第24話 権威に挑む反骨の将 高師直

高師直(?-1351)

南北朝を代表する武将で、足利尊氏の右腕として抜群の武功を立てる人物なのだが、今日に伝わる評判は、残酷で我儘な暴虐な男というものばかりが目立ってしまい、英雄としての師直は埋れてしまっている。その辺は「太平記」の記述によるところが大きいのだが、太平記はオーバーに脚色が入っているので(事実無根とは言わないまでも)悪評を無駄に大きくしてる点は同情できる。今回は少し彼の汚名を晴らしておこうと思う。

生年は不詳だが、高氏は足利家の側近として仕える家柄で、師直は特に軍事面に才を発揮していた。生来、権威や常識にとらわれることが嫌な性分もあったのだろうが、師直が足利軍の軍令を改良していく中で、ひとつ画期的な案を出している。それは「分捕切捨の法」というもので、当時の戦は討ち取った首を戦闘中ずっと抱えながら戦い、軍奉行に認められるまでそのままだった。だが、こんなことをしていては当然機動力は落ちるし、動きづらいことが故に逆に討ち取られることもある。そこで、近くの仲間が確認したらそれで充分、首を捨てて速やかに行動するよう命じたのだ。こういう合理主義な面がある上に、部下に対して太っ腹な逸話もある。上山高元という家臣が鎧の無いまま敵襲を受けたので、師直の鎧を無断に借り受けようとしたが、他のものに見咎められて口論になっていた。そこに師直が現れて「今、自分に代わって働こうとしているのに、鎧ごときを惜しむいわれはない」として、気持ちよく貸し与えた。感激した上山は奮戦し、師直が敵に追い詰められたところに突如現れ、

身代わりとなって討死したという。

鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇による建武の新政が行き詰まりを見せた1335年、尊氏は後醍醐を見限り、独立軍となって動き始める。師直もこれに従い、楠木正成、新田義貞といった南朝方の有力武将を湊川の戦いにて撃破している。そして1338年、尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を開くと、執事(後に管領といわれる)という実質上のナンバー2の職を任され権勢をふるった。また、この年は南朝方の切り札ともいえる若き名将の北畠顕家を5カ月に渡る死闘の末討ち破って、幕府の地位を確固たるものにしている。さらに1348年の四条畷の戦いでも軍功を挙げる。これは南朝方の最強の将であった楠木正成の子・正行が10年かけて潜伏し育て上げた軍勢がゲリラ戦を展開して室町幕府を苦しめたのだが、この討伐軍の総大将を務めて、南朝方の本拠地・吉野を陥落させる大手柄であった。

このように武将としては申し分ない活躍を見せるのだが、次第に内政担当の足利直義(尊氏の弟)と対立するようになる。直義は保守的なところがある人で、朝廷とも強調しながら手堅く政務をまとめる堅実派。師直は相手が朝廷の高官であろうと、天皇であろうとどこ吹く風で、貴族たちの所領を荒らしまくり「天皇が必要なら木彫りで像でも作って、生きた者は流罪にしてしまえ」と豪語したというほどの人物だ(こうした反権威の武将はバサラ大名とよばれる)。二人が反目し合うのは当然の流れといってもいいだろう。先に動いたのは直義派で、上杉重能・畠山直宗らの讒言を信じて、師直の執事職を解任してしまう。師直は黙って指をくわえるようなタマではない。手勢をまとめて逆に直義邸を襲撃し、逃げた直義を追って主君の尊氏の邸までも包囲するという大事件に発展したのだ。

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