第2話 培養

「何度言ったら分かるんだ? 変化の兆候を見つけたらすぐに運用をマニュアルに戻せといつも言っているだろうが」

 鬼頭ファンドの創業者である鬼頭眞武は苛立っていた。信頼していた部下が運用をしくじったのだ。損失額はざっと見積もっても300億円余。赤字転落は無いだろうが大幅減益は避けられない。

 今どきの投資会社の資産運用はほとんどAI任せだ。但し、不足の事態は常に起こりうるので、その兆候を見つけ次第、運用を人に戻し対処しなければならない。AIによる予測の精度も良くなってきてはいるが、ブラックスワン(予測が難しく、金融市場を大きく揺るがす負の事態)の兆候を的確に見出し対処できるまでには至っていない。普段はAI任せなので鬼頭ファンドの社員は10人しかいない。事務処理、広報などの仕事は全てAIで代用できる。従って、営業と運用専門の社員しか雇う必要がないのだ。

 高い給料を払って雇っているのにしくじることなどありえないはずだ。ますます鬼頭は腹が立ってきた。会社に大穴を開けたことを許すわけにはいかない。生き馬の目を抜くこの業界で他社よりほんの少しでも利回りを向上させることが生き残る条件なのだ。顧客はわずかでも利回りの良いファンドに流れていってしまうからだ。鬼頭は最後通牒を突きつけることにした。

「お前はクビだ。荷物をまとめて出て行け」

 部下は恨めしい目をちらりと鬼頭に向けたが何も言わずに社長室を出ていった。役立たずが……。鬼頭は閉まったドアを睨みつけていたが、やがてデスクの前にある応接用のソファに腰を下ろした。溜息しか出ない。クビにしたのは彼で何人目だろうか。数が多すぎて分からない。

 鬼頭ファンドの業績は伸び悩んでいた。AIの能力はどこのメーカーのものを使っても大差がない。差がつくのは、予測と金融市場が急変した時の商品への対応だ。急変の原因次第で個別の商品がばらばらな動きをする。金融市場は常に生ものであり、過去と全く同じ状況は現れない。いくらAIが膨大な過去のデータを担保にしているとはいえ、この対応ばかりは社員の優劣が業績に直結する。優秀と思える人間を見つけてきては高給で雇うのだが、思うように業績を伸ばせていない。

 会社を興して10年。学生の頃に投資を始め、AI関連の株や投資信託に狙いを定め、積極的に攻めて財を成した。それを元手にして鬼頭ファンドを立ち上げた。5年で上場を果たし、時代の寵児と持てはやされたこともあった。そういったことも今は遠い昔のことのように思える。投資を始めてからこの方、鬼頭は大きく予測を外したことがない。損失を出したことはあるが、いずれも挽回可能な範囲だった。

 社員をきちんと教育しているのだが、どうして自分のようにできないのだろう。気分が滅入る一方だった。次の業績開示までになんとか損失を挽回せねばならないが、どうしたものだろう。すぐに良い案が見つかりそうもない。視界のなかのARスクリーンにAIの秘書を呼び出し、今晩の予定は全てキャンセルする、と伝えた。サロンにでも行くか。あそこなら良いアイディアを思いつく情報があるかもしれない。


 湾岸エリアの一画にそびえ立つ高層マンション。このマンションの58階にサロンはある。会費は年1000万円。主に若手起業家や投資家が出入りしている。会費は高いがうまくサロンを利用すれば元は取れる。サロンのなかでは常に金に繋がる情報がやり取りされているからだ。

 指紋認証でエレベーターに乗り58階に行く。エレベーターを降りると、ゴールドで天使と悪魔のレリーフが施された豪奢なドアの前に出る。このドアの先にいるのは天使か悪魔かよく見極めよ、ということらしい。ドアの横に腰の高さほどの、天辺が斜めに切り取られた円柱がある。その斜面に手の平でも手の甲でも指でも構わないが接触させる。極細の針のようなチューブが毛細血管を探りあて、血液を採取する。そしてわずか十秒ほどでDNA解析を行い、個人を認証する。解析を待っている間、鬼頭はこの装置を開発した会社にも投資をしておくのだったと毎度のことながら後悔した。

