第21話 仁者必ず勇あり 里見義堯 後編

1564年、義堯は北条に攻め入る絶好の機会を得ることになる。北条方の太田康資が内通してきたのだ。これを受けて一万二千の軍を率いて北条と婚姻同盟を結んでいた千葉氏の領土に侵攻する。対する北条氏康は二万の軍を一族の綱成に与えて救援に向かわせた。これが第二次国府台合戦である。北条の先鋒を務める遠山綱景・富永直勝は康資の内通を察知できなかった責任を感じるあまり、功に焦って突出してしまう。義堯はこれを討ち取って北条を潰走させ、部下たちに褒美の酒を与えて労をねぎらっていた。しかし、北条は早すぎた退却が逆に功を奏して、多くの兵を温存できていたので即座に立て直して夜襲を仕掛けた。まだ酔いの残る里見軍は大混乱に陥り、一門の土岐為頼が寝返った。その上筆頭重臣の正木信茂を討ち取られるなど大敗を喫して撤退することとなった。

敗戦後、北条の侵攻により切り取った領土を再度失った義堯は“守り”ではなく開き直った“攻め”で積極的に周辺の敵勢力へ出兵し、里見家に活力を与え、上総(千葉県中部)の旧領を挽回するに至った。北条は幾度も甦る里見家の息の根を止めるべく、嫡男・義弘の居城である佐貫城を攻略せんと、1567年に当主の氏政自らが指揮を執り、佐貫城の一里先に位置する三船山に砦を築いて兵を常駐させる策に出た。そうはさせまいと里見家は義弘を主力に兵を出し、北条との激突となる。これを三船山の戦いといい、義堯にとってはこれが北条との最後の決戦になる。義弘は当初奇襲で北条を攻めようとしたが、察知されたためににらみ合いとなり、三船山を包囲する形で陣を敷いた。すると北条は三万の大軍を援軍として送り込み、さらにそこから兵を分けて手薄な義堯の居城・久留里城を攻撃してきた。義堯はこれを好機と、寡兵ながらひたすら守勢に徹して北条の別動隊を釘付けにする。一方、兵力差が縮まった三船山方面では義弘が勝負に出た。佐貫城の守備をまかせていた正木大膳に出撃させ、正面から北条へと攻撃。そしてそのまま軍を動かして狭い障子谷方面に北条軍を誘いこむことに成功した。ここに里見軍の総攻撃をつぎ込んで、北条軍を撃破したのだ。さらに里見家自慢の水軍も動かして追撃し、水陸両面から北条軍を挟撃する構えを見せ、危険を察知した北条軍は全面撤退を余儀なくされた。ここに里見家は安房・上総をほぼ手中に収め、下総(千葉県北部)まで進出することになり、義堯は六十を過ぎて里見家の最大版図を獲得するのであった。

嫡男の義弘が頼もしく成長したのも見届け、その後も一貫して北条と徹底抗戦の構えを続けた義堯だが、上杉と北条との間に同盟が成立すると、今度は武田と同盟してなお戦い続けた。亡くなったのは1574年、68歳の生涯であった。里見と北条の国力の差を考えれば、軍門に降ることは必ずしも恥ではないだろう。だが、絶望的な敗戦ですらも糧とし、最後まで全霊をかけて意地を通した義堯の生涯は痛快である。そしてその人柄を一番評価したのは他ならぬ北条であったかもしれない。歴史書の常であるが、記録は自家の名誉のために残すものであり、改ざんをすることなどは日常なのだが、その北条の記録に義堯を称賛する一文があるのだ。「仁者必ず勇あり」と。

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