第3話 共生
会社を出るのが早すぎた。地下鉄のホームで時計を見ながら乃美琴音は思った。今日は妹の鈴音の誕生日。美味しいものを食べさせると約束させられた。お店は予約してあるのだから急ぐ必要はなかったのだが、少し浮き足だっているようだ。最近は仕事が忙しくて鈴音とゆっくりおしゃべりする時間も無かった。久しぶりにいろいろ話したい。鈴音は今年の春に高校を卒業してもう子供とは言えない年だ。それでもたったひとりの肉親である鈴音は可愛い。
ラッシュアワーが始まる前でホームは混み始めていた。ここで時間調整をしようと空いているベンチに腰を下ろし、バッグから文庫本を取り出して読み始めた。紙の本を今どき持ち歩く人間はなかなか珍しい。通り過ぎる人たちが珍しげに琴音を見ていくのが目の端に映る。そのなかのひとりが何かを落とした。目を上げて確かめるとハンカチだった。ハンカチの持ち主はカラカラとキャリーバッグを引いて改札に出る階段に向かっていた。琴音は追いかけていって声をかけた。
「これ、落としましたよ?」
いきなり声をかけられて相手は驚いたようだった。パーカーのフードを目深にかぶった男の目はこの国では珍しいオッドアイだった。間近で見て分かる程度だが、右目の虹彩が左目よりも薄い。右目の目尻に黒子が2つ並んでいるのも印象的だった。男は琴音の視線を外すようにハンカチに目を落とし、確認すると、なにも言わずに頭を下げてハンカチを受け取った。それからくるりと踵を返し、ゆっくりと階段を上っていった。
ベンチに戻った琴音は数本の電車をやり過ごし、頃合いを見て入ってきた電車のドアに向かった。その時だった。青白い光が走ると同時に巨大な空気の圧力が津波のように琴音の身体を押し上げた。浮いているのは琴音だけではない。ホームに居た人々も、夥しい数のコンクリート片も、電車の車体さえも、宙を舞っていた。鼓膜を損傷したのか音は既に絶えており、
鼻を突く焦臭さに気づいて琴音は目を覚ました。煙と熱で息苦しいことこの上ない。状況が分からず身体を動かそうとしたが無駄だった。四肢の感覚がまったく無い。周囲に目を遣ると、人、いや、かつて人を構成していたモノが瓦礫とともにそこかしこに散乱し、それらが琴音の上にも覆い被さっている。爆発に巻きこまれたのだ。ようやく状況を理解した。だが、理解したところでなんの安堵にも繋がりはしない。この空間を照らしている灯は人や物を焼く炎に違いない。それがうねりながら琴音に迫っている。なぜ即死しなかったのだろう。これではまるで生殺しではないか。まだ生きているという事実が例えようのない苦痛と恐怖と絶望を突きつけている。
(死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! でも、きっと助からない。鈴音、ごめんね。約束したのに行けそうにない。もう一度でいい、鈴音に会いたい……会いたいよ……)
その日の診療を終えた日下部は煙草の煙を燻らしながら一服していた。時刻は既に午前2時を過ぎている。疲労感が半端なく、多忙としか言い様のない日だった。都心の地下鉄で大規模テロが発生し、都内で収容しきれない患者が都心からさほど離れていない日下部の診療所にも搬送されてきたのだった。比較的軽傷な者は帰宅させ、重傷者のみ入院させた。
地下鉄のホームに仕掛けられた爆弾は、ホーム及び停車していた車両を吹き飛ばし、その場に居合わせた数百人はほぼ即死したと云われている。吹っ飛んだ車両は爆破で崩れたコンクリート壁を突き抜け、別路線のホームに居た人々を薙ぎ倒した。更に爆発の衝撃波は地下鉄ホームの天井を数百メートルに渉って崩落させ、一階層上の地下街に居合わせた人々も多数巻きこんだ。死傷者数は未だ不明で数千人に上ると噂されていた。
少しうとうとしていたようだ。気づくと視界の端のARスクリーンが点滅している。アイコンを見ると柿沼だった。直接、連絡してくるとは碌な用件ではあるまい。煙草に火を点けながら音声モードをオンにした。
「あぁ、起きていましたか。よかった」