 なかに入るとカウンターバーでウィスキーの水割りを頼んだ。グラスを片手にぐるりと部屋を見渡すと20人ほどが来ている。今日は来ている会員が少ないほうだ。色々と情報を集めようとしていた鬼頭は少しがっかりした。

 有益な情報を持っていそうな人物を物色していると、ちょうど部屋に入ってくる男がいた。彼は確か厚生労働大臣の第一秘書の柿沼だ。厚労大臣の秘書とは場違いな気もするが、会員のなかには医療分野のベンチャーで名を成した者もいるので不思議ではない。柿沼は財界のパーティーで何度か顔を見たことはあるが言葉を交わしたことはまだ無かった。

 鬼頭の視線に気づいたのか、柿沼が軽く会釈をして近づいてきた。

「初めまして、ですかね? 鬼頭さん。厚労大臣秘書の柿沼です」

「何度か日本経済連合会のパーティーでお見かけしましたが、挨拶は初めてになります。鬼頭ファンドの鬼頭です。よろしくどうぞ」

「こちらこそ、よろしく願います」

 軽くお辞儀した頭髪から品の良い香りが漂う。政治家秘書になる前は厚労省の官僚だった。彼の仕事ぶりに惚れ込んだ今の厚労大臣の強い願いで秘書になったと聞いたことがある。相当なキレ者なのだろう。

「なにか飲まれますか?」

 グラスを翳しながら柿沼に言った。柿沼は鬼頭と同じものを頼んだ。鬼頭は柿沼を誘い、空いているテーブルに移動した。

「会社のほうは、いかがですか?」

「正直なところ、伸び悩んでおります。相場が急変する兆候を確率よく見出せる人材をなかなか見つけることができなくて苦労しています」

「AIも随分と発達していますが、まだまだですか?」

「えぇ、マクロの予測に基づく運用はそこそこなんですが、個別銘柄の予測となるとヒトの予測、判断の方が正しい場合が多いです」

「なるほど。なかなか難しいものですね」

「残念ながら。実は今日、部下が穴を空けてしまいまして、困ったものです。私でしたらもっとうまく立ち回れたはずですが、身体はひとつですからね。私がもう2人いれば、運用で人を雇う必要もなくなるでしょう。ま、冗談ですが」

 柿沼が苦笑いをしている。これは余計なことをしゃべり過ぎたか。話題を変えることにした。

「AIといえば、医療分野における発展ぶりは目覚ましいですね?」

「診断と治療法の最適解を瞬時に、はじき出せるまでになっています。膨大な患者のデータを医師が解析していた頃は診断ミスも多かったのですが、現在はまずそうしたことは起こりませんね」

 一頻りAI談義をしていたが、話の種もやがて尽きてきた。そろそろ腰を上げる頃合いかと思案していると、柿沼が別の話題を出してきた。

「先ほど、鬼頭さんがもう2人いれば、という話をなさいましたが、ある話を思い出しまして」

 鬼頭は浮かしかけた腰を据え直した。

「はぁ、それはどのような」

「この話は私が厚労省にいた頃に聞いた噂です。エンドシストという言葉を聞いたことはありますか?」

「いいえ、ありません」

「エンドシストは人格を別の肉体に移すことができる人物のようです」

「は? ちょ、ちょっと待ってください。話が荒唐無稽過ぎて……」

 鬼頭は口ごもってしまった。

「単なる都市伝説だと思って気楽に聞いてください」

 根拠の無い話をするのが照れくさいのか、柿沼の細い目がさらに細くなっている。

「エンドシストは再生医療技術を応用して人格移植の手術ができるということです。ネット上の裏サイトで依頼し、エンドシストがその気になれば応じてくれる。あくまでも噂ですがね。エンドシストが実在するなら、あなたの相談に乗ってくれるかもしれませんよ?」

