Theme 2 ~セピア色の写真~



進路希望調査か。

 午後一番の授業で配布された用紙を見て、春月は肩をすくめた。

 開け放され窓から流れ込んでくる風が、時おり春月の頬を優しく撫でてはそのまま廊下へと駆け抜けてゆく。まだ五月だというのに、風はもう夏の匂いを感じさせるほど生温くなりつつある。


 丁度一年前も、全く同じような事を考えていた気がする。ここにくる前の高校は進学校だったから、進路希望だとか自分の学力に合った大学の調査などといった用紙を少なくとも二週間に一度は見せられていた記憶がある。

 一年前――高校二年生に上がった頃には既に学校には行けていなかったから、一年のころから不登校気味が続いて出席日数ギリギリでなんとか進級した春月にとって、学力や進路といった単語は苦痛の種でしかなかった。

 まさか、その苦痛の種をこんなにも早くまた目にする事になるとは。


 同じ二年生なんだから当たり前か。

 小さくため息をついて用紙に目を落とす。職業リサーチと通信制高校らしく曖昧にぼかされてこそいるものの、進路希望を早めに書いて出せというのは、そういった現実に耐え切れずに逃げてきた春月にとって嫌な要求でしかなかった。


「来月のスクーリングまでに出してください。まだ進路希望の前の職業リサーチだから、できれば三つは調べてきてください」

 書けなかったら一つでも全然構わないからね、と付け加えて、担任の女教師が音楽室をぐるりと見渡した。

 なんとなく目が合うのが嫌になって、視線を適当な教室の隅に逃がす。人と目を合わせるのは嫌いだ。

 と、その視線が、偶然隣に座っていた早見と合ってしまった。

「浅田くんは何を調べるの」

 どう返せばいいのか一瞬考えてしまった。なりたい職業がないわけではない。それよりもさっきの昼休みの会話を思い出して思いがけず言葉が詰まったのだった。

「なんだろう。わからないかな」

 それきり、そうなんだとだけ言って早見は教壇に目を戻した。


 春月にとって音楽療法士という仕事は非現実的な選択肢というわけではなかったし、大学に行く為にピアノの練習時間を増やせる今の通信高校を選んだのだ。ここならば学校に来るのは一週間に一回でいいし、あとは小学生レベルの簡単な課題をこなしていれば卒業までの単位が貰える。

 ピアノを習い始めたのが遅かった春月にとって、この多い自由時間は魅力的に見えたのだった。

 だが、いざ音楽療法士という文字を自分の頭の中から現実の用紙に移そうとするとどうしても躊躇いが生まれてしまう。


 満足にピアノも弾けない現状で、何ができるというのだ。


 進路希望の用紙の説明を終えると、担任が小さなCDプレーヤーを机の上に置いた。つまらない話はここまでにして聴音の授業に入ります、と抑揚のある声で笑ってみせる。


 いつからか、春月はピアノと向き合うことができなくなっていた。弾き始めは良いし、指だってきちんと回る。ミスタッチだって以前に比べてぐっと減ってきていた。

 だというのに、弾きはじめて十分もすると次第に楽譜が見えなくなって、頭の中をできれば思い出したくないような光景が駆け巡って満たしていってしまうのだ。そのほとんどがここに来る前の高校で経験した事だったが、異常なまでにはっきりと思い出される校舎、顔、そこについてくる音は、春月をパニックに陥れるのに十分な生々しさを持っていた。

