林森北路 LinSenBeiLu

@K89Z

林森北路 LinSenBeiLu

 林森北路(リンセンベイルー)は、台北市内を東西に走るMRT板南線善導駅から垂直に北へ向かって伸びる夜の顔で有名な通りだ。

MRT淡水線の隻連駅前を東西に伸びる民生路との交差点付近の一帯には、台湾の歌舞伎町とも称される一大歓楽街が広がっている。歌舞伎町ほど狭い地域にいろいろなものが密集しているわけではないため、一見それほど派手には見えないが、その周辺には飲食店からキャバクラ、ナイトクラブなどがそこここにあり、金さえ払えば合法、非合法を問わずあらゆる欲望をみたす事が出来る。一見の日本人観光客などはこの街にとっての上得意で、夜一人で台北見物などをしようとホテルから出ると、たちまち日本語を流暢にあやつるポン引き達に囲まれて、なかなか目的地にまでたどりつけない有り様になる事もめずらしくない。

 2010年。

 花房徹が台湾に来てから、もう三年が経っていた。

 花房はどこの国にもいる、目的もなく何年もふらふらと外国を流れ歩く、いわゆる海外ゴロの類で、台湾にいる理由は日本に帰る理由がないから、というだけだった。今年で二十三才になるが、日本の大学を一年生の時に辞め、オーストラリアにワーキングホリデーを利用して入国して以来、数カ国を転々としていて一度も日本には帰っていない。

 その夜、花房は林森北路に面したセブンイレブンのわきに出ている麺類の屋台のテーブルに陣取り、楊という五十絡みの男とチンチロリンをしていた。楊はこの辺りを根城にしているポン引きだった。

「もう一回」

楊はだいぶ負けが込んで、熱くなっていた。

「おう、何回でもやってやるよ」

花房がサイコロを振ると三・三・二が出た。

「二でやがんの。これより弱いのは一しかねえんだよ」

楊は薄ら笑いを浮かべてサイコロを取り上げ、発泡スチロールのどんぶりに振り入れた。目は六・六・一だった。

「なんだよ、これ。イカサマじゃねえのか?」

「ふざけた事を言ってんじゃねえ。とっとと払えよ、おっさん」

そう言って手を出した時、花房の携帯電話が鳴った。番号を見ると日本にいる兄からの電話だった。

 花房はサイコロを楊の手からむしり取って立ち上がると、テーブルから少し離れて、通話ボタンを押した。

「おまえこの間の話は考えたか?」

兄はいきなり用件を切り出した。

この間の話というのは、日本へ戻って兄の知人が経営する会社へ就職したらどうかという話だった。

「考えたけど、やっぱり今すぐって訳にはいかないよ。こっちでもいろいろ片付けなきゃならないこともあるしさ」

兄はうんざりした様子で「そのいろいろっていうのは、いつ片付くんだよ」と語気を強めた。

 三歳年上の兄は花房とは正反対の性格で、現役で一流大学を卒業して上場企業に勤務している。花房が十五歳の時に両親が死んでからは親の代わりに面倒をみてくれたが、その分口も出した。近頃は頻繁に電話を掛けて来ては、早く日本に帰る様に促していた。

花房はそうした電話を煩わしく思いつつも、無視したり言葉を荒げて反抗したりすることができなかった。それは幼い頃から出来の良い兄になんとなく頭が上がらずに過ごしてきた事による。

「切り捨てる物は切り捨てなきゃ、いつまで経っても新しい生活なんか始められないぞ」

「わかってるけど、まだその会社に行くって決めたわけじゃないし」

これがその時兄に対して言えた最大限に反抗的な言葉だった。

 兄のため息をやり過ごして通りの向こう側に目を向けると、ホテルから一人の男が出てくるのが見えた。四十代前半位に見えるその男は、白いポロシャツの上に紺色のブレザーを着てセカンドバッグを手に持っている。中年の日本人が海外の繁華街で遊ぶ時の典型的な身なりだ。おそらくセンスは悪いが値段は高いブランド物の香水をたっぷりとふりかけているだろう。

「ごめん、仕事で話さなきゃならない人が来たから切るよ。また電話するから」

兄が言葉を続けようとするのを遮って、一方的に電話を切った。

 日本人観光客が数メートル先の信号に辿り着く前に、自転車に乗った五十代のおばちゃんが声をかけているのが見えた。日本人は少しおばちゃんの話を聞いていたが、すぐに手を数回振って、あっちへ行けという仕草をした。

 花房は左右を見ながら道を渡り、観光客に追い付いた。

「そのおばちゃんには気を付けた方がいいですよ。」

花房が日本語で言うと日本人観光客は振り返った。

「その人、ここいらでも有名なぼったくりなんですよ」

「そうなの?」

日本人観光客に睨まれておばちゃんは慌てた。

「全然ちがうよ。ぼったくりなんかしてないよ。私とっても良心的。変な事いうと怒るよう」

自転車のスタンドを立てて詰め寄って来るおばちゃんの隙をついて花房が軽く荷台を蹴ると、自転車は音をたてて倒れ、前かごに入っていたカバンの中身が辺りに散らばった。

「なにすんの」

おばちゃんが携帯電話や女の子の写真が印刷された名刺などを拾い集めている間に、花房は日本人のわきに来て道の反対側を指さした。

「ほらあの男」

日本人がつられて花房が指した方を見ると、道の反対側で道を渡りそこねた楊が信号待ちをしていた。

「あの男、このおばちゃんとグルのここいらのチンピラなんです。こっちを見てるでしょう」

「たしかに」

「すぐにこっちに来ますよ」

信号が青に変わると、花房達を見ながら楊がこちら側に向かって歩き出した。

「行きましょう。あのおっさんもタチが悪くて有名なんです」

花房は言いながら日本人観光客の腕を持って逆方向へ歩き出した。

「遊ぶんだったら僕が安全な所を案内しますよ」

「まだ遊ぶって決めてるわけじゃないよ。君はいったい何なの?」

遊ぶ気がないわけないので、花房は男の言葉の前半を無視した。

「僕は留学で台湾に来てるんですけど、バイトで女の子の紹介もやってるんです。安心できる業者に良い子を紹介させますよ」

花房は日本人が口を開く前に携帯を取り出して耳にあてた。相手はすぐに出た。

「もしもし、今プリンスホテルの脇にいるんだけど、日本の人で安全に遊べる所を探してる人に会ってさ。誰か紹介してあげてくれないかな」

花房は日本語で言った。

「はいはい、すけべな日本人様は何名様でしょうか?」

電話の向こうでおどけた声を出したのは洪という花房より一つだけ年上の台湾人だった。

花房は相手にせず、「一人だよ。すぐに来てくれ」と中国語で返して電話を切った。

「大丈夫みたいです。女の子を気に入らなかったら断ってもらって全然かまいませんから」

「全部でいくらかかるの?」

「日本円なら一万五千円でホテル代込みです。ストリップ見て、一緒にお風呂に入って、マッサージをして、その後アレですよ」

「時間は何分?」

「時間なんて関係ないですよ。楽しく遊んでもらうことが大事なんで、気にしないでください」

「そうなんだ」

「ええ。こっちです」

二人は幅五メートル程の細い路地を曲がった。

 少し歩いて、もうひとつ路地を曲がると、今時の身なりをした二十代前半の女の子が前方から歩いてきた。

「ほら、あの娘です」

「ずいぶん早いな」

 花房は聞こえないふりをして女の子に手を

上げた。

女の子は日本人の前まで来ると、にっこり

笑って日本語で「こんにちは、ビビアンです」と言った。

 女の子は本当はリサという英語名で、さっき花房が電話で話した洪の彼女だった。リサは昼間会社員として働いているが、小遣い稼ぎに洪を手伝っている。ショートカットですらりと背が高く、少し色黒だが化粧映えする顔立ちで日本人の受けは良かった。

「こんにちは」

日本人が少し顔を赤らめて言うのを見て、花房は腹の底でにやりとした。

「この娘はレベルが高いと思うんですけど、どうですか?」

花房が真顔で日本人に訊くと、日本人はリサの顔を見てにこりとした。

「うん、いいよ」

「よかった。じゃあ、代金をお願いします」

「ここで?」

「ええ、何か問題でも?」

「いや、別に」と言って日本人はセカンドバッグから財布を取り出し、慣れない台湾元札を注意深く数えた。

花房は彼の肩ごしに洪と仲間の葉が近付いて来ているのを確認した。

「じゃあ、一万五千円ね」

「はい、確かに。ありがとうございます。楽しんできてくださいね」

 花房が目配せをすると、リサは日本人の手を取った。

「行きましょう」

「うん」

 リサは後ろ方向に日本人をうながした。日本人がそれに従って踵を返すと、五メートルほど前に洪と葉が歩み寄って来ていた。

 二人は花房ににやりと笑いかけて通り過ぎた。

「ちょっと待て、こら」

洪が中国語で日本人を怒鳴りつけると、日本人は後ろを振り返った。洪が誰を怒鳴りつけているのかわからないようだった。

「ばかやろう。お前だよ、お前」

当惑した表情で足を止めて洪を見た日本人は、首から顔にかけて龍の刺青を入れた、チンピラを絵に描いた様な洪の風貌にたじろいだ様子をみせた。

「来い」

二人のすぐ前まで来た洪は、リサを自分の方へ引き寄せ、日本人の胸倉をおもむろにつかんで言った。

「コイツワオレノオンナダ」

「え?」

日本人が洪のよくわからない日本語に一瞬ひるんだ隙に、洪のとなりにいた葉が日本人の持っていたセカンドバッグをひったくった。

「何するんだ」

日本人は葉の方へ一歩踏み出した。そのとたん洪は日本人の腹を拳で殴った。日本人はうっと声を漏らし、腹を両手で押さえて地面に膝をついた。

葉はセカンドバッグのファスナーを開けて財布を取り出して中身を確認した。

「二度と人の女に手を出すんじゃねえぞ」

笑いをかみ殺しながらおきまりの台詞を浴びせ、洪、リサ、葉の三人は歩き出した。

 少し離れた物陰に隠れていた花房が三人に合流すると、洪は花房の肩をたたいた。

 三人が路地を曲がろうとした時、「おい」と後ろから声がした。

 全員が立ち止まって声の方を振り返ると、自転車を押したさっきのおばちゃんと明らかに堅気ではない男達が四人、こちらに向かって歩いてきていた。葉はさっと洪にセカンドバッグを渡した。

 四人の男達のうちの一人はポン引きの楊だったので実質的には相手は三人だが、面倒なことにはちがいない。

 ちっと舌打ちをして洪はちらっと花房を見た。花房は周囲を見渡し、いざという時にどちらに逃げるべきかを考えた。

 洪はリサに向かって顎を振った。リサはすぐに男達と反対の方向に駆け出した。

 洪はため息をついて、三メートル程の距離にまで近づいて来ていた男達の中で、リーダー格だと思われる男に向かって言った。

「余さん、ごぶさたしてます」

「ごぶさたじゃねえよ。ずいぶんやりたい放題やってくれてるじゃねえか」

男は余建明というこの辺りを根城にしている五十がらみのヤクザ者だった。百六十センチ程の短躯だが、ペイズリー柄の開襟シャツの袖からは丸太の様に太い腕がのぞいている。

「いや、そんな事ないですよ」

「あるだろ。おばちゃん、怒ってんじゃねえか」

「あれ?おばちゃんは余さんとこで面倒見てたんでしたっけ?」

「とぼけてんじゃねえよ。みんな、お前らみたいなチンピラの所為で、ここいらの評判が悪くなって困ってるんだよ」

余は隣に立っていた異様に顔が長く背の高い男に向けてあごを振った。

男は前へ出て、ベルトに挟んでいた切れ味の悪そうなダガーナイフを抜いて洪に向けた。

「ちがう、カバンを受け取れって言ってんだよ」

余に怒鳴りつけられると、男はナイフをベルトに挟みなおして、洪に手を差し出した。    

 洪は余の目を見ながら、持っていたハンドバッグを馬にゆっくりと差し出した。馬が一歩近づいてハンドバッグを受け取ろうとした時、洪は飛び上がって馬の横面をそれで思いきり殴りつけた。同じタイミングで花房が馬の後ろ膝を蹴った。馬は思わず地面に膝をついた。余達が馬に気を取られたその隙に、花房と葉は同じ方向へ全速力で走り出し、洪は逆の方向へと走った。

「待て、逃げるんじゃねえ」

路地の出口で葉と花房は別の方向に駆け出したのだが、運悪く花房の背後を馬は追いかけて来た。花房はその辺においてあったものを手当りしだいにぶちまけながら全速力で走ったが、大通りにでたところで肩を掴まれ、背後から羽交い締めにされた。

勢いをつけて体を左右に振ってみても、びくともしなかった。花房はもがきながら、少し膝を曲げて馬を前かがみの体勢にさせておいて突然垂直にジャンプした。花房の頭頂部が顎に直撃し、馬はたまらず手を離して口を押さえた。

花房は急いで振り返り、馬の鎖骨のあたりを力いっぱい蹴飛ばして走り出した。

 三ブロックほど走ってから角を曲がり、後ろを振り返りつつ速度を落として立ち止まった。 

膝に手を当て、息を整えようと深呼吸を繰り返した。

「まったく、ついてねえな」

痛み始めた頭頂部を触ってみたが、血は出ていないようだった。

しばらくして少し呼吸が落ち着いてくると、馬が追って来ていない事を確認して歩き出した。

 最初の路地を曲がり、意識して左右交互に路地を曲がりながら歩いた。人間は慌てていると無意識に同じ方向に何度も曲って、その結果同じ所をぐるぐると回ってしまうと聞いた事があったからだ。

 こういういざこざは、今までにも何度かあった。チンピラが繁華街で勝手な事をすれば地場のヤクザ者に目をつけられるのは当然の事だ。洪はそういった事を全く意に介さない様子だったが、花房は長く続けられる事ではないだろうという漠然とした不安を抱いてはいた。だからといって、兄が言うように日本に帰ってまともな職に就くなどというのはごめんだった。ぼんやりとした不安だけでは、全てを先送りしてその日その日を楽しく生きているだけの生活を捨てる十分な理由にはならなかった。

 何か問題が起った時には、師大(台湾師範大学)近くにあるカフェで待ち合わせる取り決めになっていたので、花房はどうやって師大に行くかを考えながら歩いた。

 何度目かの角を曲がり工事現場の壁づたいに長春路に出ると、まさに目の前にさっきの日本人観光客が立っていた。

「あ」

「てめえ」

思わず声を出した花房の襟を掴もうと観光客は手を伸ばして来た。

花房はその手を両手でつかみ、ぐいっとねじって観光客の腹に自分の膝を叩き付けた。観光客は前のめりにうずくまった。

「まったく」とつぶやいて男の後方に何気なく目をやると、顔の長い男が走ってくる姿が見えた。花房は観光客から手を離し、慌てて走り出した。信号を無視して全速力で逃げていると、花房のかたわらをポン引きのおばちゃんの自転車に乗った洪が追い越して行った。

「なんだよ、それ?」

洪は高笑いをしながら右手を上げて走り去った。

 洪は、台湾南部の街、高雄の出身らしかった。

花房がこの街に着いた日に酒を飲んでいたクラブで、花房が傍らに立て掛けていたギターを見て話しかけて来たのが最初の出会いだった。その頃の花房はほとんど中国語が話せなかったが、好きなバンドやギタリストの事を片言の英語と中国語で話し合い、酒を奢りあうとすっかり意気投合した。花房のギターは高校生の頃に必死でアルバイトをして手に入れた物で、花房にとっては唯一の旅の友ともいうべき存在だった。花房は洪が話し掛けて来た時こそ警戒していたが、全く知己のいない国で自分の気に入っているギターの話ができる人間と出会えたうれしさで、そんなものはすぐにどこかへ行ってしまった。洪も花房をとても気に入ったらしく、花房を自分のアパートへ連れて行き、しばらく泊めた。

 当てもなく台湾に来たばかりの花房は、なにか金を稼ぐ手段が必要だったので、洪に相談してみたのだが、洪はクラブで偽のドラッグを若者に売りつけたり、たまに日雇いの肉体労働をしてなんとか月々の家賃を稼いでいる状態だったので、花房に仕事を紹介することなどできなかった。困った花房は日本人観光客相手の美人局を思いついた。実入りの良い楽な仕事だった。たまに今日のようなトラブルに見舞われる事もあったが、洪は慣れた様子で返り討ちにしたり、金をやって追い払ったりした。日本から台湾への旅行がブームになりつつある時期だったこともあって、客に不自由することはなく、花房はしばらくこの国にいる事ができる見込みが立ったのだった。

日本人がビザを持たずに台湾に滞在できる期間は三ヶ月間だが、三ヶ月などはあっという間に過ぎた。当初は何か理由を見つけてビザの発給を受けなければならないとも考えたが、面倒くさくて放っておくうちに月日が経ち、結局そのまま不法滞在になった。

 洪は、仕事とは全く関係の無い仲間と一緒にロックバンドを組んでいた。二人が出会ったのがちょうどそのバンドのギターが抜けたタイミングだったので花房が誘われた。

洪がヴォーカルで、ベースとドラムはそれぞれケニーとショーンという二人が担当していた。彼等のバンドのライブ音源をもらってみると、聴くそばからコピーできるような内容で、音楽的には少し物足りなかったが、皆とすぐに打ち解ける事ができたので、参加してみる事にした。

 今花房が向かっているカフェは、そのバンドメンバー達のたまり場だった。

ここには普段から洪の彼女のリサは来るが、葉や他のチンピラ仲間は来ないことになっていた。洪は彼らにバンドのライブに来られる事も嫌がった。花房は理由を聞いてみた事があったが、洪は笑ってごまかしただけだった。もしかしたら洪は自分達とは異なった、いわゆる普通の若者たちにある種の憧れがあって、ケニーやショーンに自分が普段身を置いている世界を見せたくなかったのかもしれない。

 師大通りは、台湾師範大学の南側を垂直に南に向かって伸びる片側一車線の通りで、右側には大学のグラウンドがあり、左側には学生寮が並んでいる。学生寮の南端に隣接して師大夜市があり、毎晩深夜一時頃まで多くの人でにぎわっている。

花房が目指しているカフェはそんな一角にあり、その店の地下フロアをバンドメンバー達とその彼女や友人達が毎晩のように占拠していた。

 店の前の植え込みに、さっき洪が乗っていた自転車が転がしてあった。花房はそれを横目に店へ入り、地下へ続く鉄製の螺旋階段を降りていった。

既にいつものメンバー達が集まっているようで、ジュークボックスからは大きな音で90年代のロックが流れていた。

このジュークボックスは、良く言えば幅広い年代の音楽を網羅しているが、悪く言えばあまり新しい曲が入っていないので、彼等はいつも気に入った五、六曲をくり返しかけている。

 ケニーがジュークボックスに手を置いて狂ったように首を振っている。この日はケニーとショーン、二人の彼女、それに何度か見かけた事のある女の子が二人に洪がいた。

洪はリサとエイトボールをしていた。

花房に気付くとキューを台に立てかけて花房の傍らに来て、皆からは見えないようにズボンのポケットから取り出した札を花房に渡した。

どうやら日本人のセカンドバッグは死守したらしい。

「とにかく一杯飲めよ」

洪は女の子達が座っているソファの前のテーブルを指差した。

テーブルの上にはショットグラスに入ったテキーラがびっしりと置かれていて、つけ合わせのカットレモンもそのかたわらに山と積まれている。今日は一杯注文すると一杯ついてくるというキャンペーンをやっているので、百杯注文したのだという。

花房はショットグラスを取り上げてテキーラを口の中へ放り込んだ。テキーラを飲み下してからレモンを口に入れると、甘い唾液が口中に広がった。これでやっと人心地がついた。

 リサは突然キューを放り投げ、口を押さえて階段のわきにあるトイレに駆け込んだ。すでにだいぶ飲んでいるようだ。

 洪はリサを介抱するでもなく、笑いながら肩をそびやかして見せた。

花房が床に転がったキューを拾い上げてビリヤード台の上に置くと、台を照らしていた蛍光灯が消えた。

十元玉を蛍光灯とコードで繋がった箱についている投入口に入れると、五分間蛍光灯が点灯してゲームができるシステムになっている。

 洪はポケットからコインを取り出して投入口へ入れた。蛍光灯がつき、花房がボールを並べ始めた時、大声で笑いながら三十代と思しき白人が台湾人と思われる女と肩を組んで階段を降りて来た。百九十センチ近い身長の大男だった。

 白人はフロア全体を見渡してから花房の方へ近付いて来て、「勝負しようぜ」と英語で言った。

白人の年齢はわかりづらいが、三十歳そこそこの観光客だろう。ということは、女はプロかもしれない。

「いいよ」

花房は白人にキューを渡しながら「何か賭けないか?」と言って右手の親指と人差し指を何度か擦り合わせて見せた。

「ゲームはエイトボール。一ゲーム二百元でどうだ?」

花房はうなずいた。

 洪は花房にキューを渡し、顎を白人の連れの女の方へしゃくってみせた。花房が目を向けると、女がソファに座って煙草に火を着けているのが見えた。

 よく見てみるとその女は台北でもめずらしいくらいの美人だった。色は抜ける様に白く、つややかな黒髪が肩まで伸びていた。細い鼻梁の先の形の良い唇にはピンクパールの口紅が引かれていて、大きな目のまわりにほどこされたアイメイクが少し濃い。

花房は手のひらを差し出してブレイクを白人にゆずった。

白人のブレイクはパワフルだったが、腕前はそれほどでもなかった。花房が続けざまに三ゲームを取り、四ゲーム目も最後の八番ボールをポケットに沈めた。「まだやるか?」と訊くと、白人は「あたりまえだ」と鼻息も荒く答えて玉を並べ始めた。

 花房が何気なく女の方を見ると、女は表情を変えずに見返した。花房は女から視線を外してブレイクショットを打った。

 五ゲーム目が終わった時、白人は次のゲームの掛け金をそれまでの総額にしてくれと言い出した。

「金は持っているんだろうな?」

花房が訊くと、白人は連れの女を指差しながら英語で「I bet that whore(その売女を賭ける)」と言った。花房は女の方を見たが、女は英語を理解しないらしく、表情を変える事はなかった。

花房はうなずいてゲームを始めた。

 結果はまたしても白人の負けだった。白人は財布を取り出し、花房の前にほうり投げた。花房はそれを開け、金を全て抜き取って白人に投げ返した。

「足りねえよ」

「それで全部だ。足りなきゃどうする?」

どうすると謂われても、体格的に勝ち目はなさそうだ。

花房がぐるりと目玉を回すと、白人は悪態をつきながら階段に向かった。それを見て立ち上がった女を花房は手で制して、ソファに座らせた。

このまま帰すのも腹立たしい。

「ちょっと待ちなよ」

「なんだ?」

白人は足を止めて振り返った。

「あんたもオケラじゃ困るだろ?」

「おめえの知った事かよ」

「今度は飲みくらべをしないか?もしあんたが勝ったら金を全部と、この娘を返すよ」

「本当か?」

白人は上りかけた階段を駆け下りて、花房の前まで来た。

「わかってるだろうが、もし俺が負けても払う金はないぞ」

「気にするなよ。これはサービスゲームだ。でも、飲むのは俺じゃなくてあいつだよ」

花房はソファにふんぞりかえって檳榔をむしゃむしゃと噛んでいる洪を指差した。

「わかった。で、何を飲むんだ?」

花房が今度はテーブルの上にずらりと並んだテキーラの入ったグラスを指すと、白人はうなずいた。

 花房は手招きして洪を呼び、小声で言った。

「こいつはアジア人を見下していやがる。負け分は払わねえし、連れのあの娘の事を売春婦呼ばわりしやがった。酔いつぶしてからぶっとばそうぜ」

「なんだと?それは許せねえな。やってやろうじゃねえか」

洪はわざと大げさに言って、にやりと口元をゆがめた。

 花房は白人が連れてきた女のそばへ行き、声を掛けた。

「あいつは君の彼氏なの?」

女は花房を見上げて言った。

「ううん。さっき会ったばっかり」

「そうか。じゃあ、やっつけちゃっても問題ないね」

女はいぶかし気に訊いた。

「べつにいいけど、勝ったのにどうしてやっつけるの?外人が嫌いなの?」

「いいや。外人は嫌いじゃないけど、さっき君の事を売春婦だって言いやがったから、むかついてるんだ」

「売春婦?」

「そう、ひどいだろ。アジア人なめてんだよ」

「そう」

女は無表情に花房から目をそらした。

「まあでも気にするなよ。俺の友達がつぶしちゃうから。終わったら、さっきあいつから巻き上げた金で奢るよ」

「でも、あなたの友達は大丈夫?」

「どうかな。今までは負けた事ないけど」

 洪は灰皿に噛んでいた檳榔の滓と真っ赤な唾液を吐き出して、首を回した。

テーブルの周りに人だかりができた。

 洪は酒が非常に強く、この手の飲み比べで誰かに引けをとった事はない。今までに何度も酒のみ自慢達を打ち負かし、金を巻き上げていた。これほどの大男とは対戦した事がなかったが、おそらく大丈夫だろう。

 皆が注目する中で飲みくらべが始まった。

それまでにもある程度飲まれていたとはいえ、テーブルの上にはまだ七、八十杯以上のテキーラが残っている。

白人と洪はそれを交互に飲んでいった。

十杯目ずつくらいから周囲はどちらかが一杯飲むごとに、やんやの喝采を浴びせた。

 洪は健闘していたが、白人がその体の大きさで圧倒的に有利に見えた。

 花房は勝負の行方も気になったが、白人が連れてきた女の方が気になっていた。

女は楽しそうに飲みくらべを見ていた。

 双方が二十杯目をあけると、二人とも目がほとんど開いていなかった。白人はくしゃみが止まらなくなっており、洪は頬杖をついた左手の小指が鼻の穴に入りっぱなしになっている。

 花房はカットレモンを手に取ると、洪の後ろ襟を掴んで上を向かせ、ぎゅっと絞って両目にレモン汁を流し入れた。洪は「ぐおー」と声をあげ、立続けに三杯、テキーラを飲み干した。

歓声があがり、それを見た白人も二杯立続けに口の中に放り込んだが、三杯目を手に取ったところで膝がくだけ、テーブルに倒れ込んだ。

洪がガッツポーズをとると、皆思い思いに雄叫びをあげた。

 洪は「この人種差別野郎」と叫び、白人をテーブルの上から蹴り落とした。その拍子に自分もバランスを失い、後ろのソファにひっくり返った。

「おいケニー、そっちを持て」

花房とケニーは白人の両わきを持ち上げ、そのまま引きずって行って頭からトイレに叩き込んだ。

 皆が再び歓声をあげると、ケニーはそれに応えて皆の方へ向き直り「飲むぞー」と叫んでぴょんぴょんと跳ね始めた。

 花房はショットグラスを持って女の前へ行った。

「飲むものある?」

「うん」

女はテキーラのショットグラスをかかげて見せた。

「酒、強いんだ?」

「なめるだけ」

「そうか。隣いい?」

花房がソファを指差すと女はうなずいて少し横へずれた。

「あなた日本人?」

「わかる?言葉が変でしょ。」

「変じゃないけど、少しだけ訛ってるかな」

花房が「慰めてくれなくてもいいよ」と笑うと女も少し笑った。

突然洪が背後で起き上がって、花房にヘッドロックを掛けた。

「なにすんだ、おい」

「おいケニー。レモンよこせ」

洪が言うとケニーが笑いながらレモンを洪に渡した。

「よせ、馬鹿。やめろ」

花房は叫んだが、洪はかまわず花房の目にレモンの汁を絞り入れた。

「ぐあー」

花房は目を押さえ横に倒れた。皆が歓声を上げ、拍手した。

 花房は目をこすりながら起き上がって洪に「バカ野郎」と悪態をついた。

女は「大丈夫?」とハンカチを差し出した。

「ありがとう」

「あなた達、どういう友達なの?」

花房は渡されたハンカチで目をふきながら言った。

「男はバンド仲間で、女の子たちは彼女と友達。あ、そうだ。明日ライブやるから観においでよ」

「ライブ?」

「うん」

「行ったことないな」

「そうなの?じゃあ絶対来なよ」

「どこでやるの?」

「ここの向かいの地下にあるライブハウス」

「へえ、行こうかな」

「よし、決まりだ。そうだ、君の名前は?」

「KAKA」

「KAKAか。変わった名前だね」

「そうね」

 台湾を含む中華圏の国々では、英語名を持つのは一般的だ。中学や高校での英語の授業の時に先生につけてもらったり、自分でつけたりする。ケニーとショーンもクリスチャンだというわけではなく、高校の時につけてもらった名前だった。そうした中でもKAKAという名前はめずらしかった。花房は彼女のオリジナルなのではないかと思った。

 花房が立ち上がり「KAKAが明日ライブに来るってよ」と大声で言うと、皆はわけもわからずに歓声を上げた。

「よし、じゃあ乾杯しなおそうぜ。今日はこれ全部飲みきるまで誰も帰さないからな。覚悟しろよ」


 花房は、夕方目を覚ました。頭がずきずきと痛み、やっとの思いで目蓋を持ち上げてはみたものの、なかなか焦点が合わなかった。  

 昨夜の馬鹿騒ぎの後半の事は全く覚えていないが、これだけひどい二日酔いになるくらいだから、かなり飲んだのだろう。

 少しずつ焦点の合ってきた目で辺りを見渡してみたが、どこにいるのかわからなかった。 

花房が横たわっているベッド以外にはテーブルが一つと椅子が二脚、小さなキッチンに冷蔵庫があるだけの部屋だった。シャワーを使う音が聞こえていたが、誰が浴びているのかを確かめに行く気にはなれなかった。

 なんとか体を起こし、ベッドの縁に腰掛けて、煙草に火を着けた。

煙を吐き出しながらテーブルの上に置かれた目覚まし時計を自分の方に向けて舌打ちをした。四時を回っている。

 深くため息をついた時、風呂場からKAKAが、Tシャツ一枚の姿で髪を拭きながら出てきた。

「起きてたんだ」

花房は何か言おうと思ったが、中国語が出てきそうにもなかったのでうなずくだけにしておいた。 

 KAKAは冷蔵庫からペットボトルの緑茶を出し、キャップを外して花房に渡した。

「ありがとう」

それをぐいと口に流し込むと思いがけず甘かったので思わず吐き出しそうになった。

口をぬぐってペットボトルをテーブルの上に置いた。

「ライブに遅れるとまずいから、もう出掛けるよ」

KAKAは「わかった。服を着るから五分待って」と言うと、Tシャツを着たまま腕だけを抜いて下着を着け始めた。

「うん」

花房はKAKAから目をそらしてたばこを灰皿に押し付け、昨日の夜ここへ来てからの事を思い出そうとしたが無駄だった。

「しまった、ギターを取りに一度家に帰らなきゃ。つきあってくれる?」

「いいよ。遠いの?」

「いや、昨日の店のすぐそばだよ。ところで、ここってどの辺り?」

「覚えてないの?」

「え?ああ」

花房はきまりわるそうに言った。

「民權西路の駅と雙連駅の真ん中くらい」

「そうか。けっこう遠いな」

 昨夜のカフェからほど近い花房のアパートまではMRTなら三十分はかかるだろう。

乗り換え駅の雑踏を思いだしただけで吐きそうになった。

 二人はKAKAのアパートを出て、タクシーをひろった。花房がドアを開け、KAKAを先に乗せた。

「師大通り」

花房がぶっきらぼうに言うと運転手はうなずいて発車させた。

車内のにおいと揺れが気持ち悪さを助長した。

花房は何か話していないと車内にぶちまけそうな気がして話題を探した。

「今日は平日だけど、仕事は休みなの?」

KAKAは首を横に振った。

「今日も夜の九時から仕事だよ」

「そうなんだ。何の仕事してんの?」

「えっと、キャバクラ」

「へえ。キャバクラか。給料良いんだろうね」

「どうかな。あなたは何をしてるの。バンド以外は」

花房は少し慌てた。

「まあ、何て言うか、日本人相手の観光ガイドみたいな感じの仕事」

「そう。面白そうだね」

「まあ、たいした事ないよ」

花房は適当にごまかして外を見た。


 師大通りのライブハウスROUTE66は早くから人でごった返していた。ショーンがフェイスブックを駆使して一所懸命客を集めたのだ。

 洪はパソコンの操作が全く出来ないので、ショーンがオンラインで嬉々として友人達とやりとりする姿を見て「このおたく野郎が」と毒づいたが、ショーンが集めた観客の数には満足しているようだった。

 花房達のバンドがステージに出て来ると、歓声が上がった。自分のギターの音が二日酔いの頭にキンキンと響き、花房の演奏はお世辞にもうまくいったとは言えなかったが、そんな事はおかまいなしに観客達は踊り狂った。

 演奏が終わって楽屋に戻ると、花房はギターを置き、対バンのメンバー達との挨拶もそこそこに、ビール瓶を持って客席に出た。

 壁際に立っていたKAKAを見つけて手を上げた。

KAKAはにこりとしてうなずいた。

「どうだった」

「初めてだったからよくわからないけど、面白かった」

KAKAは笑いながら答えた。

「じゃあ良かった」

「みんなすごく盛り上がってるね」

「まあ、仲間うちみたいなもんだからな。これからどうする?ちょっとだけ一緒に打ち上げに顔ださない?」

花房が言うとKAKAはもう一度笑った。

「もう二日酔いは治ったの?」

「ライブで汗かいたら、大分良くなった」

「そう。私、これから仕事だからそろそろ行かないと」

「そうだったね。あのさ」

「何?」

「もし、彼氏がいないんだったらだけど、また遊びに行っていいかな」

KAKAは少し考えてから言った。

「どうして昨日あの外人をやっつけたの?」

「どうしてって、困ったな」

眉間を掻いて言葉を探したが、上手く言える気がしなかった。花房は、とにかく何か言おうと口を開いた。

「まあ、あの外人野郎がさ、自分の国じゃ誰にも相手にされないくせに台湾に来たとたん男前きどりで、ビリヤードに負けてくやしいからって君の事を売春婦呼ばわりしやがったのが気に入らなかったんだ」

喋り始めると、嘘でもないが本当でもない言葉が次から次へと出て来た。

「そうなんだ」

KAKAは眉を持ち上げて何度か軽くうなずき、ステージに目をやった。

リフをなぞっただけのチープなギターソロが、不安げがギターリストの表情とは裏腹に客席を盛り上げている。

花房は観念して、もう一度眉間を掻き、「本当は」と切り出してKAKAの耳元へ口を寄せた。

「本当は、君と知り合いになりたかっただけなんだ」

 KAKAは顔を花房の方へ向け、大きな目で暫くのぞきこむ様に見ていたが、やがてハンドバッグから鍵を取り出して花房に渡し、にっこりとした。


 洪はさっき花房がKAKAからもらった鍵を高く掲げて見せて叫んだ。

「これがその鍵だ」

「うおー」といつもの地下フロアに歓声が上がった。

「いやいや、まあまあ、まあそれほどでもないよ」

花房はソファの上に立って両手を高く揚げ、何度もうなずいて見せた。

「ま、しょうがないよな。好かれちゃったんだもん。俺の所為じゃないよな」

「おお、言いやがったぞ」

「アホだ、こいつアホだあ」

洪とケニーは花房に飛びかかって、ヘッドロックをかけた。

「来たぞ」

ショーンとショーンの彼女が、テキーラのショットグラスがぎっしりと並べられた、昨日も確かに見た大きな盆を二人掛かりで階上から運んできた。

「いや、ちょっとそれは」

洪は雄叫びを上げながら、並べられた酒の量に怖じけずいている花房の足を引っ掛けてソファに倒れ込ませた。ショーンが花房を押さえ付けると、ケニーが無理矢理口をこじ開けた。

「ほら飲め、ほら飲め」

洪がテキーラを次々と花房の口に流し込む。

「馬鹿、やめろ。俺は二日酔いで」

誰も聞いていなかった。


 KAKAは林森北路と錦州街の交差点でタクシーを降りた。

 100メートルほど歩いて、とあるビルの地下に下りた。階段の途中には、外から見えるように「卡拉OK(カラオケ)愛愛」というピンク色の看板が取り付けられている。

 ドアを開けて中に入ると、ソファに余建明がふんぞり返ってカラオケモニターでテレビを見ていた。余はこの店を含めて数軒のカラオケ店をオーナーから預かっている。

 台湾には学生達やサラリーマンが歌を歌いに行くカラオケ店も数多くあるが、金を払って女の子を外に連れ出す為の置屋としての機能を備えている店も多い。この店は後者で、店に来る客に女の子を選ばせる場を提供するだけでなく、ポン引きが街でつかまえてきた客をホテルに案内し、そこへ女の子を派遣することもしている。

 日本式に言うとおよそ十五畳ほどの店内には白い合皮で覆われたソファが二台置かれていて、その他にはテーブルが一つとカラオケセットがあるだけの粗末なつくりだった。トイレのドアの他にもう一つあるドアの奥は事務所兼台所になっており、事務机の上にパソコンや電話が数台置かれていていた。その奥にもう一部屋あり、客待ちをする女の子達の待機場所になっている。

 KAKAが店に入った時、事務所へ通じるドアは開け放しになっていて、ポン引きの楊が奥の部屋のソファの上に寝そべって、テレビを見ているのが見えた。

 余は顔をKAKAに向けると、だるそうに立ち上がって近づいてきた。

「お前、昨日どこへ行ってた?」

「どこって、あのアメリカ人をいろいろ案内してたけど」

余はいきなりKAKAの髪を掴んで顔を近付けた。

KAKAは痛みに顔をしかめた。

「お前、飲み屋の便所に置き去りにしたろ?」

「いつまでたっても起きてこないから」

「言い訳するんじゃねえよ。ロングの客をふいにしやがって」

余はKAKAを壁に叩き付け、床に倒れこむと腹を蹴った。奥の部屋にいた楊が恐る恐る顔を出したが、余ににらみ付けられるとすぐに引っ込めた。

「お前がばっくれた後、あの野郎がどなり込んで来やがって、金を返すハメになったんだぞ」

 KAKAはしばらく息ができずに、うずくまっていた。

 余はしゃがんで、KAKAの顔を覗き込んだ。

「ほら」

そう言って余は手を差し出し、KAKAをひっぱりあげてソファに座らせた。そして今までとはうって変わった柔和な表情を浮かべて小声で言った。

「お前、そろそろ俺に面倒を見させろよ」

KAKAは目だけを動かして余を見た。

「いつまでもこんな商売してても仕方ないだろ」

 楊は事務所の入口の壁に貼り付いて、必死に会話を聞き取ろうとしていた。

「今より断然良い暮らしをさせてやる」

 KAKAは黙っていた。今までにも何度も言い寄られ、その度に断っていたのだが、余はしつこかった。他の店に移ろうかと考えた事もあったが、この街の店は全て余と何らかのつながりがあり、そうかといってよその街には何のつても無かったので、移るに移れなかった。

 ずっと黙っているKAKAにしびれを切らせた余は、ちっと舌打ちをして立ち上がった。

「おい、楊」

呼ばれると楊は、すっ飛んできた。

「はい」

「てめえ、何でさぼってんだよ。とっとと客を捕まえて来い」


 深夜一時を過ぎ、地下フロアは、花房、洪、洪の彼女のリサの三人だけになっていた。

リサをひざの上に横抱きにした洪は、檳榔を噛みながら言った。

「お前、台湾人の女とつきあうの初めてか?」

花房は床に座り、両手で抱え込んでいる大きなゴミ箱に頭を突っ込んだまま「ああ」とやっとのことで答え、顔を上げた。

「それがどうした?」

「台湾人の女とつきあうなら、飯は作ってやらないとダメだぞ」

「飯?」と言うやいなや花房は、またゴミ箱に頭を突っ込み、ひとしきり吐いた。

「汚いなあ」

リサが半分笑いながら言った。

 洪は灰皿に血の色の唾をたらした。

「日本人の女とちがって、台湾の女は飯なんか作ってもらって当たり前だと思ってるからな」

「ちがうでしょ。好きだったら御飯くらい作ってあげたくなるんでしょ」

「まあ、どっちでも同じ事だよ。男が作るって決まってるんだ」

 花房はゴミ箱から顔を上げた。

「本当かよ、料理人以外で料理ができる台湾人なんて会った事ないよ。だいたい俺んちには台所がない」

「彼女の家は?」

「思い出せないけど、とにかく今は飯のことなんか考えたくもねえ」

花房は自分が作ることができる料理らしきものを思い出そうとして、またゴミ箱に顔をつっこんだ。


 ポン引きの楊は、昨日洪と花房に金を巻き上げられた日本人観光客と一緒に歩いていた。

 あんな目に遭ったくせに、のこのこともの欲しげな顔をしてホテルから出てきたのには呆れたが、金を持っているのは間違いない。

 揚は日本人に気づかれない様に目玉をぐるりと回した。 

時間は深夜十二時に差し掛かっており、この夜最後の客になるだろうと思われた。

めざすホテルに入り、フロントで手を出した。フロントに立っていた中年女性が万事心得た顔で部屋の鍵をさし出すと楊はそれを受け取り、「こっちよ」と言って、電気が消えている地下に日本人を連れて行った。

楊がスイッチを入れると蛍光灯がつき、そこが食堂だということがわかった。

「どうぞ、どうぞ座って」

 楊は日本人にいすを勧めながら奥から灰皿を持って来て日本人の前に置いた。「俺、煙草吸わないから」と日本人は言ったが、気にせず口を開いた。

「すぐ女の子来るから、気に入ったら上の部屋行くね。気に入らなかったら、別の娘呼ぶから言ってちょうだい」

「指名料とかないの?」

「ないない。なに言ってんの。商売、信用第一よ。さっき言った金額だけ。他いらないね」

「そうなんだ。おじさん、日本語上手だね」

「わたし、日本いたから。赤坂住んでたよ。わたしのおとうさん、おかあさんもっと上手かったね」

「そうなんだ」

日本人がうなずくと階上からカツンカツンと階段を下りる靴音が聞こえて来た。

「ほら、もう女の子来たよ」

 KAKAが階段を下りて顔を見せると、日本人は目を丸くした。

「この娘可愛いでしょ?どう?大丈夫?」

「うん、大丈夫、大丈夫」

「よかった。この娘、可愛いからちょっとだけ高いよ。日本円で二万円ね」

日本人は躊躇なくテーブルの下で札を数え、楊に渡して立ち上がった。

 KAKAは彼の腕をとって「こんばんは」と日本語で言い、上を指さした。階段で一階に上がり、エレベーターに乗った。

 日本人は部屋に着くまで、ずっとKAKAの顔に見入っていた。

KAKAは鍵を開けてやり、日本人を部屋の中へ促した。

 ビジネスホテル風の造りの建物とからは想像出来ない様なラブホテル風の部屋だった。 

KAKAは籠を日本人の前に置き「お風呂入りましょ」と言った。

日本人はうなずいて、服を脱ぎはじめた。

「名前はなんていうの」

「メイリンです」

「日本語話せるの?」

「ちょっとだけ」

KAKAはにこりとして見せて、先に風呂場へ入ると、シャワーの蛇口をひねった。湯がちょうど良い温度になったのを確かめて「どうぞ」と日本人を呼んだ。


 KAKAの部屋は台北ではめずらしく台所がついていた。

花房は、洪とリサの話を真に受けたわけでもなかったのだが、何かKAKAを喜ばせることをしたいと思っていたので料理に挑戦してみることにした。とはいえ料理などしたこともなく、両親が死んでからは毎日コンビニ弁当を兄と二人で食べていたのだから前途は多難だった。

やってみればどうにかなるだろうと腹をくくってあちこちの扉を開けてみたが、やかんが一つあるだけで調理器具は何もなかった。冷蔵庫の中にもペットボトルのお茶が数本と、デザートの類がいくつかあるだけだった。