「昨日、なにがあったか知っていれば起きていることぐらい想像つくだろ」
日下部はぶっきらぼうに言って煙草を吹かした。
「やはり、そちらにも患者が運ばれていましたか。大変でしたね」
「あぁ、20人ほど受け入れて5人を入院させた。容態が落ち着いたらここより設備のいい所に転院させねばならん」
「それはなかなか難しいかもしれませんね。都内の病院はどこもかしこも患者で溢れかえっていてパンク状態ですよ」
「なら近隣の県の病院に移送するしかない。大臣秘書だろ、お前の口利きでどうにかしろ。ちっぽけな診療所だ。居座られたら業務に差し支える」
「相変わらず強引ですね。ま、調べておきましょう」
「で? 陣中見舞いで連絡してきたわけでもあるまい。用件はなんだ?」
「実は依頼したい案件がありまして……」
途端に柿沼の歯切れが悪くなった。やはり、碌な用件ではないようだ。
「どういう案件だ?」
「昨日のテロに関わることなのですが……今から出てきていただけませんか? 見ていただきたいものもありますし……」
柿沼が直接依頼してくることは滅多に無い。余程重要な案件なのだろう。日下部は時刻を確認した。2時半を回っている。できれば少しでも仮眠を取りたいところだ。
「急ぐのか?」
そう言いながら、親指の腹で鼻をこすると皮脂が浮いている。疲労が目に見えるようだ。
「えぇ……」
少し間を置いてから柿沼が答えた。
「どこに行けばいいんだ?」
疲労より好奇心の方が勝ってしまった。日下部は行き先を確認した後、ミキに留守を頼み出かけた。
指定された場所は厚労省管轄の病院だった。普段、こんな時間は人の出入りも少ないのだろうが、さすがに今夜は違った。煌々と照明が点けられ、玄関、フロント、廊下と場所を問わず患者で溢れていた。病院脇の駐車場はブルーシートが敷き詰められ、院内で診きれない患者が一時的に集められていた。玄関周辺はテレビ局員や新聞、雑誌などの記者が押しかけていて喧噪この上ない。日下部は玄関には向かわず病院の裏手に周り、関係者のみ出入りできる入り口を目指した。
「こちらです」
裏手は薄暗い。声のした方に目を凝らすと黒スーツ姿の柿沼が立っていた。中に入ると更にドアがある。円柱状のDNA認証装置があり、柿沼が手の平を押し当てる。認証が終わり、ドアが開いた。照明をぎりぎりまで落とした細長い通路を進み、突き当たりのエレベーターで地下に降りる。エレベーターを降りた先は体育館のような広さと高さがあり、個室型の無菌室ユニットが整然と並んでいた。そのひとつの前で柿沼は足を止めた。
「見てください」
日下部は言われるままに窓から中を覗いた。中途半端に焼け焦げた人の頭部が置かれ、生命維持装置に繋がれている。
「どういうことだ、これは? 死んだ人間の頭部を装置に繋いでなんの意味がある?」
日下部は横にいる柿沼に状況を問い質した。
「彼女はテロの犠牲者です」
「それは察しが付く。死んでしまった人間の頭部をなぜ後生大事に無菌室で保存しているのかと訊いている」
「我々は彼女の頭の中にある情報を引き出したいのです」
柿沼は顎の下をこりこりと親指で擦っている。慎重に言葉を選んでいる時の癖だ。
「ただの犠牲者なんだろ? その……」
頭部のみの女性をどう呼んでいいのか判らず日下部は言い淀んだ。
「彼女の名前は乃美琴音といいます。テロが実行される直前に実行犯と接触した形跡があるのです」
「よくわからんな。テロリストの捜索は警察の仕事だ。なんで厚労大臣秘書のお前が関わっている?」
「テロ事件が起きた直後、警察はテロリストの特定、捜索、そしてテロリストと関わった周辺人物の捜索を始めました。実行犯と思しき人物と接触している乃美琴音の姿が地下鉄ホームの防犯カメラに映っていたのです。彼女が発見された当時、かろうじて彼女は生きていましたが損傷が酷く、亡くなるのは時間の問題でした」
「よく見つけたな。爆発で飛び散った遺体の数は半端なかっただろうに」
「それは蛇の道は蛇というところです」
「それで匙を投げた警察の前に救世主よろしくお前がしゃしゃり出たわけだ?」
