エンドシスト -Endocist-
芳邑
第1話 遠吠
薄暗闇のなかで凜は目を覚ました。ここはどこだっけ? 頭がぼーっとしていてよく思い出せない。辺りをそっと見回してみる。知らない部屋だ。分厚いカーテンから僅かに光が漏れているところを見ると夜ではないようだ。身体を少し動かしてみたが動かない。両手は後ろ手に、両足も縛られ、ベッドの上に転がされている。上着は剥ぎ取られ下着だけだ。部屋の空気が重く腐ったような臭いがする。目を凝らすと、ベッドのシーツ、床、壁の至る所に黒いシミがある。これらのシミはひょっとして血の痕だろうか。突然、恐怖が津波のように襲いかかってきた。悲鳴を上げようとしたが猿ぐつわを噛まされているらしく、くぐもったうめき声しか出ない。目から涙が溢れ視界がグチャグチャになった。ひとしきり足掻いたがどうにもならない。なにがどうなっているのか?
放心した頭のなかに昨日の記憶が蘇ってきた。昨夜も残業で帰宅が遅くなった。駅と自宅の間に公園がある。公園のなかを通り抜ける方が近道だが、夜になると人気が無くなることから普段は遠回りしていた。だが、仕事の納期が近く残業が続いていたせいで疲れが溜まっていた。ちょっとでも早く家に着きたいと公園を通り抜けることにした。公園内はひとの姿は無かったが、街灯が点在しているおかげで明るかった。公園の中ほどに差しかかった時だった。自分の名前を呼ぶ声がして振り返った。その瞬間、口と鼻になにかを押し当てられた。記憶は一旦そこで途絶えた。次の記憶は音だけだ。手足を縛られたうえに目隠しでもされていたのだろう。小刻みな振動から察すると車のなかに押し込められたようだ。走行中、犯人の声を聞いた気がする。つぶやくような感じでなにか聞き慣れない言葉を言った気がするが思い出せない。あれはなんだったろう。
どこかで物音がした。ひとの気配がする。扉が静かに開いて男が室内に入ってきた。全く知らない男だった。凜は身をよじって逃げようとしたが無駄な抵抗だった。男が凜の顔を覗き込む。能面のように白く浮いた顔にはなんの表情もない。
「お前の父親はエンドシストじゃないらしい」
その言葉を聞いた途端、それが昨夜車内で聞いた言葉であることに気づいた。エンドシストってなに? 父親は防衛医療大学でバイオテクノロジーの研究をしている。そのことと関係があるのか? 問い質したかったが猿ぐつわのせいで言葉にならない。
「残念だがお前にはこの世から消えてもらう」
恐怖のあまり凜はベッドから転げ落ちてしまった。床に転がる凜を男の手が無造作にベッドに引き戻す。凜は激しく首を振って拒否の意を示す。しかし、男の冷酷な目にはなんの変化も現れない。男が取り出したナイフに重く鈍い光が宿る。絶望と恐怖のなかで凜は自分の胸に冷たい刃先が吸い込まれていくのを見た。
一仕事を終えた日下部龍司は居室に戻るとコーヒーを淹れた。今日は少し気分がよい。カラスに襲われて片目を無くした猫の眼球再生手術がうまくいったのだ。動物であれヒトであれ再生医療はもはや珍しいものではない。今世紀初頭、体細胞を分化以前の細胞に初期化し多くの細胞に分化できる分化万能性と、増殖を維持できる自己複製能を持つaPS細胞(artificial pluripotent stem cells、人工万能性幹細胞)が開発された。この技術の発見を契機として再生医療分野は急速な発展を遂げ、21世紀後半において肉体のあらゆる細胞、組織の再生が可能になった。動物好きの日下部にとって治療がひとつでもうまくいくことは嬉しいかぎりだ。
