を開ける瞬間。重い蓋をゆっくりと持ち上げると、新しい音楽が自分を待ってくれている。
「何を弾くの?」
ピアノの蓋を開けてからくるくると椅子の高さを自分の身長に合わせる弥生に、春月が穏やかな口調で問いかけた。
そういえば一曲だけしか考えてこなかった。放課後にわざわざ呼び出して一曲だけというのも失礼かもしれない。頭の中に記憶してあって譜面が無くても弾ける曲をいくつか考えてから、
「別れの曲」
とだけ呟いた。
「出会ったばっかりだけど」
精一杯の冗談を呟いてみせる。
「なんか不穏だな」
そんな冗談にまんざらでもなさそうな顔をして春月は苦笑した。
「別れの曲は指慣らし。そのあと、もう一曲ある」
「どんなの?」
「前に浅田くんが言ってたピアニストの曲。聴いてほしい」
鍵盤に向かい合った。一度頭の中を真っ白にして、オレンジ色の別れを思い浮かべた。
この景色を、どうか共有できますように。
深く吸い込んだ息を指から吐き出すように、そっと一音目へ踏み出していく――。
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