 柿沼は戯けた顔で肩をすくめている。

「いや、その……」

 鬼頭は混乱した。政治家秘書の口から都市伝説の話が飛び出してきては面食らってしまって当然だ。それにしてもどこまで本気でどこまでが冗談なのか、柿沼とは全く喰えない男だ。まぁ、都市伝説はともかく大臣秘書と知り合いになれたことは今夜の収穫だ。また楽しい時間を持ちましょう、ということで、柿沼とは別れた。


 指定された喫茶店でかれこれ1時間も待っているが、待ち人来たらず。数人の客が店に入ってきたが鬼頭に関心を向ける者はいない。店内には老人が3人、スーツ姿の男性客が2人、カウンターには先ほどまで女性客が1人いたが、いつの間にか居なくなっていた。

 部下に大穴を開けられてから数週間が経過した。色々と手を尽くしてはみたが、穴埋めがうまくいかず焦っていた。仕事の谷間で少し時間に余裕のできた鬼頭は柿沼の言った都市伝説の話を思い出し、ネットで調べてみた。検索してみたが全くかすりもしない。いろいろな言語でエンドシストと言う言葉を検索してみたが空振りだった。少なくとも表の世界では、そんな言葉など存在していないことを示していた。ネットの世界は膨大で一般ユーザーの触れることの出来るサイトはウェブ全体の1%にも満たない。柿沼は、裏サイトで依頼する、と言っていた。エンドシストの情報があるとすれば裏の世界だ。

 鬼頭はハッカーを使って調べさせることにした。会社を上場させる以前に、ハッカーを使い犯罪ギリギリのラインで取引を何度か行ったことがある。そのハッカーは業界で誰よりも深く潜れることで有名だった。

 依頼してから30分もしないうちにハッカーから返信が来た。エンドシストに繋がるサイトが見つかったらしい。但し、裏サイトに入り、そこに辿り着くには違法なソフトが必要で、素人が下手にダウンロードして利用すると足が着くようだ。ハッカーが用意したプラットホームを経由して裏サイトに入るように指示された。

 行ってみるとなんの変哲も無いサイトだった。名前、年齢、連絡先と依頼内容を書き込むだけのページだ。名前とはいっても本名ではなく適当な呼び名で構わないようだ。株を表すStockと書いておいた。依頼内容には、身体は別人で構わないが自分と同等の人格及び能力を持つ分身を2人用意してほしい、と記した。

 そろそろ帰ろうか。この喫茶店に代理人を寄越すと連絡があったが来る気配がない。やはり、ただの都市伝説だった。ハッカーに2000万円も支払ったが高いお遊びだった。鬼頭は諦めて店を出ることにした。

 店を出た鬼頭は自動運転車を呼び出した。車を待っていると黒塗りのセダンが近づいてきた。後部席の窓が開き、薄色のサングラスを掛けた女が話しかけてきた。黄昏時で白い顔が浮いているように見える。

「あなたがストック?」

「え? あぁ、そうだが」

「なら、乗って」

 女の顔が奥に引っ込んでドアが開いた。諦めていたところに声をかけられ気後れしたが、とりあえず車に乗ることにした。乗り込むと女はホログラムモニター上のボタンを押して行き先を指定している。鬼頭は車を呼び出していたことを思い出し、急いでキャンセルした。あらためて女の顔を見ると見覚えがある。喫茶店のカウンターにいた女だった。確か鬼頭が店に入った時には既に店にいて、知らぬ間に消えていた。店のなかで声をかけなかったのは人目を気にしたのだろうか、或いは、ストックと名乗った鬼頭の身元を調べていたのかもしれない。

「これから、どちらへ?」

「質問は無しよ」

 女は無表情のままだ。空気が重くなり、それきり会話は途絶えた。車はしばらく走り、ホテルの地下駐車場に入っていった。


 部屋に案内されると1人の男が待っていた。テーブルに両肘を置き、値踏みするかのように鬼頭を見上げている。女が椅子を引いたのでそれに従い、座った。

「鬼頭ファンドの鬼頭さん、だな?」

「そうだ。あんたがエンドシストか?」

「よろしく」

 あらためて向かいに座っている男を眺める。鬼頭と同い年くらいだろう。30代半ばといったところだ。細い鼻梁に掛かった縁なし眼鏡が冷淡さを醸し出している。無精髭に長めの髪は幾分ぱさついており、格好には気を遣わないタイプのようだ。ジャケットくらいは羽織ってきたのかもしれないが、高級ホテルに来るのにジーンズにTシャツというのもよく分からない。