 仕方がないので外へ出て、終夜営業のスーパーへ行った。フライパン、包丁、まな板、箸などをカートに放り込み、何を作ろうかと考えながら食品コーナーを歩き回ったが、全く見当もつかなかった。

 スーパーには学生のアルバイトとおぼしき店員が一人レジにいるだけで、客も花房一人だった。

 店員はぐるぐると歩き回る花房をちらちら見ていたが、目が合うとすぐに視線をそらした。

花房は店員の前まで行き、訊いた。

「あのさ、君は彼女に料理を作ってあげたりしてるの?」

「何の話ですか?」

店員はいぶかし気な顔をした。

「ていうか、そもそも君は彼女はいるの?」

「いますけど、何でそんな事を訊くんですか?」

「ああ、そうだよな」と花房は頭を掻いた。

「彼女に何か作ってやりたいんだけど、何を作って良いかわからなくて考えてるんだ。君は作ってやったりするの?」

「ああ、そういう事ですか。いつも作ってますけど」

店員は顔こそ無表情だったが、警戒心を解いたようだった。

「へえ、やっぱり台湾人でも料理する奴がいるんだな」

「人によりますよ。ちなみに昨日は苦瓜排骨湯と沙茶炒羊肉でした」

「なんだよ、それ?」

花房は眉をしかめた。

「聞いてもどうやって作るんだかちっとも思い浮かばねえよ。もっと初心者向けのやつおしえてくれよ」

「そうですか。初心者だったら、やっぱり卵料理がいいんじゃないすかね」

「卵?卵か」


 深夜2時過ぎにKAKAが部屋に戻ると、花房はベッドで高いびきをかいていた。

 部屋全体に焦げくさい臭いが漂っている。見ると黒くて大きな月餅のようなものがテ

ーブルの上の皿に載せてあった。

 KAKAは荷物を椅子の上に置いてシャワーを浴びた。

 KAKAが風呂場から出る気配に花房は目を覚ました。

「おかえり」

「起こしちゃった?」

花房は起き上がってベッドの縁に座った。

「いや。寝るつもりなかったから。いつ頃帰って来たの?」

「ついさっき」

「そうか。すっかり寝ちゃってたな」

時計は二時過ぎを指していた。

花房は煙草に火をつけた。

「いつもこのくらいなの?」

「だいたいね」

KAKAはバスタオルを体に巻いて花房の隣に座り、テーブルの上を指差した。

「あれ何?」

「え、オムレツだけど」

「オムレツだね」

KAKAはかぶせ気味に言った。

「台湾では男が料理をするって聞いたからやってみたんだけど、結構難しいな」

「そうなんだ。日本人の男の子はあまりしないみたいだね」

KAKAがいたずらっぽく言うと、花房は煙草を消して咳払いをした。

「あのさ。昨日の夜の事、ちっとも覚えてないんだけど、どんな感じだったっけ」

「酔っぱらってたよ」

「俺、何かしたかな?」

花房が聞くとKAKAは花房の隣に座り「どうかな」と言って膝に手を置いた。


 朝八時過ぎ、オムレツをあきらめた二人は朝食を摂るために外に出た。二・三分歩いた所にある、KAKAがたまに行くという豆漿屋に行くことにした。

 古びた豆漿と書かれた看板が見えてきた時、花房の携帯が鳴った。ポケットから携帯を取り出し、開いてみると日本にいる兄からだった。

「ごめん」

KAKAはうなずいて先に歩いて行った。

「もしもし」

花房は、うんざりして電話に出た。

 KAKAは店に入り、冷たくて甘い豆漿を二つと油条を二本頼んでから、調理場のカウンターに置かれたメニューに目を落とした。 

 調理場の奥が食堂になっていて、4人がけのテーブルが八組ほど並んでいる。

 奥の壁際のテーブルに、サラリーマンらしい二人組がいた。年配の男が何やら並んでいる料理について蘊蓄をたれているらしいのを、こちら側に背を向けて座っている部下と思われる男が、時々相槌を打ながら聞いている。

 KAKAは二品ほど注文してから豆漿と油条を受け取ると、一番手前のテーブルに置いて、外を向いた席についた。

 花房は兄の話を適当にはぐらかして電話を切り、店に入った。

 店主にあいさつを返し、KAKAの方を指さしながら奥へ入った。KAKAは食べずに待っていた。

 花房は「ごめん」と言って席に着き、蓮華を二つとって一つをKAKAに渡した。 

 冷たくて甘い豆漿は飲み疲れた花房の食欲を呼び戻した。

 豆漿は豆乳の事だが、日本の豆乳よりもさらさらしていて臭みはない。甘いものと塩味のものがあり、甘いものは暖かいのと冷たいのが選べる。塩味の豆漿は暖かいものだけで、好みでネギや溶いた生卵を入れてもらう事もできる。油条は内側までからからに揚げた揚げパンの様なもので、豆漿によく合うので一緒に注文する人が多い。

 店員が蘿蔔糕(大根餅)と蛋餅を運んで来ると、入れ替わりでKAKAはトイレに立った。

 花房が店主に豆漿のお代わりを頼んだ時、奥にいたサラリーマン達が席を立って出口に向かい始めたのが視界の端に見えた。

「この、ヒモ野郎。自分の女に客を取らせて、恥ずかしくねえのか?」

 花房が突然聞こえた日本語に驚いて顔を上げると、この間洪達と一緒に金を巻き上げた日本人が立っていた。男が後ろ向きに座っていたのと、スーツ姿だったので全く気付かなかった。とっさに後ろを振り返ると、年配の方は調理場のカウンターで料金を払っている。

 花房は日本人を見上げ、わざと薄ら笑いをうかべて油条を置いた。

「客なんか取らせてねえよ。かつあげされて悔しいからって、ふざけた事言うなよ」

「今トイレに行ったはお前の女だろ?」

「だったら何だよ?」

「あれ?お前、自分の女がデリヘルなのを知らないでつき合ってんのか」

「挑発しようとしても無駄だよ」

「どう思っても構わねえけど、昨日たっぷり突っ込んでやったぜ。お前のメイリンちゃんに訊いてみな」

男は周囲をちらりと見て、花房の鼻つらに押し込む様に拳を当てた。

「ぐうっ」

花房は反射的に鼻を手で押さえて、テーブルに突っ伏した。

 やっと顔をあげて振りかえった時には、すでに男の姿は店内にはなかった。

 花房は何度も鼻を触って、鼻血が出ていないかを確かめた。血は少ししか出ていなかったが、涙が止まらなかった。

 何度も目を拭っていると、KAKAがトイレから戻って来て座った。

「あんまり食べてないね。蘿蔔糕はあまり好きじゃなかった?」

花房は慌てて箸を手に取った。

「いや、嫌いじゃないよ」

 KAKAは花房が顔を上げずに次々と料理を口に放り込むのを見て、いぶかし気に訊いた。

「どうしたの?何かあったの?」

 花房は下を向いて食べながら、訊くべきかどうかを悩んだが、結局箸を置いた。

「あのさ、さっき、そっちのテーブルに日本人がいたの知ってた?」

「ああ、サラリーマンっぽい人達でしょ」

「そう」

花房は、うなずいてから思いきって言った。

「その一人が、君と昨日寝たって言ってた」

「私、昨日は仕事だったから、そんな時間なかった」

とっさにそう言ってはみたものの、KAKAは明らかに動揺していた。

「ライブの後、すぐに仕事に行ったし、昨日は閉店まで店にいたし」

 KAKAが言い訳を考えながら話すのを、少し気の毒に思いながら花房が「仕事で寝たって言ってた」と言うと、KAKAはテーブルに目を落として黙った。

「ちがうんだ」

花房は少し大げさな手ぶりで言った。

「責めてる訳じゃないんだ。本当はどうなのか知りたかっただけなんだ、別にどうこう言える立場じゃないし、それならそれで良いんだけどさ」

確かにどうこう言える立場ではないが、当然それならそれで良いなどと思ってはいなかった。

「俺もコーディネーターをやってるって言ったけど、本当は違うしさ」

KAKAは、ゆっくりと顔を上げた。

「本当は洪と一緒に美人局みたいな事をしてるんだ。だから」

花房は訊いてしまった事を後悔しながら、ため息をついた。

「どっちもどっちだよね」

KAKAは何も言わずに花房の目を見続けていた。


 夕方、KAKAが仕事に出て行った後、花房はKAKAの部屋でぼんやりとしていた。

 大気の熱で色の薄まった台北の夕暮れの陽射しが、花房の黒い影を背後の白い壁に焼きつけている。

 花房は、KAKAにはああ言ったものの、当然KAKAの仕事の事を気にしていた。確かに花房自身、他人の仕事をとやかく言える立場では無い。それはわかっていたが、昼間一緒にいた女がその夜客を取っているのが気にならない程までには擦れきってはなかった。

「アメ公が本当の事言ってたんじゃねえか」

花房はつぶやいて立ち上がると、外へ出た。

 あちこちの街角に、食べ物の屋台が少しずつ出始める時間だった。普段であれば客が食べているものをのぞいたり、買い食いをしたりするのだが、今日はそんな気にはなれなかった。

 どこへ行くともなく歩いていると、突然目の前に異様に顔の長い男が現われた。

花房が唖然として男を見上げると、馬は花房の胸ぐらを掴んで言った。

「こないだは世話になったな」

「あ、いえそんな」

そう言うや、花房はできるかぎりふりかぶって右の拳を馬の目に叩きつけた。よろめくと思いきや、馬は平然として花房に顔を近づけた。

「痛てえよ」

「で、ですよね」

花房は無理に笑顔をつくると、今度は馬の鼻に頭突きを食らわせた。馬はさすがにひるんで花房を掴んでいた方の腕を伸ばしたが、胸倉から手は離さなかった。唖然とする花房を鼻と鼻がくっつかんばかりに引き寄せ、ナイフを抜き出して花房の頬にあてた。

「痛てえっつってんだろ」

「はい。すみませんでした」

 洪が夕食を買いに行くために歩いていると携帯が鳴った。表示は花房の携帯だった。

「ちょっと来てくれないか?」

「何だよ。まだ早いだろ?」

「いいからとにかく来てくれ」

「どこにいるんだ?」

「林森北路と長春路の交差点」

「何かあったのか?」

「いや」

それだけ言うと花房は一度携帯から耳を離したようだった。おかしな間があってから、また言葉を続けた。

「何もないけど、とにかく来てくれ」

 洪は花房の口調に嫌なものを感じて、すぐに行く事にした。

「わかったよ」

 花房が指定した林森北路と長春路の交差点まではバスで十分程の距離だった。

花房は「これでいいんでしょ?」と言って馬の腕を振りほどいた。

「ああ、お前、洪が来るまでそこに立ってろ」

馬は花房の足元を指差した。

 花房があいまいにうなずくと、馬は「逃げたら後ろからナイフを投げつけるからな」と言って背後のビルの入り口に身を隠した。

 馬にそんな事ができる腕があるのかわからなかったが、試してみる気にはならなかった。

 洪は歩きながらあちこちのポケットを探った。カッターナイフが一本出てきたのでそれを尻のポケットに入れた。

 道すがら、原付きバイクを修理する店の店先に、金づちが置いてあるのをみつけた。洪は何気なく立ち止まり、店主が見ていない隙にそれを失敬すると腰に挟んで上からシャツをかけた。

 林森北路と長春路の交差点に来ると、反対側の角に花房が立っているのが見えた。洪は数台の車をやりすごして道を渡り、手をあげた。

 近づいてみると、花房は右目の上を赤く腫らしている。洪は自分の目蓋を人差し指で指して言った。

「どうしたんだ?」

「いや、それが」

「なんだ?」

その途端、誰かが洪の襟首をつかんだ。振り向こうとすると、馬がぬっと顔を突き出した。

「捕まえたぞ。」

洪が口を開く前に馬は洪の前に回りこんで腹に拳をたたきつけた。腹を抱えるように前のめりになったが、馬に後ろ襟を掴まれ、洪は倒れる事ができなかった。

「行くぞ」

馬は洪の襟をつかんだまま歩きだした。

「おめえもだ」

花房はうなずいて一緒に歩きだした。

 洪は前のめりの姿勢のまま引きずられるように歩きつつ、ちらっと花房を見た。目の上が赤く腫れているだけでなく、鼻の穴の周りに拭き取った血の跡がこびりついているところをみると、花房も少しは抵抗したのだろう。

 花房は目で謝ってみせたが、洪はそれを無視してこれからの事を考えた。

 このまま連れて行かれて、事務所にでも連れ込まれたら最期だ。何とかしなくてはまずいが、馬を力で振りほどくのは無理だろう。チャンスを見つけて、カッターと金づちでカタをつけるしかない。やっぱりパクってきてよかった。

 馬はキャバクラが多くテナントに入っているビルの前で立ち止まった。

「ちんたら歩いてんじゃねえ、早く来い」

馬と洪の少しあとを歩いていた花房は、急いで馬に追いついた。

 馬は長いあごの先で花房にビルへ入るように入口を指した。花房が仕方なくビルの中へ入って行くと、馬は洪を引っぱって後に続いた。

 ビルの一階の廊下の奥にエレベーターがあった。

「押せ」

「どっちですか?」

「上だ」

 馬に言われて花房はエレベーターのボタンを押した。

五階に停まっていたエレベーターがゆっくりと下りてきて、ドアが開いた。

馬と洪が先に乗り込み、花房が続いて乗り込もうとした時、洪と目が合った。

 洪は花房の目を見たまま尻のポケットからカッターを取り出して、こっそりそれを差し出した。

花房はエレベーターに乗りながら、馬に気づかれないようにそれを受け取った。

 馬が階数のボタンを押すために少し前傾姿勢になった時、洪はすかさず膝を曲げ、体を引き下げた。それと同時に腰のベルトに挟んだ金づちを取り出しながらぐるっと体を左に回転させ、その勢いにまかせて金づちを力一杯男の後頭部に叩きつけた。洪が持っていた金づちは、釘を打つ部分の一方が釘抜きになっているタイプのもので、その釘抜きの部分が、男の後頭部に突き刺さった。馬はたまらず洪をつかんでいた手を離し、刺さった金づちを抜こうとして両手を後頭部にもっていったが、一瞬早く洪が金づちを引き抜いたので、噴水の様に血が吹き出した。

 洪が動いたのを見た花房は、カッターナイフの刃を押し出し、男の太ももを物凄い早さでくり返し刺した。

 馬の顔は後頭部から吹き出す血の勢いで激しく上下をくり返した。目を見開き、口からは「が、が、が、が」という音をもらしていた。

 洪は腕で血飛沫を避けながら怒鳴った。

「もういい、逃げろ」

 夢中で馬の足を刺し続けていた花房は、その声で我に返り、馬の足に刺さったカッターから手を離して走り出した。洪が花房に続いてビルを飛び出すと、二人の背後から、どうっと馬が倒れる音だけが追いかけてきた。


 余は血だらけのエレベーターを見て、目をまるくした。

「何なんだ、これは?」

モップで血を拭いていた呉という余の部下の男が手を止めた。

「馬さんの血です」

「撃たれたのか?」

「いえ、何かで頭をかち割られて、足をめった刺しにされちゃってて」

「死んじゃったのか?」

「いえ、死んではいないんですけど、アホになったかもしれないみたいで」

「アホ?」

「はい。ここをやられちゃったみたいです」

呉は自分のこめかみを人差し指でとんとんと叩いた。

「意識はあるのか?」

「ええ、ありますけど、何を訊いてもポコポコしか言わないらしいです」

「ポコポコ?何だ、ポコポコって?」

「わかりません」

余は舌打ちをして、少し考えた。

「張さんには連絡したのか?」

「はい」

「お前がしたのか?」

「はい」

「怒ってたか?」

「は、はい。それはもう」

「だろうな」

 張宗翰は林森北路周辺を仕切るやくざの親分で、近辺のキャバクラや風俗店の経営から屋台の出店場所の割り振りまでの全てを牛耳っている。余はその張からカラオケ店とデリヘルをまかされていた。

 洪と花房が病院送りにした馬は、張の甥だった。体が大きいこと以外なんの取り柄もない馬を、余は何故かかわいがっていた。

「誰にやられたんだ?」

「馬さんがあんな感じなんでよくわからないですけど、電話でチンピラを事務所に連れてくって言ってたみたいです」

「チンピラ?」

「はい」

「どこのチンピラだ?」

「それもわかりません、でも、やっと捕まえたって言ってたらしいんで、もしかしたら」

「洪か?」

「はあ、たぶん。その時電話をとった若いのも、誰かまでは聞いてないらしくて」

「おまえ、洪の事を誰にも言うんじゃねえぞ」

「はあ、どういうことですか?」

「ばか。こっちに心当たりがあるって張さんに知られたら、俺らの仕事が増えるだろうが」

「あ、なるほど。わかりました」


 洪と花房は、近くの公園のトイレで上半身だけ裸になり体を洗った。洪はそれほどでもなかったが、花房はかなり頭に馬の血を浴びていたらしく、いくら洗っても洗面台に流れ落ちる水に血が混じっていた。

 一足先に洗い終わった洪が、トイレの入り口に寄りかかって折れ曲がった煙草を吸っていると、あちこちがへこんだ鍋を持った浮浪者がぼんやりとこちらを見ていた。

 やっと洗い終わった花房がトイレから出てくると、洪は吸っていた煙草を口から離し、吸い口を花房に向けた。花房はそれを受け取り、一口吸って返した。

 二人はそのまま暫くぼんやりとしていた。

 洪は短くなった煙草を中指で弾き飛ばし、ふうっと大きく煙をはいた。そしてそのまま地面を見ていたが、急にぷっと吹き出した。

洪がくっくと肩をゆすって笑っているのを無表情に見ていた花房も、こみ上げてくる笑いを抑えきれず、ぶはっと吹き出した。二人は腹を押さえて大笑いし、息が苦しくなってもお互いの肩をばんばん叩きながら笑い続けた。

 憮然として立ちつくしていた浮浪者は、そんな二人を見て水汲みをあきらめたらしく、肩を落として去っていった。

 二人とも、何がおかしいのか自分たちでもわからなかったが、とにかく笑いが止まらなかった。

 しばらく笑い転げて、やっとそれがおさまると、二人は上半身裸のまま、一旦それぞれのアパートに帰った。

服を着替えて、いつものカフェで落ち合ったが、地下には降りず、一階のカウンターのストゥールに腰をあずけた。

 花房はギネスの入ったパイントグラスに形ばかり口をつけてすぐに置いた。

「死んじまったかな?」

「わからねえけど、釘抜きが頭に刺さっちゃってたからヤバいかもな」

「何でトンカチの方にしなかったんだよ」

「たまたまだよ。そんなの確かめてる余裕なんかあるわけないだろ」

 さっきの公園でのバカ笑いとはうって変わって洪の声のトーンは低くなっていた。

「そりゃそうか」

花房はグラスを持ち、今度はごくごくと半分程流し込んで大きく息をついた。

「まあ、普通なら死んでるんだろうけど、あれは普通じゃないからな」

「そうだな。普通じゃねえもんな」

洪は花房の言葉で自分を納得させようとするように何度かうなずいた。

 さすがの洪も今度ばかりは殺人犯になるんじゃないかと本気で心配しているようだった。

しかしまさか現場を見に行くわけにもいかず、今現在、馬がどうなっているのかを確かめるすべはなかった。

 花房は努めていつもと変わらない調子で言った。

「まあ、心配しても始まらねえよ。しばらく、様子を見よう」

 洪はふうっとため息をついて、大きくうなずいた。

「ああ、そうだな。しばらく休業して、バンドに専念するか」

「それがいい」

 洪はもう一度大きくうなずいてグラスの尻を花房のグラスに当てた。

「お前、金は大丈夫か?」

「あんまり大丈夫じゃないけど、仕方ない」

「まあ、二週間くらいおとなしくして、また稼ごうぜ」

そう言って洪は唇の端を持ち上げて、にやりとしてみせた。

 花房はうなずいたが、正直なところ不安だった。貯金などはまったく無いし、さあどうしたものか。

 ポンと肩をたたかれて花房は振り向いた。リサは「何を二人で話込じゃってんの?」と言って花房と洪を見比べる様に見た。

「なんでもないよ」

洪が視線を合わせずに答えた。

「ふうん」とだけ言って、リサは離れて行った。そしてバーテンダーの女の子にいくつか飲み物を注文すると、また二人の所へ戻ってきた。

「下に来ないの?」

「いや、今から行こうと思ってたところだよ」

そう言って花房はストゥールから下りた。

「彼女は一緒じゃないの?」

リサに訊かれて、花房は意味なく動揺した。

「ああ、今は、仕事中だから」

「そっか。キャバクラだっけ?」

「そうだよ」

花房は答えるタイミングが早すぎはしなかったかと、一瞬心配した。

「私もキャバクラに商売替えしようかな」

「やめとけ」

今度は完全に早すぎた。リサが不思議そうな顔をしたので、花房は取り繕わなくてはならなくなった。

「夜の仕事は大変だよ。大変な割には稼げないみたいだし。昼間に寝ても疲れは取れないから肌が荒れるし、便秘はするし」

そこまで言って言葉が続かなくなった。

リサは肩をすくめた。

「そんなにまじめに考えてるわけじゃないから、そんなに反対されても困っちゃうんだけどね」

 バーテンダーが飲み物の載った盆をカウンターに置いて、リサに声を掛けた。

 リサは金を払い、盆を手に取っていたずらっぽく言った。

「わかった。彼女が他の男と仲良くなっちゃうんじゃないかって心配で連れてこないんでしょ。彼女、美人だもんね」

「え、いや、どうかな」

まあ、それならそれでいいか。

 花房は曖昧にへへっと笑った。

「当たりでしょ。先に下へ行ってるからね」

リサが行ってしまうと、花房は「それどころじゃないんだよな」とつぶやいた。


 余は鼓山酒家の前にレクサスを停めた。

店の前には、ショッキングピンクとパールホワイトのツートンカラーに塗られた張のベントレーがすでに停まっていた。 

 ライトを消すと、ダッシュボードに備え付けられたデジタル時計だけが青白く光り、午前三時十五分告げている。

余はため息をついて車から下りた。

店内の電気は消えていたが、かまわず入口のドアを開け、中に入った。店の一番奥にある宴会場から、かすかに光がもれている。

余はもう一度ため息をついて宴会場のドアを開けた。

 宴会場には大きなテーブルが三つ並んでいて、そのうちの一つに張と張の女が座っていた。それを後ろから見下ろす様に、壁際に痩せた背の高い二人の男が、全くの無表情で立っている。

 張宗翰は小柄な老人で、目じりには笑いじわが深く刻まれているが、その目は決して笑うことがないのではないかと思わせる鋭い光を放っている。それは台湾最大の繁華街を手中に収める過程で得たものなのだろう。

「遅かったじゃないか。」

 夜中の二時過ぎに急に呼び出されてこの時間に来られれば、遅くなったとは思わなかったが、余は張の向かい側に座りながら「すみません」と謝った。

 女は自分の太ももの上に置かれていた張の手をそうっとどけて立ち上がり、余の前に小さなグラスを置いた。

「馬の事だがな」

張が切り出すと、余は口を真一文字に結び、まっすぐに張の目を見た。

「今日病院へ様子を見に行ったら、生きてはいたが、完全にアホになっていた」

 余は思わず吹き出しそうになったが、なんとか飲み込んだ。

女がグラスに紹興酒を注いだ。

「そうですか」

「何だそれ?」

「はい?」

「そうですかって何だ?他人事みたいじゃねえか」

余は焦って首を横に振った。

「すいません。そんなつもりじゃありません」

張は女が座ろうとしていたいすを、思いきり蹴飛ばした。

「つもりって何なんだ、この野郎。あいつは、俺がお前に預けたんだよな?」

「はい、そうです」

「だったら、あいつの事はお前に責任があるんじゃないのか?」

「はい」

余は心の中で舌打ちをした。すっとぼけようと思っていたのに、結局自分が犯人探しをさせられる事になりそうだ。

 女はいすを元に戻すと壁際の男の前へ行き、右手の人さし指と中指を立てて自分の口元に当てた。男は内ポケットから煙草を取り出して女の方へ差し出した。

「馬が俺の甥だから言ってると思うか?」

 そうに決まっている。張はいくら自分の所の人間でも、甥でなければチンピラ一人がアホにされたくらいで腰をあげる人間じゃない。

 余はそう思いつつも、それをおくびにも出さないように気をつけながら言った。

「いえ、そんな事は思っていません」

 張が少し満足そうにうなずくと、女が鼻の両穴から煙を吐き出した。

「だからって言って、俺が自分の甥をアホにされて黙っている人間だと思うか?」

こっちが本音だ。

「いいえ」

張は大きく空気を吸ってから、思いきり余を怒鳴り付けた。

「だったら、とっととやりやがった奴を見つけてこねえか」


 次の日の夕方、余は部下の呉志忠を連れて愛愛へ行った。

 呉は三十代半ばの男で、余が張から預かっているカラオケ店二店舗のうち、愛愛ではないほうの店の取り仕切りを任されている。

二人が奥の事務所へ入ると、ぼんやりとテレビを見ていたポン引きの楊は慌てて立ち上がった。

「お疲れ様です」

「何さぼってんだよ」

「さぼってないですよ。今、女は皆客がついてるもんで」

 余はいすを引き出して座り、あごで二人にいすを勧めた。

二人はうなずいて、それぞれいすを探して座った。

 余は煙草に火を着け、楊に言った。

「おまえ、洪の野郎を最近見てないか?」

「いえ、ここのところ見かけてません。さすがにあいつらもやばいって思ったんじゃないですかね」

「どういう事だ?」

「いえ、この間の事もあったし、馬さんをボコって、アホにしちゃったのも洪だって聞いたもんで」

余は身を乗り出して煙を吐いた。

「やっぱり、洪なのか?」

「知らないですけど、馬さんがこの辺で好き勝手やってるチンピラだって言ってたって話なんで、洪かなって思ったんです」

余はうなずいて呉の目を見た。そのまま少し考えて言った。

「じゃあ洪でいいか」

 揚は眉をひそめた。

「証拠は無いですけど」

「いいよ、証拠なんて。警察じゃないんだから」

「そうすよね。警察じゃないですもんね」

 呉が言ったのを聞いて、揚は呉をにらんだ。

 この小僧はいつもこうやって余さんに取り入る事ばかり考えていやがる。

「見つけたら、ボコって病院に入れちまえば、仕事したって感じになるだろ」

「そうすよね」

「お前ら二人で地域を割り振って捜せ」

「え?」

 呉と揚は顔を見合わせた。

「なんだ?」

「いえ」

 こいつと一緒に動くハメになるとはついてない、と二人はまったく同じことを考えた。

「見つけた時は、間違っても張さんに先に言うなよ。俺に先に言えよ」

「わかりました」

呉がうなずくと、楊も後からうなずいた。


 昼下がり、花房と洪は林森北路から少し離れた寧夏街近くの牛肉麺屋にいた。

 食べ終わってから、もう小一時間ほど居座っているのだが、花房達の暗い雰囲気に嫌なものを感じたからなのか、単に暇な時間帯だったからなのか、店主は何も言わなかった。

 近頃花房はたまにバンドの練習かライブで出掛ける以外はおもう様昼寝をし、洗濯と食事を作るだけの生活を二週間ほど続けていて、持ち金が目に見えて少なくなってきていた。 

家賃がもったいないので、自分のアパートは引き払い、着替えとギター以外はほとんど売り払ったが、幾らにもならなかった。このままではKAKAの稼ぎをあてにしなくてはならなくなりそうだったが、花房はKAKAが躯を張って稼いだ金に手をつけるのは絶対に嫌だった。

この時花房と洪は、何か金を得る方法を昼食がてら話し合っていたのだった。

 洪は吸殻を、灰皿から取り上げて言った。

「良い機会だから、おまえ、日本に帰れよ」

「なんだよ、急に。嫌だよ」

「何でさ。兄貴が仕事を紹介してくれるんだろ?」

「あいつの世話になるのはまっぴらだ」

「そうか。でも、帰った方が良いだろ。どう考えても」

「なんで?」

「台湾にいても、ろくな仕事は無いし、ビザだって切れてんだろ?」

花房は憮然として口だけで言った。

「ビザなんて元々取ってねえよ。金がないから、何かしなきゃならないと思ってお前に相談してるんだけど、面倒くさいなら一人でやるから、そう言えよ」

「怒るなよ。一緒に考えてんじゃねえか」

洪は火がついたままの煙草をスープの残った丼に投げ入れた。

「お前こそ、高雄に帰れば良いんじゃないのか?」

花房が言うと、洪は右手をひらひらと振った。

「だめだめ、兄貴がいる」

花房は「兄貴」に反応した。

「何で、いちゃだめなの?」

「殺される」

「何で兄貴に殺されるの?」

「こっち来る時に、兄貴の金を盗んだからだよ」

「何で金なんか盗んだの?」

「何で何でって何なんだよ。うっとうしい奴だな。そんなの金がないからに決まってんだろ」

花房はかまわず続けた。

「だからって、金を盗んだくらいで、弟を殺すわけないだろ」

「いや、あいつはやる」

「兄貴は何をやってるの?」

「悪い事ならなんでもだ」

花房は思わず笑った。

「じゃあ、お前と一緒じゃないか」

「全然一緒じゃない」

洪はまた灰皿から吸殻を拾い上げてくわえた。

「全くちがう。お前は知らないかもしれないけど、高雄の悪い奴っていうのは、台北の奴らとは比べもんにならないんだよ。ヤバい奴は、本当にヤバい。その中でも一番ヤバいのが、うちの兄貴なんだよ」

「ヤクザなのか?」

「ヤクザじゃないけど、ある意味ヤクザよりもタチが悪い。絶対殺される」

ヤバいヤバいと言われても、何がどれだけヤバいのか花房にはわからなかったが、洪がそこまで言うのならば相当なものなのだろう。

「じゃあ、結局俺達は、台北で何か金になる事を探すしかないって事だな」

「まあ、少なくとも、俺はな」

 花房はため息をついた。

「振り出しに戻ったか」

 二人は表の通りを眺めながら、何か良い方法はないかを考えた。

 店主が二人をちらちらと見始めたので、洪は面倒臭そうに立ち上り、コーラを二本買った。席に戻ってコーラの缶を花房の前に置くと、外を眺めていた花房は口をひらいた。

「あれをパクって売り飛ばそう」

洪は花房の視線の先を目で追ったが、花房が何の事を言っているのかわからなかった。 

店の外には普段の街の風景がひろがっているだけで、金目の物は何も無いように見えた。


 リサが洪と同居している師大近くのアパートに戻ったのは夜九時前だった。

洪はスナック菓子を食べながら、ソファでぼんやりとテレビを見ていた。

「ただいま」

「あれ、もうそんな時間か」

洪は菓子の袋をわきに放り投げると、立ち上がって伸びをした。

リサは荷物をソファの上に置き、途中のコンビニで買ってきた飲み物のペットボトルを冷蔵庫に入れはじめた。

「また一日ごろごろしてたの?」

「そうでもない」

洪が後ろからリサの腰のあたりにに手を回しながら言うと、リサはそれを振りほどいた。

「ごはんは?」

「まだ。一緒に喰いに行こうかと思ってさ」

「奢ってくれるの?」

「ああ、いいよ。でも」

「今日は貸しといて、でしょ?」

リサが洪の言葉を遮って言うと、洪は苦笑してうなずいた。

「いいかげんにしてよ。いくら貸してると思ってるの?」

「わかんない」

「仕事もしない奴にはもう貸さない」

「仕事は見つけたよ」

「嘘ばっかり言わないでよ」

「本当だって。花房と葉と一緒に今日から始めるんだ」

「本当?」

「本当だよ。なんなら電話して訊いてみなよ」

「何をやるの?」

「聞きたいか?」

「聞きたくない」

洪はもう一度リサに手をまわした。リサは、今度は拒否しなかった。

「言ってみれば、古物商だな」

「泥棒?」

「まさか。古物商だよ」

「儲かりそうなの?」

「まあ、一獲千金てわけにはいかないけど、そこそこいけると思うよ」

「捕まらないでよね。面倒くさいから」

「捕まらないよ。捕まった事ないだろ。だからさ、今日のところは貸しておいておくれよ」


 その夜、日付がかわる少し前、花房はKAKAの部屋があるビルの前に立っていた。

しばらくすると古いトラックが黒い排煙を噴き上げながら近づいてきて停まった。

助手席から葉が顔を出した。

「後ろに乗れよ」

花房はうなずいて荷台に乗り、運転席の屋根を平手で二回叩いた。

「どこに行くんだ?」

葉が運転席の洪に訊いた。

「新興公園。あそこは山ほど停めてあるし、夜は人目につかない」

 花房が「パクろう」と言ったのは、原付きバイクだった。

 原付きバイクは台湾では車や電車よりも利用する人が多い乗物だ。どこの街のどの交差点の信号待ちでも、数十台の原付きバイクが車の前に並び、信号が青に変わると、それらが競うように走り出す光景が見られる。そして夜になると、それらのバイクが歩道や騎楼のいたる所にびっしりと並ぶ。それを根こそぎいただいて金にしよう、というのが花房の案だった。

 それを聞いて洪は、台北でバイクを盗み、台中にある知り合いの解体屋に売ることにした。

 公園に着くと三人はトラックから降り、さっそく作業に取りかかった。

原付きバイクといえども昇降機の無いトラックの荷台に上げるのは大変な作業だったが、一時間かかって何とか十台ほどを積み込んだ。 

誰かに見咎められたら、全く言い訳ができない状況での作業だったので、花房と葉はひやひやし通しだったが、洪は声をひそめるでもなく、あれこれ二人に指示した。

 途中で倒れたりしないように、バイクをしっかりとロープで固定して、洪と花房はトラックに乗り込んだ。花房が助手席のドアを閉めると、葉が言った。

「おい、俺はどうするんだよ?」

「明日、金を持って行ってやるから、家で待ってなよ」

「なんだよ、それ」

洪は葉にかまわず、トラックを発進させた。

 台中までは、高速道路を使っても三時間ほどかかる。花房はいつのまにか寝てしまっていた。

 花房が目を覚ますと、トラックは廃車置き場へ入っていくところだった。

「悪い、寝ちゃった」

洪は何も言わずにうなずいた。

 車が積み重ねられて出来た壁の隙間を縫うように進むと、奥の方に掘建て小屋が見えてきた。洪は小屋の前にトラックを停め、エンジンを切った。花房は目をこすりながら洪に続いて車を降りた。

 掘建て小屋の入り口には李のリサイクルショップという文字がやっと読み取れる看板がかろうじてぶら下がっていて、入り口と室内にそれぞれうす暗い電燈が灯っていた。

 花房はすぐに荷下ろしをするのだろうと思い、トラックの後側にまわって荷台のゲートを開けたが、洪はそれを手で制して小屋の入り口へ向かった。

 洪に続いて小屋に入ると、こもった悪臭が鼻をついた。

そこは一応事務所になっているらしかった。あちこちをガムテープで補修した応接セットが一組あり、手前と奥を仕切るカウンターの向こう側に電話やパソコン、飲みさしのコーヒーカップなどが雑然と置いてあった。壁にかかった、手あかにまみれたカーテンの先には、もう一部屋あるらしかったが、電気はついていなかった。

洪はカウンターの上の呼び鈴を押した。

 花房がこんな夜中に人がいるのだろうかと考えていると、がたんと大きな物が落ちる音がし、続いて人の呻くような声がした。洪が急かすように何度も呼び鈴をたたくと、しばらくして汚いカーテンの向こうから五十がらみの男がぶつくさ言いながらに出てきた。

「何だよ、こんな時間に」

「李さん、悪いな、夜遅く」

洪が愛想よく言うと、男は眠い目をこすって洪をよく見ようとした。

「あれ?洪か?」

「そうだよ」

「なんだ、ひさしぶりじゃないの」

 李は軍パンをはき、醤油で煮しめた様な色の襟まわりの伸び切ったランニングシャツを着ていた。笑った時に見えた歯は見事なほどに茶色く、鼻からは空気を吸い込めるのか疑問なくらいの量の鼻毛が出ていた。

「どうしたの、今日は?」

 洪は親指で外を指差して言った。

「買ってもらいたい物があって来たんだよ」

「そうかい。じゃあ、ちょっと見せてもらうか」

 李は灰皿のシケモクを一本つまみあげ、口にくわえて外へ出た。

洪と花房もそれに続いた。

トラックの前で李は、ポケットからライターを取り出してシケモクに火を着けた。

「原チャリか。いっぱいあるな」

トラックの周りを歩き、値踏みをしながら積み荷の原付きバイクを見てまわった。

「書類はあるの?」

「いや、全部ない」

李はシケモクを地面に落とし、足で踏んで消した。

「その辺から持って来ちゃったのか?」

「その辺て言ったって台北だよ」

「ふうん。幾らで売りたいの?」

「二十万」

 李は洪の言葉が聞こえなかったかの様に宙を見ながら少し考えて言った。

「五万元だな」

洪は眉をしかめた。

「うそだろ。十台もあるんだぜ。もうちょっと色つけてよ」

「うちは不景気だからなあ。よそに持って行ったら、もっと高く買ってくれるかもよ」

「へえ、それどこ?おしえてくれよ」

洪は苛立ちを隠さずに言ったが、李は全く意に介さなかった。

「俺は知らないけど、探せばあるんじゃないの?」

洪は薄ら笑いを浮かべた。

「李さん、意地悪はやめてよ。お互い長い付き合いじゃないの」

「意地悪なんかしてないよ。本当にうちも苦しいのよ」

「わかったよ。トラック込みで十五万」

「八」

「十四」

「十」

「十二」

「十二。OKよ」

「トラックも売っちゃうのかよ」

花房が思わず言うと、李が意外そうな顔をした。

「あれ、こちら外人さんなの」

「そうだけど。訛ってる?」

「いや、中国語上手いね」

花房はそれを受け流して洪に言った。

「借りて来たんじゃないのかよ」

「借りたよ。無断で」

「そんなこったろうと思った。帰りはどうするんだよ。歩くのか?」

「大丈夫、大丈夫」

洪は花房の肩をたたいて李に言った。

「金はすぐ頂戴ね」

「OK。じゃあ、事務所へ来て」

李が事務所へ向かうと、洪も続いた。

 花房が台中駅の外壁に寄り掛かって煙草を吸っていると、ペットボトルを二本持って洪が歩いて来た。一本を花房に渡し、もう一本のキャップをねじった。

「一人四万弱だな。電車賃は予想外だったけど、なかなか良い考えだっただろ?」

「そうだな」

「しばらくこれで食えるな」

「だな。月に二度やれば、結構楽しくやれる」

花房は煙を吐き出した。

「あの李っていうおっさんだけど、大丈夫なのか?」

「心配ないよ。長い付き合いだし、口も堅い。警察にたれこんだりしたら、あっちの方がヤバいことになる」

「そうか。それなら良いけど」

時計を見ると、始発まではまだ間があった。


 台北に着いた花房は、洪と別れてからスーパーで大量に肉や野菜を買いこんでKAKAの部屋へ向かった。

 花房が部屋へ入ると、KAKAは顔を上げた。ベッドの上に寝そべってはいたが、寝てはいなかったようだ。

「おかえり」

「ああ」

「仕事だったの?」

「まあね。今日は、うまいものを喰わせるよ」

「本当、ありがとう」

KAKAはにっこりしたが、いつもよりも疲れたような顔をしていた。

「疲れてるみたいだね」

「そう見える?」

「少しね」

 花房は普段、客とのセックスを連想してしまうような事を聞かされるのが嫌なので、KAKAに何かあったように見えても、具体的な事は訊かない事にしていた。

 花房がベッドの縁に座ると、KAKAは何も言わずに、花房の胸のあたりに手を伸ばしながら顔を近づけた。

 KAKAはほとんど毎日のようにセックスを持ちかけた。自分からもちかけるわりには、KAKAはセックスの最中、たまに声はもらす程度で常に受け身だった。

 終わってからしばらくして、花房は言った。

「仕事、変えたら?」

KAKAは言い方を探すように、しばらく間をおいた。

「何をしたらいいかな」

「そうだな、OLとか」

花房は言ったそばから後悔した。OLとして働く事ができるのに、わざわざ風俗で働くわけがないことくらいわかりきっている。

「高校しか出てないし、経験もないから、どうかな」

思ったとおりの答えが返ってきた。

「じゃあ、キャバクラはどう?」

「私、人と話すの苦手だもん。いつもそれで怒られてる」

花房は何も言わずに立ち上がった。冷蔵庫を開け、ビールの缶を取り出してプルトップを引いた。

 一口飲んでから「今日、どこかへ遊びに行くか」と言うと、KAKAの顔が、ぱっと明るくなった。

「いいね。どこへ行く?」

「どこでも良いよ。行ってみたい所ないの?」

「そうね、どこが良いかな」

KAKAはうれしそうに、いろいろな地名を挙げ始めた。


 二人は九份へ行く事にした。

 二人で遠出するのは初めてだった。もっとも遠出と言っても、台北駅から二時間たらずの、どちらかというと、お出掛け、程度のものだったのだが、KAKAは、とても楽しそうで、しきりに携帯で写真を撮った。

 九份は十九世紀末から金山の街として栄えたが、七十年代に鉱山が閉鎖されると同時にさびれ、訪れる人もあまりいなくなっていた。それが八十年代後半に映画の舞台になった事で再び注目され観光地となった。山の中腹にあるため、坂が多く、そこに作られた細い路地に飲食店や土産物店などが軒を連ねている風景が、他の街にはない、ノスタルジックな雰囲気をつくり出している。

 KAKAが九份を選んだのは、いつか九份を紹介するテレビ番組で見た、高台から目の先に海を臨む風景を実際に見てみたいという理由からだった。彼女の出身地の花蓮も海に近い街なので、その事も関係があるかもしれないと花房は思った。

 バスを降りて街を見て回っている間中、KAKAはめずらしくはしゃいでいた。その姿を見て花房は少し悲しくなった。

 今まで花房とKAKAを結び付けていた一番大きなものは、一言で言えば「駄目な者どうしの共感」だった。全てを保留して、現実から目を背けて生きている花房と、将来の展望もなくその日その日を流されて生きているKAKAは似たものどうしだ。その間には、お互いを干渉しないという暗黙のルールがあった。干渉したとしても、何も相手にしてやれない事がわかりきっていたからだ。しかし最近、花房の中に、そのルールを破りたい気持ちが芽生え始めていた。

 この辺りの名物だという、芋の粉で作った団子をシロップに沈めた菓子を食べながら、花房は切り出した。

「今の仕事、もう辞めちゃいなよ」

KAKAはスプーンを止め、困った顔をしたが、笑みは残っていた。

「今朝と同じ話をしたいの?」

「いや」

花房は言葉を選びながら言った。

「今朝言えばよかったんだけど俺、仕事を変えたから、どうにかなりそうなんだよ」

「何が?」

「二人分の生活費の事。俺が働くから、家にいなよ」

「何の仕事を始めたの?」

「バイクの販売」

KAKAはうなずいたが、信じたかどうかはわからなかった。

「それで金を貯めて、ある程度になったらさ」

花房は一度言葉を切り、思いきって言った。

「いつになるのかまでは約束できないけど、その金を持って、一緒に日本に行かないか」

「日本?」

「住む所の金とか、仕事が見つかるまでの金とか必要だろ。だから、ある程度金が貯まったらって事なんだけど」

KAKAは黙って考えていた。

花房は急かすように沈黙を破った。

「嫌かな」

「嫌じゃないけど、考えた事無かったから」

「そうだよね。唐突だもんな。家族にも相談しなきゃならないしな」

「それは大丈夫。お父さんとお母さんは死んじゃったし、お兄ちゃんは連絡先がわからないから」

KAKAはまるで他人事のように言った。

「そうだったんだ。俺も親は死んでるけど兄貴は生きてるから少しマシだな」

 花房は思った事を素直に言った。

KAKAはにこりとしてうなずいた。

「仕事はいつ変えたの?」

「昨日」

「そう、変えたてだね」

「まあね」

「私、日本語話せないけど」

「大丈夫、俺が教える」

「そう」

KAKAの返事を潮に、なんとなく気まずくなって二人はしばらくの間沈黙した。

KAKAは、花房がどうして急に日本へ行こうなどと言い出したのかを計りかねていた。それにしても、と心の中で独りごちてスプーンを置いた。

やはり花房はKAKAの仕事をこころよく思っていないのだなとあらためて思った。わるいとは思っても、他に仕事のあてはなく、花房も仕事を替えたばかりではいつどうなるかわからないのに加えて、今の二人の関係で生活の全てを花房に甘えて良いものかどうかの判断もつきかねた。

