アルセーヌ・セブンティーン

友村由

第1話

アルセーヌ・セブンティーン


   プロローグ


「あたし、アルセーヌ・ルパンと知り合いなの」

 そう言うとみんな笑う。あたしが冗談言ってるって聞こえてるみたい。

「なぁ。ローレライ。話の続きを聞かせてくれよ」

 まぁ半分本当で半分嘘だから、あたしも笑われたって別に悪い気はしない。パブのお客とはもう長いし、彼らだって、心からあたしを笑い者にしようとなんて思っちゃいない。仕事があって、ビールがあって、仲間がいて、笑って。みんなそれがあればいいと思ってるし、あたしもそれには同感。働いて、飲んで、笑う。それって最高の人生だと思う。だからあたしは自分の店を持って、今もこうしてビールを注いでいる。

「続き?」

「そうだよ。アルセーヌ・ルパンの続きだよ」

 アルセーヌとだって、知り合いとは言ったけど、もう会うこともないと思う。

「半分嘘で、半分本当だけどいい?」

「あぁいいとも。つまらんねぇ本当の話よりよっぽどいい」

 この男とは、この店だけの中。外で何をしているかなんて知らないけど、ここに来れば大抵いるから大抵なにかを話す。面白いから話すだけ。タイプじゃないし、たぶんここで会わなきゃ言葉だって交わさないような感じ。状況的には、向こうはあたしの名前を知ってて、あたしはこの男の名前を知らない。そういうわけ。

 だけどこの男はあたしのお店の大事なお客さん兼飲み仲間で、きっとお婆ちゃんになっても、この毎週ビールをガロン単位で飲む男のことは思い出すに違いない。

「ねぇ、あんた、名前は?」とあたし。

 別に口説かれたくていってるわけじゃない。

「あぁ、ローレライ。お前、私の名前も知らねぇのか。私たち毎週のように会ってるだろうが」

「けど知らないんだもん」

 本当だ。

「あぁー。わかった。えっと――、私の名前はなぁ――」

 男は目線を上げて、天井を見てる。

「なんだお前、自分の名前もわからねぇのか」

 奥にいた爺さんがグラスでカウンターを叩きながらからかうと、小さな店が笑い声で満たされた。

「酔ってんだ」と男は言った。「今すぐ言う。私の名前はニックだよ。ほら、これでいいだろ、お前ら。もう笑うのをやめろってんだ」

 ニックと名乗った男が言うと、パブのみんながまた笑った。もちろんあたしも笑った。彼は確かにニックって名前の顔だし、ニックって名前の振舞いだし、つまりどこからどうみても本当に正真正銘のニックって感じだった。

「なんだってんだよ、もう」ニックは少しだけ不貞腐れて、「おい、ローレライ。アルセーヌ・ルパンの話をしろよ」と言った。

「本当にニックなの? 嘘吐いてない?」

 あたしにはわかってる。この男はニックだって。だけど聞いちゃった。

「吐いてねぇよ」

「そうね、じゃまず、あたしとアルセーヌが出会った夜のことを話そうかしら」

 口笛が聞こえた。そんなに艶っぽい話じゃないのに。

「期待してないでよ」

 あたしはみんなに聞こえるように言った。

 そうしてから、アルセーヌと出会った十六歳の夜のことを話始めた。

 それも今から十年も前のことなのだ。


   ★


 何をしても駄目だった。

「ごめん――。ロー、いつも迷惑ばかりかけて」

 ベッドの上で横になっているのは弟のクリフ。昔から身体の弱い子だったけど、ここ数日間はずっと寝込んでいる。身体に赤い斑点が出て、それからずっとこんな調子だ。

「大丈夫、絶対に治るから」

 ロンドンは十二月。部屋の中まで寒いのは、うちが貧乏だから。暖炉の薪も変えない。

「ごほ――、ごほ――」

 日を追うごとに痩せていく身体。咳を抑えるために口に伸ばした腕だって、ポキンと折れちゃいそうなくらい細くなってる。

 医者に見せるお金があればいいけど、うちにはそんな金もない。あたしが医者だったらいいけど、現在進行形であたしは単なる金髪美少女だしそれは無理。

「すぐ良くなるよ、クリフ」

 何度同じ言葉を掛けたか。自分で言ってて説得力がないのはわかる。

「死ぬのかな」

「そんなこと言わないでよ」

 けど――。

 あたしは能天気な性格だけど、いつも目を瞑って生きてるわけじゃない。目の前の世界がどうなっているかはわかってる。クリフは良くなる。絶対に良くなる。そう信じてるけど――、心のどこかで何かを覚悟もしている。


   ★


 部屋の扉が開く音。

「パパだ」

 飲んだくれの父親が帰ってきた。あいつが働かないからうちには金がない。自分では腕の良い家具職人だ、とか言ってるけど、作ってるとこなんて見たことない。家具と言えば酔っ払って壊す一方だ。

「オイ、ロー。帰ったぞ」

 乱暴で横暴。ママが生きてた時も、ママが死んでからも、素面のときを見たことがない。年中酔っ払って、悪態を吐きまくる。それがあたしたちのパパ。「いないのか?」

 顔を見せなきゃ暴れる。ベッドルームを出て、リビングに向かった。

「いるんじゃねぇか」

 ソファに座っていた。ふんぞり返ってる赤い顔の髭面があたしのパパだ。瓶ビールを持っている。

「おかえり」

「ロー」とパパ。

 あたしの本名はローレライ。けど家族は短く『ロー』って呼ぶ。

「なに?」

「お前、幾つになった」

「十六」

 今は十二月の十七日。ちなみに二十一日で誕生日で十七になる。

「そうか――」

 上から下まで、舐めるように身体を見られているのがわかった。寒さとは違う、嫌な感じ。鳥肌が立つ。「お前、大人の身体になったなぁ」

 うわ。

 これは気持ち悪い。

「男は知ってるのか?」

 酔っ払いがソファから立ち上がる。

「やめてよ。そんなこと聞かないで」

 娘にそんなこと訊くか?

「知らないんだろ、ロー」

 実の父親が訊くようなことじゃない。

「やめて」

「おい、どこ行くんだよ」

 部屋に戻ろうとしたら、腕を掴まれた。すぐに身体も引っ張られる。酒臭い息。

「なんだ、結構、良い胸してんじゃねぇか」

 あたしは巨乳だ。

 揉まれた。

 最悪。

「やめて!」

「男、知らねぇんだろ。教えてやるよ」

 あたしは所詮、女だ。大人の男に比べたら、力なんてないに等しい。反撃しようにも、無駄な努力。声を出すのが精一杯。

「離してよ!」

 あたしの声なんて聞いてないんだ。パパが欲しいのは、あたしの身体。性欲の捌け口が欲しい。「ちょっとパパ、やめて!」

 こんなの最低だ。パパに犯されるなんて絶対に嫌だ。

 とにかく手足を動かし続けた。身体が止まったら恐怖で動けなくなる。

「ロー、逃げろ」

 パパの手が止まる。

 え? なに。

「ロー、何やってるんだ。逃げるんだよ」

 クリフだった。フライパンを持って、パパを後ろから殴りつけてくれた。「とにかく走って。それでもう二度とここには帰ってきちゃいけない。絶対に絶対に帰って来ちゃいけない」

「てめぇ、このクソ餓鬼が」

 パパがクリフのほうを向く。パパはデブで、クリフは虚弱体質で痩せてる十三歳の男の子だ。

 勝敗は目に見えていた。それでもクリフは「ロー。早く出ていけ」とパパに立ち向かった。身体だってそんなに動けるはずないのに。

 そのときだ。あたしに恐怖が込み上げて来たのは。とにかく怖かった。パパがあたしをレイプしようとするなんて最悪だし、クリフが殺されるかもしれない。思考が停止状態だった。

 クリフを助けたい。けど、パパに立ち向かうなんて出来ない。

 恐怖の中で感情が堂々巡り。

「ロー。早く、早く逃げるんだ」

 だけど、クリフの言うことだけはわかった。

 走って、逃げなきゃ。逃げなきゃいけない。結局、自分が優先された。怖かった。そんなつもりはなかった。けど逃げなきゃ。そう思った。

 で、あたしは家を出た。

 十六歳の夜、独りになったのだ。


   ★


 お金も、家族も、帰る家もなくなった。なんか一気に色々なくなった。

 十二月のイーストロンドンは寒くて、出てくるときに咄嗟に掴んだコートがなくちゃきっと凍えて死んでる。裸足なのは頂けないけど、それよりもあたしはこれからどうしたらいいんだろう、ってことと、プラスして自分の身体に触れてきたパパのことばかり考えて、もう頭の中はひっちゃかめっちゃか。あの酒臭いデブ。あたしの身体を掴んで、胸に触れた。シャツの下に手を突っ込んで、あたしの胸を鷲掴みした。

 あたしは自分がブロンドだからって理由で、軽く見られるのが嫌いだったし、それと同じくらい嫌だなって思ってるのは、あたしがブロンドで巨乳だからって理由で軽く見られること。

「ひゅー」

 すれ違う酔っ払いが口笛。

 歩くのが嫌になる。

 確かにあたしは可愛いし、若いし、巨乳だけど、そんなことをする男は大嫌い。パパの荒い息を思い出す。駄目だ。振り払わないと。

 もう。なんであたしばっかりこんな目に遭うの。

 本当に惨め。最悪。最低だ。

 あたしは足を止める。いや、止まったんだ。もう疲れていた。動きたくない。

 それに靴を履いて来ればよかった。どうして忘れちゃったんだろう。空を飛べればいいけど、ずっと裸足のまま、イーストロンドンで夜を明かすなんて無理。けどどこに行くの? あたしには行くところなんてない。親戚は借りた金を踏み倒すパパを嫌ってるし、頼れる友達もいない。唯一、あたしの味方だった弟のクリフには、もう会えないかもしれない。泣けてくる。

 こんな顔、誰にも見られたくない。野良ネコだってあたしを見ると、どっかへ消えていく。

 路地裏に入って、建物に背中を預ける。心も体も一杯一杯だ。腰を下ろす。犯されてない。触られただけだから大丈夫。自分に言い聞かせて、納得させようとしたけど、やっぱり泣けてくる。座りこんだら、今まで抑え込んできた恐怖が溢れてきた。

 クリフ。どうなってるんだろう。ただでさえ身体の弱い子なのに、最近は妙な発疹が出てきて、ますます寝込んでいることが多くなっていた。あんなパパじゃきっとクリフの面倒は見れない。あたしだって一人になったけど、弟のクリフが心配だ。気になる。けどもう戻れない。パパにはもう会えない。きっと会ったら、あたしは思考停止して、今度こそ犯される。

 泣き顔を手で押さえた。きっとこのままあたしは物乞いになるんだ。そうなるしかない。仕事だってないんだ。こんな裸足のあたしを雇ってくれる人なんているはずない。仕事にありつくための紹介状一つだって持ってないんだ。

「泣いてるの?」

 おっさんの声じゃないってのはわかった。男の子の声だった。口笛も吹いてないし、呂律もしっかりしてるから酔っ払ってる感じもしないし、酒臭くない。

 どこか弟のクリフに似てる声。もしかしてクリフも家を出たの? あたしを助けに来てくれたの? 

「だれ?」

 あたしは顔をあげた。

 少し希望があった。

 優しい男の子が、あたしのことを助けに来たのかも、そんなことをちょっとだけ考えた。

 だけど現実は甘くない。

 あたしの隣にいた赤髪の男の子は、あたしの胸に触ろう右手を伸ばしていた。

「変態!」

「ひでぶぅ!」

 妙な声をあげて、赤髪の男は倒れ込む。

「スケベ!」

「暴力反対!」

 すかさす赤髪は立ち上がった。「泣いてたんじゃないのかよ」

「泣いてたけど、別にあたしの胸に触って欲しくて、泣いてたんじゃない」

 あたしだって立ち上がる。

「それはごめん。誤解してた」

「そんな誤解あるはずないでしょ!」

「で、なんで泣いてたの?」

「なんであんたに言わなくちゃいけないのよ。あっちいって」

 あたしは不機嫌だ。すごい不機嫌だ。

 この赤髪の男の子のせいだ。左手を包帯でぐるぐる巻きにして、怪我でもしてるなら家で大人しくしてればいいのに。

「俺に泣いてた理由を言わないわけぇ? ツンツンしちゃうわけ? これから仲良くやっていこうっていうのに」

「当たり前でしょ。何か仲良くよ」

 早く視界から消えて欲しい。「大体さ、なんなの。こんな真冬に道化みたいな恰好して。頭おかしいんでしょ」

 すごく露出の高い服だった。黒いけどピエロみたいな服装。普通のセンスじゃ絶対に着ないような感じだ。

「あのさ、俺は君を助けたんだよ。わかってない?」

「どこが」

 あたしを助けたのは勇敢な弟のクリフだけ。

 そのクリフにだってもう会えないかもしれないのだ。

「だって、君、もう泣いてないだろ?」

「え?」

 あ、確かに。

 クソ。泣いてないじゃん、あたし。

「驚いてる」

「まぁね」

 そんな風に思ったんだから、もう負けか。「少しだけなら仲良くなってもいい」

 あたしからの提案。どうやらこの赤髪の男の子は悪い子ではないのかもしれない。そんな風に思い始めてた。

「素直じゃないな。ローレライ」

「え?」

「なに? 俺の顔、おかしい?」と赤髪の男の子。

「どうしてあたしの名前、知ってるの?」

 もしや探偵? いや警察? はたまたあたしのファン?

「色々あってね。つまりのところ、色々掻い摘んで話しちゃうと、俺は君を救いに来たってわけ。正義のヒーローなんだよ」

「あたしを救うっていうの? なに、道化師はやっぱり頭イカれてるの?」

 家を飛び出してきて、金もない。おまけに裸足で頼れる親戚も友人もいない。何もないあたしを助ける酔狂な奴が世界に存在するとは思えない。たぶん存在するとしても、あたしのファン以外にないけど、きっとファンじゃないと思うし。

「まぁ正確に言うと君を救うわけじゃないんだけどさ。けど君をなんていうのかな、俺の相棒にしようと思ってるよ、ローレライ」

 赤髪の男は、なんだか自信満々だった 

「じゃ、何の相棒なの? 道化師?」

「なにって。決まってるじゃん」

「決まってない」

 もったいないで早く言うべき。

「泥棒だよ」

「泥棒?」

「そ、泥棒。簡単だ。人の物を盗む」

「そんな風に言って人を助けようなんて頭おかしいでしょ」

「何事にも初体験ってのはあるだろ、ローレライ。どうする? 俺と一緒に泥棒する?」

「どうしてあたしが泣いてたのか、理由はもういいの?」

「女性に泣いてる理由は聞かない主義なんだ」

「嘘ばっか」

「たった今、始まった主義だから。助けて欲しいんだろ?」

 上から目線だ。何なの、こいつ。

「わからない」

 泥棒するなんて即決できるわけがないじゃん。

「そっか。だよね。けどさ、これ聞いたらどうかな」

「さっさと言ってよ」

「落ち着いて聞けよ」

「もう落ち着いてる。不機嫌だけど」

「じゃ言うからな」

「はいはい」

 なんとなくだけど、これって新手のナンパかなって思い始めてた。

「クリフの病気に関することだ」

「クリフ――?」

 無視できなかった。


   ★


「クリフはこのままだと死ぬよ」


   ★


「え?」

 クリフが死ぬ? 確かにあの子は虚弱体質――。

心の中で覚悟していた。

 けど、どうして知らない男の子にそんなこと言われないといけないの。

「マジ。だから俺は助けに来た。あと一週間もしないうちに死ぬ」

「いやいやいや」

 有り得ないし。「そんな縁起でもない嘘吐かないでよ」

「本当だ。信じてくれよ」

「自分が死ぬのはわかるわよ。人間だもの。そりゃいつか死ぬ。けどクリフ、まだ十三歳なの。六十歳じゃないし、一週間以内に死ぬなんて信じられっこないじゃん」

 あたしだってクリフが不老不死じゃないことくらいわかる。弟がいくら身体が弱いからと言って、知らない赤髪の男の子に死ぬなんて言われて信じるはずがない。

「まぁそう言うとは思ったよ」

「そりゃそうでしょ。どうやってそんな縁起でもない話を信じろっていうのよ」

 自分がわからない。現実と理想って言うのかな。あたしはクリフに長く生きて欲しい。けど、それは理想。あの子は昔から身体が弱かったし、今の病気だって正体不明で全然よくならない。日に日に痩せていくのを見ていたら、そう遠くない未来に最悪の瞬間が来るのも理解できる。これが現実。

「それじゃこれでも信じれくれないかな?」

 赤髪の男の子は胸元を開いた。服を脱ごうとしてる?

 なに。あたしがせっかくセンチメンタルに悩んでるっていうのに!

「最悪。やっぱりあたしの身体目当てじゃん!」

 こんな暗がりで上着を脱ぐなんて。あたしをドス黒い欲望で満たそうと考えている証拠以外の何物でもない。「卑劣! 最低よ!」

 引っぱたいてやった。

「ひでぶ!」

「当然の報い」

「違うよ、ローレライ。違うって。誤解だ」

「誤解もクソもない。こんな薄暗い路地で服を脱ごうとするなんて、そんなの目的は決まってるじゃない。しかもあたしは若くて綺麗で巨乳で金髪で裸足で弱ってる。あんたが下半身で物事を考える馬鹿な男の子だってのはお見通しよ」

「だから違うって。どうしてそう早合点するんだよ。俺が見せたかったのは、これだよ」

 左胸を指さしてる。

「あ」

 わかった。

「見覚えあるだろ?」

 大ありだ。

「それはママの宝石」

 死んだママが大事にしていたハート型の宝石だ。

「その通り。正式名称は『賢者の石』。これが俺と君を繋ぐ大事なアイテムってわけ。理解できた?」

 なにそれ。理解できないよー。

 てか、どうしてママの宝石を胸に入れてるの? そんなのってありなの?

 宝石を身体に埋め込むとかおかしいでしょ。有り得ない。

「ちょっと疑問があり過ぎて頭がパンクしそう」

 完全にパニックだ。整理しようにも、何から手をつけていいのかさっぱりわからない。クリフのこともそうだし、身体に宝石埋め込んでるし。

「えっと、何から聞いたらいいのか――」

 なんだろう。

 彼がなんであたしの名前を知ってるのか?

 彼が妙な恰好をしていること?

 彼が弟が一週間以内に死ぬとか言いだしたこと?

 それとも彼が死んだママの宝石を左胸に埋め込んでること?

「ねぇ」

 あたしは何かを聞こうと声を掛けた。

 そこで気付く。この赤髪の男の子の名前を知らないってことに。

 不覚。

 そしてやっぱりパニックは継続中だった。

 だから結局、こんな馬鹿な質問をしてた。

「ねぇ、あなた、名前は?」

 赤髪の男の子に聞いた。

 色々考えて、最終的にはこれだった。あたしってほんと間抜けちゃん。

「うーん」と男の子。それからこの赤髪の男の子は言う。どうやら向こうもこのタイミングでその質問とは思ってなかったらしい。

「なんですぐ言わないの」

「色々事情が合って」

「なにそれ」

 名前を言えない事情って何よ。「早く言いなさいよ」

「わかった。わかった。そうだな。俺はアルセーヌ。アルセーヌ・ルパン」

「いや、それ偽名でしょ」

「本名だから!」

 あたしたちの足元には、今朝のタブロイド紙が落ちてる。一九一三年十二月十七日の日付。その新聞の見出しはこうだ。

『アルセーヌ・ルパン、またも華麗に奪い去る』

 タブロイド紙から名前を拝借したことがばれたわけだけど、それでもアルセーヌはアルセーヌのまま。

 何故なら、あたしがそれ以上は追及しなかったから。

 もちろん、この赤髪のアルセーヌだってそれには気づいていた。けど言い直したりしなかった。アルセーヌも結構、強情なやつってわけだ。

「アルセーヌ。そう。わかったわ、アルセーヌ」

 ひとまずそれでいい。そうだ。名前なんて何だっていいのだ。そんなことよりも遥かにおかしなことがある。どうやって確認していいのかもわからないような訳のわからないことが目の前で起きてるんだ。

「じゃいくわよ」

 深呼吸。

「どうぞ」とアルセーヌ。

「どうしてあたしの名前を知ってるの? 気持ち悪いし。それに、なんで、クリフが死ぬの? 冗談じゃない。あと、その妙な恰好はなに?っていうのに加えて、左胸にママの宝石埋め込んでるのはなんで? 普通死ぬじゃん、身体に宝石なんて埋め込んだら」

 一気に言い終えた。「全部答えて」とあたし。

「一片には無理」

 そりゃそうだ。うん、納得。

「取りあえず移動しない? ここ寒いし」とアルセーヌ。

「訳わからないところに連れていくんじゃないでしょうね?」

「警戒心強すぎ」

「あたしは若くて可愛い女の子。夜に出会った男の子にほいほい着いて行くわけないじゃん」

「けど来るんだろ?」

「まぁそうね」

 悔しいけど行くとこないし。

「足、どうにかしなきゃね」

「あたしの足?」

 そういやずっと裸足だ。

「靴を用意するよ。裸足じゃ何かと不便だろ。それがうちに来る口実だ」

「ほんとに?」

「うん。ほんと」

「ありがとう」

 お礼はきっちり。後腐れなく、ね。

「じゃ泥棒のほうもよろしく頼むよ」

「あたしの質問は?」

「答えるよ」

「考えとく」

 こうなると断り辛いのが人間ってもの。

「前向きに?」

「そうね。前向きに考えとく」

 そういうわけで、あたしはアルセーヌと知り合った。

 あの時は他にやりようがなかったわけだし、しょうがない。

 この男の子の本名よりも、クリフのことが大事だった。

 ほいほい着いて行く。


    ★


 アルセーヌの部屋はロンドンのハックニーにあった。

 要はイーストロンドンで、つまり労働階級のあたしたちが住むような場所で、治安も悪いが家賃も安い。そういう場所の汚い道のさらに脇に入ったところに扉がある。ちなみにここに来るまでにネズミの死体は二度も見た。うちの近所よりもたちが悪い場所だ。

「ここが俺の家」

 なんていうか倉庫だった。扉が目の前にあった。アパートメントの扉じゃないし、一軒家の扉でもない。殺風景な鉄の板。これは紛れもない倉庫の扉。やっぱりここは倉庫だ。

「倉庫なの?」

 でね、思わずね。

 聞いちゃってた。もちろん豪邸とか古城とかを期待してたわけじゃないけど、もう少しマシな場所に連れて来てくれるものだと思っていたから、うわ、マジ?って感じに驚いたってわけ。ほら、一応あたし女の子だから。

「倉庫だよ。ここしか空いてなくてね」

 やっぱ倉庫か。

「扉、開けてよ」とあたし。

「ローレライが開けてくれ」

「どうして? あたし女の子なんだけど」

 繰り返すけどね、あたし女の子。

「俺には無理なんだ」

 アルセーヌは包帯が巻いてある左手を振った。

「別にあっちの大きい扉を開けてって言ってるわけじゃないじゃん。目の前の普通の扉を開けてって言ってるの」

「えー」

「右手は?」

「わかりましたよ」

 右手で開けてくれた。扉を開けて、中へ。

「靴はその辺のを使って」

 ブーツがたくさんある。ブーツ天国だ。こんなにたくさんのブーツ見たことない。まぁ全部あたしのじゃないんだけどさ。

「何の倉庫なの?」

「それがよくわからないんだよね。けど靴の倉庫じゃない。勝手に使ってるんだ」

「勝手に?」

「まぁ人もいないみたいだし」

 悪びれる様子が一切ない。「靴屋か服屋か、はたまたその二つの倉庫なのかも」

「なんでもいい、もう」

「そのブーツ履いたら、泥棒だよ。わかってる?」

「なんでもいいって言ったじゃん」

 神様御免なさい。ローレライは最悪の一晩を過ごしています。その最悪を少しだけ、ほんの少しだけ軽減するために、ブーツを盗みます。今まで人の物など盗んだことありません。誓ってありません。だけど今夜だけは見逃して下さい。御免なさい。神様。

 ブーツを履いたあたしは十字を切って、赦しを乞う。

 よし、赦して貰えた。

 靴を履く。


   ★


 いつもあるから気付かなかったけど、靴って偉大だ。たぶん人間は発明した最高のものって靴だと思う。だって靴履いてる動物はいないし。あたしたち人間がここまで世界を牛耳れたのって、きっと靴があったから。そうに違いない。

「どこから話そうか」とアルセーヌ。

「どう考えても、クリフが死ぬって話からでしょう」

 倉庫に放置されていたボロボロのソファに腰掛けた。自分が死ぬって話を差し置いて、他のことを進める気にはならない。

 この赤髪の男の子を完全に信用なんてしてない。けど助けて貰ったのは事実だし、何より胸に何故かあたしのママが持っていた宝石を埋め込んでいる。

 普通の人間は、宝石を身体に埋め込んだりはしない。そんなこと出来ない。普通、死ぬ。そんな男の子が親切にも裸足のあたしにブーツを寄こして、さらにお節介にも弟のクリフが死ぬ、と言ってきている。

 無視できるほど、あたしは賢くない。見た目通りと言われるけど、あたしは結構好奇心が旺盛なのだ。

 理由が知りたい。裸足じゃなくなったから、余計に気になってくる。

「赤い斑点あるだろ?」

「クリフの?」

「君にもある」

 こいつ、何でも知ってるのね。

「腕のやつのこと?」

 なんでも知ってるみたいだ。「一週間くらい前から出て来た」

 コートの袖を捲った。刺青(タトゥー)とは違う。あたしは優等生じゃないけど不良じゃない。

 だけど、あたしの腕には、ぽつぽつと赤い斑点がある。

「これが原因ってこと?」

 クリフの病気が移ったと思ってる。ずっと看病してたし、あたしが同じ病気になっても不思議じゃない。だけど隠してた。クリフのほうがよっぽど重症だし、心配させなかったし。それに腕に赤い斑点が出来たところで、身体の調子が悪くなることもなったから無視していた。まだ自分じゃないとだけ思ってた。