 なにを読み取ろうとしているのかエンドシストは視線を鬼頭から外さない。少し胸苦しさを覚えた。

「質問には正直に答えてくれ、いいな?」

「いいだろう、こちらが依頼したのだから」

「俺のことをどこでどうやって知った?」

 鬼頭が出入りしているサロンで出会った厚労大臣秘書の柿沼から都市伝説として聞いた経緯を話した。柿沼の名前が出てもエンドシストの表情は変化しない。

「あの裏サイトはウィザード級のハッカーしか辿り着けない深度に置いてある。あんた自身がそうとは思えない。高額な金を払ってまで見つけたということは相当切羽詰まっているということか?」

「そういうことだ。会社の業績が伸び悩んでいる。業績を伸ばすために自分と同等かそれ以上の人材を探しているのだが、なかなか見つからず苦労している」

「それで自分の分身を用意してほしいということか?」

「できるのか?」

「結論から言えば、可能だ」

 鬼頭は微かな安堵を覚えたがすぐに不安になった。そんなオカルトみたいなことが本当に可能なのだろうか。話が簡単に進み、狐につままれた気分だ。鬼頭は人格移植手術の説明を求め、エンドシストは淡々と説明した。

「だが、その方法では俺の人格が別の身体と再生脳に移動するだけだろう?」

「走馬灯細胞を培養して増やすのさ」

 男が口の端を吊り上げて笑った。培養できるのなら無限に分身を作ることができる。いや、次々と走馬灯細胞を移植した脳と身体を入れ替えていけば永遠の命を手に入れることも可能だ。

「分かっていると思うが、再生脳を役所の許可なく作るだけでも違法だ。犯罪に手を染めるという自覚はあるんだろうな?」

「もちろんだ」

「では話を進めよう。分身となるべき身体はすぐにでも用意できる。時間が係るのはこれから分身の再生脳を作る期間と、走馬灯細胞を抽出し培養する期間が必要になる。再生脳に4ヶ月、走馬灯細胞の培養に1ヶ月。再生脳が成熟期に入る3ヶ月を経過する頃に、お前を臨死状態にして走馬灯細胞を取り出し培養を始める。培養が終わり次第、お前の脳と分身の再生脳に走馬灯細胞を移植することになる。だから抽出から移植までの1ヶ月間、意識を取り戻すまでは日常生活は送れない」

「分かった。癌の疑いが出たから検査と休養をかねて1ヶ月ほど入院するということにする」

「ところで、あんたの総資産はいくらだ?」

「ほとんど有価証券だが500億円くらいだ」

「なら、手術代として50億円いただく」

「50億? そんな法外な……」

「ははは、冗談のつもりか? 法外だからだ。3人になれば50億くらいすぐに稼げるだろう?」

 エンドシストの無精髭が歪む。

「それはそうかもしれないが……」

「前金で25億、術後に残りの25億を支払ってもおう。いいな?」

「……了解した」

 鬼頭は渋々承知した。迷っている暇はない。大きなリスクを取らなければ大きなリターンは得られない。ここは賭けるべきポイントだと自分を納得させた。

 それにしても、会社を立ち上げ、人格移植に関わるあらゆる特許を取得すれば相当な儲けになるだろう。

「なぁ、この技術を公にして金を稼ぐ気はないか?」

「ははははは、投資家のあんたならそう言うと思ったよ。だがな、公にしようとしたところで、その先になにが起きるのか想像できるか? この手の情報は天と地下にしか流れない。つまり、国家による過剰なまでの情報統制と法規制、一方で地下に流れて犯罪への悪用。この技術を悪用しようとして犬になっちまった奴もいたが」