居室に助手のミキが入ってきた。コーヒーを自分のカップに入れると立ったまま飲み始める。「後片付け、終わったから」。そっけなくそういうと煙草に火を点けた。ミキは日下部が通っていた防衛医療大学の後輩にあたる。助手とはいっても日下部と同じく医師、獣医師の免許を持っている。無愛想な性格が災いしたのか知らないが、ミキはあちこちの病院を転々として落ち着くことができず行き場を失ってしまった。そんなミキを哀れんだ大学の恩師に懇願され、日下部が経営する診療所で助手として雇うことにしたのだ。医師としての腕はいい。口数の少ないのも日下部は気に入っていた。沈黙を埋めるようにミキがホログラムTVを点けた。
……本日早朝、K県S市の万葉公園の池に人体の一部のようなものが浮いているとの通報があり、県警が調べたところ、池の中から人体の複数の部位が発見されました。遺体は成人女性と見られ、切断された可能性が高いとのことです。死因は判っておらず、現在、司法解剖を行っている模様です。衣類や靴、身元を示すものは一切発見されておらず、身元の確認を急いでいます。県警は地元警察に捜査本部を設置、死体遺棄事件として捜査を開始……
TVに見入っていたところに誰かから連絡が入った。日下部はデバイス付きの眼鏡を使用しており、視界のなかの拡張現実化されたスクリーンにメールリストが現れた。拡張現実化デバイスは肉眼、眼鏡、コンタクトのそれぞれに対応している。リストには友人の佐埜の名前が点滅していた。視線で選択すると内容が表れた。『これから隠れ家に来てほしい。話がある』。隠れ家とはBar マリコのことだ。マリコは佐埜が勤める大手新聞社御用達の店である。新聞記者は職業柄、漏洩してはまずい情報を交換する場合に会社の紐付きの店を利用する。日下部は、これから向かう、とメールを返し診療所を出た。
繁華街を外れた住宅街。その一角にBar マリコがある。表札もなにもない。ただの一軒家だ。生け垣の脇に小道があり少し進んで佐埜は扉を開けた。環境音楽が静かに流れている。黒光りしているカウンターの向こうからバーテンダーがにこやかに挨拶をしてくる。挨拶代わりに手を上げ、カウンターの奥のストゥールに腰を下ろした。日下部はまだ来ていない。佐埜はバーテンダーを呼び、ビールを注文した。
一口飲んだところで社から連絡が入った。視界のなかの拡張現実スクリーンに現れたのは後輩の高橋だった。チャットモードで話を始めた。『今朝、K県の万葉公園であがった遺体の身元が割れました。被害者は小山凜、女性、25歳、防衛医療大学・先端再生医療技術開発センター小山重之教授の長女です』。最近、再生医療分野の高名な研究者の身内が殺害される事件が続いていた。防衛医療大学・先端再生医療技術開発センターといえば日下部がかつて在籍していた所だ。再生医療がらみの殺人事件ということで、なにか情報を得られないかと日下部を呼び出したのは間違っていなかったようだ。『死因は?』。『胸部に刃物による刺し傷があり、心臓を貫き背中にまで達していたそうです』。
ふと気づくと日下部が隣に立っていた。佐埜は手の平を日下部に向けて、待ってくれと合図した。日下部は黙って隣のストゥールに座るとバーテンダーに注文を始めた。
『これで4件目か』。『そうなりますね』。『教授たちに送られてきたあの言葉の意味は判ったのか?』。『科学文化部の同期に聞いてみました。そいつが言うには、エンドシストのエンドはエクソの反意語じゃないか、と。英語の接頭辞でそれぞれ内と外を意味するそうです』。『つまり、エンドシストはエクソシストの反対語ってことか? あはは、それってまるでオカルトじゃないか』。『困りましたね』。『オカルトだとすると、この犯人は頭がおかしいのか? それとも妙な宗教にでも関わっているのか? 他になにか情報はないか?』。『国内には全く情報がないですね。ただ、アメリカ、ブラジル、イギリスにはそれっぽい情報がありました。脳を患った死にかけの患者の脳を総入れ替えして救ったとかなんとか』。『脳、再生医療……、まさかaPS細胞から作った再生脳を使ったのか?』。『うーん、どうでしょうね。そんなものを用意しても患者の人格は宿りません。存命しているように見せかけることはできるでしょうけどね』。『ピースが足りないな、引き続き調べてくれ』。『了解です』。