 もちろん皮膚に現れた赤い斑点がちょっとずつ増えているのは、本音を言うと不安だった。

「君の血は呪われているんだよ。当然クリフの血もそうだ。ローレライはそうでもないんだけど、問題はクリフだ。彼には呪いの影響が強く出過ぎてる」

「うっそ」

 呪われる心当たりはない。「こんなにも懸命に生きているあたしたちが」

「君たちのご先祖様が原因」

「ご先祖って、アダムとイヴまで?」

「そんな先まで行かない。それよりも手前」

「じゃ、あたしが美人過ぎて呪われてるとかじゃないわけね」

「美人云々とかは無視して話を進めると、今から約五百年ほど前、君の先祖にある錬金術師のニコラスはある実験を試みたんだ。それが全てのきっかけさ」

「え? なに? 錬金術」

 そんなのあるなら今すぐ使いたい。

 金を産みたい。無から金をざくざく産みたい。金を練りたい。とにかく現金にしたい。

「そうそう、錬金術。フルネームはニコラス・ジャン・アングレー。伝説の錬金術師で、俺たちのご先祖様だよ」

 え? 俺たち。

「自分、含めた?」

「含めたね」

「どういうこと?」

「今から説明するよ」

 もったいぶるのは止めて欲しい。けど今は話を聞くしかないわけで。


   ★


 アルセーヌは話しを始める。

「ニコラスは元々神学僧だ。彼は優れた僧侶であり、パリ大学に籍を置いている学生でもあった。そんな彼はある時期から異教徒の哲学書である『ルゥブラン選書』というものに惹かれていくんだ。元々孤立気味で、当時は時代遅れと言われていたトマス派という主義に傾倒していたニコラスだったけど、この『ルゥブラン選書』に出会うことで、ますます独りでいることが多くなってね。ついにはパリ大学から出てっちゃうんだよ。彼の目的は、失われた『ルゥブラン選書』にあった『賢者の石』を手に入れること。卑金属を黄金に換え、あらゆる病気を治す伝説の石に心奪われてしまったんだけど、要は、これが悲劇の始まり。

 リヨン、アルプスを超えて、フィレンツェ、ギリシャ、それからシルクロードを辿りアラビア諸国。僅かな手がかりを頼りに、ニコラスは世界を放浪した。それも全て『賢者の石』の為だ。

 そして彼の年齢が五十に達した時、ニコラスは悲願だった『賢者の石』を手に入れた。放浪の旅に出てから二十四年が経過してた」

 ご先祖様、執念深すぎ。

 あたしは普通の女の子だから、そんな話聞かされてもただただ引くし。


   ★


 アルセーヌはあたしの隣に座るとさらに続けた。

「『賢者の石』を手に入れた場所は皮肉にもインドだった」

 何で皮肉なのか全く伝わってこない。それがあたしにとっての皮肉となってるよ。

「ニコラスはトマス派に属していたと言ったろ? 異国でキリストの教えと説いた聖トマスが死んだのもインドなんだ。つまり自らが心酔していた聖トマスの亡くなった地で、ニコラスは『『賢者の石』を手に入れたんだ。そして目的の品を獲得したニコラスは次なる目的に向けて動き出す。それが錬金術による生命錬成。神の領分を代行するという禁忌だ」

 どうやら錬金術はお金を生みだす以外にも出来ることがあるらしい。

 あたしだったらとっとと金を産みだす。とにかく金。金こそ全て。金こそパワー。

「ニコラスはインドの洞窟に籠り、生命錬成を始めた。自分の血、精液、そしてインドの教会に祭られていた聖トマスの死肉を依り代にした錬金術だ。

 日蝕に合わせて行われた生命錬成は、一旦は成功したかに思われた。ニコラスは完璧に禁忌をこなし、鍋の中で新しい生命『ホムンクルス』を錬成することに成功しかけたんだ」

「だけど失敗したんだ?」

 話の流れはそう。さすがローレライちゃん、労働階級出身の女性ならではの水商売スキルの高さを生かした素晴らしい相槌。

「その通り。『賢者の石』は命を産みだすことはなかった」

 そりゃそうだ。「しかも実験は暴走した」

「ニコラスにとって誤算だったのは聖トマスが双子だったということだ。もちろんトマス派に属し、人生を捧げてきたニコラスがそれを知らないはずがない。双子の弟があの聖キリストということも織り込み済みで、彼は聖トマスの死肉を使ったんだが、見通しが甘かったのさ。聖キリストの力は強力過ぎた。神の領域に侵入し、神の子である聖キリストと双子の聖トマスの死肉を凌辱した結果、ニコラスの生命錬成は暴走し、術そのものが跳ね返った。つまり依り代とした、ニコラスの血と精液に呪いがかけられてしまったんだ。ニコラス本人だけなら、まだよかったかもしれない。だが呪いの対象は血と精液だ。それは家族、つまり子孫にも受け継がれてしまった。残ったのは『賢者の石』と呪われた血だ」

「どういうこと?」

 やばい。全然わかんない。

「それ以来、ニコラスの一族には、奇妙な病気を発病する者が現れるようになったってこと。ローレライやクリフのようにね」

「あ、そう」

 わかんないけど相槌。「けどニコラスは僧侶でしょ? 童貞のはずじゃん。一族なんていないっしょ」

「過酷な旅の途中、神学僧だったニコラスは、ある一人の女性と関係を持ち、結婚していた。巨乳で金髪の女性だ。呪いはニコラスの血と精液に対して時空を超えて作用し、産まれた子供たちにも受け継がれていった。ニコラスは立派な男だったんだよ」

 アルセーヌは笑う。

「巨乳で金髪。クソ、あたしと瓜二つの美人だったってわけね。で、あたしとクリフはその立派な男の子孫だから、赤い斑点が出てきてるってわけだ」

 我慢しろよ、スケベ野郎。

「正解」

「最悪。栄養失調の線は? これお腹いっぱい、栄養のあるもの食べたら治るんじゃないの?」

「んなわけないだろ。こんな鮮やかな赤い模様、普通は皮膚に出ない。それに君よりも重症なのはクリフだ。彼は相当ヤバイ状態にある」

「わかってたけど言わないでよ」

 目を背けたい現実。「じゃクリフが死ぬのはこれのせい?」

「そうだね」

 受け入れたくない。

「嘘でしょ?」と再確認。

 冗談言わないで。

「嘘じゃない」

「信じられない」

 言いながら落ち込んでる。信じちゃってる。だってアルセーヌが話してくれた、ニコラスの話、なんかすごい本当っぽいんだもん。クリフが死ぬなんて。

「ま、落ち込むなよ、ローレライ。俺はそんなクリフを助けるために来たんだから」

 あ。確かにそんなことも言っていた。「治療法はあるから」

「あ、わかった。詐欺だ。そういって水晶とか中国の薬とかをあたしに売りつける気だったんだ」

 完全に読めましたよ、アルセーヌの手口が。「この詐欺師め。だから本名を名乗らずに、偽名を言ったのね」

「違う。違うって。俺は本当のことしか言ってない」

「じゃ証拠見せてよ」

「だから、これだよ、これ」

 意外にあっさり証拠を見せて来た。

 アルセーヌの左胸。ママが大切にしていた宝石が埋まってる。

「それさっきも見た」

「これが証拠。クリフの呪いは『賢者の石』で治る。こいつを手に入れてクリフに使うんだ」

「いや、てかさ」

 そもそもの話だ。「なんでママの宝石を持ってるの? パパが酒代欲しさに、どこかに売ったのはわかってるけど、相手がアルセーヌだったの?」

「いや違う」

「それじゃ持ってる理由がわからないじゃん。それにママの宝石持ってるのが、どうしてクリフが死ぬ証拠なのよ」

 ますます謎。

「よく聞いてくれ、ローレライ。俺はまだ二十世紀の初め、この時代には生まれてない」

 は?

 だけどあたしの疑問なんて気にせずアルセーヌは続ける。

「俺はまだ出来あがってないんだ。ママの宝石はママの宝石のまま。なんか、まままままままま言ったけど、俺はまだ産まれてない」

「産まれてないのに、あたしの目の前には存在してるんですけど」

「俺は未来から来た。五十八世紀だ」

 いや、五十八世紀って何よ。

「ちょっと話が突拍子もなさ過ぎ。ニコラスの下りまではまだ信じれる余地があったんだけど――、五十八世紀はどういうことなの?」

 舐めてんのか、おい。

「俺は未来からきたクリストファー・ヴェルヴェットの子孫なんだよ。お爺ちゃんのお爺ちゃんのそのまたお爺ちゃんのお爺ちゃんのお爺ちゃんのさらに四十七つ前のお爺ちゃんである、クリフを救いに来たんだ。だから『賢者の石』を持ってる。俺はクリフから、こいつを受け継いだんだ」

 あたしがぽかんとしてると、アルセーヌはさらに噛み砕いて説明してくれた。

「俺たち一族って言ったろ?」

「だからなによ」

 そうか。こいつはあたしの親戚か。「お小遣いでも貰いに来たの?」

「俺はクリフを救いに来たんだ。信じてくれ」

「混乱中」

「もう少し話してもいいかな?」

「チャンスをやろう」

「未来のローレライは、今ここに来たら、ローレライは二人になる。そうだろ?」

「そうね」

 それはわかる。未来のあたしと今のあたし。可愛いあたしと少し老けた可愛いあたしが存在することになる。大丈夫、わかる。

「そしたら、未来から『賢者の石』を俺が持ってくると、どうなる?」

「今の『賢者の石』と未来の『賢者の石』。二つ存在することになるわね」

 猿でもわかる。アイ・アンダースタンド。

「未来から来たのは俺の胸にある。これは渡せない。これはクリフが呪いを抑えるために手に入れた『賢者の石』を代々受け継いだものだからだ」

「ほほう」

 興味深い話だ。「現状のクリフは胸に『賢者の石』なんて入ってない」

「それをやるんだよ。そうしてクリフを呪いから救わないと、俺の存在が危ういんだ」

「なんかこんがらがってきた」

 アルセーヌはクリフの子孫だ。クリフがこのまま死んだら、アルセーヌは存在しなくなる。だから助けに未来からきた。

「『賢者の石』は生命の模造品で、心臓だ。クリフは呪いを抑えるために、『賢者の石』を飲み込んだ。その結果、子孫は代々、胸に『賢者の石』を受け継ぐことになったんだよ」

「ママはその『賢者の石』にそんな役割があるのなんて教えてくれなかった」

「言い伝えは必要がなくなれば消えていくものなのさ。しばらくはニコラスの呪いが強く出ることもなかったんだろう。だから伝承は自然消滅したんだ」

「だけどね――」

 あたしにはまだ大いなる疑問がある。「あんたが未来から来たなんて信じられない。アメリカから来たとは訳が違うのよ」

「嘘じゃない。信用してくれ」

 そんなの無理じゃん。「俺は自分の存在を守るために未来からきた。『賢者の石』を手に入れ、ご先祖様のクリフを救わなくちゃ俺は消えるんだ」

「あのね、馬鹿も休み休み言ってよ」

「クリフが死んだから、俺も消える。切実でマジに真剣な問題なんだよ」

「だから未来から来たって?」

「何度もそう言ってるじゃん」

「そんなの絶対に出来っこないでしょ。あのね、アルセーヌ。正直に言うと、あたし少しだけあなたの話を信用してた。信用しかけてたの。クリフの調子が悪いのは栄養失調なんかじゃなくて、『賢者の石』による呪いなんだ。ついでに言うとあたしも同じ病気。このままじゃたぶん死ぬ。そんな風に考えちゃってたの。けどね、その五十八世紀とか、未来から来た、とか聞いた途端に、なんか全てが弾けちゃったの。あ、これはホラ話だって。絶対に嘘じゃん。あなたが左胸に宝石を埋め込んでるのは確かに信じられないけど、未来から来たとかまでは、さすがのあたしでも信じるなんて出来ないの」

「いや、信じることになる」

 渋めの声。「明日、モナリザが見つかる。俺たちは未来から来たんだ。過去のニュースは把握している」

 アルセーヌじゃない。

 第三者の声だった。

「忘れてた。ローレライ、紹介するよ」

 アルセーヌが立ちあがる。「俺の仲間だ」

「こんばんわ」

 犬だった。

 ブルドッグがいた。

 あぁ――、なんて夜なんだろう。

 二足歩行してるし。しかも背広を着てるし。

 なんか倉庫の奥にある黒い車から出て来た。

「喋ってるし」

 また聞きたいことが増えてしまった。

 最悪。

「驚くな、ローレライ。私は喋る」と犬。

「どうして?」

 あたしはアルセーヌに説明を求めた。こんなの絶対におかしい。「驚くに決まってるよね」

「喋る犬ってやつだ。見たことない?」

 そんなの見りゃわかる。あたしはその先の説明を求めている。

「ないわよ! こんな犬!」

「犬じゃない。私は人間だ」とブルドッグが言うけど、やっぱり、どうみても人間じゃない。

 これは犬だ。

 紛れもなく犬だ。


   ★


 あたしが知っている犬で、今まで一番賢かった奴は何でも出来た。お手。お座り。待て。ボールを投げれば取って来るし、輪っかを掲げれば、その中にジャンプして飛び込む。たぶん根気よく教えれば玉乗りだって覚えられたかもしれない。昔、小さいときに家族で行った移動遊技場で観た犬だ。

 それがあたし史上、最高に賢い犬で、十六歳になった今の今まで一度も更新されていない永久保存の記憶だと思っていた。まだあの頃はパパも今みたいに乱暴じゃなかったし、ママも生きていた。移動遊技場は賢い犬と共に、あたしにとってはとても大事な家族の思い出でもある。

 だけどそんな記憶は、今夜あっけなく砕け散りました。

 賢かった犬は所詮、犬。

 あたしの目の前に現れた、喋る犬に比べたら、まだまだ獣だったということです。

「ちゃんと説明して」

 声のボリュームが上がった。怒鳴っていたんだと思う。なんていうか混乱を通り越して怒りだった。

 どうしてあたしばっかりこんな仕打ちを受けなきゃいけないわけ? そんな感じ。

「一から説明してやれ」

 ブルドッグがアルセーヌに指示してる。

 やっぱり飼い主と飼い犬って関係ではないみたいだ。

「わかった、わかった」

「どうして面倒くさがるのよ」

 だるそうなアルセーヌに言ってやった。「あたしにはこの状況を知る義務があるんだから、ちゃんと説明して」

「するから、するから」

「五十八世紀から来たんだよ、こいつも」とアルセーヌ。

「この犬も?」

 犬。喋る犬。二足歩行で背広を着た犬だ。また五十八世紀。五十八って数字が嫌いになりそう。

「犬じゃない人間だ」と犬が憤る。いや、お前は犬だよ。紛れもない犬だよ。正真正銘の犬だよ。

「そう。この犬も未来から来た」

 アルセーヌが言った。

「だからそれ聞いたって」とあたし。

「私は人間だ」と犬が再び反論。いやいや、だから、お前は犬だよ。

「正確には非常に頭の良い犬、だろ?」

「まぁ確かにそうとも言える」

「つまり犬だ」

 なるほど、やっぱり犬なのか。「喋る犬だ」

「未来の犬はみんな喋るってこと?」

 あたしは馬鹿なのだろうか。とても間抜けなことを喋っている気がする。

「私だけだ。オンリーワンだぞ、ローレライ」

「あ、そうなの――」

 苦笑いだよ。この時代でもあんたはオンリーワンだ。

「こいつは犬だけど非常に優秀なパイロットなんだ。モービル系ならあらゆるものを乗りこなせる。ほら、奥に車があるだろ」

「あ、あの」

 見慣れない形をした車だ。そこの犬が出て来た鉄の塊。ロンドン市内を走っているものとは明らかに違うデザイン。

「あれ、タイムモービルっていって、あいつに乗って未来から来たんだ」

 アルセーヌがポケットから出した、小さな四角い箱を、そのタイムモービルに向ける。ピッと音がして、エンジンが鳴った。誰もいないのに動き出したのだ。

「なにそれ?」とあたし。

「リモコンで操作できる。あ、これがリモコンね」

 どうやら手に持っている小さな四角い箱を、リモコンと言うらしい。

「ふーん」

 なんか理解できそうもないから、これ以上、聞くのは止そう。

「俺は運転苦手だから、タイムトラベル理論の完成させた天才犬でタイムモービルのパイロットでもある、こいつと一緒に来たんだ。お犬様。名前はどうするの? ローレライになんて紹介したらいい?」

 アルセーヌはブルドッグに尋ねる。「何にするんだ?」

「お前はどうした」

「俺はアルセーヌだよ。カッコいいだろ」

「なるほどな。泥棒の名前か」

「早く決めろ、馬鹿犬」

「天才犬だ」

「はいはい」

「そう、急かすな。そうだな。名前か――。名前――、シャーロックなんてどうだ?」

 葉巻を胸元から取り出し、ふかし始める。意外にあっさり決まったな。「お前がアルセーヌなら、俺はシャーロック」

「シャーロック?」とあたし。「ホームズのこと?」

「何もおかしいことはない。なぁ、アルセーヌ?」

「異論はないね。シャードッグちゃん」

 アルセーヌが笑う。

「ドッグじゃない。シャーロックだ」

「いいじゃん。お似合いだよ。ドッグにしろよ、シャードッグ」

「するか、ぼけ。ほんとクソ生意気な餓鬼だ。な、ローレライ?」

 同意を求められても困る。お前、犬だぞ。

「とにかく宜しく頼むよ」とシャーロックが手? いや、前足を差し出してきた。

「あ、わかった。よろしく、シャーロック」

 握手だ。肉球がぷにぷにしてた。

「未来から来たって信じる気になった?」

 アルセーヌの言葉は勝ち誇ってる。

「てか、どこから来たって言われても信じるよ」

 喋る犬は反則でしょ。

 ちなみに翌日、ルーブル美術館から盗まれていたモナリザが発見された。

 結局、犬の言うとおりだった。


   ★


 朝。

 倉庫にはボロボロのソファがあって、あたしはそこで寝た。シャワーもあれば最高だけど、贅沢言ってられない状況だってのはわかってる。だけど未練がないかといえばそれは別問題で、やっぱりシャワーがあればいいな、とか考えちゃうわけだ。

 ま、人間そんなもん。

「おはよう、ローレライ」

 あたしが起きて手持無沙汰にしていると、アルセーヌがタイムモービルとかいう車から出て来た。

 そうだ。これが現実だ。

「最悪」

 頭を抱えた。

「なんで?」

「今言った」

「聞こえなかったんだ」

「最悪なの」

 わかったこと。

 こいつは未来から来た。左胸に宝石埋め込んでる。『賢者の石』だったママの宝石を手に入れたい。喋る犬と一緒に居る。名前は偽名。アルセーヌにシャーロック。ちなみにあたしはローレライ。

 大好きな弟、クリフは死ぬ。

 つまり何にもわからない。

 どうすればいいの。少しずつ複雑に絡んだ糸を解すなんて苦手。そういうのはクリフが担当だ。あたしじゃない。あたしは絡んだ糸があったらハサミでざっくり切るタイプ。

「清々しい朝だね~」と伸びをしながらアルセーヌ。

 窓のない倉庫の中で言うな、と文句をつけようとしたら、ぐー、とお腹が鳴った。

 そうだ。一晩明けてるんだ。そりゃお腹がすく。

 あたしは日常に戻らなくちゃ。ずっとアルセーヌにペースを掻き乱されたままじゃいけない。自分の生活を守らなくちゃいけない。なんか知んないけどそう思う。

「朝ご飯は? 何か買ってこようか?」

 朝からアルセーヌを質問攻めにする気にはならない。だから取りあえず腹ごしらえってわけ。「何がいい?」とアルセーヌ。

 あたしは無一文だ。金のない美少女ローレライ。だからアルセーヌが朝ご飯を食べるなら、それに便乗して御馳走して貰おうという魂胆だ。昨日はあたしに椅子を譲ってくれたし、アルセーヌは本家アルセーヌ・ルパンと同じく騎士道精神がある。たぶんお腹を空かせたあたしに何かを恵んでくれるに違いない。

 生きる知恵ってやつ。

「いや、俺らはこの時代の物は食べれないから」

 あー。これが未来から来た人間ってやつかー。二〇世紀の食べ物は不味くて喰えないってか。

「じゃ朝ご飯はなし?」

「お腹、減ってるの?」

「腹ペコちゃん」

「そ」とアルセーヌ。

「あたし、腹ペコ」

 聞こえなかったのかもしれないから、もう一回言ってみた。

 これも生きる知恵ってやつ。

「俺らは自分たちが食べる食糧について、未来から持ってきてるんだ。だからそれを食べれることになってる」

 なにそれ。「これを食う」

 丁度、シャーロックが何かを持ってきた。一夜明けてもやっぱり犬だ。ブルドッグ。犬は犬のまま。たぶん明日も明後日もこいつは犬。

「それがその未来の食べ物?」

「プロテインバー。これだけで一日分の栄養補給が出来る。科学の世界だよ」

 包み紙を破ると、中にはチョコレートみたいな感じの棒が入ってた。アルセーヌはその先を齧る。

「実験ではこれを三年間食べ続けても身体には何ら悪影響がないことが証明されている」

 シャーロックも犬らしく鼻息を荒くしながら、頬張り始めた。

「あたしのは?」

「ローレライの分はないね。未来から来たものを身体に取り込むなんてあってはならないことだから。俺たちが本名を言えないのと一緒。禁則事項なんだ」

「えー。じゃあたしだけずっとお腹を空かせたままなの?」

 なんだよ、禁則事項って。

「お金は?」

「無一文」

 言わせないでよ、恥ずかしい。

「わかっていたが、驚きだね」

「わかっていたのに驚くなんて、馬鹿にしてるんでしょ」

「気難しいねー」

「わざと聞いたとわかれば、誰だって機嫌悪くなる」

「奇遇だね。俺もそうだ」

「くたばれ」

「ごめんごめん」

「お腹が空いてりゃイライラするに決まってるじゃん。あたしの目の前でそのプロテインバーとかいうもんを食べてちゃって。そりゃーおいしいでしょうね」

「大丈夫だから、ローレライ。ちゃんと考えてる。俺に任せて」

「なに? 朝ご飯を盗みにでも行くの? ぼりぼり食べながら言われても、ちっとも面白くない」

 こいつと喋ってると腹立つ。「そういやあんた、昨日はあたしと泥棒がどーのこーのとか言ってたもんね」

 ぷんぷん。

「俺は未来から来た。二〇世紀のことなら何でもわかる」

「またむかつくこと言う」

「俺たちが出会ったのが偶然だと思うか?」

「偶然じゃないんでしょ」

 もうその話振りで予想が出来る。あたしだって馬鹿じゃない。

「全ては仕組まれている」

 ドヤ顔じゃないか。

「なーんかかっこいいこと言うのね」

「別に言いたくて言ってるわけじゃないから。事実を述べたまで」

「ふーん」

「興味ない?」

「もうなんかどうでもっていうか、何でも来いって感じ」

「昨日言ったこと。ちゃんと覚えてるから。俺たちは泥棒だよ。だから朝飯は盗むんだ」

 なるほどね。簡単に言ってくれるわ。


   ★


「それじゃどうやって泥棒するの?」

「まず朝ご飯を食べるのはお金がいるじゃん? で、君は無一文じゃん?」

 倉庫の外に出た。シャーロックは犬の癖に散歩が嫌いだから置いてきた。あのタイムモービルとかいう車を点検しなくちゃいけないらしい。

 あたしとアルセーヌはロンドンシティに向かって歩いている。珍しく晴天。こんな天気がずっと続けばいいのに。

「あ、もしかして、あたしを働かせようって魂胆? うら若き乙女であるこのローレライを過酷な労働観曲で馬車馬のように働かせて、中抜きするつもり?」

「お、冴えてるじゃん」

「死ねや」

「まぁ落ち着いて。俺は企画立案、えっとつまりプランナーの役割もあるから」

「なんか知的な響き。むかつくー。じゃ実行犯があたしなの?」

「そういうこと。これからはそういう役割分担で仕事をしていくから」

 もー。どうなるのあたしの人生。「ちゃんとフォローするから安心して」

「安心って。で、朝ご飯は? なんかあたしの朝ご飯の話、うやむやにしようとしたでしょ」

「まぁ待てって」

「とっと盗めや! 泥棒するんだろ」

 男ってほんとやだ。口先ばっかりで行動しようとしない。「華麗にズバッと朝ご飯を盗んできてよ」

「うわ~。最低なこと言ってる」

「なんでもいいのよ!」

 一食抜いたくらいじゃ死なないけど、このまま未解決事件として放っておくわけにはいかない。喰い意地が張ってると思われるかもしれないけど、事実その通りなんだから仕方がない。

「計画があるんだって。壮大な計画」

「朝ご飯食べるのに壮大なものはいらないじゃん。そもそもどこに向かって歩いてるの?」

 ベーカリーの前に差しかかった。匂いが漏れてくる。うーん、おいしそう。

「ベーカリーっていいよね。五十八世紀にはないんだ。二十世紀に来てすごく気に入ったものの一つだよ」

 アルセーヌは扉を開けて中へ。話をはぐらかすのが上手いな。

「ちょっと」とあたしも追って店内へ。

 小さい店だった。

 頑固そうな、いかにも職人って感じの店主がカウンターの奥にいた。あたしたち二人はどう映るんだろう。若い女の子と赤髪で妙な恰好をした男の子。

 店の中にあたしたちしかいないから、妙な緊張感がある。ずっと店主に見られているような感じがした。いや、実際、ずっと見られている。

「これからリチャード・ホールトンのとこに行く。名前は知ってるだろ?」

 パンを眺めながらアルセーヌが言った。

 意外な名前が出て来た。

 リチャード・ホールトン。

「知ってるの何も――」

「どうした?」

「プリムスフィルの?」

「そう。そこに住んでるリチャード・ホールトン伯爵だ」

 あたしの叔父さん。死んだママの弟なのだ。つまりニコラスの血を引く者? アルセーヌの親戚でもあるってこと。

「どんな奴?」とアルセーヌ。

「リチャードのこと?」

「そう」

「スーパー嫌な奴」

 リチャードには一度しか会ったことがない。ママが死んだときに一回だけ。そんな叔父さんだ。向こうはあたしのことを親戚だなんて思ってないだろう。ママのことだって一族の面汚しだと思ってる。そういう奴に会いに行くのは、どうにも気が進まない。

「けど会いに行かなきゃいけない」

「なんでもやるけどさ――」

 生きるためには金がいるんだ。

「具体的には? 何をするの?」とあたしは聞いた。

「そりゃ盗みだよ」

「ちょっと困るわね」

 ほら、やっぱ何だかんだ言ってリチャードは身内だし。

「怖気づいた?」

「そんなことないし」

 あ、あたしの中のヤンキー気質が止められない。挑発に乗るだけじゃない、乗り込んでしまうスタイル。「なんでもやってやるわよ」

「いきなり元気だ」

「で、リチャードの家から何を盗むの?」

「ママの宝物は、リチャードが持っている」

 アルセーヌは手を叩いた。「『賢者の石』が関係してるんだよ。つまりこれは仕事だ」

「リチャードが――。取り戻してたんだ――」

 あたしの知らない事実。

 けどなんか繋がった。

「ローレライ、君のパパが酒のために売った相手はリチャードだった」

 ママが駆け落ちしてパパと結婚したのは知ってる。あの『賢者の石』をママが持っていたことについては、「持参金。駆け落ちとはいえ貴族の建前を通したのよ。それに元々この宝石は代々、女性が引き継いできたものだからね」とママが言ってた。たぶんあたしが会ったこともないお爺ちゃんかお婆ちゃんが口添えしてくれたんだと思う。駆け落ちと行っても、ある日行方をくらましたわけじゃない。あたしたちがロンドンにいることは向こうの家も知ってるし、ママが行ったのは結局、上流階級の駆け落ちってこと。

 とはいえ、あれはママの物だし、リチャードが持ってるってのは納得いかない。

 もしかしたら正当な持ち主の元へ戻っただけなのかもしれないけど、ママの決意が汚された気分。そもそも一族の女性が引き継ぐものだから、ママが持っていたのだ。

 それにあのリチャード。

 ママのお葬式で散々ママとあたしたち家族を罵った最低野郎。二度と会いたくない類の人間だ。何が伯爵だ。遊んで暮らしてる癖に。働け、ぼけ。

「お腹すきっぱなしで行くの?」とあたし。

腹が減っては戦が出来ぬ。

 ベーカリーまで来て、未だに見てるだけ。

「出よう」

「え?」

 突然だった。アルセーヌは脇に恐ろしいほどのフランスパンを抱え込んでる。

「走って逃げる」

「わ、わかった」

 あたしは扉を開く。外に出て走り出した。後ろを見る店主が追いかけて来ていた。顔が真っ赤だ。

「走ってきてる!」

 叫んだ。また後ろを確認した。店主が「泥棒!」と叫びながら、全力疾走だ。確かにそうだ。あたしたちは泥棒だ。申し分ないほどに泥棒だ。完全なる泥棒だ。

 ごめんなさい。心の中では謝った。

「どうしてこんな無茶すんのよ!」

 あたしたちは人ごみを掻きわけながら走った。

「考えがある!」

「単なる強盗じゃん! 全然華麗じゃないし! 肉体労働じゃん!」

 もー。なんでこんな目にばっか。

「ローレライ、これをそこのポストの前に全部おけ」

「え? なんで?」

 今、盗って来たばかりのフランスパンたちを渡された。

「せっかく盗ったのに、返すの?」

 こんな危険な目に遭ってるのに?