 いつからここまでひどくなってしまったのかは、春月自身にもわからない。気付いた時には既に弾けなくなっていた。

 多分、本心では音楽と関わるのが怖いのだ。

 自分をこんなにまで追い詰めてしまった音楽を、春月の意思ではなく体が怖がっている。そんな気がした。


 ラジオからピアノの音が流れてくる。

 ぽーん、ぽんと簡単な旋律が流れては繰り返される。小学生でもできるような簡単な聴音の問題。それを目の前に広げられた五線紙に、譜面として落としていく。

 実際、通信高校の授業は春月にとって退屈なものでしかなかった。要求されるピアノのレベルも高いものではなかったし、簡単な作曲や聴音がこの先役に立つとも思えなかった。

 有意義なのは自由に使える空き時間だけか。


「ハルキくん、早いね」


 担任の女教師が春月の席の隣に立っていた。五線紙に目を落として、春月の書いた雑な音符をなぞっていく。

「いいんだけど、音符は丁寧に書いてね」

 すみません、とだけ返して春月も五線紙に目を戻した。なんてことはない、衝動的に頭に浮かぶものよりも簡単な旋律。

「春月くんは音大志望なんだっけ? 職業リサーチは決まってる?」

 その担任の言葉に、早見がこちらを見た。

「いえ、その……。まだ決まってません」

「ゆっくりでいいよ。でも、これをこんな簡単に書けるのはすごいよ。なんかもったいない感じがする」

「ほとんど八分音符で、たまに十六分音符があるくらいだから。難しくはないと思います」

「えー。そろそろ難しくなってくるんだよ。二年生になったんだだし」

 担任の目が止まった。

「でももったいないね。ここの音、ファじゃないよ。少ししたらもう一回流すからここだけよく聴いてね」

 それだけ言って、担任が教壇に戻った。


「浅田くん、音大に行きたいの?」

 気付けば早見がまだこちらを見ていた。相変わらず、細い目でまっすぐこちらを見つめている。

「どうだろう。音楽が好きってだけだし」

 とぼけた事を言って、ごまかしてみせる。

「私、浅田くんのピアノ好き」

 ふいに出てきた彼女のその言葉に背筋がゾワリとした。



*



「浅田春月です。隣の前橋市の高校から来ました。ピアノと歌をやっています。これから二年間よろしくお願いします」

 転校初日、皆の前でゆっくりと一礼する。十人程度の小さなクラスで、男子は自分を入れて二人だけ。この中でうまくやっていけるかという不安と、音楽コースという肩書の中でどれだけ自分が通用するのかという緊張でうまく自己紹介ができず、言おうと考えていた気の利いた言葉もどこかへ飛んで行ってしまった。

「今年から音楽コースも十二人になります。今年は去年よりもっと楽しくなるといいね」

 担任に促されて生徒たちが座っている中の一番後ろの席に戻る。そこで隣にいたのが早見だった。


「浅田くん、あとでピアノ聴かせてほしい」


 その言葉通り、一通りのガイダンスが終わった後に何人かの生徒が音楽室に残って春月はピアノを演奏して聞かせる事になった。暗譜している中から何か簡単な曲を弾ければいいと言われたがその内心は穏やかなものではなかった。何よりもただ無事に演奏を終えられればそれでいい。ピアノの前で深呼吸して震える体にそう言い聞かせた。

 一曲目に演奏してみせたモーツァルトは、周りに見られているという緊張も手伝って春月自身も満足できるほどに指が回り、強弱や自分の音楽観も表現できた。これなら人前で弾いても通用する、と我ながら笑みが浮かぶ。

 しかし二曲目を最後まで弾き切ることはなかった。

 渚のアデリーヌ。モーツァルトのようなお堅い音楽ではなく、昔テレビのコマーシャルにも使われ大衆にも親しまれているこの曲なら周りの受けも良い。何よりもこの優しい曲調は自分の持つ音楽感を最大限に表現できる――自分という人間を知ってもらうのに最も適している曲だ。そう思った。

 高音のアルペジオから入って、次に落ち着いた優しいアルペジオの伴奏と、と歌うように、情熱的な旋律。

 そんな曲が春月は好きだった。リチャード・クレイダーマンやアンドレ・ギャニオンといった、クラシックではなくヒーリングミュージックをメインに作曲している作曲家の作品なら他人の心を魅せることができる。暗い道を歩んでいる人に光を分け与える事ができる。