 それまで黙っていた女がくすりと笑った。

「え? 犬?」

 驚いた鬼頭は女とエンドシストを交互に見た。

「ただの冗談だ。なんにせよ、問題は官僚と政治家だ。あいつらは法規制を強める一方で自分たちは法の編み目の外でこの技術を独占するに決まっている。愚か者どもを生き長らえさせる為に使わせてたまるか」

「メディアを使って技術の存在を世間に知らしめればいいだろう?」

「それが功を奏したところでなにがどうなる? 病気で死に難くなる、年を取ったら新しい身体に乗り換える、大きく躓いたら人生をリセットする、そこにあるのは退廃と堕落だ。緊張感もなにもない、うんざりするくらい弛緩した世界だ。吐き気がするぜ」

「言いたいことは分からんでもないが、あんたの言っていることとやっていることは矛盾している。人格移植の技術が人を堕落に導くと思っているのなら、その技術は墓場まで持って行くべきだろう? いくら裏の世界とはいえ移植を続けていればいつ表に出ないとも限らない」

「だから?」

 エンドシストが不敵な笑みを浮かべている。そこで気がついた。こいつは人格移植の技術が公になる可能性は限りなく小さいと踏んでいる。様々な意味での国益を考慮すると政府と官僚があらゆる手を尽くして秘匿するに違いないと考えているわけだ。しかし、この技術の存在が政治家や官僚の知るところとなれば、エンドシストの行動は限りなく制限されるだろう。場合によってはこの世から消されることもありうる。そんな危険を冒してまで手術を続ける理由はなんだ? 単純に金か? それとも権力に抗する後ろ盾でもあるのか? 或いは他になにかあるのだろうか。

「俺は……見てみたいんだよ」

 エンドシストが独り言のように呟いた。

「何を?」

「さて、この話はこれで終わりだ。準備が整い次第、追って連絡する。金を用意して待て」

 鬼頭の問いで我に返ったのか、エンドシストは強引に話を切り上げた。仕方なく鬼頭は立ち上がり、身なりを整えた。そこでふと思いつき、エンドシストに尋ねてみた。

「最後にあんたの名前を聞いていいか?」

「意味が無い」

 にべもなく一蹴されてしまった。鬼頭はどこか煮え切らない思いを抱きながらホテルを後にした。


 一年後、鬼頭ファンドの業績は驚異的な伸びを示し、業界でトップを争うまでになっていた。株価は跳ね上がり、顧客は3倍に増え、運用資金に至っては10倍に増えた。マスコミにも持てはやされ、鬼頭はまさに有頂天だった。

 株式とその他金融商品を鬼頭が担当し、為替を分身である佐藤、債券をもう1人の分身である田中に任せた。3人の運用は息が合い、全く隙が無かった。言葉をいちいち交わさなくとも状況に応じて何をすべきか分かっているという点は大きく、会議を開く必要もないのは実に効率が良かった。

 月に1度はサロンに顔を出しているが、引きも切らず人に囲まれるほどの人気ぶりだった。数人相手に鬼頭の武勇伝を語っていると、人垣の向こうからそっとこちらを見ている者がいた。柿沼だった。一瞬、鬼頭の心臓が戦慄いたが軽く会釈をしておいた。話が一段落したところで人垣を離れ、柿沼を探した。ホールのなかをひと渡り見たが柿沼の姿は無かった。帰ってしまったのだろうか。これを汐に鬼頭も帰ろうと思い、手荷物を受け取るためにクロークに向かった。そこに柿沼はいた。

「おひさしぶりです、柿沼さん」

「おや、鬼頭さんもお帰りですか?」

「えぇ」

「せっかくですから駐車場まで少しの間お話しましょう」

 鬼頭は荷物を受け取り、柿沼と一緒にサロンを出た。エレベーターに乗ると柿沼が切り出した。

「最近のご活躍は耳にしていますよ? まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだとか」

「いやー、それほどでも」

 一応、謙遜しておいた。本業の他に時間が空けばTV出演、雑誌取材と毎日が分単位で予定が詰まっている。活躍していないわけがなかった。

「業界の方にお聞きしたのですが、まるで鬼頭さんが3人いるかのような快進撃だと」

「あはは、まさか」

 佐藤と田中は本業だけに専念し、外部の人間とは極力接触しないように言ってある。取締役として名を連ねてはいるが、そもそも彼らは出社もさせていないから会社の人間ですら彼らの存在をよく知らない。

