第4話 未来

 ミキは行きつけのカフェでアイス珈琲を飲んでいた。ここで土曜の朝を過ごすのがミキの楽しみのひとつでもある。梅雨の時期ではあったが、この日はよく晴れ渡り湿度も低いので、通りに面した店先のテーブルに座っていた。繁華街にあるこの店は土曜の朝というのにかなり賑わっている。ミキはアイス珈琲を啜りながら、お気に入りのミュージシャンの曲を聴いていた。ピアスに見えるチップから脳に直接信号を送りそれを身につけている人間、もしくは共有状態にある仲間にだけ聞こえる仕組みだ。ボーカルのちょっと擦れた甘い中性的な声が休日の朝のぼんやりした時間にマッチしていた。

 踝の辺りに心地よい感触を覚えてミキは目を覚ました。いつの間にかうたた寝をしていたようだ。足下を見ると一匹のトイプードルがつぶらな瞳でミキを見上げている。迷い犬だろうか。リードが首輪に掛かったままだ。周辺を見渡したが飼い主らしき人物は見当たらなかった。獣医師や愛護団体の人間はペットの飼い主の情報を得る権限を持っている。ミキはARディスプレイを開いてトイプードルをスキャンしチップから飼い主の情報を得た。飼い主は松浦圭子という人物のようだ。文字だけのチャットモードで松浦圭子に連絡を取った。

『松浦さんですか? 初めまして。私は川島未来という獣医師ですが、あなたのペットを保護しています。近くにいらっしゃるようでしたら引き取りに来ていただけませんか?』

『あ、そうなんですか? ありがとうございます。はぐれてしまって探していたところです。急ぎ引き取りに伺いますが、どちらへ行けばよいでしょう?』

 ミキはカフェの名前と所在地を知らせて松浦圭子が現るのを待った。ミキはリードを自分の手に引っかけてトイプードルを隣の椅子に座らせた。つい癖で触診を始めてしまう。下顎、足の付け根、膝などのリンパ節に触れてみる。特に腫れもなく健康そうだ。背骨や肋骨の辺りを触ってみる。脂肪の付き具合もよく栄養状態もいいようだ。しかし、左前肢に骨折痕があった。自然治癒したのだろうか。骨にいくらか変形がみられた。

 急にトイプードルの尻尾の動きが激しくなった。飼い主が現れたのだ。年の頃は30歳前後だろうか。松浦圭子を確認したミキは少し違和感を感じた。春先でもないのに松浦圭子はロングのトレンチコートをまとっていた。自律神経に疾患があるのだろうか。要するに冷え性だ。顔色も良いとは言えなかった。

「ナナちゃん!」

 駆け寄ってきて松浦圭子はナナを抱き上げた。ナナは嬉しそうに飼い主の手を舐めている。

「本当にご迷惑をおかけしました。なんとお礼を言っていいか……」

「いえいえ、お気になさらないでください。躾がいいのか、いい子にしてましたよ」

「そうですか、ありがとうございます」

 そう言って、松浦圭子は何度も頭を下げた。

「私、一駅先にある日下部診療所というところで働いていますので、ナナちゃんになにかありましたら連れてきてくださいね。いつでも診察しますので」

「ありがとうございます。その際は是非。彼氏を待たせているので失礼します」

 松浦圭子の後ろには派手なスポーツカーが止まっていて、その持ち主と思しき気取った優男がこちらを見つめている。

「それじゃ、ナナ、川島さんにさよならしましょうね」

 松浦圭子がナナの前足を持って振る仕草をさせた。その可愛い仕草にミキも手を振って返した。


「鈴音、包帯とガーゼを倉庫から持ってきてちょうだい。足りないわ」

「了解です!」

 ナースの格好をした鈴音が元気よく倉庫に向かって行った。琴音の脅しに従って、というわけではないが、鈴音は日下部が引き取ることになった。当初、日下部は引き取ることを面倒くさがり、身寄りの無くなった鈴音を柿沼に任せたかったようだが、鈴音が頑なに拒否した。無理も無い。結果的に柿沼に騙されたのだから。鈴音は自分の将来をどうしたいのか決めかねているようだ。鈴音の人生は鈴音のものだ。大学に行くもよし、専門学校に行くもよし、やりたいことが見つかるまでナースの真似事をさせることにしたのだ。