 弾き始めて一分もした頃だろうか。静かなAメロ、Bメロを終えてダイナミックなサビに入った時に、声が聞こえた。

 技量だけで何ができるんだ。お前は人をまとめる立場の人間として足りないものがありすぎる。

 以前、所属していた吹奏楽部の顧問の声。マスクをかけた五十手前の顔と狭い練習室の風景。返す言葉が見つからなかった春月の背中に流れた冷たい汗。

 ピアノを弾く指は動き続けている。この曲は体が覚えている。何も意識しなくても、弾き切るだけはできる。

 次に浮かんだのはステージの上の風景だった。

 観客一人一人の顔が見えた。皆こちらを見ている。周りには自分の所属する打楽器パートに七人がいて、それぞれ自分の楽器を奏でていた。

 あと三小節で自分のバスドラムが入るパートだというのに、マレットを持つ腕がひどく重い。


 そういった音や景色、感覚までもが春月の体中を駆け巡っていった。

 演奏が乱れる。テンポが安定しないし、白鍵が滲んで見えた。

 この曲は体に覚えこませてあるんだ。弾き切れないわけが――。



 気付けば指が止まっていた。体のあちこちから冷たい汗が噴き出して、指だけでなく、全身の血管までもが何かに怯えるように震えているような錯覚に陥る。

 周囲がこちらを心配するように見ている。さっきまで春月のピアノに魅入られていた視線が、不安なものに変わっていた。

 自分を見ないでほしい。どうかそのまま何も言わずに立ち去って欲しい。


 その後の事を、春月はよく覚えていない。




 放課後、誰もいなくなった教室で春月は一人ピアノに向かって立ち尽くしていた。この五年間、音楽は自分の全てだった。全てをかけて取り組んできた。平均より偏差値が一回り高い高校を選んだのも、吹奏楽をより良い環境でやりたい一心だった。入学してからもその熱意は変わらず、練習熱心で先輩や顧問の指示をよく聞いて、それでいてどこか抜けている春月は男女問わず人気者だった。

 部員が百人を超えている吹奏楽部の副部長に任命されたのは、入学してから最初の夏、三年生が県のコンクールを突破できずに引退した後の事だった。


<前部長がね、どうしても君を副部長にしたがってたんだよ>


 それがどういった意図のものなのか、その時の春月にはよくわからなかった。

 自分のような部員など他にいくらでもいるというのに、どうしてわざわざ自分なのだろう。

 部員百人越、九割が女子で構成されているこの部の上の人間に、男の自分がなるのは抵抗しか感じなかった。今までそんな役割を背負ったことなどなかったし、自分は自由に音楽がやりたいだけなのだ。きっとそんな肩書があれば、その自由な音楽の枷になってしまう。


 普通に考えれば名誉なそれを、春月は自分から断ったのだ。

 自分の音楽がやりたい。その一心で。


 その後、毎日部活の後に最上階まで呼び出されては断る日々が続き、一週間経って先に折れたのは春月だった。

<わかりました。そこまで言うならやりますよ>

<わかってくれた! これで新体制だよ>

 わかってなどいない、とは言えなかった。嬉しそうに笑う人一倍頑固な部長を見て、これから振り回されることになるのだろうなと内心ため息をついたのだった。


<お前副部長になったの?>

<うん、引き受けた。これからは敬語でいいよ>

<お前なんかに敬語使うかよ>

 春月が副部長を引き受けた放課後、同じ部の男子にからかわれた。その軽口が春月の反応を楽しんでいるものというのはすぐに分かった。

<めんどくさいぜ。この部>

<なんでわかるんだよ>

<先輩から色々聞いた。俺たちが入学する前にごたごたがあった事とか>

 その話なら春月も知っていた。今の二年生と三年生が学年で派閥を作って、お互いに嫌がらせを行って陰湿ないじめにすら発展しかけた話は、新一年生の間にも有名な話となりつつあった。

<まぁ応援しないけど頑張れ>

<なんだよそれ。副部長サマだぞ>

 だが、なってみればなんてことはなかった。三年生がいなくなったせいか二年生の表情は明るく、今の一年生がまた同じように派閥を作って衝突するような事態も起きそうになかった。音楽室と練習室、合奏室は増設されたものだから校舎の一番端っこにあって、毎日そこの空気を吸うのが楽しみになるくらいには。

<やってみるものでしょ?>


 八月。コンクールが終わったばかりだというのに、二年生は来年六月の定期演奏会に向けて曲目選びを始めている。

<ハルハルも参加する? あ、でもどうせあとで部員全員参加の時にまた話すけど>

<候補だけは知っておきたいです>

 いつでも楽しそうに笑みを浮かべる新部長と一緒にいるとそのペースに載せられていた。気付けば春月も毎日遅くまで、家に帰ってから演奏会向けの吹奏楽曲を調べてはリストを作り、同じ曲を何度も聴いてはリストから消していく――そんな作業を繰り返していた。


 そんな時間はそう長く続かなかったが、ただ音楽のためだけに過ごした高校生活が無駄なものだったとは思っていない。


 だが、今の自分はどうだというのだ。レベルの低い通信高校にいて、満足にピアノを弾くことすら出来ずにる。どんなに頭の中を空っぽにしても、鍵盤に触れて音を出した事がきっかけになって記憶の奥底に眠る真っ黒な景色たちが頭の中に蘇っていくのだ。