「救世主は余計ですが、ま、そんなところです。これは大臣の指示でもあります」
「大方、お前がそそのかしたんじゃないのか? 警察に貸しを作れるチャンスだとかなんとか」
一瞬、柿沼の細い瞳が揺れた。図星だったようだ。
「今はそんなことはどうでもいいことです。国家の危機に協力するのは当然のことです」
柿沼の顔がいくぶん紅潮している。冷静なようでいて時折向きになるのは学生の頃と変わらない。
「彼女の脳の状態はどうなんだ?」
「発見当時、首と胴はまだ繋がっていましたが、脳の保全を優先させるために切り離しました。現時点では、脳の状態は良好です」
「この状況を遺族が知ったら卒倒しそうだな」
「日下部さんが心配することではありません」
柿沼の眉間に皺が寄り、表情が固くなった。
「脳に問題が無いなら、俺は彼女の走馬灯細胞を取り出し、適当な身体に移植すればいいんだな?」
「はい。但し、問題がひとつあります」
柿沼の細い目が更に細くなった。
「なんだ?」
「彼女のHLAの型がZRなのです」
「はぁ?」
日下部はまじまじと柿沼の顔を覗き込んだ。HLA-ZRはヒトの免疫に関わる特殊な組織適合性抗原だ。この抗原を持つ細胞は他人の細胞に全く親和性を示さない。この抗原をコードする遺伝子座は非常に珍しく1億人に1人いるかいないかの確率でしか存在せず、しかも親から受け継ぐわけでもなく子にも遺伝しない一代限りの突然変異型の遺伝子座と云われている。世界でも3例しか報告がなく、詳しいことはほとんど解っていない。彼女がZRの保持者なら、確率的にこの国にはもう存在しないことになる。柿沼の表情がますます固くなっているわけだ。
「数日以内に情報を引き出すのは無理だな」
「数日以内でないとだめです」
「無理を言うな。乃美琴音の再生脳や肉体のパーツを揃えるのに半年以上は係る」
「そんな悠長な時間はありません。テロリストが第2、第3のテロを引き起こす可能性があります」
「諦めろ。自分自身にしか親和性が無いのなら、移植しても彼女の記憶も人格も根付かない。お前には悪いが無駄足だった。俺は診療所に戻るぞ」
エレベーターまで行くと柿沼が追いかけてきた。
「待ってください。まだ方法はあります。乃美琴音には妹がいます」
「一卵性か? それでも問題はあるぞ」
「いえ、残念ながら年の離れた妹です」
「お前……」
日下部は言葉を一瞬失った。
「確かに兄弟姉妹で型が一致する確率は25%もある。だが、それはあくまでも一般的な話だ。ZRは特殊過ぎる。仮に妹が持っていたとしても、元々人格の存在する脳に別の人格を移植しようっていうのか? そんなことをしたら何が起きるかわからんぞ。常に2人の思考が入り乱れた状態では脳に相当の負荷が掛かるだろう。精神状態が安定せず正気を失う可能性すらある。思惑通りに情報を引き出せるかどうかもわからん」
「どうしても彼女の情報が必要なんです」
柿沼は語気を強めて言った。
「お前の野心のために乃美琴音の妹を犠牲にするのか?」
「日下部さんだって、他人を食いものにしているじゃありませんか?」
「それは違う。俺は奴らの願望を叶えてやっているだけだ」
「そうですか。では、乃美琴音の妹が望めば移植していただけるのですね?」
柿沼は肩を怒らせている。
「なんにせよ、妹がHLA-ZRを持っていなければ話にならん。お前が口説いて妹のサンプルを寄越せ。こちらでゲノム解析する」
そう言って日下部はエレベーターに乗り込み、病院を後にした。
厚労省近くの喫茶店に予定より数分遅れで柿沼は到着した。急いで店内を見渡すと窓際の席に乃美鈴音が居た。白い長袖のブラウスに黒のワンピース。シックな感じだが幼さは隠しきれていない。資料の写真よりも髪が長く腰のあたりまである。鈴音はこの春に高校を卒業し、現在のところ定職には就いていない。両親は幼い頃に相次いで亡くなっている。両親の死後、琴音鈴音の姉妹は祖父母に育てられたが既に彼らも他界している。琴音は大学を卒業後にメーカーに勤務していたが、今回のテロ事件により死亡、享年26歳。他に近縁者はおらず、鈴音は天涯孤独になってしまった。