佐埜は通信を切り、ビールを一気に飲み干した。バーテンダーに指を1本立ててから、日下部の方に向き直った。
「わざわざすまない。耳に入れておきたいネタがあってな。それに聞きたいこともある」
「どんなネタだ?」
「今朝、K県の万葉公園でバラバラ遺体が発見されたのは知ってるか?」
夕刻、そんなニュースが流れていたのを思い出し、日下部は肯いた。
「その遺体の身元が今しがた判明した。小山凜。防衛医療大学・先端再生医療技術開発センター小山重之教授の長女だ」
「なに?」
見開いた日下部の眼が佐埜の顔を食い入るように見つめる。
「やはり知っていたか」
「小山教授は俺が在籍していた研究室と同じフロアに研究室を構えていたんだ。顔を合わせると最先端の情報をくれたり、時には俺の研究の助言をしてくれたこともあった」
バーテンダーが追加注文のビールを持ってきた。佐埜は一口啜り、日下部の顔色を見ながら話を続けた。
「再生医療分野の大御所の身内が殺害されるケースは今回が初めてじゃない。北海道大学の伊丹教授、東京大学の北野教授、大阪大学の武田教授の身内がいずれも殺害されている」
「本当なのか、その話?」
「これらの事件は再生医療と関係があるかどうかはっきりしなかったから、ばらばらに報道され、関連づけられていなかった」
「偶然、じゃないのか?」
「いや、そうじゃない。一連の事件は同一犯によるものだ」
「同一犯? なぜそんなことが言える?」
「犯人は身内を誘拐した後、教授たちに連絡を寄越し共通の質問をしていることが最近わかった」
「どんな質問だ?」
少し間を置いてから佐埜は言った。
「お前がエンドシストか?」
一瞬、日下部の表情が変化したようにも見えたがはっきりしない。日下部はグラスに目を落とすとグラスのなかの氷を人差し指でくるくる回し始めた。その指先がわずかに震えている。
「このネタは警察内で強い箝口令が敷かれていて掴むのに苦労した」
「公表するのか?」
「まだうちでしか掴んでいないスクープで公表したいところだが、当分無理だ。エンドシストについての情報がオカルトっぽいものばかりでな。裏取りに苦労してる段階だ。エンドシストという言葉に心当たりはないか?」
日下部はグラスの酒を口に含み、ゆっくり飲み下し始めた。頬が少し張っているのに顎にかけてのラインが細い。この横顔を佐埜は見飽きるくらいにこれまで眺めてきた。高校の時に日下部と出会ってから20年以上になる。入学した頃の日下部は明るく快活な奴だった。母親は幼い頃に亡くなったと聞いた。父親は国境なき医師団に所属し、当時、アフリカのユマ共和国にいた。夏休みになり日下部は父親に会いに行った。周辺国は内戦で荒れていたがユマは比較的落ち着いていた。しかし、運の悪いことに日下部が現地入りした直後にユマに内戦が飛び火した。内戦は激化の一途を辿り、外務省の邦人リストに日下部親子の名前も挙がっていたが、連絡が取れず行方不明扱いとなった。
日下部が帰国したのは秋の深まる11月になってからだった。たった1人で帰国した日下部は人が変わっていた。生気が失われ、周りの気遣いにも無反応だった。日下部が検査入院した際、身内がいないために佐埜が付き添ったことがあった。夜、寝ていると日下部はパニックを起こした。着ているものを荒々しく剥ぎ取ると、身体に刻まれた無数の酷たらしい傷痕からしきりに何かを取り除こうとしていた。佐埜はとっさに日下部を押さえ込もうとした。その時、涙を流しながら日下部がつぶやいた。「おやじの……破片が取れない……取れないんだ」。全身を狂ったように掻きむしる日下部の姿を佐埜はただ呆然と眺めていた。