 倉庫に向かったはずの鈴音が小走りに診察室に戻ってきた。

「ミキさん、急患です」

 鈴音の背後に現れた青ざめた顔の女は松浦圭子だった。ナナを抱きかかえている。ナナは頻りに前足を舐めている。一目で骨折していることが判った。念のためにレントゲンを撮ると、右前肢と左後肢が一カ所ずつ折れており、左前肢にはやはり以前に骨折した痕が認められた。

「骨折は初めてじゃないですよね?」

 処置を施しながらミキは松浦圭子に訊いた。だが、圭子はなにも答えない。どう答えていいのか考えあぐねているようだ。ミキは思い切って言うことにした。

「もし、虐待でナナが怪我をしたのであればナナをあなたにお返しすることはできません。事実をお話ください」

「同居している彼が少し乱暴で……」

 か細い声で松浦圭子が応えた。ミキは頭の中に熱が籠もるのを感じた。そういうことか。

「ミキ、そのひとも診てやれ。入ってくる時に気づかなかったか? 右足首に怪我をしているはずだ」

 隣の診察台でゴールデンレトリバーと格闘していた日下部が振り返りもせず言葉を寄越した。そういえば松浦圭子が入ってきた時、わずかに足を引きずっていた気がした。

「鈴音、彼女のコートを」

「あ、はい」

 鈴音がコートを預かろうとすると、松浦圭子は胸元を両手で押さえる仕草をした。しかし、すぐに思い直したのか大人しくコートを鈴音に渡した。コートを脱いで露わになった腕や足は青あざだらけだった。明らかに松浦圭子はDV被害を受けている。衝撃のあまり、鈴音は凍ったように立ち尽くしている。

「鈴音、松浦さんをあちらの診察台に案内して」

 ミキの声で我に返った鈴音は慌てて松浦圭子を人用の診察台に連れていき横にならせた。首から下は打ち身・打撲だらけだ。右足首は軽い捻挫もしていた。怪我の具合を確認しながら、ミキは頭の中にさらに熱が籠もっていくのを感じる。あの優男を殴ってやりたい気分だ。

「とりあえず、怪我が治るまでナナはお預かりしますが、このままではあなたにお返しすることができません。どうするのか考えておいてください」

 診察を終えて、ミキは松浦圭子にそう告げた。

「どうしたらいいのでしょうか?」

 松浦圭子が不安げな目でミキを見つめてくる。

「立ち入ったことを申し上げますが、同居人と別れるか、あるいは里親を探すか、どちらか選ぶことになると思います」

「そうですか……」

 料金を支払うと、松浦圭子は陰鬱な色をまとったまま診療所を出て行った。

「ミキ、あの女に深入りするなよ? わかってるな?」

 ゴールデンレトリバーとの格闘を終えた日下部はそう言うと居室に引き上げていった。

「わかってるわよ」

 ふてくれされたようにミキは呟いた。

「日下部さんの言葉、どういう意味なんですか?」

 鈴音が興味深げに聞いてくる。

「さぁね、じじぃは心配性なんでしょ」

「きゃはは、じじぃなんて歳じゃないですよ、さすがに」

「そんなことはいいから、診察台まわりの掃除をしておいて」

「はぁーい」

 鈴音は不服そうな返事をして掃除を始めた。


 優しかった父が死んだのは小学校5年生の時だった。交通事故だった。母は父の死から49日も過ぎないうちに男を家に引っ張り込んで住まわせ始めた。夜な夜な母のおんなの声に悩まされる日々が続いた。母は私を空気のように扱うようになり、親子としての距離はどんどん開いていった。

 ある晩、自室で寝ていると下半身に違和感があり目を覚ました。薄暗がりの中、目を開けると下着を脱がされ下半身が露出していた。そして、私の股間には母が連れ込んだ男の顔があった。あまりのことに驚いて声も出なかった。男の顔は異様なほどに歪み恍惚としていて、とても人の顔とは思えないものだった。隣の部屋にいるはずの母を呼ぼうと必死にもがいた。声がどれだけ出ているのかわからないが、母は一向にやってくる気配がない。一生懸命叫んでいると激しい嘔吐感に襲われ夕飯を吐き戻してしまった。夕飯と胃液の混ざった臭いが部屋に充満していく。それで我に返ったのか、あるいは白けたのか、男は、ちっ、と舌打ちすると部屋を出て行った。