「遅くなりました。柿沼です。わざわざお呼びだてして申し訳ありません」
窓外を眺めていた鈴音が柿沼の方に顔を向ける。一睡もしていないのだろう。その表情には疲労と緊張と不安が露骨に表れていた。唯一の身内である姉が行方不明なのだから無理もない。柿沼が名刺をテーブルに置くと、鈴音は名刺と柿沼の顔を交互に見つめた。厚労大臣秘書がなぜ自分を呼び出したのかさっぱり判らないのだろう。柿沼は鈴音の向かい側に座り、注文を取りに来た店員にホットコーヒーを頼んだ。
柿沼は最初に鈴音に伝えなければならない言葉を心の中で反芻した。そして切り出した。
「お姉様のことですが、昨日のテロに巻きこまれて亡くなられました。心からお悔やみ申し上げます」
その言葉の一撃が、必死に堪えていた鈴音のガラスのような心を粉砕した。
柿沼は鈴音が泣き止むまで待つしかない。為す術も無く店員が運んできたコーヒーを喉の奥に流し込んだ。こういう役回りは初めてだが、苦い、という印象しかない。静かな店内に鈴音のすすり泣く声が響く。今や悲嘆に暮れているのは鈴音だけではない。数万は下らない犠牲者遺族が突然の身内の死に苦しんでいる。
幾分落ち着いてきたところで柿沼は声をかけた。
「警察ではなく、なぜ厚労省関係の人間がお姉様のことを伝えに来たのか不思議に思っていることと思います。それには理由があるのです」
そこでようやく鈴音は顔を上げた。
「テロ事件の身元確認では厚労省も警察に協力しております。お姉様は生前に献血をなさっていましたのでその情報を元に、発見されたご遺体がお姉様であると照合することができました。発見されたのはご遺体の一部ですが、厚労省管轄の病院でお預かりしています」
鈴音の大きな二重の目が揺れている。取り乱さないところをみると、あのテロの規模では姉が五体満足でいられるはずがないと覚悟していたのかもしれない。
「お姉ちゃんに会わせてください」
絞り出すような細い声だ。
「申し訳ありませんが、今すぐには無理です。なにせ昨日の今日ですから病院中が混乱しておりまして、ある程度落ち着くまで待っていただきたいのです」
「そうですか……」
そこへ厚労大臣第2秘書の向坂から連絡が入った。ARスクリーンを視界の中で開き内容を確認する。予定通り、ゲノム解析できる物品を鈴音の自宅から回収できたようだ。喫茶店に鈴音を呼び出したのは彼女に家を空けさせるのが目的だった。違法行為ではあるが仕方がない。鈴音は医療機関にかかったことも献血をしたこともなく、厚労省の手が及ぶ範囲でゲノム解析できるようなサンプルが何一つ無かった。それに今の状況で全てを鈴音に話しても協力を得られるかどうか判らない。とにもかくにも鈴音がHLA-ZRを持っていなければ話を進められないのだ。
「大変お疲れのところをお呼びだてしまして申し訳ありませんでした。お姉様のことで近々ご連絡を差し上げることになると思います。では、今日のところはお引き取り頂いてけっこうです」
鈴音は重いからだを引きずるようにして喫茶店を出ていった。
これでゲノム解析までは漕ぎ着けることができた。鈴音がHLA-ZRを持っていた場合、人格移植の説明をしなければならない。鈴音は応じるだろうか。なにが起きるか判らない手術だ。拒否する可能性は高いが押し切るしかあるまい。柿沼はすっかり冷めてしまったコーヒーを一口啜ってみたが、鬱とした不安が胃の中に沈澱していくような気がして飲むのを止めた。
その日の夕方、柿沼に日下部から連絡が入った。チャットモードをオンにする。
『解析結果が出た。妹の鈴音はHLA-ZRを持っている』
『ほう、なによりです』
柿沼は安堵した。
『だが、喜ぶのは早い。多型が見つかった』
『えっ? それは機能に影響が出るほどの?』
『バイオAIの判定では免疫機能に確実に影響が出る』
遺伝的多型。DNA配列に違いがあり、相同性はあるが完全一致ではない。機能に影響が出る以上、似て非なるもの、ということになる。
『移植は不可能なんですか?』
『相同性はあるから不可能ではない。但し、琴音が存在していられるのは極めて短期間、せいぜい2日程度だろうな。その後、乃美琴音は消滅する』