天涯孤独になった日下部を佐埜はなにかと世話を焼いてやった。その甲斐あってか日下部は時間が経つにつれて少しずつ生気を取り戻していった。高校卒業後、日下部は防衛医療大学に入り、大学院に進み博士号を取得した。数年間、先端再生医療技術開発センターに勤務した後、独立した。ヒトやペットの再生医療の他にペットクローン、安価で良質なaPS細胞の製造販売、そして内容は不明だが防衛省からの委託業務も行っているようだ。佐埜はもう一度聞き直した。
「なにか心当たりはないか?」
「いや、残念ながら、ない」
日下部は首を横に振った。佐埜は大袈裟に溜息を吐いた。
「ない、と言い切ったわりには時間がかかったな」
「からかうな。小山教授のことを考えていただけだ」
無理もない。知り合いの身内が惨殺されたのだ。動揺しないほうがおかしい。
「それにしても犯人はエンドシストとかいう奴を探し出してなにをするつもりなのか? 再生医療がらみだと犯人が末期癌にでも冒されていて臓器を取り替えたいのか?」
独り言のように佐埜が言った。
「いや、その程度なら今どき潜りの医者にでも可能だ。犯人の狙いはもっと別だろう」
煙草に火を点けながら日下部が応じた。
「別の狙いとは、どんな?」
「さっぱりわからん」
「医者、或いは研究者の間で再生脳についての噂を聞いたことがないか?」
「再生脳? そんなものは作るだけで違法だ。部分再生でさえ厚労省の許可が要る」
日下部が呆れたように笑った。
「その通りだ。数ある臓器のなかで脳は特に規制が厳しい。別の狙いがあるとすれば脳かもしれない。海外でエンドシストが再生脳を使って患者を治療したって情報があってな……」
「日本で治療したという情報はあるのか?」
「いや、今のところ、無い」
「なら、エンドシストは日本人じゃないのかもしれない」
日下部が愉快そうに煙を吐き出している。
「しかし、犯人はこの日本でエンドシストを探している。なんの根拠も無く探しているとも思えないが」
「単に頭がイカれてるだけじゃないのか?」
「ま、その可能性もある」
そこに社からまた連絡が入る。緊急招集だった。
「すまん、社から呼び出しだ。ここは俺のツケでいいから。また今度ゆっくり飲もう」
そう言って佐埜は急いでマリコを飛び出した。
定刻を過ぎてもミキが診療所に現れない。連絡にも応じない。なにかあったのだろうか。あったに違いない。気まぐれなところはあるが責任感は強く仕事を放り出すようなタイプではない。嫌な予感がしてきた。どうしたものかと思案していると非通知の連絡が入った。少し迷ったがコンタクトを許可した。文字のみのチャットモードだ。『やあ、日下部先生』。『お前は誰だ?』。『今はそんなことはいい。あんたの助手を預かっている』。『預かっているだと? ミキを誘拐したのか? なんのために?』。『あんたが俺の探している人物なら助手は生きて帰す』。ますます嫌な予感が霧のように立ちこめる。『誰を探している?』。『エンドシストだ』。こいつが佐埜の言っていた殺人犯か? 『お前は再生医療研究者の身内を殺しまくっている奴か?』。『その通り』。これは面倒なことになった。否定すればミキは殺される、かといって……。犯人の狙いを確かめねばならない。『エンドシストを見つけ出してどうする?』。『俺の人格を別の脳と身体に移植する』。別人になりすまし警察の目を欺きたいということか。いかにも犯罪者が考えそうなことだ。『どうした? できるのか? できないのか?』。日下部は沈黙した。『ふふふ、否定しないんだな。今までの奴はこんな話をすると、バカバカしいとか、バカげてるとか、ふざけるなと返してきたもんだ。だが、あんたは沈黙した。それが答えなんだな?』。『ミキが生きている証拠を見せろ、話はそれからだ』。犯人がウェブ上のアドレスを送ってきた。アクセスするとベッドに横たわるミキが映っている。眠らされているようだ。映像フレームのなかに腕が現れ、ミキの足を掴んで揺する。ミキがうめき声を上げてかすかに動いた。『ほら、まだ生きてるぞ』。『予め撮っておいた映像かもしれない。今すぐにお前の顔を見せろ』。映像から腕がフレームアウトする。『いいだろう』。ゆっくりと男の顔が映り込んできた。にやにやと下卑た笑いを浮かべている。こいつは……最近、指名手配されたシリアルキラーの井村直樹だ。10件以上もの殺人を繰り返し、捕まれば間違いなく死刑になると言われている。『どうだ? 俺があんたの力を必要としている理由がわかったろ? 今夜、あんたの診療所に行く。詳しい話はその時だ。警察には知らせるな、妙な真似をすれば助手は死ぬ』。一方的に通信が切れた。