「お金が貯まってからだよね?」

KAKAはやっと思いついたセリフを言った。

 花房は無理に集中していた団子の丼から目を上げた。

「え、ああ、日本に行くのはね」

急に仕事を辞めろだの、日本へ行こうだの言っても無理だよな。花房は少しさみしく思いつつも、仕方がないと納得はしていた。

「仕事、すぐには辞められないけど、お金が貯まるまで時間かかるよね」

「うん、まあ」

「私も一緒に貯めるから、貯まってから、また考えようよ」

KAKA少しさみしそうに、にっこりと笑った。花房はそれを見て、少し元気が出た。

 二人は店を出てしばらく散歩した。

 通りすがりの観光客と思われる女性に二人の写真を撮ってくれるように頼んで携帯電話を渡した。女性が「撮りますよ」と言うと、花房はKAKAの肩に手をまわして力強く抱き寄せた。


 KAKAが最後の客を帰し、カラオケ愛愛に戻ると深夜の二時を過ぎていた。

 店には余しかいなかった。余は不機嫌そうな顔をして奥の部屋でテレビを見ていた。

KAKAは事務所から余に言った。

「お疲れ様です。今日の分、清算してもらっていいですか?」

余は何も言わずに事務所へ来て、帳簿を取り出した。電卓をたたき、ポケットから札束を取り出してそのうちの何枚かをKAKAの前に投げた。

KAKAはそれらを自分の財布にしまった。

「お疲れ様でした」

「ちょっと待て」

余はKAKAを追い越して、目の前に立った。

「何ですか?」

「飯、行かねえか?」

 KAKAはすぐに断って気を悪くされたくなかったので、少し考えるふりをしてから言った。

「すみません。今日は疲れているので」

「じゃあ、元気が出るものを喰いに行こう」

余は黄色い歯を出してにやりとした。

「夕方、遅い時間に食べちゃったんで、あまりお腹がへっていないんです」

余の表情が急に変わった。

「お前、最近指名が減ってるな」

「すみません」

「稼ぎも減ってきてるだろ」

余は、なめまわすようにKAKAを見ながら言った。

「がんばります」

KAKAが言うと余は突然KAKAの手を掴んで後ろ手にひねった。きゃっと声をあげて痛みから逃れようとしたKAKAの上半身が机につっぷした。余はひじでKAKAの背骨のあたりを押さえつけ、空いた手でスカートをまくりあげて下着に手をかけた。

「止めて下さい」

「うるせえ、稼がせてやるよ」

「本当にやめて」

「金を払えば、文句ねえだろ」

KAKAが叫び声をあげると、余はKAKAの脇腹に拳を叩き込んだ。息がつまって力が抜けた。余はKAKAの腕を掴んだまま後ろから犯した。

 小刻みに空気を吸い込むことで、しばらくしてやっと呼吸が回復したが、余はまだ終わらなかった。余の荒い鼻息と、それから少し遅れて響く机の軋む音を聞きながら、KAKAは早く終わってくれる事だけを待っていた。

「お疲れっす」と言いながら、ポン引きの楊が入って来た。

「出て行け、馬鹿野郎」

余が叫ぶと、楊は慌てて飛び出していった。


 花房はシャワーの音で目を覚ました。起きて待っているつもりが、ギターを空弾きしながら、いつのまにか寝てしまっていたらしい。身を起こし、ギターをスタンドに立て掛けてベッドの縁に座った。

 煙草を二本吸い終えたところで、KAKAが風呂場から出て来た。

KAKAは花房が起きているのに気づくと、慌ててバスタオルで体を隠した。

花房はゆっくり立ち上がって、KAKAの前に立った。

「見せて」

 KAKAは花房の目をまっすぐに見ながら、首を横に振った。花房はそれにかまわず、バスタオルをめくった。KAKAの左の脇腹にまだ新しいあざがあった。

花房はバスタオルから手を離してKAKAの目を見た。

 何があったのかを聞いてしまえば、今までのように都合の良い関係だけを続けることはできなくなるかもしれない。それを聞き出して二人の関係を前に進ませる覚悟を持つ事ができているのか、自分でもよくわからなかったが、この時ばかりはむくむくと首をもたげてくる怒りを押さえる事ができそうにもなかった。

「どうしたの、これ?」

KAKAは花房の目を見つめ、何もこたえなかった。

「客にやられたのか?」

KAKAは静かに首を横に振った。

「ポン引きか?」

KAKAは床の上に目を落とした。

「明日からは、家にいろよ」

「でも」

「でも、じゃない」

言いたい事はいくらでもあったが、たとえ日本語ででも、うまく表現できそうになかった。

「とにかく、行くなよ」

「でも、何も言わないで休んだら、ここに来ると思う」

「誰が」

「余さん」

「余?」

胃のあたりがざわついた。

「それって、余建明じゃないよな?」

「そうだけど、知ってるの?」

花房は以前、路上で揉めた時の余の顔を思い出した。洪と一緒にアホにしてしまった馬も余の所の奴だった。花房の事を覚えているかどうかはわからなかったが、会っても良い事はない。余を力で撃退しようとしても、返り討ちにあうのが関の山だ。

再び怒りが沸き上がって来たが、花房はなんとかそれを押さえ込んだ。

「二・三日は、とりあえず病気だって言って休みなよ」

「その後は、どうするの?」

「考える」

何も思いつきそうに無かったが、できるだけ力強く言った。

「九時になったら、一緒に出掛けよう」

「どこに行くの?」

「君のパスポートを取りに行く」

「日本へ行くための?」

「ああ」

「いつ?お金ないのに」

それを言われれば一言も無かったが、花房は強がって言った。

「とにかくだ。行けるようになったら、すぐに行かれるように、パスポートだけは取っておこう」


 夕方、余が店へ入ると、テレビを見ていた楊は立ち上がった。

「おつかれさまです」

余は軽くうなずいただけで、何も言わずにいすに座って煙草に火を着けた。

「今日、メイリンが出て来てないんですよ。風邪だって電話があったんですけどね」

余はぎろりと楊を見た。

「てめえ、おもしろがってんじゃねえだろうな」

「とんでもないです」

楊はもごもごと、よくわからない言い訳をしながらそそくさと外へ出て行った。

余は舌打ちをして、煙草を灰皿に押し付けた。


いつものカフェは八分ほどの人の入りだった。

 バーテンがカウンター越しにタンカレーのトニック割りを二つ置いた。

花房は、そのうちの一つを取り上げ、洪が持ったグラスにコツンと当てた。

「金が要る」

「なんだよ、もう妊娠させたか?」

洪は片頬だけを吊り上げてにやりとした。

「いや、そうじゃない」

「じゃあ、どうした?こないだのじゃ、足りないのか?」

「足りないっていうか、すぐにまとまった金が欲しいんだ」

「いくら?」

「50万元」

 洪は眉をひそめ、グラスの端をすすった。

「ずいぶんな大金だな。簡単には集まらないぞ」

「わかってる」

「すぐって、いつ要るんだ?」

「早いほど良い」

「何をやらかしたんだよ」

「何もやらかしてないけど」

花房は眉毛を掻いた。

洪を見ると、興味の中にほんの少し心配が混ざった目で花房を見据えている。

「KAKAと日本に帰ろうかと思って」

洪は表情を変えずにグラスを置いた。

「お前、帰りたくないんじゃなかったのか?」

「それは、今も変わってないけど。事情が変わった」

「どんな事情だよ?」

 花房は前歯の間からすうっと音をたてて空気をはいた。

 言いたくはないが、言うしかない。

「KAKAなんだけどさ」

「うん」

「実は、キャバクラで働いてるっていうの嘘だったんだ」

「そうなんだ。風俗か?」

「え、何でそう思うんだよ?」

 花房が身を乗り出したので、洪は少したじろいだ。

「何でって、嘘ついてキャバクラって事は風俗かなって思っただけだよ」

「そうか」

花房はがぶりとジントニックを一口飲み、そしてグラスを置いた。

「本当はデリヘルやってんだよ」

「ふうん。指名したいな」

花房がぎろりと睨みつけると、洪は笑いながら花房の肩をバンバンとたたいた。

 花房が煙草に火を着けたのを見て、バーテンの女の子が二人の前に灰皿を置いた。花房は女の子に軽く手を上げて洪に向きなおった。

「昨日、ポン引きの野郎があいつの事を殴りやがった。たぶん初めてじゃない。このままにしておけないだろ?でも、どうしようもないから、日本へ連れていこうかと思ってさ」

「だからって、べつに日本へ帰らなくても、俺が一緒に行って、そんなポン引きぶっとばしてやるよ」

「余なんだよ」

「ポン引きが?余なのか?」

花房がうなずくと、洪はチッと舌打ちをして腕を組んだ。

「やっかいだな」

「そうなんだよ」

洪はうなずいて黙った。そして少し考えてから、再び口を開いた。

「おまえ、あの子と結婚する気なのか」

「え?」

突然言われて花房はうろたえた。

「いや、それは」

「日本に連れて行くっていうのは、そういう事だよな」

洪は花房の言葉にかぶせるようにそう言うと、勝手に納得した。

 正直なところ、結婚どころか日本に帰ってからどういう生活をするのかなどの具体的な計画すらなかった。ただ、KAKAを今の状態に置いておく事が我慢できないだけだった。自分でもそれが子供じみている事は十分わかっていたのだが、今はとにかく居ても立ってもいられない気持ちに支配されてしまっていた。KAKAにとって未知の場所である日本に連れて行く以上、中途半端な関係でいられるはずもない事に思いが至らなかった自分を花房は恥じた。

「まあ、そうだな」

「はまっちまったって事か?」

「まあ、そうかな」

「でも、大丈夫なのか?」

「なにが?」

「言っちゃあなんだけど、客を取ってる女を連れてって、兄貴はさ」

「わざわざ兄貴にそんな事を言うバカいねえだろ」

 思わず語気を荒げた花房の肩を洪は軽くたたいた。

「怒るなよ」

「怒ってねえよ」

 花房は気まずくなって店の外に視線をうつした。日付けが変わろうとしている時間帯だったが、まだ多くの人々が行き交っている。

「でも、まあ、帰る気になったんなら、その方が良いかもな」

「どうして?」

「どうしてって、前も言ったけど、このまま台湾にいても、将来ろくな事にならないからだよ」

 花房は洪の言う通りだと思った。しかし、あまりにもあっさりと言われてしまったので、少し反発したくなった。

「日本に帰ったって、ろくな事になるとは限らないよ」

 洪は花房の挑発には乗らなかった。表情を変えず、あくまで冷静に言った。

「そうかもしれないな。でも、少なくともビザの心配はしなくて済むし、仕事も見つけ易いだろ」

「だからって、台湾にいるよりましだとは限らないぜ」

洪はニヤっと笑った。

「お前が帰るって言い出したんだぞ」

「そうだった、な」

つまらない事を言うんじゃなかったと後悔した。洪は本心から帰国することが花房のためになる、と考えて話をしているのだ。

「そんな大金、あてなんかねえから、ちょっと考えるわ」

花房は恥ずかしさを必死で隠して、不機嫌そうにうなずいた。


 花房と洪は、李の事務所のぼろぼろの応接セットに向かい合わせに座って煙草を吸っていた。奥の部屋から、李が札を持って出て来た。

「悪いね。待たせちゃって」

洪はやれやれというように立ち上がると、カウンターに両肘をついた。花房も煙草を持ったまま立ち上がった。

 李はカウンターの向こう側で札を数え、洪に渡した。

「はい、お疲れさん。」

洪はそれを数えなおしてからポケットに入れた。

「李さんさ、もっと高く買ってもらえる物って何かないかな?」

「良いものなら、なんでも高く買うよ」

「一発でガツンと稼ぎたいんだよ。」

「一発ねえ。いくら稼ぎたいの」

「最低五十万元くらい」

「五十万は大金だな」

李は自分の事務所だというのに、かまわず茶色い痰を床に吐いた。

「金とか宝石なんかは、ないの?」

「金か。無理だな。金は街に落ちてないもんな。他は何かないの?」

「街に落ちてる物なら、ガードレールは高く買うよ。百本持ってきたら二十五、二百本なら五十万で買うよ」

「ガードレールかよ。二百本も二人じゃ無理でしょ」

李は洪が指に挟んでいた煙草を取り上げて勝手にくわえた。

「もっと簡単なのは、車だな。高級車なら高いし、街に落ちてるだろ」

「車か」

花房と洪は顔を見合わせた。

李は二人を交互に見て、煙を鼻からはきだした。


 インターネットカフェはほぼ満席だった。カタカタとキーボードを叩く音だけがあちこちから響いている様子は、初めて来た洪にとって、ある種、異様な空間だった。

 花房が慣れないパソコンと格闘しているのを、立ったまま後ろから見ていた洪はすっかり退屈していた。

隣のブースでキーボードを叩いていた見知らぬ青年の肩に顎を載せて「あーあ、立ってるの疲れるなぁ」と言うと、青年はいそいそと荷物をまとめて立ち上がった。

「何だよ。もういいのか?」

青年の背中に向かって言ったが、彼は振り返りもせずにどこかへ行ってしまった。

洪は肩をすくめて青年が座っていた椅子を花房の隣まで押して行った。

「まだかよ」

「ちょっと待って」

「なんでもすぐにわかるんじゃなかったのかよ」

「慣れてないんだから、もうちょっと待てよ」

 洪は舌打ちをして、背もたれに寄り掛かった。ふと通路の奥の方を見ると、ひとりの店員がこちらを見ていた。洪は手を振って、おいでおいでをした。店員が自分の鼻を指さしたのでうなずいた。

店員はがっかりしたような顔で歩いて来た。

「何ですか?」

「こいつ慣れてないみたいだから、ちょっと手伝ってやってくれないかな」

「は、はあ」

 花房が立ち上がっていすを空けると、店員はいすと洪を見くらべた。

「早く座れよ」

「は、はい」

店員はおどおどした様子でいすに座った。

「何を検索します?」

「車の盗み方、探して」


 花房と洪は、台北101をすぐ後ろに背負って、二人乗りの原付きバイクで街を流していた。

 この辺りはナイトクラブが点在する一角で、夜十時を過ぎて人が増えはじめていた。

 二人は行き交う女の子達を品定めしながら、獲物を探してまわった。高級車をしばしば見かけはしたが、それらのどれも人が乗っているか、近くに持ち主らしき人がいたので、なかなか手が出なかった。

 表通りは最近強化された駐車違反取り締まりの所為か、駐車されている車が少なかった。 

二人は裏通りの駐車場を見てまわることにした。

 通りに面した商業ビルの裏の駐車場に、黒塗りのベンツが停まっていた。あたりには人かげもなく、お誂え向きに思えたので、洪は原付きを停めた。

花房と洪は警戒しながら車に近づいた。

洪は周囲をもう一度見渡して、花房に向かってうなずいた。

花房はうなずき返した。インターネットカフェでプリントアウトしてもらった紙をポケットから取り出して通りと反対側の車のかげに座り込むと、洪もそれにならった。

花房は背負っていたリュックを下ろした。それから上部のジッパーを開けて、針金でできたハンガーを改造したものや、バール、カッター等を取り出した。紙を開いて手順を確認しようとした時、洪が何気なく車のボディーに手を置いた。そのとたん、イモビライザーの警報が鳴り響いた。

「何だ、何だ?」

「逃げろ」

二人は慌てて駆け出した。洪は原付きに飛び乗ってエンジンをかけた。花房は右手に紙、左手に道具を持って不自由そうにがに股で走った。花房がなんとか後ろに跨がると洪はアクセルを全開にしてその場を走り去った。

「何やってんだよ」

花房が怒鳴ると洪も怒鳴り返した。

「知らねえよ。触っただけだよ」

「触るなよ」

「お前、触らないでどうやって鍵を開けるつもりだったんだよ?」

「そんなのわからねえよ。とにかく一回停めてくれ」

道具を持つために案山子の様な格好になっていた花房は、今にも落ちそうになりながら叫んだ。

「なんで?」

「なんでも良いから、とっとと停めろ」

 洪は原付きを急停車させた。花房はがに股で原付きから離れ、荷物を地面に放り出した。洪はいまいましげに原付きをそのまま地面に横倒しにした。

花房が散らかった道具を押し込んでリュックを背負うと、二人は足早にその場を離れた。

「どうする?」

 コンビニの壁にもたれて洪が訊いた。

「どうするか。しかし、本当にインターネットって役に立たないな」

「高い車は、みんなああいう機械が着いてんのかな?」

「わからねえけど、なんとかしないとな」

「そうだな」

 

 次の夜、洪は花房を林森北路に呼び出した。

花房は危ないからやめようと言ったが、洪は高級車を狙うのならば林森北路が一番良いと主張した。結局、人が減る遅い時間に落ち合う事で花房が折れた。

深夜過ぎ、夜の商売の店以外は、ほとんどが店じまいをしており、歩道は暗かったがぽつぽつと屋台が出ていた。それらをなんとなくのぞき込んだり、通りかかる夜の女を品定めしたりしながら、花房と洪はふらふらと歩いた。

「お前は、この先どうするの?」

花房が訊いた。

「この先って何?」

「いや、俺が日本に帰ったら、一人で原付き売りを続けるのか?」

「まさか」

「じゃあ、どうやって喰ってくの?」

「バンドでメジャーデビューする」

「真面目に言ってるんだけど」

「じゃあ、サラリーマン」

「お前、そんな顔でできるわけねえだろ」

洪はにやりとして、首筋から顔にかけて入っている刺青を指先で掻いた。

「まあ、いいじゃんか、そんな事。お前は日本に帰ってからの心配をしてろよ」

はぐらかされたので、それ以上は訊くのをやめた。

 しばらく行くと、クラブやキャバクラばかりが入ったビルの前に、ショッキングピンクとパールホワイトのツートンカラーに塗られた大きな外車が停まっていた。運転手と思われる男が傍らに立っている。

「あれは高そうだな」

「え?あれをやるのか?」

「ああ、お前はてきとうに運転手の気を引いとけ。その間に俺がパクる」

「ちょっとヤバくねえか。あんな派手な車、すぐに足がつくよ」

「いいや、こいつに決めた」

洪はにやりと笑って車にむかって歩きだした。そのままその車の前を何気なく通り過ぎて

様子を見てみたが、煙草を吸っている運転手

らしき男の他に人はいなかった。その上、お

誂え向きにエンジンが掛かっている。

エンジンが掛かっているという事は、もう

すぐ持ち主が戻ってくるのだろう。あまり時間はないということだ。

 役割は話し合うまでもなく決まっていた。

洪は花房に向かって軽く顎を振って見せた。花房はうなずいて運転手に近付くと、日本  

語で話しかけた。

「こんばんは」

運転手は訝しげな顔をした。

「誰かいい娘を紹介してもらえませんか?」

再び日本語で言うと、運転手は面倒くさそうに言った。

「何しゃべってんだかわかんねえよ。あっち行け」

花房はにこにこして日本語で続けた。

「ねえ、いい娘紹介してくださいよ。溜まってんすよ、俺。ねえ、お願いしますよ」

 業を煮やした運転手が、今度は凄みを効かせて花房に顔を近づけた。

「てめえ、いい加減にしねえとぶっとばすぞ。何言ってるかわからねえって言ってんのがわからねえのか」

 花房は洪が運転席にするりと滑り込んだのを確認してから「わかったよ、ごめん、ごめん」と中国語で言って、くるりときびすを返した。

 急に態度を変えた花房を運転手が唖然として見送っている隙に、洪はアクセルを思い切り踏んで車を発進させた。タイヤが滑った音で振り返った運転手は怒鳴った。

「おい、ちょっと待て」

運転手は泳ぐように両腕を振り回して車を追い掛けたが、もう後の祭りだった。

 花房は走って裏路地に逃げ込むと、そうっと顔を出して今来た道の様子を見た。車も運転手も姿が見えなかった。ふうっと息をついて、ゆっくりと歩き出し、携帯で洪の番号を呼び出した。


 張は立ちつくし、運転手が涙を流しながら、必死になにかを訴えているのをぼんやりと見つめていた。

 この台北には俺の様に、事業家の皮をかぶったヤクザ者は数多くいるが、俺はその中でも一目置かれる存在なはずだ。陰で何を言われているのかはわかったものではないが、表立って楯突く者は誰もいない。その俺がこの数週間に、甥をアホにされ、今度は車が盗まれた。

張は腹がたっているというよりも、この街で自分がこんな扱いを受ける理由を理解出来なかった。

 運転手は泣きながら感極まって張の足にすがりついたところを、ボディガードに引き剥がされた。

 必死で赦しを乞うているこの男を責めたところで、どうなるものでもない。責められるべき人間は他にいる。絶対にこの手で殺してやる。

 部下の一人が車をまわしてきたのを見て、ボディガードが張の耳もとで「車が来ました」とささやいた。それでやっと張は我に返った。

張は手をボディガードの前に出した。ボディガードは万事心得た様子でその上に拳銃を置いた。張は拳銃を握りしめ、地べたに這いつくばって泣き叫ぶ運転手に言った。

「立て」

 運転手は泣き叫ぶのをやめ、顔を上げた。

「立てって言ってんだよ」

 運転手が張の顔と拳銃を交互に見ていやいやをした。

「立たないなら、頭をぶち抜くぞ」

運転手は口をぱくぱくさせながらおそるおそる立ち上がった。

張は震えている運転手の左足のももを撃ち、ボディガードに向かって拳銃を放り投げた。


「すごいの持って来ちゃったね」

李は花房と洪が盗んで来た車を見て言った。

 洪は得意げに言った。

「苦労したんだからさ、びしっと良い値段をつけてくれよ」

「まかせてくれ。まあ、これだったら、結構出せるよ」

李は黄色い歯を見せてにやりと笑った。

「幾らくらい?百万か?」

「百万は、いくらなんでも無理だよ。そんなに欲張るとロクな事ないよ」

「李さん、駆け引きは無しにしよう。今回は五十万で決めてくれ。こっちはそれでも李さんが十分儲かる事くらいわかって言ってるんだ」

「うーん」

李は少し考えてから、小さく何度かうなずいた。

「わかったよ。五十万でいい。事務所に来てくれ」

「さすが、李さん。行こうぜ」

洪にうながされ、花房は二人について行った。

 事務所がわりの小屋に入ると、李は洪と花房に応接セットに座るよう勧めて奥の部屋に入っていった。洪はどかりとソファに座り、テーブルに足を載せた。

花房は座らずにカウンターに寄りかかって何となく李を見ていた。

 李は首に下げたひもをたぐりあげ、その先の鍵を机の上に置かれた高さ五十センチほどの金庫の鍵穴に差して扉を開けた。金庫にはダイヤルもついていたが、使っていないようだった。

 李は札の数をかぞえ、金庫の扉を閉めて出てきた。花房に札を渡し、洪の向い側のソファに腰をおろした。

花房は渡された札のを数え、洪にむかって

うなずいた。

洪は目でうなずき返して立ち上がった。

「それじゃ李さん、どうもありがとね」

「いやいや、また何でも持って来てよ」

李はまたにやりと笑って汚い歯を見せた。


 花房と洪は朝一の高鐵(新幹線)で台北に戻った。

台北の駅前は、ぽつぽつと人が歩いているだけで、通勤ラッシュにはまだ間があった。

花房と洪は通りを渡り、裏通りにある朝飯屋に入った。

熱い飯といくつかの小皿を取り、トレイに載せた。

 食べながら洪はポケットから札束を取り出して、そのまま花房の前に置いた。

「とっとけ」

「うん、先に半分とれよ」

「いらねえ。全部やる」

花房は、箸を止めた。

「なんで?」

「餞別だ。それ持って、とっとと日本へ帰れ」

「何言ってんだ。いいよ、半分で」

「できるだけ早くライブをやるから、その時の打ち上げ代をその中から払ってくれ」

「どういう事だ?」

「馬鹿だな。お前がいなくなったら、次のギターが見つかるまではライブができねえだろ。だからその詫び代をそこから払えって言ってんの」

「そういう話じゃなくて、お前の取り分はちゃんと取れよ」

「しつこいな。餞別だって言ってるだろ」

がつがつと飯をほおばる洪を花房は黙って見つめた。


 余の家は朝から戦場さながらだった。

八歳、五歳、三歳の三人の息子達に朝食を摂らせて、それぞれ学校や幼稚園に送りだすのは余の仕事だった。夜がメインの稼ぎ時な余にとって、毎朝のこの時間帯は地獄だった。

 嫁はまだ寝ている。長男と次男が花巻を投げあってけんかしているのをやっと止めた時、三男がトイレに落ちた。

 上の二人を家から追い出すように見送ってからシャワーを浴びさせた三男の体を拭いていると、携帯が鳴った。

「何だよ?」

呉は早朝の電話を詫び、張の車が盗まれた事を伝えた。

「何それ。俺達に文句言っておいて、張さんもそのざまか?」

笑いながら逃げまどう三男を、なんとか片手で捕まえてバスタオルにくるんだ。

「あんな目立つ車、そうそう売り先が見つかるもんじゃねえよ。心当たりに声をかけとく」

 三男が余の手からすり抜けて走りだした。

「忙しいから切るぞ。後でこっちから掛ける」

電話を切って携帯をポケットに仕舞ったのと、三男が次男の飲み残した牛乳を頭からかぶったのが同時だった。


 洪と別れてからKAKAのアパートまで、花房はぶらぶらと歩いて帰った。普段はバスに乗るのだが、この日は歩きたい気分だった。 

 日本を出てからそろそろ五年が経っていた。

気楽で場当たり的なこの月日がいつまでも続くものではないとわかってはいたが「ずいぶん唐突に終わる事になったな」と思わずにいられなかった。だからといって、決して嫌だというわけではない。事の流れだったとはいえ、意外とあっさり決心がついた自分に多少驚いただけで、どちらかと言えば残念さよりも浮き足立つような、わくわくとした期待の方が勝っていた。

 KAKAのアパートの隣にあるバイク店の看板が見えてきた時、ふと思い付いて携帯を取り出した。

 兄はすぐに電話に出た。

「どうした?」

「うん、俺さ、日本に戻る事にしたから」

「そうか。ついに決心したか」

やぶからぼうにもかかわらず、兄はすぐにうれしそうに言った。

「いつ帰ってくるんだ?」

「いや、まだそれは決めてないけど、なるべく早くしたいと思ってる」

「なんだ、それじゃ今までと一緒じゃないか」

兄の声が落胆とイラつきを帯びた。

「ちがうんだ。今回は本当にすぐだよ。いくつかする事があるけど、一週間以内には、いつ帰るか決めるよ」

 兄の声がまた明るくなった。

「そうか、わかった。とりあえずは俺の所に来るか?」

「いや、それなんだけど、どこか他の場所をがいいなと思ってるんだ」

「なんで?」

「実はさ、人と一緒に帰るつもりなんだよね」

「人って誰だ。女か?」

「そう」

「え、本当にそうなのか。彼女か?」

「うん」

 兄の興奮した声に花房は苦笑した。

「こっちで一緒に住むのか?」

「そのつもり」

「彼女の両親には、もう挨拶したのか?」 

「まあ、そのへんのことは、帰ってから話すよ」

「そうか。じゃあどうしたら良いんだ。ホテルを探せばいいのか?」

「ウィークリーマンションがあると一番助かる。それと、悪いんだけど、羽田まで迎えに来てほしいんだ」

「わかった。日程が決まったら、なるべく早くおしえてくれ」

「うん。土日にするつもりだから」

「そうだな、その方が助かる」

 兄に礼を言って電話を切り、KAKAの部屋へと続く階段を軽々とかけ上った。いつもはひどく煩わしいこの階段も、この日ばかりは苦にならなかった。

 KAKAはまだ寝ていた。

花房はベッドにもぐりこみ、KAKAの鼻をつまんだ。KAKAは眉をしかめて、目を開けた。

「日本へ行くよ」

「どうしたの?急に」

「いいから、早く起きろよ」


 二人はいつもの店へ行った。KAKAは豆漿と油条をとったが、花房は何も頼まなかった。

「まずは、部屋の片付けと、荷造りだな」

「そうね。ゆっくりやるわ」

「いや、それはまずい」

「どうして」

「いつ余が来ないともかぎらないだろ?」

「そっか」

「ちょっとせわしないけど、帰ったらすぐに始めよう」

「うん」

「荷物は、最小限必要な物しか持って行けないよ」

「私、大きな荷物は持ってないから大丈夫」

「冷蔵庫なんかの家財を売り払うのは、俺がやるから、部屋の解約の方を頼むよ」

「いつ出るの?」

「明日出てホテルに移ろう。解約は一番早い日にしてもらってよ」

「わかった」

 なんとなく戸惑っていたKAKAも、だんだん実感が湧いてきたようだった。

 KAKAは一足先に部屋へ戻り、早速荷物の片付けを始めた。花房は日本へ送る荷物を入れる段ボールをスーパーへもらいに行き、郵便局で送り状をもらってから部屋へ帰った。

洋服と靴、何冊かのアルバムがKAKAの荷物のすべてだった。花房の荷物はKAKAの部屋へ移ってくる時にだいぶ捨てていたので、大型のトランクが一つで用は足りた。テレビやいくつかの家具を道具屋へ売り、夕方までには日用品を捨てればいつでも出て行かれる状態になった。

 送り状に兄の住所を書き込み、二つの段ボールに貼ると作業は終わった。

「バンドのライブを兼ねて、洪達がお別れ会をやってくれるって言うから、その日程が決まったら飛行機のチケットを取りに行こう」

「うん」


 花房達のラストライブ兼お別れ会は二週間後の土曜日に決まった。

 洪達がいつも使っているライブハウスROUTE66のオーナー兼店長の郭は、花房がバンドから抜ける事をさかんに惜しみ、ブッキングを変えてまで二週間後の土曜日を空けてくれた。土曜日だったらライブの後、朝まで大騒ぎをしても花房達は日曜日の午後には羽田に着くことが出来る。

「あのさ、もう少しだけ安くならない?」

洪が言うと郭はグラスを拭いていた手を止め、あきれ顔でふきんを放り出した。

「おまえはバカなのか?飲み物代をただにしてやってんだぞ。無理に決まってるだろ」

「やっぱり」

「あたりまえだ。これだってこっちは大赤字なんだ。そういう事を言うから高雄の奴は田舎者だって謂われちゃうんだぞ」

「はいはい、すいませんでした」

郭はふきんを拾い上げ、またグラスを拭きはじめた。

「それはそうと、お前今、何して喰ってるんだ?」

「え?そう言われると困るんだけど、言ってみればバイクの販売かな」

「どうせかっぱらいだろ」

「そういう言い方は良くないんじゃない?」

郭は洪を無視して言った。

「お前、ここで働かないか?」

「え?」

「今さ、もう一軒店を出そうと思ってるんだけど、ここをまかせられる奴がいなくて困ってるんだよ」

「じゃあ、俺が店長って事?」

「そんな刺青をいれちまってたら、まともな仕事なんて一生見つからないだろ?」

「それはまあ」

洪は首筋の刺青を人差し指で掻いた。

「リサちゃんに苦労かけてきたんだから、ここらで楽をさせてやれよ」

「まあ、あいつの事はどうでも良いけど、店長は魅力的だな」

「そんな事言ってると、いつか捨てられるぞ。リサちゃんに較べたらお前なんかダニみたいなもんだ」

あんまりな言い方だったが、洪はみょうに納得してうなずいた。

「恩を着せるつもりはないけど、お前にとっても悪くない話だと思うし、新しい奴を雇ってもモノになるかわからないわけだろ?長年知ってるお前がやってくれれば俺も助かる」

「そうか」

「いきなりだけど、そのライブの時くらいまでに考えておいてくれ」

「うん。わかった」

 給料をもらいながら、好きなバンドを毎日観られて自分のバンドも好きな時にブッキングできる。余とごたごたした所為で以前のように楽に稼ぐ事もできなくなってしまっているところに花房が日本へ帰ることになり、新しい商売も自分と葉では思いつきそうもない。 

正直な所、先行きにかなり不安を抱いていた洪にとって、これ以上ないくらい良い話だった。


 花房が旅行会社のカウンターで希望の希望日を告げると、スーツ姿の担当の女性は座席表の映ったパソコンモニターを花房に向けて愛想よく言った。

「ご希望の席はありますか?」

花房は何気なくモニターをKAKAの方へ向け直して訊いた。

「どこが良い?」

「どこでも良いよ」

「そうか、じゃあここで」

「はい」

花房がエコノミークラスの中では比較的前寄りの窓際の席を指さすと、女性はキーボードをたたきながらちらりとKAKAを見て、またすぐにモニターの画面に視線の先を戻した。

 彼女が二人の関係をどう思ったのかはわからないが、花房は彼女の予想は当たっていないだろうと、心の中でほくそ笑んだ。


 看板の明かりが落とされた後の鼓山酒家に、李がいた。

李は普段自分の店にいる時とはうって変わった、こぎれいな服装をしていたが、鼻毛はあいかわらずだった。

がらんとした客席の一つについている李の前には高粱酒のボトルが置かれていて、李は手酌でうまそうにそれを飲んでいた。

 しばらくして、数人のボディガードに囲まれた張が店に入って来た。

李はグラスを置いて立ち上がると、笑みを浮かべて張の前へ歩み寄った。

「張さん、ご無沙汰してます」

「よう、李さん。久しぶりじゃないの。元気だったか?」

「おかげさまで。張さんも元気そうですね」

「いやいや、もう歳だよ」

張はにこやかに笑い返し、手で李にいすを勧め、自分も李の前に座った。

 張の前に置かれたグラスに李が高粱酒を注いだ。

 二人はグラスを合わせ、口をつけた。

 しばらくの間、どうでもよい世間話や共通の知人について話した後、張が口火を切った。

「で、今日は何か面白い話でも?」

「ええ、それなんですがね、ちょっと見てもらいたいものがあるんです」

「ほう、なんだろ」

李はグラスを横へずらし、内ポケットから数枚の写真を取り出してテーブルに並べた。それらは、花房と洪が李に売った張の車の写真だった。一瞬、張の腹の中に熱い怒りの灯がともったが、張はそのそれをすぐに押し殺して、また元のにこやかな表情で言った。

「これは、何かな」

「ええ、実は最近うちに持ち込まれたんですがね。もしかしたら、張さんの持ち物なんじゃないかと思って」

張は小さく何度か首を横に振った。

「それはないな。俺の車は今、修理に出してるはずだからな」

「そうですか。私の勘違いでしたか」

「おそらくな」

 張は李のグラスに酒を注ぎ足した。ボトルの口がかすかにグラスの縁に当たった。

「しかし、李さん、その車をどうする気なのかな?」

「まあ、私も結構な額の金を出して買い取ったもので、誰か高く買ってくれる人を探そうと思っています」

「そうか。とは言っても」

張は一度言葉を切り、形ばかり酒をすすってグラスを置いた。

「その手の車を買う人間を見つけるのは、簡単じゃないだろうな」

「そうなんですよ。張さんのお知り合いで、どなたか興味がありそうな人はいませんかね」

「どうだろうな。まあ、条件によっては俺が買い取っても良いがね」

 李は心の中で「このたぬきめ」と毒づいてほくそ笑んだ。

「それは助かります。値段は二百万元です」

「ずいぶん良い値段だな」

「これだけの車ですからね。二百万でも買取値段ぎりぎりなのでこれより安くは出来ないんですよ」

 何がぎりぎりだ。どうせ安く買い叩いたに決まっている。

 激しい怒りを帯びた張の視線を李はまったく気にする様子もなくにこやかに言った。

「そうは言ってもお世話になってる張さんに買ってもらえるんでしたら、オプションを無料でつけさせてもらいますよ」

「オプション?カーナヴィか何かか?」

「いえ、これを売りに来た奴らの写真です」

張の目が光った。

「写真があるのか?」

「最近物騒なので、事務所に監視カメラをつけてるんです」

「なるほどな」

「なんでしたら、ビデオでもお渡しできますよ。それは別のオプションになりますけど」

 張はグラスの酒をゆっくりと、しかし一口で飲み干した。李がボトルを手に取り、注ぎ足そうとするのを手で制した。

「俺は車道楽でね。ベントレーは好きだから何台あってもいい。買わせてもらおうかな」

「本当ですか。ありがとうございます」

「車を持って来てくれたら、現金で払う。オプションを忘れずにな」

「わかりました。それで、オプションのオプションはどうしますか?」

「まあ、その位はサービスの範疇に入るんじゃないかな?」

 李は苦笑した。

まあいい。二百万なら十分儲かる。

「結構です。納車の時に必ず一緒にお渡ししますよ」

張は満足そうにうなずいて、もう一度グラスをかかげてみせた。


 コンビニで菓子や飲み物などを買って、花房はホテルへ戻った。

 KAKAが余に連れ戻される事がないように、二人は早々にホテルへ移っていた。 

 台北駅からMRTで二駅目の西門駅からほど近い昆明街にあるこのホテルは、設備がそこそこ整っている割には、値段があまり高くないので観光客にも人気があるらしい。

 花房は買ってきたものを応接セットのいすの上に並べ、その中からお茶のペットボトルを取ってベッドの縁に腰掛けたKAKAに渡した。

 花房は自分のスーツケースを横にしてふたを開け、中から封筒を取り出した。KAKAに差し出すと、KAKAは「何これ?」と訊きながら受け取った。

「日本へ行ってから使う金」

「どうするの?」

「持っていてよ。俺が持ってると、使っちゃうかもしれないからさ」

「うん、わかった」

「使っちゃたら、もう出ないよ」

「どうしようかな」

KAKAは笑いながら立ち上がると、手荷物の底に封筒を入れた。

「ねえ、本屋さんに行かない?」

「いいよ。何買うの?」

「日本のガイドブックと日本語の本」

「勉強するんだ」

「うん」

「そうか。俺も、兄貴に土産でも買おうかな」


 こんな真っ昼間に張から呼び出された事は今までほとんどなかった。

 余は寝ているところを張の部下からの電話で起こされたのだが、不機嫌になるよりも、不安になった。

 どうせろくな用事じゃないだろう。

 大急ぎで身なりを整え、張の経営するクラブやキャバクラが多く入ったビルへと車を走らせた。

クラクションを鳴らし続け、パッシングを繰り返していつもの半分の時間で張のビルにたどり着くと、ビルの前には張のベントレーがすでに停まっていた。

「車、見つかったんじゃねえか」

余はつぶやきながら車から降り、ビルに入った。 

 一軒のクラブの事務所の入り口をノックすると、張のボディガードがドアを開けた。

「遅くなりまして」

店長のいすに座った張は軽くうなずいた。

「ま、入れ」

「はい」

 余は中に入り、机を挟んで張の正面に立った。

「車、見つかったんですね」

 張はそれには応えずに二枚の写真を机の上に置いた。

「これを見てくれ」

張は写真を人差し指でたたいた。

「こいつらを知らねえか」

余が目を向けると、どこかの汚い事務所の様なところで撮られた写真に洪と花房が写っていた。その画質の悪さから、ビデオの映像を抜き出して紙焼きしたものではないかと思われた。

 余は脇にあったいすを引き寄せて張の向かいに座り、写真の洪を指した。

「こいつは洪っていうチンピラで、俺のところのシマ内で美人局みたいな事をしていた奴です。こっちはこいつの仲間の日本人です。これは何なんですか?」

「俺の車を盗みやがった奴らだよ。お前のところは、チンピラにやりたい放題させてるのか?」

急に鋭い目つきで睨め上げられて、余は背筋を伸ばした。

「いえ、そういうわけじゃ」

「そういうわけじゃなきゃ、何なんだ」

張は怒鳴り声をあげ、机の上にあった電気スタンドを余に向けて投げつけたが、コードが伸びきるとスタンドはそれに引っぱられて下に落ち、机の側面に当たってぶら下がった。

余は慌てて立ち上がった。

「今、必死で捜させてます」

「てめえがだらしねえから、俺の車が盗まれたんじゃねえのか」

 とんだ八つ当たりだ、と余は思ったが、怒りだした張は泣き出した赤ん坊と同じで、気が済むのを待つより他に落ち着かせる方法はない。

「申し訳ありません」

「申し訳なんか関係あるか。とっとと、このガキをとっ捕まえてきやがれ」

張が今度はアルミで出来た灰皿を余に向かって投げ付けたが、灰皿も余には当たらず、灰があたりに飛び散った。


 余は楊の腹に拳を叩き込んだ。息がつまり、膝をつきそうになったが一歩踏み出しただけでなんとかもちこたえた。隣に立っていた呉が、ぐっと歯をくいしばったとたんに頬に衝撃が来た。殴られた勢いで半身になってしまったが、なんとか倒れずに済んだ。

先に倒れた方に余の怒りが集中することを二人とも今までの経験で知っており、なんとか倒れないようにしているのだった。楊は息が出来ず、こきざみに空気を吸おうとしていた。呉は口の中に拡がった血の味の出所を、余に気取られないように舌で探った。