 翌日から自己防衛のため枕元にカッターナイフを忍ばせておくようになった。いつ、奴が襲ってくるかわからない。緊張と睡眠不足で夜はほとんど眠れず、もっぱら小学校の授業中や休み時間に寝ていた。

 数日後、男が部屋に忍び込んでくる気配を感じた。母は当てにならない。自分の身は自分で守るしかない。そう決意していた。緊張で身体の震えが止まらない。男の手が自分に触れた瞬間、私はベッドから跳ね起きた。猫のような動きのしなやかさは自分でも驚くほどだった。意表を突かれて男の動きが止まる。その隙に枕の下からカッターナイフを引き出して男の額に切りつけた。男は悲鳴を上げて顔を押さえる。その顔は鮮血で真っ赤に染まっていた。なにごとかと駆けつけてきた母を突き飛ばし、そのまま家を飛び出した。

 夜の街をパジャマ姿で歩いている小学生を警察官が見逃すはずもなく、交番に連れていかれた。名前や自宅の電話番号、住所を警官は聞いてきたが、私は頑として答えなかった。だが、翌日、私の身元は発覚した。なんの連絡も無く欠席した私を心配した担任の教師が母に連絡を入れたのだ。母の応答の不自然さをいぶかった担任がわざわざ私の自宅まで尋ねていき、私の所在を確かめようとした。押し問答の末、私が家出したことを母が口を滑らせしまい、担任が警察に問い合わせて私の身元が発覚したのだった。母と担任が私を迎えに来たが、私は家に帰ることを強烈に拒んだ。あんな変態のいる家に帰るものか。余りに激しい抵抗をする私の姿に不審を抱いた少年課の婦人警官がなんらかの虐待があったのではないかと気づいた。私はその婦人警官と2人きりで話をすることになり、家で何があったのかを伝えた。男は即座に逮捕された。私は家に帰されることになったが、やはり拒んだ。家に戻されたら自殺してやると言い張った。どうせ母は次の男を見つけてきて家に連れ込むに違いなかった。あの家に私の居場所はもう無い。警察と母と小学校が話し合った結果、私はしばらくの間、担任の元で生活することになり、施設が見つかり次第、そちらに移ることになった。


 松浦圭子はほぼ毎日診療所に来てナナの様子を確認していた。

「今日は静かなんですね」

 圭子が診察室を見渡す。ミキしか居ないことを疑問に思ったようだ。

「日下部が出張しているので午後から休診なんです。助手の若い子は非番だから友達と遊びに行ったわ」

「ごめんなさい。あまりお邪魔しちゃ悪いですね」

「気にしないで。私は出かける予定は無いから」

 圭子は膝の上のナナの頭を優しく撫でている。ナナは気持ちよさそうに顎を落とし目を細めている。

「珈琲? それとも紅茶がいいかしら?」

「おかまいなく」

「そう言わずに、少しつきあって」

「では、珈琲をお願いします」

 珈琲を入れて戻ってくると、ナナは松浦圭子の膝の上で眠っていた。

「ナナちゃん、眠っちゃいましたね」

「はい」

 圭子は嬉しそうに答えたがどこか寂しそうだった。

「ナナちゃんをどうするか決まりましたか?」

「まだ決めかねています……」

 圭子は視線をナナに落とした。

「差し出がましいですけど、彼氏と別れることはできないんですか? 圭子さんのことも心配です」

「ありがとうございます。別れたいとは思っていますが、なかなか切り出せなくて……」

 そう言って圭子は溜息をついた。向こうにその気が無いのだろう。別れ話を持ち出せばまた暴力を受けるかもしれない。簡単に決着のつく問題ではないのだ。

 沈黙がゆっくりと流れていく。

「私がもっと強ければ……」

 圭子がぼそりと呟いた。その華奢な身体がさらに細くなっている。

 圭子が弱いということであれば、彼女の置かれている状況は弱さが招いた不幸ということになるのかもしれない。状況を変えるには戦うか逃げるかのどちらかだ。だが、彼女はどちらも放棄しているように見える。意思を放棄した人間は、諦めるしかない、怯えるしかない、ひたすら耐えるしかない。そして、追い詰められればいずれどこかで破綻する。人間の心には限界があり許容量を超えれば壊れるしかない。それは地獄だ。人生が続く限り、地獄もまた続く。壊れた心が生み出す感情の暴流は自分に向かうか他人に向かうか、あるいはその両方か。いずれにしろ誰かを傷つけずには終わらないだろう。地獄を変えるには状況を一変させる必要がある。ミキには第3の選択肢を用意することができる。しかし、察しの良い日下部には釘を刺されていた。