『2日だけですか……』
『手柄が欲しいなら説得しろ。妹が承諾したら連絡を寄越せ。じゃあな』
翌日の朝、柿沼は再び乃美鈴音を呼び出した。鈴音はろくに化粧もしておらず青ざめた唇が痛々しいかぎりだ。
「度々お呼びだてしてすみません。大事なお知らせとそれに関してご協力を仰ぎたいと思っています」
「はぁ」
鈴音の目は虚ろで心ここにあらずという感じだ。よく眠れず頭が回転していないのだろう。
「警察からの情報ですが、お姉様はテロが起きる直前に実行犯を間近で目撃していた可能性が高いのです」
「あの……、お姉ちゃんは死んだって昨日……、目撃していたとしても今更どうしようもないじゃないですか」
「昨日、お姉様のご遺体の一部をお預かりしていると言いましたが、その一部から情報を取り出したいのです」
「意味がわかりません。死んでいるのにどうやって情報を取り出すのですか? 遺体の一部ってどこなんですか?」
怒りや悲しみや憎しみ、それらを転化する矛先を見つけたように、ややヒステリックに鈴音は問いを発してきた。
「ご遺体の一部とは脳です。公開されてはいませんが、脳から記憶を引き出す医療技術を用います」
18歳という若さでは、こんな話を聞いてなにをどう判断していいのか解らないのだろう。鈴音は言葉を失っている。
「突拍子の無い話でさぞ驚かれているでしょうが、お姉様の記憶を悲惨なテロ事件を引き起こした犯人の逮捕に役立てたいのです」
しばらく空白の時間が過ぎる。
「どうやって記憶を?」
そっと鈴音が呟いた。鈴音は頭から否定しなかった。まだ半信半疑だろうが大臣秘書の看板でいくらか信用に傾いているに違いない。
「記憶を取り出し情報を引き出すには、鈴音さん、あなたのご協力が必要です」
鈴音はなにも言わず、柿沼の次の言葉を待っている。
「お姉様の脳から記憶を司る細胞を取り出し、あなたの脳に移植するのです。移植すれば記憶とともにお姉様の人格もあなたの中に出現します」
「それは頭のなかでお姉ちゃんにまた会えるということですか?」
鈴音の目が輝いている。
「そういう解釈もできます」
「お姉ちゃんに会えるならなんでもします」
柿沼は戸惑いを覚えた。こういう展開は予測の外だった。充分に理性が働いていれば、記憶を移植するなどという話を即座に真に受けたりしないはずだ。十中八九、拒否されると思っていた。この反応は若さからくるものなのか、それとも姉の死で心身が疲れ果て判断力が無くなっているのか、或いは、異常な状況だろうと姉に会えるという希望にすがりたいだけなのか。いずれにせよ柿沼には好都合な展開だが、術後の危険性も伝えておかなければならない。
「鈴音さん、落ち着いてください。1つの脳に2人の人格が宿るということは危険を伴います。情緒が安定せず精神的に不安定になる可能性もあるのです」
「他人ならともかく姉妹ですから、きっと大丈夫です。そうに決まってます」
嬉々としている鈴音を見ていると、柿沼はそれ以上なにも言えなかった。想定外とはいえ鈴音がその気になってくれたのは良かった。鈴音の気が変わらないうちに、柿沼は日下部の診療所に鈴音を送り届けることにした。
「では病院へ案内しますので、一緒に来てください。今晩中に移植は終わります」
翌日の朝、柿沼は鈴音が目を覚ましたという知らせを受けた。しかし、テロ情報を聞き出すことはしばらく待って欲しい、ということだった。日下部の説明では、状況は芳しくない。移植手術自体は成功し、目を覚ますと琴音と鈴音の存在が確認された。当初、琴音は状況が判らず混乱していたが、琴音の走馬灯細胞を鈴音の脳のなかに移植したことを日下部が説明すると、取りあえずは落ち着いたらしい。しかし、琴音と鈴音が異常な状況に置かれていることは明らかであり、移植手術を承諾した鈴音を琴音がなじり始めた。姉妹があまりに激しい口論を始めて興奮してしまうため、何度か鎮静剤で眠らせたということだった。
その日の夜、柿沼はようやく診療所に呼ばれた。面会する前に、姉妹の喧嘩の様子を記録してあるということで、まずそれを確認することにした。