 余はいすに座り、煙草に火をつけて乱暴に煙を吐き出した。

二人はそれを見て心の中で胸をなでおろした。どうやら余の怒りも二人を殴った事で少しは落ち着いてきたらしい。

「チンピラ一人見つけられないってのは、どういう事なんだ?」

余は静かな口調で言った。

 二人は口を真一文字にむすび、余と目を合わせないように下を向いた。余は煙草をアルミの灰皿に押し付けると、腕を組んで二人を見比べた。

「おい、呉」

名前を呼ばれて、呉は顔を上げた。

「は、はい」

「何を待ってやがるんだ、ばかやろう」

余はいきなり灰皿を掴んで投げ付けた。灰皿は楊の顔に当たり、床に落ちて音を立てた。

二人はあわてて外に飛び出した。


「マジで殴ってんだもん。最悪だよ、あのおっさん」

「なんで俺に灰皿が当たるんだよ。とんだとばっちりだよ」

呉と楊は余の事務所から飛び出したものの行くあてもないので、店から数ブロック先の路上に停められている原付バイクに勝手に腰掛けていた。

呉はまだ長い煙草を地面に落とした。

「たしかに見つけて来いとはいわれてたけど、余さんだって本当に見つけたいなんて思ってもなかったくせによ」

「そうだよね」

揚は相槌をうって、次に何をするべきかを考えた。

こういう時に主導権を取れれば、この小僧にも馬鹿にされずに済むに違いない。余の顔を思い浮かべ、無い頭をひねったが、しばらく経っても何も浮かんでこなかった。

チラリと呉の顔を見る。呉は向かいのビルの上のあたりをじっと見ているだけで何も言い出す気配はない。

それからしばらくして揚は考えるのをやめた。

こういう事は俺よりも呉の方が得意だ。呉にまかせよう。

「それで、どうしようか?」

呉は揚を見もせずに他人事のように言った。

「とりあえず、捜すふりをしとけば良いんじゃないか」

「ふりかよ?」

 チッと舌打ちをして、呉は蔑むように揚を見た。

「そうだよ。おまえ、台北に何人の人間がいると思ってんだ?本気で捜したって見つかりやしねえよ」

「そりゃそうだ」

「適当に場所を割り振ってさ、毎日ふらふらしてくれば、一応仕事してる感じになるだろ。それでいいよ」

「大丈夫かな?また殴られるんじゃないか?」

「関係ねえよ」

 楊は何が関係ないのかよくわからなかったが、謂われてみればそんなものかと妙に納得した。


洪は左右の手に包丁を持って肉を細かく切っていた。タカタカとテンポ良く包丁がまな板を叩く音が響いている。

「ねえ、ライブの後、打ち上げもやるんでしょ?」

ベッドルームに置かれたパソコン机に向かっているリサが声をかけた。

「ああ、どっちかっていうと、そっちがメインだ」

「店、予約したの?」

「いやまだ」

洪は手を止めて包丁を置いた。手をタオルで拭きながらリサの背後に来て、パソコンのモニターをのぞきこんだ。リサは、ライブのチラシをデザインしているところだった。

「いい感じじゃん」

「あとは写真を入れれば出来上がり。」

洪は折り畳みいすを引き寄せて座った。

「あのさ」

「うん?」

「郭さんにさ、ROUTE66の店長やらないかっていわれた」

「店長?」

「うん」

リサは手を止めて、洪の方に体を向けた。

「できるの?」

「わかんね」

「意外と信用されてんだね」

「そうみたいだな」

「郭さんはどうするの?」

「新しい店を出すんだって」

「そんなに人を見る目がないのに、新しい店なんか出して大丈夫なの?」

「わかんね」

「あんた、売り上げ盗んだりするでしょ?」

「まあ、多少はな」

「だめじゃん」

「だからやりたい」

リサはキーボードのコマンドとSキーを押して立ち上がり、洪のひざの上に座った。

「お金返してよね」

「お前、そればっかりだな」

そう言ってリサの耳たぶを人さし指でそっとなぞった時、チャイムが鳴った。

洪は軽く舌打ちをしてリサの腰を押さえていた手を離した。リサはわざとらしくにこっとしてみせて玄関に向かった。

 ドアを開けると、花房とKAKAが立っていた。リサは二人を招き入れ、ソファを勧めた。

 洪は冷蔵庫からジュースのペットボトルと缶ビールを取り出し、缶ビールを花房に渡してからKAKAの前にリサが置いたグラスにジュースを注いだ。

「日本人ていうのは、酒を飲まなきゃ損だと思っていやがる」

「そうみたいね」

台所へ向かった洪の背中に言ったKAKAがにこっとして見せると、花房はわざと眉間にしわをよせてプルトップを引いた。

 奥の部屋からリサの声がした。

「チラシを作ったから、見てくれない?」

「ああ、もう出来たんだ」

花房は缶ビールを持って立ち上がった。KAKAもグラスを持ってそれにならった。

パソコンの前に座っているリサの後ろから、二人はモニターをのぞきこんだ。

 洪が舌を出して白目を剥いている写真をバックにかすれた文字で『心の銃ラストライブin台北』と書かれていた。

「かっこいいじゃんか」

「そう?」

「こんな写真撮ってたんだね」

「うん。いいでしょ、バカっぽくて」

「しかし、台湾で一番ダサいバンド名だな」

「あ、自覚あるんだ」

熱したフライパンに野菜を放り込まれる音がした。

「あとで印刷してあちこちに貼ってくるから」

「いろいろわるいね」

「大丈夫よ」

「わたしも貼るの手伝う」

突然KAKAが言ったので、リサは意外そうな顔をした。

「そう。じゃあ、お願い」

「うん」

「出来たよ」

洪の声が台所から聞こえてきた。

「行こう」

リサに促され、二人はリビングに戻った。

「座って、座って」

洪は料理が山盛りにされた皿をテーブルの上に置きながら言った。花房とKAKAは置かれた料理を見て目をまるくした。

「なんかすげえな」

「ほんとね」

 洪が作った料理は、花房が作るものとはくらべ物にならないほど本格的だった。

「あったりまえだよ。こいつみたいな昨日今日のぽっと出とはわけが違うからな」

「長くこき使われてるだけなんじゃねえのか?」

「いいから座れ」

 二人は席につき、リサは折りたたみいすを持って来て座った。洪もリサにコーラの缶を渡して席についた。

「それじゃ、二人の未来にって事で」

「乾杯」

四人はそれぞれのグラスを掲げた。


 リサとKAKAがチラシを貼りに出て行くと、洪は棚からウイスキーのボトルを出してきた。

 洪はKAKAの使っていたグラスの飲み残しを灰皿にあけ、そこへウイスキーを注いで花房の前へ置いた。自分は紅く蝋引きされたボトルのネック部分を持って底を軽く花房のグラスの縁へ当てると、ボトルのまま一口あおった。酒を飲み下し、大きく息をはいて、ボトルをテーブルの上へ置いた。

 花房もグラスのウイスキーを口に放り込んで大きく息をはいた。

 話したい事はいくらでもあるような気もしたが、二人とも何も思い付かずに黙っていた。

 ついこの間までは、生きて行くためのパートナーであり最も近しい友達だったのだが、もちろんこれからも友達ではあり続けるだろうが、もうパートナーではない。明日の食い扶持について相談することはもうないのだと思うと、なんだか寂しかった。これからは、多くても一年に何度か、少なければ数年に一度くらい、どちらかがどちらかを訪ねて行って昔話をするのだろう。

 そんな事を考えるとますます話題を思い付かなくなったが、洪も黙っているところをみると、同じような事を考えているのかもしれないと花房は思った。

 洪は何気なくテーブルの上に置いてあった十元コインを人さし指で弾いた。コインはグラスを握っていた花房の手元で止まった。

花房が弾き返すと、コインはテーブルから落ちそうになったが、洪はすんでのところでそれを指先で止めた。花房は両手で拳を作ってテーブルの縁にあて、二本の小指を上に出してゴールにし、右手の人差し指をその中心に出した。洪がコインを二本の指で弾くと、花房は人差し指でそれを止めた。今度は洪が同じように指でゴールをつくり、花房がコインを弾いた。

 二人は酒を飲みながら、しばらくの間その遊びに興じた。


 リサとKAKAは終夜営業のコピー店でチラシを大量にコピーして街へ出た。

時間は深夜一時をまわったあたりで、だんだん人通りが少なくなる頃だった。

 リサがペンキ塗りに使うローラーで水に溶いた糊を壁につけると、KAKAがチラシを貼っていった。

ライブハウスに近い大学のれんが造りの壁に十枚程を連続して貼るとそれらしく見えたが、KAKAは心配になった。

「こんなに貼っちゃって大丈夫なの?」

「どうして?」

「怒られるんじゃない?」

「平気平気。怒られるのはどうせライブハウスか洪だから」

「それって平気なの?」

「平気平気」

 二時間程をかけて、ライブハウスから半径二キロ以内のあちこちにチラシを貼った。

 KAKAは始めの方こそどきどきしたが、だんだんと楽しくなってきていた。

 リサのような同年代の女の子と話をするのは、店の待ち合い部屋以外では久しぶりで、高校生だった頃以来かもしれないと思った。リサと話すのは今日が初めてのようなものだったが、リサの人との間に壁を作らない性格のおかげでとても楽しかった。

 チラシを貼り終わり、リサの家まで歩いている時にリサが訊いてきた。

「日本へ行った事あるの?」

「ない。私、台湾から出た事ないから」

「そうなんだ。不安じゃない?」

「不安だよ。言葉もわからないし」

「そうだよね。家族は何て言ってるの?」

「お父さんとお母さんは死んじゃったし、お兄ちゃんは連絡先がわからないから何も言ってない」

「そっか。悪い事を訊いちゃったね」

「全然大丈夫。気にしないで」

リサは小さく何度かうなずいてから、少し言葉を選んで言った。

「あのさ」

「うん?」

「よけいなお世話なんだけどさ」

「うん」

「花房とつき合い始めてまだあんまり時間経ってないよね?」

「うん」

「それで日本に行っちゃって、この先大丈夫なの?」

「わかんない」

 リサは眉を持ち上げた。

「あれ?あんたも結構イージーだね」

「どういう事?」

「だから、なんていうか、出たとこ勝負っていうか、あと先考えないっていうか」

「ああ、そういうこと」

KAKAは少し考えてから言った。

「知ってるかわからないけど、私この間までデリヘルやってたんだ」

「あれ?キャバクラじゃないの?」

「うん」

「よくわからないんだけど、デリヘルって何する所だっけ?」

「セックス」

KAKAはできるだけ平坦に言った。

 リサは言葉に詰まって口をへの字にゆがめた。

「それは、なんて言うか、ハードなとこへ行ったね」

「うん。仕事さがしに台北に出て来たんだけど、見つからなくて。私あんまりお酒飲めないし、接客もできないから」

「デリヘルって接客じゃないの?」

「あんまりしゃべらなくていいから」

「そっか、なるほど。そりゃそうか」

リサの方が照れくさそうだった。

「デリヘルやっちゃったら、もう堕ちる所ないでしょ」

「え?ああ、まあ、そうかな」

「だから、日本へ行って花房と駄目になっても、帰って来て同じ事をすればいいだけだし」

「はあ、なんかえらい事聞いちゃったな。でも、だからって日本まで行かなくても。あんた、かわいいんだし」

 KAKAはうまく自分の気持ちを説明できそうもなくなって、少し黙った。リサも自分が何を訊きたかったのかがよくわからなくなってしまっていたが、KAKAの顔を見ていて何となく彼女の言いたい事がわかったような気がしてきた。

「まあ、要するに好きになっちゃったんだよね?」

KAKAは顔を上げてにっこりとした。

リサに話してよかった。

「うん」

「そっか、じゃあ仕方ないね」

「うん」

 二人がリサの部屋へ戻ると、花房と洪はソファの上で寄り添って寝ていた。


 花房は小南門駅でMRTを降りて地上に出た。

朝方雨が降ったのがうその様に晴れわたり、午前中の透きとおった光が眩しかった。

めざす移民署は駅からすぐだった。近代的なビルの前には一台分ずつ区切られたバイク置き場に整然とスクーターが並んでいる。

不法滞在をしている外国人にとっては警察よりも忌まわしいはずのこの建物が、今日の花房には何か晴れがましい場所にすら思えた。

エントランスホールに入ると正面に受付のカウンターがあり、若い女性がぼんやりと手元を見ていた。

花房はカウンターに肘を載せ、受付嬢に向かって訊いた。

「不法滞在の罰金って、どこで払えばよいのかな?」

顔を上げた受付嬢は花房の軽い調子にいぶかし気な目をした。

「どなたか知り合いの方の代理ですか?」

「ちがうよ、俺の分だよ」

 花房はパスポートを机の上にパシリと置いてにやりとしてみせた。


 楊は後方から鳴らされるクラクションも追い抜いて行く車から発せられた罵声も気にせず、車線の真ん中をたらたらと原付バイクで走っていた。

 一日中洪達を探してもう夕方になっていた。くたびれてはいたが、余の顔を思い出すと

林森北路に戻る気がしなかった。 

 呉と二人で洪を探す地域を分けてこの辺を押し付けられた。呉の指示で動くのは業腹だったが、どこへ行っても人だらけの台北で、ひとりの人間を探し出すことなどできるわけがないと思っている揚にとって地域の割り振りなど、どうでもよかった。

「めんどうくせえなあ。」

 冷たいものでも飲もうとバイクを停め、くわえ煙草で行き交う女の子の品定めをしながら日陰をさがしていると、ふと足が止まった。

 壁に洪の写真が何枚も連続して貼られていた。KAKAとリサが貼って歩いたバンドのポスターだった。馬鹿が乗り移ったかのように洪が舌を出している。

「みつけちゃったじゃんか」

楊は舌打ちをして、チラシを一枚むしりとった。


 呉が面倒くさそうな顔で歩いて来たのが見えた。楊はベンチから立ち上がって手を上げたが、呉は蔑む様な視線を揚に送っただけだった。揚は憮然としてやり場のなくなった手を下ろし、もう一度ベンチに座った。誰かに見られはしなかったかと周囲を見渡したが、この公園にいる誰も呉を見てはいなかった。

 呉は揚の隣にどかりと腰を下ろし「どこにいたんだよ?」と上目遣いに訊いた。

「まだ実物を見つけたわけじゃないんだけど、ここに必ず現れるよ」

そう言って揚はむしってきたチラシを呉に差し出した。

呉はそれを受け取り、しばらく見てから突き返した。

「くだらねえものを見つけてくれたな」

「ごめん」

 呉は勝手に楊の胸ポケットに手を入れて煙草を取り出した。

「どうしようか?」

「行って、とっ捕まえて来るしかないだろ」

煙草に火をつけ、箱を楊に投げて寄越した。

「余さんには言った方が良いよね?」

「バカかお前?余さんに言っちゃって捕まえられなかったらぶっ殺されるだろ。捕まえてから言えばいいんだよ」

「そうか、そうだよね」

「当たり前だ」

「わかった。じゃあ、誰を連れてく?」

「誰って何の話してんの?」

「だから、俺ら二人じゃ連れて来るの大変だから、誰か手伝ってもらった方が良いかなと思って」

「お前のバカも極まったな」

「へ?」

呉は声を荒げた。

「へじゃねえよ。説明すんのも面倒くせえからしねえけど、俺とお前の二人だけでやるんだ。他の誰にもこの事を言うんじゃねえ。わかったか?」

「わかったよ。そんなに怒らなくてもいいじゃない」

「怒るよ。それから、なんでも良いから車を用意しろ」

「わかった」

「何でも良いっつったって、動かないやつとかハンドルの無いやつは駄目だぞ」

「わかってるよ。当たり前じゃんか」

「どうだかな」

呉は煙草を指で弾き飛ばした。


 花房達のお別れライブの夜、ライブハウスROUTE66は人でごった返していた。

 リサとショーンがチラシだけではなく、フェイスブックや口コミをフルに使って必死に人集めをした成果だった。ライブハウスの好意でドリンクが無料になっていた事もあって、早い時間から大勢の人が集まり始めた。開演三十分前には、すでに良い気分になった若い白人の一団が客入れの音楽にあわせて踊っていた。

 出演するのは花房達のバンドと、洪がよく面倒をみている若い三人組のバンドの二バンドだった。

 三人組のバンドは勢いのあるポップなロックバンドで、予定を少し早めて演奏がはじまると同時に多くの観客がステージ際まで押しかけ、激しく頭を振った。

 楽屋でギターを空弾きしていた花房は立ち上がり、ギターをスタンドに立てかけて楽屋を出た。

 フロアの一番後ろの壁際にKAKAが立っていた。あごを軽く上げると、KAKAは軽くうなずいた。

「明日の今頃は日本だな」

「そうね」

あっさりと言われたので、花房は少し安心した。

 もしKAKAが先行きに不安を感じているようだったら何か言わなくてはと思っていたのだが、そのは必要ないようだった。

「大丈夫か?」

KAKAは意外そうな顔をした。

「どうして?」

「いや、別に」

花房が演奏中のバンドに目を向けると、まもなく演奏中の曲が終わった。

「そんじゃ、最後の曲」

ヴォーカルが叫んだ。

 花房はKAKAの耳もとへ顔を近付けて言った。

「打ち上げの時、ばか騒ぎになってあんまり話せなくなっちゃうかもしれないけど、勘弁してな」

「大丈夫、わかってるから」

花房はKAKAの肩にそっとふれて楽屋へ戻った。

 花房達がステージに出て来ると客席の興奮は最高潮に達した。演奏が始まるやステージ前にまで押し掛けた観客達はもみくちゃになり、後ろで見ているKAKAからは花房が見えなかった。ステージの縁に足をかけ、客席に向かってダイブして逆さまになった男の足が、他の客達が曲にあわせて振り上げている拳と一緒にリズムをとっているのがおかしかった。

 客席の熱気をよそに、入り口近くの暗がりから楊が花房と洪を見ていることはKAKAも気付かなかった。

 インディーズバンドのライブではほとんどあり得ない3回のアンコールを終え、楽屋に戻ると4人は汗みずくだった。皆体中から滝のように汗を流しながら、次々に肩をたたき合った。

「ビールビールビール」

ショーンがくり返しながらビールを両手に持って楽屋に入ってきた。

「ほら、ビール」

ビールが皆に行きわたると、花房はそれを高く掲げて「飲ませろ!」と叫んだ。

「おおー」

それに応えて洪達3人は、雄叫びをあげて花房の瓶に自分達の瓶を当てた。


 いつもの店の地下フロアでは例によってテーブルの上にテキーラで満たされたショットグラスがずらりと並び、ライムが山積みにされた盆が置かれた。ありったけのコインがジュークボックスに投入され、いろいろな年代のヒット曲が次々と大音量でながされた。花房達のバンドやメンバーの彼女達だけではなく、友達や友達の友達までがつめかけた結果、フロアは立錐の余地もなくなっていた。

 階段で地下の様子を伺っていた楊は、後から来た人達に押され、気が付いた時にはフロアの中央あたりで、もみくちゃになっていた。周りの男女が場違いな中年の男をちらちら見ていたが、楊はにらみつけてそれらを蹴散らした。

 当初、百杯用意されたテキーラも、あっという間になくなった。立錐の余地もないほどに混み合った階段を見て、追加を運んで来た店員はすぐに下までおりる事をあきらめた。 

ショットグラスがぎっしり並べられた盆が、バケツリレーのように人々の頭の上をすべり下りて行った。そのすべっていく盆をめがけて次々と手が伸び、当初グラスが置かれていたテーブルには空の盆だけが届いた。楊もどさくさにまぎれて酒が目の前を通り過ぎるたびに手を伸ばした。

 バンドのメンバー達は早々に酔いがまわり、意味不明の雄叫びをあげながら、限られた場所を音楽に合わせてぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

花房はソファに座り、もうこんな馬鹿騒ぎもできなくなるのだなと少し寂しい気持ちでぼんやりとその様子を見ていた。

「酒が足らねえんじゃないのか?」

洪が花房の耳もとで叫んだ声で我にかえった。

「ああ、酒がたらねえ。もっと持ってきやがれ」

花房は洪の首に腕をまわし、そばにあったピッチャーのビールを頭の上からぶちまけた。

 楊は人波をかきわけて、やっとの思いで店を出た。道の向かい側に停まっている車に乗り込むと呉が目を開けた。

「あそこの店の地下でどんちゃん騒ぎだよ。朝まで終わりそうもない」

呉は眉をひそめた。

「おまえ、酒飲んだのか?」

「え?どうして?」

「におうんだよ、ばか。ぶっとばされてえのか?」

「いや、ごめん。一口だけだから大丈夫だよ」

「一人でずっと見張ってろよな」

「俺が?」

呉の裏拳が鼻にあたり、楊は顔を押さえてうずくまった。


「そろそろ行かないと」

 KAKAは花房の肩を揺すりながら言った。

「うう」と呻りながら花房は薄目を開け、どこへ行くのかよりもどこにいるのかを考えた。

「飛行機に乗り遅れるよ」

そうだった、打ち上げの後日本へ帰るんだった、とやっとのことで思い出した。

「あああ」

おかしな声をだしながら、ビリヤード台の縁に手をかけて、やっとの事で立ち上がった。

「大丈夫?」

「だめかも」

 フロアを見渡すと、そこここに人が転がっていてまるで事件現場の様だった。

 花房はよたよたと歩いて、バンドのメンバー達をさがした。

ショーンがテーブルの下で寝ているのを見つけた。尻を蹴飛ばすと跳ね起きて、テーブルの裏面に頭をぶつけた。ケニーは知らない男の股間に顔をうずめて寝ていたのでひとまずほうっておいた。洪はソファにふんぞり返り、足をテーブルに載せて大いびきをかいていた。花房はテーブルの上にあった飲みかけのテキーラの入ったグラスを手に取り、中身を口に含んで洪の顔に吹きかけた。洪はパッと目を開けると、何が起きているのかが理解できない様子でじたばたしたあげく尻から床に落ち「うっ」と声をもらして動かなくなった。

 KAKAはリサを起こそうとしたが、白目を剥いていたのでやめた。

 花房は壁に立て掛けてあったギターをやっとのことで持ち上げて肩にかけた。

 花房、KAKA、洪、ケニーを抱きかかえたショーンはやっとの事で1階に上がった。

いすが全てテーブルの上にあげられているフロアを店長がモップで拭いていた。

「お前ら、大丈夫か?」

洪はわずらわしそうに右手をあげて店長の問いかけをやり過ごして外へ出た。

 朝から強い台湾の日ざしが全員の目に突き刺さった。全員できる限りの薄目で車道に向かってよたよたと歩いた。

 花房がかかしのように腕を上げるとタクシーが停まった。KAKAは運転手に頼んでトランクを開けてもらい、自分の荷物を中に入れた。

 花房は薄目のまま、皆の方に向き直った。

「じゃあ、まあそういう事でな」

「ああ」

洪はやっとの事で右手を差し出した。花房は何か言おうかとも思ったが、想いよりも先に胃の中のものがこみ上げて来そうだったので、手を握り返してうなずくだけにした。ショーンに手を上げると、ショーンはケニーの腕をつかんで振って見せた。

 タクシーのドアを開け、花房はKAKAに先に乗るようにうながした。

「またね」

KAKAが手をあげて言うと、洪とショーンは小さく何度かうなずいた。うなずき返してから後部座席に乗り込み、運転手に「桃園空港まで」と告げた。花房は続いて後部座席に倒れこみ、やっとの事で足を折りたたむとKAKAが花房越しに手を伸ばしてドアを閉めた。運転手はうんざりした表情で車を出した。

 花房は後ろをリアウインドウ越しに見ようとしたが、背もたれの高さに阻まれて、すぐにあきらめた。

 タクシーが小さくなると、ショーンはケニーを支えていた手を離した。ケニーはそのまま道路にくずれ落ち、同時にショーンもへたり込んだ。

「俺は帰るぜ」

洪が言うと、ショーンは仰向けに寝転がったまま手で太陽の光を遮って訊いた。

「リサはどうするの?」

「とてもじゃないけど、連れて帰る余裕なんかねえ。ほっときゃ勝手に帰ってくるだろ」

「あっそ」

ショーンが力つきたように地面に体を横たえると、洪はふらふらと歩き出した。

 しばらく大学の壁ぞいに歩くと、煙草が吸いたくなったので立ち止まってポケットを探った。一本だけ残っていた煙草をくわえ、空になったパッケージを投げ捨てた。

 今日からいろいろな意味でこれまでとはちがう生活が始まるのだな、と考えながら今度はライターを探していると、目の前に人が立った気配がして顔をあげた。

 いきなりだったので、何が起ったのか一瞬わからなかったが、息がつまってひざを地面についてしまってから、腹をなぐられたのだと気が付いた。自分を殴ったやつの顔を見たいと思ったが、まったく顔をあげることができずに、自分の吐瀉物がかかった黒い靴だけを見つめるはめになった。

「汚ねえな、この野郎」

洪を殴った人物は洪の後ろ襟とズボンの腰のあたりを掴み、洪に靴をなすりつけた。靴を拭き終えると、そのままの姿勢で引きずられて行ったが、洪は全く抵抗できなかった。車の後部座席にぶちこまれ、後ろ手にビニールバンドで縛られた。

「お前、よくそんなもの用意してたな」

「映画とかでよくあるでしょ」

楊が自慢げに言うのを無視して、布製の袋を洪の顔にかぶせた。

「こっちは用意してなかっただろ、バカ」

何か言いたげな楊をしり目に、呉は助手席に乗り込んだ。

 車が動き出すと、洪の意識はだんだんはっきりしてきた。

 麻製のずた袋の埃臭さと酒臭い自分の息が相まったにおいに吐きそうになりながら「てめえら、いったい何なんだ?」と叫んではみたが、なんの返答もなかった。


 余はエレベーターをおり、張が経営するキャバクラの一つに入っていった。入口の近くで所在無げにつっ立っていた呉は余に気付いて「余さん」と声をかけた。

 いすやテーブルは壁際に寄せられ、フロアは広くなっていた。その中心に置かれたいすに袋をかぶせられたままの洪が縛られて座らされている。

 呉は余に洪の携帯電話を差し出した。余は黙ってそれを受け取って胸のポケットに入れて洪の傍らに行き、頭にかぶせられた袋を乱暴にはぎとった。

洪は目をしばたたかせて周りをぐるりと見た。すぐわきに立っている余に気付くと、ちっと舌打ちをした。

「なんだよ、余さんか」

余は洪を睨みながら、呉にいすを持ってくるように言った。

「ずいぶん乱暴じゃないすか」

余は呉が持ってきた簡易いすを受け取り、それに座った。

「ばか、まだ何もしてねえだろ」

「そこにいる奴らに殴られましたよ」

「おまえ、自分の置かれた状況がまったくわかってないみたいだな」

「知るわけないでしょう。いきなり拉致られてんだから。」

「招待状でも出せば良かったってのか?このばか」

「ばかはいいけど、これはちょっとやり過ぎでしょう」

「やり過ぎはおめえだよ」

余は立ち上がり、ため息をついて言葉をさがした。

洪は余の動きを目で追った。

「おめえ、馬をアホにしちまっただろ」

「え?」

「え、じゃねえよ。馬をトンカチでぶん殴っただろ?」

洪はふっと鼻から息を吐き出して、嘲った。

「おまけに足までバカみてえに何度も刺しやがって」

「俺じゃないっすよ」

「お前だろ」

「ちがいますよ」

「馬は張さんの甥だって知らなかったのか?」

今度は顔をあげて余を見た。

「それは、知らなかったな」

「知らねえじゃ済まねえんだよ」

「済まねえったって、証拠もないのにこれはひど過ぎるだろ」

今度は余が鼻でわらった。

「おまえな、俺らに証拠なんて関係あると思うか?警察じゃねんだぞ」

「そりゃそうか」

「でもな、馬の事だけだったら、ここまでしやしねえよ」

「じゃあ、なんなんすか?」

「張さんの車をパクったろ?」

洪は眉間にしわを寄せた。

「なんのはなし・・・」

「こっちの話は証拠があるんだよ」

余は、洪の言葉を遮って言った。

「どんな証拠だよ?」

「まぬけ過ぎて言う気にもならねえ」

「言えないんでしょ?」

余が尻ポケットから煙草を取り出すと、呉がライターを持って近付いて来た。余はそれを手で制して自分のライターで煙草の先に火を着けた。そして、あまり口を開けずに歯の間から煙を吐き出し、蔑んだように洪を見た。

「てめえらの所為で、俺も仕事が増えて迷惑してんだよ」

余は顔を近づけながら言った。

「せめて金を返せ。そうすりゃ、張さんにだって恩情ってもんがある」

洪は余を睨み付けたまま、口葉だけ笑ってみせた。

「どんな恩情だよ」

 今度は余がふっと鼻で嘲った。

「語るに落ちるってのはこの事だぜ。金はどうした?」

洪は余を睨みつけた。

「とっくに使っちまったよ」

「嘘をつくんじゃねえ。てめえみてえな貧乏人がこんなに早く使い切れるわけがねえ」

「どう思おうがあんたの勝手だけど、嘘じゃねえよ」

「そうか。どうやら、助かる気がないみたいだな」

 洪は口をきっと真一文字にむすんだまま余を睨み続けていた。

余はゆっくりと立ち上がり、煙草を床に落として踏み付けると、突然その体躯に似合わないすばやさで拳をふりあげ、洪の頬にたたきつけた。バチンという音がして、呉は思わず顔をそむけた。

「おい、お前とよく一緒にいた日本人は今どこにいる?」

 洪は血だらけの口をゆがめた。

「何で日本人なんか探してんだ?」

「おめえとそいつがやったって証拠があるんだよ。どこへ行ったか言え」

「知らねえよ」

「そうか」

 余はポケットから洪の携帯を取り出して、あちこちのボタンを押し始めた。

「こういう時のためにも、携帯はロックしておいたほうが良いぞ」

 洪は余をにらみつけた。

「勝手にさわるなよ」

「あった」

 余は携帯の画面を洪に見せた。

「花房ってそいつだろ?」

 余は花房をファーファンと中国語読みで発音した。

「ちげえよ」

「とぼけんなよ。日本人っぽい名前はこれしかねえ」


 花房とKAKAはチェックインを済ませると、空港の二階にあるフードコートで休んでいた。

 花房は冷たいミルクティーを五杯飲んで水っ腹になっていたが、のどの乾きは一向におさまらなかった。KAKAにもう一杯買って来てくれるように頼んだが、もうやめた方が良いとたしなめられた。仕方がないので目をつむってみたが、だるさが先にたって寝入ることもできなかった。KAKAはファッション雑誌をぱらぱらとあまりおもしろくなさそうにめくっていた。

 花房は目をあけ、携帯を取り出した。

「携帯をどうするかな」

「解約してないの?」

「プリペイドだから解約とかないんだ」

「そうなんだ」

「誰かに使われないように、壊してからどこかに捨ててくる」

「わかった。」

花房は両方のひじ掛けにつかまって、やっとのことで立ち上がると、自分のわきに立て掛けてあったギターをKAKAの手がすぐとどく所へ移動した。KAKAの肩を軽くさわって「すぐ戻る」と言った。

 エレベーターが階下につき、外に出たところで携帯が鳴った。液晶パネルを見ると、電話は洪からだった。

「もしもし、どうした?」

「花房か?」

低い声は花房の名前を中国語で発音した。嫌な雰囲気を感じて、一瞬切ってしまおうかとも思ったが、声の主を確かめたい気持ちが勝った。

「誰?」

「余って者だが、知ってるな」

胃をぎゅっと掴まれたような気がした。花房が黙っていると、しびれを切らせたように余が言った。

「どうなんだ?」

「知ってる」

「俺がこの電話で話してるって事の意味がわかるか?」

 洪がどこかで落とした携帯を余が親切にも届けてくれようとしているのだと思いたかったが、その可能性はほぼないだろう。

「何だって言うんだ?」

「金を返せ」

「金?」

「張さんの車を売った金だよ」

「車なんて知らねえよ」

「とぼけんじゃねえ、台中の李に売ったアホみてえな外車だよ」

 あの車は張の車だったのか。

花房の背筋を冷たいものが走った。

「使っちまったなんて言い訳は通用しねえぞ。昼までに金を持って林森北路と錦州街の交差点に来い。一時間を過ぎたら、そこに洪の死体を置いておくからな。」

 辺りは完全に無音になった。

 一時間後には予約した飛行機が日本へ向けて飛び立つことになっている。KAKAとの新しい生活が掴めると思った矢先にこのざまだ。

 花房の耳に余の声が響いた。

「おまえ、洪より金を採るってんじゃねえだろうな。」

急に雑踏の騒音が戻って来たのと同時に、怒りの震えがきた。花房は携帯を床に叩き付けると、何度も足で踏みつけた。液晶画面が割れ、完全に光を失っても踏みつけ続けた。

 花房はなんとか気を落ち着かせ、フードコートにいるKAKAのところへ戻った。

 事情を説明する間、KAKAは黙って花房の目を見ていた。

「行かないほうが良いと思う」

「そういうわけにはいかないよ。日本へ帰れるようになったのは、洪が金をつくってくれたおかげだからな。終わったらすぐに追いかけるから」

「無事に帰って来られると思えないよ」

「命までは取られやしないよ」

「そんなのわからないわよ」

「でも、取られない方に賭けるしかない。とにかく先に行っててくれ」

「もし賭けに負けたら、私はどうしたら良いの?」

「しばらく日本にいても台湾に帰って来るくらいの金は残るよ」

あまりにも自分勝手な言い方をしてしまったので、KAKAに責められるだろうと思ったが、KAKAはそうはしなかった。

「お金、持っていかないの?」

「金を渡したら、なにもかも無駄になる」

 KAKAはテーブルに目を落とし、しばらく考えていた。

花房はKAKAが日本に行くのをやめると言い出すのではないかとはらはらしていたが、表情には出さないようにKAKAを見ていた。

 やがてKAKAは自分のバッグの口を開け、花房が預けた金の入った封筒を花房の前に置いた。

「だから、金を持って行ったら洪の好意も無駄になるだろ」

花房は初めてKAKAにむかって語気を強めたが、KAKAは気にせずに決めつけるように言った。

「お金を持って行かなかったら、絶対に無事には帰れない」

まっすぐに目を見られて、花房は黙った。

「とにかく、これは持って行って」

「KAKAはどうするんだよ?」

「少しは自分の貯金もあるから大丈夫」

「そんなの持ってたのか」

「へそくりよ」

KAKAはにこっとわらった。花房はわらい返そうとしたが、うまくいかなかった。

 そのまま二人は暫く黙っていた。

「書くもの持ってる?」

「うん」

KAKAはかばんからボールペンを出してテーブルの上に置いた。

花房はナフキンに電話番号を書いてKAKAの前に置いた。

「これ俺の兄貴の携帯の番号。日本に着いたら、すぐにここに電話して」

「私、日本語は話せないよ」

「エントランスとかバスストップとか短い英語ならうちの兄貴でもわかると思うよ」

「わかった」

花房は立ち上がり、金の入った封筒をズボンのポケットに押し込んだ。ギターケースを肩からかけ、KAKAの手の上に自分の手を置いた。

「じゃあ、東京でな」

 KAKAは花房を見てにこりとした。花房は小さくうなずくと、KAKAの手にふれたまま歩きだした。

このまま手が離れなくなればいいとKAKAは思ったが、中指の余韻だけを手の甲に残して花房は歩き去った。

 花房はKAKAの前では何とか格好をつけてみたものの、本当は恐怖でいっぱいだった。

余から電話がかかってきてから、足の震えがずっと止まらなかった。すぐに逃げ出したいほど恐かった。

しかし自分にあれだけ良くしてくれた洪を見捨てたら、一生後悔することは目に見えている。行けば、そうとう痛い目にあわされるだろうが、それでもKAKAとの新しい生活が日本で待っていると思えば、なんとか耐えられるはずだと自分に言い聞かせた。

 KAKAはしばらくそのまま座っていたが、やがて立ち上がった。

 一階に降りるエスカレーターの途中で出発の文字が目に飛び込んできた。その二文字に視線が釘付けになったが、すぐに見えなくなった。


 余に指定された林森北路と錦州街の交差点を少し通り過ぎたところで花房はタクシーをすてた。

 タクシーが行ってしまうと、ポケットに入れた金の入った封筒を下着の中へ押し込んだ。  

煙草をくわえて火をつけようとしたが、手が震えてなかなかつかなかった。なんとか火をつけ、煙を吸い込むことは出来たものの、いてもたってもいられない気持ちが押さえられず、すぐに足下に投げ捨てた。

 交差点に向かって歩いて行くと、見た事がある男が携帯を覗き込んで立っていた。男は楊だった。花房は口を横に広く、少しだけ開けて大きく息を吐き出した。

 楊は自分を睨み付けるように立っている花房に気付いて携帯をしまった。

「久しぶりじゃんか」

「ちんちろりんの負け分を返せよ、おっさん」

「余裕こいてられんのも、今のうちだぜ、小僧」

楊は首を少しだけ振って、行く方向を示した。

 目隠しか何かをされて車でどこかへ連れて行かれるのではないかと思っていたので拍子抜けがしたが、かえって不気味だった。楊がもう一度首をふったので、花房はしかたなく楊が示した方向に歩きだした。

 しばらく歩いてキャバクラがいくつも入ったビルの前に着くと、楊は花房に先に行けというように、奥に見えているエレベーターに向けてあごを突き出した。

花房は楊をにらみつけてエレベーターに向かった。

 楊が上階へ向かうボタンを押すと、エレベーターのドアが開いた。逃げだすのであれば最後のチャンスだった。

 この男一人をぶちのめすだけなら、何という事はない。しかし、俺が逃げ出したら、その瞬間に洪の命運は尽きる。やはり行くしかない。

 花房が乗り込んで入り口の方へ向き直ると、後から楊も乗り込んだが、そのまま花房に向かい合って立った。楊が後ろ手に階数のボタンを押すとドアが閉まった。

「手間かけさせやがって」

楊は舌打ちをして花房を見上げた。

花房には手間の意味がわからなかったので、何も言わずに階数を知らせる光を見つめた。

 再びドアが開くと楊は花房の袖を掴み、外へ出た。花房はすぐに楊の手を振りほどいたが、楊はもう一度袖を掴んだ。花房は諦めて楊についていった。楊はキャバクラとキャバクラの間にある目立たないドアの前まで花房を引っ張って行き、中へ押し込んだ。 

中は照明がついておらず、廊下からの光だけが入口近くの床を照らしていたが、楊が素早く部屋から出て背後のドアが閉めると真っ暗になった。

花房はしばらくそこに立ち尽くしていた。少し目が慣れてくると、そこは倉庫らしいという事がわかった。酒のケースや炭酸ガスのボンベが壁際に並んでいる。

 もっと目が慣れてくると、部屋の隅に人のようなものが横たわっているのが見えた。

花房はそうっとギターを壁に立て掛け、おそるおそるそれに近付いた。

ポケットを探ってライターを取り出して火をつけた。人だった。

腕をゆっくりと倒れている人の形をなぞるように動かすと、首のあたりに刺青が見えた。 

花房の髪の根が一気に締まり、呼吸が荒くなったのが自分でもわかった。

花房はゆっくりとひざをつき、脈があるのかを確かめようと手を伸ばした。

「生きてるよ」

ビクっとして思わず手を引っ込めると、その勢いでしりもちをついた。

「びっくりさせるんじゃねえよ」

花房はしりもちをついた事をごまかすように、言って、またライターの火をつけた。

洪はにやりとして見せたが、その顔はあちこちが腫れ上がっている。

「日本に帰ったんじゃねえのかよ」

花房はどうこたえて良いのかわからず、黙って床にあぐらをかいた。

洪は「たばこくれ」と言って、ひじを支えにして上体を起こし、壁に寄りかかって座った。

「のこのこ来やがって」

 花房は何も言わずに煙草の箱とライターを洪のももの辺に投げた。洪は一本取り出し、火をつけて「しかし」と言って煙草の箱を投げ返した。

「なんでばれたんだろ」

「知らねえよ、どうすんだよ?」

「それを考えるのは、お前の役目だろ」

花房は手を伸ばして煙草を拾い上げた。

暫く沈黙が続いた。

 突然、大きな音がして、呉を先頭に五人の男達がどかどかと入って来た。パッと電灯がつき、二人の男達が洪を壁から引き剥がすと、床にねじ伏せた。別の二人が花房の両腕をそれぞれ掴み、洪と同じように床にうつ伏せにさせて上から押さえ付けた。

 後から入ってきた余は仁王立ちで二人を見下ろした。

花房がやっとのことで首を回して洪を見ると、洪は口のはじでにやりと笑って見せた。

 男達が入り口の方へ向き直り、姿勢を正したので、洪は入り口に目をやった。

一人の老人が数人の取り巻き達と一緒に入ってきた。

「張さん」

「おつかれさまです」

 その場にいた男たちが次々に挨拶をした。

 花房はなんとか首を逆に回して入口の方に向けた。

 この男が張か。

 張はベージュ色のチノパンをはき、白地に細い青の横線が入ったポロシャツを着ていて、まるですぐ近所を散歩する為に出てきたかのようないでたちだった。

 張がこの場に出てきたということは、花房と洪にとって良いことなわけはないだろう。

花房の額から嫌な汗が流れた。

 もう一度首を反対方向に回して洪を見ると、洪はまたにやりとして見せた。

 花房は洪がどうして笑って見せたのかがわからず「何?」と声を出さずに訊いたが、洪は何もこたえなかった。

張は男達の挨拶に全く反応せず、壁に立て掛けられているギターを見て、余に訊いた。

「何だ、これは?」

 余は肩をすくめ「何でしょう」と言ってギターに手を伸ばした。

「触るんじゃねえ。俺のギターだ」

急に花房が声を出したので、洪以外のそこにいた全員が花房を見た。

張は少しの間花房を値踏みするように見ていたが、すぐに洪に視線を移した。

 張は手のひらを上にして右手を横にいたボディーガードと思しき男の前に差し出した。

男はそこへ拳銃を載せた。

洪と花房は必死に張の顔を見た。

張は銃把を握った手をだらりと下にさげ、洪のすぐ前まで来て洪の目を見据えた。

洪が視線を銃に向けると、張は口をひらいた。

「最期に言っておきたい事はあるか?」

 洪はゆっくりと頭をもちあげ、張をまっすぐに見て言った。

「ああ、ある」

「なんだ?」

「こいつを助けてやってくれ」

花房は力をふりしぼって顔を持ち上げて叫んだ。

「なに言ってんだ、おまえ。おい、じじい、やめろ」

 張は意外そうな顔をした。

「命乞いはしないのか?」

「てめえみてえなクズのヤクザ者に頼み事なんざしねえよ」

「やめろ、洪。謝れ、謝っちまえよ」

花房は必死に言ったが、洪は張を見上げたまま何もこたえなかった。

「わかった」

張はそう言い終わるか終わらないうちに、洪の頭に三発、銃弾を撃ち込んだ。

 あっと言う間もなかった。

その場はまるでビデオの映像を一時停止したかのように凍り付き、全ての音が一切消え去った。やがてそれは無音をとおり越し、耳鳴りの様な不快な響きになっていった。コンマ数秒の間の事だったのだろうが、それはとてつもなく長い時間続いたように思えた。そして、その響きが最高潮に達した時、急に全てが動き出し、洪の頭から硝煙が立ちのぼって墨汁のようにどす黒い血が溢れ出てきた。その血がゆっくりと洪の頭を伝って床まで落ち、それが拡がりはじめると共に周囲の音がゆっくり戻ってきた。

 我に返った花房は、おおーと獣のような叫び声をあげ、自分を押さえ付けている男達をふりほどこうとしてもがいた。一人の男が急いで花房の肩甲骨と肩甲骨の間にひざをねじ込んだので、口が床に押し付けられて何も言葉を発する事が出来なくなった。花房はくぐもった音をできる限りに発し、両目から涙を流したが、それは何の意味もなかった。

 張はボディーガードに拳銃を返すと、花房の目の前まで歩み寄った。

「金はどうした?」

花房は出来る限り首を持ち上げて次々とその場にいる男達をにらみつけた。余が後ろから足で花房の腹を小突いた。

「金はどうしたって訊いてんだよ」

「うるせえ、知るか、このダニ野郎」

 花房は涙声を張り上げた。

 余は小さく舌打ちして、男たちに花房を起き上がらせるように言った。

両腋を男たちに支えられて立ち上がった花房の体を余はあちこちまさぐり、金を探した。最後に嫌な顔をしながら下着の中へ手を入れ、封筒を引っぱり出した。余は封筒の中をのぞき、金が入っているのを確認すると、金を抜き出して張に渡した。張はそれを受け取って、おおよその金額を値踏みしてからボディーガードに渡した。