 どうにかしなくてはと思えば思うほどその景色たちが思い出されては過ぎ去るスピードが加速して、しまいには頭の中を埋め尽くしてしまっていた。


 一体どうすればいいのだろう。

 ふわりと大きく膨らんだカーテンを見つめて、思った。

 あんな風に、柔らかく優しい音楽をもう一度奏でることができたら。


 視線を落としてため息をついた。このままでは音楽をやめることすら考えなくてはいけない。

 真っ白な鍵盤は、階段を転がり落ちた今の自分に唯一残された物だった。



「ハールキ」

 不意に両肩に手をかけられて、情けない声を上げてしまう。

「カケルさん、そうやってスクーリングの度に毎回驚かせるのやめてください」

 背後から驚かされるのはあまり良い気はしない。

 彼、水島翔は春月が編入した音楽コースの中で唯一の男でなおかつ春月の一つ年上という、いわば特異な人物だった。背が高くて顔立ちも整っていてコミュニケーション能力だって高い。彼がこの学校にいる理由が、春月には不思議でたまらなかった。

「お前毎回面白い声出すんだもん、やめらんねえよ」

 で、と翔が机に腰掛ける。

「また考え事か。いつもシケた面して、飽きねえよな。ホントに」

 翔の声は穏やかだった。

「翔さんはなんか楽しそうですね。スクーリングの時いつも笑ってる」

「今のお前から見れば誰だって楽しそうに見えるんじゃないかね。明日にでも自殺しちまいそうな顔してるぜ、お前」

 満更でもない言葉に、春月は苦笑するしかない。

「お前いつもピアノの前に立ってるけど、毎日ちゃんと家でピアノ弾いてんのか? ここは天下の音楽コースだぜ?」

 翔も春月のピアノを聴いた一人だった事を思い出す。演奏が止まった直後、泡を吹いて倒れた春月を医務室まで運んだのは彼だった。

「普通科でしょ。そういう翔さんはどうなんです」

 からかうように翔は大げさに手を広げてみせるが、それに付き合うだけの気力はなかった。

 彼に言わせてみれば、春月はさしずめ万年気力不足、といったところなのだろう。

「俺? 俺は毎日三十時間は弾いてるぜ。相方が元気すぎて気力を根こそぎ搾り取ってくるからな」

 翔のそういう言い回しが、春月はあまり好きではなかった。音楽の話をしている時に、というのが硬い考え方であるのは、自分なりによくわかっているつもりだった。

「まあ、お前みたいな凡人は俺が努力するのをよく見ておいたほうがいい」

「自信家だったんですか」

 窓の外に目を向けて、まあな、と彼が呟いた。

 彼のような人間に凡人と言われてしまえば春月に返す言葉は無い。

「なあハルキ、そろそろ帰れよ。次の電車来るぜ」

 一瞬だけこちらによこした目線の意味が分からずにきょとんとしていたが、時計を見ると三時半を回っていた。次の電車は四時過ぎだから、そろそろ学校を出ないと乗り遅れてしまう。


「やば、もうこんな時間か。すみません、先に帰ります」

「おう、ちゃんとお姫様連れてってやれよ」


 これ以上会話を引き延ばすと次の電車も逃してしまいそうだったから、その言葉にはあえて触れずに鞄を持った。

 ピアノの事はまた帰ってから考えればいいか。じゃあ、とイヤホンを耳に挿してから教室を出る。展覧会の絵――朝ここに来るときに聞いていたピアノの続きが耳に響いた。

 この演奏者のピアノは実に表現力が高いと思う。盲目のピアニストである彼がテレビで話題にされてから、そう長い時間は経っていない。目を閉じて自分の世界観をホールに表現する彼。いったいそこにたどり着くまでに、どれだけの音を奏で続けたのだろうか。