深夜、診療所の応接室で日下部は井村と対峙した。井村は落ち着きの無い男だった。こだわりがあるのか、或いは威嚇しているのか、常に大振りのサバイバルナイフを手にして鞘から抜いたり戻したりを繰り返している。
「本題に入る前に訊きたいことがある。なぜ俺に目をつけた?」
「小山教授だよ。教授がエンドシストじゃないなら、再生医療分野で優秀だと思える奴を何人か教えろと脅してやった。教授が筆頭に挙げたのがあんただ」
日下部は溜息を吐いた。そういうことか。娘さんを人質に取られ、適当なことを言うわけにもいかず、彼なりに優秀と思える人物を挙げたのだろう。
「それにしても、エンドシストの情報をどこで拾ったにせよ与太話にしか聞こえなかったろう。どうして信じる気になった?」
「捕まれば必ず死刑。追い詰められた犯罪者は生き残ろうと必死なんだよ。どんなわずかな可能性にでも賭けたい。それが犯罪者の心理ってもんだ」
井村は口元を歪めながら得意げに語った。勝手な言い分だとは思うが、溺れる者は藁をも掴むというところか。
「エンドシストの噂は裏社会ではそこそこ通った話だ。信じる奴はほとんどいないがな。俺はプロのハッカーを雇い、真偽を調べさせた。アメリカ、イギリス、ブラジルで人格移植手術を行った痕跡が見つかった。しかも、エンドシストは日本人らしいという情報まで掴んだ。俺は狂喜乱舞したよ。再生医療分野の有名な医者か研究者にあたっていけば、いずれエンドシストに行きつくってな。そして、あんたに巡り会えた」
井村は愉快そうにひとしきり笑った。やがて、真顔になる。
「無駄なおしゃべりはここまでだ。さて、人格移植とはどんな手術なのか教えてくれ。命を預けることになるんだからな。知っておきたい」
「いいだろう。お前は別人になりたい。手っ取り早いのはお前の脳を別人の身体に移植することだ。だが、この方法ではお前の脳は身体のほうから異物として認識され攻撃を受けてしまい生き長らえることは不可能だ」
「免疫拒絶反応だな。で、どうする?」
「移植先の体細胞からaPS細胞を作製し、再生した脳を使う。再生脳は生まれたての赤ん坊の脳と同じで真っ新の状態だ。そこに人格を移植するにはどうするか? 人格は生まれてから現在までの記憶で成り立っている。記憶の在処を見つけ再生脳に移植する必要がある。研究の末に俺は記憶の継承における有効な発見と術式を開発した。走馬灯という言葉を聞いたことがあるか?」
「ひとが死ぬときに一生の出来事を一瞬で見る現象のことだろ?」
「そうだ。俺は臨死に際して見る走馬灯に注目し、猿を用いて実験をした。まず薬剤を使ってドナーとなる猿を臨死状態にする。臨死状態になると大脳の一部の細胞が活性化する。その活性化細胞を取り出し、レシピエントとなる別の猿の再生脳に移植する。その再生脳を移植された猿はドナーが学習した記憶を保持していて、生活習慣、食べ物の好みといった個性を保っていることが確認された。死に際して活性化する細胞には記憶とパーソナリティが凝縮する。この活性化細胞を走馬灯細胞と呼んでいる」
「走馬灯細胞も免疫拒絶反応で攻撃されるんじゃないのか?」
「確かに攻撃されるがすぐに排除されるわけではない。その前に記憶が根付くから問題はない。手術の概要はだいたいこんなところだ」
「すぐにでも手術したいが……手術をやると見せかけて俺を眠らせ警察に売る可能性もある」