「これだけか?」

花房は黙って張をにらみつけた。

「残りは使っちまったのか?」

余が黙っている花房の腹を殴った。うなり声をあげた花房に余が言った。

「答えろ」

花房は余をにらみつけた。

「ああ、使っちまったよ。だったらどうすんだ、この豚野郎」

余はもう一度花房の脇腹を殴った。

思うように息ができずに苦しむ花房を見ながら、張はボディガードに何か言った。

ボディガードは無表情のままうなずいて店を出て行った。

「こいつはどうしましょか?」

余が訊いたが、張は返事をせず花房を見ていたが、やがて余へ顔を向けて口をひらいた。

「お前も一度に死体が二つじゃ手間がかかって仕方ないだろ」

余は少し嫌な予感がして慌てて言った。

「あ、いえ、べつに大丈夫ですよ」

「こいつはお前のところで働かせて金を返させろ」

「え、私が面倒をみるんですか」

「そうだ」

 嫌な予感が当たって、余はがっかりした。

 洪の野郎、死に際にまでよけいな事を言って俺に迷惑をかけやがって。

 張は視界の片隅でボディガードが戻ってきたのを確認しながら、言葉を続けた。

「邪魔な奴はいなくなったし、人も増やしてやったんだ。当然おまえの売り上げは上がると思ってていいな?」

 余は心の中で舌打ちをしたが、それはおくびにも出さずに仕方なくうなずいた。

 張は花房に向かって言った。

「聞いてたろ?おまえはこれから余のところで働いて、使っちまった分と俺への慰謝料を稼いで返すんだ。せいぜい友達に感謝するんだな」

花房は荒い呼吸を繰り返しながら張をにらみつけたが、張はそれを全く意に介さずに続けた。

「金の方はそれで解決だが、俺の車を盗んだ事も解決しなくちゃならない。そうだろ?」

 余はまた何かを言いつけられるのではないかとはらはらして続く言葉を待った。

「俺は車が趣味なんだが、ある日突然それを取り上げられた時のショックがわかるか?」

 張の芝居がかった物言いに、余はうんざりした。

「お前はギターを弾くみたいだな」

花房はやっとの思いで顔を上げ、張をにらみつけた。

「安心しろ。そんな目でにらまなくてもギターはこのまま返してやる」

張が手を出すと、ボディガードが斧を張に渡した。火事の時に窓ガラスを割るために廊下に設置されているものだった。

「だが、弾くのはもうあきらめてくれ」

そう張が言うと男達は花房の左袖をまくりあげて、花房を床に腹ばいに押しつけた。

「ギターを弾くのによく使う手はどっちだ?」

そう訊かれて余は少し考えた。

「左ですかね」

「そうか、じゃあ左だな」

「ふざけるんじゃねえ。やめろ、バカ野郎」

花房が叫んだが、誰も耳を貸そうとはしなかった。

「張さん」

「なんだ?」

「俺にやらせてください」

余が言うと張はにやりとして斧を差し出した。

 張は余が汚れ仕事を買って出たのだと思ったのだが、余は厄介者を押し付けられた鬱憤を晴らす為に言い出したに過ぎなかった。

余は斧を受け取り、間髪入れずに振り上げた。余にむかって花房は何かを叫ぼうとしたが、それが声になる前に余は斧をふり下ろした。斧は花房の左手首の少し上の肉と骨を難なく断ち切って、リノリウムの床に食い込んだ。

花房の左腕に大きな鉄の塊が落ちてきた様な衝撃が走り、その直後今まで経験したことのないような激痛が骨を伝って脳天にまで突き抜けた。

「ぐおー」

 花房の視界は火をつけられた写真が燃えあがるかのように赤くなり、すぐにそれが白くなった。やがてそれがゆっくりと光を失ってゆき、完全に闇に変わった時、花房は失神した。


 余と呉と楊の三人は死体を一つと左手を一つ始末したあと、車で山を下っていた。

 北投の町に入った頃、運転している呉が口を開いた。

「これで一つ肩の荷がおりましたね」

 余は後部座席からバックミラー越しにぎろりと呉をにらんだ。

「それどころじゃねえよ。馬がいなくなったと思ったら日本人の小僧を押し付けられるとはついてねえ」

「それはそうですね。でも、洪を見つけたんで張さんの怒りも収まるんじゃないですか」

「そりゃそうだな」

「いやあ、余さんはこれからも大変ですけど、俺もまた頑張りますんで、何でも言ってくださいね」

黙って聞いていた助手席の楊は、あまりにもあからさまな呉のゴマすりに開いた口が塞がらなかった。振り返って余の顔を見たが、余は呉の言葉に満足げに頷いていたので、何も言わずに前を向き直った。

 道が下り坂から平たんになってきたあたりで、余は携帯の電源を入れた。しばらくすると携帯が震えた。液晶画面は店からの不在着信が五件有った事を伝えていた。面倒くさそうな顔をしながらも余はリダイヤルボタンを押した。すぐに女の一人が出た。

「ストーカーみてえに何度も電話して来やがって、何なんだ?」

「すいません。あの娘が来てるんですよ」

「誰だ?」

「メイリンですよ」

 逃げたデリヘル嬢が来たからどうだっていうんだ、と言って電話をたたき切ろうかとも思ったが、一度は自分の女にしようと思った事もあるメイリンが何の用事で現れたのかには興味があった。

「何の用だ?」

「余さんに話があるって言ったっきり黙ってるんです」

「二十分で行く」と言って電話を切った。

 車が店の前に着き、三人は車を降りた。

楊は車の後ろにまわってトランクを開けるた。土にまみれたスコップが二本と花房、花房のギターが入っていた。花房の口元に手を寄せてみると、かすかに呼吸しているようだった。

「生きてます」

「面倒くせえな。生きてんじゃねえよ」

余はいらだちをぶつけるようにトランクのふたを乱暴に閉めた。

「でも、ああ言われちまった以上仕方がねえから、陳のヤブ医者のところへ連れてけ」

「わかりました。」

「お前は俺と一緒に来い」

余は呉に言った。

「はい」

 楊はうんざりしたが、すぐにあきらめて訊いた。

「その後はどうしますか?」

「ここに連れてこい」

「はい」

「目を覚ましたら、何時でもいいから電話ししろ」

「わかりました」

楊は二人にかたちばかり頭を下げると、車に乗り込み、発進させた。

「こき使いやがって、ばかやろう」

バックミラーで余と呉が店に下りて行くのを確認してから、思いきり毒づいた。


 余が店に入ると、女の一人が奥の事務所を親指でさした。

 余はドアを開ける前に眉間にしわをつくり、わざと不機嫌そうな顔をしてから中に入った。

 KAKAは余の事務所のいすにぽつんと座っていたが、余に気付いて立ち上がった。

「こんばんは」

 余はKAKAに目を合わせずに向い側のいすに座り、事務所の入り口に立っていた呉に奥の部屋のソファを指差してみせた。呉はKAKAの後ろを通って奥の部屋へ行った。

 煙草に火をつけ、大きく煙をはきだしてから、余は上目遣いにKAKAと目を合わせた。

「久しぶりじゃんか」

「ごぶさたしてます」

「まあ、座りなよ」

「はい」

KAKAが座ると、余はまだ長い煙草を灰皿に押し付けた。

「今日はどうした?」

「はい」

KAKAはごくりとつばを呑み込んでから、余の目をまっすぐに見て口をひらいた。

「今日、花房という者が伺ったとおもうんですが」

KAKAは一度言葉を切って余の顔を見たが、余は憮然としたままKAKAの目をまっすぐに見返しているだけだった。

「来ていませんか?」

KAKAがもう一度訊くと余は「知らねえな」と口だけを動かして言った。

「そうですか、わかりました」

知らないはずはないのに、からかっているだけだ。

そう思ってKAKAが頭を下げて立ち上がろうとすると、余が言った。

「俺のとこには来てないけど、張さんのところには来たかもしれねえな」

KAKAは身を乗り出した。

「来ましたか?」

「そうせっつくなよ。なんか張さんのところに張さんの車をかっぱらった奴が来るとか来ないとか聞いたけど、そいつの事かな?」

「そうだと思います」

「そうか。で、そいつがどうした?」

「余さんの力で無事に帰してほしいんです」

 余は深く背もたれに寄り掛かり、腕を組んでじろりとKAKAを見た。

「ストレートに来たな」

 KAKAはなんとか視線を逸らすまいとして、まっすぐに余を見続けていた。

「お前とそいつはどういう関係なんだ?」

KAKAは一瞬何と言ってよいかわからず、視線を机に落としたが、すぐに顔をあげた。

「友達です」

「友達?」

余はふっと鼻で嘲い、からかうような目でKAKAを見た。

「ずいぶん友達思いなんだな」

余は煙草の火を着けてから続けた。

「ここが嫌で逃げ出したくせにここに顔を出す以上、ただの友達って事はないだろ?」

 わかっているのならわざわざ訊く必要はないだろうに。嫌な男だ。

「彼氏ってことか?」

「そんな感じかもしれません」

「そんな感じ?やってんだろ?」

ばかばかしいので黙っていると、余はさらに続けた。

「そいつはお前がここで働いてた事を知ってんのか?」

「はい」

「へえ、よっぽど好かれてるか、お前のテクにいかれちまったかのどっちかだな」

 どっちでもかまわないが、こんな話をしている場合ではない。

「力になってもらえませんか?」

余の顔から笑みが消えた。

「むしが良すぎるんじゃねえか?」

「わかってます。ただでとは言いません」

「へえ、いくら出すんだ?」

KAKAはかばんから封筒を取り出し、余の前に置いた。余はKAKAの目を見ながら封筒を手に取った。中身を時間をかけて確かめ、自分の前に封筒を置いた。

「ずいぶん持ってんじゃねえか。これはそいつがお前に寄越した金か?」

「ちがいます。私のお金です」

「へえ。そいつのために全部使っちまって良いのか?」

「はい」

「そうか。自分の女が股間で稼いだ金で助けられるなんて、男冥利につきるってもんだな」

 KAKAが黙っていると、余は一度目を机の上におとし、それを奥の部屋にいる呉に移した。呉は視線を合わせられて、どうしてよいかわからない顔をしたが、余はそのまま何かを考えていた。

 余はいくら言い寄っても自分をそでにし続けて来たKAKAが男の為に頼みごとをする姿に苛立っていた。

しかし、これを鴨がねぎを背負って現れたのだと考えれば、追い返してしまっては葉も子もない。ここはひとつ、金と女の両方をいただいてやるか、と考えをまとめて余はゆっくりと視線をKAKAに戻した。

「とりあえず張さんのところにいる知り合いに電話して様子を訊いてやるよ」


 楊は汚い診療所の待合い室にある、あちこちがガムテープで補修された粗末な長椅子に座り、貧乏ゆすりをしていた。

 あのチンピラ二人を見つけてきたのは自分だというのに、ねぎらいの言葉一つなく手柄を呉に持っていかれた挙句、日本人の世話まで押し付けられた。おまけに気狂いじじいが人を撃ち殺すところまで見せられて、しばらくは飯がのどを通りそうもない。せめてここの治療費だけは、きっちり払ってもらえるという言質を余からとらなくてはならない。

「めんどうくせえな」と呟いて拳で壁を叩くと、診察室の中から「壁を叩くな、バカ野郎」と陳の声がした。

 この診療所の主である陳は歯科医だった。専門の歯科以外の医療行為はすべて自己流なので必ずしも良い結果を出すとは限らなかったが、金を払えば事情を訊かずにどんな患者でも受け入れてくれるので、この業界では重宝されていた。もっとも、いつ洗濯したのかわからないほど薄汚れた白衣をだらしなくひっかけた乱杭歯の六十男に歯の治療をしてもらいにくる人間がいるとは思えないので、むしろこっちが本業なのかもしれない。

 楊は立ち上がると、ノックもせずに診察室のドアを開けた。

「先生、まだ終わらないんすか?」

 陳は花房の腕の治療をしながら、顔も上げずに言った。

「おまえはバカか?まだ始めてから十分も経ってないのに終わる訳ないだろ。おとなしく外で待ってろ」

花房の意識はまだ戻っていないようだった。

「そいつどうなるんだよ?」

「どうって何が?」

「助かるのか?」

「良くなりゃ助かるし、悪くすれば死んじまう」

「あたりめえじゃねえか。そんなの俺でもわかるよ」

 楊がうんざりした顔で診察室のドアを閉めた時、携帯が鳴った。余からだった。

「はい。おつかれさまです」

「今日そっちに張さんの車をかっぱらったっていう日本人が行ったろ?」

「は?行ったっていうか、俺が連れてきたんですけど。余さんがそうしろって言ったんじゃないすか」

「そいつ、どうなった?」

「え?余さんに云われた通り、陳の病院に連れて来てますけど」

「なるほどな」

「はあ?」

「張さんは何て言ってる?」

「え?いや、余さん達と一緒に出てきてからは何も言われてませんけど」

「そうか、それはそうだろうな」

「え?何かあったんですか?」

「わかった。また連絡する」

「どういう事なんです?なんかさっきから話が見えないんすけ」

話している途中で電話は切れた。

「なんなんだよ、いったい」

楊は舌打ちをして、ポケットに携帯をつっこんだ。

 余は電話を置くと、もう一度KAKAの向側のいすに座った。煙草をくわえ、火を着けながら言った。

「聞いてただろうが、そいつはお前の言うとおり、張さんのところへ行ったみたいだな」

 KAKAはほっとした。すくなくとも、どこかへ埋められてしまったりはしていなそうだ。

「そうですか」

「で、どうする?」

 恩を着せたいだけなのか、何か目論みがあるのか、何のためにさっきも言った事をもう一度訊くのかわからなかったが仕方がない。

「なんとか助けてもらえませんか?」

「そうか」

 余はKAKAの目を見つめたまま煙草の灰を灰皿に落とした。

「まあ、そうだろうな。このままじゃ無事に帰って来るのは、まず無理だからな」

 それはその通りだろう。やはり空港で何がなんでも行かせないようにするべきだったのか。いや、何を言っても花房は行くと言ってきかなかっただろう。

「でもな、お前の男がかっぱらった車は、そんじょそこらの車じゃねえんだよ」

「はい」

「はいって、本当にわかってるのか?」

KAKAは答えにつまって黙った。

「お前が持って来た金じゃ全然足りないんだよ」

 KAKAは、花房が持って行った金はどうしたのだろうと思ったが「はい」とだけ答えた。

「しかも、ガキの万引きじゃないんだから、金を返せばそれで良いってわけにはいかねえんだよ。俺がお前に頼まれて、どうにかしてやろうと思ったら、張さんに金を渡してなんとかこれで勘弁してくださいって話をするわけだ」

「はい」

余は灰皿に煙草を押し付けてため息をついた。

「だからさ。わかってねえみてえだからはっきり言うけど、俺が言ってるのは、お前の男を助けてやって、俺に一体何の得があるのかって事だよ」

 何を言えば良いのか、KAKAはいやになるほどわかっていたが、敢えてわからないふりをしてこう言った。

「わかりません」

余はわざとらしく眉をひそめて見せた。

「わかりませんじゃ困るな。それじゃどうしようもねえよ」

「どうしたら良いですか?」

 余は芝居がかった動きで背もたれに寄りかかると、ちらっと呉を見てから視線をKAKAに戻した。

「俺が飽きるまで、俺の女になれ」

 KAKAはあきれ返ったが、この男らしい言い方だ。呉が余の言葉を聞いて好色そうににやりとした。

 KAKAは身の毛がよだったが、他に方法が無いのならば仕方がない、と腹をくくった。

「わかりました。約束は絶対にまもってくださいね」

「信用しろ」

この男を信用などできるはずもなかったが、賭けてみるしかなかった。


 稲妻の様な激痛で花房は目を覚ました。

なんとか首を動かして痛みの元を見ると、左手があるべきところにぶ厚く巻かれた包帯が見えた。

 やはり夢ではなかったのか。

 少し体を動かすごとにうめき声を上げながら辺りを見回すと、どこかの部屋の床に転がされているらしい事がわかった。

頭の上の方から大きないびきが聞こえて来た。花房は右腕を下にしてなんとか体を起こし、すぐわきにあったものに背をつけて寄りかかった。首をまわしてみると、花房が寄りかかっているのはソファの背もたれの裏側で、ソファの上に誰かが寝ているのだとわかった。

呼吸をする度にひりひりする程のどが乾いていたが、とてもそれ以上は体を動かせそうになかった。

先端に血が滲んだ包帯の先をながめてみると、あの時の事がはっきりとよみがえってきた。

 洪が死んでしまった。どう考えても自分の所為だ。あんなに良くしてくれた友達は今までいなかった。俺が日本へ帰ってから楽をしたいが為に言った我がままにつき合って洪は殺された。

 ズキンとまた激痛が走った。

 そうだ、KAKAはどうしただろうか。無事に日本へ行き、兄貴と会えただろうか。洪を死なせ、KAKAにも不安な思いをさせてしまった。

 そう思うと涙が溢れてきた。

 ちくしょう、なんでこんな事になっちまったんだ。

 皆で馬鹿騒ぎをしたのが、遠い昔のことのように思われた。

「おい」

頭の上から声が聞こえた。はっとして声の方を見ると、楊がソファの背もたれ越しにこっちを見ていた。

「うるせえよ」

花房は反射的に後ずさってソファから離れた。

「てめえ」

「てめえ、じゃねえよ」

 楊は花房にとりあわずに頭を掻きながらソファから下りて部屋の電気をつけた。そこは、さっきまでKAKAがいたカラオケ店の奥の部屋だったが、花房は初めて来たのでどこだかわからなかった。

 楊は部屋の隅に置かれた冷蔵庫を開け、水のペットボトルを取り出して花房に差し出した。花房は視線を楊の目から離さずに右手でそれを受け取った。拒否したいところだったが、のどの乾きは限界だった。キャップを開けるために、左手でボトルを押さえようとすると、傷口を包んだ包帯の先がボトルに当たり、痛みで反射的に腕を引っ込めた。また泣きたい気持ちにかられたが、楊に弱味を見せるわけにはいかない。ちっと舌打ちをして、両足のももの間にペットボトルを挟んで右手でキャップをねじった。 

 一口飲むと、水は体中に染み渡るようだった。そのままペットボトルの中の水を全て飲み干し、大きく息をついた。

 楊はゆっくりと、続きになっている事務所へ行き、ビジネスフォンの受話器を手に取った。


 KAKAは街灯から差し込む光が作った天井の模様をぼんやりとながめていた。

 この部屋へ連れて来られてから何時間経ったのかわからないが、外から鍵をかけられていて、出て行く事はできなかった。

 日本式に言えば六畳ほどの広さに、簡単なシャワー室がついているだけの部屋だった。家具らしきものは、粗末なベッドと二人がけの小さなテーブルセット、それにワンドアの古い冷蔵庫があるだけだ。台北市内にはよくあるタイプの部屋なので当たり前と言えば当たり前だが、つい昨日まで花房と一緒に住んでいた部屋に似ていた。

 花房はどうしただろうか。せめて、五体満足のまま生きていてほしかった。

 KAKAがまだ小学生だったころ、父親が運転する車が事故を起こし、必死に祈ったのにもかかわらず、両親は死んでしまった。その時を境に祈るのはやめていたのだが、今は自分がしたことが少しでも花房と洪の助けになっていてくれれば、と祈らずにはいられなかった。

 

 楊は受話器を置き、花房の方を向いた。

「これから余さんが来るからな」

床を見つめていた花房は、冷たい視線を楊に投げかけた。

「そんな目で見るなよ。俺の所為でこうなったわけじゃないだろ」

花房は再び楊から視線をはずして床を見た。

「おまえな、余さんにそんな態度をとったらヤバいぞ」

 楊は花房がどうなろうがかまわなかったが、これ以上面倒に巻き込まれるのが嫌だった。 

余にこの男がこんな態度で接すればただでは済まないだろう。張に何と云われていようと、適当な理由をつけて殺してしまうこともあり得る。そうなった時、下手をすれば自分にお鉢がまわって来るかもしれない。断れず、人殺しに手を貸したとしても、それ以降余に重用されるようになるとは思えないし、もし警察にバレた時に余が助けてくれるとも思えない。どっちみち自分の得にはならない。

 楊は気持ちが急いて言葉を続けた。

「余さんはおまえの事を完全に迷惑がってる。お前が余さんの云う事を聞かなそうだと思われたら、殺されちまうぞ」

 花房は暫く考えてから、おもむろに、今度は顔ごと楊に向けた。

「余は何しにここへ来るんだ?」

「そりゃ、お前がこれからどうするのかって話をしに来るんだろ」

「どうしろって言うんだ?」

「それは俺にはわからないけど、働いて金を返すって話になってんだから、ここで働くんだろうな」

「ポン引きか?」

花房のばかにしたような言い方に楊はカチンときた。

「なめんじゃねえぞ、小僧。ポン引きの上前はねるよりはましだろ?」

 呉が不機嫌そうにドアを開けて入ってきた。楊はやれやれというように立ち上がった。

「おつかれっす」

 呉はあご先を軽くつきだしてそれに応えると、花房をちらっと見てから楊の向い側の事務いすにどかっと腰をおろした。呉は花房になど何の興味もない様子で、奥の部屋を一瞥したきり何も言わずに携帯の画面を見始めた。楊もいすに座り、机の上にあった雑誌をパラパラとめくった。

 それから三十分ほどして余が店に入って来た。楊はさっきと同じようにだるそうに立ち上がったが、呉ははじかれたように起立した。

「おつかれさまです」

 呉は奥の部屋へすっとんで行き、花房の襟をつかんで無理矢理事務所へ引っぱってきた。 

余はさっきまで呉が座っていたいすに腰をおろし、煙草に火をつけた。自分ではいた煙に目をしばたたかせると、余をにらみつけている花房に言った。

「おめえ、ずいぶんふて腐れてるみてえだが、自分の立場がわかってんのか?」

 花房は憮然としているだけで、何も言わなかった。

 余はしばらくそのまま花房をにらみつけ、居心地の悪い空気がしばらく続いた後、言った。

「わかってないみたいだから、おしえてやるが」

余は煙草を灰皿に押し付け、いすの背もたれに寄りかかった。

「おまえらがかっぱらった張さんの車の代金と、その腕の治療費を返してもらう。そうは言っても、お前にそんな金があるわけ無い事は俺もわかってる。だからここで働いて返せ。自分のアパートは引き払え」

「もう解約した」

「なんだ?」

花房が突然ぼそっと言ったので、余は訊き返した。

「今はアパートは借りていない」

「なんだよ、それ?ばっくれようとしてたって事か?」

 花房が目をふせると、余は舌打ちをした。

「そのままばっくれてりゃ、こっちも面倒はなかったのによ。間の悪い奴だぜ」

 花房は強く唇を引き締めた。

「まあいいや。それなら今日からはここに寝泊まりしろ。当然家賃はもらう。仕事の内容はわかってるな?」

 花房はうなずいた。

「おい、楊」

「はい」

「お前がこいつの面倒をみろよ」

「え?俺ですか?」

「こいつがばっくれたら、お前の責任だからな」

「そんな。責任なんて持てませんよ」

 余は楊を無視して花房に言った。

「お前がいなくなったりしたら、こいつはただじゃ済まねえぞ」

「ちょっと、勘弁してくださいよ、余さん」

楊が乗り出して言うと、呉が楊の尻を蹴った。

「ただじゃ済まねえっていうのが、どういう事なのかはわかってるだろ?」

「はい」

花房がすぐに応えたので、余は少し意外そうな顔をした。

「本当にわかってんのか?」

「はい」

釈然としなさそうな顔をしつつも、余はうなずいた。

「いろいろこいつに教えておけよ」

「はあ」

楊がこたえると、余は立ち上がった。

「おい呉、行くぞ」

「はい」

「おつかれさまでした」

 楊の言葉を背に、余と呉は事務所を出た。

階段を上り、外へ出ると余は立ち止まって言った。

「おまえ、あの日本人から目を離すなよ」

「はい?」

「はいじゃねえよ。あいつは絶対何かたくらんでやがる」

「そうすか?」

「ああ。あんなに素直なの、おかしいと思わねえか?」

「なるほど、たしかに」

「ちゃんと見張ってるように、楊にもよく言っとけ」

「わかりました」

 余が車に乗って去ると、呉はタクシーをつかまえた。行き先を告げて背もたれに寄りかかってから携帯を取り出して楊に電話をかけた。

 楊は光っている携帯の液晶画面をのぞきこむと、舌打ちをして携帯を奥の部屋のソファに向かって放り投げた。事務いすの背もたれに首をのせるように座り、突っ立っている花房にむかって言った。

「座れよ」

花房はすぐ前にあったいすを引っぱり出して座った。楊は上体を起こして、両肘を机の上についた。

「そっちの部屋のソファで寝ろ」

花房は返事をせずに言った。

「携帯、また鳴ってるぞ」

「いいんだ。どうせ呉のバカだ」

楊の煙草を取り出し、一本取り出して口に銜えた。

「ちょっと金を貸してくんねえか?」

花房が言うと、楊は煙をはきだしながら眉をしかめた。

「なんだ?」

「金だよ、金」

 花房は先に血が滲んだ、包帯だらけの左腕を上げて見せた。

「痛くて眠れそうにないから、鎮痛剤を買いたい」

 楊は嫌な顔をして言った。

「ふざけんなよ。お前にばっくれられたら、こっちがやばいんだ」

「ばっくれねえよ。」

花房は肩をそびやかした。

「何もかも全部取り上げられてて、家もねえんだぞ。どこへばっくれるっていうんだ?」

「仲間がいただろう」

「てめえらが殺しただろ」

「他にもいただろ。バンドの奴らとか」

「ああ、でも台北以外にはいない。市内ならどこへ逃げたって、すぐ捕まって殺されるに決まってるだろ?ばっくれねえよ」

「どうだかな」

「それに」

花房は左腕の先を見ながら言った。

「こんな姿で知り合いには会いたくない」


 余は細い階段をふうふう言いながらのぼって行った。

 さっきは邪魔が入って途中になってしまったので、シャワーを浴びて仕切り直しだ。

 四階の踊り場まで上がるとズボンのポケットを探って鍵束を取り出した。その中の一つを大きな南京錠に差し込んでひねった。乱暴にドアを開け部屋の中へ入ると、ドアを閉めてから南京錠を今度は内側にかけた。

 KAKAは窓際に座って外をぼんやりと見ていた。向かいのビルのネオンサインの黄色い光が、KAKAの色の白さをいっそう強調している。

KAKAは余に気付いて一瞥したが、無表情な目をまた外に戻した。余は車のキーをテーブルの上に放り出した。

「おい、挨拶くらいしたらどうだ?」

 KAKAは余の方を向いた。

「花房はどうなりましたか?」

 余は白けて鼻から息をはきだした。

「色気がねえな」

凄みをきかせて言ってはみたものの、KAKAの真剣な視線に気押されて余は言った。

「あいつは生きてるよ」

「本当ですか?会ったんですか?」

 KAKAは自分では気づいていないのだろうが、声のトーンが少し上がっていた。

余は少しがっかりした。

「ああ、張さんのところで働いて金を返すってことにしてやったよ」

「ありがとうございます」

KAKAは礼を言いつつも余の表情から事実を読み取ろうとした。

 してやった、と恩着せがましく言っているが、余の働きでそうなったのか、張の判断でそうなったのかはわかったものではない。いや、それどころか、それが本当だという確証すらなかった。

「ただ勘違いするなよ」

「はい?」

「俺は張さんにあの日本人の話をするのに、それ相応の金を使った。おまえがここにいるのは、あくまでもその代償だ。だから、あいつが張さんのところで働いて金を稼いでも、おまえには関係ない。そのことはちゃんとわかってるか?」

「はい。わかってます」

「それなら良い」

余は満足そうににやりとしたが、KAKAには確認するべきことがあった。

「余さん」

「なんだ?」

「花房が生きている証拠を見せてください」

余は思わず笑った。

「しっかりしてるな。わかったよ、明日にでも証拠を見せてやる」

「ありがとうございます」

「ただな」

余は真顔で言った。

「なんですか?」

「明後日以降に奴がどうなるかは、俺の知ったことじゃないぞ」

KAKAがきっとにらみつけると、余はにやりとした。

「冗談だよ」

 余はKAKAの前に座ると、手を伸ばしてKAKAに触れようとした。KAKAは自分の手をそっと引っ込めて言った。

「花房が生きてるってわかるまでは、契約は成立しないですよね」

 余は憮然としてKAKAをにらみつけたが、KAKAは視線を逸らさなかった。余にここまで毅然とした態度をとることが出来たことに、自分自身でも驚いていた。そしてそれは余も同様だった。

 そのまま余の目を見続けていると、やがて余は諦めたように口から大きく息をはいた。

「わかったよ」


 花房は楊からいくらかの金を借りて外へ出た。楊に一緒に行くと言われたらどうしようかと思っていたが、疲れているのか馬鹿なのか、そうは言い出さなかった。

 騎楼の柱に取り付けられた電話を手に取り、日本の電話会社の番号をプッシュした。オペレーターにコレクトコールを申し込んで兄の電話番号を告げると、しばらく待たされた後、「おつなぎします」という声に続いて兄の声がした。

「どうしたんだ、おまえ?予定が変わったんなら、先に言ってくれないと、こっちだって都合ってもんがあるんだぞ。だいたいお前はいつだって・・・」

 普段はわずらわしいばかりの兄の声を聞いたとたん、花房は涙が溢れてくるのをこらえられなかった。言いたい事をまくしたてていた兄は、花房の嗚咽に気付くとしゃべるのを止めた。

「どうしたんだ?」

花房は鼻をすすりあげ、やっとのことで訊いた。

「KAKAはどうしてる?無事に着いた?」

兄は「え?」と言って黙った。

「すぐに見つけられた?」

「いや、彼女は飛行機に乗ってなかったよ」

「そんなバカな。今朝、ちゃんと空港に行ったんだぞ」

「いや、そう言われてもなあ。航空会社に何度も確認したから間違いないよ」

 KAKAは東京に行かなかった。何故だ?、KAKAが止めるのも聞かずに勝手に空港を飛び出したからなのか?それとも、もう俺は帰ってこられないだろうと見切りをつけたのか?

 花房は、空港で最後に見たKAKAの笑顔を思い出した。

 どちらも当たっていない気がした。

「おい、おまえ聞こえてんのか?」

 兄の声で我にかえった。

「あ、ああ。ごめん。ちょっと、またかけるわ。ごめん」

一方的に言って電話を切った。

 すぐにKAKAを探さなくてはならない。しかし、その前にする事がある。


 呉はタクシーの運転手に店に戻るよう告げた。何度電話をかけても楊が出ないからだった。

 いらいらしながら店の入っているビルの向かい側でタクシーを捨てた。道を渡ろうとして、何台かの車をやり過ごしていると、反対側の歩道を花房が歩いているのが見えた。

「あの野郎」

すぐに捕まえようと思ったが、次々と車が来て道を渡れず、呉は仕方なく花房に平行して歩きだした。

 なかなか車が途切れず、結局五ブロックほど歩いていたが、ある角まで来た時、呉が通りかかったタイミングで花房が歩いている側に渡る信号が青になった。すぐに横断歩道を渡り始めたが、花房はその角を呉がいるのと反対の方向に曲がり、数軒先にある警察署に入ろうとしていた。呉は慌てて駆け出したが、すんでのところで花房を捕まえそこなった。

 呉は舌打ちをして、すぐに携帯で余の番号を呼び出した。

 警察署の内部は、時間が時間だけに閑散としていた。五十がらみの警官が、机に足を載せてぼんやりテレビを見ていた。バラエティ番組の音声がフロアに響いている。

「すみません」

花房が声をかけると、警官はやれやれといった様子で立ち上がり、未練がましくブラウン管の画面をちらちら見ながらのろのろと歩いて来た。

 垢じみた襟の、よれよれの制服の裾が、だらしなくズボンから出ている。

「何の用?」

 花房は他に誰かいないのかを確かめるように奥の方を見たが、誰もいなかったので仕方なく言った。

「殺人の担当の方はいますか?」

「殺人?」

警官は花房が首から吊っている左腕の先を無遠慮に見ながら訊いた。

「なんで?」

「殺人があったんです」

「見たの?」

「はい」

 警官は面倒くさそうにメモ帳を手元に引き寄せた。

「あんた、名前は?」

「花房です」

「ハナ?何?」

「花房です」

「あんた、日本人か?」

「はい」

「ふうん、パスポート見せて」

花房は、服以外の持ち物は一切とりあげられてしまっていて、何も持っていなかった。

「パスポートだよ。わからないのか?おまえ、怪しい奴だな」

 花房は警察署から飛び出した。

 KAKAを探しださなくてはならない今、警察に捕まるわけにはいかない。

 最初の角を曲がろうとすると呉が騎楼の柱の陰から出てきて花房の襟を掴んだ。

「てめえ、何やってんだよ」

呉は目の焦点が合うぎりぎりまで驚いている花房に顔を寄せて言った。


 呉に引きずられるようにして余のカラオケ店に戻ると、余が腕を組んで事務机の上に座っていた。花房は下を向いたまま余の前へ立った。余の後ろからうなり声が聞こえたので顔を上げて、余の肩ごしに事務所の奥の部屋を見ると、楊が腹を押さえて床にうずくまっていた。

 余は上目遣いに訊いた。

「おめえ、どこへ行ってたんだ?」

「痛み止めを買いに」

「痛み止め?警察に薬買いに行ったのか?」

 花房は何も言い様が無いので黙っていると、余は事務机から下りて花房ににじり寄った。

「くだらねえ嘘をついてんじゃねえよ」

花房がおもわず一歩下がったと同時に頭突きがきた。鼻に衝撃が走り、背後の事務机に倒れこんだ。涙が溢れて視界がぼやけ、熱く鉄くさい液体が口の中に流れ込んできた。右手で鼻を押さえ、目の前に持ってくると、焦点は合わなかったが赤い色はわかった。

 余は花房の前髪を掴んで立たせると「見ろ」と言って花房の顔を楊の方へ向けた。

「てめえがバカをやったおかげで、楊はあの有り様だ。ちったあ悪いと思わねえのか?」

余は花房の顔を机に叩き付けた。頭から手を離し腰の辺をつかんで腹にひざ蹴りをいれた。その勢いで花房が床に転がると、余はめちゃくちゃに蹴りつけた。息がつまり、もはや痛いのか痛くないのかすらわからなくなり、そして猛烈に悲しくなってきた。

 気がついた時、花房は余の足にすがりついて、泣きながら必死に謝っていた。

 多くの若い者を使ってきた余にとって、こんな事はお手のものだった。はねっかえりをおとなしくさせるには、タイミングを見計らって大人の暴力の恐さをおしえこんでやれば良い。花房の様に、にっちもさっちもいかなくなっている人間は一番簡単だった。

 余は自分の足にすがりついている花房を髪を掴んで引き剥がした。胸を蹴飛ばし、花房が仰向けに倒れると、手先が失われた左腕を踏みつけた。花房はあまりの激痛に叫び声を上げた。その様子を見て、余は満足したように口のはじで笑った。


 余と呉が出て行くと、楊は何も無かったかの様に起き上がった。せいせいした顔でテレビをつけ、ソファに座った。

 花房はしばらく床に倒れていた。体中が痛み、ちょっと動くだけでも声を上げそうになった。

 もう駄目だ。完全にしくじった。おまけに全て無くしてしまった。洪もKAKAも左手も。命だけはなんとか取られずに済んだが、今度余を怒らせたら最期だろう。ここでなんとかやっていくか、殺されるか、だ。こうなったら、いつまでになるのかはわからないが、謂われたとおりにするしかない。もし、兄や友達に頼れば、余は必ず彼等にも危害を加えるだろう。いつになるかはわからないが、チャンスが来るまでは余の言いなりになるしかない。

 花房は壁に寄りかかり、ずり上がって立ちあがった。

 花房が涙を拭いて部屋の入り口に来ても、楊はテレビを見つめたままだった。

「わるかったよ」

「当たりめえだ。人の同情につけ込みやがって」

「もう二度としない。ここでやって行く覚悟を決めた」

「知ったこっちゃねえな」

「どうしても日本にいる兄貴に連絡したかったんだ」

楊はやっと花房の方へ顔を向けた。花房は口をぐっと結んだ。

「俺だって四六時中おめえの事を見張ってるわけにはいかねえんだから、一日か二日経ってから電話でもなんでもすりゃ良かったんじゃねえのか?」

 花房は「そうだな」とうなずいた。

「二度と甘い顔しねえからな」

もう一度うなずいて、花房は大儀そうに事務所のいすに座った。

 楊はしばらく黙ってテレビを見ていたが、やがて花房に顔を向けた。

「今度余さんに殴られたら、すぐに床に倒れてうなってろ。そうすりゃ早く終わる」


 それから三日間、花房は何もせずに店の奥の部屋でごろごろしていた。

 楊は自分の意志なのか、上から謂われてそうしているのかわからなかったが、日に一度歯医者の陳の所へ傷の消毒の為に花房を連れて行く時以外、何も指図しようとしなかった。 

 店の女達に奇異の目で見られながら、花房は一日中テレビを見て過ごした。

 四日目に陳の所で左腕を消毒してもらって診察室を出ると、待ち合い室の長椅子に座って待っていた楊は立ち上がって「今日からは働いてもらうぞ」と言った。診察室から出て来た陳の薄汚れた白衣に金をねじ込み、あごで花房に合図すると、先に出て行った。

 狭い階段を下りて外へ出ると、楊はすぐそばにあったコンビニに入った。

 花房は店の前でぼんやりと待っていた。

 久しぶりの台北の街は、いつも通りのうだるような暑さと、いつも通りの喧噪に包まれている。

 楊は新聞を持ってコンビニから出て来ると、それを丸めて左を指した。

二人は、ぶらぶら歩いて見慣れた林森北路に戻った。

 楊はいつもの麺類の屋台の前に出された簡易テーブルに陣取った。店主の中年女に軽口をたたいてアルミの灰皿を借りると、煙草に火を着けて煙をはきだした。

「花房、これからは今までみてえに甘い顔はしねえからな」

 花房がにらみ付けると楊は鼻白んだが、気を取り直して言った。

「なんだよ、その目はよ。よろしくお願いしますだろ?」

花房は立ち上がり、灰皿で楊の頭をはたいた。

ペコンと音がして、楊は頭を押さえた。

「いてっ、何すんだよ。」

「なにがよろしくだ。ふざけた事言ってんじゃねえぞ、くそじじい」

「ぶつなよ、良くないぞ、そういうの」

「うるせえ。てめえなんかに先輩面されてたまるか」

「先輩面とかじゃなくてさ、日本人って年上とか年下とかそういうの大事にするでしょ」

「知るか、ばか」

花房は灰皿を楊の前に滑らせ、右肘をテーブルに載せて座った。楊はぶつぶつ言いながら一台の携帯を差し出した。

「これ、使え。間違っても変なところへ電話するなよ。すぐばれるぞ」

花房が黙って携帯を握ると、楊は花房の目を見ながらゆっくりと手を離した。

「あ、そうだ。ちょっとこれ持って」

楊は思い出したように脇に挟んでいた新聞を花房に渡すと、ポケットから自分の携帯を取り出して立ち上がった。

「拡げて」

花房が言われた通りに二つ折りになっていた新聞の一面を前に見せて拡げると、携帯で写真を撮った。

「何だよ、これ?」

楊は新聞を受け取りながら言った。

「気にするな。履歴書写真みたいなもんだ」


 写真の中に花房が新聞を持って座っていた。

写真が撮られた場所は、ここからそう遠くない林森北路の一角だとわかったが、それよりも左腕を吊っているのが気になった。

 料理を運んで来た余は写真を取り上げた。

「約束は守っただろ」

 KAKAがうなずくと、満足そうな顔をして自分もテーブルについた。

 余は写真を丹念に切り裂き、ゴミ箱に放り込んで言った。

「これで契約成立だな」

「・・・はい」

「よし。じゃあ、早くこれを喰っちまえ」


 次の日から、花房は楊と一緒に、今までは呉が受け持っていた長春路の店で働くことになった。

 花房は失った左手を隠すために冬物のコートを楊に買わせ、それを羽織って店に向かった。

 この店も余が張から預かっている店で、昨日まで花房がごろごろしていた林森北路の店と同じく、カラオケ屋の姿を借りた置屋だったが、この辺りは林森北路にくらべて全体的に街に出ている人の数が少なく、あまり売り上げが良くないと聞いていた。

 店内は林森北路の店とほぼ同じ造りだった。十畳程の広さに応接セットとカラオケセット、本棚が置かれており、その奥に事務所と簡単な台所がある。

 花房は一歩中へ入ると、まずその散らかり具合に驚いた。本棚には雑然と雑誌やマンガが横積みにされていて、床には菓子のかすや空になった袋、ビールの空き缶などが散乱していた。テーブルの上の灰皿には吸い殻の山が奇跡のように高くそびえ立っていた。

 あきれ返っている花房をよそに、楊はどっかとソファに座り、テレビの電源を入れた。

 花房がうんざりしながら、灰皿をそろそろと台所に持っていくと、流しは地獄のありさまだった。おそらく以前は食べ物だったと思われるヘドロの上にグラスや皿がうずたかく積まれていて、目にしみる悪臭を放っていた。 

 花房はため息をついてコートを脱ぎ捨てた。「おい、楊」と店のフロアに向かって声をかけたが、楊はいつの間にかどこかへ行ってしまっていた。

 やっと片付けの目処がついた午後六時ころから、順次女達が出勤してきた。女達は四人いたが、その質の低さに花房はもう一度うんざりした。いずれも劣らぬ不細工ぞろいで、人数が集まるとそこは化け物屋敷の様相を呈した。花房はげっそりしていすに座った。

 

 一週間ほどが過ぎると、だいたいの様子が掴めてきていた。

 花房は、観光客よりも地元の客が多いので単価は上げられないが、人気の足つぼマッサージ店や飲食店が朝まで営業している地域なので、やり方次第ですぐに取り戻せると考えた。林森北路に比べるとリピーターが多く、年配の常連が客の大半を占めていたので、常連客のリピート率を上げる事と、常連からの口コミで客を増やす作戦を立てた。具体的には、プロに依頼して女達に本格的なマッサージを覚えさせ、お茶のサービスを始めた。今までも前戯替りに簡単なものはしていたようだが、本格的なマッサージで他店との差別化をはかろうとしたのだ。お茶は近所のお茶屋に話をつけて、今後ずっとその店から茶葉や道具を調達するという約束で、入れ方の講習を開いてもらった。この二つは花房の目論見どおり常連客に大いに受けた。受講料や茶器類の購入費を女達の給料からさっ引いたので、始めのうちこそ文句も出たが、客が増えるにつれてそれも無くなっていった。  

 この頃の花房は売り上げを上げて自分の存在意義を余に知らしめなければならないと必死だった。

 しばらく経ったある夜、花房はソファに座り、帳簿をなんとなく眺めていた。向かい側には二人の女がいて、ぼんやりテレビを見ている。一人は骸骨のように痩せていて、もう一人は豚の様に太っている。

 携帯が鳴り、液晶画面が番号のみを表示していた。この携帯はこの間まで呉が使っていた物で、常連客の番号も多数登録されている。

「もしもし」

「マギーはいるかい?」

老人の声だった。

 マギーは巨漢で性格も最悪だと評判の女だが、蓼喰う虫の部類か。

「すみません、今はちょっと出てるんですが、マギーを呼んでいただく為に電話をいただいたんでしょうか?」

「そうだよ」

「そうですか。ありがとうございます。ただ、申し訳ないんですが、今すぐは御案内できないんです」

「じゃ、また掛けるよ」

「あの、他の女の子ならいるんで、いかがですか?」

「他の娘か・・・」

 老人は少し考えている様子だった。花房は間髪いれずに訊いた。

「私、今この店を受け持っている者なんですが、担当を替ったばかりなもので、ご挨拶させていただきたいんですけど」

「あ、そう」

「今どちらにいらっしゃいます?」

「どちらったってよくわかんないけど、セブンイレブンの前だよ」

 長春路にセブンイレブンは二軒あるが両方廻っても大した手間ではない。

「わかりました。すぐ行きますんで、ちょっとそこで待っていていただけますか?」

「いいよ」

「ありがとうございます。すぐに行きます」

 花房は電話を切って、太っている方の女に声をかけた。

「おい、ケリー出掛けるよ」

「あいよ」

くちゃくちゃと何かを噛みながらケリーは立ち上がった。

 セブンイレブンの前に白髪を短く刈り込み、麻の開襟シャツを着た小柄な老人がぽつんと立っていた。八十を越えているように見える。灰色のスラックスの折り目がきちんと立っているところをみると、わりと裕福なのだろう。