病室のベッドに鈴音が腰掛けている。ベッドの脇には高さ1メートルくらいの姿見が置いてあった。琴音が鈴音の姿を確認したいと申し出たので持ち込んだようだ。その姿見を通して2人はやり合っている。
「どうしてこんなバカなことをしたの!」
「お姉ちゃんに会いたかったんだもん。仕方ないじゃない」
「鈴音の気持ちは分かる。でも、鈴音の身体は鈴音のものなのよ? 私の死が受け入れられないからって、鈴音の脳のなかに私を移植するなんて絶対にしてはならないことだった。あなたは取り返しのつかないことをしたのよ!」
「そんなことないよ。こうやってまた会えたんだから!」
琴音が話している時、鈴音の顔は目を怒らせ険しくなる。一方、鈴音が話している時は泣き出しそうな顔つきになっている。事情を知らない人間が見たならば、精神を病んだ患者にしか見えないだろう。
「バカなことを言わないで!」
鈴音は自分で自分の頬を叩いた。
「痛いっ、叩かないでよ、お姉ちゃん」
ついに鈴音が泣き始めた。鈴音は興奮しすぎて息を詰まらせている。そこで日下部が病室に入り、鎮静剤を打った。
「ま、明け方に2人が目を覚ましてからずっとこんな感じだ。目を覚ますと喧嘩、そして鎮静剤のルーチンだ」
そう言いながら日下部が困り果てた顔をしている。
「これでは情報が引き出せませんね……」
「そうだな。見ての通り、琴音は気の強い女だ。移植を仕組んだお前が琴音の前に現れたら、琴音はお前の首を絞めるかもしれんな」
日下部が皮肉な笑みを浮かべている。
「笑い事ではありませんよ。どうにかして琴音を説得しないと……」
「時間が無いんだろ? 当たって砕けるしかあるまい。そろそろ目を覚ます頃だ」
監視カメラの映像を見ると、鈴音が目を覚まし上半身をベッドから起こしている。
柿沼と日下部が病室に入ると、鈴音が先に反応した。
「お姉ちゃん、このひとが大臣秘書の柿沼さんよ。お姉ちゃんから爆発が起きる直前のことを聞きたいって」
鈴音がそう言った直後、一瞬にして鈴音の顔が険しくなり、柿沼に掴みかかってきた。
「あなたね、鈴音になんてことをしたの!」
琴音がヒステリックに叫ぶ。
「まぁ、落ち着け」
日下部が割って入って、琴音を取り押さえようとした。
「触らないで! あなたもあなたよ、そんなだらしない格好をして本当に医者なの?」
ぼさぼさの髪に無精髭、TシャツとGパンに薄汚れた白衣、それにサンダルを突っかけている姿が気に入らないらしい。
「とにかく、柿沼の話を聞け」
日下部は鈴音の細い両腕を後ろに回して押さえたが、琴音はもの凄い形相で柿沼を睨んでいる。
「琴音さんの意思を無視して手術を行ったことは本当に申し訳ないと思っています。しかし、是非とも今回のテロ事件の犯人逮捕に協力していただきたいのです。琴音さんはテロに巻きこまれ亡くなられましたので、このような方法でしか犯人に繋がる情報を得られないと考えたのです。琴音さんは爆発に巻きこまれる直前に、ある人物に接触しましたよね? 覚えておられますか? 黒いフード付きパーカーを着てシルバーのキャリーバッグを引いていた人物です」
琴音に掴みかかられて、ずれた眼鏡を直しながら柿沼は一気にまくし立てた。
「あなたなんかに教えるものですか! 絶対に思い出さない。思い出せば鈴音も自分自身が体験したかのような生々しいショックを受けるはず。鈴音の心に傷ができてしまうから絶対に思い出さない」
「私は大丈夫だから、お姉ちゃん」
「鈴音は黙ってなさい! どんな恐ろしい目に遭ったのか、あなたには解らないのよ!」
琴音の目から大粒の涙が流れる。力の抜けた両腕を日下部が放すと、琴音は両手で顔を覆って泣き始めた。
「とにかく実行犯についてお話しする気になられましたら、この日下部医師か、もうひとり女性の川島医師がいますので、どちらかに伝えてください」
柿沼が居ると琴音を刺激するだけで説得するのは無理だと覚った。柿沼は日下部とミキに一縷の望みを託して病室を出た。