井村は猜疑心に満ちた目で日下部を睨みつけてきた。
「それはない。ヒトの再生脳を作ること自体が違法だ。お前を売れば俺も捕まってしまう。ミキも死ぬだろう。なにもいいことは無い」
別人になりすまし、警察から逃げ切るためには相応のリスクを取らねばならない。井村はしぶしぶ納得したようだ。
「ここに移植可能な身体のリストがある。すでに再生脳も作製済みだ。好きなタイプを選べ」
日下部はテーブルパネルに顔写真付きのリストを出して見せた。顔写真にタッチすると人種、年齢、性別、体格の詳細なデータが表示される。井村がページを繰っていく。日本人だけでなくアジア人から欧米人まで幅広くそろえてある。
「あんた、とんでもない医者だな。こんなものを何体もどうやって調達した……」
「そんなことはお前には関係ない」
さらにページが繰られて犬や猫のリストが出てきた。興味深そうに井村が眺めている。動物好きなのかもしれない。
「昔、ビーグルを飼ってたんだよな。小型犬だがもともと狩猟犬だから見た目より筋肉質でがっしりしてる。好奇心が強くて勝手にどっかいっちまうくせに寂しがり屋でな。ま、かわいいもんだった」
リストを眺めながら井村が勝手にしゃべっている。
「ここは人間だけじゃなく、ペットの再生医療もやってるのか?」
「あぁ、ヒトと違ってペットは規制が緩いからな。飼い主の望みもある程度叶えてやれる」
「なるほど。再生医療は、いい金づるということか」
井村がリストを最初のほうに戻した。
「こいつにする」
井村がリストのひとりを指した。選んだのは軍人の男で屈強な肉体の持ち主だった。
「では、さっそく始めよう」
日下部と井村は地下の手術室へ向かった。
音楽が流れている。クラシックだろうか。ゆっくりと目を開けてみるが視界がぼやけてはっきりしない。部屋の隅で誰かが椅子に腰掛けている。こちらに気づくと立ち上がって近づいてきた。
「麻酔が完全に抜けるまでもう少し寝ていろ」
井村はまた意識を失った。
次に目を覚ますとジャズが流れていた。目を開けると今度ははっきり見える。身体の感覚もある。腕と足を少し動かしてみた。そこにドアを開けて日下部が入ってきた。
「しゃべれるか?」
「あぁ、たぶん」
「身体を起こしてみろ」
そう言われて上半身を起こした。日下部がベッドの上にシャツ、ズボン、靴下を置いた。
「着てみろ」
運動機能を確認しているのだろう。ベッドに腰掛けるかたちで靴下とシャツを身につけた。ズボンを履くために立ち上がろうとしたところ、ふらついた。日下部に支えられてなんとかズボンを履き、再びベッドに腰掛ける。
「お前の望みは叶えてやった。ミキの居場所を教えろ」
日下部が鋭い視線を寄越した。
「さて、なんのことかな?」
そう言うやいなや井村は日下部の顎をめがけてパンチを放った。日下部が吹っ飛んで尻餅をついた。なかなかいいパンチだった。だが、座ったまま放ったせいか気絶させられるほどではなかった。日下部が顎をさすりながら井村を睨んでいる。
「なんのためにこの身体を選んだと思っている。元軍人なら攻撃にも防御にも優れているからさ。先生の役目はここまでだ。あの世にいってもらおう」
ドスを利かせて放った言葉だった。だが、不敵にも日下部は井村の言葉に怯える様子もなく、その場に留まっている。その落ち着き払った態度にむかつき井村は再び日下部に襲いかかろうと立ち上がった。しかし、なにが引き金になったのか日下部は気が違ったかと思えるほど突然弾けたように笑い出した。
「なにがそんなにおかしい?」
井村は声を荒げ睨みつけた。ようやく笑いを収めた日下部は答える代わりに手鏡を取り出し井村に向けた。鏡のなかには何の変哲も無い井村そのものの顔があった。井村の顔から血の気が引いた。
「どういうことだ? 手術はどうした? まさか、やらなかったのか? きさま、俺を騙したなっ」
