第五話 儚い妄想と頑強な現実

 雨が降り出した。

 激しい雨だ。

 よく雨は天の涙といったものだが、この勢いは号泣すらも超えている。雷雲も轟き、わめき散らすといった風情か。

「お疲れさんです少将殿」

 激しい雨にも関わらず、車内は静かだ。

 若い男の軽薄な声もよく響いた。

 帝国の人間に特徴的な黒髪黒目の、銀縁眼鏡の青年だ。子供のような無邪気さと明るさが入り交じった笑顔が絶えない、一見すると好青年だが、その柔らかく微笑む口から紡がれる言葉は軽薄で冷ややかなものばかりだった。

「こんな雨の中、ほんとご苦労様ですねぇ」

 荒れた道にも関わらず振動も少なく、車内は快適そのものだ。空調も適度に設定されており、心地良い空間を演出している。

 しかし、尋の機嫌を宥める効果はゼロだった。

「……」

 青年の労いの言葉を尋は無視した。

 青年と目すら合わさず、ずっと暗い窓の外を眺めていた。

 先程までの共和国軍との会見とは違い、尋は不機嫌さを隠さない。

 無表情で黙り込み、にこりとも笑わなければ一言も口を聞かなかった。

 ただ紫の獣を撫でる手だけは優しかった。硬い毛の感触を楽しみつつも、眠っている獣を起こさないような慎重な手つきだ。

「向こうとの交渉は上手くいったかい? その様子じゃぼちぼちって所かな」

 黙りこくった尋に全く物怖じせず気にもせず、青年は軽薄な調子を崩さずに尋ねた。

 青年の名は東 潤。尋の部下に当たる人物だが、その態度は気楽なものだ。そして車中の中では誰もその態度を咎める者はいない。

 尋と潤は上官と部下という関係であるが、同時に腐れ縁の幼なじみの間柄だ。尋にとって潤は自分を取り繕う必要のない相手の一人であり、最も信頼をおいた部下でもあった。

「で? で、どうだった向こうの司令官殿は? こっちのと違って向こうのは若くていい男だったでしょ? それに向こうの士官殿達は面白い連中ばかりっしょ、俺達とは大違いだ」

 自嘲気味な潤の言葉に、ようやく尋は口を開いた。

「確かに、面白い連中だった」

 潤の顔を見ようともせず、淡々と尋は続けた。

「私の事を馬鹿呼ばわりだからな。それに私の頭がおかしいんじゃないかと露骨な顔もしていた。こっちじゃ考えられない反応だ」

「天下の藤間様をねぇ、そりゃ有りないね。思ったとしても、顔に出せる勇気の持ち主は帝国にはいないねぇ」

 藤間家。

 皇族の次に古い一族で、符術の祖ともいわれる一族である。帝国で知らぬ者はいない。

「だろうな。特に、あんな場では」

 そこで尋は初めて少しだけ笑みを浮かべた。

 口の端がちょっとだけ上がった、嘲笑。自嘲の笑みかもしれない。あるいはどちらも。

「共和国の人間は鈍いとは聞いていたが、まさかあれ程とはね。あれじゃ先が思いやられる」

「役に立つかどうか、それ以前の問題だよねぇ。見えてないんだもの」

 くすくすと、愉快気に潤は笑った。

 尋はそれには答えず、沈黙する。

 沈黙のまま、尋は思索にふけった。




 緑色の屋根の、小さな家。

 庭があって、そこには日よけ用の傘と一体になった机を置いている。椅子は二脚。

 犬小屋もあって、そこには紫色の犬が前足に頭を乗せ、うたた寝している。

 庭の芝生は青々していて、蜜柑等の果樹も植えられている。色とりどりの花が植えられた鉢も所狭しに並べられている。ちぐはぐなパズルみたいだが、そのちまちました感じは尋の好みだ。

 軍服ではなく、しかし動きやすそうな白いワンピースを着ている尋。まだ少し寒いのか、茶色のガーディアンを羽織っている。

 机の上には毛糸玉と編みかけのセーター。たっぷりとコーヒーの入った可愛らしい動物を模ったマグカップ。

 天気は日差しがきついくらいの快晴。

 せっせとセーターを編んでいた尋は、やがて肩が凝ったとばかりに大きく伸びをする。

 その時だ。

 誰かが、庭に入ってくる。

 仕事帰りなのか、黒い鞄を手に提げて。

 日傘越しに顔は見えない。

 それでもそれが待ち人だと、尋にはすぐ分かった。

 胸に広がる暖かな想い。ほんの少し甘酸っぱい。

「おかえり」

 憧れの言葉を、口に乗せた。




 思索終了。

 またの名を妄想。

 尋の楽しみの一つだ。最近は忙しくあまり長い時間は取れないが、二、三分だけでもあれば十分に楽しめる。

 妄想の後はいつもちょっぴし切ないが、ごくまれに身もだえるような快感を得られる。虚しいことにかわりはないが。

 だが、藤間尋にとってその虚しさは心地良いものだ。

 なんにもならないことが、尋は大好きだ。

「そういえば、その魔物はどうする?」

 潤の声で、ぬるま湯のような心地良さに浸っていた尋の意識は現実に引き戻された。

「……?」

 どういう意味だと目で問いかければ、潤はにっこりと、楽しい話をするかのように尋に告げた。

「とーしろうはさ、俺がこっそり連れてきて共和国の領内で放したか、術で放したかと思ってるでしょ? でもざーんねん。そいつってばさ、なんでか尋の符をはがして自力で尋の匂いを追ってあっちまで行っちゃったんだよねぇ、これが。おかげでこっちはぼろぼろ。建物も半壊だし死人も何人か出たみたいだよ。見かけによらず、その魔物って強いんだねぇ」