 ケリーは老人を見ると、花房に耳打ちした。

「あの人、マギーのお客だからまずいよ」

「大丈夫だよ」

 花房はケリーの言葉を軽く受け流し、老人に近づいた。

「先ほど電話いただいた方でしょうか?」

 花房が声をかけると、ケリーを一瞥してから老人は言った。

「そうだよ」

「ええ、せっかくお電話いただいたんで、ご挨拶に来ました」

「ああ、そう」

「今日はあいにくマギーが出ちゃってるものですから、代わりにこの娘を連れてきたんですけど、どうでしょうね?」

 花房がケリーの腕を軽くつかんで言うと、老人は少し考えた。

「うーん、どうしようかな」

「腰痛とか肩こりとかはありません?」

「あるよ」

「この娘、ケリーっていうんですけど、マッサージが得意なんですよ。一度試してみてもらえませんか?」

「マッサージか」

「もし、あんまり上手くなかったら、お金は結構なので、どうでしょう?」

 老人はケリーを上から下までながめてから言った。

「まあ、そこまで言うなら」

「ありがとうございます」

 ケリーがもう一度花房に耳打ちをした。

「マギーにばれたら、どうするの?」

「ばれないよ」

「あたし知らないからね」

 ケリーはそう言うと、急に笑みを浮かべて老人と腕を組んだ。

 花房は深夜近くまで事務所の近所を流して客を探した。ケリーから電話が掛かってこないところをみると、少なくともすぐに追い返されることはなかったらしい。

 花房が店へ戻ると、待ちくたびれた女達が吸った煙草の煙が部屋に充満していた。

「遅くない?」

女の一人が言うと、三人いた女達は次々と不平を言った。花房は「ごめん、ごめん」と謝りながら転がっていた空き缶を踏みつぶし、ドアと地面の間に挟んで煙を外へ逃がすためにドアを開け放した。

「わるかったよ。すぐに精算するから」

事務所の机の前に座って帳簿を拡げると、それぞれの取り分を計算して女達に渡した。金を受け取った女達は次々と店を出て行った。 

 花房は、最後にマギーに渡す金額を計算して帳簿に書き込んだ。

「おい、マギー」

 花房が金を差し出したが、マギーは憮然として事務いすにふんぞり返ったままだった。  

面倒くさかったが、このまま居座られるのはもっと面倒なので仕方なく訊いた。

「どうした?何かあったか?」

「あんたさ、今日、あたしの客にケリーをつけたでしょ?」

「え?ああ、その事か」

 どうしてばれたのかと考えながら、花房は帳簿を閉じて、ボールペンをその上に置いた。

「ちょうど、お前に他の客がついてたから、悪いと思ったんだけど」

「あんたさ、あのじいさんが月に幾ら遣うかわかってんの?」

「正確には知らないけど、結構遣うっては聞いている」

「それがケリーに取られたら、どうしてくれんのよ」

「悪かったよ、今回だけだから、な」

「あんたさ、この仕事何年やってんのよ」

 張り倒してやりたいのはやまやまだったが、この店を預かって間もない今はもめ事を起こしたくなかった。

「え?いや、まだ何年もはやってないけど」

「それじゃ、あんたは知らないかもしれないけど、これってルール違反だからね」

「それはわかってる」

 マギーは立ち上がると、金をひったくって店から出て行った。

「お前知ってるか」と楊の声がして花房はびくっとした。

「なんだ、いたのか」

楊はあくびをしながら、事務所に入ってきた。「マギーって呉の女なんだぜ」

「本当かよ?」

「ああ、いい趣味してんだろ?」

「おえっ」

 花房が舌を出して吐く真似をすると、楊ははははと笑った。


 三ヶ月が過ぎ、台湾の長い夏の暑さもひと段落ついてきていた。

 近頃の花房の売り上げは楊のそれを抜いていたが、給料のようなものは一切支払われていなかった。余は借金の返済に充てていると言っていたが、稼ぎの中から幾らが借金の返済に廻されているのか、それどころか借金自体が幾らあるのかすら全くわからない。

 花房は冷蔵庫のビールが切れている事を思い出して楊から金を巻き上げると街へ出た。 

 散歩がてら、少し遠くまで足を伸ばして、スーパーに入った。

平日だったが店内は込み合っていた。エスカレーターで酒売り場がある地下へおり、ビールをケースごとわきに抱えてレジへ向かった。

 再び地上へ出たところで、肩をたたかれた。振り返ると、葉が立っていた。

「葉じゃんか」

「久しぶりだなあ。何やってんの?日本へ帰ったんじゃなかったの?」

「うん、まあ、いろいろあってさ。おまえは何してんの、こんな所で」

「買い物だよ。なんだよ、こんな冬みたいな格好しちゃって」

葉は花房の着ていたコートの裾をつまんで言った。

「気にすんな。じゃあな」

 花房が歩きだそうとすると、葉は慌てて花房の腕をつかんだ。

「ちょっと待ってよ。もう少し話そうよ」

「え、ああ、いいよ。話せよ」

「なんだよ、それ。俺と話したくないのか?」

「いや、そういう訳じゃないんだけど」

 正直なところ、葉と話したくなかった。葉と話せば、常に花房の胃の下のあたりに重くぶら下がっている洪の事に触れざるをえないからだった。

「洪と連絡が取れないんだよ」

当然と言えば当然だが、いきなりその話をふられてしまった。

「わかったよ。ちょっと、その辺でお茶でもしようぜ」

今度は花房が葉の腕を引っぱった。

 花房と葉は、甘い絹ごし豆腐のようなデザートが売りの近くのカフェに入った。店内には他に客はおらず、店員どうしがおしゃべりに花を咲かせていた。

 葉は花房が座っているテーブルに二人分の飲み物を置いた。いすに座りながら、名刺を取り出し、花房の鼻先へ突き出した。名前の上に「リサイクル全般請負い業」という、なんだかよくわからない肩書きが書かれていて、携帯番号やメールアドレスなどがその下に印刷されていた。

「今そういうのをやってんだ」

「そうか」

 花房は名刺をポケットに入れた。

 葉は「それでさ」と前置きをし、オレンジジュースを一口飲んで言った。

「この手の仕事は洪が得意だろ?だから一緒にやりたいと思ってるんだけど、もう何ヶ月も連絡とれないんだよ。お前、何か知らないか?」

 こうも率直に切り出されたのでは身もふたもなかった。

 花房は覚悟を決めてアイスコーヒーの入ったプラスチックのコップを凝視しながら言った。

「洪は死んだよ」

葉は身を大きく乗り出した。

「え?どういう事?」

「どうもこうもないよ。死んだんだ」

「どうして?」

 花房は眼球だけを動かして、葉の目を見据えた。

「殺された」

「誰に?」

「張」

「張って、ヤクザの張宗翰か?」

「そうだ」

 唖然とした葉の視線は花房に向けられていたが、花房の目に焦点が合っていない事は明らかだった。半分口を開けたまま、微動だにせず暫くそのまま固まっている。

 花房は葉から視線をはずし、テーブルの上のストローを見つめた。

 やがて葉は少し大げさに何度も深呼吸をした。そして最後に息を吸ったところで口を開いた。

「お前は、どこでその話を知ったんだ?」

 上目遣いに刺すような葉の視線が花房の目をとらえたが、花房は刑務所入りを覚悟した凶悪犯の様に、軽い口調で言った。

「人から聞いたんじゃない。俺もその場にいたんだ」

「そうなのか?なんで?」

 花房は洪が殺されるに至ったてん末を話した。

 葉は最小限の話の続きを促す言葉以外、何も発せずに聞いていた。葉の視線は少しずつ下がって行き、オレンジジュースのグラスにたどり着くと、そこに固定され、微動だにしなくなった。

 花房の話が終わっても、葉は黙ったままだった。

長い時間が経った後、葉は「こんなことを言っちゃあなんだけど」と前置きをして、視線をグラスから花房に移した。

「お前は、どうして助かったんだ?」

 花房は胃をぎゅっと掴まれたような感覚を覚えた。なんとか今までと同じ口調で言ってみせるんだ、と自分に言い聞かせた。

「張に最期の望みを訊かれて、洪は俺を助けてくれって言ったんだ」

 花房はあふれそうになった涙を必死にこらえながら左の袖をめくり上げ、余に切断された左腕を出して見せた。

「おかげで、俺はこれだけで助かった」

 花房は、左腕を見せたのは、明らかに自分だけが助かった事を正当化しようとする言い訳にすぎなかったのだから、軽蔑されても当然だと思ったが、葉は黙ったまま、じっとテーブルの一点を見つめていた。

 やがてグラスの中の氷が溶けて水になった部分とオレンジジュースがはっきりと二層に分かれた頃、やっと口をひらいた。

「それでお前は今はどうしてるんだ?」

 まさか洪を殺した張の部下で、自分の左手を落とした余の下で働いているなどと、口がさけても言えるはずがなかった。

「まあ、なんとかその日暮らしでやってる」

 葉は軽くうなずいた。

「これからどうする?」

 花房は、葉が言った言葉の意味がわからず訊き返した。

「これからって?」

「決まってるだろ。どうやって張に落とし前をつけさせるかって事だよ」

「落とし前?」

「洪のかたきをとるんだろ?」

 花房は言葉を失った。

 こいつは何もわかっていない。張や余が持つ圧倒的な暴力を見ていないからそんな事が言えるのだ。こんなに目をぎらぎらとさせている葉を見るのは初めてだったが、いくら葉が怒りに震えてみたところで、あいつらに落とし前などつけさせられるわけがない。

「それは俺も考えてないわけじゃないけど、現実的には難しいよ」

「なんで?」

「だって、張はこのあたりを牛耳ってるヤクザだぞ」

「だからなんだよ?」

「なんだよって、あいつらプロだぞ。張に会う前に殺されちまうよ」

 葉は花房をにらみ付けたまま黙っていた。

「俺の方がお前よりもくやしいと思っているけど、出来る事は何もないよ」


 数カ月が経ち、花房があずかっている店の売り上げは、以前に比べ倍増していた。地元の常連客をつかむ作戦が効を奏してきていた。

 花房は売り上げの推移を見ていたパソコンの電源を落とし、満足そうな顔で煙草に火を着けた。

 机の上に置いておいた携帯の着信音が鳴った。通話ボタンを押して携帯を耳にあてると、楊の焦った声が飛び込んできた。

「すぐこっちに来てくれ」

「なんだよ、今度は何をやらかしたんだ?」

「俺じゃねえよ。余さんだよ」

「余さんが、何をやらかしたんだ?」

「やらかしたっていうか、奥さんが来ちゃってんだよ」

「なんで?」

「女ができて、毎晩遅いんだって」

「知ったこっちゃねえよ」

「まあ、そう言わないで来てくれよ。居座られちゃって困ってんだよ」

「忙しいんだよ」

「そう言わないでさ、頼むよ。俺一人じゃ、どうしようもねえよ」

「呉はどうした?」

「奥さんが来たとたんに、どっかへ逃げてった」

「まったく、仕方ねえな」

 携帯を一度耳から離して時計を見ると、午後九時をまわったばかりだった。

一時間位で戻れば大丈夫か。

「わかったよ。でも、精算の時間までには、こっちに戻るぞ」

「それでいい。頼む」

 花房が林森北路の店のドアを開けるや、楊はすがる様な視線を投げかけてきた。楊が親指を後ろ向きに突き出して奥の部屋を指したので、花房はそちらに目を向けた。大きな女がいすにふんぞり返ってテレビを見ていた。 

振り返って楊を見ると、楊がすまなそうにうなずいて見せたので、花房は仕方なく女に歩み寄った。

「お疲れ様です」

 横に立って何気なく言うと、女は首をぐるりと回して花房を見た。ピンク色のウインドブレーカーの上下ででっぷりとした体を包んだ余の妻は、ふてぶてしい面構えをした四十代なかばくらいの女で、まだらに金色に染めた髪をひっつめている。化粧っ気はまったくないが目が大きく鼻筋が通っているので、二十キロ痩せて十歳若ければそこそこ見られるかもしれない。

「あんた誰?」

「花房っていいます。ここで働いてます」

「あんた、外人?」

「はあ、日本人です」

「余はまだなの?」

「今日余さんはこっちには来られないと思いますよ」

「あいつは来るって言ってたわよ」

 余の妻はあごを楊に向けて突き出した。

 花房が振り返って楊をにらみつけると、楊はもう一度すまなそうな顔をした。

「あんた、女の家知らないの?」

 花房は余の妻の方を向いた。

「はい?」

「余の女の家よ」

「知りません。女がいるなんて聞いたことないですし」

「とぼけるんじゃないわよ」

「とぼけてないです。本当に聞いたことないです」

「あっそう、じゃあずっとここで待ってるからね」

「困りますよ。もうすぐ女達も戻って来ますし」

「知ったこっちゃないわよ」

 そう言って、余の妻はテレビの画面に視線を移した。

 花房はため息をつき、事務いすを引き寄せて座った。

「どうして余さんに女がいると思うんです?」

「そんな事、あんたに関係ないでしょ」

「そりゃ、まあ、そうですが」

花房は取り出した煙草の尻をライターにポンポンと当てて、葉をつめた。

「どうしたら帰ってもらえますか?」

 余の妻はテレビ画面を見つめたまま言った。

「余の女の家がわかったら帰るわよ」

「わかったら、どうするんですか?」

 余の妻はじろりと花房をにらんだ。

「二人まとめてぶっとばすに決まってるでしょ」

「ですよね」

 花房は両目の間を親指と人さし指でぎゅっとつまみ、暫く考えてから言った。

「それじゃ、こうしましょう」

 余の妻は花房の方を向いた。

「僕がこれからスパイをやりますよ」

「スパイ?」

「明日から余さんにくっついてまわって、もし本当に女がいたら奥さんにすぐお知らせしますよ」

「そんな調子のいい事言ったってだまされないからね」

「だましてなんかいません。僕は奥さんの味方です」

花房が真顔で言ったので、余の妻はなんとなく反論のタイミングを失った。

「あ、そう。じゃあ、そうしてもらおうかな」

「了解です。まかせて下さい」

 余の妻が帰っていくと、花房は楊の頭をひっぱたいてから余の携帯に電話を掛けた。

「おつかれさまです。花房です」

「なんだ?」

「さっき、林森北路の店に奥さんが来られました」

「ああ、呉から聞いた」

「そうですか。僕が奥さんのスパイをする約束をさせられちゃったんで、どうしようかなと思って電話したんですが」

「なんだ、スパイって?」

「余さんにくっついてまわって、女の家を探るんです」

「なんでそんな約束したんだ?」

「そうでもしないと、帰ってもらえそうになかったんで」

 余は、ちっと舌打ちをした。

「どうしましょうか?」

花房が訊くと、余は少し考えてから言った。

「明日、お前の予定は?」

「いつもと同じです」

「じゃあ、六時前に俺の家に来てくれ」

「わかりました。場所をおしえてもらえますか?」

「楊に訊け」

「わかりました」

 花房は電話を切って、携帯をコートのポケットに入れた。

 葉の事を思い出した。葉は当然のように花房が張や余に復讐をすると決めつけていたが、それどころじゃない。今の花房は、すっかり余の犬だった。


 余は電話を切って携帯をベッドの上に放り投げた。ベッドでタオルケットにくるまっていたKAKAはそれを枕元の小さなテーブルに置いた。

 余はKAKAがいつも座っている窓際のいすに座って「今の電話な」と言った。

 KAKAは余に視線を向けた。

「花房からだった」

 KAKAはぎゅっと唇を結んだ。

「言ってなかったか?あいつは今、俺のとこで面倒をみてやってるんだ」

余はにやりとして見せた。

 KAKAは、この男は楽しんでいると思った。訊きたい事はいろいろとあったが、訊けば余の思う壺なので自分を抑さえ、興味なげに言った。

「そうですか」

「すっかり大人しくなってて、結構重宝するぜ」

そう言ってもう一度にやりと笑って見せたが、

KAKAは視線を余からはずし、小さくうなずいただけだった。


 深夜二時過ぎ、余はなるべく音をたてない様に玄関の鍵を開けた。

 家の中は全て電気が消されていて、静まり返っていた。リビングに入り何度か子供が片づけ忘れたおもちゃにつまずきながら寝室に入った。妻はベッドに横たわっていたが、寝入っているかどうかはわからなかった。

 シャワーを浴びる為に下着とバスタオルを用意して部屋を出ようとした時、妻が「ちょっと」と声をかけた。余はびくっとして振り返った。

「なんだ、起きてたのか」

「ちょっとこっちに来なさいよ」

「何だよ、どうしたんだよ?」

「におい嗅ぐからこっち来て」

「何を気持ちの悪い事言ってんだよ」

「女のにおいがしたら殺すから、におい嗅がせて」

「ふざけんな。そんなもんする訳ないだろ」

「じゃあ嗅がせられるでしょ」

「くだらねえ事言ってんじゃねえ」

余が虚勢を張って部屋から出ようとすると、いきなり何かが飛んできて壁に当たった。「何すんだよ」

余は慌てて壁を探って部屋の電気をつけた。

セロテープの台が床に転がり、壁にへこみができていた。

 こんなものは普段寝室には置いていないので、投げつけるために用意していたのだろう。

余はぞっとした。

「おまえ、当たったら死んじまうじゃねえか」

「死にな」

「なんだよ、それ?」

「女囲ってんじゃねえよ」

「囲ってねえよ」

「嘘つけ。それなら証明してみせなさいよ」

 そこからは怒鳴りあいだった。実際に女がいなくても証明など出来る筈もないが、嘘をつきながら疑いを晴らすのは骨が折れた。

 二人の声の大きさに驚いた子供達が起きてきてしまい、途中何度か中断しはしたが、言い争いは朝まで続いた。

 余はずっと壁際に座って黙りこみ、妻はベッドの上にあぐらをかいて時折同じ話を蒸し返した。外が明るくなってもそれは続き、全く出口が見えなくなっていた。

 朝七時をまわった頃、次男がおそるおそる部屋を覗き込み「ごはんどうすんの?」と訊いた。余は内心ほっとしながら、面倒くさそうに立ち上がった。

 いつもの朝のどたばたを繰り返しながら子供達に朝食を摂らせ、学校に送って行く準備をしていると妻が寝室から出てきた。

「あんた、子供をだしにして逃げるつもり?」

「逃げねえよ。ガキの前でつまらねえ事言うな」

「今日あんたたち学校も保育園も休みだからね」

子供達はわあっと歓声をあげたが、余は「うそだよ、うそ」とそれを遮った。

「おまえ、そんな事で学校休ませてどうすんだよ」

「逃がさないからね」

「逃げねえよ、誰かに送らせる。それでいいだろ?」

 花房は眠い目をこすりながらメモした紙を見直して、余の住所を確認した。ふうっとため息をついて呼び鈴を押すと、しばらくして子供達がふざけ合いながらわらわらと出て来た。花房がまとわりつく子供達をいなしているところへ余が顔を出した。「場所はここに書いてあるからタクシーで行け」といきなり不機嫌そうに言って、学校と保育園の住所をなぐり書きにした紙と五百元札を花房に渡した。

「この子達を学校に連れていくんですか?」

「そうだよ。釣りはとっておいていい」

花房が紙に書かれた場所までのタクシー代を考えながら「はあ」と生返事をすると、余は花房をにらみつけた。

「ふて腐れるんじゃねえよ。どうせ夕方来るはずだったんだからいいだろ」

 花房と子供達が出掛けてから余が寝室へ戻ると、妻は高いびきで寝入っていた。余はあわてて財布と携帯電話を手に取って家を飛び出した。

駐車場へ行き、車に乗り込んでシートを倒した。テレビをつけ、それをぼんやりと眺めながら、今後KAKAをどうするかを考えた。


 その日はいつにも増して蒸し暑かった。KAKAは余が運転する車の助手席にいた。

 昼前に余が突然現れて「たまには外へ出掛けよう」と言い出した。初めての事だったので、どうこたえたら良いのかわからずにいるKAKAに、余は「ずっと部屋の中にいたら息が詰まるだろ?」と言った。

「どこへ行くんですか?」

「そうだな」

余はいすに座って腕をテーブルの上で組んだ。

「九份なんか、どうだ?きれいな所だぞ」

 車中で余はぺらぺらとよくしゃべった。KAKAは流れて行く風景を見ながら、適当に相槌をうったが、内心ではどうでも良い内容に辟易していた。

 いつか花房と一緒に行った場所を余が選んだというのは、偶然なのだろうか。

 前回来た時と同じように金瓜石で金山や海などを見て、九份へまわった。同じ場所に来ても、風景も全くちがって見えた。ぶらぶら歩いているうちには花房と立ち寄った喫茶店やお土産屋の前も通り過ぎた。

 賑やかな地域から少し離れて、東側に広がる大平洋から台北までを一望できる喫茶店に入った。余は窓際の四人掛けのテーブルを陣取った。飲み物が運ばれて来るまで、余は何も言わず、何度もあくびをしながらぼんやりと外の風景を眺めていた。

 アイスコーヒーが前に置かれると、ずるずると音をたててそれを啜りこんでから余は口を開いた。

「どうだ?来て良かったか?」

KAKAはストローから口を離した。

「ええ」

「うそつくなよ」

間髪入れずに余が言ったので、KAKAはとっさに言葉が思い付かず、余の目をじっと見た。

「図星だろ」

 余が新しい煙草を一本取り出して言うと、KAKAは面倒くさいと思いつつも、頭の中でとっさに言葉をまとめた。

「とてもきれいな所だし、初めてだから楽しいです」

 余はそれを聞くと鼻で嘲い、まだ火を着けていない煙草をテーブルの上に置いて尻のポケットから二つ折りの財布を取り出した。中から一枚の紙を出してKAKAの前へ差し出した。それはKAKAが日本へ行く為の荷物の底に入れていた、花房と九份に来た時に撮った写真だった。花房がKAKAの肩に手をまわし、少し照れたような顔で笑っていた。

 やはり、余がこの場所を選んだのは偶然ではなかった。まったく嫌な男だ。

 そう心でつぶやいて顔を上げると、余は目を合わせずに写真を財布に戻した。

財布を仕舞ってから、置いた煙草をもう一度手に取り、くわえて火を着けた。煙を天井に向けてはくと、まぶしそうにKAKAを見た。

「今日、俺がどうしてお前をここに連れて来たのかわかるか?」

「わかりません」

「知りたくないか?」

KAKAはゆっくりと目をふせて、テーブルを見つめた。

「そうか」

余は煙草を灰皿に押し付け、大きく息をはき出した。

「おまえも大したもんだよ」

「何がですか?」

「まったくぶれないっていう所がだよ」

「ぶれない?」

「ああ」

 余が言っているぶれないという言葉の意味が、余になびかないという意味なのならば、まったくぶれるつもりはない。そのせいで、今後受ける扱いが自分にとって不利なものになったとしてもかまわない。KAKAはテーブルの木目を視線でなぞりながら、あらためてそう思った。

 そんなKAKAの様子を見て、余はある一つの決意をした。


 余は車を停めた。

 あたりは暗くなり街灯がつき始めていたが、西の空には紅黒い太陽がまだ居残っていた。

 車から降りるように促されて、KAKAは助手席のドアを開けた。

 林森北路の店に来るのは久しぶりだった。花房にもう行くのを止めるように謂われ、ある日突然来なくなったのが、もう四ヶ月以上も前の事になっている。

 余について階段を下りて店へ入ると、顔見知りだった呉と、もう一人見た事のない男がいた。呉が立ち上がって余に挨拶したのに続いて、もう一人の男が余と握手をした。

「余さん、ごぶさたしてます。どうですか、最近は?」

「どうかな、あんまり良くはないよね」

「またあ、余さんにそう言われちゃったら、僕なんかどうするんですか」

 満面の笑みを浮かべながら、見え透いた世辞を言った男の鼻の両穴からは信じられないくらいの量の鼻毛が出ていた。

「俺らも稼ぎ方を李さんに教えてもらわなくっちゃな」

余が呉を振り返って言うと、呉は「はい」と言って、おおげさにうなずいた。

「またまた、恐いなあ」

 KAKAは自分が何故この場に同席させられているのかがわからないまま、ぼんやりと男達のわざとらしい笑い声を聞いていた。

 余が李にいすを勧め、二人は事務いすに腰をおろした。

「おい」

余は側に立っているKAKAに向かって言った。

「こちら李さんだ。ごあいさつしろ」

 KAKAは状況が飲み込めないまま、あいまいな表情で「こんにちは」と言った。

「どうも」

 李は軽くうなずき、目だけを動かしてKAKAの頭のてっぺんから腰のあたりまでを撫でまわすように見た。

 余は煙草に火をつけ、煙を鼻からはき出した。

「どうでも良い事ですけど、一応名前はKAKAです」

「そうですか。よろしくね」

李が言ったので、KAKAは軽くうなずいた。

「おまえ、今日からこの李さんにお世話になることになったからな」

 KAKAは余の言った意味が即座に理解できず、怪訝な顔をして余を見た。

「どういう事ですか?」

「どうって、そのまんまだよ。これから一度部屋に戻って荷物をまとめたら、李さんと一緒に行くんだ」

 余は言うだけ言うとKAKAから視線を逸らせたが、KAKAはじっと余を見ていた。

 李は二人を見くらべて言った。

「あれ、まだ話はついていなかったんですかね?」

余は表情を変えることなく即座にこたえた。

「いえ、大丈夫ですよ。おい呉」

「は、はい」

急に名前を呼ばれたので、呉は少し慌ててこたえた。

「おまえ、これから李さんとKAKAと一緒にKAKAの部屋へ行って、荷物をまとめるのを手伝え」

「は、はい」

 余は李の方を向いた。

「李さん」

「はいはい」

「ちょっと手間をかけさせて申し訳ないんだけど、寄り道してもらっても良いですかね?」

「大丈夫ですよ」

「よろしくお願いします」

余はそう言って立ち上がった。

「じゃあ、俺はこれで失礼します。李さん、またいずれ」

「はい、どうもお世話さまでした」

そう言って李も立ち上がったが、すぐに余を呼び止めた。

「あ、そうだ、余さん」

「はい?」

 李はKAKAを指差した。

「彼女の身分証とかパスポートがあったら、もらえますか?」

余はKAKAの顔をちらりと見て、すぐに余は視線を李に戻した。

「彼女はその手のものは持ってませんよ」

 KAKAは目だけを動かして、余の顔を見た。パスポートは空港から余に会いに行った時に、余に取り上げられていた。

「ああ、そうですか。彼女の部屋にもありませんか?」

「ええ、あの部屋にあるものは全部わかってますが、ありません」

「そうですか」とうなずいて、李はKAKAに訊いた。

「どこにやった?」

KAKAは何と言うべきかとっさには判断がつかなかった。余をちらりと見たが、余はわざとらしく視線を逸らしていた。

「失くしました」

「あんなもん、失くす馬鹿はいないだろ」

李が凄んだ。

KAKAが口を開く前に余がはっはとわざとらしく笑った。

「まったく田舎娘で困ったもんです。大事な物とそうじゃない物の区別もつかないんだからね」

 呉は店の金庫にKAKAのパスポートが仕舞われているのを知っていたので、ついちらりと金庫を見た。

 李は訝しげにKAKAを見ていたが、やがてあきらめたらしく頷いた。

「わかりました。お引き止めしてすみません」

余は小さくうなずいて、KAKAの顔も見ずに事務所から出て行った。

 身分証やパスポートなど有っても無くてもかまわないが、何故余が李にパスポートを渡さなかったのだろうと考えながら、KAKAは余の背中を目で追った。

 ドアが閉まると、李はそれまで満面にうかべていた笑みを完全にその顔から消し去って言った。

「じゃ、行くか」

 この李という男に売り飛ばされたということか。

 そう思っても何の感情も浮かんで来ないのがKAKAは自分でも不思議だった。


 花房が長春路の店で弁当を頬張りながらテレビを見ていると携帯が鳴った。余からだった。

「俺だけど、今日やっぱりこっち来なくていいわ」

「あ、そうなんですか?奥さんの事はどうしますか?」

「自分でどうにかするから、お前はいつも通りにしてくれ」

「わかりました」

 電話は一方的に切れた。

なにがあったのかわからないが、面倒がなくなったのならそれで良い。

 それから暫くまたテレビを見て過ごし、いつも通りの時間に女達の出欠を確認してから街へ出た。

 ぼんやりと行き交う車や人を見ながら煙草を吸っていると、肩をたたかれた。花房が振向くと、いつぞやの老人が立っていた。マギーに他の客がついていた時にケリーをつけた為、後でマギーと揉めた事があった。

「あ、こんばんは。ご無沙汰してます」

「遊びにきたよ」

「ありがとうございます。今日はマギーいるんで、すぐ呼びまずよ」

「マギーじゃなくていいよ」

「え?」

「こないだの娘がいいな。何ていったかな、あの娘」

 それはさすがにまずい。マギーに知れたらこの間以上に揉めるだろう。

「ああ、ケリーですね。申し訳ないんですが、彼女は今、他のお客さんについてるので。マギーはすぐ来られます」

「ああ、じゃあケリーが空くのを待ってるよ」

「また次回ケリーを紹介させてもらいますから、今日はマギーでお願いできませんか?」

 老人は少し考えてから言った。

「じゃあ、いいや。帰る」

「いや、ちょっと待ってください。正直言うとマギーのお客さんを他の娘につけるのはまずいんですよ」

「それはそっちの都合でしょ。ケリーを呼ばないならもう来ないよ」

 仕方なく老人とケリーをホテルで引き合わせて、花房は外へ出た。マギーに知れたらまた騒ぎになるだろうが、仕方がない。

 携帯が鳴った。店の番号だったので、花房は何も考えずに電話に出た。

「もしもし」

「あんた、また私の客をケリーにつけたわね」

「え?」

いくらなんでも、ばれるのが早すぎる。

「ちょ、ちょっと待てよ。何の話だか、わからないよ」

「すっとぼけるんじゃないわよ。ケリーがこそこそ出てったから、じいさんに電話してみたら、案の定だったじゃないのよ」

「いや、それは」

「おぼえてなさいよ。絶対に赦さないからね」

電話は一方的に切れた。花房はちっと舌打ちをして携帯をコートのポケットにつっこんだ。

 深夜過ぎに店へ戻ったが、マギーはいなかった。

 女達に金を払い、一人になった花房はソファに座り「面倒くせえな」とつぶやいた。

 机に足を載せ、ぼんやりしていると、いつの間にか眠ってしまった。


 肩を揺すられて、花房は薄目を開けた。

「起きろよ」

楊が花房の目を覗き込むように見ていた。

「ああ、どうした?」

「余さんが来てる」

 花房は慌てて足を机の上からおろして立ち上がって、店の入り口に立っていた余に言った。

「おつかれさまです」

 余は、あごを突き出してそれにこたえた。

 機嫌はわるくないらしい。

 余の後ろに呉が立っていたので、花房は一応「おつかれっす」と言った。呉は全くそれに反応しなかったが、いつものことなので気にもならなかった。

「楊、おまえ明日から林森北路へ戻れ」

「は?」

「こっちは花房一人でいい」

「え?はあ、そうですか。何かあったんですか?」

余はぎろりと楊をにらんだ。

「お前の売り上げが悪いからに決まってんだろ。呉にもう一度、仕事を教えてもらえ」

「え、でも」

「でもじゃねえ」

余が語調を荒げたので、楊は慌てた。

「わかりました、わかりましたよ。ただ」

 余は面倒くさそうに、楊の言葉を遮った。

「なんだ、何か言いたい事があるのか?」

「いえ、ただ、まだこっちへ来てから間がないものですから」

「そんな間がない間に、花房は結果を出したぞ」

 楊が黙ると呉が余の肩ごしにくちばしをはさんだ。

「おめえ、こんなぽっと出に先を越されて、どうやって責任とるつもりなんだよ。歳ばっかり喰いやがって」

 いつものごますりが始まった。だいたい、ついこの間まで長春路で結果を出せなかったのは自分じゃないか。

楊はそう思ったが口に出す勇気はなかった。

 ふて腐れている楊をよそに余は花房に「帳簿と現金を出してくれ」と言った。

「はい」

余は花房が奥から持ってきた帳簿と手提げ金庫を受け取ると楊に向かって言った。

「行くぞ」

楊は「はい」と返事をしてうなずいた。

「余さん」

呉が余を呼び止めた。

「なんだ?」

「俺、花房と話があるんで、ちょっと残ります」

 来やがった、と花房は思ったが表情に出さないように努力した。

「そうか」

「すぐに追いかけますんで」

余は「わかった」と言って事務所を出た。楊もすぐ後に続いた。

 二人は階段を上がって行った。店の中から見えなくなったあたりで、余は足を止めた。楊もあわてて止まると、余は振向いて楊の襟を掴んで言った。

「お前、あんな日本人の小僧に先を越されてくやしくないのか?」

「す、すみません」

「すみませんじゃねえ。お前、口惜しくねえのかって訊いてんだよ」

「く、口惜しいです」

「いいか、これが最後のチャンスだぞ。あっちの店へ戻って、結果を出せなかったら放り出すぞ。おまえ、放り出されたら行く所なんかねえだろ」

「はい」

「じゃあ、死ぬ気でやれ」

「はい」

「本当にこれが最後だぞ」

「はい」

 余は楊の襟から手を離し、また階段を上り始めた。

 呉はドアの外を見て余と楊がいなくなったのを確認すると、テーブルの周りをぐるっとまわって花房の前に来た。

「話って何ですか?」

そう訊いてはみたものの、マギーの件だということはわかりきっていた。

 こいつ、本当にマギーと出来ていたのか。まったくいい趣味をしていやがる。

「おめえ、マギーの客を他の女にまわしただろうが」

「いや、それは」

花房が言い終わるのを待たず、呉は花房の胸ぐらを掴んで後ろへさがり、前のめりになった花房の腹に拳をたたきこんだ。ぐうっと声をもらして花房はひざを折った。突き上げられた胃が肺の中の空気を全て一瞬にして外に追い出し、呼吸が出来なくなった。必死で空気を吸い込む動作をくり返したが、空気が入ってきたのは口の中までだった。

呉は花房の襟元から手を離したが、花房はそのままひざ立ちになったままだった。

「女達を束ねるおまえが、客を他の女にまわしたら信用を失って女達が集まらなくなるだろうが」

 もっともらしく言ってはいても、自分の女に良いところを見せるついでにうさばらしをしているだけだ、とは思ったが、また暴力への恐怖が花房の心を占拠しはじめていた。

「わかってんのか、このガキ」

「す、すみませんでした」

 呉は花房の頬にひざ蹴りをいれた。ごつっと音がすると同時に、視界に火花が散り、花房は顔を押さえて横倒しに倒れた。

「すいませんじゃねえんだよ」

呉は丸くなって床に倒れた花房をめちゃくちゃに蹴りつけた。

花房は腹と顔を腕で必死にガードしてそれを避け続けたが、そうしているうちに嗚咽が上がってきた。

「かんべんしてください」

そう言うと花房は泣きながら呉の足にむしゃぶりついた。

「離せ、この野郎。気持ち悪いんだよ」

呉は一瞬よろけたが、すぐに体勢を立て直して花房の頭を殴り始めた。花房はそれをガードする為に呉の足から手を離し、自分の頭を覆った。足が自由になった呉は、殴る手を止めると、右足の靴底を花房の胸に当て、体重をかけてぐいっと押した。花房はそのまま床に背中から倒れこみ「もう、殴らないでください」と腕の間から呉を見上げて、涙声で懇願した。呉は肩で息をしながら、しばらく花房を見下ろしていたが、やがて口を開いた。

「今度やったら殺すぞ」

言い終わらないうちに、呉はガードした腕の上から花房の頭を蹴飛ばした。花房はうずくまってしゃくりあげながら「すみません」をくり返した。

「女は売りとばされて、男は泣きべそか。情けねえ奴らだぜ」

呉は小さな声で吐きすてるように言うと、事務所を出て行った。

 花房はしばらくそのままでいた。

呉に言われるまでもなく、情けなさでいっぱいだった。元々は暴力沙汰が苦手だったわけではないが、洪の一件以来、ほんの少しの暴力でも恐くなってしまった。まして、余や呉のような躊躇ない暴力ならばなおさらだった。

 少し気持ちが落ち着いてくると、花房は立ち上がっていすを引き寄せた。ポケットから残りが少なくなった煙草を取り出し、一本くわえてからいすに座った。

 煙りをはきだすと、さっきまでの息苦しさが嘘のように消えた。

 ぼんやりと煙の行く先をながめていると、ふと頭の中を一瞬何かがよぎった。それはほんの小さな違和感のようなものだった。花房はそれを追い求めるかのように目玉をぐるりと回した。

さっきまでの呉とのやりとりの中で何かがあったのだろうか。

 花房は、呉とのやりとりを思い出そうとしてみた。

 静まりかえった時間がどのくらい経っただろうか。そうだ、と一つの事に思い当たった。

 呉は事務所を出ていきしなに、妙なことを言っていた。たしか「女は売り飛ばされて」と言った。マギーの話に女を売るとか売らないとかは関係ない。呉はどういう意味で言ったのだろうか。

「まさか」

そうつぶやくと、長くなった灰が煙草の先からぽとりと床に落ちた。

 呉が言ったのは、どう考えてもマギーやその他のここにいる女達の事ではない。となると、あれはKAKAの事だったのではないか?KAKAは花房と知り合った頃、余のところで働いていたのだから、呉が彼女の事を知っていても不思議ではない。しかし、花房とKAKAの関係を知っているはずはない。ということは、何かの聞き間違いか?

 花房は両肘を机について、頭をかきむしった。

(女は売りとばされて、男は泣きべそか)

呉は確かにそう言った。この言葉の女は明らかに花房の女という意味だ。しかし、ここに来てから呉につきあっていると勘違いされるような女などいるはずもない。

 花房の脳裏に一つの考えが浮かんで、それが膨らみはじめた。

あの日、KAKAは日本に行かなかった。それは彼女が止めるのも聞かずに空港を飛び出した自分に愛想を尽かして姿を消したからだと勝手に思っていたのだが、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。

花房は机を右の拳でどんと叩いた。

何がどうなったのかはわからないが、呉か、もしくは余が何かを知っているのか。そう思うと、もう居ても立ってもいられなくなった。

 ふうっと大きく息をはいて立ち上がった。どこへ行くあてもなかったが、とにかく外へ出た。店のあるブロックを何度もぐるぐると歩き回った。コンビニエンスストアの前を何度目かに通り過ぎると、顔見知りの店員が不思議そうに花房を眺めていたので、道をかえた。

 どうするべきなのかを何度も自問してみたが、何も良い考えは浮かばなかった。しかしそれはどう打ち払っても頭から離れない答えを必死に無視しようとしていたからにほかならない。

花房は赤信号に足止めをくって観念した。

選択肢は、二つしかない。

この違和感は何かの勘違いで何もなかったのだと自分に思い込ませて今まで通りの生活をするか、呉に本当のことを問いつめるか、だ。

 花房はため息をついた。前者はありえないと思いつつも、やはり暴力が恐かった。暴力をふるわれることも、ふるうこともだ。かといって、まともに話をするだけでは呉がとりあうはずがない。

 また歩きはじめてしばらく行くと、以前よく買い物に来た終夜営業のスーパーの前を通りかかった。花房はスーパーがある地下へと降りる階段の前に足を止めた。少しの間そのまま階段の下にある店の入り口を見ていたが、やがて思いきって降りはじめた。

 店内では、あの顔見知りの店員があの頃と同じようにつまらなそうな顔で品出しをしていた。

 店員は花房の顔を見ると、声をかけてきた。

「あれ、久しぶりじゃないすか」

「ああ、元気そうだね」

「相変わらずっす。姿見ないから引っ越したのかと思ってたんすよ」

花房は楽しかった頃に戻ったような気がして、少し涙が出そうになった。

「いや、仕事を変えたもんでね」

「そうだったんすね。少しは料理上手くなりました?」

「いや」と言いながら、少し明るい気持ちになった。

「そっちは全然だ」

 店員は、ははと笑った。

「ここって、工具なんかも置いてたよね?」

「まあ、あるにはありますけど、何を探してるんすか?」

「金づちとガムテープ」

「それだったら、ガムテープを買ってくれたらトンカチは店のを貸しますよ」

「え?あ、いや、長く使いたいから両方買うよ」

「あ、そうすか。じゃあ、あっちの奥の通路すよ」

「そうか、ありがとう」

花房は手をあげて歩き出し、店員に気取られないように鼻をすすった。

 レジで会計を済ませると、店員はもう一度にこりとした。

「ありがとうございます」

「ああ、またね」

花房も店員に笑い返した。

手先のない左腕をビニール袋の取手を通してからポケットにつっこみ、階段を上がりながら右手で携帯を取り出した。

 楊の番号を呼び出して携帯を耳にあてると、

楊は眠た気な声だったが、すぐに電話に出た。

「どうした?」

「わるいな、寝てたか?」

「ああ、余さんにさんざんどやされて、ふて寝だ」

「そうか。呉さんが事務所に財布を忘れてっちゃったんで、電話したら届けてくれって謂われたんだけど、考えてみたら俺、呉さんの家知らなくてさ。おしえてくれないか?」

「そんな事かよ」

楊は呉の部屋への行き方と、目印になる飲食店の名前を言って電話を切った。

 花房は携帯をポケットに仕舞うと、立ち止まって大きくため息をついた。

 武器がわりの金づちを買い、呉の家もつきとめた。あとは乗り込んで行って呉を問いつめるだけになってしまった。いや、まだ他に良い案を思いつけばやめる事は出来る。とにかく、呉の家に着くまでの間に他の方法を必死に考えるんだ。

花房はそう自分にいい聞かせて歩き出した。

 呉の家は、がっかりするほど、さっき花房がいた場所から近かった。

花房は舌打ちをして呉の部屋が入ったビルのすぐわきにある人間一人がやっと通れるくらい細い路地に折れ、地べたに座り込んだ。

 スーパーの袋の中からガムテープを取り出して、外袋をやぶいた。テープのとっかかりの数センチを右手で剥がし、端を口にくわえて三十センチほどを引き出した。次のとっかかりにするための数センチを残してテープを切ると壁に貼った。同じ事をくり返し、三枚のテープを壁に貼ると、ロールを地面に置き、今度は袋から金づちを取り出した。左腕の袖をめくり上げ、金づちを腕にあてがい、まるくなった手の先から、なぐりの部分だけが先に出る位置にもってくると両膝で左腕と金づちを挟んで固定し、壁に貼ったガムテープを次々と力を込めて巻いていった。仕上げにロールのテープを引き出して、それらの上から出来る限り固く巻き付けた。巻き終わると、立ち上がって袖を戻した。

左腕を何度か振り下ろしてみた。金づちはしっかりと固定されていて、少し小さめではあったが、久しぶりに拳が戻って来たような気がした。

 花房は、また大きくため息をついた。

 これですべての準備が整ってしまった。

 とりあえず一服をつけようと煙草をくわえた。火をつけ、大きく煙を吸い込んだ。少しの間そのまま息を止めると、肺の中を全て空にするように煙をはき出した。

 こんな時間に家へ押しかけただけでも殴りかかってくるかもしれない。その時、またさっきのように腰砕けになることなく戦えるのか?まったく自信はないが、いつもとちがって今日はこの金づちの拳がある。とにかく、行くだけ行ってみるか。

 花房は路地を出た。目の前に呉がいた。

「あ」

思わず花房が出した声で、呉はビルに入りかけていた足を止めた。二人の距離は三メートル程しかなかった。

「あれ?花房じゃねえか。おまえ、そんな所で何してんだ?」

花房がぽかんと口を開けていると、花房の方へ歩いて来た。

「何やってんだよ?」

呉は花房の目の前まで来て、もう一度同じ事を訊いた。花房は下を向いた。

「俺の所へ来たのか?」

呉の声は花房の耳には入っていなかった。

 もうだめだ。やるしかない。

 花房は左に体をねじると、勢いをつけて左腕の先についた金づちを呉の右のこめかみに叩きつけた。パカンと音がしたような感触があって、呉はこめかみを押さえてよろけた。呉は二歩前へ出ると、ひざをついた。花房の中で何かが千切れた。

「こっち来い、この野郎」

花房はそう叫ぶと、呉の後ろ襟を掴んで、さっきまでいた路地に引きずりこんだ。痛みのあまりうずくまる呉をところかまわず蹴りつけた。蹴りを避けるために呉が体をねじると、腹のガードがあいた。呉にとっては運の悪いことに、そこへすかさず花房のつま先が飛び込んだ。無防備なみぞおちに吸い込まれる様に蹴りが当たると、呉は息ができなくなり、ばたばたともがいた。呉のその様子を見た時、花房の背筋を得も言われぬ、ある種の全能感が駆け抜けた。

 さっきまでいばりくさっていたこの男が、たったの一撃でこの有様だ。こんな簡単な事が出来なかった為に、こんな男達の靴をなめ続けていたのかと思うと情けなくなった。しかし、それはすぐに怒りに変わった。花房は呉の胸に靴底を押しつけ、さっき転がしたままにしていたガムテープを拾い上げた。端を噛んでテープを引っぱり出し、呉の半身を起こさせて体をぐるぐる巻きにした。足を地面におろし、呉の前髪をつかんで顔を上に向けさせると、花房は興奮で乱れた自分の呼吸を整えようとした。それは無駄に終わり、なかなか空気をはきだせなかったが、呉が目を開けたので前髪をつかんで顔を近づけた。

「おめえに、訊きたい事がある」

そう言うやいなや、自分の額を呉の額に叩き付けた。がつっと音がした。呉の前髪を離さずに頭突きをしたので、花房の頭が衝撃で後ろにのけぞった。花房がおもむろに頭をもう一度呉に近付けると、呉の額がぱっくりと割れて傷口から血があふれ出した。

「なんなんだよ、この野郎」

呉が震える声で強がってみせると、花房はもう一度、額を呉に叩き付けた。その勢いで割れた額から出た血が花房の顔全体に飛び散り、呉の鼻からは鼻血が二本、同じ速さで流れ出た。

「てめえ、さっき、女は売り飛ばされって言ったな」

花房は顔にかかった返り血をコートの左腕で拭きながら、しぼりだすように訊いた。

呉は意味がよくわからない様子で眉をひそめた。

「な、何?」

花房は呉の目をできうる限りの眼力でにらみつけると、そのままゆっくりと顔を上に向け、真っ黒い空を見た。そのままぐっと歯をくいしばり、もう一度額を呉の鼻に叩き付けた。

パキっと乾いた音がして、呉の鼻の軟骨が砕けた。花房は頭を振り、もとの視界を取り戻して呉を見ると、血まみれの顔に傷口のように開いたうつろな両目から大量の涙が流れ出ていた。

「女は売り飛ばされって、どういう意味だ?」

呉は今度はすぐに口をひらいた。すぐに答えようとしているようだったが、なかなか音にならない。

「いらつかせようってのか?」

花房もやっとのことで言ったが、呉は即座に首を横に振った。

「ち、ちがう。あれは」

「あれはなんだ?」

「余さんが、メイリンを・・・」

「KAKAだ、ばかやろう」

呉は小刻みにうなずいた。

「わ、わかった。わかったよ。余さんが、そのKAKAを売り飛ばしたんだ」

「なんだと」

 花房の勘はあたっていた。

「どこでKAKAを捕まえたんだ?」

「つ、捕まえたんじゃない。女が自分で余さんのところに来たんだ」

「何しに?」

「何しにって」

呉の目に軽蔑の色がうかんだ。

「おまえを助けるためだよ」

「どういうことだ?」

「お前が張さんに呼び出された後、余さんに金を渡して、自分と引き換えにおまえを助けてくれって頼んだんだよ」

 花房の耳の奥で、ごおっと大量の水が濁流となって大きな穴に吸い込まれる時のような音が響きはじめ、それがだんだん大きくなってきた。

 この数ヶ月間、自分はまったくの勘違をしていた?KAKAは花房と空港で別れた後、花房を救う為に余に会いに行き、その結果余の毒牙にかかってどこかへ売り飛ばされた? 

