一杯のコーヒーと

常盤しのぶ

一杯のコーヒーと

 若い頃、それこそ小学校や中学校に在籍していた頃。「行きつけの店」に憧れていた。

 映画やドラマで見るワンシーン。渋い男が慣れた足取りで店に入り、コートをかける。店内では小粋なジャズが流れ、騒がしくない程度に賑わっている。おもむろに席に座り、マスターにこう言う。


「いつもの」


 格好いい。

 とても格好いい。


 小さい頃の妄想なので勘違いも甚だしいが、過去の私はそういった大人びた何かに酷く憧れを抱いていた。


 大学生となった今、そういった憧れはほとんど消えていた。ただ、大学での講義や人間関係で悩んだ時などに決まって行く喫茶店がある。

 "Cafe Casablanca"。駅から少し離れた立地にある寂れた喫茶店。席はテーブルとカウンター合わせて10あるかないか。非常に狭いが、居心地が良い。店員は店長とバイトらしき女の子の二人のみ。

 店長は初老に差し掛かった物静かな人で、こちらから話しかけても滅多に喋ることはない。しかし、彼が淹れるコーヒーは深い苦味の中から覗かせる独特な酸味や香りが特徴的で、私を含め密かな熱狂的ファンは少なくない。コーヒーを淹れる事に集中しているから寡黙なのかと思っていたが、バイトの女の子曰く「あの人は普段から滅多に喋らない」らしい。

 そのバイトの女の子も私がこの喫茶店を見つけたときから在籍している。寡黙な店長の代わりに客の注文を受け付けるウェイトレスの役割を果たしている。身長は女性の割に高く、180cm程ある私の目線にちょうど彼女の頭がかかる程度。ボブカットというのだろうか、首辺りまで伸びた黒髪はきちんと手入れされていて美しい。容姿端麗という言葉がふさわしい女性だと思う。


 その日の私は大学での課題レポートを消化するために"Cafe Casablanca"のカウンター席最奥を陣取っていた。狭いが、レポートを書くには十分な広さといえる。平日の朝早い時間なので他の客はいない。備え付けのテレビからは朝のニュース番組が流れていた。一息つき、出されたお冷を飲む。


「ブレンドでいい?」


 バイトの女の子が尋ねる。週に一度以上は来店しているので、いつの間にかフレンドリーな対応をされるようになった。私は別に構わないが、それでいいのだろうか。少し不安になる。

 ブレンドコーヒーが来るまでしばしレポートに集中する。お冷の氷がじわじわ溶ける。レポートの文字がひとつも進まない内に、老人が入ってきた。いつもの様にバイトの女の子が注文を取りに行くと老人は応える。


「いつもの」


 テレビではニュース番組が終わり、別のニュース番組が始まっていた。


 程なくして「ブレンドでーす」の緩い掛け声と共にブレンドコーヒーが届いた。

 カウンター・テーブルの上にはレポートの資料と氷が溶け切ったお冷とブレンドコーヒー。立ち去ろうとした彼女を慌てて呼び止めた。


「い、いつもの」


 振り返り、微笑む。


「遅いよ」


 レポートは相変わらず一文字も進んでいない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一杯のコーヒーと 常盤しのぶ @shinobu__tt

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る