 ミキは珈琲を一口すすった。この苦さを美味しいと思うか不味いと思うかは心の有り様次第だ。いずれにしろ苦いという事実に変わりは無い。この苦さこそが人生そのものだとミキは思った。


 ほどなく私は私立の児童養護施設で生活することになった。施設とはいっても小規模なもので在籍児童は自分を含めて6人。普通の住宅を施設として活用しているタイプだった。施設長は夫に先立たれた70代の老婆だったが、職員や児童の管理がきちんとしていて快適な施設だった。そこで中学3年生までを過ごした。しかし、中学を卒業する春に施設は閉じられることになった。施設長が高齢ということもあり引退して娘夫婦と暮らすことになったのだ。

 高校に進学すると同時に私は新たな施設に移った。施設としては中規模で木造2階建て、収容児童数は20人だった。小学校1年生から高校生まで男子児童12人、女子児童8人が生活を共にしていた。私は中学生以上の4人部屋に入ることになった。

 入所して数日経った頃、入浴しようと脱衣所で服を脱いでいると、どこからか視られている気配を感じた。気配を追っていくと洗面台の電灯の上に小さな箱が置いてある。その小箱には天井灯の光が当たっているが反射具合が不自然に感じられた。箱はホログラムで擬装されており、実際は何か別の物が置かれているに違いない。洗面台に近づき小箱に手を伸ばした時だった。ぐっと腕を引っ張られた。驚いて引っ張られた方を見ると同部屋のユアが居た。ユアは私を部屋の隅に連れて行くと、懇願するような目で私を見て首を横に振った。気づかない振りをしろという意味だった。訳が解らなかったが、なにか事情があるのだろうと思い、その場はやり過ごすことにした。夕食後、ユアをつかまえて問い質したところ、イノシシと呼ばれている30代の男性職員から盗撮するように強要されているということだった。始めは性行為を求めてきたが頑なに拒否していると今度は盗撮を強要してきたらしい。トイレの奥の個室にもカメラが仕掛けてあるという。気の弱いユアをいいように使っているのだろう。中学生以上の女子はみな盗撮を知っているが、イノシシを怒らせて直接的な虐待を受けるよりはましだということで気づかない振りをしているのだった。ユアによれば、男子のなかにも職員から暴力や性的虐待を受けている者がいるらしい。職員のなかにその顔立ちからキツネと呼ばれている40代の女がいた。そいつは自宅に好みの男子を呼び出しては猥褻行為を繰り返しているようだ。だが、詳しいことは女子には判らないということだった。こうした虐待や日常生活上の苦痛を味わっていても施設の子供は大人に訴えようとは思わない。身近な大人である親に虐待されたり見捨てられた子供達は大人を信用したり頼ることはない。大人とはこういうものだと諦めて時が経ち嵐が過ぎ去るのを待ち続けるのだ。私はイノシシやキツネと関わらないように注意して生活していた。施設内でも一人きりにならないように気をつけていたが、誰も居ない階段でイノシシとすれ違った。すれ違いざまにイノシシはこう言った。

「お前、いいからだしてるよな。今度やらせろよ、へへへ」

 卑猥な目つきで私の身体を舐め回した。かっと頭の中が熱くなる。怒りで硬直して動けない。ようやく護身用のカッターを取り出した時、既にイノシシはその場にいなかった。カッターを手に立ち尽くしていると、そっとその手首を掴まれた。自分より年上の少年だった。少年はカッターの刃を元に戻した。