「まさか、とは? いやいや、優秀な人材を見つけられたんですね、という意味で言ったのですが」

 柿沼の細い目の奥が光った気がした。失言だった。部下たちがやる気を出しまして、とか、良い人材が見つかりまして、などと応じるべきところだった。

「あれから部下たちがやる気を出しまして、業績がうなぎ上りですよ」

 わざとらしかったが、そう言うしか無かった。

「そうですか。それは本当によかったです」

 ちょうどその時、エレベーターのドアが開き、駐車場に出た。鬼頭はほっとして柿沼に別れを告げた。

「では、私はここで」

「そうですか。それでは、いずれまた」

 柿沼の言葉を背中に受けながら、鬼頭はその場を去った。


 夕食の後、佐藤は田中をショットバーに誘った。

「ちょっと飲んでいこうぜ」

「鬼頭があまり出歩くな、と言っていたが」

「酒くらい、いいだろう? 息抜きだ。ずっと仕事漬けでつまらん」

「それもそうだな」

 鬼頭が常連になっているバーに入った。バーテンダーに適当なバーボンをトワイスアップで2つ頼んだ。好みは同じだからどちらかが適当に2つ頼むのが常だ。

「なぁ、田中、いいかげん息が詰まらないか? いろいろと」

「そうだな。鬼頭はオリジナルの身体を所有しているというだけで自由気ままに美味しい生活を続けているのに、俺たちときたらほとんどの時間を部屋に籠もって仕事漬けだ」

「まったくだ。モグラじゃあるまいし、日の当たる時間には外にも出られやしない」

「あはは、モグラというよりゾンビだろ。俺たちはこの身体とともに社会に存在していないはずの人間だからな」

「しかし、なんだな、この鬼頭と似ても似つかない身体に最初の頃は違和感がありすぎて気持ち悪かった」

「そういえば、この身体に慣れる前、鬼頭のつもりであいつの犬に手を出したら噛みつかれて大怪我した」

「そんなこともあったな。保険証が無いのは病院に怪しまれるから、やくざな医者にわざわざ来てもらったことがあった。消毒して縫うだけで100万円も要求された」

「だが、半年もすると鬼頭というより佐藤という意識のほうが強くなってきたぜ」

「確かにそうだ。最近は無意識のうちに俺は田中だと認識している。身体のパーツの1つ1つが、そして身体の放つ匂いがもはや鬼頭ではないと認識させる。身体のほうが意識を規定している感じだ」

「おかしなもんだよな? だが、鬼頭の意識が薄れたところで俺たち3人は同等同格のはずだ。最初の頃にそう取り決めたはずだ。それなのに俺たち2人はいつまで経っても日陰者だ」

「うんざりしてきたな」

「どうする?」

「鬼頭は俺たちと距離を置きすぎた」

 互いの目を見て肯く。

「よし、前祝いといこう」

 2人はグラスを合わせて乾杯した。


 午後の診療を終えた後、特にやるべきこともなく日下部龍司は居室で居眠りをしていた。TVを点けっぱなしにしたままソファにもたれていたが、聞き覚えのある人物の名前が出てきた気がして顔を起こした。

……鬼頭ファンドの代表取締役社長の鬼頭眞武さんが一昨日から行方不明になっているということです。社員からの通報で警察が鬼頭さんの自宅を調べたところ、書き置きのようなものが見つかったと発表しました。詳しい内容は不明ですが、警察発表によりますと、鬼頭さんは自らの意思で失踪したということで、警察としましては、事件性は無いという見解です。鬼頭ファンドはここ半年で急速に業績を伸ばしている注目企業のひとつです。上り調子の会社経営を放り出してまで失踪する理由がはっきりせず、今回の失踪には疑問が残ります……