そんなことを信じられるか。

「てめえ、いいかげんな事を言ってると、今度こそぶっ殺すぞ」

 呉は何度もかぶりをふった。

「ちがう、いいかげんじゃない。お前、考えてもみろ。何もなくて、余さんがおまえの面倒なんかみると思うか?いくら張さんが命令したからって、そんなもん、どうにでもなるだろ?」

花房は歯をくいしばり、視線を地面に落とした。

 謂われてみれば、その通りかもしれない。張の指示だとはいえ、余がいつまでも花房を自分のところで働かせているのは妙といえば妙だ。今までは、自分がデリヘルの売り上げを上げてきたからだと思い込んでいたが、KAKAの犠牲があったからこそだったのか。

「でも、ちょっと待てよ」

花房は頭をフル回転させて考えた。

「KAKAを売り飛ばしたのに、俺を飼っておくってのは意味がわからねえ」

「わかる、わかるよ」

「なんでだ?余がいちいち約束を守るほど信義に厚い男だとは思えねえ」

「そりゃあ、売り飛ばしたのが今日だからだよ」

「今日?」

「そ、そうだ。余さんは昨日まで奥さんに内緒で借りた部屋にKAKAを囲ってたんだけど、ばれちまったんで慌てて売り飛ばしたんだ。お前を殺しちまったらKAKAが出て行っちまうからお前を手元に置いておいたんだよ」

この瞬間に花房の心は決まった。KAKAを取り戻す。そして、洪の無念をそそぐ。

 花房はもう一度呉の目をぐっと睨みつけた。

「余はKAKAを誰に売ったんだ?」

「え?誰って」

花房は左腕を巻きつけて呉の頭を支え、右手で呉の折れた鼻をねじった。呉は血のまじった唾液を吐き出しながら悲鳴をあげた。花房は鼻から手を離した。

「余は誰にKAKAを売り飛ばしたんだ?」

「もうやめてくれ」

「うるせえ、こたえろ」

花房がもういちど呉の鼻に手を伸ばすと呉は慌てて言った。

「言う、言うよ。隠すつもりなんかないよ」

 花房が手を引っ込めたのを見て、呉は何度も空気を吸っては吐いた。

「台中の李っていう奴のとこだよ」

「李?台中?」

すぐに一人の男が思いあたった。

「解体屋をやってる李か?」

「そ、そうかな。よくわかんないけど、鼻毛のすごい奴だ」

 李が裏切っていたのか。

花房は洪と車を売りに行った時の李の愛想の良い顔と鼻毛を思い出した。

怒りで目蓋が痙攣しはじめた。

「李は余とどういう関係なんだ?」

「どうって、よ、よくは知らない」

「何を知ってんだよ?」

「何ったって」

呉は瞬きすらせずにじっと自分を見ている花房を見て、たじろいだ。

「李は余さんの知り合いっていうよりも張さんの知り合いだったんだ」

「それで?」

「李と張さんは昔からの知り合いらしいんだけど、おまえと洪が張さんの車をかっぱらって李に売ったろ?」

「ああ」

「その後、李が張さんに車を買い戻させに来たんだ」

花房の顔がこわばった。

それを見て呉は必死で後ずさろうとしたがビルの壁に阻まれた。

「李はKAKAをどこに連れて行ったんだ?」

「そ、そこまではわからないよ」

「外国か?」

「わ、わからないけど、たぶんそれはない」

「なんでわかる?」

「それは、余さんがKAKAのパスポートを李に渡さなかったから」

花房は唇を噛みしめ、不安げに花房を見ている呉の潰れた鼻にもう一度いきなり頭突きをくらわせた。今度は折れた軟骨がつぶれるブシュっという音と後ろの壁に後頭部をぶつけるガツンという音が少しずれて響いた。呉はその一撃で完全にのびてしまった。

 花房はなんとか立ち上がり、肩をまわして怒りのあまりこわばった首と肩をほぐした。ちらりと呉を見ると、呉は丸くなって地面にころがっていた。

 

 花房は民生東路三段を西に向かって車を走らせていた。呉の家のそばのコンビニの前に、エンジンをかけたままで停めてあった古いカローラを失敬してきたのだ。

 MRTの高架線をくぐり、左手に教会が見えたあたりで車を右に寄せて停めた。

 花房はエンジンを切らずに外に出て車に寄りかかると、煙草に火をつけた。そしてこれからの事を必死に考えた。

やる事は決まっている。あとはその手順だ。

 二本目の煙草を靴の裏で踏みつけ、三本目の煙草を取り出した時、五十メートル程先に葉が歩いて来るのが見えた。

煙草を箱に戻して歩きだした。

葉が数メートルの所までくると、手を上げて「わるいな」と言った。

「重要な事か、めちゃくちゃ儲かる話なんだろうな」

葉は明らかに不機嫌だった。前回街でばったり出くわした時の事を考えれば当然だろう。

「少なくとも、俺にとっては重要だ」

「そうか。俺にとってはどうなんだ?」

 花房はのどを鳴らして痰を切った。

「とにかく、車の中で話さないか?」

辺りを気にしながら言うと、葉はうなずいた。

 葉はドアを閉めるとすぐに「で?」と話を促した。

「長くなるけど、最後まで黙って聞いてくれ」

「わかったから、早く言えよ」

「うん。洪が殺されたところまでは話したよな?」

「ああ」

 花房は、一番言いたくなかった、洪の死後、おめおめと余の所で働いていた事から、さっきの出来事までの全てを話した。

葉はときおり何か言いたげな顔をしたが、結局最後まで何も言わずに聞いていた。

 話が終わり、花房は煙草をくわえて火を着けようとしたが、手が震えてなかなか着かなかった。

 暫く沈黙が続いた後、葉が口を開いた。

「今、この車のトランクにその呉って奴が入ってるのか?」

「ああ」

 葉は鼻先でふっと短く笑ったが、すぐに真顔に戻り、また黙った。

 やっと煙草に火が着いた。

 花房は煙をゆっくりとはきだして言った。

「洪の事、責めないのか?」

 葉は眉間に皺を寄せた。

「責めたらどうなる?お前、張を殺しにでも行くか?」

「・・・・・・」

 花房が何を言うべきかを考え始めたのを遮って、葉は訊いた。

「俺に何をさせたいんだ?」

 花房は咳払いをした。

「俺が李を締め上げてKAKAを連れ戻して来るから、その後、余からKAKAのパスポートを取り返すのを手伝ってほしい」

「そうか・・・」

葉はまた暫く沈黙した。フロントガラス越しに見える一番遠い街灯を瞬きもせずに見つめていた。

 やがて一度視線をダッシュボードの上に落としてから、ゆっくりと顔を花房に向けた。

「わかったよ。手伝うよ」

 花房はほっとした。礼の言葉を言おうかと思ったが、言ってもしらじらしく響くだけだろうと思い直してとっさにやめた。

「具体的にはどうする?」

花房は葉に煙草のパックを差し出した。

「まあ、一服しろよ」


 花房と葉を乗せたカローラが台北の駅前に停まった。

 あたりはすっかり明るくなっていたが、日ざしはまだ早朝のそれだった。

 通勤客が駅舎を囲む広場を足早に横切って行く。

 備え付けのデジタル時計を見ると、朝七時を少しまわったところだった。

「じゃあ、頼むぞ」

花房が言うと、葉は軽く肩をすくめた。

「自信はないけど、どうにかするよ」

 花房はうなずいて、ポケットから出した札の束を差し出した。

「すげえな」

「昨日の店の売上だ。余の金だから遠慮なく使ってくれ」

 葉はにやりとして花房の肩をたたいた。

 花房は葉が人込みに消えるまでその後ろ姿を見送って、車を出した。

 十分程走って、カローラは停まった。

 花房は車から降り、目の前の建物の入り口に立って一度大きく深呼吸をした。口をすぼめて少しずつ息を吐き出すと、自分が細かく震えているのがわかった。

 階段を上がって行き、なんどか来たことのある部屋の前に立った。

すこし躊躇したが、思いきってインターホンを押すと、しばらくして「はい」と女の声がした。

「あの、花房だけど」

ガチャっと受話器を置く音がして、すぐにドアが開いた。

「どうしたの?」

部屋着姿のリサは、少し腫れた目を見開いて訊いた。

「ひさしぶり」

「どうしたの?」

 暫くぶりに入ったリサの部屋は、以前と何も変わっていないように見えたが、洪と二人で撮った写真が入っていた写真立てが見当たらなくなっていた。

「あんた、日本へ帰ったんじゃなかったの?」

「うん、まあ」

「帰らなかったからここにいるんだもんね?それとも帰ってからまた来たの?」

「いいや、帰らなかった」

「そう。なんだっけあの娘?美人の彼女」

「ああ、KAKAね」

「そうだった、KAKA。彼女はどうしたの?」

 一番訊きたいだろう洪の事を訊かずに、まずKAKAの事を口にするあたりがリサらしかった。

 ますます話しづらくなってしまったが、洪の事をきちんと話すためにここにきたのだ。話さないわけにはいかない。

「うん、その事も含めてなんだけど、今日はさ」

「うん」

「実は、洪の事を話そうとおもって来たんだ」

「ふうん、でもまずは座ったら?」

リサは興味なさ気を装っていたが、無理をしているのは明らかだった。

「あ、ああ」

 花房がテーブルセットのいすに座ると、リサはコーヒーを二人分置いて向側に座った。

「一緒に逃げた女に逃げられて、また戻って来たいって?」

急に言われて、花房は言葉に詰まった。

「え?いや、そうじゃない」

「ふうん。じゃあ、何なの?」

 軽い口調とは裏腹に、その表情は当然ながら真剣だった。

「うん」

花房は下を向いて唾を呑み込んだ。鼻で大きく空気を吸って顔を上げた。

「ちゃんと話すから、ちょっと時間をくれ?」

「え?いいけど。何?真面目な顔しちゃって」

リサは花房のただならぬ雰囲気に、怪訝そうな顔をして黙った。

 花房は気持ちを落ちつけ、花房とKAKAのお別れ会を兼ねたライブが終わった朝から今日までの事をつとめて淡々と話した。ここに来るまでの間に、どうやって話したら良いかということをあれこれと考えていたのだが、それはまったく役にたたなかった。話をしている間中、まともにリサの顔を見ることができず、視線をずっとテーブルの上に置いて口だけを動かした。

 花房の話が終わると、長い沈黙が続いた。花房は下を向いたまま、必死に何か言う事

はないかと考えたが、何も思いつかなかった。

「わたしさあ」

唐突にリサが口をひらいたので、花房は驚いて顔を上げた。

「え?」

「急に洪がいなくなった時には、仕事から逃げたんだと思ってたんだ」

「仕事?」

「そう。ROUTE66の店長が、他に店を出すんで、洪を自分の後釜にしようとしててさ、あの次の日からあそこで働く事になってたんだよね」

「そうだったんだ」

「その話を私にした時は、やる気がありそうだったんだけど、やっぱりいざとなったら嫌になって逃げちゃったのかなって思ってたんだ」

「・・・そうか」

「でもさ、それだったら、しばらくしてひょっこり戻ってきそうなもんじゃない?」

「そ、そうだな」

「携帯も繋がらなくなっちゃってたし、あのパーティで会ったどっかの女と一緒にどこかへ行っちゃったのかなって思ってたんだ」

「そうか」

 リサは一瞬笑ったような表情をしたが、やがて声をあげて泣きはじめた。

 花房はどうしてよいかわからずに、前に置かれたコーヒーカップを見つめた。

 少しだけリサの泣き声がおさまってきたところをみはからって「あのさ」と声をかけてみた。

 リサは覆っていた両手の上に泣きはらした両目をのぞかせた。

「どうしても訊きたい事がある」

「何?」

「洪の事なんだけど」


 携帯電話の表示を見ると、午前十一時を五分ほどまわっていた。

 台北から台中までの三時間はあっという間だった。葉にメールを一本送る為に一度パーキングエリアに入った以外は、休憩すらとらなかった。

台中のインターチェンジから李の解体屋までは、車で十五分ほどだった。

花房は積まれた廃車の山が見えてくると、一度車を停め、大きく息をはいた。そして再び車を発進させ、ゆっくりと解体屋の敷地に入っていった。

 車の壁を両側に見ながら進んで行くと、事務所になっている小屋が見えてきた。

車を停め、辺りに人がいないかをうかがった。少なくとも小屋の周囲は無人で、訪問者のものらしい車も停まっていない。二匹の番犬が小屋の前で退屈そうに昼寝をしているだけだった。

そのまましばらく見ていると、李が小屋から出てきて、水か何かを地面にぶちまけてまた小屋に戻った。

 花房は奥歯を噛み締め、アクセルを目一杯踏み込んだ。気の毒にも思ったが、後で厄介な事になるかもしれないので、番犬はかまわずひき殺した。   

 小屋がぐんぐんと眼前にせまり、車は小屋の五メートルほど手前まで来たところで、今度は急ブレーキを踏んだ。シートベルトが胸にくいこみ、ハンドルに頭が押しつけられた。当然車は停まりきれるわけもなく、そのまま小屋に突っ込んだ。衝撃とともに小屋の外壁をぶち抜き中へ入った車は、もう一度何かにぶつかる大きな衝撃を受けて停まった。

 花房は額を何度かさわって、血が出ていない事を確かめてドアを蹴り開けた。ドアは散乱した物に押さえつけられていて一度では十センチほどしか開かなかったので、何度も蹴飛ばしてやっと出られるだけの隙間をつくった。

 車から降りてみると、小屋の中はめちゃくちゃに壊れていた。李を轢いてしまったのかもと思い、瓦礫をどけて車の下を見てみたが、そこに李はいなかった。

少しほっとして六十センチほどの木の棒を拾い上げ、李が奥の部屋から急に飛び出して来ることを警戒しながら、ゆっくりと壊れかけたカウンターに近付いた。そうっと奥の部屋への入り口に近づいてカウンターの切れ目まできた時、ふと横を見ると、李がカウンターと後ろの壁の間に胸を挟まれている事に気づいた。組んだ両腕の上に頭を載せてつっぷしている。カウンターの向こう側に立って何かをしているところへ、花房の車が突っ込んだらしい。

花房は木の棒を投げ捨ててカウンターの上にあがり、無造作に李の頭を蹴った。

「おい、起きろ、おっさん」

 李は「うう」と声をもらして、薄目をあけた。花房はしゃがんで李の前髪をつかんだ。背後の壁に押し付ける様に顔をあげさせると、李は口を大きくあけ、惚けたように焦点の合わない目をしきりにしばたたかせた。

「お前が台北の余から買ってきた女はどこにいる?」

 李は、やっと焦点が合ってきた目を花房に向け「あ」と言った。

「俺を覚えているみたいだな」

花房がそう言うと、李は視線をそらせてあたりをうらめしそうに見た。

「余から買った女はどこにいる?」

 李は視線を花房に戻し、口の端でにやりと笑った。

「洪は元気かい?」

花房の頭に血が逆流し、おもわず李の顔を机に叩き付けた。髪から手を離し、「うう」と声をもらして机につっぷしている李の頭を靴の裏で壁に押し付けて上を向かせた。

李はあけた口から血の混じった涎をたらしながら、うつろな目で天井を見た。

「台北の余から買ってきた女はどうした?」

「何言ってんだか、わからねえ」

「そうかい」

言うなり花房は、李ののど仏を靴の裏で蹴りつけた。李は後ろの壁に頭をぶつけた反動で机に額をしたたかぶつけ、のどを両手でおさえて空気を吸い込もうと必死でもがいた。

「台北の余から買ってきた女はどこにいる?」

 李は左手でのどを押さえたまま顔をあげ、右手の平で花房を制しながら、かすれた声で言った。

「ちょ、ちょっと待て」

「何を待つんだ?」

 李は必死で空気を吸い込み、やっとのことではき出した。それを何度か繰り返して少し呼吸のペースをとりもどすと、花房を上目遣いににらみ付けた。

「いくら払う?」 

 花房はあきれたが、呉の話が本当だった事がわかった。

 花房は小さく何度もうなずいて「なるほど」と言った。

「じゃあ話さなくていい。でも話したくなったらいつでも話してくれ」

「え?」

 花房は一秒に一回ほどの間隔で、李の顔を蹴りはじめた。李が手で花房の足をつかんで止めようとすると、反対の足でその上から蹴りつけた。少しでも隙間が出来ると、すかさずそこを狙って、靴底を何度も叩き込んだ。

「もうやめてくれ」

李は涙声を出したが、花房は一向に気にする様子はなく、一定の間隔で蹴り続けた。鼻血や涎や歯が机の上に飛び散った。

 李を蹴るそのひと蹴りひと蹴りが、KAKAが閉じ込められた部屋のドアをこじ開ける力になっているような気がして、気持ちが高揚してきた。

「言うよ、言うからもうやめてくれ」

「言わなくていい。言ってもらっても、払う金がない」

「こ、今回はまけとく」

「悪いからいいよ、無理すんなよ」

「頼む、蹴るのをやめてくれ」

「言ったら、蹴るのをやめてやる」

「わ、わかったよ。台中の黄だ。市内のポン引きに女を売ってる奴だ。嘘じゃない」

 李はすがるような目で花房を見た。

「嘘つけ」

「嘘じゃないって、頼む、もうやめてくれ」

「パスポートはどうした?」

「パスポート?」

「女のパスポートだよ」

「いや、受け取ってない。余が女はパスポートを持ってないって言ってた」

「嘘ばっかり言いやがって」

「嘘じゃないよ。嘘じゃないですよ」

 花房は足を止めた。李はおそるおそる顔をガードしていた手を下ろして花房を見た。花房は憮然として李を見下ろしていた。

「あ、ありがとう、ありが」

 李が二度目の礼を言い終わる前に、花房は思いきり李の鼻を真正面から蹴飛ばした。李は手で鼻をおさえて机につっ伏した。

 パスポートの件も呉は本当の事を言っていたらしい。

 足の裏で李の頭を押して上を向かせ、李の首から下げられていたひもを引きちぎると、カウンターから飛び下りて奥の部屋へ入った。

 李の金庫は以前と同じ場所に置かれていた。鍵を差し込み、レバーをまわすと金庫はあっけなく開いた。中にはさまざまな書類と、丁寧に千元札が十枚ずつに折り畳まれたものがさらに十束ずつ輪ゴムでくくられて大量に詰まっていた。

 花房は周囲を見回してずだ袋を見つけると、金庫の前に戻って、札束を一つだけ自分のポケットに入れ、残りをすべてその中へ入れた。次に書類や封筒の類いを一つずつ見てゆき、封筒をいくつか袋に入れた。

 袋を持って事務所の真ん中を占拠しているカローラに戻り、キーを回してエンジンをかけた。シフトレバーをリバースに入れ、アクセルを踏むと、タイヤは瓦礫をはね飛ばして空転したが、やがて下敷きにしていた木片や雑誌等をすべて前方に追いやって木の床を掴んだ。バリバリっと大きな音をたてて、車は小屋の外へ出た。 

 小屋から車二台分離れたところで車を停め、助手席に転がしていたガムテープを左腕に通してエンジンを切らずに小屋へ戻った。あちこちを漁ってバールや鉄パイプを集め、もう一度カウンターに上った。李の胸の高さまであった書類や電気製品をカウンターの外に次々と投げ捨てて自分が入れる隙間をつくると、バールの釘抜きになっている方を叩きつけてカウンターを壊していった。最初はびくともしなかったが、やがて李を後ろの壁に押しつけていた上板がはずれた。上板を蹴飛ばしてどかすと、カウンターと李の間に隙が出来た。李の背中側に手を入れ、ベルトの腰の部分をつかむと、足を踏ん張って横に引っぱった。

「痛い、やめて、くれ」

李はか細い声で懇願したが、花房はそれを無視して引っぱり続けた。やっとの事でカウンターの切れ目まで引きずり出すと、李の服やズボンはそこここが破れ、あちこちから出血していた。

 花房は李を床に座らせて上半身をガムテープでぐるぐる巻きにし「おまえの携帯はどこだ?」と訊いた。

「ズ、ズボンのポケットに入ってると思う」

 李のズボンを探って携帯を取り出した。電源が入っているのを確認してからコートのポケットに入れ、李の髪をつかんで出口に向かって歩きだした。 

李の意識は朦朧としていて、膝立ちに花房の動きについていくのがやっとだった。

 車のトランクの前まで李を引っ張って来ると、膝の後ろを蹴って地面に転がした。運転席にまわり、開いたままになっていたドアからずだ袋を投げ入れ、トランクのオープンレバーを引いた。車の後ろにまわり、トランクの蓋を持ち上げると、呉が眩しそうに花房を見上げていた。顔中に乾燥して黒くなった血がこびりついている。

 花房は少し笑いそうになった。 

それを抑えて後ろ襟を掴み、トランクから引きずり出した。地面に転がし、今度は李を立たせてトランクに押し込んだ。

「頼むよ、赦してくれよ」

「わかった。赦す」

「え?」

 にやりと笑ってトランクの蓋をバンと音をさせて閉めた。

 呉に向きなおり、携帯を出してレンズを呉に向けた。

 呉は不安げに携帯を見ている。

「おい、死んだ振りしろ」

「え?」

「死んだ振りだよ」

「え?なに?」

「てめえ、いいかげんにしろよ。本当にぶっ殺すぞ」

「あ、振り?すればいいの?」

「早くしろ、この野郎」

 呉は目をつむり、体の力を抜いた。

 花房はそれを写真に撮り、携帯をポケットにしまった。

「もういいぞ」

目を開けた呉の後ろ襟を掴んで、そのまま十メートル程先の廃車の山まで引きずった。

 呉の襟から手を離し、数台の車を調べるとすぐにお誂え向きのものが見つかった。

 上に二台の廃車を載せた、元々は少し黄がかった白だったと思われる錆だらけのその乗用車は、窓ガラスが全て割れ、ひしゃげたドアは一枚も開きそうになかったが、トランクは呆けた様に口を開けている。

 花房が呉に向かって手招きをすると、呉は必死で両足をバタつかせて後ずさった。

 仕方なく呉のところまで戻り、うつ伏せにさせてから腰のベルトを掴んで立たせた。 

「嫌だ、嫌だ」

「知らねえよ。がたがた言うな」

「嫌だ、嫌だ」

 うるさいので、左腕を呉の首に巻きつけて口が開かない様にしたが、それでも涙声で何やらわめいている。

 トランクの前まで後ろから押して歩かせ、頭から中に入れようとすると、呉は足を踏ん張った。

「やめてくれ」

「いいから、入れ」

「嫌だ、こんな所に入れられたら死んじゃうよ」

「死なないよ。おまえにうろちょろされると困るから、ちょっとの間入っててもらうだけだ。いろいろ済んだら迎えに来てやるから」

「嘘だ」

呉はかぶりを振った。

「嘘だ、絶対嘘だ」

 花房は思わず吹き出した。

「そりゃそうだよな。そんなわけないもんな」

「ほらみろ。嘘なんじゃないか」

「当たり前だろ」

 呉の尻を膝で蹴り上げ、前のめりの体勢にしておいて、そのまま頭からトランクに叩き込んだ。

 呉は仰向けになろうともがいたが、トランクは狭すぎた。

「やめてくれ、本当にこんな事やめてくれよ」

「殺しはしないよ。あとはお前次第だ」

花房は、そう言って蓋を閉めたが、完全には閉まらなかった。

 カローラに戻り、運転席に乗り込むと、エンジンをかけてシフトレバーをリバースに入れた。 

カローラはじゃりじゃりと土の地面を噛み、呉の乗った車にどすんと当たった。大した衝撃ではなかったが、上に載った二台の車はゆらゆらと揺れ、やがてすぐ上の車がゆっくりと滑り落ち始めた。

花房はカローラを前に出し、元あった場所あたりで停めた。

運転席から降りて見ていると、呉が入っているトランクの蓋に腹を押し付けるように、滑っていた車は止まった。

「ちょっとやりすぎたか・・・」

そうは言っても、呉の上の車をどけている時間はない。ガムテープがほどければ、後部座席側から出る事は可能だろう。

花房はカローラのトランクのオープンレバーを引いた。

蓋を開けると李はまぶしそうに花房を見上げた。

 花房は李の携帯の電話帳を繰って黄の番号を呼び出した。

「さっき言ってた黄って奴と会う約束をとりつけろ」

「え?何て言えばいいの?」

「知るか。生きたきゃ、てめえで考えろ」

 花房は李にかまわず通話ボタンを押して、李の耳に押し当てた。


 陽が落ちはじめ、台中の街には活気が出てきていた。

 携帯が鳴ったので花房は車から降りた。

 李に黄と待ち合わせをさせた交差点で、携帯を耳にあてている男は一人だけだった。

 花房がその男に近づいて「黄さん?」と訊くと、男は「そうだけど」とこたえ、訝しげに花房を見た。

 黄は三十代半ばの人好きがする顔をした長身の男だった。真っ白なTシャツとジーンズ姿に藍色と白のグラデーションに染められた開襟シャツを羽織っている。

「俺は花房っていう者で、あやしいもんじゃない。黄さんにどうしても会いたかったから李に頼んだんだ。申し訳ないけど話を聞いてほしい」

「あやしいもんじゃないって言われてもな。知らねえ奴がそんな袋を持って近づいて来た時は話を聞かない事にしてるんだ。李はどこにいる?」

「話を聞いてもらった後で会わせるよ。この袋の中身は金だ。話がまとまればあんたに渡す為に持って来た」

 黄はずだ袋と花房を見くらべた。

「そうかい。じゃあ、中を見せてくれ」

 花房は「いいよ」と言って袋の口を小さく開け、中を見るように促した。

 黄はそうっと中を覗いて頷いた。

「名前をもう一度言ってくれ」

「花房だ。日本人なんだ」

「日本人か」と言って黄は少し考え「人が多い所で聞くよ」と言った。

 二人は歩いてすぐのカフェの二階に上がり、奥の壁際の席に向かい合って座った。

 黄がホットのコーヒーに四つ目の角砂糖を入れたところで花房は切り出した。

「この間、李から買った女がどこにいるか、おしえてほしい」

「女?」

六個の角砂糖を入れたコーヒーに口をつけて、黄は上目遣いに花房を見た。

「そうだ。李が台北から連れてきてあんたに売った女だよ。事情は訊かないでほしい」

黄はにやりとした。

「儲け話なんだろ?俺が訊きたいのは金額だ」

 花房は李の所から持ってきたずた袋を黄に渡した。黄はそうっと袋の口を開けて中を覗き込んだ。一度顔を上げて花房を見たが、すぐに袋の中に視線を戻してざっと金を数えた。それが終わると、一緒に入っていた封筒を取り出して「これは?」と訊いた。

「李の店の権利書と古物商の営業許可証だ。それもつける」

「こんなもん貰ったって、李に訴えられたらそれで終わりだ。いらないよ」

「見てほしいものがある。ここを出よう」

 花房はずだ袋を黄から取り上げて立ち上がった。

 花房が車のトランクを開けると、体中にガムテープを巻かれた李がタオルで猿轡をされたまま声をあげた。

「あんたのやり方一つで李は訴えないと思うよ」と花房が言うと黄はにやっとしてうなずいた。

「わかったよ。でも、李を引っぱっては行けないから、この車もつけてくれ」

「いいよ。ただ、支払いは女が見つかってからだ」

「それは大丈夫だ。でも俺が出来るのは、女を売った店をおしえるだけだぞ」

「どういう事だ?」

花房は眉をひそめたが、黄は平然と言った。

「当たり前だろ。売り先は大事な商売相手だ。裏切るのは構わないが、それを知られちゃ困る」

花房はしばらく考えてうなずいた。

「わかった。でも、その店までは一緒に行ってくれ」

「勿論だ」

黄は先にカローラに乗り込んだ。

 ゆっくりと細い路地を数分走らせたところで、黄は車を停めるように言った。

 道の向かい側に例によってカラオケ店があった。

「あそこだ」と言うと、黄は背もたれを倒し、頭の後ろで腕を組んだ。

 花房は車から降りて、ボンネットに尻とずだ袋を載せた。

 それから数時間、立て続けに煙草を吸いながらじりじりとして待った。その間に何人かの男女が出入りしたが、KAKAの姿は無かった。花房は時折、物言いたげな目でフロントガラス越しに黄を見たが、黄はぼんやりと外の風景を眺めているだけだった。

 それからさらに数時間が過ぎた頃、花房はため息をついて空になった煙草の箱を握りつぶした。車道に向かって放り投げ、それを目で追っていくと、地面に落ちる少し前に急に辺りの物すべての動きがスローモーションになった。ハッとして視界の隅にあった店の入り口に目を向けると、KAKAが店から出てきたところだった。

 花房はボンネットの上に置いていたずだ袋を黄の胸元に放り投げ「ありがとう」と早口に言うと、車が来るのも構わず強引に道を横切った。  

 花房はKAKAに駆け寄り、いきなり腕を掴んだ。

 KAKAは驚いて振り返った。


 高鐵(新幹線)台中駅までタクシーをとばした。台中の市街地から二十分程の距離だったが、二人は車中、一言も口をきかなかった。

 台中駅に着き、切符を買ってホームに立った。列車が来るまでには十五分ほど時間がある。

花房が前回この台中駅に来た時は、洪と一緒だった。その時は、こんな未来が待っているとは想像だにしなかった。

 花房は飲み物の自動販売機にコインを入れ、それを指差してKAKAに好きな物を選ぶよう促した。KAKAはオレンジジュースのボタンを押した。花房がもう一度コインを入れ、自分用にコーラを選んでベンチに座ると、KAKAも隣に座った。

 両腿の間に缶を挟み、片手でプルトップを引く花房を見て、KAKAは口をひらいた。

「手、どうしたの?」

花房は口に持っていきかけていた缶を膝の上に置いてKAKAを見た。

「失くしちゃった」

「そう」

 それが二人が台北に着くまでにした唯一の会話だった。二人共、訊きたい事、話したい事はいくらでもあったが、何から始めたら良いのかがわからなかったからだ。この数カ月間は自分にとっていろいろな事が有りすぎたが、相手にとってもそうだっただろうと容易に想像がついた。

 台北駅に着いたのとほぼ同時に日がかわった。駅前でタクシーを拾ってリサの家へ向かった。

 リサはテーブルの上にコーヒーの入ったマグカップを二つ並べて置いた。

「ありがとう」

KAKAが言った。

 花房は形だけカップに口をつけて立ち上がった。

「俺、ちょっと出掛けてくるから」

「どこへ?」

「仕事を途中で放り出して来たから、一度職場に戻る」

「そうなんだ」

リサがそう言って台所へ戻ると、KAKAは不安そうに口を開いた。

「仕事をしてるの?」

「え?まあ、そりゃね」

「余と関係があるの?」

「いや、そんなんじゃなくて、本当は世話になった奴がいるんで、黙って行くと迷惑がかかるから、ちょっと話をしに行くだけだよ」

「そう」

KAKAは納得していないだろうが、仕方がない。

「ちょっとって、どのくらいなの?」

自分用のマグカップを持って二人の前に戻ったリサが訊くと、花房は「うーん」と少しだけ考えてから言った。

「どんなに時間がかかったとしても数時間だよ。朝までには二人で出て行くから」

「あ、そうなの?私はいいよ、何日か居ても」

「ありがとう。もしどうしても必要だったら、頼むよ」

「そう」

リサはうなずいて、今度はKAKAに言った。

「もし疲れてたら、そこのソファで寝ていいからね」

「ありがとう」

「あ、そうだ。お腹すいてない?晩ご飯食べた?」

「言われてみれば、食べてなかった」

「じゃあ、何か食べに行こうか」

「うん」

「あ、そうだ。花房さ、ラブシーン的な事するなら、先に外へ出て待ってようか?」

リサはいたずらっぽい顔をして言ったが、花房は顔をしかめてリサとKAKAを見比べた。

「いいよ、何言ってんだよ」

「遠慮しなくてもいいんだよ」

 花房は苦笑して立ち上がった。

「じゃあ、俺行くわ。悪いけど、頼むね」

「あ、そう。じゃ、いってらっしゃい」

 ドアに向かって歩きながら花房はKAKAの肩に軽く触れた。KAKAはうなずいてそれに応えた。

 ビルから出て少し歩き、大通りにでた。

 煙草をくわえ、携帯の電源を入れた。

 葉に電話を掛けようと電話帳を開いている間に、次々と着信の通知が入ってきた。十件入っていたが、全て余からだった。

 まあ、何も言わずに店を一日開けなかったのだから、電話くらいしてくるだろう。

葉に電話をしてから、十分たらずでタクシーが目の前に停まった。

 葉はタクシーのドアを閉めてあごを軽く上げて見せた。

「彼女はどうしてる?」

「リサと一緒にいる。二人で飯を食いに行った」

「そうか。よかったな」

「うん。お前の方はどうだった?」

「たぶん大丈夫だと思う。でも、賭けだよ」

「そうだな。タイミングが合えばいいけど」

葉はうなずいて、肩から提げていた二つの濃い灰色のかばんのうち一つをさし出した。

「全部揃ってる」

「わかった」

それを受け取って肩に掛けてみると、かばんは薄いわりにずしりと重かった。

「あっちから連絡が来るのか?」

「ああ。もう来ても良い頃なんだけどな」

「待つしかないか」

「そうだな。確認したいんだけど」

「何?」

「タイミングが合わなかったら、すぐ中止するんだよな」

 花房はあいまいにうなずいて「ああ」とだけ言った。

「なんだよ、ああって」

「え?いや、わかってるって事だよ」

 葉は上目遣いに、射すくめる様に花房を見た。

「お前、俺に言ってない事ないよな?」

「ないよ。何だよ、言ってない事って」

「知らねえよ。無いならいい」

 花房は煙草の箱を取り出して、無言で葉に向けた。

 葉は花房の目から視線を外さずに、一本抜いてくわえた。


 葉が乗ったタクシーを見送り、通りに出た花房は携帯を取り出した。

 まず、呉に死んだ振りをさせて撮った写真を余に送り、それから電話を掛けた。

余はなかなか出なかった。掛ける度に留守電になり、五回目にやっと出た。

「てめえ、店をほっぽり出して、今日はどこへ行ってた?」

なかなか出なかったわりには、寝起きの声ではなかった。

「その事なんですが」

「なんだ?」

「メールで送った写真を見てもらえましたか?」

「写真?見てねえ。何だ?」

「すぐ見てください」

 余は面倒くさそうに携帯を耳から離してメールボタンを押した。花房から送られた題名のないメールを開くと、血まみれの男の写真が目に飛び込んで来た。それが呉だとわかるまでにしばらく時間が必要だった。

「何だこりゃ」

「呉さんです」

「わかってる。この写真を何でお前が持ってるんだ?」

「俺が殺したからです」

「なに?」

「その事でお話ししたいんで、これから店に来てもらえませんか?」

 余はしばらく考えてから「わかった。行く」と言って通話を切った。

 花房は通りがかりのコンビニエンスストアで、ウイスキーのポケット瓶を買った。再び歩道に出ると、瓶の三分の一程を一気に胃の中に流し込み、ふうっと息をついた。

 角を曲がると、店の看板が見えてきた。

店の前の騎楼の柱に設置されている公衆電話の上にウイスキーの瓶を置き「よし」と気合いを入れて、店に通じる階段を下りた。

 入り口のドアを開けると、余と楊が同時に花房に視線を向けた。

「おつかれさまです」

花房がつとめて自然に言うと、余は不満げに口を開いた。

「お前、店にいたんじゃなかったのか?」

「ええ、ちょっと出てました。あのう」

「何だ?」

「余さんと二人で話したいんですけど」

 余は少し考えてから楊に向けて顎をふった。

楊は明らかに不満そうな顔をしたが、うなずいて出口に向かった。

花房はその後をついて行き、楊がうしろを気にしつつ階段をのぼりきったのを確認して、シャッターを下ろした。足でシャッターのへりを踏んで、完全に下まで下ろして鍵をしめた。

 余はソファにふんぞり返ったままその様子を見ていた。花房が折り畳みいすを出してきて余の向かいに座ると口を開いた。

「あの写真はなんだ?」

「呉さんです」

花房が肩から掛けていたカバンを床に置きながら言うと、余はわけがわからない様子で続けて訊いた。

「本当にお前が殺したのか?」

花房は口の端を上げ、にやりとして見せた。

 余はソファをバンっとたたいた。

「何なんだ?お前、何の為にこんなものを送って来たんだ?」

「余さんにここに来てもらう為ですよ」

「どういう事だ?」

「話しをする為ですよ」

「話し?」

 余はふうっと息をはいた。

「おめえ、俺と話しをする為に呉を殺したってのか?」

 花房の目が鋭く光った。

「呉が口走ったんですよ。余さんがKAKAを李に売り飛ばした事をね」

「バカが」

余は吐き出すように言った。

「そうですね」 

花房は携帯を取り出し、耳にあてた。余が奥歯を噛みしめた口を半開きにして睨みつけたが、無視した。

 葉はすぐに電話に出た。

「始めてくれ」

「わ、わかった」

携帯を切らずにテーブルに置き、袋からスマートフォンを取り出して電源を入れた。

「お待たせしました」

 余は不機嫌そうに煙草に火を着けた。

「で、俺は何を待ってたんだ?」

花房はスマートフォンを操作しながら、いくつか吸い殻が載った灰皿を余の前へずらした。

「パスポートを返してください」

「あ?」

「KAKAのパスポートですよ」

「パスポート?なんで俺がそんな物を持ってると思うんだ?李に女を叩き売った時に一緒にくれてやっちまったよ」

「嘘です」

「嘘?」

「ええ、李には渡してないって、呉がおしえてくれましたよ。」

 余はふっと鼻で嘲った。

「李も受け取ってないって言ってました」

「お前、そんな奴らの言う事を真に受けてんのか?」

「いえ、でもKAKAの言う事は真に受けますよ」

 余は目を剥いて身を乗り出した。

「おまえ、KAKAと会ったのか?」

「ええ、連れて帰って来ました」

「どうやって?まだ李の所にいたのか?」

花房がKAKAを連れ戻した経緯を余が本当に知りたがっている様子が少しおかしかったので、わざと「気になりますか?」と少しおどけて言ってみると、余は憮然として背もたれに寄りかかった。

「とにかく、俺はそんな物は持ってねえ」

「そうですか」

花房は何度か小さくうなずき、スマートフォンを余に差し出した。

「余さん、これを見て下さい」

余が面倒くさそうにそれを受取って画面を見ると、そこには余の家に通じる階段が映っていた。それは葉が首から下げたスマートフォンでまさに今撮っているものだった。

余はそれに気付くと、驚いて顔をあげた。

「てめえ、これ」

「ええ、余さんの家です。パスポートを返してくれないなら、奥さんと子供さん全員を刺した後、玄関にガソリンを撒いて火を着けます。どうしますか?」

「どうしますかだと?」

「余さんの家族がどうなろうと、僕はどっちでも良いんですよ。余さん次第です。もう必要のないパスポートを取るか、家族を取るかです」

 スマートフォンの画面には余の家の玄関に赤いガソリン缶から液体がぶちまけられているのが映った。

「てめえ、汚ねえぞ」

「ええ、でもこれしか方法が思いつかなかったんで」

 余は顔に拳をあて、思い切り額に食い込ませた。しばらくしてはっと何かに気付いたように顔を上げた。

「これが本物のガソリンだっていうのはどうやってわかる?水をぶちまけてるだけかもしれねえよな」

「確かにそうですね」

花房はまっすぐに余の目を見て言った。

余が肩を上下させながら目だけを画面に戻すと、葉は自前の道具を使って玄関の鍵を開けた。

「ガソリンは偽物にできても、ナイフを突き立てるところを偽装することはできないでしょう?俺がこの電話で止めろと言わなければ、こいつはやりますよ」

 葉は音をたてないように後ろ手でゆっくりとドアを閉め、少しずつ奥へ進んだ。廊下を抜けてリビングに入るとドアが二枚見えた。耳につけた携帯から伸ばしたイヤフォンに神経を集中させ、花房が部屋を出ろと言うのを待った。

 余は腕を堅く組み、歯をくいしばって画面に見入っていた。

花房は携帯を手に取って「そのまま少し待っててくれ」と葉に言い、携帯から耳を離して余に訊いた。

「子供部屋は左側ですか?」

 余の体中の血が一気に脳に上がって両腕に震えがきた。

「このガキ、殺してやる」

絞り出すように言ってはみたが、今はどうしようもない。

 今少しでも怒りをあらわにすれば、花房を絞め殺すまで自分でも自分を止められないだろうが、花房を絞め殺した後、どんなに急いで家に帰っても間に合わない。花房は呉を殺している以上、やると言ったらやるにちがいない。