「今は止せ」

 それだけ言って去っていった。彼の言葉は、施設を出るまで我慢しろという意味なのか、或いは、逆襲のタイミングを待てという意味なのか図りかねたが、彼の出現で怒りは幾分鎮まっていた。話したことは無いが私は彼を知っていた。海外渡航中に内戦に巻きこまれて行方不明になり、数ヶ月後に発見された少年だ。当時、メディアが毎日のように大騒ぎしていた。確か、名前は日下部龍司といった。


 湿度が上がり曇りがちの日々が続く梅雨は1年間で最も嫌いな時期だ。音も無く降る小雨はさらに気分を滅入らせる。そんな時に事件は起きた。高校から施設に戻ると、玄関前にパトカーが1台止まっていた。傘をたたんで中に入ると施設内は落ち着きの無い雰囲気に包まれていた。玄関脇の施設長の部屋のドアが開いており職員が集まっていた。警察官の姿も見えた。部屋に行くと先に帰っていたエミに事情を聞いた。ユアが学校の屋上から飛び降りて意識不明の重体だという。エミはユアと同じ高校に通っており、ユアの同級生に聞いた話ではユアがトイレで自慰行為に耽る映像がネットに流出したということだった。咄嗟に思ったのはイノシシだ。あいつがユアに強要したに違いない。そんなものをユアが自分の意思で撮るわけが無い。ネット流出がイノシシの意図なのか偶発的だったのかまでは分からない。しかし、イノシシが撮らせたことは間違いない。証拠を押さえようと浴場の脱衣所に飛び込んだがカメラは見当たらなかった。隈無く調べたがやはり無い。女子トイレのなかも探してみたが見当たらなかった。既に回収されてしまった後だった。告発しようかとも思ったが証拠を消されてしまったのなら、ただの疑惑で終わってしまう可能性がある。告発にしくじればイノシシは私を責め立てるに違いない。考えるだけで気の遠くなるような話だ。隠しカメラのことを知っている同部屋のエミとニコルに相談したが、2人ともイノシシが捕まらなかった場合を恐れて告発を拒んだ。確実なのはユアが意識を取り戻し警察に証言することだ。だが、意識を取り戻すこと無くユアはこの世を去ってしまった。

 ユアの葬式が終わり日常が戻った。まるでユアが存在していなかったと思えるくらい淡々とした日常生活だ。ユアの自殺以降、イノシシは女子になにも仕掛けてこない。反省や後悔からではなく、足が付くことを警戒してのことだ。いずれまた誰かが犠牲になる。そう思うとイノシシへの殺意は募るばかりだった。ユアが可哀想すぎる。少年院へ行くことになろうと構わない。あいつだけは許せなかった。殺意が沸騰しかかっている。そんなある夜、誰かが自分を揺り起こした。男の気配がする。イノシシかと思い、枕の下からカッターナイフを取り出し、とっさに身構えた。目を凝らすと視線の先にいたのは日下部だった。