「消されたわね、間違いなく」

 いつの間にかミキが部屋に戻ってきていた。

「だろうな。書き置きにしても、あいつらなら問題なく書ける。なにせ本人だからな」

「そうね」

 ミキが皮肉な笑みを浮かべた。

 深夜になると、日下部とミキは鬼頭のセカンドハウスに向かった。庭から様子を窺うと、灯が点っており、人の気配がする。窓は開いていないがカーテンの隙間から佐藤と田中が居ることを確認できた。窓を蹴破って侵入しようかとも思ったが、大きな音を起てて近所の注意を引くのはまずい。

「正攻法でいく。お前は万一のためにバックアップ体制に入ってくれ」

 日下部が小声で指示するとミキは黙って頷いた。日下部は玄関に廻って呼び鈴を押した。

「エンドシストか? なぜここにいる?」

 インターホンから田中の声がした。

「鬼頭のことで大事な話がある」

 佐藤に相談しているのか少し間が空く。ドアの鍵を開ける音がした。ドアが少し開いて田中が日下部の背後を覗った。

「ひとりか?」

「そうだ」

 日下部はリビングに通された。佐藤が1人用ソファに身を沈め、グラスに入った酒をちびちびと舐めている。目の端が赤く、酔っているようだ。

「ひさしぶりだな」

 日下部が声をかけると佐藤は疑り深い目を向ける。

「挨拶するためにここに来たわけじゃないだろ。さっさと用件を言え」

 田中が佐藤の隣に座り、日下部にも座るように促したが日下部は立ったまま切り出した。

「鬼頭をどうした?」

「どうもしない。勝手に消えちまったよ」

「書き置きがあったようだが、お前らならいくらでも捏造できるだろう」

 言いながら日下部は笑いがこみ上げてきた。

「捏造というのも変か。3人とも鬼頭だしな」

「ふん、なんとでも言え。あいつは自ら書き置きを遺し、消えた。それが事実だ」

 佐藤が鼻白んだ。

「鬼頭には失踪する理由がない。3人になって業績もうなぎ上りだった」

「充分、稼いだからのんびりしたくなったんだろ? ほっといてやるのが一番さ」

「お前ら、本気でそんなことを考えているのか? 鬼頭のような男は金を稼ぐことこそが生き甲斐だ。お前らが一番分かっていることだろう。それとも身体が鬼頭じゃなくなったら人格まで別物になっちまったか?」

 佐藤と田中が苦い顔をする。

 日下部は新聞記者の佐埜に頼んで書き置きの詳しい内容を把握していた。日付、署名、自らの意思で失踪し自殺する意思は全くない旨が記されていた。さらに、失踪した後のファンドの経営を佐藤と田中に一任することが記されていた。この件が怪しい。あの鬼頭が簡単に経営を手放すとは思えなかった。

「お前らに見せたいものがある。鬼頭が失踪する以前に遺していったものだ」

 日下部はペンタイプの端末からホログラムスクリーンを立ち上げ、映像を再生した。

『3人になって半年ほど経つが、あいつらが何を考えているのかよくわからない。鬼頭の身体を持つ俺に嫉妬している気がする。鬼頭の身体を持っている以上、俺が中心になって会社を経営していくしかないのだが、いつ、あいつらが俺を裏切るかわかったものじゃない。だから、近い将来、俺が死亡、失踪、或いは行方不明になった場合、あいつらに消されたと考えていいだろう。その時は速やかに佐藤と田中を処分してほしい。2人は俺のセカンドハウスに住んでいる。50億も払ったんだ。アフターケアもよろしく頼む』

「処分だと? 俺たちは何もしていない」

「本当だ。俺たちはあいつの失踪には関わっていない。あいつをどうにかしようと考えたことはあったが、勝手にあいつは消えちまったんだよ」

 佐藤と田中が口々に叫んだ。

「往生際の悪い奴らだ」

 日下部は佐藤の鳩尾に拳を叩き込み、気絶させた。それを見た田中が、ひっ、と声に成らない声を上げてリビングから逃げ出した。しかし、影から湧いて出たようにミキが現れ、田中の首筋に即効性の麻酔シールを貼り付け眠らせた。


