第22話 汚れ役の名家老 調所広郷
調所広郷(ずしょ ひろさと 1776-1849)
明治維新の立役者である薩摩藩が、その一世代前までは破産に等しい借金漬けだったことをご存じだろうか。もし、そのまま幕末を迎えていたら薩摩は何一つできずにいて、ひいては日本も全く別の形になっていたであろう。これをわずか二十年で立て直した人物が調所広郷である。彼の人生は覚悟をもって汚れ役に徹し、藩に命を捧げたものであった。
八代藩主・島津重豪に才を見出され、下級武士ながら側近として仕えるようになった広郷は、その後十代藩主・島津斉興の下で経済再生の任に抜擢される。当時の薩摩は500万両(約6500億円※1両=13万円計算)という莫大な借金を抱えていた。当時の薩摩藩の年収が多くて15万両(約195億円)、借金の利子が年80万両(約1040億円)と、収入の5倍を超える有様だった。この状況からの藩命は「借用書を取り戻し、藩軍用金の備蓄をせよ」という並みなら匙を投げて当然のものだった。広郷は腹を括って再生に着手する。
まずは節約、そして庶民向けの低金利の金貸しから強引に金を融資させる。だがこの程度では焼け石に水。そこで大坂へ出向いて、借金の減額を交渉しようとするが、てんで相手にされない。だが、ここで一つの出会いが運命を変える。出雲屋孫兵衛という中堅商人が、薩摩の持つ砂糖の権利に目をつけて、コンサルタント役を買って出たのだ。経済の素人だった広郷は孫兵衛から経済を学び、新しいコネを得て収入拡大策に必要な十万両という資金を融資してもらう。これを元手に、薩摩の特産品(主に砂糖)の生産・販売を拡大、そして清との貿易拡大を幕府に申し出る(この際は当然賄賂も使う)。その上で密貿易も行うなど、綺麗事を言ってられないなら当然の策だが、全てこれまで誰もやれなかったことだ。
少しづつ成果を上げたところで、広郷は悪名高い手段をとる。商人たちを「返済のメドがたった」と偽って集めてから、「確認の為に借用書を見せてくれ」と受け取るや否や火をつけて燃やしてしまう。唖然とする商人に向かって広郷は「250年払い・無利子・元金のみ返済に切り替える。これまでの証書はもう存在せぬ」と申し付けた。不平を言う商人たちを黙らせたのは武力、要は脅しだ。その上、裁判沙汰になると広郷は出雲屋を切り捨てて罪を押し付けた上に、強硬姿勢の商人たちの一部に密貿易の権利を与えた。この密貿易の利益は返済に劣らず魅力的だったので商人たちは口を閉ざすようになった。幕府への根回しはもちろん、血縁を頼りに将軍家からの圧力も利用する(将軍の正室は重豪の娘)。こうして事件を闇に葬り、ようやく薩摩は財を蓄える態勢を整えた。
広郷はさらに、砂糖の生産を上げるべく奄美・琉球の農民に圧政を敷く。砂糖の買い上げは物々交換で現金を一切与えず、砂糖を一舐めしたら厳罰という囚人並みの扱い。またあるときは禁止されていた一向宗への寄付金に目をつけて強制検挙しこれを没収するなど、取れるものはすべて取るという徹底ぶりで、藩内の不満を彼は一身に背負ったが、1847年時点で薩摩藩は二百万両近い備蓄があったという。
ただ、本人は不遇な死を迎える。十一代目藩主の座を巡って、三男久光を推す斉興と嫡男斉彬の権力闘争の際、斉興派として動いていたので、斉彬側が失脚させようと密貿易の件で幕府に密告したのだ。そして、斉興に責任の追及が及ばぬよう自殺してことの収拾を図ったのだ。こうして、薩摩は斉彬派の西郷隆盛らの手で政治の主役となり、広郷の貯めた資産を元に維新への道を開いた。
広郷への死後の弾圧には並々ならぬものがあった。冤罪までつけられて調所家の家格を六階級落とされ、家族は迫害されて流罪、悪名のみが薩摩史に刻まれた。まるで斉興へ向けられない恨みを一人背負っているようだ。せめて広郷のような覚悟ある人間が冷遇されない世であってほしいし、広郷のような覚悟が必要になる前に立て直しが出来ればどんなに素晴らしいだろうか。だが残念ながら今の日本は広郷のような人間を必要としている気がしてならない。
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