 どれだけの壁に突き当たったというのだろう。


 校舎を出た時に早見が目に入った。

 またあいつか。

 彼女の顔を見て、今日の昼休みの事が嫌でも蘇る。今はこれ以上ピアノの事を考えたくなかった。


と、

「あ、ハルキくん来た。ちょっと」

 彼女と話していた担任がこちらを見つけて手招きしていた。

 絡まれたくないとすら思っていたせいで面倒くささと若干の気まずさを感じてしまったが、こうなったら無視するわけにはいかない。重い足取りを校門へ向けた。

「なんですか」

「弥生ちゃん、前橋に用があるんだって。ハルキくんの家、前橋だよね?」

 そうですけど、と返して早見を見た。わざわざ何の用だろうか。

「駅の近くに本屋があるでしょう? 前橋よく知らないそうだから連れて行ってあげてくれない?」

 素直に面倒だと思った。確かに大きな本屋はあるが、そこは一般よりも音楽関係の雑誌や、マイナーな楽器の楽譜まで置いてある店だった。そんな店に彼女のような人間が行く理由は一つしかない。

 今は音楽に関わりたくない。

「いいですよ。楽譜ですか?」

 同時に、無下に断って担任やクラスメイトからの心象を悪くするのも嫌だった。

「優しいねえハルキくん。ありがとう」

 担任に続いてありがとう、と小さい声で言ってから、早見がこちらを見つめてきた。

「早くいかないと電車来ちゃうよ。行こう」

 早見が小さく頷く。やたら近くで顔を覗き込んだり突然頭を撫でてくるような事をする割には大人しいタイプの人間だと思った。

 じゃあお願いね、と手を振る担任を後にして歩き出す。駅までは徒歩で二十分といったところか。

 学校には一週間に一度しかこないせいでこの辺りの事はまだそこまではわからない。電車に乗り遅れるのは嫌だった。ここから前橋まで行く電車は三十分に一本しかない。

 歩いている間、早見はひどく静かで無口だった。共通の話題といえばピアノと音楽。春月も今はそんな事を話す気分ではなかった。

 イヤホンから流れてくるピアノの一音一音に意識を傾けた。曲の頭に奏でられた主題が何度も展開されては繰り返され、形を変えた音が壮大な曲調と共にクライマックスを演出する。ピアノは小さくて壮大なオーケストラ――ピアノの教師に師事するときに最初に言われた言葉を思い出した。

 これはロシア、ウクライナにある大きな門をイメージしたのだったか。日の光を浴びて黄金色に輝く大門はどこに続いているわけでもなく、復元されたものだからそこまで歴史のあるものでもない。だが、いつだか写真で見た時のスケールや感動を春月は今でも忘れずにいた。

 それは今、音として春月の中に再生されている。



「展覧会の絵?」

 突然、早見が口を開いた。思わず彼女の顔を凝視する。

「辻井さんの?」

 ピアニストまで当ててくる事に度肝を抜かれた。ああ、うんと答えながら目をそらす。

 目を合わせてすらいないのに、本当に心の中まで見透かされている――そんな不気味な考えが頭をよぎった。

「浅田くんでもそんなに楽しそうな顔するんだね」

「どういうこと?」

 考えるより先に逸らした目を先に早見に合わせていた。

「すごく楽しそう。浅田くん。鼻歌、歌ってた」

 彼女が小さく笑う。

 実際、自分が笑っている事にも、鼻歌にすら気付かなかった。聞かれていた事にも自分で気づかなかった事にも、恥ずかしさがこみあげてくる。ぼーっと顔が熱くなった。

「聴くのは大丈夫なんだね」

「そうみたい。弾くのだけが嫌いになったのかな」

「そんなことない」

 早見が小さく首を横に振った。

「ピアノ弾いてもらったとき、最初は楽しそうだった」

 答えずにいると、

「今度、私のピアノ聴いてほしい。来週のスクーリングで」

 そう言った早見は楽しそうな、それでいて何か目標に燃えるような高揚感を感じさせた。

 今の自分が失くしてしまったものを、彼女は持っているのだ。


 電車に乗ってしまった後は、ほとんど話す事なく過ごした。電車の中では早見の小さな声はほとんど耳に入らなかったせいもあった。

 黙っていても音楽を聴いていれば退屈などせず、早見と話す話題も多くない。自分が失くしたものを持っている彼女に興味はあったが、それを見せつけられるのも辛かった。


 学校のある市を出てしまうと、外は途端に畑だらけになる。遠くに見える山に雲がうっすらかかって、山頂近くに積もった雪が空と山の境界を曖昧にしていた。まだ山頂は寒そうだ、と思う。