 エンドシストは実によく働いてくれた。依頼通りに佐藤と田中を処分してくれたようだ。探偵の報告では、セカンドハウスから2人が消えて1ヶ月以上経過したが2人の足取りは途絶えたままだということだった。エンドシストにしてもゾンビのような2人がいつまでも娑婆を闊歩しているのは具合が悪かろう。これで築き上げた富は全て俺のものだ。

 鬼頭は久しぶりの我が家に意気揚々と戻ってきた。鼻歌交じりに廊下を進んでいくと、リビングの方で物音がした。

「誰かいるのか?」

 そっとドアを開け、覗き込む。

「よぉ、久しぶりだな。待ちわびたぜ」

 佐藤と田中が居る。

「どうしてお前らがここに?」

「そんなに驚くことはないだろう? ここは俺たちの家だ」

 佐藤がにやにやしている。

「俺たちが生きていることがそんなに意外か? それもそうか。エンドシストが俺たちを消したと思っていたんだろうからな」

 鬼頭は言葉を失い、その場に立ち尽くした。

「エンドシストは念の入った奴だ。僅かな可能性を否定せず、お前が本当に消されたのか調べたんだよ。木は森に隠せとは言ってもカメラ社会で街中に居りゃいくらなんでも足が着くぜ。お前の生存を確認したエンドシストはお前の計画に気がついた。俺たちがお前を消したと思い込ませ、奴を利用して俺たちを消そうとしたことにな。俺たちが築いた財産を独占するために、だろ? エンドシストが宜しくと言っていたぜ」

 佐藤が侮蔑と憎しみを込めた目で鬼頭を睨みつける。見破られていたのか、ならばここは謝罪するしかない。

「す、すまない。出来心だ。許してくれ。また3人で稼ごうじゃないか」

「いいや、許さない。それに今更お前が戻ってきてもお前の居場所は無いんだよ」

「どういうことだ」

「お前の書き置きに、書き足したのさ。会社の経営を俺たちに譲る、とな」

「そんなバカな……」

「バカとはなんだ。俺たちはお前だ。すべて鬼頭としての意思だ」

 自分の計画が見破られ動揺していたが、先ほどからしゃべっているのは佐藤だけだ。田中は椅子に座り背を向けたまま微動だにしない。

「田中はどうした? ぴくりとも動かないが?」

 佐藤が目線を田中に移し、自分で確かめるように促した。鬼頭は回り込んで田中を見た。田中が殺されているのは一目瞭然だった。胸から血を流し、かっと見開いた両目からは既に生命の光は失われている。

「お前がやったのか?」

「いいや、お前がやったんだよ」

 佐藤の表情が歪んでいる。

「失踪から戻ってきたお前と田中が経営を巡って争い、相打ちになって果てるってところだ。ひゃはは」

 そう言うと、佐藤は鬼頭に襲いかかってきた。ナイフで胸や背中を滅多刺しにされ、命の水が見る間に床を染めていく。鬼頭は必死に這って逃れようとするが、佐藤が執拗に追ってきてナイフを突き立てる。

 玄関までもう少しというところで、突然、大きな音がして攻撃が止んだ。なんとか後ろを振り返ると佐藤が仰向けに倒れている。血液に足を取られてひっくり返り、頭を打ちつけたようだ。鬼頭は佐藤のところまで這っていき、生死を確かめた。出血のせいで意識がぼやけ、佐藤が生きているのか死んでいるのかはっきりしない。鬼頭は佐藤の持っていたナイフを奪い、残る力を振り絞り、思い切り佐藤の胸に突き刺した。一瞬、佐藤の身体が跳ねたが、それきり動かなくなった。

 俺はこいつなのか……こいつが……。佐藤の死に顔を眺めながら、これが自分の人生の幕引きかと思うと、どうしようもなく情けなく、鬼頭の目からは止めどなく涙が溢れた。

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