第23話 才気と野心の剛腕上皇 後鳥羽上皇
後鳥羽上皇(1180-1239)
鎌倉時代初期、幕府を倒そうとした承久の乱の首謀者。彼の敗北によって朝廷は完全に幕府に主導権を譲ることになるのだが、もしも後鳥羽の生きた時代が他の乱世なら、ひとかどの英雄であったかもしれないと思わされる人物なのだ。才気活発で、歌人としては「新古今和歌集」を完成させ、自身も和歌の名手であった。さらに後鳥羽の特筆すべき才は“武芸”である。弓・乗馬も一流で、長らく政治・祭祀のみを天皇の領分としてきた公家社会にあっては異彩を放つ存在であった。
後鳥羽の即位は1183年だが、この時期はもう一人天皇が存在している。平家の血を引き、壇ノ浦に沈んだ安徳天皇である。そして、正当性を示す神器はまだ平家の手中にある。後鳥羽は二年間その状態で過ごし、平家滅亡後も神器は三つの内二つしか回収できなかったので、仮の即位しかできていなかったのだ。このことは彼の心にある種のコンプレックスとなったであろう、その後の人生において強烈な王権へのこだわりが顔を出すようになる。
後鳥羽が朝廷のトップに立つのは1198年のことである。当時は天皇の状態では儀式に追われて政務に当たることが難しいので、位を譲って上皇となってから政治の主導権を得るのが天皇家の習わしだったのからだ。ここから彼は“強き王”を目指して活動する。朝廷の制度の再整備や、幕府の三代将軍である源実朝と縁組をして影響力を広げたりした。その策は功を奏し、実朝は子が無いため、四代将軍以降は皇族から養子をとる約定も取り付けた。このままいけば後鳥羽は朝廷の権威を再興させた上皇として歴史に名を残したであろうが、実朝が暗殺されたことにより風向きが大きく変わる。幕府の執権・北条義時は後鳥羽と実朝の約定を反故にし、朝廷軽視の政策を執っていった。これに反発した後鳥羽は密かに武力蜂起を考えるようになる。そして1221年、後鳥羽は義時討伐の院宣を出し、幕府討伐の兵をあげた。これが承久の乱である。後鳥羽の勝算はこうである。
1 当時は幕府の勢力は主に東国であり、西国の武士は後鳥羽につく
2 幕府の重臣・三浦家は北条家と権力闘争中で当主の弟は既に内通済み
3 武士の身分では朝廷に対して本気で歯向かうことはない
・・・この甘い読みが後鳥羽の最大の失敗であった。結論から言うと、西国でも幕府の打ち出す“武士の為の政権”という方針は魅力的に映っていたので、集まった兵は幕府の十分の一近い程度であった。三浦家は弟を切り捨て幕府についた。武士に根付く朝廷を畏れる気持ちは北条政子の激励によって吹き飛ばされた。かくして幕府は十九万という大軍で瞬く間に反乱軍を破り、後鳥羽上皇を隠岐に流罪とし、武士が皇族を罪人とする初めての例となった。以後、朝廷は西国においても影響を弱め、幕府体制の基盤が固まることになる。
後鳥羽がもし上皇というような驕りやすい立場ではなく、たとえば戦国時代の武将ならそんな甘い読みで満足しなかったのではないかと考えてしまう。即位のコンプレックスさえなければ、したたかに王権を固めたのではないかと考えてしまう。それだけ、温室の中に生まれた者としては異例の才が、浅い読みで潰えたのは勿体ないとしか言いようがない。
後鳥羽が隠岐に流されてから詠んだ歌を最後に記しておく。「われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」ただの強がりだろうか、王として胸を張ろうとする意地の強さの表れか、あるいはその両方か。
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