「騙しただと? 俺はなにも騙っていない。自分が助かりたい一心でエンドシストなどという与太話を信じこみ、俺がそうだと勝手に決めつけたのはお前だろうが?」
なんということだ。エンドシストかどうか問い詰めたときに、こいつは否定も肯定もせず沈黙することで俺にエンドシストだと思い込ませた。助手を助けるために一芝居打ったのだ。それにしても一見それっぽい人格移植の話はなんだったのだ? ただの作り話だったのか? だが、そんなことはもうどうでもいい。こいつを殺して助手も殺してやる。殺してやらなければ俺の気が収まらない。井村は彼我の距離を詰めようと踏み込んだ。ところが、一歩進んだところで転んでしまった。訳が分からず日下部の方を見る。奴は腕を組んでただじっとしている。足下を見たが特に足を滑らすようなものも引っかかるものも無かった。
「どうした? かかってこい」
日下部が腕を組んだまま挑発する。再び立ち上がったが足下が揺れているように感じる。いや、実際に部屋の様子も上下左右に歪んで見えた。地震か? そう思って日下部の様子を窺うと特に慌てる様子もなく微動だにしていない。おかしい、なにが起きている? 井村は壁に手をついてなんとか身体を支えた。
「なかなかいい仕上がりだ」
日下部が満足そうに肯いている。
「なにをした? 俺になにをした? こたえろっ」
「担保だよ。普通に訊いたところでお前みたいな凶悪犯が素直にミキの居場所を教えるとは思えないからな。小脳に細工して平衡感覚を狂わせたのさ。思うように歩くことも走ることもできない。つまり、お前がここから逃亡できる可能性はゼロだ。居場所を吐いたら元に戻してやる」
「誰が教えるか、あんたも助手もめちゃくちゃ残酷なやり方で殺してやるからなっ」
「そんな身体じゃなにもできんぞ? 立場を理解したらどうだ。大人しくミキの居場所を教えろ」
戯けた目で井村を見つめてくる。なにか言葉を吐きつけてやりたいが、怒りと憎悪で井村は返す言葉が見つからない。
「答える気は無いか。なら、仕方がない。こいつを使うか」
日下部が注射器とアンプルを取り出した。
「なんだ、それは……?」
嫌な予感がして声が上ずる。
「拷問用に開発された薬だ。打てば死にたくなるほどの激痛を伴う。どうだ、試してみるか?」
意地の悪い顔つきで日下部が笑っている。
「ハッタリだろ……?」
井村は自分の顔が引き攣っているのがわかる。
「そうか?」
日下部が一歩踏み込み井村の鳩尾に拳をたたき込んだ。呼吸が一瞬止まった井村を日下部はベッドに転がし、慣れた手つきで拘束ベルトを巻いていく。必死で抵抗するがどうにもならない。日下部が注射器の針をアンプルに差し込み薬物を吸い上げた。針を上に向け空気を抜くと井村の腕の静脈に突っ込んだ。激痛は井村の想像以上だった。体内で無数の針が生成し、内臓を突き破り、身体の表面に向かって噴き出してくる感覚だ。脂汗なのか冷や汗なのかわからないものまで噴き出してくる。息をしているつもりが口から衝いて出るのは悲鳴だ。
「どうした? まだレベル1だぞ、しっかりしろよ」
日下部が愉快そうに声をかけてくる。意識が朦朧としてきた。レベル1でこれなら2以上だとどうなるのか想像もつかない。心臓が脈を打つ度に痛みの度合いが増す感じだ。この苦痛から逃れる術はないのか。考えることだ。なにかを考えて集中することだ。なんでこんなことになった? 油断したからだ。人質を取っていることで油断しすぎた。もう少し日下部のことを調べてから接触するべきだった。それにしても手術と称して俺を眠らせている間に日下部はなぜ警察を呼ばなかった? 再生脳やリストに載っていた身体は嘘っぱちじゃなかったのか? いや、やはり日下部が自分で言ったように再生医療絡みでなにか犯罪に関わっているんじゃないのか? でなければ警察に連絡しているはずだ。日下部という男がよく解らない。こいつはなんなのだ? 脳に細工したうえで俺を拷問にかけてくる用心深さ、念の入れようも異常といえる。