 それとは逆に、畑の緑の合間にぽつぽつと建つ家の窓は開け放されていて、五月だというのに三十度近くにもなる気温に、開け放された口が文句を言っているように見える。ところどころ歩く人々は短い半袖を着ていて、季節の変わり目というのも手伝ってどこか気だるそうだった。


 次第に、電車の景色は畑から街の中へと移っていく。乗客がそわそわとしはじめ、荷物を持ち上げる音が幾つも社内から聞こえてきた。


<次は、前橋。前橋>


 電車はそこで止まってしまうせいで降りるときは少し混雑する。立ち上がろうとする早見に、もう少し座っていようと目で合図した。


 他人と電車に乗るのは随分久しぶりのような気がする。ふと、今さらそんな事を考えた。何か気の利いた言葉をかけるべきだったろうか。

 やがて電車がブレーキをかけ、バランスを保とうとする人々の足音が社内に響く。ホームには電車を待つ人が退屈そうにスマートフォンをいじっているのが見えた。

「ごめん。付き合わせちゃって」

 人々が降りて静かになってから、早見が小さな声で呟くように言った。ここまで来てから今さらないだろう。今しがた春月が考えていた事も重なり、内心苦笑しながら春月も立ち上がって、肩をすくめてみせた。

「大丈夫だよ。家から近いから」


 エスカレーターまで、人ごみに続いて歩いていく。そういえば何を買うのか聞いていなかった事を思い出して、

「何の楽譜買うの?」

 とだけ呟いた。

「ピアノ。他の楽器、できないから」

 早見が肩を落とす。

「浅田くんはいろいろできそう」

 早見は、春月が吹奏楽で打楽器をやっていた事を知っていたのだったか。一瞬だけ羨ましそうな目をした後に彼女は微笑んで見せた。

「打楽器って、色々やるんでしょ。器用だよね」

「覚えてたんだ」

「何を?」

 春月も微笑した。

「俺が打楽器やってた話」

 自己紹介をしたのはまだ一カ月前の事だったが、吹奏楽で打楽器をしていた事は自己紹介の時に少し触れられてそれだけだった。それよりも自分のピアノの印象が強いせいで忘れているものだと思っていた。

 あの時居合わせた他のクラスメイト達は、忘れていたのだから。


「覚えてる」

 そう言った早見の口調は強かった。

「私、浅田くんがどんな音楽するのか気になる」

 何と返せば分からずに春月は肩を落として首を横に振ってみせた。

 自分の音楽。自分の世界。それが暗い思い出に溢れたどす黒く醜い世界だという事は、自分が一番よく知っている。

 それでも、彼女から向けられてくる視線は力強さを感じさせた。


 その後、春月たちは一言も喋らないまま本屋まで歩いた。あの話題を続けるのも春月にとってあまり嬉しい事ではなかった。

 短い距離の間で何か楽しい話題を探そうとも思ったが、彼女がバイクや自転車だとか、あるいはゲームといった男の趣味に興味があるとも思えなかった。

 彼女自身に興味があるわけでもない。思春期の男として自分が変わっている自覚はあったが、彼女からは何か――そう、女だと感じさせるような抑揚だとか眩しさといったものをあまり感じなかったのだ。