「……」

 潤の報告に尋は言葉を失った。

 魔物を撫でていた手が止まる。

 潤の言葉通りだ。

 てっきりこの潤の手引きで、この馬鹿犬が乱入してきたと思い込んでいた。偶然にはタイミングが良すぎたし、自惚れ以外何物でもないが自分がこの馬鹿犬にかけた術は完璧だ。この馬鹿犬が自力で術を解くなど有り得ない。

 そう考えていた。

 言葉を失い、表情を硬くした尋を楽しげに見つめながら、潤は報告を続けた。

「っていう報告がね、キミを待ってる間に届いたんだ。共和国の人間は俺達とは違って魔物には無力だしねぇ、俺も止めようと頑張ったんだよ? 無理だったけど」

「……労って欲しいのか?」

「べっつに~ 俺とキミの間じゃ今更だしねぇ。別に誉めて欲しくてやったんじゃないし。これも仕事だから」

「そうか」

 視線が落ちる。

 ちょっとした悪戯の報告でもするような、楽しげな潤の方を見てられなくなり、尋は目線を犬に戻した。

 犬は相変わらずぐったりしている。

 当然だ。尋が貼った額の符には魔物の魔力を押さえる印と体力を消耗させ続ける印を書いている。いずれこの符を貼り続けたら死に至るだろう。

 自分でやっておきながら、少し尋の心は痛んだ。

 この魔物を気に入っている。

 理由は分からない。ただもの凄く気に入っている。

 魔物なんぞ、珍しくもなんともないのに。これまで幾千の魔物を屠ってきた尋だったが、この魔物だけは違った。

 滅したくない。

「話を元に戻すけどさ、その魔物どうするの? てっきり向こうに引き渡すか始末してくると思ってたんだけどねぇ、まさか連れて帰って来るとは思わなかったから考えてなかったよ。あ、分かってるとは思うけど引き続き飼うのはダメだよ。死人や怪我人がたくさん出てるんだ。死刑ものだよねぇ、これって」

「……なぁ、」

「なんでこんな事したかって? それが効率が良いからだよ。分かってるでしょ? 敵を騙すのにはまず味方から。軍にしたってねぇ、俺達のこと信用してない人間が多いんだから、謀り合わせて向こうを騙す、って訳にはいかないでしょう? 足引っ張られるのがオチだって。それに何人かは向こうさんに興味があるみたいだからねぇ、尚更ね」

「……」

 返す言葉が思いつかず、尋は黙った。

 帝国軍が岩一枚でないことは尋自身がよく分かっていた。

 辺境地区の帝国軍は下級貴族の者が多く、尋のような上級も上級の貴族は入り込む余地がない。常に煙たがられ、追い出そうと共謀されている。魔王復活の話も、ただの与太話と考えている人間が少なからず存在する。

 共和国は自由とチャンスの国。

 全てが生まれながらに決められている帝国とは大違いで、下級貴族の者にはそんな共和国に憧れている者も多い。帝国ではどんなに優れた能力を持とうが、生まれで人の上に立つのか支える側になるのか、全て定められている。

 潤の言う事はいちいちごもっとも、その通り過ぎて反論のしようもない。しかし、かといって納得は出来るはずがなかった。

「納得できない? うん、別に構わないよ。俺がやりたかったのはキミの危機意識の再発だからね。ここん所ちょっと緩み過ぎだよキミ。見ててちょっと吐き気がしちゃうくらいにね。勘弁してよねぇ、今は大事な時期なんだよ? お得意の現実逃避してる場合じゃないでしょ、ほんと。ほんと勘弁してよ。もし魔王が復活しちゃったら困るのはキミ以外の人類皆全てだよ?」

 更に続けられた潤の言葉の中で、一つだけその通りでない部分があった。

 それだけは一応反論を試みる。

「魔王復活は困る。任務失敗になるだろうが」

「まぁたまたご冗談を! 本当は復活して欲しいんじゃないのぉ? この鬱陶しい世界はさぁ、壊れればいいんだって、思ってんじゃないのぉ?」

「……」

 答える言葉が出ず、尋は押し黙った。

 それが消極的な肯定だと気づきながらも、尋はどうする事もできなかった。

 潤の言葉は的を得ていた。だから反論できない。

 その事は尋が一番分かっていたが、認める訳にはいかなかった。

「違う、それでは私の意味が、」

「今回の任務ってさ、やっぱりキミの大好きなムダな事じゃないの? だから張り切ってるんだ」

「黙れ」

「手土産持って挨拶に伺うぐらいならさ、ついでに占領しちゃえばいいのに。ナニ回りくどい事やってんだかね、ほんと。時間無いのは分かってんでしょ? 向こうの回答を律儀に待つつもりかい? それってキミの大好きなムダな事だよねぇ」

 潤は一拍おいて、いやに力を込めて言った。

「返答は、分かりきっているんだから」

 尋は答えなかった。

 楽しげな沈黙が車中を支配する。

 いつしか雨音は小さくなっていた。

 弾丸のように窓のガラスを叩いていた雨粒も小さく、弱い。

 夜には雨がやみそうだ。

 雨が降った後の空は綺麗で、星が澄んで見える。

 星空を眺めるのもいい。

 想像も出来ない程遠くの星々を眺めるのは、己の小ささを思い知ることが出来て楽しい。

 ちっぽけな存在。

 帝国という、巨大な国を支えるちっぽけな小石。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

藤間少将の使命 杉井流 知寄 @falmea

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