「いいから! 早く置け!」

 ポストはすぐそこだった。取りあえず言われた通りにした。あたしは渡されたポストの前にフランスパンを置いた。

 あぁ、あたしの朝ご飯。大量の朝ご飯。

 悔しい。悔しい。

 名残惜しさが半端じゃない。

「何やってるんだよ、ローレライ。走れ! 逃げるぞ! 来てる! 来てる!」

 手を掴まれて、走り出す。脇に逸れた。後ろを確認した。アルセーヌの言った通り、後ろに激昂している店主がいるじゃないか。

「どう?」とアルセーヌ。

「え?」

 また後ろを確認。大量のフランスパンを前に店主が、立ち止まっていた。

「よし。オッケー。奴が見えなくなるまで、もう少し流そう」

 それから狭い路地を走り抜けた。


   ★


「まだ走る?」

「もういい。止まろう」

三本先の通りに出たとき、店主の姿はもうなかった。警察も野次馬もいない。いつものイーストロンドンだ。

「朝飯前だろ」

 アルセーヌが小さなフランスパンを一本取り出す。

「全部じゃなかったんだ」

 てっきり諦めて全部置いてきたのかと思った。

「向こうは全部返してきたって思ってるだろうよ。一本減ったことなんて気付かない。これだけ大胆にやってりゃ尚更だ。思い込みってを利用した」

「そうね」

「要らないの?」

「いや、あたしも同じこと考えてたの」

 あたしは自分のポケットに突っ込んでいた二つに折ったフランスパンを見せてやる。このまま返すのは悔しいらかと、二つに割ってポケットに突っこんでいたのだ。

「泥棒しちゃいけない」

「あんたこそ。このクソバカ」

「それを食べたら、有罪確定」

 運動した後の食事は結構うまい。十字を切って、神様に赦しを乞う。神様御免なさい。よかった。今日も赦してもらえた。逆転無罪。

「で、なに?」

「リチャードに電報を打って来て」

 アルセーヌはあたしに一ポンドを寄こした。

「お金持ってるじゃない!」

「君をテストしたんだ」

「最低」

 儲かったけど、骨折り損って言いたい気分。

「ほら、食べ終わったら行ってこいよ。そこが郵便局だ」

「行くわよ! 言われなくても行くっつーの! 内容は?」

「これだ」

 紙を渡される。「これをそっくりそのままお願い」

「なにこれ」

「予告状だよ。これがないと始まらないだろ?」

 あたしは予告状の電報を打ったってわけ。


   ★


「少し寄りたいところがあるんだけど、いい?」

 予告状を電報で打ち、倉庫へと戻る途中だ。あたしはアルセーヌにいった。

「どこ?」

「うち」

「あぁ、いいよ」

 何かを知っているような感じだった。「そこのアパートだよね」

 結局、イーストロンドンだ。狭くはないが広くもない。歩いていれば、うちの近くを通ることだってある。

「ねぇ、あたしのこと、どこまで知ってるの?」

 色あせた煉瓦が重なった建物の二階があたしの家だった。小さな窓は汚れている。パパもあたしもクリフも、誰も部屋の掃除なんてしなかった。諦めていた。

「なんでも」

「きも」

 そういえばアルセーヌは、あたしの名前を知っていた。

「全部知ってるよ。未来で調査してきた」

「うっそ」

 最悪。

「ローレライ。スリーサイズも知ってるよ」

「そっか。なんでも知ってるって本当なんだ」

 あ、こういうときは話流そう。無反応、無反応っと。

「大丈夫なの?」と話を流されたアルセーヌは真剣なトーンに切り替えて聞いてきた。

「会いに行かないほうがいいのかな?」

 あたしは聞いた。

 弟に会いに行くということは、パパにも会う可能性があるわけで、それはそれで不安だ。だからアルセーヌに尋ねてみた。

「それ聞く? 俺は未来を知ってるよ。けど言えない。あまり干渉したくないんだ」

「どの口が言うのよ」

 がっつりあたしの人生に干渉してるじゃない。「偉そうに」

「未来から来たんだ」

「それ何度も聞きました」

「この台詞が気に入ってさ。これから何度でも使うよ、俺は」

「くたばれ」

「行かないの?」

「行く。待ってて」

「何かあったらすぐ呼んで。下にいる」

 こういう時はなかなか良い男だな、アルセーヌ。だが伝えないでおこう。

「うん」

「あ、待って」

「なに?」

「鍵は掛けないで」とアルセーヌ。

「わかった」

「あと――」

「なに?」

 立ち止まる。二度目。

「これが終わったらドライブだから」

「楽しみしておく」

 あたしはアパートに向かった


   ★


 建物の中に入り、細い階段を上がった。踏み込む度に軋んだ音がする。いつかきっとこの階段は崩壊するに違いない。

 二階まで上がって、家の前。深呼吸をしてから、ドアノブを掛けた。回す。ゆっくりと扉を開く。そのままにして中を伺った。

「クリフ?」

 返事はなし。そのまま室内へ。自分の家なのに一体何を警戒してるのだろう。何を? パパに決まってる。

 会うのは怖い。昨日のことがある。だけど今度会ったら、一発殴ってやる。必ず殴るんだ。

「クリフ、いないの?」

 キッチンは相変わらずの有り様、と言いたいところだけど、昨日よりも荒れてる。床には割れたグラスやお皿。テーブルもひっくり返っていた。屈んで、破片に触れる。あたしが出て行った後、きっとクリフとパパは戦ったんだ。

 クリフはどうなったんだろう。すごい心配。無事を確認出来れば本当にうれしい。

「クリフ、いないの?」

 寝室に向かう。そこですやすや眠っていれば最高なんだけど――。


   ★


「ローじゃねぇか」


   ★


 あたしのことをローって呼ぶのはこの世界に二人いる。一人はママでもう死んだ。それで残りの一人がパパ。

 昨日の夜と同じ展開。

 最悪。

 あたしは後ろを見る。どっから出て来たんだろう。ズボンを上げてるってことは、トイレからに違いない。

「なんだおめぇ帰ってきたのか」

 酔っ払ってる。すぐにサイドテーブルにあるウィスキーを引ったくりって一気飲み。

 一発殴ってやる。

 そう思ってたのに――、怖くて動けなかった。あたしは固まった。硬直。微動だにできない。

「ただいま、くらい言ったらどうだ。昨日とは逆だな」と下品に笑う。

 ゆっくりと、のそのそと歩いて、あたしに近づいてきた。

 嫌、来ないで。

 けど言葉が出ない。

「ここは俺の家だぞ」

 家賃滞納してるくせに。

 心の中では威勢のいい言葉が出てくるけど、口には出せない。

 嫌、あたしに触れないで。

「昨日の続き、してぇんだろ?」

 頬を撫でられた。

 気持ち悪い。

「顔上げろよ。ロー」

 無理無理無理。あたしは自分のつま先を見てた。やめて、あたしの身体からすぐに手を話して。そんな風にしないで。

「何も言わねぇで。なんだおめぇ。すっかり怯えてんじゃねぇのか」

 悔しい。その通りだ。クリフはどこに行ったの? あんなに弱った身体で――。もしや――。

「や――、やめて」

 絞り出して、やっと出た。けど自分でも思った以上に声は小さい。

「え? なんだか聞こえねぇよ!」

 怒鳴られた。

 身体が反応して、肩が上がった。

「パパ――、やめて――」

「なにぶつぶつ言ってんだ」

 腕を掴まれた。引っ張られる。そのまま寝室の中へ。

「クリフ――、クリフはどこ?」

「あいつならさっき誰かに呼ばれて出て行ったよ」

 ソファに放り出された。

 また昨日と同じ。覆い被さられる。

 嫌。

 最悪。

 絶対に無理。

 けど怖い。逃げられない。

「アルセーヌ!」

 お願い助けて。精一杯。最後だと思って叫んでいた。


   ★


「アルセーヌ・ルパン。参上」


   ★


 何もかもが止まっていた。

 なんだか時間も止まったみたいだった。

「大丈夫だ、ローレライ。何も心配はいらない」

 パパの奥に、アルセーヌが立っていた。

 左手に巻いていた包帯を取っている。

 なにあれ。手じゃない。鍵がついてる。結構大きめな黄金の鍵が左手についているじゃない。

「お前、誰だ。小僧が」とパパ。「勝手に俺ん家に入りやがってよぉ」

「アルセーヌ・ルパンだよ」

 何が始まるの。

 アルセーヌの足元にはさっきまで、あの鍵の左手を隠していた包帯が落ちている。

「嘘こけ。どうしてあの大泥棒がこんな貧乏屋敷に用事があるんだ」

「あんた、なかなか賢いな。その通りだよ」

「大体、その手はなんだ? お前、手品師か何かなのか?」

 パパが言っているのは、アルセーヌの左手に違いない。普通の手じゃなくて、大きな黄金の鍵になっている左手。アルセーヌはそれをこちらに向けている。いや、パパに向けていた。

「これは鍵だよ」

「んなもんは見りゃわかる」

 パパは苛立っていた。もう怒っているといってもいい。「さっきから舐めやがって。捻り潰すぞ」

 パパがアルセーヌに近づいていく。

「あ、ごめんごめん。じゃ、これは知ってた」

 音。

 何かが炸裂した音。

「いてぇ! あぁぁぁぁぁ!」

 パパが右の二の腕を抑えて蹲る。「てめぇ、撃ちやがったな!」

 パパの叫んだ言葉で何が起きたか理解した。

「これは鍵だが、銃でもある」

 あたしは寝室の壁を確認した。しっかりと丸い穴が空いている。

 蹲るパパは依然としてうめき声を上げている。あたしから見る限り、アルセーヌの左手の鍵? 銃? それとも鍵銃? みたいなものから出た弾は、パパの二の腕を掠めていったようだ。傷口を抑えている左手は血で赤く染まっている。

「この野郎――」とパパ。

「ちなみに普通の銃も持っている。次がこいつで頭を撃ち抜こうか?」

 二丁目が出てきた。右手に黒い銃を持っている。アルセーヌは膝をついているパパに近づいて、銃口を顔の手前までグッと近づけた。

「化け物が」

 パパは言葉を吐き捨てる。

「あんたの孫みたいなもんだよ」

「なに言ってるんだ。クソが――」

「まだこの時代には早いか」

「クソ――。早く、早く、い、医者を呼んでくれ」

「知るか。かすり傷だよ。命に別条はない。ローレライ、行くぞ」

 不意に自分の名前を呼ばれたもんだから驚いた。「ローレライ、帰るんだ」

「あ、うん。わかった」

 あたしはベッドがら降りて、蹲るパパの横をすり抜けた。アルセーヌは包帯を拾うと、それをまた丁寧に左腕に巻きつけていく。

「ありがとう」

「ま、いいよ、別に。貸しだからさ」

 あたしたちは部屋を出た。

 パパは意外にも何も言わなかった。

 たぶん屈辱を感じていたに違いない。


   ★


 夕方のちょっと前くらいに、あたしたちは倉庫に戻った。

「ただいま」とあたし。

 扉を開けて、中に入る。

「おかえり、ローレライ」

 シャーロックだ。やっぱりブルドッグ。どうしようもないくらいに犬。

「俺もいるんだけど」とアルセーヌ。

「ただいまって言え、不良」

「ただいま」

 どこも同じようなやり取りするんだな。やっぱ挨拶は肝心だ。

「おかえり、アルセーヌ」とシャーロック。

「犬に言われるとなんか気持ち悪い」

「お前が言わせたんだろ」

「悪い悪い」

 アルセーヌはタイムモービルの上に腰を下ろす。「結構歩いたよ」

「散歩にしちゃ長かった」

「二時間くらい?」

「六時間だな」

「二時間だろ。犬は時間もわからないのか」

「少し大袈裟に言ってやっただけだ。犬の十年は人間の六十年とか七十年とか言うだろ」

「そんなの知らないね」

 アルセーヌとシャーロックが話している横で、あたしも椅子に腰かけた。疲れたのは、こっちも同じだった。

 シャーロックはアルセーヌにプロテインバーを放り投げた。一日一本で足りるんじゃないのかよ。二本目だろ、それ。

「ちょっと聞きたいんだけどいい?」

「なに?」とアルセーヌ。

「その左手のこと」

「見せたのか?」

 シャーロックが言った。

「都合ね」

 アルセーヌは答える。「ずっと隠してるわけにもいかないしさ」

「未来から来たのもわかった。犬が喋るのもわかった。あと、ママの宝石、えっと――正式名称は――」

「『賢者の石』」

 シャーロックは優しい犬だ。

「サンキュ、シャーロック。で、その『賢者の石』を盗みたいのもわかった。けど、今度はなに? その左手。鍵? 銃? 鍵銃?」

 あ、やべ。犬が喋ることとかわかったことにしちゃった。

 アルセーヌは困ったように眉間に皺を寄せていた。

「五十八世紀の人間はみんなそうなの?」

「包帯取ろうか」

 アルセーヌは持っていたプロテインバーを置き、包帯を取った。またあの黄金の鍵が出て来た。人間らしい手はそこにない。

「それ、一体何なの?」

「私が言うべきかな?」

 シャーロックはアルセーヌを見る。

「いや、いいよ。大したことじゃないし、俺が言う」

「なんなの? まだ秘密があるの?」

「秘密じゃない。昔、事故に遭ったんだ。それで左手を失ったときに、普通の手をつけるのも退屈だから、こういう銃をつけただけだよ」

「そうなんだ」

 あまり聞かないほうがよかったことなのかもしれない。

「とはいえ、俺は左手がないのがちょっとコンプレックスでね。隠してたのはそのためさ」

 アルセーヌも完璧な人間じゃない、ということだ。

 なーんか、可愛く見えてくる。

「犬よりマシだから安心しろ」とシャーロック。

 これは笑える。確かに犬より随分マシだ。

「じゃちょっと休憩したら、出かけよう。今日中にリチャードのいる町に行きたい」

 アルセーヌは言った。


   ★


 早速だけどアルセーヌはかなりの金を持っていた。

「活動資金だ、無闇やたらに使えない」

 そんなこと言ってたけど、一年は遊んで暮らせるくらいの金だ。

 二度目だけどアルセーヌはかなりの金を持っていた。

 あたしに電報を打つために渡した一ポンドレベルじゃない。

「泥棒するんじゃないぞ」

 シャーロックに言われるまで、その気満々だったことは黙ってる。あたしは貧乏人で、例えばアルセーヌとシャーロックが持ってるような一〇〇〇ポンドとも二〇〇〇ポンドともわからないようなお金を見たことはない。あたしにとってお金っていうは、硬貨のことで、集めても数は両手で足りる程度の数字にしかならない。それがあたしのお金。

 だからアルセーヌがT型フォードを大金叩いて買ったのは驚いた。

「タイムモービルは目立つし、整備中で使えない」

 リチャードのところに行くには、選択肢が三つある。

 蒸気機関車、車、徒歩。

 三つ目はさて置き、現実的な選択肢は二つ。汽車に乗ることは不可能じゃないけど、リチャードの住むプリムスフィルに行く列車はそう都合よくやってこない。そこで残されたのは二つとなるが、実はプリムスフィルは遠い。徒歩で行くような距離じゃないので、結局選択肢は一つになるのだが、ここで問題が発生。アルセーヌの乗ってきた車はこの時代のものじゃないから、走れば一目を引くし、現在整備中。

「タイムトラベルの負荷だな。水陸両用が自慢だが、今はどちらも走れないくらいだ。動くまで少し時間がかかる」とは天才犬シャーロック氏の見解。

 というわけで、「お金で解決」となった。

「お金なら腐るほどある」

 物ごころついてから一度でいいから言ってみたいと思っていた台詞を、助手席でいった。もちろんあたしはふんぞり返ってますよ。

「俺の金な」

「いいじゃん、別に」

 アルセーヌは、金に物を居合わせて成金に車を譲ってもらったのだ。真昼間にすぐさま車を手に入れるのはそれ以外に手段はなかったし、あたしが目の敵にしている金持ちから、自慢の一台を金で奪うのは気持ちが良かった。

「運転させてよ」とあたし。

「運転したことは?」

「ないよ」

「バカ。壊すために買ったわけじゃないから」

「ケチ」

 で、あたしたちは今、リチャードの住む屋敷があるロンドン郊外のプリムスフィルっていう小さな町に向かっている。運転が苦手とアルセーヌは言ったけど、別に下手とは思わない。犬に運転させるよりよっぽど安心だ。

 場所はロンドンの中心部から一時間半くらい。優雅な伯爵たちが住みそうな、文化的な暮らしが出来る自然豊かな場所。それがプリムスフィルで、代々ホールトン家が住んでいる屋敷もそこにある。

「あのカントリーハウスか」

「そうね」

 小川、草原、小さな森、そして屋敷。ここから見えるもの全てがホールトン家のもので、かつてあたしのママが住んでいた場所。

「オスカーコートっていう名前」

 屋敷の名前だ。名前のある家に住むなんて貧乏人の生活には有り得ない。

「来たことは?」

「オスカーコートに?」

「そう」

「一回だけ」

「何しに?」

「ママが死んだから来たの。それだけ」

「アルセーヌ。一点減点だな」とシャーロックが言った。あたしの膝の上に座っている。

「ごめんな、ローレライ」

 意外に素直。プラス一点。だけど言わない。

「いいの。別に。人間って死ぬし」

「遠かっただろ」

「子供の頃だし、今よりずっと遠く感じた。それにあたし一回、行くとこを間違えたの」

 ママが死んだとき、取りあえずあたしはリチャードが住んでいると聞かされていたロンドンの屋敷にいった。目の前のカントリーハウス、オスカーコートよりも小さい家だ。ロンドンの中心部だし、しょうがないっちゃしょうがない。

 で、行ったは良いけど、そこにリチャードは居なかった。あたしは知らなかったのだ。伯爵や公爵とか呼ばれる貴族たちが、郊外とロンドン、それぞれに一つずつ家を持つのが当たり前だなんて。ロンドンで議会の仕事がある夏から秋は、中心部に構えたタウンハウスに住んで、それ以外は郊外の本邸であるカントリーハウスにいるなんて。

 正直、労働階級のあたしには家が二つなんて想像もつかなかったってわけだ。トイレが二つある家も信じられないんだから、当たり前だ。

「そんな状態でどうやって、ここに辿り着いたわけさ?」

 車中であたしがその時の失敗を話していると、アルセーヌが聞いてきた。

「ロンドンの家には執事がいたの。たまたまね。リチャードが、ロンドンにいる彼の友人に貸していた執事。それで、ロンドンに行くついでに、リチャードに言われて、夏に忘れていったカフスを取りに立ち寄ってた。で、あたしも偶然そこに居合わせた」

「ラッキーだ」とアルセーヌ。

「ママが死んだのよ。減点、二」

「ごめん。それで、現在の俺の持ち点は?」

「あんたはマイナスからのスタートだって知らないの? 未来人」

「聞くんじゃなかったな」

 シャーロックが欠伸をする。

「寝るなよ、馬鹿犬。もうそろそろ町に着くぞ」

 その通りだった。プリムスフィルの町が見えて来た。小さな町で、わたしが五年前に来た時と何も変わってない。

 なんて長閑な田舎町なんだ。


   ★


 本家アルセーヌ・ルパンは騎士道精神を持った素晴らしい紳士だ。泥棒を生業にしているのは頂けないけど、彼には芸術を愛する知性と豊かなユーモアがあって、約束は絶対に破らない。

 新聞で読んだ『本物のアルセーヌ・ルパン』の話だけど。

「遅刻する」とあたし。

 この抗議はどこまで届くだろうか。

「次は本物のアルセーヌ・ルパンだって一回くらい遅れてるよ」

「よくわかったわね」とあたし。「あんたの言うことだから、きっとそうなんでしょうけど」

「もう着くから、カリカリすんなって」

「一生着けないんじゃないかと思ってた」

「海でも渡るつもりだったの? リチャードの家は陸続きだよ。行くのは難しくない」

「海に行けるなら最高。遅刻しないならもっと最高」

「だったらもっと喜ぶべきじゃね?」

「くたばれ」

 オスカーコートの前だった。道すがら、草原の向こうに建ってるこの屋敷を見ていた時は、こんなにも遠いとは思わなかった。

 歩くと結構あるのだ。

「予告状には何時って書いたっけ?」とアルセーヌ。

「九時よ」

あたしがロンドンで打った電報。

 それで今は八時五十分。町をぶらぶらしていたらこんな時間になった。名誉の為に言っておくと、観光気分で楽しんだのはあたしではない。

 未来から来た訳のわからない奴らだ。

「あんたらはしゃぎ過ぎよ」

「謝るよ」

 門はもちろん閉じてる。九時に来る予定だった泥棒を待っている気配は外からじゃわからない。

「まぁ別にあたしが怒ることでもないんだけど」

「確かにそうだ」

 門の前で言い合いしてもしょうがないのはわかってるけど、愚痴の一つも言いたくなる。

「くたばれ」

「ここからは、ローレライの仕事だから、よろしく頼むよ。約束の時間は九時から九時半に変更で」

「九時半ね。オッケー、オッケー」

 これからあたしはアルセーヌを置いて屋敷の中へ行くのだ。

「一つ確認」

 あたしは言った。

「はい、どうぞ」

「何かあったらどうすればいい?」

 とはいえ、昨日までは普通の美少女だったあたし。上手くいくのか不安は不安だった。

「さっき話したことを思い出せ」

「なんだっけ?」

「慌てず、騒がず、言われた通りのことをすればいい」

 アルセーヌが呪文を唱えるようにいった。「ほら、呼び鈴を鳴らすよ」

「ちょっと待って。心の準備が」

 アルセーヌが扉の横についてる取っ手を引いた。呼び鈴が鳴る。

「仕事をしろよ、ローレライ」

「馬鹿。とっとと消えろ」

 あたしは肩に下げてる鞄のストラップをギュッと掴んだ。

 それからアルセーヌは「じゃまた」と走り出して茂みの中へと消えた。

「リチャード! いるんでしょ?」

 あたしは扉に向かって騒いだ。あたしのベッドよりも大きな扉だ。「リチャード! いないのぉぉ?」

 こんな馬鹿みたいに叫ぶのは初めてかもしれない。けどオスカーコートで酔っ払いみたいに振舞うのは、意外にも気持ちいい。ロンドンと違ってスモッグのない澄んだ夜空と、健やかな空気。とにかく広い草原の中でつく悪態は意外に解放感がある。

「リチャーード! あたし、ローレライ! あんたの姪っ子のローレライよ! 仕事が欲しくて来たの! 侍女かメイドにでも雇ってよ。あたし、ロンドンじゃ仕事がないの。ねぇ、リチャード! お願い、話を聞いて!」

 そのまましばらく騒いでいると、扉が開いた。二人組だった。

「なによ」

 執事じゃない。それよりも一つランク下の下僕だろう。舐められたもんだ。一応、伯爵家と繋がりがあるお方なんだけどな、あたし。

「お前、馬鹿か」

 痩せた男が言う。「なぁ、馬鹿だろ」

「五月蠅いんだよ」と続けて大男。

「連れて行け」

 あたしの顔を見て、右の細い男が左の大男に指示した。

「騒ぐんじゃねぇ」

 大男があたしの腕を掴んだ。

「ちょっとやめてよ! あたしはここの主のリチャードの姪っ子なのよ」

 中に引きづり込まれた。一応作戦成功か。「こんなことしてタダで済むと思ってるの?」

「わかった。わかった」

「あんたら、下僕でしょ? 伯爵付きの従者でも執事でもない。まだ下っ端のくせに」

「私たちは旦那様から、姪っ子のローレライについては貴族でも何でもないので丁重に扱う必要がない、と伺っているんでね」

 どうやらあたしが誰かはわかるらしい。

「あら、どうも」

「いいから来い」

 もうね、あたしに対する口調が挑発的なわけ。

「鞄、持って行って。あたしの部屋、用意してくれてるよね」

 家に入れたんだから、そうだろう。

「おい」

 痩せた男が第三の男を読んだ。さらに若い下僕だ。この屋敷は一体何人の使用人を雇っているんだろうか。前に来た時も同じようなことを考えていたな。

「鞄を客室に運んでおけ」と痩せた男が後輩の下僕に指示をした。彼は黙って従い、あたしの持ち込んだ鞄を階段の上へ運んでいく。

「ギャス。連れて行け」とさらに痩せた男。

 どうやらこの大男はギャスって名前らしい。「今夜は一つのミスも犯したくない」と細い男。指示されたギャスは、あたしの腕を掴んで「こっちに来い」と言った。

「なんでそんな乱暴なの? あたし一人で行けるから」

「だってよ、スタイリー」

 ギャスが細い男の名前を呼んだ。

「お前が悪い。いちいちキャンキャン叫ばれるようなことをするな。客間に案内しろ」

 あんたがスタイリーね。そんな感じの顔してるもん。なんか頭は良さそうだけど性格は悪そうな顔っていうのかな。つまりあたしのタイプじゃない。

「なによ。あたしはこのオスカーコートの主、リチャード伯爵の姪っ子よ」

「旦那様はお前の悪戯にご立腹だぞ」とスタンリー。

「悪戯?」

「ふん」

 含み笑い。

 こりゃ予告状のことがばれてるな。

「あのね、あたし、アルセーヌから雇われただけなの。一ポンドやるから、予告状を電報して来いって。けどアルセーヌは約束してた一ポンドをくれないままどっかに消えて。あたしほんとアルセーヌに腹が立ってるの。だからあなたたちの仲間なのよ。で、仕事がないのは本当だけど、アルセーヌについて色々議論がしたくて、ここに来たのよ。ね? わかってくれる?」