「なに?」

「急ですまないが、女子をひとりずつ起こして全員で突き当たり奥の非常階段から外に出てくれ。出たら丘の上の公園を目指せ、いいな?」

「どういうこと?」

 なにがなんだかよく解らなかった。しかし、なにか鼻を衝く焦げたような臭いで気がついた。

「なにか燃えてる? 火事?」

 日下部はゆっくりと肯いた。

「落ち着いて女子全員で外に出るんだ。男子の方は俺がまとめて避難させる。急げ」

 そう言い残して日下部は視界から消えた。しばらく日下部の消えた空間を眺めていたが、きつくなる臭いで我に返ると急いでエミとニコルを起こした。次いで隣の部屋に行き小学生たちを起こしていく。6年生と4年生の子はエミに手を引かせて先に非常階段に行かせた。1年生と2年生の子は、ぼーっとして寝ぼけている。仕方がないので私とニコルでそれぞれおんぶして非常階段に向かった。途中で1階に降りる階段の方を覗くと煙が既に立ち上ってきていた。エミたちと合流し階段を駆け下りる。振り返ると1階は既に火の手がまわっており煌々とした炎が揺らめいている。急いで丘の上の公園に避難することにした。公園に着き施設に目を向けると、2階の窓を炎が走っていくのが見えた。そしてなにかが弾けるような音が辺り一帯にこだましていく。激しい音が聞こえる度にエミたちが悲鳴を上げている。野次馬たちが集まり始め、消防車のサイレンの音も聞こえてきた。日下部たち男子はどこに避難したのだろうか。姿が確認できない。目を凝らしていると野次馬を掻き分けて公園に向かってくる一団がいた。日下部たちだった。日下部は女子の安全を確認するとベンチに腰掛けて施設を眺めた。男子たちも無事だったことでほっとした。だが、何かがおかしい。職員が誰ひとり避難してこないのだ。別の場所に避難したのだろうか。今日の宿直はイノシシとキツネ、それぞれの手下であるイヌとイタチのはずだ。火事だというのに職員は誰も避難を呼びかけていなかった。いや、それどころか姿さえ見かけなかった。どういうことなのか? 視線は自然に日下部に向かう。日下部と目が合った。すると私の疑問を察したかのように視線を施設の方に向けて僅かに顎をしゃくってみせた。4人はあの炎の中にいるのだ。いまや炎は窓という窓を突き破りその激しく動く舌先で施設全体を舐め回している。まさかこの火災は日下部が演出したものなのか? 大人4人をどうやって炎のなかに置き去りにすることができたのか? 疑問は沸き起こるが頭は混乱するばかりだ。これが放火だとすると日下部は立派な殺人者だ。だが、不思議と恐怖も嫌悪感も感じなかった。狂気、病的、偏執的、反社会的な性質を持ち合わせていないように見えるからかもしれない。犯罪はその一点だけで反社会的行為である。しかし、社会にとっての法や常識、人にとっての理性や感情といったものが、彼の孤高な精神世界のなかでは遥か後景に押しやられ、心の中核を成していないように感じられる。私のそばで燃え盛る施設を眺める日下部の目には何の色も映っていない。深海の奥底に置き忘れてきてしまったかのように静かで動じない彼の心はなにを見つめているのだろう。年齢に全くそぐわない雰囲気をまとうこの少年が不思議でならなかった。彼は内戦に巻きこまれてなにを経験したのだろうか。彼が行方不明だった数ヶ月についてメディアは色々と書き立て伝えていたがどれも憶測の域を出ない。彼自身がなにひとつ語っていないからだ。

 警察の事情聴取でまともな証言ができたのは火災に最初に気づいた日下部だけだった。他の児童は彼の誘導に従って避難するのに精一杯で、重要な証言をするほどの情報を持ち合わせていなかった。日下部の証言はある種の重みを持っていた。彼はこの国に住む者なら誰でも知っている悲劇の主人公として記憶に新しい。内戦と今回の火災という2度の奇禍に遭った彼に警察も消防も同情し、彼の証言を疑わなかった。彼の誘導で児童が掠り傷ひとつ負うことなく避難できたことは称賛されたりもしていた。現場検証により、宿直室が最も激しく燃えていたことから出火元は宿直室だと断定された。イノシシたち4人の職員は宿直室で焼死体として発見された。遺体には外傷など不審な点は無く、煙による中毒が直接の死因と判断された。職員が誰ひとりとして逃げ出した形跡がなく、助かっていないことに不審を抱いた警察官もいたようだが、結局、施設内で禁止されていた飲酒と喫煙の痕跡があったことで煙草の不始末による出火という結論に達したのだった。


