三月の星

早見 暁

第一節 Theme



 楽譜を追いかける指が止まった。

 これ以上は弾けない、と体中が悲鳴を上げていた。止まった指が震えだして、次第にそれが体全体に広がっていく。

 次々と頭の中を駆け巡る光景や、忘れられずこびりついてしまった音達に、痩せこけた青白い肌がみるみる粟立った。


 ――あれからもう一年は経つのだ。いい加減に、うまく折り合いを付けて立ち直っても良い時期だろう。


 堪えきれずに流れた涙を乱暴に手で拭いながら、春月ハルキはそう自分に言い聞かせた。


 だが、頭の中でそう思うのとは裏腹に、両手は衝動的に鍵盤を叩いていた。どす黒く尖った不協和音が音楽室を満たす。



「どうしたの」

 突然の声に、思わず体がビクリと反応した。

 気付けば音楽室のドアからクラスメイトの髪の短い小柄な女がこちらを見つめていた。


 そういえば窓を開けたままだった事をすっかり忘れていた。さっきまでの演奏も、今の汚い音も全て周りに聞こえていたという事が途端に恥ずかしく思えてきた。


「ごめん」

 何を言っていいのかわからず、何でもいいから喋ろうと出てきた言葉がそれだった。

 どうして謝るの、と心配そうな表情を浮かべながら、彼女の、年の割に幼い顔がまっすぐこちらを見ていた。

 彼女――早見弥生はやみやよいのまっすぐな視線が春月は苦手だった。いや、何も彼女に限った事ではない。人の目をまっすぐに見ると自分の心の中が見通されているような気がして、どうしても恐怖を感じてしまう。


「ピアノ、やっぱり弾けないんだね」

 小さく開けたドアをするりと抜けて、早見がゆっくりした歩調で近づいてきた。すらっとした高い鼻を持っているのに、あまり大きく目を開けないせいでどこか損をしている――いつもどこかミステリアスな雰囲気を含んでいるその顔が、すぐ近くで春月の顔を見つめた。

「なんでかな。ピアノを弾くと嫌な事ばかり思い出すんだ」

「無理はしたら駄目だよ」

 早見の小さな手が春月の頭を撫でた。

「焦る必要はないから」

 あまり女子に慣れていないせいでどうしたらいいのかわからない。あまり距離感というものを考えずに接してくる所は苦手だったが、出会ったばかりの彼女にあまり心配をかけたくないと思いとりあえず微笑んでみせた。

「ありがとう。でも大丈夫だよ」

「何を思い出してたの?」

「……ここに来る前のこと」

「前の高校、辛かったんだね」


 自分に同情して辛そうな顔をしている早見を見ていると、不思議と自分も辛くなってしまった。

「そうでもないよ。楽しい事もそれなりにあった」

「辛そうな顔してる」

 腫れあがった目の下を、早見の手が拭った。暖かい、と思った。

 まだ初めて会ってから日が浅いというのにぐいぐいと距離感を詰めてくる彼女に春月は違和感を覚える。同時に、そこに彼女らしさというものを感じているのもまた事実だった。

「話してくれたら聞くから」

「どうだろう。そのうちかな」

 早見が悲しそうな表情を浮かべた。

「話せば楽になるよ。溜め込んでもいい事なんてないから」

 首を横に振って、苦笑してみせた。

「辛いままでいるのは、苦しいよ」

 心配をかけたくないからとぼけてみせたというのに、彼女はぐいぐいとこちらに歩み寄ってこようとする。


 一息ついて、大丈夫だよ、とだけ返した。

 苦しいとか辛いとか、春月はそういった感情に興味はなかった。自分の中でやり過ごす自信ならある。

 むしろ、話してしまう事が――彼の存在をただの不幸自慢の種にしてしまう事が、一番嫌だった。

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