 我ながら素早い移り身だ。

 けどこれがあたしの生きる術だから、やりきる。

「ギャス、行け」とスタイリーさん。

 あー。あたしのことなんて関係ないか。

「もう行ってるよ」

 ギャス。こいつは馬鹿だ。またあたしの腕を掴んで、連れて行こうとする。

「わかったから、とっとと行け」

 客間に向かって歩き出した。

「だから掴まないでよ」

 ギャスは「うるせー娘だな」と言いながらも今度こそ腕を離してくれた。だけどすぐにまたあたしの腕を掴んだ。わかった。こいつは馬鹿だ。


   ★


 あたしについて少し話すと、泥棒は今の今まで一度もしたことはなかった。だけど男の子と遊んだことがなかったわけじゃないってのを伝えておきたい。いや、別にね、そういう方面にだらしがないって訳じゃないの。ただ純情乙女とは違うってこと。

 もちろん目の前にいる憎たらしい顔したスタンリーや馬鹿な大男のギャス、それにリチャードと浅黒い肌の秘書みたいな大人の男性たちと遊んだことはないけど、男は男に違いない。

 さらにあたしは自分がブロンドで大きなおっぱいを持ってるってことを知ってる。その二つが理由で、男たちに馬鹿にされるのは本当に嫌だけど、この二つが自分の武器になるっていうのもわかってるつもり。

 使うとなったら? もちろん躊躇いはない。ブロンドと大きなおっぱいで、あたしを軽い女だと思い込んでる男を騙すのって最高だもん。

「それで、お前はどこでアルセーヌ・ルパンと出会ったんだ? 何が目的だ?」

 一度に二つの質問を投げかけて来た馬鹿が、リチャード。あたしの家よりも二倍も三倍も広い客間で、不細工なペルシャ猫を撫でている。代々続く名門ですくすく育った末っ子長男ってのは、この男を目の前で見れば納得できた。

 つまりデブね。

「あたしがアルセーヌと出会ったのは、今朝よ。今朝。突然、声を掛けられたの」

 ママのお葬式の時よりも太ってる。

「もう一つの質問に答えてないぞ。目的は一体何なのだ?」

 リチャードはあたしの顔を見るなり、挨拶もせずに質問攻め。要は彼のところに来た電報を打ったのがあたしだって決めつけてるわけだ。予告状のことね。

 まぁリチャードの推理は嘘じゃない。勘は良いのだ。だけど認めるわけにもいかない。デブに負けを認めるのは悔しい。

「だってわからないんだもん」

 あたしが腰掛けてるソファの後ろには、下僕のスタンリーとギャスがいた。スタンリーはどうやら下僕のまとめ役のようだ。

 クソデブリチャードの横に立っている浅黒い肌の男は、あたしに頬笑みをくれる。たぶん彼がリチャード付きの従者だろう。ハンサムだけど、どこの出身だろうか。アフリカかな。こういう奴が従者なんて珍しい。ま、目立ちたがり屋のリチャードらしいっちゃらしいか。

「ロバートは?」

 たぶんあたしの唯一の味方。古株執事のロバート。ここの使用人たちの中で一番偉い。

「あいつは去年、死んだ」とリチャード。

「あ、そう」

 ちょっと不利な事態かもね。あたしの唯一の味方だったのに。

「嘘を吐いてもいいことはないぞ、ローレライ」

「あたしの名前知ってるんだ。光栄ね」

「家族だろう」

 わざとらしい。あたしのことを家族だなんて思ってない癖に。このクソデブ。

「シャヌフ」

「はい。旦那様。こちらです」

 浅黒い男が名前を呼ばれた。シャヌフっていうらしい。名前も英語のアクセントも、英国風ではない。やっぱりどっかの外国出身だろう。「こちらがローレライ・ヴェルヴェットが電報で知らせて来た予告状になります」

 テーブルの上に一枚の紙が置かれた。

 内容を見る限り、どうやら上手く届いたらしい。今日も電報システムに異常なし。

「ローレライ」

 リチャードは改まった感じでいう。「なぜこんなくだらない真似をした? 何が目的だ?」

「だからさっきも説明してるじゃん。あたしは朝、アルセーヌ・ルパンにあった。一ポンドやるから、あんたに、この内容の電報を打てって言われたの。あたしはね、貧乏なの。リチャード、あんたとは全然違う世界で生きてる。だから一ポンドの仕事だって断ることなんて到底無理。もちろん、あたしは受けた。それがこの結果。で、アルセーヌ・ルパンは消えたの。あたしに約束した一ポンドの支払いをせずにね」

「だから、ここに来たのか? それだけの理由でロンドンに住むお前がここに来ることを信じろというのか?」

「アルセーヌ・ルパンに会って、あたしは自分の親戚に伯爵がいることを思い出したってわけ。あたしは家を出て、無職なのよ。だから仕事が欲しくてここに来た。遠路はるばる仕事の口が欲しくてね。あとちょっとした警告も。あたしはアルセーヌ・ルパンに会ったし、彼の顔も見たから、変装しててもきっとピンと来る。騙されっぱなしじゃ腹も立つから、あなたの役に立てると思って来たって側面もあるのよ」

「ローレライ。私は金持ちだ。そして金持ちの友人もいる。わかるか?」

 クソデブリチャードの言っていることはわかったけど、何を伝えたいのかはさっぱりわからない。けどとりあえず「わかるよ。良い屋敷だもんね」と頷いておこう。

 こうやって唐突に話題を切り替えて、気を引くのはいかにも金持ち的な話し方で気に食わない。叶うなら鼻に一発食らわしてやりたいよ。

「金持ちってのは色んな仕事をしているものだ。例えばオクスフォード通りの土地を持っていたり、新聞社を持っていたり、鉄道会社を持っていたり、私のように優雅な暮らしを生業にしていたりもする。そんな私の知り合いの中で一人、ロンドン市警のトップに立つものがいてね。彼がユニークなやつで、つい一年前までインドにいたんだ。インドだ。わかるか?」

「インドね」

 早くポイントを話して欲しい。あれでしょ、ニコラスが錬金術失敗した場所でしょ。知ってますよ、インドくらい。

「そうインド。そこの警察にいたんだが、インドの大部分はこの国よりも遥かに遅れている。彼らは後ろを走っていることに間違いないんだが、一つだけ我々大英帝国よりも先を行くものがあるんだ。何かわかるかね?」

「香辛料?」

「ブッブー」

 どうやら不正解らしい。

「正解は?」

 話したそうなので聞いてやった。

「指紋調査だよ」

「指紋?」

 初めて聞く言葉だった。

「人の指には、その人固有の模様があり、つまりそれは決して他人と一緒ではない。そして驚くことに、その指の模様は、指が触れたあらゆる場所に痕跡を残すんだ。知らないだろう? イギリスでも既に活用は始まってる」

「どういうこと?」

 こいつは何を言っているんだ。

「この話の重要な部分がまだわからないのか?」

「この電報にあたしの指紋がついてるってこと?」

 電報なのに? へいへい、何言ってんだよ、バカ野郎~。

「違う。話のポイントはこうだ。つまり、お前がどんなに上手くやったつもりでも、必ずヘマをしているということだ。証拠は必ず残っている」

 回りくどいよ。最初からそう言えよ、クソデブ。

「あのね、あたしはね、そもそも嘘なんて吐いてないの。アルセーヌ・ルパンにあって一ポンドで雇われた。それでアルセーヌ・ルパンは一ポンドをケチってあたしの前から消えた。あたしは無色だから仕事を求めてここに来た。アルセーヌ・ルパンに一杯喰わせるつもりでね。これが揺るぎようのない真実なの。ほら、早くしなきゃ、アルセーヌ・ルパンが盗みに来るよ」

 もう二分も三分もないだろう。

「嘘を吐いても無駄だ」

「大事なものが盗まれても良いの?」

「アルセーヌ・ルパンなんて最初から居なかった、存在しなかったんじゃないのか、と私は考えている。お前が作りだした狂言だ。白状しろ。何が目的なんだ?」

 質問1に戻った。やれやれ。

「本当にいるわよ。あたしを疑うって言うの?」

 あたしはこれを繰り返すしかない。

「シャヌフ。警察にこの娘を引き渡すと言ったら、君は反対するかね?」

 リチャードは得意そうだ。

「私は反対致しません」とシャヌフ。

 冷静沈着な男だ。あたしは反対だけど。

「そういうことだ。ローレライ、予告状は全てお前が仕組んだ狂言だ。だから私は端っからそう考えていたし、だから警察もこの家にはいない。そもそも通報だってしていない。夜の九時にやって来るはずのアルセーヌ・ルパンはどこだ? どこにもいないし、まだ誰も来ない。いや、来たのは薄汚くて馬鹿な姪っ子だけだ。何も盗られていないし、何も起きていない。しかもやってきた姪は無色で、仕事をくれ、金をくれと要求してくる。それに九時だってもう過ぎて、九時半になろうとしてる。普通だったらどう考える?」

「さぁ。馬鹿にはわからない」

「一体、何が目的だ? ローレライ。ホールトン家の財産か? お前の母親みたいにヒステリックな癇癪は起こすなよ。少しの金が目的ならくれてやる。しかし、二度とこの家の敷地に入らないことを条件に、だ。シャヌフ、出してやれ」

 シャヌフはリチャードの命令に従って、サイドテーブルの上にある封筒を取った。

「五〇ポンドだ」

「安く見られたもんだ」とあたし。

 だが内心、もうこれでいいんじゃないかと思っていた。アルセーヌの馬鹿馬鹿しい計画何か忘れて、この五〇ポンドを手に入れても損することなんてない。この金があれば一年間は暮らしていける。その間に仕事を見つければいいし、そうすれば自立した生活が出来る。

「だったら倍出すぞ。シャヌフ、出してやれ」

 封筒が二つに増える。

「魅力的」

二年暮らせる。

「受け取れ。そして二度とホールトン家に関わるな」

 あたしはリチャードの顔を見る。

「まだ欲しいのか? 強欲だ」

「勘違いしないで」

「何がだ?」

「誰が受け取るっていったってこと。クソデブめ」

 ママを侮辱された。

 そんなやつに恵まれた金なんて、絶対に受取れない。

 あたしの心の火がついたのさ。

「そしたら警察だな。この予告状は立派な脅迫だ。証拠は残されている。私は伯爵だ。警察は私の思いのままに動く。お前は私を低く見積もり過ぎた。お前は終わりだ、ローレライ。全く親子揃って馬鹿な奴らだ」

 そのとき時刻が午後九時半を回った。客間の柱時計が、ごーんごーんと音を鳴らす。

 アルセーヌと約束した時間だ。


   ★


「誰か! 誰か来てくれ! アルセーヌ・ルパンが来た!」


   ★


 声がした。助けを求めて完全に切羽詰まってますっていう声。

「どうした!」

 扉の向こうからだ。

「奴が来た! アルセーヌだ! 女の持ってきた黒い鞄に犬が入ってて、それで!」

 ニックとギャスが走り出し、客間の扉を開いた。

 ボロボロの服で膝を突き、肩で息をして俯いている男がいた。膝と腕には生々しい噛み痕がある。

「さっきの鞄がどうしたって?」

「あの、ミス・ローレライの鞄の中に犬がいたんです」

「犬?」

 シャーロックのことだ。今更気づいても遅い。あたしと一緒に泥棒一味は潜入していたのよ。

「凶暴な犬です! そいつが暴れだして、それで窓を割って、そこから男が入ってきました!」

「くそ! 行くぞ、ギャス。金庫だ!」

 ニックは走り出した。「お前もだ」

 報告に来た部下と三人で駆けだす。たぶん、もうシャーロックがアルセーヌの侵入を手引きして、金庫から目的の品物『賢者の石』を盗みだしているはずだ。

「ローレライ、お前の仕業か」

「時間稼ぎが仕事だったの。ごめんね」

「シャヌフ、こいつを捕まえろ!」

 デブのリチャードがやることなんてお見通し。ここであたしだけが取り残されることも、ちゃーんと計算済み。「この女はアルセーヌ・ルパンの一味だ。人質にしろ。見殺しに出来まい」

「そうですね、旦那様」

 シャヌフの不敵な笑み。

 認めるよ。デブのリチャードは頭の回転が速い。あたしを人質にするつもりだ。シャヌフが腰に差していたナイフを抜き、あたしに近づいてくる。

「殺す気?」

 ほっといてもあと一週間以内で死ぬらしいあたし。もしかしてそれって今かも。

「必要とあれば傷つける」とシャヌフ。

「こいつはエジプトの軍人だったんだ。その経歴が気に入ってね。エジプトに旅行に出た時、連れて帰ってきた。今では従者兼ボディーガードだよ」

 リチャードの膝の上にいたペルシャ猫は床に降りる。

「知らなかったって言ったら信じれくれる?」

「私は女子供だからと言って容赦はしない」

 確かにその通りっぽい。

「ごめんね、シャヌフ」

 けど、あたしはだって武器は持ってる。

 この大きな胸の谷間にね。

「動かないで。動くと撃つよ」

 ソファから立ち上がる。

 リチャードもシャヌフのあたしが谷間から抜いた拳銃が気になってしょうがないみたい。「どこ見てんのよ」

 骨抜きよ。

「シャヌフ、ナイフを降ろして」

 さすが軍人。判断が早い。ナイフは金属音を立てて、床へ落ちた。シャヌフは両手を上げて、降参の意思表示をする。

「あんたもよ、リチャード。さ、立ちあがって両手を上げるの。それでそのまま向こうの壁際に行って、あたしに背を向けるのよ」

「小娘が。こんなことして――」とは言いながらも、意外に言うことを聞いてくれる。

「シャヌフもそっちへ」

 自分がハイになっているのがわかった。怖くて何も出来ないんじゃないか、パパにあったとき見たいに威勢のいいことを考えてるだけで、何も実行出来ないんじゃないかって心配だったけど、そんなことないみたい。

 銃って最高。

 一発撃ってみたいけど、これ以上騒ぎを大きくする必要もないので、あたしはリチャードとシャヌフを壁の向こうに行かせると、客間の外に向かって走り出した。

 後はここから外に出るだけだ。とにかく走って、走って走りまくらないと。

「ごめん、どいてー」

 大理石の通路で混乱するメイドたちの間をすり抜ける。

 あともう少しで玄関だ。そこを出れば、もう外だから、逃げたも同然。後ろを見る。シャヌフが走って来てる。リチャードはデブだから走れないんだろう。

 残念な奴らね。あっはっは。

 あたしはイーストロンドンで一番足の速い女の子なのよ。

 巨乳だから足が遅いと思ったら大間違い。

 あたしは玄関の扉を開ける。外に出た。

「やぁ、ローレライ」

「アルセーヌ」

 え。なんで。

 どうして、ここにいるの?

「外に逃げて、村の廃屋で落ち合うはずでしょ?」

「それがさ――」

 バツの悪そうな顔。

 嫌な予感。

「ママの宝石は? 『賢者の石』はどうしたの?」

「それならあるよ」

 アルセーヌの右手には、確かに心臓の形をした宝石があった。アルセーヌの左胸に埋まっているものと同じだ。

「シャーロックは?」

「計画通り。俺を屋敷に引き入れて、入れ替わりで犬の真似して出て行った」

 犬の真似って、あいつは犬だし。

「だったら、どうして逃げないの?」

「困ったことがあってね」

 諦めている風でもある。

「シャヌフが来ちゃう」

 後ろを見ると、すぐそこだ。早く走りださなきゃ捕まってしまう。

「いや、彼と話し合う必要がある」

「どうして?」

「ローレライ、これは俺のミスでもあるんだが――」

「なに?」

「少しリチャードという男を見くびっていたよ」

「なに? あたしがいけないの?」

「クリフが捕まってる」とアルセーヌ。

「あぁ、うっそ」

 クリフが、ここに――。

 そういえば家に戻ったとき、パパがどこかに出かけて行ったと言ってた。どこに行くかなんて深く考えなかったけど、まさかクリフはここに来ていたのか――。

「ミス・ローレライ。それにミスター・アルセーヌ」

 シャヌフの声はよく響いた。自信に充ち溢れている。広い玄関で、勝ち誇るのって最高な気分でしょうね。

「どうして逃げないのですか?」

 シャヌフは最初からわかっていたに違いない。だからあたしを問答無用で叩きだすのでなく、わざわざ客間に通して尋問なんてしたんだ。「さぁ、どうぞ走り出して下さい」

 クソ。弄ばれていた。罠に嵌めたつもりが、あたしたちは全員相手の思う壺だったわけだ。

「クリフを捕まえたってほんとなの?」

 誰も何も言わないから、あたしが聞く。

「もう知っているのですね」とシャヌフ。「私から話そうと思ったんですが」

「あんたの部下が俺たちに話してくれたよ。ローレライの弟を捕まえてる、ってね」

 アルセーヌはあたしを見る。

 正直、見ないで欲しい。あんたたちのせいで、弟が捕まったようなもんだ。アルセーヌが事件に巻き込んだから、クリフは。

 シャヌフは指を鳴らす。

 ニックとギャスが、奥から現れる。二人の間には、両手を前で縛られたクリフがいた。

 可哀想に。まるで犯罪人みたいな扱いじゃない。

「ほら、さっさと歩け」とギャス。

「クリフ――」と声が漏れた。

「本当に泥棒してるんだね、ローレライ」

 クリフは苦笑い。ちょっと見ない間に、また痩せた。

 皮肉をいう余裕があるのは救いだけど、身体は本当に辛そうだ。自由を奪われて、一日中監禁されていたんだろう。呪われているのに、そんな環境にいたんだから当たり前だ。

「ごめん」

 あたしはシャヌフを見る。

「どうして弟がここに?」

「彼が私に連絡を寄こした。姉を助けて欲しいと。伯爵の私が紹介状を書けば良い仕事につけるはずだ。だから手を貸して欲しいと連絡を寄こしてきたんだ」

 追いついてきたリチャードがいう。

 なんてことだ。

「最初、彼とよく話す必要があると思った。もちろん紹介状は書くつもりだったが、ヴェルヴェット家の状況を知る必要がある。仕事を得る上で紹介状は全てだ。だがそれは、紹介をする私にも責任が生まれる。本当にこの風習は嫌いだよ、早く消えて欲しいが、今の世の中じゃなかなかそうもいかないだろう。まぁ私の愚痴はいいな。それで私は下僕を使い、クリストファー君を迎えに上がらせた。ローレライ、君の状況をよく聞くためにね」

「なるほど」

「そしたらだ。クリストファー君がこの屋敷に着くと当時に、電報も届いた」

 同時には着かなかっただろう。たぶんクリスのほうが後のはずだ。クリスが助けを求め、リチャードが迎えに行かせ、あたしが電報を打ち、屋敷にそれが届いてから、クリスがここに着いた。

「あとは馬鹿でもわかるよな? 最後にお前が来たんだ。これだけ奇妙なことが連続すれば、おのずと真実は見えてくるし、どう立ち振舞えばいいのかもわかる」

「あたしたちを嵌めたんだ」

「私は、あのアルセーヌ・ルパンを捕まえるのが自分だと思うと、不覚にも興奮してしまったよ」

 こいつは偽物だっつーの。

「変態」

「褒め言葉として預かろう」

「弟はこの件に関係ない。お願いだから、離してあげて」

「そーだそーだ」とアルセーヌ。

「ふざけないでよ!」

 イライラするな、もう。

「旦那様、ここからは私が賊の相手をしましょう」

「それではよろしく頼むぞ、シャヌフ。くれぐれもな」

 リチャードは背中を向けて、消えていく。

「関係のない弟は離してよ」とあたし。

「関係ない? ミス・ローレライ、冗談も休み休み言うべきです。あなたは泥棒で、この男は泥棒の弟だ。そして我々は被害者で、この男は加害者の弟だ。我々はですね、ミス・ローレライ、あなたの弟、ミスター・クリストファーと関係があるのです。たっぷりとね」

 それからシャヌフは「おい、やれ」とニックに命令した。するとニックはギャスに「一発かませ」と指示をする。最終的にギャスは、クリフの脇にパンチをお見舞いした。

「やめて!」

「おっと、動いては駄目ですよ。ミス・ローレライ。動いたら、君の弟は赤い血を流すことになります」

 シャヌフはナイフの刃をクリフの顎にぴったりとくっつけた。

「ねぇ、アルセーヌ。何か手立てはないの?」

 このままじゃクリフが殺されちゃう。呪いで死ぬ前に、ナイフで殺される。そんなの本末転倒過ぎる。

「ないね」

「マジで?」

 絶体絶命じゃん。

 落ち込むし、焦るし、もう泣きたい。

「ちょっと聞いてみようか」とアルセーヌ。「あんた、目的は?」

 シャヌフに尋ねている。

「まず『その石』を返して頂きましょうか。それは旦那様の所領に当たる」

 所領って何だよ。何だよ、その言い回し。なにそれ、貴族用語。庶民の言葉で喋ってよ。

「まず? そしたら弟さんを解放してくれるのか?」

「もちろん二つ目の要求があります」

 シャヌフは強欲。だけど有能だ。だからエジプト出身なのにリチャードの従者になれたんだろう。

「おい。こっちは宝石一つしか借りてないぞ」

「私たちは馬鹿ではないのです。貸したら、利子をつけて返してもらう流儀なのでね」

「あんた、どこの出身だ。アクセントが変だ」

「エジプトだ」

「納得。心が砂漠って感じだよ。それで、もう一つの要求はなんだ?」

「盗みです」

「盗み?」

 なんか意外な展開。盗みなら今失敗したばっかりなんだけどな。

「ガットマン公爵の家から『黒い鳥の彫像』を盗みだして欲しい。そうすればミス・ローレライの可愛い弟は解放しましょう」

「おまけに『この宝石』もつけろ」

「よろしい」

 お、案外簡単に要求が通ったぞ。

「で、そのガットマン公爵って?」とアルセーヌ。

 あたしも知らない。

「新聞を読まないのか?」

「未来日付のもんしか興味ないんでね」

「ガットマン公爵はイギリス王室と繋がりのあるお方だ。そしてそのご夫人のエミール様もまたベルギー王家と繋がりのある。これだけで十分だろう?」

「そこの『黒い鳥の彫像』を盗めって?」

 なんか気持ち悪い。

「そうだ。黒いペンキとエナメルを何層にも塗られた『黒い鳥の彫像』だ。大きさは六十センチほどだろう」

「盗めば全て解決か?」

「今回の件は不問にします」

「悪くない条件ではある」

「あなたはアルセール・ルパンでしょう?」

「その通り」

 アルセーヌは嘘を吐いた。本物は別にいるっていうのに。「俺は盗みのプロだ」

 だけど今は突き通すしかない。

「腕を見込んで頼んでおります」

「意外に礼儀正しいね」とあたし。

 しかし話の方向が何かおかしい。

「やりますか? それとも今回は辞退ですか?」

 シャヌフが言った。

「選択肢は一つしかないくせに」

 アルセーヌは持っていた『賢者の石』をシャヌフに投げる。「これが答えだ」

「よくわかってる」

 シャヌフは受取り、私たちに「ついて来て下さい」と言った。

「よかったの?」とあたし。

 自分のせいで盗みの計画が失敗したことに気付いた。少し反省している。

「君の弟を取り戻すのが先決だ」

「アルセーヌ――」

「気にするなって。俺は優しいんだ。そんじょそこらのホムンクルスとは違う。『賢者の石』の血が通った優しい男なのさ」

 そんじょそこらに未来人はいないけど、優しさは本物だ。

 あたしたちは歩き出した。負けたんだ。

 作戦失敗っと。


   ★


「まず。ローレライ。クリストファーは大事な人質だ。我々が依頼する仕事が片付けられるまで、こちらで預からせて貰う」

 再び客間。リチャードはソファに座り、またペルシャ猫を撫でているし、相変わらず太ってる。「よろしいか?」

「三食付けてあげて。それに甚振るような真似はしないって約束して。あの子は病気なの」

 デブのくせに偉そうに。

「それはお前たち次第だ」とリチャード。

「絶対に約束してくれなきゃ嫌」

「うるさい姪っ子だな」

 あたしたちもソファに座っていた。さっきは一人でここに座っていて、今はみんなで座っている。本当なら今頃はテムズ川のほとりでも歩きながら、アジトの倉庫に向かっているはずなのに。いや、それを言うなら、本当のあたしは貴族の生まれで、寄宿舎付きの名門女子校に通っているはずだ。言い過ぎか。

「じゃあとはアルセーヌと話して」

「俺に振るなよ」

「あんたの分野じゃん」

「はいはい。じゃ太っちょのリチャードさん、話をどーぞ」

 もっと太ってるって言ってやれ。

「お前ら五月蠅いな。デブは関係ないだろ」

 猫を撫でていたリチャードの手が止まる。体型を気にしているようだ。

「静かにするからこのアルセーヌにお話をしてよ」

 おどけるアルセーヌ。

「その前にアルセーヌ。お前はは面白い左手を持っている」

「わかりました?」

 誰でもわかるわ。左手が鍵っておかしいだろ。

「義手か?」

「少し金を掛けて作りました。鍵の義手なんて泥棒にぴったりでしょう」

「仕事が出来ればどうでもいい」

 それからアルセーヌは一枚の手紙を取り出した。今度は予告状じゃない。

「招待状?」とあたし。

「その通り。これはガットマン公爵が、夫人との結婚十一周年を記念して行う舞踏会の招待状だ。もちろん私も出席する予定でいる」

「十一? 切りが悪い」

 あたしは言った。「何か意味でもあるの?」

「去年の春、タイタニック号が沈んだ。お前もそれくらいは知っているだろう、ローレライ。ガットマン公爵夫妻の従兄弟も乗り合わせていたのだ。喪に服すため、十周年の舞踏会は延期。喪が明けた十一周年の今年に晴れて開催となったのだ」