夕食のトレイを下げるためにミキは姉妹の病室に入った。鈴音は姿見に映った自分をじっと見つめている。姉妹喧嘩はとうに止んでおり、暇さえあれば姉妹でなにか話しているようだが内容までは把握していない。
移植を終えてから約45時間が経過した。琴音はテロ実行犯の情報についてなにも語らない。琴音としては鬼門ともいえる記憶だ。忌まわしい記憶を紐解くことは悲惨な死を追体験することにもなる。そして琴音自身が指摘したように、琴音の悲惨な死を体験してしまうことは鈴音の精神に強烈な傷を残すことにもなるだろう。
ミキは琴音がテロ実行犯について話すかどうかに興味はなかった。今回のテロ事件の犯人が捕まろうが捕まるまいが大勢に影響があるとも思えない。テロリストは社会の汚泥から生まれてくる。国や文化によって汚泥の質は様々だろうけれども、この国の汚泥は社会が硬直していることから垂れ流される。誰かが誰かに虐げられる。組織は別の組織に虐げられる。どのポジションにいようと常に何ものかに虐げられている圧迫感。この感覚が破壊のエネルギーを押し上げている。汚泥が溜まり続ける以上、テロリストもまた絶えることは無い。
「死んでしまったと思ったら、鈴音のなかにいるなんて夢を見ているようです」
「琴音さん? 鈴音さんは今どうしているの?」
「鈴音は寝てしまったみたいです。気配が無いので」
「そう……」
気配が無い、か。やはり、琴音の人格は鈴音の脳に充分に根付いていないようだ。しっかりと根付いていれば、起きていようが寝ていようが鈴音の脳活動を常に感じているはずだからだ。琴音の走馬灯細胞は、じきに消える。
「なぜこんなことになってしまったんでしょうね……」
琴音が肩を落としている。
「人生は残酷で不条理。あなたが身をもって経験した通り」
「はっきり言うんですね。他人事だからそういうことが言えるんですよ」
「気安めを言ってほしいのかしら?」
「そういうわけじゃありません」
少し迷ったがミキは言ってみることにした。
「今回のテロが起きる10分前に私はあの駅を通過する電車に乗っていた。巻きこまれなかったのは単に運がよかっただけ。でも次のテロが起きれば巻きこまれるかもしれない。先のことはわからないし、人生に安全で堅固な道なんてどこにもない。決して他人事ではないわ」
こんな話をしたところでなにがどうなるわけでもないが、琴音はなにも言い返してこなかった。
「私と鈴音は一生こんな状態なんですか?」
「いいえ、あと数時間であなたの意識は消える。詳しい医学的説明は省くけど、姉妹とはいっても細胞レベルでは相容れない。そういうことよ」
琴音は姿見に落としていた目をミキの方に向けた。なぜかその目の色には一種の安堵が覗えた。
「鈴音はこのことを知っているんでしょうか?」
「さぁ、わからないわ」
琴音はまた姿見に目を落とし、愛おしそうに鈴音の肩を両腕で抱きしめた。
「私が消えてしまうと聞いて安心しました。こんな状況が鈴音のためにいいとは思えません」
「あなた、強いのね。2度目の死を宣告されて、そんなことを言えるなんて驚いたわ」
「テロに遭って最期に思ったことは、もう一度だけでいいから鈴音に会いたい、それだけでした。目覚めてみると、余りの異常な状況に驚いてつい鈴音を叱ってしまいましたが、願いが叶って本音では嬉しかったんです」
琴音がわずかに微笑んでいる。
「日下部が言っていた通りだわ。琴音さんは今際の際に鈴音さんに会いたいと願ったはずだって」
「そうですか。鈴音に会わせていただいて、ありがとうございました」
「私はお金のためにやっただけ。感謝されるいわれは無いわ」
「それでも、です」
琴音の真っ直ぐな視線に中てられてミキは目を逸らした。
「それじゃ、私は行くわ。2人で残された時間を過ごすのね」
「鈴音が眠っている間に私は逝きたい」
誰にともなく琴音は呟いた。
今朝から鈴音は姿見の前から離れない。鈴音は時間が経てば琴音が消えてしまうことを知らなかったようだ。琴音が逝ってしまったことをいくら日下部が説明しても、鈴音は琴音をずっと呼び続けている。
「琴音はもう君の頭のなかから消えてしまった。諦めるんだ」