「ここだよ」

 五階建ての細長い建物の前で立ち止まった。入口は全てガラスになっていて、その前に自転車が三十台程度無造作に並べて止められている。

 ありがとう、と言って早見の目が店内に向けられた。

「これ、全部音楽関係?」

「まさか。音楽の本は四階」

 早見の顔が少しだけ赤くなった。

「いこうか」

 店内に入ると、新しい本の匂いが鼻をつつく。紙の匂いと、綺麗に保たれた明るい店内。

 普段はどこに行っても階段を使う春月も、早見を気遣ってエレベーターの前で立ち止まった。

「エレベーターあるんだ」

「そりゃあね」

 一階は文庫本で二階は資格書やキャリア本、三階は古本屋で四階から上は音楽関係、音楽教室やホールまである。エレベーターがないほうが不自然だろう。

 四階の音楽関係の書籍や楽譜、店内に並べられたピアノと管楽器を見たら彼女はどんな反応するだろう。

 乗り込んだエレベーターの中で何故だかそんな事を考えた。喜んでくれたら嬉しい。興味が無い割には不思議な感情だった。


 だが、エレベーターが開いた先でそんな事は頭から抜けてしまった。


 ドアをあいた先でエレベーターを待っていた女子高生と目が合った。見覚えのある制服。見覚えのある髪型。顔。

「ハル?」

 すらっとした細長い体。

 心臓が大きく鳴って、背中に嫌な汗が流れた。

「おぉー、ハル!久しぶり! 元気?」

 彼女がこんなに高揚する理由が分からない。一番初めに思ったのがそれだった。自分の事が嫌いなはずだ。

 少なくとも春月にとっては今もっとも会いたくない人間だった。

 勢いよく手がふられて一つに束ねられた長い髪が左右に揺れ、整ったとはいえないが愛嬌のある顔立ちがニコニコと笑っている。その奥で一体何を考えているのだろうと思うと不気味で仕方なかった。

「あ、ああ。久しぶり」

 エレベーターを降りながら言葉を返すが、彼女を前にしてうまく口が回らない。

「ハル、彼女できたの?」

 隣に立っていた早見が、驚いて退いた。

「クラスメイトだよ。隣の市に住んでる」

「案内してあげてるんだ。相変わらず優しいね」

 皮肉に聞こえて春月は眉をひそめた。

「なんで怖い目するのぉ。そういう所も相変わらずだなぁ」

 彼女、須川は笑顔を崩さない。それどころか、ますます嬉しそうな表情を浮かべた。

「ハルが学校辞めちゃってみんな心配してたんだよ。元気そうでよかった」

「心配?」

「うん。何も言わずにいなくなっちゃったでしょ。打楽器のパートメンバー、一言でいいから相談してほしかったってみんな言ってたよぉ」

 目の前の彼女も同じ打楽器パートの同期だった。口だけではなんとでも言える。そう思ったが、それを口にしたところで負け惜しみでしかないような気がして口を噤んだ。

 短い沈黙。何を言えばいいのかわからなかった。

「浅田くんの同級生ですか?」

 沈黙を破ったのは早見だった。

「そうだよぉ。北高校の三年生。ハルくんと同じ学年で打楽器してたの」

 びくり、と早見がこちらを見つめる。その視線が何を意味してるのか少し考えてため息をついた。

「ああ、そっか。早見は二年生なんだ」

「後輩と付き合ってるの?」

「付き合ってないって。あと、俺も二年生」

 ええ、と大きな声が響く。相変わらずだと思った。

「ハルくん留年したの?」

 学校行ってなかったから、と返して店の奥に視線を送った。エレベーターの前、フロアの真ん中で大声で話すのは気が進まなかった。

 歩き出した背中を二人が追いかけてくる。その間も須川は喋り続けた。

「ここに来たって事はまだ音楽やってるんだね。嫌いになってなくてよかった」

 店の奥に置かれた椅子に座って、改めて須川の顔を見る。

 彼女の言葉に本心はどれだけ含まれているのだろう。苛立ちが募る。


「俺のせいで県のコンテスト突破できなかったのに、お前はそんな事言うんだな」

 何を言おうか考えるより先に毒が出てしまった。隣に座った早見の表情が強ばる。

「ハルくんのせいじゃないって前も言ったじゃん。あのあとちゃんと話す機会がなかったから伝わらなかっただけで」

「伝わってたさ。よくわかってたから俺は逃げ出したんだ」

「ハルくんのせいじゃないってば!」

 須川の声が次第に大きくなっていく。彼女も苛立っていた。

 やはり自分は、二度と彼女たちに顔を合わせるべきではないのだ。

「そっちがどう思ってるか知らないけど、私は四人で卒業まで一緒にいたかったって本心から思ってた。ううん、今でも思ってるよ」

「嘘をつくのはやめろ」

「ハルくんのマリンバ好きだったよ。優しい曲が好きで、ハルくんって感じだった」

「やめろ」

「皆にピアノ弾いてるときのハルくんだって――」

「無責任な事を言うな!」

 ピアノという単語に、彼女が言葉を紡ぐ途中で思わずテーブルを叩いていた。声が荒いで、心拍数が上がっていく。顔が熱くなった。

「俺がお前たちのコンテストを滅茶苦茶にした。部もかき乱した。皆そう言ってただろ。あいつは部に必要ないって」

「違う!」

「違わない。怒鳴ったし、何人も泣かせた。足を引っ張った。サボって周りを混乱させた」

「違うよ!」

 お互い、どんどん声が大きくなる。自分で自分を止められなかった。

「違わない! 役職を投げ出して、先生にも迷惑かけた。演奏会を降りてパートの負担も作った。俺に音楽をやる資格なんて始めからなかったんだよ! あのとき死んでれば良かったんだ。別の高校に逃げ道なんか作らないで!」