 リチャードは「本当に何も知らないのだな」と小声で付け加えてきた。聞こえてるんだけど。

「そこに俺たちにも出ろってことか?」

 アルセーヌは出されたお茶に口をつける。

「あたし踊れない」

「そういう心配?」とアルセーヌ。

「え? 違うの?」

 あたしたちのやり取りの何かが面白いのかリチャードは笑う。デブのくせに。

「踊る必要はない、ローレライ」

 あ。馬鹿にされてる。なんか気分が悪いな、もう。「大切なのは、その招待状があれば怪しまれることなく君たちは城に潜入できるということだ」

「黒い鳥がそんなに欲しいってか。どうして?」

「それは知る必要ない」

 ピシャリとリチャードは話を切った。「アルセーヌにローレレイ。お前ら二人は『黒い鳥の彫像』を盗みだすことだけ考えていればそれでいい」

「なるほどね」

「舞踏会は明日の午後八時から。ウィンブルドンにあるガットマン公爵の城で行われる」

「わかった。盗んで来るよ」

「その左手で踊れるのか?」

 さっきは踊る必要ないとか言っただろ。何言ってんだ、こいつ。自分に酔ってんだろ。

「踊りは自由参加だろ」

 そうだ。私たちに選択肢はない。行くしかないんだ。

「よし。話は決まりだ」

「待て」

「なんだ?」

「用意して貰いたいものがある。それを用意してくれ。仕事がスムーズに行く」

「わかった。何でも言ってくれ」

「話が早いじゃん。耳を貸せ」

「どうしてだ?」

「そういうもんだろ。こういう話は。わかってないな~」

 それからアルセーヌはクソデブリチャードに耳打ちをした。

「なるほどな」

 リチャードは頷いた。「簡単だ。すぐ準備する」

「タイミングが重要だからな」とアルセーヌは念を押した。


   ★


「悔しくないの?」

 あたしたちは解放された。屋敷の客室をあてがわれたけど、アルセーヌが拒否をした。「毒でも盛られたら大変だ」と。まぁあたしも賛成だ。これ以上はリチャードと同じ空気を吸っていたくない。

「怒るなって、ローレライ。巨乳がぷるんぷるんだぞ」

「そんな風に怒ってないし」

 大声を出そうとすると揺れることもある。だけど揺らしたくてそうしてるわけじゃない。

 あたしたちは村の外れにある廃屋にいた。蝋燭に火をつけて室内を照らす。

「そんなとこばっか見ないで」

「本能だから」

「その本能、ポンコツよ。作戦失敗した癖に」

「そういう台詞、まじ傷つく」

「あたしも同じ」

「わかった。ごめんごめん。悔しい、悔しいよ」

「嘘。あたしは悔しいし、すごい心配で堪らないのに、そんな余裕ぶって。マジむかつく」

「クリフのことなら安心しろ。シャヌフは馬鹿じゃない。殺したりなんてしないさ」

「そんなのわからないじゃない」

 一応、三食つける約束は取り付けたけど、そんなのが信用できないことくらいわかってる。あたしはまだ未成年だけど、大人について何も知らないわけじゃない。この世の中には、本当に残忍で狡猾で他人を物のように扱う人間がいるってことくらいわかってる。

「ローレライ、俺が見えるか?」

「は? 何言ってるの?」

 ガンガンに見える。

「俺は、クリストファー・ヴェルヴェットの子孫だ。だからクリフが死ねば、俺は消える。つまり俺がローレライに見えてる限りは、クリフは生きているってことだ」

「生きてるけど、心配じゃん」

 劣悪な環境にいるかもしれない。

「それは少しの我慢だ。大事なのは今、俺たちが自由ってことだ。まだチャンスは残されてる」

「チャンスってなによ」

「『賢者の石』を盗むチャンスさ」

「盗みを失敗したのに? ふーん。聞いて呆れるね」

「計算が違った」とアルセーヌ。「不可抗力だ。必ず手に入れて、クリフを助ける」

「必ず盗む? あのね、あたしはもうそんなのどうでもいいの」

 ママの忘れ形見には違いない。けど、それよりもクリフのほうが大事だ。「ハッキリ言うけど、あたしはこんなことしたくない」

「本音を言うなよ。クリフが死ぬぞ」

「縁起でもないこと言わないで。あたしは『賢者の石』とかじゃなくて、クリフが大事なの」

「そのクリフを守るには『賢者の石』がいるんだ」

「もー面倒臭い」

 頭がこんがらがる。

「怖いなー、もう」

 失礼しちゃいます。全くもう。

「ごめん。ごめん」

「いっつもそう。そうやって謝れば済むと思ってるでしょ」

「思ってるよ」

 こいつ悪びれずに言いやがる。

「少しはさ、そういう態度改めたら?」

「そんな気はさらさらないね」

「あんたみたいな嘘吐きはそうでなくちゃね」

「幾らでも言えよ。気が済むまで」

「あー。今度はそういう感じで来るの。ほんとむかつくな」

「もう寝よう。肌に悪いだろ。明日は仕事だし、備えよう」

 確かに今日一日は歩きまわったし、盗みなんて慣れないことをしたせいか、神経をすり減らしてしまい疲れている。

「今夜はここで寝るのか」

 計画通りに事が運んでいたら、もっと優雅な気分でいられただろうに。それが昨日と全く同じ状態。いや、弟を人質に取られたから、もっと最低な状態で、今度は倉庫でなく廃屋に宿泊なんて。

 最悪。

「外で寝ても良いけど」

「くたばれ」

 一応、ベッドの残骸らしきものはあるが――。

 すごく汚い。とりあえず今日は床で寝よう。まだマシだ。

「もう」

 こんな夜は早く寝るに限る。やってらんねー。蝋燭の火を吹き消した。「おやすみ!」


   ★


「置いていくよ。一応、サインだけ貰えるか」

 専門の仕事をしている人間には思えない。この仕事のためだけに雇われた男に違いない。よれよれのコートに汚れたハンチング。顔色は悪いけど、なんか悪巧みばっかりして挙句の果てには損ばかりしてるような顔した男だった。「サインと引き換えに金が貰えるんだ」

「そう。ありがとう。これでいい?」

「オッケー」

 すぐに男はあたしたちのいる廃屋から消えた。扉とも言えないようなボロい木の板が閉まる。あたしの足元には、大きな木箱が残った。差し出し人も宛先もない。そもそも伝票なんてものがついていない木箱だ。

「届いた?」とアルセーヌ。

「見ればわかるでしょ」

「あ、なるほどね。ミス・ローレライは力持ちを探しているということか」

「あたしお皿より重い物は持たない主義なの」

「自分はどの階級の出だ?」

 アルセーヌが木箱を持ちあげてくれる。悪気はない。ただあたしをからかっているだけだ。

「労働階級」

「労働。労働ってことはさ、働かなくていいの?」

「うん。いいの。女だからね」

 女は便利だ。たまに男が可哀想に思えるときもある。本当にたまにだけど。


   ★


「わぁ! なにこれ」

 木箱には普通の女子なら一度は憧れるようなドレスが入っていた。「これ、どうしたの?」

「リチャードに頼んで用意して貰った」

 アルセーヌは木箱を漁っている。

「サイズは?」

「着ればわかるよ。手伝おうか?」

「途中までは一人で出来るから」

 鼻の下が伸びてるっつーの。「けど後ろを止めるときだけお願い」

 コルセットも入っていた。

「マジで? それで十分」

「最悪。後ろ向いてて」

「十秒でいい?」

「馬鹿。呼ぶまで壁を眺めてろ」

「少しはサービスしろよ」と言いながらもアルセーヌは背中を向ける。


   ★


 アルセーヌがリチャードに用意させたのは、エメラルドグリーンのドレスだった。オーソドックスなスタイルで、少しだけきつかったけど、着れないわけじゃない。

「もう少し派手なのが良かった」

「泥棒は目立っちゃいけない」

 今は後ろのボタンを止めて貰っている。「終わったよ」

 背中をぽんと叩かれた。

「鏡は?」

「手鏡が入ってる。それを使え」

 シャーロックが言った。

「小さいんだけど」

「我慢しろ」

「似合ってる?」とあたしはシャーロックに尋ねる。

「なかなかなもんだ」

「ありがとう」

 小さい鏡で自分の姿を見た。ブロンドの髪に産んでくれたママに感謝しなくちゃいけない。

「アルセーヌは、あたしのことどう思う?」

「ファンタスティック。左手が鍵じゃなかったら踊りに誘うね」

「サンキュ」

 褒められたのだ。嬉しいに決まってる。

「じゃ俺たちも衣装に着替えるか」

「正直、気が進まないな」

「おいおい。仕事だぞ。気分じゃないんだ」

「お前はいいよ、アルセーヌ」

「俺は『人間』だからな」

「クソ。どうして俺は犬なんかに」

「運命を呪えよ。ほら、衣装だ。シャーロック」

 アルセーヌは木箱から首輪を取り出した。「一人で付けられるか?」

「出来るよ。よこせ」

「リードもあるぜ」

「それをつけたら、俺はお前を一生恨む」

 シャーロックが首輪を装着した。

「丁度、一生恨まれたかったんだ」

 アルセーヌは片手で器用に首輪へとリードを結んでやった。

「こんな屈辱――。お前も着替えろ、アルセーヌ」

 シャーロックは震えていた。寒いからじゃない。悔しいのだろう。

「これよ」

 あたしは衣装を放った。

「似合うかな」

「お似合いよ、今すぐ着替えるべき」

 タキシードだ。

「どう?」

 着てからアルセーヌが見せびらかしてくる。

「ちんちくりん」

 嘘だ。予想通りに、よく似合う。


   ★


 午後七時のちょっと手前。廃屋に馬車がやってきた。

「一応、サインをいいかな」

 木箱を持ってきた男が今度は馬車の運転手だった。ハンチング帽は変わらないけど、それに相応しい上等なキルティングのコートを着ている。着ている服でなんだか雰囲気が変わる。カメレオンみたいな男だ。「本来は君たちを届けてから貰うべきなんだろうけど、やっぱ先にね。心配性なんだ」

「その気持ちわかる。これでいい?」

 サインした。

「オッケー。それじゃ後ろに乗って。目的地まで送るよ」

 あたしは扉を開いた。「行こう、アルセーヌ」

「うわ。どうしてあんたが?」

 シャヌフが中にいた。

「お見送りです。ミス・ローレライ」

「そう。じゃもう済んだでしょう」

「そうですね」

 シャヌフと入れ替わりで、あたしたちは馬車へ乗りこんだ。

「薄気味悪い奴だな」

 本当にたった一目見に来ただけなのだろう。町の夜道に突っ立って、あたしたちの乗った馬車を見ている。

「リチャードの従者だもの。変わってるのよ」

「それじゃローレライ、少し打ち合わせでもするか」

「好きに話して。あたしコルセットきつくして死にそうだから」

「今夜、俺は君の従者だ」

「よろしく頼むわ、アルセーヌ」

 貴族っぽく鼻もちならない喋り方をしてやった。

「ただ女に従者がつくのはおかしい。普通は侍女。覚えてる?」

「その点なら問題ない。覚えてるから任せてよ。怪しまれたら、侍女が病気になったって言う。そこで父親が友人同士のリチャード伯爵から執事を借り、従者にした、と」

「で、あたしはどこ出身だっけ?」

「覚えろよ。南西部のダウントン」

「そんな町聞いたことない」

「驚いた。ローレライ、君でも知っていることがあるんだ」

「どういうこと?」

「そんな町は存在しない」

 それからアルセーヌは続ける。「いいか、ローレライ。社交界は一種のゲームだ。誰もが誰もに無関心だが、誰もが皆、周りの人間は自分のことを見ていると考えてる。上手く立ち振舞ってくれよ」

「あんたこそ。知った風な口利いて」

「俺は予習してきてる。大丈夫だ。これでも教育を受けてきた」

「未来人のくせに」

「お嬢様、少しお口を慎みなされるべきかと」

 アルセーヌは笑った。「どう? 本物の従者みたいじゃない?」


   ★


「やっぱ揺れるのね」

「馬車だからね」

 アルセーヌは澄まし顔だ。

「ロンドンに居た時も相乗りの馬車には乗ってた。ぎゅうぎゅう詰めでゆっくり進む。貴族とか商売人が乗ってる馬車はもっと優雅なものだと思ってたの」

「馬は馬だろ。どの階級を乗せてるかなんて関係ない。貴族を乗せた馬の糞から優雅な香りがするか?」

「しない」

「馬糞は馬糞」

「あたし舞踏会の前にこんな話するとは思わなかった」

 ちょっと呆れる。「あとどれくらいで着くの?」

 一時間くらいか。正確な時間は測ってないからわからないけど、移動を始めてたぶんそれくらいになる。

「そろそろでしょう」と手綱を持つ男の声。

「なぁローレライ」

「なに?」

「どうして『黒い鳥の彫像』を盗むんだと思う?」

「理由は言わなかったわね」

「今回の件、それって重要だと思うんだよ」

「けどあんただって、最初は『賢者の石』を盗む理由を碌に説明もしなかった。左手のことも隠してた」

 正直、今でもよくわからない。

「それはね。俺の問題だから。今はさ、別の問題。リチャードが欲しがってる『黒い鳥の彫像』の問題ね」

「それじゃ裏があるとは思ってるってわけ?」

「そういうわけ。まぁものを見ないことにゃわからないよ。黒い鳥っつてるけど、豪華絢爛、眩しいくらいの宝飾品が埋め込まれた彫像だったら、欲しがるのも無理はない」

「だけど本当にただただ『黒い鳥の彫像』だったら、どうして欲しいのか理解に苦しむって話だ」

「俺たちには盗まないって選択肢はない。絶対に盗む。計画も覚えてるだろ?」

「もちろん」

「だけど、どっか俺は引っかかるんだよ」

「アルセーヌ・ルパンを名乗ったと思ったら、今度はシャーロック・ホームズ気取りだ。それは相棒の犬じゃなかったの?」

 これ見よがしに口調を真似してやった。「どっか俺は引っかかるんだよ。ってもう」

「そんな風には言ってない。もっとナチュラルに俺は言ったね」

「あんたが賢いのはわかったわよ」

 そのとき「着きました」と前から声がした。

 馬車が止まる。

「先に降りるよ、従者の務めだ。ミス・ローレライ」とアルセーヌ。

「あ、ありがとう」

「そんな驚いたようなお礼はこれからは必要ありません。あなたは貴族、ミス・ローレライ。私はその従者なのです。さぁ」

 アルセーヌがステップを降りた。手を借り、あたしも馬車から外に出る。

「ミス・ローレライ、初仕事ですよ」

 そこには城があった。門は開かれ、ガットマン公爵の家族と使用人たちが並んで、お客を出迎えている。「堂々と歩いて」

 アルセーヌは耳元で囁いてくる。「一番右のお方がガットマン公爵だ」

「わかった」

 接近する。「任せなさい」

 使用人の一人が客人に駆け寄り、手持ちの電気で足元を照らしてくれる。リチャードの家と同じだ。貴族はローソクはあまり使わないのか。

「始めまして。ガットマン公爵。この度は無理を言ってしまい申し訳ございません」

 先制パンチだ。

「どうも、え――っと――」と戸惑うガットマン公爵。ごめんね、突然着ちゃって。

「ローレライ・ヴェルヴェットです。ダウンピートから参りました。従兄弟のリチャード・ホールトンに会いに来ていたのですが、今夜でこちらで舞踏会が開かれると聞きまして。リチャードから、公爵に私のお話が言っていると思うのですが――。こちらが招待状です。リチャードが自分の分のを私に。なので彼はこの招待状なしで来ます」

 頬笑みを忘れずにね。

「伺っておりましてよ、ミス・ローレライ。お会い出来て光栄です」

 ガットマン公爵の嫁。名前はエミールだっけか。この人は頭が切れるみたいだ。

「光栄です」とアルセーヌが丁寧に頭を下げる。

「さぁ。ミス・ローレライ。どうそ中へ」

 ここでガットマン公爵もスイッチがオンになったらしい。

 こうしてあたしたちは無事、潜入完了したわけだ。

「どうだった?」

 城に入るとアルセーヌに感想を求めた。

「百点だ」とアルセーヌ。

 案内された広間には、あたしが今まで一度も会ったことない上流階級の人々で埋め尽くされている。

 煌びやかなドレス。それにしっかりと仕立てられたっぽい背広。楽団が音楽を奏でて、目のやり場に困るほどに装飾された天井、壁、暖炉。それにテーブルの上に並んだ料理と、持ちつけてある銀食器。あたしたち労働階級でこれだけの人数が集まれば、絶対に酔っ払いがいるし、絶対に口論してるやつもいるし、絶対に殴り合っているやつもいるっていうのに、全員が和やかに談笑をしている。

 何なんだろう、この空間は。

 異空間とはこのことだ。

「光栄です。ローレライ様。何かお飲物をお取りしてきましょうか?」

「そうね。よろしく頼むわ」

「畏まりました」

 なんだか自分を錯覚しちゃいそう。これに慣れたら人間駄目になる。

「ローレライ様。こちらを」

「ありがとう、アルセーヌ」

 何が、ありがとう、アルセーヌ よ、ローレライ。あんたはイーストロンドンの韋駄天娘だったでしょう? それがどうして作り笑顔でグラスを受け取ってるの。

 三日前のあたしが一番嫌いな部類の人間に成り下がってるじゃない。

「そろそろでしょう」

「何が」

「舞踏会が始まるのです」とアルセーヌ。

「なるほど」

 まだ何も始まっていなかったのか。「驚きね」


   ★


 あたしは普通の女の子っていうのが、泥棒になったあたしの拠り所だった。アルセーヌがリチャードの家に盗みに入ると行ったときも、実際に盗みに入っているときも、あたしは普通の女の子であって、泥棒は腰掛け、って自分に言い訳していた。

 で、美しいドレスを着て、貴族の集まる舞踏会に来て、この世界に染まっちゃいけない、そう思っている今のあたしは一体何を拠り所にしているかというと、それは泥棒ってこと。

 あたしは泥棒。だから大丈夫。

 全く訳のわからないことだけど、そうやって音楽となーんかゆったりとした踊りで充満された広間で、壁の花を演じてるってわけ。

「いかがですか?」

 知らない男が声を掛けて来た。彼がこっちに近づいてくるときから一つだけ知ってたことがある。「踊りませんか?」

 ハンサムな男ってこと。

「すいません。今朝、転んでしまって」

 おほほほ、とでも言いながら笑えばいいのだろうか。とにかく、ハンサムな男は「申し訳ありません。事情を知らずに」と言いながら立ち去った。

 消え方もエレガントだ。教科書でもあるんだろうか。

「踊らないのですか?」

 アルセーヌが意外そうな顔をした。さっきからこの口調だ。やめて欲しい。あたしを馬鹿にしている。「今、ミス・ローレライを誘われたのはパトリック・ハメット伯爵です。家柄も申し分ないし独身。踊ってみてもよかったのでは?」

「詳しいのね」

「何でも知っていると申し上げたはずです。未来から来たかのように」

 アルセーヌの趣味の悪い笑み。

「いいの。踊っても無理よ。だってあたしは貴族ごっこしてる泥棒だもん」

「なるほど。確かに」

「それに踊れないし。奇跡は起きないの」

 少し妄想した。

 ロミオとジュリエットの逆みたいなもん。

 例えば、ここであたしがパトリックと華麗なダンスをする。そりゃ華麗ね。パトリックは若くて魅力的で貴族で(ここは重要)ダンスもうまいあたしに一発で恋に落ちる。その後、アルセーヌとあたしたちは『黒い鳥の彫像』を見事に盗み、とんずら。パトリックはあたしが泥棒と知らずに、事件のあった舞踏会で出会った女を必死に探す。そんな中、偶然立ち寄った貴族なんて絶対に来ないイーストロンドンの労働階級者がひしめくパブであたしと奇跡の再会!

 色々端折って、二人は結婚。

 めでたし、めでたし。

「嫌んなる」

「なにがでしょう。ミス・ローレライ」

「現実」

「私もです。そろそろ仕事の時間です」

 アルセーヌはあたしに顔を近づけて、誰にも聞かれないようにそっと「リチャードが早く取り掛かれとこっちをずっと見てる」と呟いた。

「そうね。行きましょう」

 遅くなる前に動き出さなくてはいけない。

 丁度、エミール夫人が一人になった。

「ごきげんよう、ミセス・エミール」

 近づいた。緑色の瞳と茶色い髪。鼻が鷲のように伸びている人だった。

「あら、ミス・ローレライ。楽しんでいらっしゃる?」

「えぇ。とても」

「それはよかった」

「あの――、ミセス・エミール。少しお話させて頂いてもいいかしら?」

「どうぞ。何かご用命でも? 何なりとお申し付けください。執事に用意させますよ」

 良い人そうでよかった。この舞踏会が上手くいくことに気を遣っている感じがする。

「実は私、美術に興味があるのです。少し恥ずかしいのですが、アメリカの大学にも通いました」

「まぁ、ミス・ローレライ。大学に?」

 イギリスの貴族は大学なんていかない。ましてはアメリカなんて絶対に行かない。

「女性の社会進出ってやつです。ここでは秘密にして下さいね」

 貴族が働くのは、同じ貴族からしたら、品位を損ねる行為だし、女性のあたしが大学に通ったり、アメリカに留学するのも同じこと。

「なるほど。だからあまりあなたのお話をリチャードから聞かなかったのね。ミス・ローレライ。私にもお話はわかります。少しずつ、我々を取り巻く環境はかわってますものね。アメリカに居たとなれば尚更、それは強く感じることでしょう」

「えぇ。それでその、お願いなのですが」

「なんでしょう。ミス・ローレライ」

「ガットマン公爵がお持ちの美術品を見せて頂くことは出来ませんか? 古代エジプト文明の美術品が、私の専門でして――。ガットマン公爵もその方面の収集がご趣味だと伺いました」

「えぇ。夫は大英博物館の理事ですし、多くの美術品を寄贈もしていますから。今でも古代エジプトには夢中で、収集も行っております。少しお待ちして貰っても、いいかしら」

「はい。もちろんです」

「実はね、私も恥ずかしいこと打ち明けますと、夫が集めている古代エジプトの品に全然興味がないの。だからミス・ローレライ、きっと夫のほうがあなたを満足させられると思うわ。案内させますので、話をしてきます」

「お心遣いに感謝します」

 あたしもエジプトなんて興味ない、と首まで出かけてた。


   ★


 退屈だった。

 とにかく退屈だった。

 天地がひっくり返るほど退屈だった。

 エジプト。

 下手くそな絵が描かれた浄土品。

 あとガットマン公爵。

つまらないもの、つまらない話、つまらない男。

 三つもあたしが興味もないものが重なって、一片に襲いかかってきたのだ。

「なるほど。それは素晴らしいですね」

 ファラオってパンの名前?

 ナイル川ってでかいんですか?

 馬鹿な質問が浮かぶ度に、エミール夫人がどうして、エジプトに興味を示さないのか、強く理解できる。

「大英博物館のロゼッタストーンをご覧になったことは?」

 あたしとアルセーヌは土臭いエジプトの遺跡が展示された部屋にいた。ガットマン公爵は楽しそうに説明をしてくれる。部屋にはエジプト関連の美術品の他に、ガットマン公爵が狩りに出かけて取ったらしい狼や鷹、熊の剥製もある。乗馬と狩猟は貴族の嗜みだ。お酒と愚痴が友達のあたしたち労働階級とは文化のレベルが誓いすぎる。

「ロンドンに行く用事があるときには必ず。ね、アルセーヌ?」

「はい。お嬢様。タウンハウスも大英博物館の近くに構えてるほどです」とアルセーヌ。

「それはすごい熱の入りようだ。私の家はサウスケンジントンにある。今度是非お邪魔したいものだ」

「確かにそちらに構えるのが普通でしょうが、やはり移動の効率を考えると。すいません。効率だなんてアメリカ的な言葉を遣ってしまい」

 貴族たちの家は大抵、サウスケンジントンのメイウェア地区って決まってる。

「いいんですよ、ミス・ローレライ。私も家内も、時代が移りゆくことに抗いはしません。これからは、あなたのような若い女性たちの時代でしょう」

 きっと若い子に自分の趣味を紹介する機会なんてないんだろう。ガットマン公爵は饒舌そのもの。あたしだってカッコいい男の子に、自分の好きな音楽とか夢見てる生活とかを話したら、そりゃ楽しいと思う。

「本当に素敵なところですわ」と話を合わせた。「女の私がそういうものに興味を持つべきではないと考える人もいますが」

 大英博物館ってどこよ。

「何を仰います。古代エジプトの浪漫は男だけのものだけではございませんよ、ミス・ローレライ」

「そういう人が近くにいてくれればいいのに」

「リチャード伯爵がいるではありませんか」

「確かにリチャードは私の従兄弟でもあり、素晴らしい友人です。ただ住まいが離れておりますので」

「それは残念なことだ。リチャード伯爵は私にとっても大切な友人ですよ。よくエジプトに関する収集品の情報を交換したりしているのです」

「そうだったのですね。羨ましい。是非、私も参加したいものです。そもそも私をエジプトんの世界に連れ込んだのはリチャードですから」

 はい。百回目の愛想笑い。

「彼の従者はエジプトの出身だったはず」

 シャヌフのことだ。「今夜も連れていましたな」

「えぇ。とてもエキゾチックな魅力に溢れていますね」

「私はリチャードがいつか従者の彼を大英博物館に寄贈しないかと心配しております」

 クソつまんねー冗談。

 下品でもいいから笑えること言ってよ。

「ガットマン公爵は幾つか寄贈をされているそうですね」

「手に余るものは、しかるべき場所に置き、多くの人々に見て貰うことで、本当の価値を発揮します。歴史的に重要なものに関しては、やはり専門家に任せるのが一番ですね。例えば、ミス・ローレライ、あなたのような美術史に詳しい専門家にね」

「買い被りです」

「学位を持っておられる。道楽でやってる私なんかとは違う」

 学校に通った記憶なんてほとんどない。

「あのガットマン公爵、あそこにある『黒い鳥の彫像』は?」

 目的の品物だ。「明らかに土から掘り起こされたとは思えないものです」

「あれは骨董品です。妻の趣味でね。部屋に置いておけと言っているのですが、いざ置いてみたら少し不気味だったということで、この展示部屋に一時避難しているのです」

「なるほど」

 部屋のベルが鳴った。

「あ、すいません。ミス・ローレライ、家内が呼んでいる。そろそろ広間に降りてこいという合図だ。外に一人、使用人を置いておきますので、お気に召すまでご覧になっていて下さい」