そこまで細心の注意を払い、なにを守ろうとしているのか。いや、なにを恐れているのか。あの助手にそこまでして救う価値があるのか? ひょっとしてこいつは助手の命などどうでもいいのかもしれない。助手が妙な死に方をして警察が日下部の身辺を探ってくることを恐れているのではないのか? シリアルキラーの自分から見てもこいつにはどこか歪さを感じる。平然と人を拷問してくるあたり、そもそもこいつは医者としても人としてもどこか倫理観がずれている。もしそうならこいつは俺に負けず劣らず相当な悪かもしれない。目的を遂げるためならどんな手段も厭わないタイプだとようやく気づいたが既に遅かった。
声がする。女の声だ。あの助手の声だ。そうか、俺は吐いちまったのか。あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。あの地獄のような痛みはさっぱりと消えていた。起き上がろうとしたがぴくりとも動かない。拘束されている。口に猿ぐつわ、目にもなにかあてられていて見えない。目隠しをされていると耳と鼻が鋭くなる。助手の他にもうひとりの呼吸音がする。日下部だろう。それにしてもやけに臭う部屋だ。動物の臭い、薬品、いろいろな臭いがするがいちいち考えていても仕方がない。今は様子を探るために聞き耳を立てることにした。
「ねぇ、こいつ、どうするの? このまま置いておくわけにもいかないでしょう?」
「そうだな、一文の得にもならん。気がついたら放り出すか」
「いっそのこと、殺っちまうってのはどう?」
物騒な女だな。なんてことを言いやがる。井村は肝が縮む思いだ。
「簡単に殺してしまったら面白くないと言ったのはお前だぞ?」
「それはそうだけど、やっぱりむかついてきた。こいつに殺されかかったのよ?」
「まぁ、そういきり立つな。いずれそいつは消滅する」
「どのくらいで消えるの?」
「はっきりとは言えんが、せいぜいあと2、3日だろう」
ちょっと待て。いま、消滅と言ったか? なんの話だ。俺がこの世から消えるのか? くそ、いい加減にしろ。無駄だと思いながらも身体を揺すって拘束を解こうとした。
「こいつ、気がついたみたいよ? あら、やだ、おしっこまで漏らしてる」
助手の愉快そうな声がする。自由になったら真っ先にぶっ殺してやる。
「今の話を聞いて、びびっちまったのかもな、ははは」
まったく忌々しい奴らだ。
「気がついたのなら拘束を解いてやれ」
馬鹿か、こいつらは。俺が自由になったらなにをするか分かっていないのか。
拘束を解かれると、すかさず攻撃体勢を取った。目の前に助手がいる。まずこいつから血祭りに上げてやる。意気込んでみたが、なにかおかしい。目線が低すぎる。身体が縮んでしまったような感覚がして、一瞬、動きが止まった。それを待っていたかのように助手が手鏡を向けてきた。
「これが今のあんたの姿よ」
丸い鏡のなかにはビーグル犬が映っていた。ぽかんと口を開け、よだれを垂らした間抜け面の犬がそこにいた。どういうことだ? まさか俺の記憶を犬の再生脳に移植したのか? ということは、やはり日下部はエンドシストだったということか……。俺をコケにしやがって……許せない。
「唸ってるところを見ると記憶はしっかりあるみたいね」
助手が意地の悪い笑みを浮かべている。ますます頭に血が上り、助手の喉を噛み裂いてやろうと飛びかかった。しかし、助手が持っていた手鏡で頭を殴られ、もんどり打って床に転がった。
「人と犬じゃ細胞の親和性が悪いからね。あんたの記憶はせいぜいあと2、3日ってとこ。残り少ない人生を楽しみなさい。あ、もう人じゃないから犬生ね、あはは」
そう言うと助手は玄関のドアを開け放ち、呆然としている井村を思いっきり外に蹴り出した。
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