 感情的になった須川が手を上げた。自分の顔に飛んでくるのが分かったが、避ける気はなかった。


 だが、彼女の手は空中で止まった。


「離して!」

「殴ったらだめよ。余計に彼が傷つく」

 須川の手首を早見が掴んでいた。小柄な彼女にこんな力がある事に思わず驚きを隠せない。

 小さくしか表情を変えないはずの早見の目がいつもの倍は見開かれていて、真剣な眼差しはまるで別人――強い意志を浮かべた表情に、そんな言葉すら浮かんでくる。

「浅田くん、謝りなさい。あなたが傷付いてるのはわかったけど、それで他人を傷つけていい事にはならない」

 その真剣な表情がこちらを捉える。早見とは思えない鋭い喋り方だった。彼女は一体どんな人間なのだろう。

 黙っていると、

「謝りなさい」

 強く、低い声で脅すように繰り返す。

「……悪かった」

 少し間をおいて、目をそらしてから呟いた。自分は何をやっているのだろう。全く馬鹿だと思った。

「ごめんね。二人に何があったかは知らないけど、店内で喧嘩するのはよくないと思って」

 気付けば店内の目がこちらに集まっていた。興味半分や面白半分の目、若干恐怖を浮かべたようなひきつった顔が向けられていた。

 無理もない。あんな会話を聞かされれば嫌でも気になる。

「早見の楽譜を買いに来た。悪いけど、それだけ買ったら帰るよ」

 須川は黙っていた。衝動的に立ち上がっていた腰を椅子に落として俯いている。こういう時、彼女はいつも泣くのだったか。


 黙って二人で立ち上がった。

 ふと、

「浅田くん。私ちょっとトイレに行くね」

 楽譜コーナーの前に移動したとき、早見が背を向けた。

「今の事は、どうか忘れてほしい。君に話す事でもないと思うから」

 背を向けたまま呟いてから彼女は歩いて行ってしまう。

 その言葉の意味が春月には理解できなかった。


 会計を済ませて店を出るまで、早見は一言も喋らなかった。何かに怯えているような、どこか気まずそうな硬い表情を崩さないまま春月の隣を早足で歩いていく。

 ようやく口を開いたのは、店を出て五分ほど歩いたところだった。

「ごめんね、浅田くん。驚いたよね」

 不思議とその口調に見慣れたものを感じる。いつもの早見だと思った。

「うん、まあ。それなりに」

「驚かせてごめん。もう、次はないようにするから」

「俺のほうこそごめん。あんなところ見せるつもりじゃなかった」

 それきり彼女は黙ってしまう。少しの沈黙の中、二人の足音と車の音だけが聞こえた。

「でもさ」

 その沈黙の重さよりも言わないといけない言葉がある事に気付いて、ようやく口を開く。

「俺、感謝してる。殴られそうだったとか、そういうのじゃなくて」

 横断歩道の前で立ち止まる。

「止めてくれてありがとう。謝らせてくれて、ありがとう」

 俯いて複雑な表情を浮かべていた早見の頬が次第に赤くなっていった。


「色々あったけど、俺だって反省してこなかった訳じゃない。今日謝ったのは今回怒鳴った分だけだけど、もし次に会う事があったら早見がいなくてもちゃんと会話してみせるよ」

 それに――。この続きは、言うべきなのだろうか。一瞬迷ったが、言わずにいるのも苦しい。そんな気がした。

「お前があんな話し方するなんて、意外だった」

 俯いていた早見の目線がこちらに向く。

「かっこよかった。お前にあんな面があるって、意外だった。もっと見てみたい」

 彼女の頬を染めていた赤が顔全体に広がっていった。また視線を地面に落として、うん、とだけ短く呟くと駅のほうに歩き出す。

「駅、こっちだから。一人で大丈夫。案内してくれてありがとう」

 俯いたまま歩くその歩調は儚げで、今にも壊れそうな、そんな雰囲気を秘めていた。

 大人しいだけの奴じゃなかったのか。


 君に話す事でもないと思うから――


 だが、その背中を見つめながら春月の頭に蘇った言葉はさっきの早見の謎めいた言葉だった。

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