 ガットマン公爵は、笑顔を浮かべながら、「そのままで」とジェスチャーで示す。

「いいのですか?」

「もちろんですとも。あなたは私の大事な友人だ」

「こんなに素晴らしい機会を与えて頂き光栄です。お言葉に甘えさせて頂きます」

「では。失礼します」

 ガットマン公爵は部屋を出ていく。

「アルセーヌ、やっと二人きりね」

「色っぽい台詞だね。ロマンスな展開だ」

 アルセーヌは首を鳴らす。

「その気なんてないくせに。泥棒するんでしょ?」

「そういう言い方、よくないよ」

「泥棒するんでしょ?」

 もう一回言ってやる。

「ローレライ、君もだろ?」

「そうなんだけどさ」

「じゃこいつだ」

 状況は簡単。

「ここは三階。扉の外には使用人。窓は一つ。さて、どうやってあの彫像を盗みだすの?」

 あたしはこの状況に関してお手上げだ。

「ローレライ、あんたの意見は?」

「外の使用人をぶっ飛ばして、走って逃げる」

「聞いた俺が馬鹿だった」

「アルセーヌ、あなたの意見を聞かせて頂こうかしら?」

 まるで貴族。

「簡単だよ。そこの扉から出て行けばいい」

「彫像を持って?」

「そんな馬鹿な真似はしないよ。ローレライ」

「なに?」

「こいつだよ」とアルセーヌは縄を取り出した。「窓を開けて。下に知り合いの野良犬がいるからさ」

「シャーロックね」

「あいつに渡す。黒い鳥を縄で縛ってくれ。窓からゆっくりとロープで降ろして、シャーロックに回収させる」

「それであたしたちは手ぶらで扉から出ると」

「そういうこと」

 確かにそれは簡単だ。


   ★


「ゆっくり緩めて、降ろして行けよ」

 あたしが縄を掴んでいた。その先には黒い鳥の彫刻がある。窓から外に出して、下に降ろしている最中だ。片手のアルセーヌじゃ縄を緩まして、ゆっくりと下ろす作業は難しい。彼は窓から顔を出して、降ろされていく黒い鳥の彫像とシャーロックに合図をする係だった。

「あたしドレスを着て、首飾りに可愛いティアラだってつけてるのに、どうして縄を引いてるの」

 手を緩めたら、彫像の重さで一気に縄が掌をすり抜けていき、せっかくのチャンスを不意にしてしまう。『黒い鳥の彫像』が地面に激突して粉々――。そんな未来は望んでない。

「こればっかりはさ。俺には出来ない仕事なわけ。片手だから」

「何が従者よ」

 意外に重くて力を使う。

「あと少し。そう、そう。ゆっくり降ろして」

「くたばれ」

 生まれ変わったら絶対に男になろう。いや男は嫌だ。女がいい。女のほうがいい。けど今は男がいい。もう何なの!「もう下に着いたでしょ?」

「シャーロックが回収してる。あいつ犬のくせに手と口を使って器用に縄を解いてやがる。笑えるよ」

「わかったから早くして」

 こっちは腕がパンパンなんだ。

「ローレライ。シャーロックが回収した。縄を引いてくれ」

「よかった」

 一気に軽くなった。あたしは空になった縄を引き上げていく。


   ★


「おっと。お二人さん、そこまでだ」


   ★


 扉が開いた。

 そこにはガットマン公爵がいた。

「どうされました?」とあたし。

 手には縄。汗をかいて、少し息が上がってる。こんな状態で、これから時間稼ぎの言い訳を作らなくちゃいけない。最悪。

「リチャードに聞きました。彼は、エジプトを愛しているアメリカに留学した従姉妹はいない、と言っている」

「リチャードは酒が弱いのです」

「彼の従者もそう言っている」

 シャヌフのことか。「私は彼らが嘘を吐いているとは思えない」

 ガットマン公爵の顔は真っ赤だ。完全に怒っている。

「それでは彼もお酒に弱いのです」

「そうは思いませんね、ミス・ローレライ」

「我々をどうお考えで?」

「盗人でしょう。その縄はなんですか?」

「汚らわしいものではないですよ」

 アルセーヌが軽口を叩いた。

「静かにしろ、ここは私の城だ」

「落ち着いて下さい。ガットマン公爵」

「落ち着いていられるものですか。私は――、私は――」

 ガットマン公爵は手を強く握りしめている。「あなたが純粋に古代エジプトに興味のある聡明な女性だと信じ、ここにある収集物を丁寧に説明し、その時間をとても楽しんでしまった。私は――、そんな愚かな自分が許せないのです」

 プライド高過ぎだろ。騙されたんだから、しょうがないじゃん。あんたのせいじゃないよ。

 言ってやりたいけど、そんな感じの雰囲気じゃない。

 そんなこと言ったら殺されると思う。

「ガットマン公爵、信じて下さい。神に誓います。私たちは盗人ではございません。何一つここから持ち出してなどいないのです」とあたし。

「あの、あの――、『黒い鳥の彫像』はどこにあるのです!」

 めざといなぁ~。「どこにも見当たりませんよ、ミス・ローレライ」

「それは何かの間違いです。きっとございます、必ず」

 すでに持ち出してしてます。御免なさい。

「あなたは一体何を仰っているのですか。私には皆目見当もつきませんね」

「本当です。私は何も盗っておりません」

 一点張り。時間は稼げるかな。毎回時間を稼ぐのが仕事になってる。もしかしたら天職なのかもしれないけど、時間稼ぎが天職って気に入らないな。

「じきに警察が来るでしょう。今、使用人が呼びに行かせました。もし、あなたに品位というものが残されているならば、無駄な抵抗はしないことです」

 毅然とした態度は、さっきまでのエジプト愛好家とは違った顔だった。公爵として、多くの使用人を雇い、この城を運営している管理者としての男の顔だ。

「旦那様、スペード警部がいらっしゃいました」

 執事がガットマン公爵の後ろに姿を現した。

「スペード?」

「はい」

「ガニマール警部は?」

「夜分なので、少し遅くなるとのことです。先に同僚のスペード警部と三名の制服警官がいらっしゃったとのことです」と執事

「よろしい。こちらへ通してくれ。この輩共を捕まえるようにと、ね」

「畏まりました。あ、旦那様。丁度、スペード警部が上がってこられたようです。スペード警部、こちらです。どうぞいらっしゃってください」

 新しい足音が聞こえた。スペード警部のものに違いない。スペード警部が姿を現すと、ガットマン公爵と簡単な自己紹介を交わして、「それでは私にお任せ下さい」と言った。

 すぐにガットマン公爵と使用人は展示品部屋から姿を消す。ガットマン公爵が最後にあたしを見たときの、あの目といったら、もう。まるで犯罪者を見るような目だった。まぁあたしは残念ながら犯罪者なんだけど――。笑えないな、こりゃ。

 ということで、やってきたスペード警部は扉を閉める。部下の制服警官は部屋の外だ。

「やぁ、スペード警部。やっと君の名前がわかったよ」とアルセーヌ。

「それであたしたちどうすればいいの?」

 あたしも続いた。

 ま、いいか。

 彼が来たなら安心だ。

「とりあえず、ここにサインを貰えるかな?」

 スペード警部は伝票を取り出す。「これと引き換えに金が貰えるんだ」


   ★


 偽のスペード警部は口が上手い。元々、金さえ出せば何でもする男だ。ドレスの配達、馬車の運転手、偽警部。

 結果から言えば、計画は成功した。

 あたしたちは手錠を掛けられ、スペード警部によって輸送されるという体で、ガットマン公爵の城から脱出した。本物の警察官、ガルマール警部が来る、ほんの少し前のことだった。たぶんそれらしい人が乗っているであろう車ともすれ違った。

「こんなに上手くいくとは思わなかった」

 帰りの車の中だ。

「俺の立てた計画だよ」とアルセーヌ。「リチャードのやつ、良いタイミングってのを心得てるみたいだ」

「そこが心配だったの」

 隣には目的の品、『黒い鳥の彫像』もある。あとはこれをリチャードに渡せば、クリフが解放される。「逮捕される振りをして脱出なんて、普通じゃないもの」

「偽の警部役の腕も良かった」

「ありがとうございます」と偽のスペード警部。彼は今、この車の運転手だ。助手席には犬の振りをしているシャーロックがいた。二〇世紀の人間がいるとき、シャーロックは決して人語を操らない。賢明な判断だと思う。

「とにかく成功おめでとう、だね」とあたし。


   ★


「起きろ、ローレライ」

 車内で眠っていたらしい。「問題発生だ」

「あ、ごめん。もう着いたの?」

 目を擦りながら身体を起こした。慣れないドレス。とにかくコルセットがきつい。緩めにしてたはずなのに、この短時間にあたしは太ってしまったのだろうか。だったら何かの呪いだ。

 外を見る。リチャードの屋敷、オスカーコートではない。

「まだオスカーコートじゃないじゃん。着いたら起こして」

 怠け者なローレライ。けど二度寝は運命。逆らうことなんて出来ない。ごめんあそばせ。

「聞こえてないのか? 問題発生だ」

 肩を揺らされた。今度は聞こえる。問題発生の四文字。

「尚更、起きたくないんだけど」

「頼むよ、一生のお願いだ」とアルセーヌ。

「わかった。わかったわよ」

 一生のお願いならしょうがない。

 目を開いて、ため息。外を見る。またどこかの店の裏だろうか。樽や木材が積み上げられている。明りはその樽の上にある火の灯った蝋燭。壁に映る影が揺らめく。偽のスペード警部だった男とシャヌフが並んで立っていた。

 あたしは車から出る。少し寒い。問題が発生したらしいし、全く持って気が進まない。

「ありがとう。じゃ僕はこれで」

 偽のスペード警部だった男は金を数え終えると、早足でどこかへ消えた。追いかけようとは思わない。あたしは寝起きだ。何をするにもだるい。

「なに?」

「状況を察してくれ」

 目を擦る。

 シャヌフとあたしたちだけしかいない。笑顔はない。空気が緊張してる。こういうの苦手。

「決闘でもするの?」

 あたしはアルセーヌに聞いた。

「近いね」

 だったら問題発生も頷ける。「あいつの話を聞こう」

 シャヌフの足元に『黒い鳥の彫像』があった。

 たぶんあれが絡んでいるのだろう。


   ★


「まずはお礼を。ミスター・アルセーヌにミス・ローレライ、とその飼い犬諸君」とシャヌフ。

 飼い犬って言われたシャーロックの表情を確認した。言い返してやりたいって顔してる。

 言ってやればいいけど、そんなことしたらまた他の問題が発生しちゃう。喋る犬が来たら、何かもうわけわからなくなる。

「こいつを取り戻してくれたことを本当に感謝致します」

 偉そうな態度だな。使用人の癖に。

「どうしてオスカーコートじゃないの?」

「私がここに来るよう、あの男に命じました」

「スペード君に?」とあたし。

 何でも屋の男だ。

「スペード君に、だ」

「理由を聞いても良い?」

「駄目だ、と言っても聞くでしょう」

「どうしてなの?」

 『黒い鳥の彫像』はリチャードが欲しがっているはずだ。だからオスカーコートに届ければ、それでいいはず。

「こいつをリチャードに持っていかれては困るのでね」

 シャヌフは足元の『黒い鳥の彫像』を指差した。リチャードを呼び捨て? 旦那様とは呼んでいない。何かがあったようだ。

「何故?」とあたし。

 一つの疑問が解消したら、もう一つ。知らないことを知ると、もっと知らないことがあるってことに気付かされる。

 で、今それね。そのスパイラルに陥ってるってわけだ。

「知る必要はない」

 シャヌフは言い切った。もう質問は受け付けませんよ、って態度だ。お前が質問誘うようなこと言ったんだろうが、クソ野郎。

 なんで教えてくれないのよー。

 腹立つー。

 マジ、こいつ性格悪いな。

「いや、俺は知ってるよ」

 出た、未来から来た男。何でも知ってると自負するだけある。

「知ったかぶりは身を滅ぼしますよ」

 あたしに関してはボロボロだよ。

「黒いペンキにエナメルを何層にも塗ってるんだろ、そいつ。どうしてそんなこをする必要があるんだ」

「何かに気付いたようですね」

 シャヌフは手を叩いた。乾いた音が響く。

「その像の中身は、エジプトから持ち出された美術品なんだろ」

 え。どういうこと。「そしてあんたはエジプトの元軍人なんかじゃない。今もエジプト政府と関わりのある現役の軍人だろう?」

 アルセーヌの言葉が理解できない。

「さすが、アルセーヌ・ルパンといったところです」

 正解かよ。

「大丈夫だ。中身は盗ってない。何ならここで調べてもいい。保証するよ」

「安心しました」

 シャヌフは『黒い鳥の彫像』を、木箱の上に置いた。「どうしてわかった?」

「エジプト出身の元軍人のあんた、古代エジプトの美術品収集家、展示部屋の中で最も価値のなさそうな『黒い鳥の彫像』。何層にも塗られたペンキとエナメル。それにさっき、中身は盗ってないと言ったが、確認はしたんだ。つまり証拠も見つけた。実際に物を見た後じゃ、全てを繋げる仮説を作るのは簡単だよ」

「中を見たのですね?」

 シャヌフが質問してくる役になったらしい。

「鳥の首と胴体に継ぎ目があった。頭が回る。外したよ。中身は金の首飾りだ。装飾が見事で保存状態も良い。たぶん王家の墓から盗み出したものだろう」

「あたしが寝てる間に?」

 アルセーヌに尋ねると、「良い寝顔だったからね」と言われた。

 寝顔のことを言われると、なんか恥ずかしい気分。

「私はエジプト政府から秘密裏に任務を請け負い、不正に持ち出された我が国の美術品を持ち返る仕事をしています」

「不正といっても、まだ政府間で取り組みがあるわけでもないだろう? 発掘した者が自国へ持ち帰っても違法ではないと思うけど」

「法律ではない。プライドの問題です。ピラミッドやそれに付随する全てのものは、我々の象徴だ。それがむざむざ他国に持ち出されていくのを指を咥えて眺めているわけにはいかないのですよ、ミスター・アルセーヌ」

「なるほど。それで今回の計画を練ったというわけか。他の品は良かったのか」

「私は現実主義者だ。あの部屋で最も優先順位の高いものを確実に手に入れる必要があった。これはですね、ミスター・アルセーヌ――」と言いながら、シャヌフは黒い鳥の頭を回した。パカッと外れる。首の中に手を突っ込んだ。抜くと、金の首飾りが出て来た。アルセーヌの言った通りだ。「クレオパトラ王妃が身に着けていた太陽の首飾りというものだ。フランスのナポレオンが侵攻してきたときに、墓を荒らされ、エジプト国内から持ち出されて以来、消息が掴めなかったものです」

「盗み返したわけだ」

「リチャードはよくやってくれました。デブで馬鹿だが、美術収集への情熱は本物です。ガットマン公爵が隠し持っていることを調べ上げ、あなた方に盗みだすよう命じた。ガットマン公爵もこの件を表沙汰には出来ないでしょう。彼には公爵としての建前がある。貴族たちは生まれながらの慈善活動家だ。これが知られれば、こんなにも価値のある物を独占することは難しい。もし所有していれば博物館に寄贈するのが普通ですからね」

 やっぱりというか、シャヌフは賢い。

「俺たちの仕事は完璧だっただろ」

「言い方を変えればそうです」

 二人は笑う。これじゃどっちが悪者かわからない。

「クリフはどうなったの?」とアルセーヌ。

「リチャードと一緒に捕えている」

「ちょっと、話が違うじゃん」

 リチャードは別にいいけど、クリフはどうなるっていのよ。

「ミス・ローレライ、あなたの言うとおりだ。既にこれは違う話なのです」

「そんな――」

「このままだ」

 うっそー。

「リチャードを処刑してもいいからクリフを解放して」

 本音がポロリ。

「意外に非情なのですね」

「あたしにはたった一人の弟なのよ」

 あたしにはエジプトとデブなんてどうでもいい。

「ローレライ、興奮するな。静かにしろ。刺激しても良いことないぞ」

「そんな――」

 仲間にそんなこと言われるとは。

「大丈夫だ。交渉の余地はある」

「それなら早く弟を救ってよ」

「約束したろ、クリフは救い出す」

「どこまで信じれるか」

「メロドラマはもういいですか?」とシャヌフ。

「あぁ。俺が話をする。彼女の弟を離してやってくれ」

「仕事がある」とシャヌフが言った。

「そんなことだろうと思った」

「私は現実主義者の軍人だ。夢は見ない」

「これはテストだったんだろ? もし俺たちが上手くやったら、もっと大きな仕事を任せるつもりだったんだ。失敗したらそれまで。トカゲの尻尾さ」

「話が早くて助かるよ」

「こっちは困ってる」

「私には関係ない」

「約束しろ。その仕事をこなしたら必ずクリフを解放しろ、と」

「わかった。約束します」

 信用出来るはずがない。

「本当だな」

「本当だ」

 だからこんなの信用出来るはずがないって。

「話せよ」

「盗みだ」

「そんなの嫌よ」とあたし。「そうやって何度も何度も盗みをさせて、あたしたちを利用するだけして捨てるつもりに決まってる」

「ローレライ、大丈夫だ。俺に任せろ。おい、シャヌフ、仕事の内容を話せよ」

「いいのか? ミス・ローレライは相当ご立腹のようだぞ」

「構わない。話してくれ」

「わかった。言おう」

 それからシャヌフは言った。


   ★


「大英博物館からロゼッタストーンを盗み出して欲しい」


   ★


「本気か?」

 アルセーヌが聞き返す。

「アルセーヌ・ルパンにしか出来ない仕事でしょう」

「光栄だね」

 偽のアルセーヌ・ルパンの癖に。

「受けてくれますか?」

「もちろん。断る理由がない」

「ちょっと勝手に話進めないでよ」とあたし。「こんなの絶対におかしいじゃない。あたしたちは約束通り『黒い鳥の彫像』を盗んだのよ」

「あなた方はリチャードと約束をした。そしてそのリチャードは現在、私の支配下にある。契約も新しいオーナーである私に引き継がれたのです」

「引き継いだら、どうして仕事が増えるのよ」

「それがビジネスです。私は自分の利益を求める。弱みを見せたあなた方が悪い。しっかりと『黒い鳥の彫像』を守るべきだったのです」

「強奪した癖に!」

「盗人に言われたくありませんね」

「ローレライ、騒いでも得はない」

 アルセーヌに言われた。

「確かにそうだけど――」

「仕事は受ける。だが時間が欲しい。一日くれ。ロゼッタストーンを大英博物館から盗みだすプランを考える」

 アルセーヌはシャヌフに言った。

「さすがミスター・アルセーヌですね。そちらの娘さんと違って、物分かりがよろしい。ではまた一日後に」

 それからシャヌフは立ち去った。



 ロンドンに戻ってこれたのは、早朝だった。それから昼過ぎまで寝た。正直言ってよく眠れなかった。瞼を閉じれば、余計なことばかりが頭に浮かぶ。

 とにかく自分の不運を嘆き、弟の無事を祈り、未来人とかエジプトの秘密工作員とか喋る犬とかロゼッタストーンとか、そんなものが全てこの世から消え去ればいいのにと考えていた。

「おはよう、ローレライ」

 くそったれ未来人。

「もう昼だな、ローレライ」

 くそったれ喋る犬。

「おはよう。くそれったれたち」

 どちらもこの世から消えない。

 イーストロンドンの倉庫にあるどうしようもない世界。最近の朝はこんな感じです。

 やってらんない。

「大英博物館に行こうと思うんだ」とアルセーヌ。プロテインバーを齧ってる。

「良い考えね。最高だと思う」

「すごい顔してるよ」

「不機嫌なの」

「昨日のこと?」

「あたしのクリフはどうなってるの?」

「大丈夫だよ。俺が見えてるだろ」

「またそれ? あんたが存在してるからクリフも死んでないって話? あたしは本当に弟の心配をしてるのよ」

「ローレライ。冷静になれ。クリフだけを取り戻しても意味ないんだよ。一緒に『賢者の石』も手に入れなきゃいけない。その為には事を荒立ててもしょうがないんだ。チャンスは必ず来る。だから今は言うことを聞くんだ」

「このままずっと泥棒をするつもり?」

「俺の考えを説明するよ。たぶんこれが最後だ。というのもロゼッタストーンは大英博物館にあるんだ。そんなもん盗んでみろ、大ニュースだ。イギリス政府だって黙っちゃいられないし、エジプト政府も同じだ。エジプト政府は国民に向けて、ロゼッタストーンを取り戻したことを発表する。権威の復活の為だ。そうなったら今後はエジプトの美術品を盗むなんて仕事はこの国じゃ出来なくなる。大ニュースだからな。だからこれは最後の仕事だと俺は踏んでる」

「最後だからクリフは助かるってこと? そうは思わないけど」

 話が全然繋がらない。

「あいつは『賢者の石』の価値を知らない。ロゼッタストーンを盗みだせば、必ず『賢者の石』とクリフを解放するはずだ」

「直接、『賢者の石』とクリフを助けに行けばいいじゃない」

「そんな危険冒せない。失敗したときのことを考えたら、まだ大英博物館にロゼッタストーンを盗みに行く方が良い。クリフの救出の失敗について考えてみろ。それってすなわち、クリフの死に繋がるかもしれないだろ。シャヌフは冷酷な軍人だ。俺たちが歯向かえば、きっとすぐに手を打つさ。だからここで最も安全かつ確実に『賢者の石』とクリフを手に入れる方法は、大英博物館にロゼッタストーンを盗みに行くことなんだよ」

 一つずつ筋道を通して話されると、確かにその通りだ。

「けど――」

 あたしはすぐにクリフを助けたい。

「けどじゃない。大人になれ、ローレライ。クリフの為だ」

「クリフの為――、か」

 結局、この男に着いていくしかないのだ。


   ★


 大英博物館まで車が三十分もかかった。ロンドン市内の渋滞は本当に嫌になる。これなら地下鉄で来た方が早かっただろう。

「来たことは?」

「場所すら知らなかった」

 トッテナムコートロード駅から歩いて十分もかからない場所にあった。「興味ないし」

「少しは人生を楽しめよ」とアルセーヌ。

「そんな余裕なかった」

「じゃ今日は余裕のある日だ」

「かもしれない」

 一生遊べるだけの金が欲しい。「けど下見でしょ?」

 泥棒の現場調査なのだ。

「考えるのは俺だから」

「頭脳労働は任せるね」

 そんな感じで大英博物館に入場。


   ★


 入場料はない。寄付を募る箱があるだけ。入口の扉を潜り、博物館の中へ。

「あれがロゼッタストーン」

 すぐにそいつはあった。「三つの言語で同じことを意味する文章が刻まれている」

 アルセーヌには知識があるみたい。

「何語と何語と何語?」

 一つは英語だろうか。

「ヒエログラフ、デモティック、ギリシャ語」

「あたしには絶対に読めないってことね」

 ヒエログラフ、デモティックに関しては想像すらつかない。たぶんどちらかが古代エジプトで喋られていた言葉なんだろうけど。

「ヒエログラフとデモティックは古代エジプトで使われていた言葉だ。ギリシャはその通りギリシャ」

「え? 三つのうち二つがエジプト語なの?」

 エジプトおかしいだろ。

「ヒエログラフは神様の言葉。デモティックは民衆の言葉だよ」

「二つも必要とは思えないけど」

「で、ローレライ的にロゼッタストーンは、どんな感じ? どう思う?」

「石版ね」

 聞かれたらこう答えるしかない。「未来にもあるの?」

「石版か――。未来にはない。壊れたよ」

「理由は聞いていい?」

「戦争、かな」

「ふーん」

 眺めている限り、そこそこ大きい。胸と腰の間くらいまである石版だ。抱えて運ぶことは不可能だろう。それに開館中に盗むのは無理だ。こんなに大勢の人間がいる中で、この石板を外に運び出すには奇跡を起こす必要がある。

「こんなの無理よ。絶対に盗めっこない」とあたしが言うが、盗らなくちゃいけない。クリフの命が掛かってるのだ。「どうするの? アルセーヌ」

「一応、案はあるよ」

「うっそ」

 なんだ、こいつ。天才か。

 けど褒めるのは癪だから、驚いたふりだけ。

「俺は未来から来たんだ」

「またその台詞」

 好い加減、聞き飽きたっつーの。

「ローレライも俺みたいに左手の改造手術受けるか?」

「ごめん。あたしそういうアレルギーだから」

「ちょっと見て回ろう」

「嫌よ。なんか蘊蓄とか垂れるつもりでしょ。そんであたしの無教養さを笑う」

「別にそんなことしなくてもローレライは笑えるし」

「あー、腹立つ」

 博物館を一回り。「くたばれ」


   ★


 計画。

 何事にも事前の計画は大事で、出来ることなら立てるべきだと思ってる。ただ、あたしがそれを実践できているかと言えば、それはノー。完全なるノー。そういう性分じゃない。

 あたしの人生は生き当たりばったりが毎度のことだし、予想も出来ないハプニングも多い。例えば、ママが死んだこと。これはあたしの人生にとって最初のハプニングで、未だにこれを乗り越えられていないと思う。四六時中、ママのことを考えているってわけじゃないけど、なんていうか、やっぱりあたしの心に尾を引いてるし、たぶん一生ものに違いない。