余は何とか怒りを押さえこんだ。

「KAKAのパスポートを返してください」

余はやっとのことで薄ら笑いを浮かべた。「そんなもん捨てちまったよ」

花房は首を横に振った。

「そうは思えないですけどね」

「何でだ?」

「余さんがKAKAのパスポートを李に渡さなかったっていうのは、何か理由があったからだと思うからですよ」

「理由?」

「ええ」

「どんな理由だ?」

「わかりません。おおかた、KAKAを完全にはあきらめきれなかった、っていうような程度の話だとは思いますがね」

余は鼻から大きく深呼吸する事で、今回もなんとか怒りを押さえた。

「くだらねえ事を言ってんじゃねえよ」

「ええ、本当にくだらない話ですよね。商品に手をつけるだけじゃなくて惚れるなんてね」

余は花房から視線を外し、大きく息をはいた。

「家に置いてあるなら、探させますよ。奥さんがいるのに女のパスポートを置いてるとは思えませんがね」

余はぎろりと目だけで花房をにらみ上げて立ち上がった。奥の事務所へ入って行き、しばらくして出て来ると、パスポートをテーブルの上に投げ出した。中華民国政府発行のものと日本政府発行のものだった。

 余はどかっとソファに座り、背もたれにだらしなく寄りかかって左腕をだらりと下げた。

「これで良いんだろ。すぐに止めさせろ」

 花房は携帯をテーブルの上に置き、二冊のパスポートがそれぞれKAKAと花房のものだと確かめた。

「これだけじゃ、駄目です」

「なんだ?」

「余さんの携帯をください」

「携帯?何でだ?」

 花房はいらいらして口調を強めた。

「どうでもいいじゃないですか。ぐずぐずしてて奥さんがトイレにでも起きてきたら刺すしかないですよ」

 余は煙草を取り出して一本くわえた。

「わかったよ」

 憮然として携帯電話をポケットから出し、テーブルに置いた。

 花房はそれを手に取り「暗証番号は?」と訊いた。

「何を見たいんだ?ろくなもんは入ってないぞ」

「暗証番号は?」

 余はちっと舌打ちをして番号を言った。

 花房がその番号を入力すると、ロックは解除された

「もういいだろ。早くこいつをやめさせろ」

 花房はうなずいて、自分の携帯を耳にあてた。

「もう大丈夫だ。引き上げてくれ」

「わかった」

葉はほっとして言うと、出来るだけ足音をたてないように余の家から出た。音をたてないようにそっとドアを閉め、ドアノブから手を離したと同時に階段を駆け降りて道路に飛び出した。水の入った石油缶は置きっぱなしにした。

 余は画面が余の家から遠ざかって行くのを確認してスマートフォンを花房に向かって放り投げた。

 花房は器用にそれを受け取って携帯電話と並べてテーブルの上に置いた。そして足下に置いておいた袋を膝の上に載せ、中から鉈を取り出した。

 余はソファの背もたれから背中を離し、唖然として花房の顔と鉈を見くらべた。

「何だ、そりゃ」

「見りゃわかるでしょ。鉈です。最後に余さんの片手をもらいます」

 花房は二冊のパスポートと携帯、それにスマートフォンをコートのポケットにしまい、右手に鉈を握りしめて、ゆっくりと立ち上がった。膝の上に置いていたずだ袋が、がさりと音をたてて床に落ちた。

余はソファの背もたれをぎゅっと掴み、少しずつせり上がった。

花房はテーブルを足で横にずらした。

余は必死に目を動かし、どちら側に逃げる

べきかを考えた。

突然、花房は鉈をふり上げて余に突進した。

余は反射的に左に横っ跳びにそれをよけた。鉈は余の右足のすねを一センチほどの深さで切り裂いてソファに刺さった。花房がソファの内部の材木に食い込んだ鉈を抜き取とろうとしている隙に、余はソファから転がり落ちて腕の力で床を這った。店の出口を目指して花房のわきをすり抜けようとしたが、花房は右足を伸ばしてそれを阻んだ。皮肉にも花房が足を伸ばした事で力が加わって鉈はソファから抜けた。花房がもう一度、今度は余の真上に鉈をふり上げるのを見て、余は上体を起こし、手と足を使って仰向けに後ろへずり下がって逃げた。花房がぐんと足を踏み出すと、余は昆虫の様に手足を小刻みに動かして後ずさったが、すぐに背が壁に当たった。行き詰まって花房を見上げると、その時すでに花房は余の右手首を目掛けて鉈を振り下ろしていた。立っている状態から床についた手を狙うのは意外と難しく、また、余が右手を反射的に引き寄せた為、鉈は余の右の二の腕の肉と骨をかすめて、その後空を切った。余は獣のような叫び声を上げ、二の腕を押さえて体をかばうように左側の壁際に転がったが、花房がすぐにまた鉈を振り上げるのが見えたので、必死に両足をばたばたと動かして花房の動きを牽制した。  

 花房はまるで行く手を阻む雑草をかき分けるように無造作に何度も鉈を振り下ろした。その度に鉈の切っ先は余の足のあちこちを切り裂き、黄色く濁った目の様な傷口が開いていった。それらの傷口からは、涙がほとばしる様に血が溢れ出したが、そのほとんどは余のズボンを染める事はなく周囲の壁や床に飛び散った。

ひっきりなしに声をあげながら、痛みを感じる暇もなく足を動かし続けた余も、鉈の刃が三センチ程右膝に食い込んで止まると固まった。声をあげる事すら出来ずに過呼吸を起こし、驚いた表情のまま散歩を嬉しがる犬の様にはっはと空気を吸い続けた。

花房は無造作に鉈を余の膝から抜いた。そして余の右腕を右足で踏み付けると、ゆっくりとしゃがみ込み、全体重をそこにかけた。 

余はもがきながら死にものぐるいで花房のコートを引っぱったが花房は微動だにせず、余の右の手首に狙いを定め、思いきり勢いをつけて鉈を振り下ろした。鉈が骨に食い込んだショックで余はそれまで吸いためた肺の中の空気をすべてはき出し、そして絶叫した。 

手首を切り落とすのは意外と手間がかかった。同じ場所に叩き付けているつもりでも、振り下ろす度に数ミリから数センチずれる為、傷口がなかなか深くなっていかなかった。やがて骨を打つ感覚がなくなって鉈が床を叩いたところで、花房は皮一枚を残して手を止めた。

振り返って余の顔を見ると、余は痛みが激しすぎたのか白眼をむいて失神していた。

花房は、その間抜けな顔におもわずふきだした。

くっくと笑いながらゆっくりと立ち上がり、鉈を床に放り投げた。

腰を伸ばしてから、右足を余の右腕の上に載せ、握手をする様に余の手をつかむと、一気に腕から引きちぎった。

これで余への意趣返しは終わった。

 息が上がって、なかなか落ち着かないので、壁際へ行き、床に腰を下ろして寄りかかった。

 あらためて店の中を見渡すと、自分でした事ながら、大惨事としか言い表しようがない状態だった。

 震える手で煙草をつけ、自分の丸まった左腕の先を眺めてみたが、特に何の感情も湧き上がっては来なかった。

一本吸い終わる頃、やっと息が落ち着いてきた。

 仰向けに倒れている余の腹が少しだけ上下している。

 まだ生きてはいるらしい。

 壁に体を押し付けるように立ち上がってコートのポケットから三台の携帯と二冊のパスポートをとりだした。 

それらをズボンのポケットに押し込んでからコートを脱ぎ捨て、血で濡れた床を滑らない様に歩いて奥の事務所へ行った。

あちこちの棚を漁り、扉を開けては閉めた。

角に置かれたスチール棚の扉を開けると、使いかけのガムテープが数巻置いてあった。

「あった」

巻が一番太いものの芯に腕を通し踵を返そうとした時、ふと壁と棚の隙間に目がいった。覗いてみると、花房のギターが押し込まれてあった。

余や呉がそんな事をするわけがないので、おそらく揚が置いておいてくれたのだろう。

全部うまく行ったら、取りに来なきゃな。

声に出さずにつぶやいて、店に戻った。

 靴の裏の全面を同時に床につけて滑らない様に歩いて余の傍らへ行き、しゃがんだ。

 歯で先端を噛み、ガムテープを引き出しては切り、自分の体に軽く貼った。それを五回繰り返してガムテープの巻を投げ捨てると、余の手が無くなった右腕の先に切っておいたテープを次々と何重にも巻きつけた。きつく巻いているつもりだったが、わずかな隙間をぬってすこしずつ出血してくる。

 全てのテープを巻き終わると、なんとか血は止まった。

 花房は立ち上がり、また事務所へ行った。

流しで手と顔についた返り血を洗い流し、蛇口に口をつけて水をたらふく胃に流し込むと人心地がついた。

「さてと」

事務いすを引き出し、携帯とスマートフォンをズボンから引っぱり出して座った。

 携帯とスマートフォンを目の前に並べて置き、煙草に火をつけた。

 ゆっくりと煙をくゆらせ、半分程になった時、店のシャッターが開く音がした。

 煙草を灰皿に押し付け、音を立てないように立ち上がってそうっと店を覗いてみると、入り口に楊が立っていた。

 楊は店内の惨状を見つめて固まっていた。

花房がフロアに出てもこちらを向こうとはしなかった。

「これ、お前がやったのか?」

「そうだ」

「余さんは、死んでるのか?」

「知らねえ」

「知らねえ?」

やっと楊は花房に顔を向けた。

「知らねえじゃ済まないだろ。生きてるんなら医者に見せないと」

「そう思うんなら、自分で連れてけよ」

 楊は何か言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。 

 花房は事務所へ戻り、またいすに座った。

 楊はそうっと余に近づいた。何度か血で滑りそうになったが、なんとか踏みとどまった。

余の口元に手をかざしてみると、わずかだったが余の呼吸を感じた。

余の体のあちこちからのぞいている黄色い脂肪の層に吐きそうになりつつ、落ちていたガムテープを傷口に貼って取りあえずの血止めをした。

それを終えると、余の左腕を自分の首にまわし、腰に力を入れて立たせた。 

何度もよろめきながら出口を目指したが、余の体重が重すぎてなかなか進まなかった。 

 出口のすぐ手前で向きを変えようと左足を軸にして踏ん張ったとたん、靴底についた血のりで足が滑って楊はひざをついた。はずみで余は右の脇腹を下にして床に転がった。「痛てて」と楊が声を出すと、余もそれに応えるように「うーん」とうなった。

「勘弁してくれよ」

楊が舌打ちをして、もう一度余の腕を自分の首に巻き付けて立ち上がろうとした時、余は薄目を開けた。

「お、おめえ、何やってんだ?」

「あ、起きたんすか?病院に行こうと思って」

「ここはどこだ?」

「え?店ですよ。余さんの」

 余の視界はぼやけていて、店だと言われてもどこの店なのか、そもそも何の店なのかすらわからなかった。体が鉛の様に重く、四肢のどこもが自分のものでは無いように感じられた。

「何があったんだ?」

「余さん、手」

楊は余の右腕を指した。

余が楊の顎先からゆっくりと線を引く様に自分の右腕に視線を移すと、以前は右手があったあたりに赤黒い岩のようなガムテープの固まりが見えた。驚いて目を大きく開いたとたん、激痛が走った。

余は叫び声を上げ、楊を振り払った。

楊はたたらを踏んで尻もちをついた。

「病院、病院」

余が右腕の先を凝視しながら叫んだ。

「だから、言ったじゃないですか」

 楊は立ち上がって、また余のベルトの腰のあたりを掴むと、左腕を自分の首に巻き付けた。

「ちくしょう、花房の野郎」

「思い出しましたか?」

楊は「花房なら奥にいますよ」と言いかけたが、面倒な事になるに決まっているとすんでの所で口をつぐんだ。

「ほら、病院行きましょ」

 今度は余も黙ってうなずいた。

 店から人の気配が消えても、花房は事務所の椅子に座ったままだった。

 それから、まんじりともせずにどれくらいが経っただろうか、突然花房の携帯が鳴った。

 ひったくる様に電話を手に取り、ワンコールで出た。

「もしもし」

「花房か?」

葉の声が高揚している。

「うん、どうだ?」

「来た」

「そうか、じゃあ次だな」

「ああ。どうしたら良い?」

「今、どこにいる?」

「お前のいる店からすぐだ。二、三分で行かれる」

「わかった。じゃあ、外に出て待ってる」


張が経営するキャバクラが多数入ったビルは、今夜も煌々と下品な光を撒き散らしながら夜の林森北路を睥睨していたが、花房にとっては、あの日以来、何度近くを通りかかろうとも見上げることすら避けてきた忌まわしい場所だ。

一ブロック手前の道の反対側の角から様子を伺っていた花房は隣にいる葉の肩をつついた。

「あれだ」

花房が指した指の先に紫色のベントレーが停まっているのが見えた。男が一人ボンネットに寄りかかって携帯の画面を見ている。

「あの紫の車か?」

「そうだ」

「アホだな」

「俺が行って様子を見てくる」

葉はにやりとして通りに出て行った。花房はうなずいてそれを見送った。

 葉は何気なく歩いていって、そのまま車の横を通り過ぎ、最初の路地を左に折れた。

 すぐに花房の携帯が震えた。

「どうだった?」

「まぬけ面が一人いるだけで、誰も乗ってない」

「そうか。じゃあ一気にやっちまおう」

 花房は通話を切り、通りを斜めに横切った。

 葉は路地から出てきて、通り抜けざまに車に寄りかかっている男の腹を思い切り蹴飛ばした。

 花房は運転席のドアノブを引いたが、ドアは開かなかった。

「ロックされてる。鍵を取れ、鍵」

「わかった」

葉は路上に丸まった男のあちこちを探って鍵束を探した。

 花房は男の顔を見て「あれ?」と言った。

「お前、この前の奴じゃねえか?」

 男は首を回して花房を見た。そして、うんざりした様に「あー」と声を絞り出した。

「全然懲りてないな。不注意もいいところだ」

男は腹を蹴られたせいで、呼吸が上手くできず、はっはっと短く空気を吸い込みながら言った。

「こ、懲りてるよ。お前の所為で張さんに足を撃たれてびっこになったんだ」

「そうか、そりゃ悪かったな」

「悪かったと思うなら、やめてくれ」

「あったぞ」

葉は「ほらよ」と鍵束を花房に向かって放り投げた。

花房はそれを受け取ってリモコンキーのボタンを押した。

ガシャっと全ての鍵が開く音がした。

「待ってくれ。二度目は殺されちゃうよ」

「じゃ、ばれる前にどっかに行っちゃえ」

男の叫びは車の発進する音にかき消された。


「話し、聞いてます?」

 電話の向こうからの花房の問いかけに、はっと我に返った張は上ずった声で「き、聞いてる」と答えた。

「運転手はどうしました?」

「運転手?」

「車のとこで張さんを待ってた奴ですよ」

 そう謂われてみると、見当たらなくなっている。

 張は自分が経営しているキャバクラで酒を飲み、外へ出て来たところで花房からの電話を受けた。

 二人のボディガードと見送りに出てきた女達が不安そうに張を見ている。

 張は怒りを通り越して呆然としていた。口に慣れた脅しの文句も今は出てきそうになかった。自分の人生でここまで虚仮にされた事は、記憶をどこまで遡っても思い当たらず、過度の怒りがかえって張の頭の中を真っ白にしてしまったようだった。

「いなくなった」

「そうですか。じゃあ良かった」

花房は雙連駅近くで張の車から降り、もと来た道を歩いて引き返しながら電話していた。車は葉が乗って行った。

「それで、話の続きですが、車をお返ししたいんですが」

「貴様、何を企んでやがる?」

「別に何も。ただ、張さんと直に会ってお話ししたい事があるだけです」

「話?その為にまた俺の車に手をつけやがったのか?」

「ええ、他に良い方法が思いつかなかったんで」

「今度捕まったら、どうなるかも思いつかなかったのか?」

 花房はふふっと笑った。

「一度電話を切りますから、揚に電話して下さい」

「揚?」

「ええ。余さんのとこの揚です。電話番号をメールしますから」

「どういう事だ?」

「揚に余さんが今どうしているか訊いて下さい。訊いてもらえばわかります」

そう言い放って、張の返事を待たずに電話を切った。


陳の病院の診察台の上で、余はずっと「花房の野郎、絶対にぶっ殺してやる」だの「淡水河に沈めてやる」だのと悪態をつき続けていた。

あちこちからかなり出血しているにもかかわらず大声を出し続ける余の体力に陳は驚いていたが、同時にかなり辟易していた。

「動くなって言ってるだろ」

治療を施しながら、何度も怒鳴りつけたが、無駄だった。

 揚は待合室のベンチでうつらうつらしていた。

 膝の上においていた週刊誌が床に落ちそうになった時、携帯が鳴った。

 はっとしてポケットから携帯を出して画面を見てみると、未登録の番号が通知されている。

 無視してしまおうかとも思ったが、こんな事があった直後だったと思い直して通話ボタンを押した。

「はい」

「揚か?」

 どこかで聞いた事がある声だなと思いつつ名前を尋ねた相手が張だとわかると、一瞬で眠気は吹き飛んだ。

「お疲れ様です」

「余はどうしてる?」

「え?余さんですか、えっと」

張に今の余の状態を伝えて良いものか判断がつかず言い淀んでいると、張はいらいらした様子で「余に電話をかわれ」と言った。

「は、はい」

張と余を天秤にかければ、張の方が怖いにきまっている。揚はすぐに診察室に飛び込んだ。

「余さん、張さんから電話です」

 わめきちらしていた余は、ぴたりと黙った。

「何?張さんから?」

「はい」

「それ、お前の携帯か?」

「はい」

「なんで張さんは、お前の番号なんか知ってるんだ?」

「さあ、何ででしょ」

余が伸ばした右手に、揚は携帯を渡した。

「余です」

「お前、今何をしてる?」

「え?いえ、べつに・・・・・・」

「正直に言え」

「はあ、実は病院にいます」

「病院?あの日本人の所為か?」

「え?どうしてそれを」

 張は花房からの電話の内容をかいつまんで話した。

「そうですか」

余は分厚く包帯の巻かれた右の手首をちらりと見て言った。

「右手を切り落とされました」

「日本人にか?」

 張の驚いている様子が受話器から伝わってきた。

「ええ」

「何でお前が遅れを取ったんだ?」

「家族を人質に取られたんで、手出しが出来なかったんです」

「家族を?」

「ええ、私の家に奴の仲間が忍び込んでいやがって、火を点けるって脅されたんですよ」

 張はしばらく黙っていた。

 余は張に腹が立って来た。

「やっぱり、洪と一緒に殺しちまうべきだったんじゃないですかね?」

余は精一杯張を批判したつもりだったが、張はまだ黙っていた。

「俺だけじゃないんですよ。どうやら呉はあいつに殺されたみたいです」

「なに?」

「俺のとこの呉ですよ」

「本当に死んだのか?」

「え?ええ、花房が俺を襲う前に殺したみたいです」

「みたいってどういう事だ?」

「写真を見ただけで、確認してないんですが、写真を見た限りは死んでました」

「そうか」

 そうかだと?このじじいの所為で人間一人が死んで、俺は腕を叩き落とされたというのに、それだけか。

 胃の腑を絞り上げる様な怒りが湧き上がってきた。

「しかしわからねえのが、何で今になって、こんな事をおっぱじめやがったかって事だ」

この一言で余は動揺し、張への怒りが冷めた。

「え、ええ。そうですね」

KAKAの事を知られてはまずい。

「まあ、それはお前と話したところでしかたがない。あとで本人に訊いてみる」

「はあ」

 張は舌打ちをした。

「お前の言うとおり、洪と一緒に殺しておくべきだったな」

 余はもうどうでもよくなってきて「そうっすね」と受け流した。

「お前は今どこにいるんだ?」

「陳先生の病院です」

「わかった。しっかり養生してくれ」

 通話が切れると、余は楊に向けて携帯を投げ出した。

「くそが!」

 張は隣に座っているボディガードに携帯を渡した。

「復讐か・・・・・・」

 ボディガードが不安げな視線を張に向けている。

 死の瀬戸際で命乞いもせずに友達だけは助けてくれと言った洪に侠を見て花房を助けたのが徒になった。とはいえ、日本人のガキ一人で何ができるというのか。そんなに死にたければ俺がこの手で死なせてやる。

張は口の中でひとりごちた。


 花房は羊肉を焼いて出す屋台のわきに置かれた簡易テーブルについて、羊肉を眺めながらビールを飲んでいた。

 灰皿に二本目の吸殻を押しつけた時、携帯が鳴った。

「どうすれば良い?」

相手を確かめもせずに張は言った。

「張さんのビルの裏に駐車場がありますね」

「どのビルだ?」

「今、張さんがいるビルですよ」

「ああ」

「そこに十分後に伺います」

「十分?」

「ええ。約束の時間までに駐車場の車を全部移動しておいて下さい。もし車が一台でも停まっていたら、張さんの車は淡水川に沈めます」

 花房の物言いに、怒りがこみ上げてきたが、なんとか抑えた。

「それだけか?」

「はい?」

「他に条件はないんだな?」

「ええ」

「わかった」

 電話を切った張がボディガードの一人に耳打ちをすると、ボディガードは走ってビルの中へ戻って行った。

花房はすぐに葉に電話をかけた。葉はすぐに出た。

「張は来る。そっちはどうだ?」

「準備万端だ。でも、本当に張は来るのか?」

「俺が奴の車で行かなければ、チンピラ達しか来てなくても張を呼び出すしかないだろ」

葉は少し考えて「まあ、そうだな」と言った。

 

 花房は、張が経営するキャバクラが多数入ったビルの前を通り過ぎ、すぐ先の辻を左に折れた。暗い路地の二十メートル程先が、駐車場からもれている街灯のオレンジ色の光に照らされている。その光はその風景に深いコントラストをもたらし、あちこち傷んだ舗装をかえってモノクロに見せていた。

 花房は戸惑いも恐れもなく路地を進んだ。

 やがて見えてきた駐車場には、スーツに身を包んだ十人程の男達があちこちに散らばって立っていた。車は一台も無かったが、張もいなかった。

 男達は花房をみとめると体を花房の方に向けたが、立っている位置は変えなかった。

そのうちの一人が耳にあてた携帯に向かって「来ました」と言っているのが聞こえた。そして「車は乗ってきていません」と続けた。

 花房はそのまま駐車場の真ん中に立っている男の前まで歩を進めた。

「煙草くれ」

 男は無表情のまま胸のポケットから煙草の箱を取り出し、ポンポンと箱の上面を指でたたいてから花房にそれを向けた。

花房は一本抜き取ってライターで火を着ける仕草をした。

男はライターの火を着け、消えないように手で覆って花房がくわえた煙草の先に近づけた。

花房は口をすぼめて煙草に火を移し、一度口から離してからゆっくりと煙を吸いこんだ。大きく煙をはき出してからまた口をつけると、ミリミリと音をたてて煙草の葉に火が拡がった。

 駐車場には十人程の人間がいるにもかかわらず、その音だけが全員の耳に響くほどの静けさだった。

 花房はぼんやりと駐車場の地面を見ていた。

そのまま五分ほどの時間が経っていたが、

そこにいる誰も微動だにしようとはしなかった。

 突然、オレンジ色と漆黒にすべてが彩られた世界を切り裂くように白い二本の光線が音も無く駐車場のわきの路地をつきぬけ、それに引かれる様に一台の車が大きな音をたてて路地に入ってきた。車は駐車場に折れ、花房の前で停まった。 

ヘッドライトが消されると、またもとのオレンジと黒の世界が戻った。

おそらく白い、ドイツ製の高級車のエンジンが切られた。

ほんの数十メートルの距離を、わざわざ車を用意させて来るとは。

花房はふっと鼻から息をはいた。

張は自分でドアを開けて後部座席から下りてきた。駐車場に立っていた男達は小さく張に向かって頭を下げた。

すぐに男達の中から二人が歩いて来て張の後ろに張り付いた。見覚えのある、いつものボディガード達だった。

花房は煙草を投げ捨て、鋭い目つきでまっすぐに張を見据えた。

 張は無表情にその目を見返した。

「俺の車はどうした?」

「今、持ってこさせます」

「どういう事だ?」

「先に車だけ取り返されてズドンじゃ困るんで、張さんが来てくれたのを確認してから持って来ることにしたんですよ」

「どうやって持って来る?」

「俺の友達が運転して来ます」

 花房は携帯を取り出して通話ボタンを押し、自分の顔に近づけた。そして呼び出し音が一回鳴ったのを確認してすぐに切った。

「すぐ来ます」

「そうか。じゃあ、車が来るまでの間に、俺に話したい事っていうのを聞かせてもらうか」

 花房は小さく首を横に振った。

「いえ、車が来てからにさせて下さい」

「どうしてだ?」

 それに答えず、花房が路地に視線を移しても、張はそれ以上訊こうとはしなかった。  

沈黙がしばらく続いた後、張はわざとらしい柔和な表情を作って言った。

「やりたい放題やって、少しは気が晴れたか?」

「どうすかね」

花房は路地を見つめたまま小首を傾げた。

「さっき話をしたんだが、余は病院で元気そうだったぞ」

「そうですか」

「ほう、悔しくないのか?」

花房は張の目に視線をやり、左腕を上げて見せた。

「手をもらいたかっただけなんで、べつに悔しくはありません」

張はうなずいた。

「じゃあ、俺からは何を受け取るつもりなんだ?」

「張さん、べらべら喋るのは不安な証拠ですよ」

 張の顔から笑みが消えた。

「小僧、なめるんじゃねえぞ」

「どういう事です?」

「てめえの魂胆なんざ、こっちは先刻承知だ。おおかた、チンピラ仲間でも集めて乗り込んで来ようって腹だろうが、ここには十人はくだらねえプロが揃ってる。不安がってるのはてめえの方だろうが」

 花房は張の目を見つめたまま静かに「どうすかね」と言った。

「何様だ?てめえは」

張の小さな体から発せられたとは思えぬ大声で張は怒鳴りつけた。

「いいか、あの時俺がお前を殺さなかったのは、単なる気まぐれだ。やろうと思えばいつでも出来るから、あの小僧の心意気を買ってやっただけだ。お前なんぞ、そんな程度の存在でしかねえんだ。それが何だ?恩も忘れて復讐劇のヒーロー気取りでてめえを食わせてくれた余に手をかけた挙句の果てに、この俺に話があるだと?俺がてめえなんかとまともに話すとでも思ってるのか」

一気にまくし立てた張は肩で息をした。

 花房は口を真一文字に結び、睨め上げる様な視線を張に投げかけた。

「おめえなんぞに睨まれたって、こっちはちっとも恐くねえよ」

 二人はしばらく、そのまま睨みあっていた。

やがて呼吸が整ってきた張は、視線をそのままに、掌を上にして右側にいたボディガードの前に手を差し出した。

ボディガードは左わきに吊ったホルスターから拳銃を抜き出してその上に置いた。

花房は、ふっと嘲った。

「何がおかしい?」

「張さん、その仕草はそいつと二人で練習でもしてるんすか?」

花房があごの先でボディガードを指して言うと、張はボディガードと目を見合わせた。

「何の事だ?」

「張さんが手を出すとそいつがその上にピストルを置く仕草ですよ。あんたが洪を殺した時にも同じ事をしていたのを思い出したら、おかしくてね」

張はそれを聞いて憮然としたが、すぐににやりとして見せた。

「そうかい。死に際に楽しんでもらえてなによりだ」

「車はいらないんですか?」

「お前が持ってくるように合図したんだ。どこのバカだか知らねえが、のこのこ運転してきたところで返してもらって、残りのチンピラ共と一緒にぶっ殺してやる」

「そうですか。でも、本当は俺は誰にも合図なんかしてないかもしれないですよね」

 さすがに張はもう挑発にのってこなかった。

「それならそれでいい。てめえをぶっ殺してからゆっくり探す」

銃把を握りなおし、腕をだらりと下げた。

「両膝を地面につけ」

 花房の心臓は音が聞こえるほど強く、そして速く鼓動を打ち続けていたが、気持ちは不思議なくらい落ち着いていた。

花房はもう一度ふっと嘲い、顎で張のボディガードを指した。

「背が足りなくて届かなきゃ、そこのでくのぼうにだっこでもしてもらったらどうだ?じいさん」

 張の目が鋭く光った。

「そうか。楽に死なせてやろうと思って言ってやったんだが、嫌なら腹を撃つだけだからこっちは別に構わねえ。相当苦しいらしいしな」

 張は銃をおもむろに花房の腹に押しつけた。

「ここで良いか?」

花房が鼻から出来る限り空気を吸い込んで

息を止めたその時、路地の大通り側から車が入って来る音がした。

その場にいた全員が音の方を向いた。

張のベントレーが滑る様に路地に入ってきた。ベントレーは駐車場に折れ、張が乗って来た車の後ろにがしゃんとぶつかって停まった。

「え?」と思わず花房は声をもらした。

 張や男達も唖然として車を見ている。

 運転席のドアが開き、一人の男が降りてきた。

「花房って、どいつだ?」

男はやにわに言った。

 助手席からも男が降りてきた。葉だった。

葉は運転席から降りた男の方を向いて「あいつです」と花房を指さした。

 男は張や張が構えている拳銃に全く構わず、花房に歩み寄った。

百六十センチ程しか身長はないが、鋭い眼光と鍛え上げられた体が彼を大きく見せている。黒か紺色の開襟シャツの胸元からは黒々とした刺青と妙に太いチェーンのネックレスがのぞいていた。

 男は「ジェイソンだ」と言って右手を差し出した。

花房はうなずいて男の手を握った。

「花房です」

「ちょっと待て、てめえら」

張が大声をあげた。

「誰なんだ、こいつは」

 花房がジェイソンから視線を張に移した時、再び路地に轟音が響いた。

そこにいた男達の視線に引っ張られるように、二台の古びたトラックが猛然と路地を進んで来た。

一台目は駐車場の入り口を過ぎたあたりで、二台目は入り口を塞ぐ様に音をたてて急停車した。

両方のトラックの荷台には、立ったままの男達がそれぞれ十人以上ずつも乗っていて、車が停まりきったとたんにばらばらと荷台から飛び下りた。

駐車場にいた張の手下達は事情が飲み込めずに顔を見合わせたが、すぐに後ずさって張と花房を背にして固まった。  

車から降りて来た男達は皆二十代後半から三十代の始めくらいで、明らかに堅気ではない様子だった。皆、手にはバールや角材などを握っており、中には山刀を持っている者もいる。男達はゆっくりと張達の周りを取り囲んだ。

「何だ、てめえらは?」

「誰だって訊いてんだよ、ばかやろう」

張の手下達は口々に叫んだが、男達は誰も何も発せずに少しずつ近づいて来ただけだった。 

 口先でこそ威勢が良いものの、人数の差は歴然としていた。それだけに張の部下達の動揺は明らかだった。

 ジェイソンは、張に向けて顎を振った。

それを合図に男達は奇声を上げ、それぞれ手近な張の手下達に飛びかかった。

ジェイソンと数人は二人のボディガードに向かって行った。 

 駐車場中に怒号と罵声が響いた。

 ジェイソンの仲間達は相手が手向かってこようがこまいが、躊躇なく蹴りつけ、手持ちの武器を叩きつけた。逃げようとした者は背後から飛び蹴りを食らわせて地面に転がし、少し腕の立ちそうな奴は数人で囲んで一気に殴りかかった。

 高雄の奴らはヤバいと洪が言っていたのを花房は思いだした。

その高雄の男達は、相手に戦意が無くなったやに見ると一人ずつトラックに引きずって行って無理矢理荷台に押し上げた。

ボディガード達は持っていた武器を使う間もなく徹底的に叩きのめされ地面に転がっていた。ジェイソン達は彼等がまったく動かなくなるまで殴り、蹴り続けた。

 花房と葉はなすすべもなく、それらを観ていた。

そしてそれは張も同様だった。手にしている銃の存在すら忘れたかの様に、唖然として周囲を見ている。

「おい、こいつらも載せろ」

ジェイソンがそう指示すると、数人の男達が走ってきてボディガード達を引きずって行った。

 その場にいた張の部下達が全てトラックの荷台に乗せられたのを見て、ジェイソンは一台目のトラックの運転席から顔を出していた男に向けて手を上げた。男がうなずいて顔を引っ込めるとトラックは動きだし、二台目も後に続いて発進した。

 トラックが行ってしまい、また静寂が戻った。その場には張と花房と葉、ジェイソンとその二人の部下が残った。

 ジェイソンは、張が握りしめていた銃をもぎ取った。

 それで我にかえった張は、精一杯強がった。「お前ら、一体何なんだ?」とジェイソンに

長い間夜の街を仕切って来ただけの事はあって、その声は震えてこそなかったが、顔はすっかり青ざめ、目に浮かんだ怯えは隠しようもなかった。

「さっき聞いてなかったのか?俺はジェイソンだ」

「どこのジェイソンだ?」

「高雄のジェイソンだよ」

 張は困惑し、眉間にしわを寄せた。

「その高雄のジェイソンが、俺達をどうするつもりだ?」

「わかってるでしょ。これから山で皆殺しですよ」

ジェイソンはあっさりと無表情に言った。

張はせわしなく胸を上下させて浅い呼吸を繰り返した。

「何でそんなことをする?」

 さすがに今度は声が震えていた。

ジェイソンは一度視線を外し、首をぐるりと回してから張をもう一度見据えた。

「俺の名字は洪っていうんですよ、張さん」

 張は目を見開いて凍り付いた。知っている人間の中で洪という苗字を持つ者は幾人もいたが、この状況で思い当たるのは一人しかいなかった。

 花房がKAKAを捜しに台中へ行っている間、葉は高雄でジェイソンを捜していた。

 花房は洪が生前、兄に捕まったら殺されると話していた事を思い出して今回の計画を立てた。その話をしていた時の洪は真顔だった。まさか実の弟を殺したりはしないだろうが、並の人間ではない事は確かだろうと思われた。 

だからそこに賭けた。他に張に対抗する方法は考えられなかった。

 花房はリサを訪ねた時にジェイソンの連絡先を訊いた。リサはそれを知らなかったが、洪が高雄にいた頃、モジョという名前の店に仲間とたむろしていたと話していたのを覚えていた。

 葉はその店名だけを頼りにジェイソンを探し出し、台北まで引っ張って来たのだった。

 花房は無表情な目でジェイソンと張を見比べた。

「これで説明になったか?」

 張は口を半開きにしてジェイソンに向かって何か言おうとしていたが、結局何の言葉も出てこなかった。

ジェイソンはもう張には興味がなくなった様子で花房と葉の方に体を向け、「ありがとうな」と言った。 

花房は何を言ってよいのかわからずにもごもごと口ごもったが、なんとか言葉をひねり出した。

「謝っても謝りきれないけど、本当に申し訳ありません」

ジェイソンは花房の肩をぽんとたたいてにこりとした。

「今度、あの馬鹿の話を聞かせてくれ」

花房がやっとの思いでうなずくと、ジェイソンは「じゃあな」と笑って、もう一度花房の肩をたたいた。

 それから呆然としている張の襟を無造作に掴んで、奪った銃を突きつけた。

「車に乗れ、じじい」

張をベントレーの後部座席に押し込んで自分も乗り込むと、ジェイソンの部下が後部座席のドアを閉めた。

 フロントグリルが少しへしゃげた張のベントレーがゆっくりと動き出した。フルスモークで中は見えなかったが、花房は後部座席に向けて手を上げた。

 張の車は路地の闇に溶けるように見えなくなった。

 駐車場には花房と葉以外、誰もいなくなった。

 葉は小さくため息をついて顔を上げた。

「うまく行ったな」

 小さくうなずいた花房は、「ああ」とだけ言うのがやっとだった。

「ジェイソンと会えたのは運が良かった」

葉はぼそっと言った。

 花房は何度か咳払いをした。

「よく見つけられたな」

「それをおまえが言うのか?」

 花房はにやりとして両目をぐるりと回した。

 葉も鼻先でふっと笑った。

「そういえば、お前が車に積んで台中に連れてった奴はどうした?」

「ああ、あれか」

何故だかわからないが、急に笑いがこみ上げてきて、花房はくっくと笑った。

「廃車のトランクに挟まってる」

「入れっぱなしかよ」

もう我慢ができなかった。ぶはっと吹き出したのをしおに、腹をかかえて笑った。つられて葉もヘラヘラと笑いはじめ、しまいには二人共地面に膝をついて笑った。

 やっと笑いが収まった時、花房は長い間、胃袋からぶら下がっていた重たい物が消えてなくなっているのを感じた。

 二人はお互いの肩につかまって立ち上がった。

「車から駐車場見たら、お前が銃を突きつけられてたから、焦ったよ」

「そうか。それでジェイソンは車をぶつけたんだな」

花房が視線を地面に落とすと、葉は煙草を差し出した。

 花房はしばらく煙草の箱を見つめていたが、やがて一本抜き出してくわえた。

「ライター貸してくれ」


 花房と葉は通りに出たところで別れた。花房が「ありがとな」と言うと、葉は右手を軽く上げながら帰って行った。

 しばらく立ち尽くして葉を見送った後、ポケットからKAKAのパスポートを取り出した。中を開けてみると、少し緊張した面持ちのKAKAがこちらを見ていた。

 パスポートを仕舞い、踵を返して葉とは逆の方向に歩き出した。歩きながらポケットから携帯を取り出し、暗記していた番号を親指で押した。

 兄は早朝なのにもかかわらず、いつもの様にすぐに出た。そしていきなり大きな声を出した。

「おまえ、どうしてたんだ?」

「久しぶり」

「いや、久しぶりっておまえ」

「すっかり連絡が遅くなっちゃって」

「遅いの次元じゃないだろ。今どこにいるんだ?」

「まだ台北」

「何ヶ月経ったと思ってるんだ?心配したんだぞ」

「すみません」

涙が出そうになって目をしばたたかせた。

事情を知らない兄は、花房の殊勝な言葉に少し戸惑った様だった。

「なんだよ。どうしたんだよ?」

「いや、別にどうもしないよ」

「で、どうするんだ?帰って来るのか?」

「うん、そのつもりなんだけど」

「そうか。じゃあ、また迎えに行ったほうが良いか?」

「ああ、そうだね。頼める?」

「いいよ。いつだ?」

「まだ決まってないんだけど、今週中には」

「そうか。土日だと助かるけど、どうしてもだったら、二三日前に言ってくれれば平日でも良いぞ」

「ああ、ありがと。今日の昼間にでもまた電話する」

「わかった」

 電話を切ったところで、林森北路と錦州街の交差点にでた。

 横断歩道で信号が青に変わるのを待って、錦州街を西に向かった。

 林森北路の店の前に立つと、階段の下からはいつも通り明かりがもれていた。普段とちがうところはガラスのドアが開けっ放しになっていることくらいだった。

 ゆっくりと階段を下りていって店の中に入ると、楊がモップで床を拭いていた。楊は花房に気づいて手を止めた。

「やってくれたな」

 店内はまだひどい有り様だった。

「余はどうした?」

「どうしただと?」

楊は憮然としてモップの柄を放り出した。

「おまえが中途半端な事をしてくれたからよ、病院まで担いで行ったよ」

「生きてるんだってな」

「化け物だ、ありゃ。あんな大怪我しててさっきまで大騒ぎしてたんだぜ。薬を打ってもらってやっと眠らせたんだ」

「家に帰したのか?」

「俺一人であんなデブを連れて帰れるわけないだろ。先生に預かってもらったよ」

「そうか」

 楊は花房の顔をのぞき込む様に訊いた。

「おまえ、呉を殺したのか?」

 花房は努めて無表情に言った。

「どうかな」

「何だよ、それ?」

 楊はいろいろ訊きたい事がありそうだったが、花房の雰囲気に気圧されて話題を変えた。

「ところで、何しに戻って来たんだ?」

「忘れ物を取りにだ」

 花房は奥の事務所に入った。

 スチール製のロッカーと部屋の角との間に手を入れて、真っ白く埃をかぶったソフトケースに入ったギターを引っぱり出した。それを事務机の上にゆっくりと横にして置き、流しへ雑巾を取りに行った。

 出来るだけきれいな雑巾を探し、水に濡らしてギターの前に戻った。そして、おもむろにいすに座り、ギターケースに視線を落とした。

 ケースの中のギターは、洪との出会いを花房にもたらし、台湾での生活を切り開くきっかけを作ってくれた。もう弾く事はできないが、このもの言わぬ相棒と一緒に台湾を後にするのが礼儀だろうと思った。

 ゆっくりとケースの上に雑巾を滑らせていくと、その一拭きごとに刷毛で色を塗った様に、くっきりとした茶色が戻ってきた。花房にとってこの埃は、あの日、洪が死んだ日から今日までの時間を具現化したものに他ならない。それを拭い去るということは、全てを清算するということであり、今日という日の仕上げにふさわしい作業だと思われた。

 時間を掛けてゆっくりと全体を拭いた。

 この先、どんな人生が待っているのかはわからないが、KAKAと一緒に日本に帰ることが出来る事への期待に胸がふくらんできた。

 兄貴もKAKAを見ればうらやましがるだろう。だいたい兄貴は、人は良いが女に縁が薄い。

 花房は笑みを浮かべながら、縫い目に入り込んだ埃まで丹念に拭き取っていった。

 突然がつんと何か重いものと硬いものがぶつかり合う様な衝撃があって、花房の視界を漆黒の闇が埋め尽くした。


 陳の病院で呼吸の音すらたてずに寝ていた余の枕元で、携帯電話が震えた。やがて留守番電話の機能が働き、振動は止まった。

「おつかれさまです。楊です。やってやりましたよ、花房。さっき死にました。俺が一人でやりました。花房が余さんの手を切りおとした鉈でね。思いっきり頭に叩き付けてやったんですけど、なんか西瓜を割る時みたいに簡単に刺さったんで、ちょっと驚きましたわ。のこのこ店に戻って来て、手がなくてもう弾けないくせに大事にギターを磨いてるやがって。ムカついたんで、後ろからガツンとやってやりました。あ、余さんの手の事を言ったんじゃないですよ。気をわるくしないでくださいね。だいたい俺、ギターとかやってる小僧が嫌いなんですよ。だからね、こういう事するの初めてで、どうしようかなって思ったんですけど、俺が男になるのは今しかないと思ってやりました。なんか思ったより簡単でした。声を出す間もなくおっ死んだのは良かったんですけど、にやついた顔で目を開いたまま死んでたんで気色悪くて困りましたわ。今までは売り上げの事とかで余さんにいろいろ迷惑をかけましたけど、俺も一人で店をまかせてもらえれば結構いけると思うんですよ。俺って、横からごちゃごちゃ言われると調子がくるっちゃうタイプなんで、呉と花房がいなくなりゃ大丈夫です。なんか俺、ちょっと興奮してるみたいで、長くなっちゃったんですけど、また明日病院へ行きますんで、その時にでも話しましょう。失礼します」


 ドンドンとドアをつま先で蹴る音がした。リサが扉を開けるとケニーとショーンが入って来た。ケニーはビールのケースを抱え、ショーンは両手にスーパーのビニール袋を下げていた。

「花房はまだ?」

ケニーは袋を台所のテーブルの上に置きながら訊いた。

「まだ。あ、それはいいよ、出したままで」

リサは買って来たものを冷蔵庫にしまおうとしていたショーンに言った。

 KAKAはリサ達の話し声を聞きながら隣室の窓際に座って外を眺めていた。

「KAKA、ちょっと手伝ってくれない?」

リサの声に「今行く」とこたえて立ち上がった。

 KAKAが窓辺から立ち去った後も、台北の街はいつもどおりの喧騒を放ち、いつもどおりの光と影にうめつくされていた。

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林森北路 LinSenBeiLu @K89Z

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