「そんなことないわよ。ここにいるじゃない。ね、お姉ちゃん」
鈴音は鏡のなかの自分の姿に話しかける。しかし、姉からの応答は無い。
「寝てるだけでしょ? 早く起きて、起きてよ!」
鈴音はヒステリックに叫んだ。またしても姉を失ってしまった喪失感、恐怖感、絶望感。下手に希望を抱いてしまった分、落ち込み具合も半端のないものになる。琴音が消えたことで明らかに鈴音は情緒不安定に陥った。一旦、病室から出た日下部は柿沼に連絡を取った。音声モードをオンにする。
「琴音は話しましたか?」
「いいや、何も話さずに逝っちまった」
「そうですか、残念です……」
「そんなことより、お前、琴音が存在していられる時間にリミットがあることをちゃんと鈴音に説明したのか?」
「いや、それが……、移植の話をした時に琴音に会えるという一点で鈴音が舞い上がってしまいまして、タイムリミットがあることを説明できませんでした」
「ばかやろうっ、琴音が消えてから鈴音が情緒不安定になった。なにも聞かされず覚悟もできないまま姉を2度も失えば、18歳の娘がどうなるかくらい想像つくだろうが」
柿沼を怒鳴りつけたその時だった。鈴音の病室から何かが割れる大きな音がした。
「またかけ直す」
そう言って日下部は通信を切った。急いで病室に戻ると、姿見が派手に壊れていた。その破片で鈴音は自ら首を切りつけベッドの上に突っ伏していた。日下部はミキを呼び、処置を行った。
傷口を診ると幸いにも破片は頸動脈までは届いておらず、出血もさほどでは無かった。一通りの処置を終え、床に散らばった鏡の破片を掃除用ロボットに命じた。あらためて鈴音の容態を確認していると、琴音から時差送信されたメールが診療所宛てに届いた。ミキにも知らせて内容を検めた。
柿沼さん 日下部先生 川島先生
あなたがたが鈴音に行ったことは法的にも倫理的にも道義的にも大変問題があります。今回のことが鈴音の心にどれほどの影を落とすのか予測がつかずとても心配です。あなたがたに少しでも良心があるのなら鈴音が一人前の大人になるまで面倒をみるべきです。それだけのことをあなたがたは鈴音に対して行ったのです。これはお願いでも依頼でもないことを含み置きください。
「脅しかよ。鼻息の荒い姉ちゃんだな、まったく」
日下部がそう言うと、ミキも苦笑している。
文章の末尾には追伸としてテロリストの情報が書かれていた。日下部は急ぎ柿沼にメールを転送した。この情報でやつが出世するのであれば、それはそれで結構なことだ。
ふと視線を感じベッドを見ると、いつの間にか鈴音が目を覚ましていた。
「まだ生きているんですね、私」
鈴音は虚ろな目を天井に向けた。
「そんなに死にたければ退院してから密かに死ねばいい。曲がりなりにもここは診療所だぞ。簡単に死ねると思うな」
「医者っぽくない医者がいるせいで、ここが診療所だってことを忘れてました」
琴音のような口振りに日下部は一瞬、目を疑った。
「お姉ちゃんならそう言うでしょうね。似てました?」
鈴音が寂しそうに笑った。
「似とらんな。そもそもお前と姉さんは全く似とらん。少なくともお前の姉さんは簡単に自殺を図るような軟弱者ではない」
「そうですね。でも私にはもうどうしていいのか分かりません」
そこで日下部に、ある考えが浮かんだ。琴音は日下部たちにメールを寄越していた。妹想いの琴音が鈴音に最期の言葉を遺していないわけがない。今の鈴音に必要なのはなによりも琴音の言葉のはずだ。
「姉さんからメールが来ていないか? 何か言葉を遺しているはずだが」
鈴音の瞳が小刻みに揺れている。肉眼に組み込まれたデバイスによるARスクリーンで確認しているのだろう。そのうち視点が定まった。目的のメールが見つかったようだ。鈴音は他人からは見えない文字で綴られた空間に、穴の空くほど強い視線を走らせていく。読み終えた鈴音は静かに目を閉じた。やがて開いたその目は琴音と見紛うほどの意志の強さを湛えていた。
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