 で、最近起きたハプニング。これはパパに襲われたこと。その結果、無一文になり、未来人と未来犬に出会った。おまけに弟は呪われていて、あたしも若干だがその傾向がある。

 人生ってわからないと思う。

 泥棒稼業まで始めるんだから、本当に手に負えない。

 だから計画なんて無意味。

 あたしはそう思う。

「計画はわかったか?」

 そーんなことばかり考えていたから、アルセーヌの喋ったことなんて何も聞いてなかった。

「わかった」

 わからないこともわかったという。それがあたし、ローレライ。繰り返すけど計画なんて無意味。その場凌ぎのお姫様。

「わかってないだろ」とアルセーヌ。「部屋の隅ばっかり見てたし」

 あたしとアルセーヌはシャヌフに会いに来ていた。

 大英博物館からロゼッタストーンを盗み出すためには、どうしてもシャヌフの支援が必要だから、ということらしい。

 ただリチャードの邸宅では会えないので、プリムスフィルにある飲み屋の二階での会合だった。個室を借りて、悪い計画を立てているというわけ。

 部屋にはビリヤード台がある。誰も玉突きには興味がないらしい。ただ他に人はいないから、秘密の打ち合わせをするにはうってつけの場所だ。

「わかってるって。計画でしょ。どうせいつか実行するんだし、そのときになったら知ることになるんだから」

「お前ってやつは」

 アルセーヌは呆れてるけど、そうさせたらこっちの勝ちだ。

「まぁいい」と続ける。

 ほらね。「シャヌフ、あんたは計画についてわかったよな?」

「わかってます。全てミスター・アルセーヌの要求通りに仕度しましょう」

「あんたは賢い」

「あたしは馬鹿ってわけ?」

「そこまで言わせるのは、やっぱ馬鹿だな」

「あー。悔しい」

「ミス・ローレライ、落ち着きたまえ」

 シャヌフのこれまた冷静な口調。

「あんた、次は必ずクリフを解放しなさいよ」

 この悪党が。「今度約束破ったら、承知しないんだから」

「その点なら安心して下さい。ロゼッタストーンを無事、盗みだして頂ければ、弟のミスター・クリストファーは解放します」

 信用できないけど、信用するしかない。「それでは、私はこれで失礼します。約束は明日の夜ですね」

 シャヌフが席を立ち、帽子をかぶった。

「あぁ。明日の夜、決行だ」

 アルセーヌはシャヌフのことを見ないで言った。「必ず盗んで来る」


   ★


 プリムスフィルに一泊するって手もあったけど、宿が空いてない。こ

 そういうわけで、アルセーヌの運転でロンドンに戻ることになった。

 もちろんあたしは助手席。

「くだらない質問していい」とあたし。

「どうぞ」

 片手でハンドルを握るアルセーヌ。ご機嫌な口笛が止まった。

「未来から来るって、どんな気分?」

「もうどうでも良くなるね」

「あんまり気分よさそうじゃないわね」

「危険もあるからね。全てを制御してタイムトラベルしてるわけじゃない。もしかしたら時空の狭間に落ちて、クリフを救う前に死ぬことだってあるし」

「ふーん」

「興味ない? 結構重大な話だと思うんだけど」

「別に」

「君が質問したんだろ」

「そうだけどさ」

 自分がどこかに違う時代に行けるとしたらどこに行くだろうか。どうするだろうか。そんなことを考えた。

「未来の話、聞かせてよ」

 とりあえず未来の様子をリサーチして考えよう。

「いいの?」

「うーん」

 ちょっと悩む。

 実はアルセーヌと行動していたここ数日間、ずっと気になっていた。いつか聞く必要があると思っていたけど、なかなか聞けないで、なんとなく今。

 車の中だからかもしれない。車に乗って移動していると、瞑想してるじゃないけど、ちょっと色々と余計なことを考えてしまう。

「話せって言えば、話す」

「話さないでって言えば、話さない」

「そういうこと」

「やっぱ本当にあたし死んでる?」

 まずはそこからだ。

「死ぬ。人間は必ず死ぬ」

「そっか」

 ま、当たり前と言えば当たり前か。

「戦争ってどうなの? 博物館で言ってたじゃん。ロゼッタストーン見てるとき」

「結構きついね」

「うわ」

 聞くんじゃなかった。「みんな死ぬの?」

「そうだな――」

「ストップ!」

車が止まった。「あ、違う!」

「なに?」

「喋るのストップって意味。走らせて」

「そっちね」

 車が走り出す。

「やっぱみんなが死ぬのって怖い?」

 アルセーヌが聞いてきた。

 あたしは横顔を見る。真っ直ぐに前を見ながら、車の運転を続けていた。

「怖いよ」

「俺もみんな死ぬとなったら、怖くなると思う」

「それ慰めなの?」

「そのつもりだけど、わかっていただけなかった?」

「少しだけ伝わってる」

「たくさん伝わると思ったんだけどなー」

「クリフのこと助けてくれるんでしょ?」

「助ける。もちろん、助ける。めちゃ助ける」

「安心していいの?」

「任せて。俺の存在も掛かってるんだしさ、そこはマジで信頼していい。この計画は上手くいくよ」

 計画だ。

 実行するときになったら結局知ることになる。

 そのときになったら何でも知ることになる。

 結局、そのときは来るのだから。


   ★


 朝は必ずやって来る。陽が昇らない日はないし、陽が落ちない日もない。

 つまり時間は過ぎるということだ。

 明日の夜。

 シャヌフにそう約束した明日の夜が来てしまったのだ。

「大英博物館に行く準備は?」とアルセーヌに聞かれる。

「行く。行くよ」

 イーストロンドンの倉庫にいた。

「そういうと思いました」

「断るはずないじゃん」

「じゃこれに入ろうか」

「これ?」

 さっきから妙なものがこの倉庫にあるとは思っていた。「これ、なに?」

 デカい石だ。長細くて、隅が掛けてる。それが三つも並んでいた。

「船だよ」とアルセーヌ。

「石だし、これ墓でしょ」

 たぶん石棺だと思う。船と思えない。だって蓋があるし。

「船かもしれない。とにかく、これに入ろう」

 墓か船かもわからないものに入るなんて。「これに入れば自動的に大英博物館に潜入できるからさ。ローレライはそっちね」

 アルセーヌが石棺の扉をずらした。中身が見える。

「あたしは墓に1ポンド」

 だってこれ、ミイラが入ってるんだもん。


   ★


 アルセーヌの計画はいつもそうだけど、今回もシンプル。

 リチャードが寄贈することになったエジプトの石棺の中に入って、大英博物館に潜入するというものだった。寄贈云々に関しては、全てシャヌフが手配した。あいつは敏腕だ。エジプト政府のエージェントなだけある。アルセーヌは、最後の最後まで船かもしれない、と言い張ったけど、十中八九これは石棺。

 用意された三つの石棺に、あたしとアルセーヌは一人ずつ入った。

 もちろんミイラも一緒だ。

 つまり最悪。


   ★

 

 合図があるまで棺を開けるなってことだけど、横に干からびた男だか女だかもわからないミイラの顔があるんだから、すぐにでも開いてやりたかった。

 こんな理不尽を我慢する気になったのは、やっぱりクリフのため。とにかくクリフ。ブラコンと言われてもいい。全部クリフのため。

 『賢者の石』がないとクリフは死んじゃう。なんとしてもシャヌフから取り戻す必要があるのだ。

――あんたみたいになりたくないの。

 もちろん心の中で呟くだけ。数千年の時を超えてミイラに向かって、あたしの想いをぶつけてやった。

 悪いけど、あたしはまだ干からびたくない。

 それにしても合図が遅い。

 棺に入ってから揺られること、二時間くらいは経ってると思う。たぶんもう大英博物館内への搬入が終わってるはずだ。


   ★


 こんこん。


   ★


 棺が叩かれた。

 合図だ。

 あたしは腕に力を込めて、棺の扉を開いた。

 やっぱりエジプトの偉い人が入ってるだけあって、格式あるものなのか、なかなか重い。

「くぅ~」

 なんとかして隙間を開く。

「手伝うよ」

 外からアルセーヌの声がした。小声だ。あたしが通れるだけの隙間が開く。アルセーヌに手を借りて外に出た。

「寒いね」とあたし。

「明りが欲しい」

「わかった。ちょい待ち」

 あたしは一緒に持ってきた蝋燭を棺から取り出し、マッチで火をつける。

 小さな明りで十分だった。

「倉庫っぽい」

 すっかり倉庫に縁のある美少女になってしまった。倉庫美少女。そういうジャンルがあるなら、あたしは一等賞だと思う。

「これから展示したり、もう展示の終わったもんを置いとく場所だよ。保管室だ」

 窓のない部屋。入場客が通るためとは思えない細い通路。棚が並んでいて、そこに美術品が陳列されている。大きな彫刻などは倉庫の奥に置かれているようだ。

「予定通りっちゃ予定通り」

「つまり潜入成功だ」

 確かにただの搬入係たちが、わざわざ棺の中にあるミイラを確認するかと言えば必ずしもそうじゃないだろう。

 あたしたちは賭けに勝ったんだ。

「俺を褒めてよ」

「はいはい。最高、最高」

「心が籠ってないな~」

「込めてないもん」

 大英博物館に侵入は出来た。だけど問題はここからだ。クリフを助け出すにはロゼッタストーンが必要だ。あたしたちはあの石版と一緒に人知れずここから脱出をしなくてはならない。

「道具を頼む。あと制服も」

「あたしが?」

「俺、片手」

「くたばれ」

 三つ目の棺を開く。そこにはアルセーヌがシャヌフに用意して持って来させた道具と、大英博物館の守衛が着ている制服が入っていた。

「木の板が数枚と油。一体、これでどうするっていうの?」

 アルセーヌがシャヌフに用意させたものは、誰でも手に入るような代物だし、これでどうやってロゼッタストーンを盗み出すのだろうか。

「それは言ったろ?」

「白状する。あたし、なーんにも聞いてなかった」

「知ってた」

「あら、そう」

 これ以上は何も言えない。

「着替えよう」

「あっち向いて」

「ごめん。見ていていいものだと思ってた」

「馬鹿」

 制服に着替えてから、倉庫を出た。なんか着替えること多いな、最近。


   ★


 守衛がいるのは当たり前だ。想定の範囲内。あたしは髪を結わいで、帽子の中に隠した。胸は張り裂けそう。ボタンを止めて潰してるけど、息が苦しい。今夜ほど、この大きな胸を恨んだ日はない。

「予告状なんて送ってよかったの?」

 守衛の格好をしているとはいえ、誰もいないはずの倉庫から突然出てきたら、それはそれで怪しいもんだ。あたしたちは姿を見せぬよう、地下から一階に出ると、通路の影で屈んでいる。

この通路を行けば本館だ。たぶんそのすぐ先にロゼッタストーンはあるだろう。鍵付きのケースの中に仕舞われているはずだ。

「確かに守衛の数は多くなってるだろうな」

 足音がひっきりなしに聞こえてくる。「少なくともそこの前の通路を横切ったのは三人いた」

 この短時間に、だ。

「同じ奴が行ったり来たりしてるだけかも」

「俺は耳が良いんだ。人間の足音のパターンくらい判別可能だ」

「なにそれ。怖い」

 普通じゃない。

「四人目だ」

 アルセーヌが人差指を唇につける。静かに、という合図。

「誰かいるのか?」

 守衛の男が声を掛けて来た。

 しまった。

 会話が聞かれていたのか。

 薄明かりの中、アルセーヌの顔を見た。あたしは別に耳が良いわけじゃないし、テレパシーも使えない。どうしていいのかわからない。

「おい、誰かいるのか」

 こっちに近づいてくる。「誰か?」

 呼吸を止めた。いや、止まっていた。

 もう一回、アルセーヌを見た。

 目つきはさっきよりも真剣だ。よかった。へらへらしてたら不安になる。だけど深刻そうなのも嫌だ。

 我儘だな、あたし。

 てか、どうしたらいいんだ。

 あーもう。

「誰もいないのか?」

 守衛が手に持っている蝋燭の明りが近づいてくる。

 足音がこつこつこつこつ。

 あーだめ。来ないで、来ないで。

「おい――」

 そのときだった。


   ★


 爆発。

 轟音。

 叫び声。


   ★


「アルセーヌ・ルパンが来たぞ!」


   ★


 遥か後方。

 近づいてきた守衛とは違う男だろう。野太い声で、叫ぶ声が聞こえて来た。

 あたしたちに近づいてきた守衛が背を向け走り出す。

「ね?」

 アルセーヌは立ち上がる。

「ね、じゃないし。間一髪だったじゃん」

「俺たちも行こう」

 早足で移動開始。「ここからは時間との勝負だ」

「説明してよね」

「アルセーヌ・ルパンが来たんだろ」

「説明になってません」

「行きながらするよ」


   ★


「予告状を送ったことで、確かに博物館内の警備は強化された。これは俺たちにとって不利な状態に違いない。ただこうとも考えられる。守衛が臨時で増えるというのは、知らない奴が増えるってことでもある。つまり、俺やローレライが紛れ込んでも、すぐに気付かれる可能性が低くなるということ。さらにもう一つ、予告状を送るメリットはある。まぁ、こっちのほうが重要なんだが、それは守衛たちに『今夜、アルセーヌ・ルパンがやって来る』、そう思い込ませることが出来るということなんだ。だから俺はそれを利用して、アルセーヌ・ルパンをもう一人用意した。とても派手で一目を引いてたまらないアルセーヌ・ルパンをね」

 得意そうにアルセーヌが語った。

 ちなみにこいつも偽物のアルセーヌ・ルパンだ。

「偽物が偽物を用意したってことだ」

 何が何だかわからない。本物のアルセーヌ・ルパンはこの騒動を知ったら、呆れてものも言えないだろう。

「外にある気球には偽のアルセーヌ人形を乗せてある。結構良い出来だ。どうやらシャヌフの奴、本当にエジプト政府の関係者みたいだな。潤沢な資金と人脈があるようだ」

「人間でもないわけね。どうやって守衛たちに本物だって信じ込ませたの?」

「外でスペード君が、『アルセーヌ・ルパンが来たぞ!』って思い切り叫んだのさ。さっきの声、聞いたろ?」

「あの声――」

 確かにどっかで聞いたことあるような感じではあったけど。「随分、大きい声なのね」

「彼は金さえ貰えれば何でもやる。一人が確信を持って叫んでいれば、周りもそうだって信じるもんさ」

「悪知恵ばっかり働くのね」

「やっと心の底から褒めてくれた」

「褒めてないって」

「どうもありがとう」

 で、そういう手口で、あたしとアルセーヌは誰もいない大ホールを手に入れたってわけ。ロゼッタストーンはもう目の前。


   ★


 ロゼッタストーンの入っているケースには鍵が掛かっていた。

「これは俺の分野だ」

 鍵銃で鍵を打ち抜いた。意外に大胆!

「パカって開くのね」

「ドカって開くとでも?」

「どっちでもいい!」

 とりあえずケースは開いた。あとはこの石板を運び出すだけだ。

 守衛たちが戻って来るまでどれくらいの時間があるだろうか。無限にあるとは思えない。五分もない気がする。「とりあえずロゼッタストーン、これを出すんでしょ。どうすればいい?」

「その板と油だよ」

「どの板と油?」

「持ってる」

「あ、これか」

 三つ目の棺に入れていた板と油だ。「これで盗むの?」

「あぁ。板だけに、いたって簡単、なんてね」

「いいから早く。どうやってこのクソ重い石板を移動させるのか教えて頂戴」

「冷たいな」と言いながらも、アルセーヌは方法を教えてくれる。


   ★


「これすごい」

 あたしが足でちょっと蹴っただけで、ロゼッタストーンは移動する。

「感動だろ」

 アルセーヌは得意げだ。

 方法はこうだ。

 まず油を床一面にばら撒く。容赦要らない。自分の家じゃないのだ。大嫌いな奴の家だと思い、ひと思いにぶちまける。

 そして次にロゼッタストーンの下あたりに板を敷く。

 最後はその板目がけて、ロゼッタストーンを押し倒してやる。歴史的に価値があるという事実には目を瞑ろう。

 割れる心配があるが、元々欠けているものだし、多少は大丈夫なはず、と自分に暗示を掛けるのも忘れずに。

 すると、横になったロゼッタストーンが板の上に乗る。

 油、板、ロゼッタストーン。床の上にはこの順番に重なった状態が出来上がる。

 あとは蹴るのみ。

 油 でぬるぬるになった床の上を、雪の上でスキー板で滑走するかの如く、ロゼッタストーンは走り出す。

「そのまま外に出すんだ」

「任せてよ」

 あたしはロゼッタストーンを蹴った。スーッと移動を始めていく。

「もうちょい優しく扱ったら?」とアルセーヌの声がした。


   ★


 外に出ると怪盗アルセーヌ・ルパン人形を乗せた気球が空を漂っていた。大英博物館を出て、空を見上げる。

「確かに怪盗っぽい恰好してる」

 シルクハットとチョッキにマント。顔は仮面を被っている。気球がどんなに揺れても微動だにしないのは人形だから。

 大英博物館の入り口前は他の美術館や博物館がそうであるように芝生と一本道。この前来た時はここでデッサンを取る人も多かった。

 階段の下には守衛と野次馬、それに新聞か雑誌社の記者に警察とごった返していた。

 誰もこっちに気付かない。それくらい偽のアルセーヌ・ルパン人形は効果的だ。

「当初の予定だとどうなってたの?」とあたしはアルセーヌに訊いた。

「サーフィンって知ってる?」

「何それ?」

「板の上に乗って波に乗るんだ。マリンスポーツって奴なんだけどね」

「それがどうしたの?」

「サーフィンを知らないローレライに説明するのは難しいんだけど、まぁサーフィンの要領でロゼッタストーンの上に乗って、そのままこの階段を滑り降りる予定だった」

「ここを?」

「板が敷いてあるし、ロゼッタストーンは痛まない。そういう計画。ま、サーフィンは嘘だけど」

「嘘なのかよ」

「けど滑って落とすよ。これからやるんだ」

「そうだね」

「その後はどうするつもりだったの? この人だかりの中にロゼッターストーンに乗ったったまま突っ込んだわけ?」

「いや合図をすると、迎えが来る予定だった」

「合図ってなに?」

 嫌な予感。

「これだよ」

 アルセーヌが鍵銃を夜空に向けた。

 銃声。

「気球が落ちてくる」

 アルセーヌの言った通りだ。アルセーヌが放った銃弾は気球に穴を開けたちまち高度を下げていく。

「みんな、こっち見てるんだけど」

「いいんだ」

「そういう計画だったの」

「ほら、迎えが来た」

 守衛。

 野次馬。

 新聞、雑誌社の記者。

 警察。

 そいつらに向かってクラクションを鳴らして突っ込んで来る一台の車があった。

 現代のものとは思えないボディの車。

 アルセーヌたちが未来から乗ってきたというタイムモービルだ。

「誰か轢くんじゃない」

 どうやら整備が済んだらしい。

「そんな奴じゃないよ」

 ドリフトして大英博物館、入口前の階段で止まる。

 つまりあたしたちの手前。

「ここに入れろ」

 後ろの扉が開いた。

 犬だった。

 シャーロックが運転していた。

「うっそ」

 信じられない。

「ローレライ、ロゼッタストーンを滑り落して、あの中に入れるぞ」

「失敗したら割れるかな」

「大丈夫だろ、昔からあるんだし」

 あたしはロゼッターストンを押した。階段を滑り落ちてく。

「よかった」とあたし。

 ロゼッタストーンはすっぽりとタイムモービルに収まった。

「俺たちも行こう。乗り込むんだ」

 アルセーヌの声に続いた。「逃げるぞ」


   ★


「私はドライバーだって言ったろ?」

 アルセーヌが「早く」とあたしの身体を車に押し込んだ。

「犬の運転なんて信用できない。あんたが運転してよ」

「シャーロックのほうが俺より上手い」

 運転席は犬用だ。

 とても小さく造られている。

「プリムスフィルに行った時はアルセーヌが運転してたじゃない」

「タイムモービルはシャーロック専用車だ」

「マジで言ってるの?」

「マジだ。シャーロック、早く出せ」

 とか言ってる間に車は走り出した。

 アルセーヌが運転していた時は決して出さなかったような轟音を立てている。

「こいつの速さは驚くぞ、ローレライ」

 自慢っぽくシャーロックが言った。

「もーなんなのー」

 けど言った通りだ。加速が尋常じゃない。

 そのまま大英博物館を囲む柵へと突っ込んでいく。

 周りの人間は危険を感じて、左右に倒れるようにして道を開けた。

「ぶつかる!」

 思わず叫んだ。

「大丈夫、飛ぶ」とシャーロック。

「飛ぶ?」

「少しだけ飛ぶのさ」

 シャーロックがハンドルの横にあるボタンを叩いた。

 犬の言った通りだ。

 あたしたちを乗せた車は、少しだけ飛んだ。

 跳躍という言葉が正しいだろう。

 とにかく柵を飛び越えたのだ。

「俺たちは未来から来たんだ」

 後部座席のアルセーヌが言った。

 何度聞いても呪いの言葉にしか聞こえない。


   ★


タイムモービルが車なのはわかった。あたしがこれまで見て来たものとデザインが違ったけど、タイヤがあって、運転席があって、ハンドルがあって、そういう核となる部分が同じだから、これは車だろうなって納得してた。

 そう思っていたもんだから、今まであたしが乗ったことのある車と同じようなスピード、同じような乗り心地で走るものだとばかり考えていた。勝手に。

「シートベルトを締めろ、ローレライ」と運転席のシャーロック。

 この車は犬が運転しています。

「シートベルトってなに?」

 犬用運転席に座るシャーロックに訊いた。

「これだよ。でかいおっぱいで挟むんだ」

 後ろからアルセーヌの手が伸びて来た。黒いベルトを引っ張り出し、あたしの胸の谷間に押し付け、身体をシートに固定する。

「どうして縛るのよ! 変態!」

 赤い髪の毛を引っ張った。

「安全の為だ!」

「何が安全よ!」

 急ブレーキ。身体が前のめりになるがベルトが転倒を防いでくれた。

「これが安全だ」

 シャーロックが、レバーを入れ替える。「バックするぞ」

 確かに前には乗り合いバスがいて進めそうもない。後ろを見た。あたしたちを追いかけてきている騎馬がいた。馬が急にバックして突っ込んできたタイムモービルに怯えて、道を開ける。よかった。首が飛んで、足を骨折した馬と守衛の姿なんて見たくなかった。

 切り返して、再び前進。

 加速してさらにもう一段階加速した。

「どこまで出るの?」

「ドイツのアウトバーンでは六百まで加速した」

「訳わかんない!」

 ドイツ、しか理解できなかった。

「私はスピード狂なのさ」

 犬の癖に。

 短い後ろ足でアクセルを踏み込んでいる。

 すごい圧を感じた。シートに押しつけられる。シャーロックは細かくハンドルを切り、車道の隙間を縫うように走りながらも、決してスピードを緩めない。

「追手はどのくらいだ、ローレライ」

 後ろを確認する。

「馬が三頭くらい」

「余裕だな」と犬が言う。「そいつらを振り切ってから言っても、テムズ川まで五分もかからない」

 ロゼッタストーンの受け渡し場所はテムズ川だ。

「ほんとなの?」

 ちなみにそれは嘘だった。

 三分で着いた。


   ★


 車を降りる。十二月の冬だ。寒いに決まってる。

「寒い」

 しかもテムズ川。プールオブロンドンと呼ばれる大量の船が停泊する岸辺。風が強いの何のって。「どれがシャヌフの船なの?」

 船だらけだ。昼間の往来が多い時間帯なんかは、船と船を飛んで渡れば向こう岸まで行けると言われているくらいだ。停まっている数も尋常じゃない。

「どれだろうな」

 シャヌフと約束した場所はここだ。ここの船のどれかがリチャードのものらしく、シャヌフはそれでエジプトに帰るらしい。

「ここだ。ミスター・アルセーヌとミス・ローレライ」

 悪党ってのはこうじゃなかきゃね。こういうナイスタイミングで、暗がりから、なんかニヤニヤしながら出て来なきゃいけない。部下を三人引き連れている。

「悪かったな。三十秒だけ遅刻した」とアルセーヌ。

「私も今来たところだ」

 なんで恋人同士みたいなやり取りしてんの、こいつら。「三十秒は大目に見るよ」

「ロゼッタストーンはどの船に乗せればいい?」

「目の前のものだよ。あれがそうだ」

「ローレライ、後ろのトランクを開けてくれ」

「えー、あたし」

「最後の仕事だよ」

 そう言われたらやるしかない。確かにこれで、シャヌフにロゼッタストーンを渡せば、『賢者の石』が手に入る。後ろの扉を開けるくらいお安い御用だ。

 あたしは扉を開く。

 ちょっと奇妙な感じだった。

 シャヌフは黙って近づいてくる。部下三人と一緒だ。

「よし。確かにあるな」

 タイムモービルの後ろに積み込まれたロゼッタストーンを見て、シャヌフは言う。

 その顔を見たとき、奇妙な感じが嫌な感じに変わった。

「やれ」

 部下たちに呟く。

「ちょっとなに!」

 首に手を回された。気づいた時は、部下に取り押さえられていた。やっぱりあたしって運がない。シャヌフが腰の銃を抜いた。あたしの頭に向ける。

「ミスター・アルセーヌ。申し訳ない」とシャヌフ。

 一応、悪いとは思っているらしい。残り二人の部下がタイムモービルからロゼッタストーンを運び出している。

「あの石版と俺の欲しい石を交換してくれるんじゃなかったのか?」

 アルセーヌは一歩前に出る。

 銃声がした。シャヌフが撃った。アルセーヌは止まる。

「動かないで欲しい。ミスター・アルセーヌ」

 空に向かって撃ったのだ。それからまたあたしの顔に銃口を向ける。「次はミス・ローレライの頭を砕くことになる」

「欲張りなんだな」とアルセーヌは言った。

「私はあの石に興味がある」

「石の専門家だったのか」

「あなた方が『黒い鳥の彫像』やロゼッタストーンを盗むという危険を冒してまで手に入れたいと願うものだ。値打ちがあるものに違いない。それにあれには不思議な魅力がある。とても魅力的だ。渡すのは惜しい」

「ほんとか? シャヌフ。だったら鋭いな」

「実を言うと嘘です。あれは『賢者の石』でしょう」

 どうして知ってるの? 「錬金術はエジプトが発祥ですからね。エジプト政府が私をリチャード・ホールトンの元へ派遣した理由はこれです。奴隷制度のある中世でもないのに、エジプト人がイギリス貴族の従者を志願するなんておかしいでしょう」

「ロゼッタストーンなんてどうでもよかったってこと?」とあたし。

「あなた方は腕が良いので、おまけで取り戻すことにしたのです。私が開けることの出来なかったホールトン家の金庫を簡単に開けることが出来ましたからね」

「それじゃ金庫の番号は教えておくよ。六七五二○の五桁だ。今度は自分で開けるんだな。こあの船もリチャードのものなんだろ?」

「ご親切にどうも」

「利用した気分は?」

「ラッキーでした。ミスター・アルセーヌ、それにミス・ローレライ。あなたが方は期待以上の働きでしたよ。私の目に狂いはなかった。リチャードから『賢者の石』を盗み出したこの二人なら、もしやロゼッタストーンも取り戻せる。その考えは間違いじゃなかった」

「『黒い鳥の彫像』も盗ませただろうが。忘れんな」

「あれもついでです。まあ私もあの成功で実力が嘘じゃないと信じました。だからロゼッタストーンの盗みを依頼した。石橋を叩いて渡るタイプなので、すぐに大英博物館に忍びこめなんて言えませんからね」

「男じゃないな」

「コソ泥に言われたくない。では、船が出航しますので」とシャヌフは歩き出す。

「お前だってリチャードの船、盗んでるだろ」

「クリフはどうなるの? 解放してくれるの?」

 せめて弟だけでも助けてよ。

「あなたの弟さんと太った叔父様は、オスカーコートの客間で手足を縛ってあります」

「ちょっと何それ!」

 可哀想なクリフ。リチャードは自業自得よ。そのまま朽ち果てればいい。「あんたほんと碌でなしの悪党ね!」

「勝った者が正義なのです」

 そんな台詞、あたしも言ってみたいわ。「では、行きましょう」

「え? ちょっと、なに」

 けど、そりゃそうか。

 あたしは連れ去られた。


   ★


 甲板で監視された。身動きが取れない。下手に動いたらどうなるかわからない。夜風がきつい。せめて室内なら良いのに、なんてこと考えてたら、景色が動き始めた。船が出航したってわけ。

 行き先はたぶんエジプトなんだろうな。

「こんばんは」

 敵だらけだ。見渡す限りエジプト人。全員シャヌフの手先に違いない。屈強な船員たちも、エジプト軍の出身なのだろうか。

「もしもし」と確認。

 反応はなし。「英語通じる?」

 どうやら通じないらしい。

 あたしは連れ去られて、孤立した。


   ★


 シャヌフの命令はエジプトの言葉だ。何を言っているのか理解不能だけど、あたしが縄で縛られたところを見ると、船員と談笑したかったわけないってのはわかった。

「離して!」

 両手、両足を縛られた。出航してからすぐに芋虫状態だ。状況はどんどん不味くなっていく。困ったけど、何も出来ない。

「離すはずないだろ」とシャヌフ。

 確かにそうだ。ここで縄を解いたら、何のために縛ったのだろうか。

 だが納得するばかりではいられない。

「『賢者の石』、約束したんだから寄こしなさいよ」

「私は約束を破りました。ミス・ローレライ」

「なんて正直者」

 しかし裏切り者でもある。「そんなはっきり言わないで」

「ミス・ローレライは非常に元気だ」

「あんたが『賢者の石』寄こさないからでしょ」

「私利私欲のために『賢者の石』を欲しがる、あなた方とは根本的に違う。私は祖国の為に働き、祖国から奪われたものをあるべき場所へ戻しているだけだ」

「石頭。祖国なんてどうでもいいじゃない」

「イギリス人はこれだから駄目ですね。愛国心なき人間ほど卑しいものはない」

「約束破るやつに言われなくないわよ」

 何が愛国心だ。ばかやろー。

「負け犬の遠吠えですよ。今、私はあなたを見下ろし、あなたは私を見上げて、キャンキャン騒ぐだけだ。手足を縛られて、口先だけで『賢者の石』を寄こせと叫ぶ。無駄な努力というものです」

 悔しい。

 どうしてあたしはこんなにも弱いのだろうか。ほんとシャヌフの言う通りだ。

「確かにそうかもしれない――」

 呟いた。

「殊勝な態度ですね」

 少しだけシャヌフの様子がかわる。これはもしや――。

「ねぇ」とあたし。

「なんですか?」

「あたし、これからどうなるの? このままエジプトに連れて行かれるの? それとも海に沈めるの?」

「海に沈める」

 マジで。

「そんなの嫌。お願いだから、お願いだから助けて」

「今度は命乞いですか」

「お願い。何でもする。何でもするから助けて」

 シャヌフの視線があたしの胸元に落ちた。

「何でもするのですか?」

「あなたの為なら何でもするの」

「ふーん」と鼻を鳴らす。

 そうだ。

 そうやって下心を働かせて、あたしの身体を舐めるように見るがいい。

「ねぇ」

 猫なで声。初めて出したにしては意外に上手くいった。さすが、あたし。女優の才能があるのかもしれない。「命だけは助けて」

「わかりました」

 来た。かかった。「何でもするのですよね?」

 シャヌフも軍人とはいえ、所詮は男だ。性欲があるに決まってる。あたしは美人で巨乳。ふふふ。これが本当の色仕掛けってやつよ。

「うん。あなたの為なら何でもする」

 あともう一押しだ。「だからどこか人の目がない場所に行かない? ここだとみんなが見てる。さすがにあたいでも恥ずかしい」

「いや、私は見られた方が興奮するのです」

 クソー。こいつ変態だー。

「じゃせめて、この手足の縄だけは解いてくれない? これじゃあなたを満足させられない」

「いや、私は縛った女に興奮するのです」

 クソー。筋金入りじゃねーか。

 なんか確かに筋肉隆々の軍人のくせして喋り方とか馬鹿丁寧だし、どっかおかしいとは思ってたけど、性的思考が妙な方向に振り切ってるじゃん。

 普通ならここで、色仕掛けに嵌った男は、あたしを個室に連れて行って縄を解くでしょ。それで、向こうを先に丸裸にさせて、洋服を着ている自分はダッシュで部屋から出る。向こうは裸だから声を出すだけで、すぐには追いかけて来れないっていう、一味違ったナイスな作戦が展開されるんじゃないの。そうなるはずなのに、どうしてあたしの目の前には、こんな誰かに見られながら&縄で縛った女に興奮する男がいるわけ。

 あぁ、もう最低。

 最悪だ。

「あたしはそういうの嫌」

 もうこうなったらハッキリ言ってやる。

「そうだと思いました。私もあなたが大嫌いですからね」

「へ?」

 え。なに、どういうこと?