 風呂上がりにリビングで一服していると、思わせぶりな表情で鈴音がやってきた。

「どうしたの?」

「日下部さんが居ない間に聞こうかなーって思って」

 鈴音がテーブルを挟んだ向かい側に座る。

「ミキさんと日下部さんって、いつから知り合いなんですか?」

「どうしてそんなことを知りたいのよ?」

「一緒に暮らしてるんだし、それに私のことは柿沼さんから詳しく報告されてたって日下部さんが言ってました。私が2人のことをほとんど知らないのは不公平ですよ」

「ふーん、そうねぇ、柿沼の報告書はうんざりするくらい細かかったわ。あなたがいつどこでうんちをしたかまで報告されていたわよ?」

「えぇぇぇええ!」

 鈴音が顔を真っ赤にして驚きの声を上げた。

「あはは、冗談よ。日下部とはね、児童養護施設で知り合ったの。あまりいい出会いではなかったわ」

「日下部さんって昔からあんな感じなんですか? 捉えどころが無いというか……」

 鈴音はミキがなぜ施設にいたのか聞いてこない。気を遣っているのだろう。

「捉えどころが無いのは変わらないわね。ただ、昔は無口で冗談を言うようなひとではなかったわ。きっと余裕がなかったのね」

「内戦に巻きこまれたからですか? ネット検索で出てました」

「えぇ、そうね。私たちには決して想像もできない経験をしたんだと思うわ」

「ミキさんは大学も日下部さんと同じですよね? 追っかけていったとか?」

「まさか、それは偶然。私と日下部は数ヶ月しか同じ施設に居なかったし、特に親しくもなかった。その施設が閉鎖されることになってね、それぞれ別々の施設に移って、それっきりになった。再会したのは大学に入って卒論の研究室を決めた時だったわ。教授が面白いひとで、卒論研究のお願いに行ったらそこに日下部が在籍していたのよ。お互い、びっくりしたわ」

「へー、すごい偶然ですね」

 鈴音が目を丸くしている。

「まぁ、腐れ縁ね。今もこうして日下部のところで働いているし」

「よくよくの縁ですねー」

「医師免許を取った後、いくつかの病院で働いたんだけど、協調性がないからすぐクビになってね。心配した教授が日下部に頼んだわけ、私の面倒をみてやってくれないかって」

「そうだったんですか」

「日下部は腕のいい医者だから、あちこちから人を紹介されていたらしいけど雇ったのは私だけだった」

「ミキさんのこと、よほど気に入ってるんじゃないですか?」

「さぁ、どうだか。本音を言わないひとだから、よく解らないわね」

 日下部がミキを気に入っているとしたら、口が堅い、余計な詮索をしないことぐらいだろうか。詮索しないといえば、あの施設火災について日下部が関与したのか訊いたことはない。あれが殺人だったとしても日下部は誰かのためになるというような義侠心で行動したのではないだろう。いま思えば日下部は『生きる』という1点について最も妥当だといえる選択をしたのかもしれない。彼は戦場で様々な不条理を経験し人間の醜悪さをいやというほど見てきたはずだ。不条理なことをする人間が存在すること自体は彼にとって問題ではない。その不条理が彼に向かうとき彼は牙を剥く、そういうことだ。非道な職員たちは彼の生きる道に立ちはだかる障碍であり、この世から消し去ることが最も理に適っていた、ということだ。内戦に巻きこまれた彼は『生きる』ことに執着し、『生き残る』という明確な意志を持ち続けたはずだ。でなければ、平和な国で育った少年は簡単に命を落としていたはずだ。その意志を維持し続ける精神は絶えず苦痛を伴う強烈なストレスに曝され続けていたことだろう。よくも生きて還ってこれたものだと感心する。

 とりとめの無い思案をしていると誰かから連絡が入った。ARディスプレイを開くと松浦圭子からだった。

「松浦さんから連絡が来たわ」

 そう言うと気を利かせるように鈴音はリビングから出て行った。

『どうしました?』

 返事がない。文字だけのチャットモードなので状況が判らない。位置情報を確認するとすぐ近くの公園にいるようだ。嫌な予感がしてミキは公園に向かった。

「圭子さん、いますか! 返事してください!」

 街灯がまばらにあるだけで園内は暗い。位置情報を確認しながら、圭子が居ると思われる方に近づいていく。目を凝らすとベンチが見えてきた。そのベンチから何かがずり落ち掛かっている。さらに近づくと見覚えのあるコートだった。

「圭子さん! 大丈夫ですか!」

 返事はない。意識を失っている。脈を測ると、か細い鼓動を感じるのみだ。救急車を呼ぶより診療所に連れて行くほうが早い。そう判断して、鈴音に連絡を取った。

 松浦圭子を二人がかりで診療所に連れて行った。あちこち打撲しているのは見てわかったが、身体内部は見当もつかず急いで全身スキャンを行った。肋骨が6本折れている。そのうちの2本は肺に突き刺さっている。胃、小腸、肝臓、腎臓が破裂。腹腔内出血も激しい。脳内も出血している。

「もう無理じゃないですか?」

 鈴音はホログラムモニターから目を離さない。刻一刻と悪化しているからだ。

「そうね、このままでは……」

 手の施しようがない。死ぬのは時間の問題だった。

「移植をするわ」

 松浦圭子を救うにはそれしかない。ミキは決断した。

「移植って、まさか、だめですよ! 深入りするなって日下部さんに言われたじゃないですか! それに圭子さん本人の意思確認もできていないじゃないですか!」

「あなたと押し問答をしている暇はないの。気が進まないならここから出ていって」

 ミキの剣幕に圧されたのか鈴音は黙ってオペ室を出て行った。

 オペを独りで行うのは初めてだ。幾分不安だが、最新式の細胞抽出装置を使えば問題ないはずだ。日下部が柿沼をたきつけて強引に予算をつけさせて開発したものだ。ゴムのような弾力性とダイヤモンドのような硬度を可逆的に変換できる超極細の針が頭皮から侵入して目的の細胞をピンポイントで抽出できる優れものだ。数万本の針をAI支援のもとで操作可能であり、マニュアルでの抽出など比較にならない精度を誇る。そしてなによりもこの装置があれば、いちいち開頭しなくても走馬灯細胞を抽出し再生脳に移植することができるのだ。


 松浦圭子は目を覚ました。傍らにミキが居ることを確認して僅かに笑ってみせた。まだ身体を自由に動かしたり、話したりすることはできない。

「同居している彼から暴力を受けたのね?」

 ミキが尋ねると松浦圭子は頷いた。

「彼に別れ話でもしたの?」

 松浦圭子は視線を落として哀しげに頷いた。

「そう……あなたに大事なことを話さなければなりません。よく聞いてくださいね。連絡を受けてあなたを発見した時には既に手遅れだった。でも、どうしてもあなたを死なせたくなかった。だから、あなたの人格を別の身体に移植したの」

 見開いた目の中で小刻みに松浦圭子の瞳が揺れていた。ミキには松浦圭子のショックが手に取るようにわかった。だが、説明しなければならない。ミキは人格移植手術の詳細を松浦圭子に話した。松浦圭子は根気よくミキの話を聞き理解に努めた。しかし、話だけでは俄に信じがたく納得できないだろう。今の姿を見せなければならない。あまりの変わりように松浦圭子が耐えられるかどうか判らない。だが、避けては通れない。ミキは四角い鏡を伏せて松浦圭子の胸に置き、ゆっくりと角度を上げていった。鏡には東南アジア系の色黒で短髪の男の顔が映っている。松浦圭子はゆっくりと腕を動かして鏡をつかむと角度を変えて新しい自分の顔を確認し始めた。

「大丈夫?」

 ミキが心配そうに声を掛ける。松浦圭子は微笑んで見せた。

「急なことだったから、この身体しか用意できなかったの。ごめんなさいね。気に入らなければ別の身体を用意してあげるわ」

 松浦圭子は首を横に振って拒否した。案外、この身体を気に入っているのかもしれない。

「2、3日で話したり、身体を自由に動かせるようになるから安心してね」

 ミキは点滴に睡眠導入剤を注入して松浦圭子を眠りに就かせた。想定よりスムーズに事が運んだ。下手をすれば松浦圭子の気が違ってしまってもおかしくない状況だった。理解させるにはもっと手こずるかと思ったが、意外に柔軟性がありタフなことに内心驚いていた。

 数日経ち、身体機能が正常になった頃に松浦圭子は姿を消した。ナナの里親探しを依頼する書き置きが残されていた。2度とここに顔を出すつもりがないのだろう。身元不明の男になってしまった松浦圭子には当座の生活費を用意しておいたので、いきなり路頭に迷うことはないだろうがやはり心配だった。診療所の居室で悶々としていると鈴音が入ってきた。鈴音とは移植の一件以来、あまり話していない。鈴音はホログラムTVをオンにすると紅茶を飲み始めた。TVは隣町で起きた強盗殺人事件を伝えていた。

『……昨夜未明、堀越勇気さん宅に強盗が入り堀越さんは胸など数カ所を刺され心肺停止の状態で発見されました。犯人と思われる容疑者がナイフを手にしたまま現場に留まっていたため、駆けつけた警察官によって緊急逮捕されました。容疑者は東南アジア系の男で強盗目的で堀越さん宅に押し入ったものと見られています……』

 映像を見てミキは我が目を疑った。被害者の男性には見覚えがあった。確か松浦圭子と初めて会った時にいた優男だ。そして、警察に連行されていく容疑者の男は紛れもなくだった。

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