「私があなたのちんけで低レベルな色仕掛けに引っかかるとでも思ったのですか」

「えぇ?」

 驚きは続きました。

「ミス・ローレライ、あなたは馬鹿です。そして私は賢い。私は誰かに見られて興奮したり、縛った女でさらに興奮したりするような変態ではない。あなたを少しからかっただけなのですよ」

「もう散々」

 騙された。弄ばれた。

 落胆するあたしの横で、シャヌフが部下に指示をした。

「なんて言ったの?」

 聞いてから後悔した。良いことを言うはずがない。

「こいつを海に落とせ、と言いました」

「こいつって?」

「ミス・ローレライ、あなたです」

 屈強なエジプト軍人は意図も簡単にあたしを抱え上げた。

「え、ちょっと!」

 そのまま放り投げられた。

 海に。


 ★


 今、この瞬間。あたしは手足を縛られたまま、海に放り投げられた。

 宙に浮かぶ前に、ちょっと叫んだりもしたけど、言葉の通じないエジプト人には無駄だった。

 あたしは飛んだ

 怖いとか感じる間もない。

 けど駄目だな、とは思えた。

 もう終わった。あたし死んだ、って。

 走馬灯とかなかった。手足を縛られた状態で海に落ちたら、溺れて無残に死ぬんだろうな。それだけ。ブロンド巨乳美少女、ローレライ。ここに果てる。ジ・エンド。フォーエバー、あたしの想い。

 空が見えた。すぐに遠ざかる。あたしは重力っつーもんを知ってる。海に近づいているからだ。もう少しで海面。

「おかえり」

 お。

「おかえり」

 二度目。

 空が見えなくなる。代わりに出て来たのは、アルセーヌの顔だった。

 状況を整理しよう。首を回して、周りを確認する。横にはシートが二つ。あたしの下はクッション。アルセーヌが傍にいて、「無事か? ローレライ」とシャーロックの声が聞こえてくる。

「ただいま」

 とりあえず挨拶はしっかり。

 海には落ちてない。落ちなかった。何かの上に落ちた。「船?」とあたし。

「船じゃない。車」

 アルセーヌはあたしの縄を解きながら「タイムモービル」と続けた。

「あの、さっき乗ってたタイムモービル?」

 二人が未来から運転してきたという車。天井が開いていた。

「水陸両用だって言ったろ?」とシャーロックの声。あたしの横にあった二つのシートは、運転席と助手席だった。覗きこむと、犬が運転してる。あ、これはさっきと同じだ。

「なんでもっと早く助けに来なかったの!」

「全速力で迎えに来たろ」

 タイムモービルはシャヌフの乗った船を追いかけている。「そしたら突然、ローレライが海に、ぽーんって放り出されるから、こっちは大慌てだよ」

「私のドライビングテクニックのおかげだ」

 ハンドルを操作するシャーロックがいった。

「お礼は?」とアルセーヌ。

「ありがとう」

 もちろんあたしはしっかり感謝の言葉を口にする。

どうやら本当に海の上を走っているようだ。

「おい、お前ら。シートにしがみつけ」

 シャーロックから不吉な指示が出た。

「今度はなに?」

「銃撃だ」

 銃声と共に、タイムモービルが減速し、車体を傾けた。振り落とされまいと必死にしがみつく。

「あいつら容赦ないな」とアルセーヌはぼやく。

「未来の技術で何とかならないの」

 頭を打った。そうだ。シートベルトをしめなきゃいけない。シャーロックが運転する限り、がんがん振りまわされてしまう。

「ウルトラスーパーな道具とかないわけ?」

 このタイムモービルみたいにもっと便利なものがあるはずだ。

 だって未来なんだもん。全ての銃撃を無効化するような装置とか、全てのエジプト人と仲直りするような機械があったって、あたしは驚かない。むしろ大歓迎。「なんかすごい便利なものでさっさと終わらしましょう」

「あるよ」

 シャーロックが答えた。よし。

「早くして」

「俺じゃ手が届かない」

 激しい銃撃が続く。向こうは数の暴力であたしたちを圧倒しようとしてる。「ローレライ、助手席の下にあるボタンを押してくれ。おい、アルセーヌ。準備しろ」

「わかった」

 で、動かなくちゃいけないから、結局シートベルトを外す。

 後部座席の下に両手を突っ込むと、力いっぱい持ち上げて、ひっくり返した。

「なにこれ」

 あたしは言った。

「簡易砲台」

 シートは後ろのトランク部分を巻き込みながらひっくり返り、アルセーヌの言った通りの小さめの大砲になった。「こいつが未来の兵器だ!」

 やばい。未来はやばい。

「ローレライ、助手席の下だ。安全装置がそこにある。早く押して解除してくれ」とやる気満々のアルセーヌ。

「わかったわよ」

 立ち上がる。「ほんと、どうして、そんなとこにボタンをつけたの」

「ああ!」

 シャヌフの船から撃たれる銃弾を避けるために、タイムモービルが揺れた。あたしは尻もちをつく。腰を打った。海の上だと足場は常に不安定。

「馬鹿犬」

 腰を打ったついでに悪態もついておこう。

「私がハンドル切らなきゃ、頭吹き飛んでたぞ!」

「命の恩人ってことね!」

「だって、ローレライ、今日誕生日だろ?」とシャーロック。

「今日って何日?」

「十二月二十一日だよ」とアルセーヌ。

「確かにそう!お祝いしてくれるの?」

 十七歳になりました。

「十年後な」

「くそったれ!」

 再び立ち上がり、助手席に手を伸ばした。ボタンを見つける。

「これ、押すわよ」

「こっちはオッケーだ」とシャーロック。「アルセーヌは?」

「オッケー」

「じゃ押すから!」

 ポチっとな。

 アルセーヌの簡易砲台から鎖が飛び出た。そのまま放物線を描いて、シャヌフの船に突き刺さる。

「わお」とあたしは驚いた。

「そういうリアクション、アメリカ人っぽいって言われない?」

 アルセーヌは装置を下ろした。

「未来でもアメリカ人はこんな感じなの?」

「いや、もっと厄介だよ」

 アルセーヌが簡易砲台のボタンを押した。鎖の先、甲板が爆発した。「これアメリカ製」

 船員たちの悲鳴が聞こえる。ちょっと悪いことをした気分だ。

「飛び乗るぞ」とシャーロック。

「もしかしてこのまま?」

 そういえばこの車、空をちょっとだけ飛ぶ。

「理解が早いね」とアルセーヌ。「掴まって」

 なるほどね。未来はこういう感じなのね。やっとわかった。

 吹っ飛んだ。


   ★


 爆発し、混乱する甲板の上に、鎖に繋がれた大きな鉄の塊が飛び込んできたら、どんな気分だろう。

 もしあたしが船員だった運命を呪う。

「よし、ついた」

 シャーロックが言った。

 あたしはタイムモービルが飛んだ瞬間に目を瞑り、衝撃と共に目を開いた。あたしにとって本日二度目の船。

 本当にこの車のまま乗り込んだ。

「シャヌフは?」とアルセーヌ。

 甲板はそこそこ広い。船は爆発があったせいで傾いている。船員は救命ボートを出し、我先にと乗り込んでいた。戦意喪失状態。

 見る限り、シャヌフの姿はない。

「中かな」

「降りよう。あいつを探し出す」

「けどどこにいるかもわからないじゃん」

「ふふ、ローレライ。未来を舐めちゃいけない」

「まさか、また未来の兵器?」

 まぁさっきの砲台は未来らしさの欠片もない強引な武器だったけど。

「俺たちには鼻がある」

 アルセーヌがシャーロックを見た。「犬は20世紀でも人捜しのプロフェッショナルだろ?」

「お前、私のこと馬鹿にしてるだろ」とシャーロック。

「とっとと降りろよ、最後はお前の鼻で決着をつけるんだ。シャヌフの匂い、覚えてる?」

「こっちだよ」

 あたしたちはシャーロックに着いていく。

「信用できるの?」とあたし。

 ちなみに結果から言うと、犬の鼻は偉大だった。

 シャヌフはすぐに見つかった。


   ★


 一等船室という場所に入ったことはない。もちろん船に乗るのも今日が初めてだ。中に入ると結構広くて、豪華だ。ホテルのスイートルームにも行ったことはないけど、きっとたぶんこんな感じに違いない。

「『賢者の石』を渡して貰おうか」

 扉を開け、部屋に入るなり、アルセーヌは言った。約束を破った悪党に挨拶なんて要らない。要件を伝えて、それだけ。

 シャヌフは金庫の前に立っていた。たぶんその中にある『賢者の石』を回収してから、救助ボートに乗るつもりだったんだと思う。

「あたしたち、もうちょっと遅く来るべきだったんじゃない?」

「たぶんそうっぽい」

 シャヌフが金庫を開いてからでも良かった。そしたら無理やりにでも奪えたかもしれないのに。

「意外に早いもんですね」とシャヌフ。「もうちょっと遅く来れば開いたのに」

 ほら、やっぱり。

「犬がいてね。鼻が効くんだ」

「そうですか」

 感心しているようだ。ついでに観念してくれればいい。金庫を開けてくれ。

「さっさとそいつを渡しなさい、この悪党め」

 あたしが言うと同時に船が大きく傾いた。そろそろ沈没するのかな。ちなみにあたしは泳げない。人間は陸の生物だからね。

「祖国を裏切るわけにはいかない。錬金術はエジプトから始まり、よって『賢者の石』も同じだ。全てはエジプトに戻らなくてはならない」

「諦めろ。この船も沈む。ロゼッタストーンも沈む。お前も沈む。だがお前だけ沈まずにいる方法が一つある」

 また船が大きく揺れた。どこかで何かが折れる大きな音がした。そういえば去年沈んだタイタニックは真っ二つに割れたらしい。たぶんあたしたちの船もそうなんだろう。ただただ困る。

「『賢者の石』を渡せ、シャヌフ。お前の命はとらない」とアルセーヌ。

「絶対に渡せない」

「金庫を開けるんだ」

 壁の隙間から海水が染み込んで来る。

「アルセーヌ、もうヤバイんじゃない?」とあたし。「このままじゃ溺れる」

「金庫を開けろ、シャヌフ」

 あ。同じ言葉を繰り返してる。これはもしや打つ手がない?

「私には出来ない」

 頑固者。「お前のような賊に渡すくらいなら、ここで沈む」

「なんでそうなるのよ!」

 何一つ得がないでしょ。「絶対に渡したほうが得じゃん」

「これは論理を超えた問題なのです。ミス・ローレライ。祖国への忠誠心と己のプライドの問題なのです」

「男っていつもそう。そういうわけのわからないものに命張りたがる」

 ロマンチックはいいけど、自分に酔うのは止めて欲しい。

「ほんとうに渡さないのか?」

 アルセーヌの確認。「まだチャンスがある」

「私には命大事な信念がある」

「そうか。残念」

 撃った。

 アルセーヌは海水が染み込んで来る壁を撃った。丁度、シャヌフの横だった。亀裂は広がり海水が流れ込む。滝のような海水がシャヌフを攫っていく。

「行ってしまった――」

 人って呆気ない。

「しょうがない。あいつの名誉の為だ」

「金庫は?」

「持って帰る」

「嘘でしょ? 絶対重い」

「私もそう思う」とシャーロックも同じ意見。

「わかった。ここで開ける」

「海水、どんどん入って来てるんだけど」

 あっという間に膝の下まで水浸し。

「時間がないのは重々承知」

 アルセーヌと一緒に金庫に近づいた。

「自信は?」

「あるよ」

 拳を鳴らすアルセーヌ。

「どうして?」

「リチャードの家で金庫開けたの俺だよ。覚えてない?」

「あ、そっか」

 その時、客間でリチャードの相手してたから直接は見てないけど、そうだった。

「そのときはどのくらいかかったの?」

 もう海水が腰まで来てる。

「うーん。五分くらいかな」

「遅いよ」

 船が傾く。

「任せなさいって」

「ほんとにいいの?」

 アルセーヌがつまみに手を掛ける。「ねぇ、ほんとに大丈夫?」

「今度は五分もかからない」

「どうしてそんなに自信満々なのよ」

 このままじゃ沈む。

「なぜなら、もう開けたから」

「うっそ」

「同じ番号だった。リチャードの船にあるリチャードの金庫だからね。六七五二○の五桁」

 アルセーヌの手には正真正銘、『賢者の石』があった。

「自信あったんだ」

「暗証番号って同じ番号にしがちじゃない?」

「まぁ確かに」

 賢者の石を渡される。

「これが本物」

「その通り」

 そこで世界がひっくり返った。壁が床になって、天井が壁になったのだ。あたしたちは転がる。

「なにこれ!」

 海水の量が増してた。「どういうこと?」

「船が割れたんだろ」とアルセーヌ。

 さっき考えていたタイタニック状態か。

「シャーロックは?」

「私は犬かきが出来る」

 表情は涼しそうだけど、手足を必死に動かして、浮かんでいる。悪いけど滑稽だ。犬かきってこんなもんか。

「やばい」

 海水は冷たい。もう肩まで浸かっている。「あたし、死ぬ!」

 入ってきた扉が天井にあった。扉が砕けて、また海水が降ってきた。

「ローレライ、大丈夫か」

 声を返せない。駄目だ。口を開くと、しょっぱい海水がどぼどぼ入って来る。海に比べてたら狭い部屋なのに、こんなに激しく波打つなんて。もう顔を上に出しているだけで精一杯だ。冷たいし、苦しい。

「ローレライ、こっちだ。この手を握れ」

 アルセーヌは泳ぎが得意みたいだ。

「早く出ないと。上へ、上へ行かないと!」

 あたしはアルセーヌの右手を握る。

 このまま船と一緒に沈んじゃう。必死に訴えた。こんなところで死にたくない。せっかく苦労して『賢者の石』を手に入れたのに、これじゃ何もかもが台無しだ。死んだら何もなくなる。嫌だ。絶対に嫌。しかも溺れるなんて。こんな死にかた絶対にしたくない。生きたい。何が何でも生き延びたい。

「上は駄目だ。間に合わない」

「な、ななに――、言ってんの」

 口に水が入った。反射的に吐きだす。

「潜る。潜るんだ」

「どーして!」

「さっきシャヌフが飲み込まれた穴から、船の外に出るんだよ! 俺に考えがる」

 その考えって何よ! と叫ぼうとしたとき、天井が決壊した。ついに部屋から空気が消える。一瞬、目を瞑った。水中で髪が浮くのがわかる。やばい。もういよいよだ。覚悟を決めそうになったら、手を強く握り返された。アルセーヌだ。目を開いた。鍵銃で下を指している。シャヌフが巻き込まれていった穴だ。あたしは頷いた。こうなったら行くしかない。もう死んだようなもんんだ。あとは死ぬのを待つか、死ぬまで足掻くか、どっちを選ぶかの問題。

 あたしは、もちろん後者だ。ローレライは、美しく死のうなんて思わない。ボロボロになるまで足掻くんだ。絶対にそうだ。結局、あたしは必死で汚い感じが似合う美少女ってわけだ。

 シャーロックが先導してくれた。あたしたちは底の穴を潜りぬけ、さらに下へと向かう。


   ★


 一旦、全てが海水で満たされれば、全てが静かだった。底に向かうほど暗くなっていき、最後に残ったのはアルセーヌの胸にある『賢者の石』と、あたしが持ってる『賢者の石』だった。明るいところにいると気がつかなかったけれど、ハート型のこの石は脈打つように赤い輝きを放っていた。

 アルセーヌの手を握る。

 少し息が辛い。

 瓦礫を避けるようにして、船から出た。どこのくらい沈んだのだろうか。夜空が相手じゃ、海面までの高さが全くわからない。頼りになる二つの明りは、微弱で全てを見渡せるほどじゃない。

 やばい――。

 わかっていたことだけど――。

 苦しさを感じてから、ここまであっと言う間だった。呼吸がしたくてしょうがない。喉が締めつけられたように苦しい。

 アルセーヌ――。

 声に出せない辛さ。

 もう一度、握っている手を強く握った。

 限界が近い。

 視界が霞む。

 息を吐いた。海水を飲み込でしまう。苦しい。

 アルセーヌ――。

 彼があたしの手を離した。

 え? どうして?

 アルセーヌの顔は吐いた泡で見えない。なんで言っちゃうのよ。あたしを助けなさいよ。どうしてこんなブロンド巨乳美少女を置いていくのよ。あたしが『賢者の石』をこの手に持ってるのよ。

 助けなさいよ。あたしを――。

 泡が消える。

 アルセーヌの顔。

 笑ってやがる。

 何笑ってんのよ――。

 けど駄目だ。反撃できない。動けない。もう死ぬ。

 アルセーヌは――、右手を振ってる。

 何か持ってるの? 

 あ。

 リモコンだ。赤く光った。

 ん?

 下から何かが迫ってくる。

 それは沈んだタイムモービルだった。


   ★


 アルセーヌはあたしの手を掴んだ。そして浮上していくタイムモービルにくっついて、そのまま海面へと上がった。もちろんシャーロックも一緒だ。


   ★


「ぷはぁ!」

 海。

 夜空。

 お月さま。

 空気。

 そして、『賢者の石』。

 けど寒い。

「生きてる!」

 あたしは叫んだ。「生き延びた!」

「だろうね」とアルセーヌ。

 それからあたしたちはボンネットの上に乗る。シャーロックは窓から運転席に乗り込んだ。ハンドルを握っている。

 ゆっくりとタイムモービルは陸に向かって進み始めた。

「ロンドンに戻ったら、未来に戻るよ」

 アルセーヌが言った。

「そういうこと今、言うわけ?」

「言ったね」

「今度、いつ会えるの?」

「さぁ。なんせ俺は未来から来たからね」

「またむかつくこと言う」

「俺はてっきり君が、さよならのキッスでもしてくれるとばかり思ってた」

「あたしがそんなことするわけないでしょ」

「巨乳でブロンドなんだから、もっと軽い女じゃなきゃ駄目だろ」

「失礼言わないで。喧嘩するなら、ここから落とすわよ」

 それからあたしたちはロンドンに戻るまで口喧嘩をした。

 もちろん別れのときはお互い号泣だったんだけど、それはまた別の話ね。


   ★


 クリフがいるプリムスフィルのオスカーコートに着いたのは明け方だった。

「これをクリフに使えば治るのよね」

 手には『賢者の石』。こいつの為に、どれだけ苦労をしたことか。

「クリフに飲み込ませろ」とアルセーヌ。「無理やり口に突っ込むんだ。それで病気が治る」

 あたしはタイムモービルの外。

 もっと正確に言うと、あたしだけ外。つまりアルセーヌとシャーロックはタイムモービルの中。助手席から顔を出して、あたしと話してる。

「ほんとにそれだけでいいの?」

「それだけでいい。そうすれば、『賢者の石』はクリフの身体に取り込まれるはずだ」

「何でも知ってるのね」

「未来から来たんだ」

「ほんとに?」

 何度聞いてもむかつく台詞。

「ほんとだ」

「一緒に来て見届けなくていいの?」

 アルセーヌはすぐ未来に戻るという。あれだけ余裕ぶっていたのに、最後はこれだ。

「もう行かなきゃいけない。タイムトラベルには制約も多いんだ」

「あ、そう」

 なんかそんなこと前も言ってたな。

「あのさ、ローレライ。何か言うことあるんじゃないの?」

「あなたこそ」

「ありがとう。ごめんなさい。またいつかどこかで」

 アルセーヌは手を振った。

「こちらこそ、ありがとう。ごめんなさい。またいつかどこかで」

 あたしは助手席を覗きこんで、シャーロックにも同じ台詞を言う。「ありがとう。ごめんなさい。またいつかどこかで」

 あたしが伝えるとシャーロックも「ありがとう。ごめんなさい。またいつかどこかで」と言った。

「じゃ行くから」とアルセーヌ。

「せいぜい楽しくね」

「そっちこそ」

 助手席の窓が閉まった。タイムモービルが走り出す。加速し、あっという間に遠くに行ったと思ったら、ふわりと浮き上がり、視界から消えた。

 行ってしまった。

案外、呆気ないもんなんだな。

 一体、何だったんだろうか。あたしは持っている『賢者の石』を見る。それを見ても何だったのはわからない。

 けどまぁ、楽しかったことは確かだし、なんか救われた気がしなくもない。


   エピローグ


「これが話の顛末」

 あたしは二十七歳になった。話しているうちに日付が変わっただけの話。

「なんだよ、それ」とニック。

 この間にジョッキが三杯空になった。他の客はもういない。話の途中で帰ってしまった。別に寂しいとは思わない。この話をするときはいつもこうだ。あまりの荒唐無稽さに、みんな適当に用事を作って席を立つ。

「つまんない?」

「まぁまぁだな」

 ニックは善人だ。酔っ払っても善人っていう奴はなかなかいない。

「帰るの?」

 ニックがカウンターにお札を置き、立ち上がる。

「もう夜が明ける」

「そうね」

 あたしは空いたジョッキを片付けはじめた。いつの間にかニックは店から消えていた。

 アルセーヌが居なくなった一年後、世界大戦が始まった。それをきっかけっていうのはおかしいけど、あの大戦で色々と世の中は変わった。あたしたち労働階級にも少しチャンスが巡って来ることも多くなったってわけだ。少しずつ世界が平等に進んでいった。

 ここに店を開いたのが二年前。それから毎日のように働いている。優雅じゃないけど、昔よりは良い生活をしてると思う。もちろんお金があるなら、もっと欲しい。けどここの常連は貧乏人ばかりだ。あたしが提供するのは安いビールだし、きっと大金持ちにはなれないと思う。

「やってる?」

 店の扉が開いた。

 ニックの言った通り、確かにもう夜が明ける。明るい光が差し込んできた。

「閉まってるよ」

 カウンターを拭きながら答える。

「外に看板出たままだけど」

「明日の分」

「あ、そう。けど今日がいいな」

「もう何なのよ」

 顔を上げた。

 赤い髪の男の子が立っていた。

「ちょっと老けたなローレライ」

 笑ってやがる。

 この野郎。十年もこの金髪巨乳美女をほったらかしといて謝罪の一つもないなんて。

 全くどうなってるんだか。

「ここは未成年は禁止なんだけど」

 タイムトラベラーは嫌だ。全く歳を取っていないんだもん。「今度は何の用?」

 足元には犬もいる。こいつも変わってない。背広を着て葉巻を吸っている。

「エメラルドタブレットっていうもんを捜してる。第一次世界大戦で所在がわからなくなったんだ」

 赤い髪の男は言った。「ちょっとだけ協力して欲しい」

 さて、どうしよう。

「今度は一緒に行く必要なんてないんだけどな」とあたし。

「金ならある。理由になるだろ?」

「けど、その前に言うことあるでしょ?」

「あ、ごめん。忘れてた」

「はい、どうぞ」

「誕生日おめでとう」

「よし。二十七歳となった美女ローレライが着いて行ってやろう」

 しばらく休業。

 軒先にかける札の用意を始めた。

「それで、どこに行くのよ? アルセーヌ」

 あたしは聞いた。ここから空前絶後、阿鼻叫喚、波乱万丈の物語があるんだけど、それはまた次の機会にでも。

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アルセーヌ・セブンティーン 友村由 @tomomurayoshi0527

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