第68話/終 或いは未来の話。
「……ふぅ」
勝手に漏れた溜め息に、私は顔をしかめる。
校庭の隅、大きな木の下。
青々と茂った葉のお陰で、日差しとか他のものを避けられるここは絶好の休息ポイントだ。夏だって、日差しがなく風があるときはここは本当に気持ち良い。
「……こんなところで何をしているの?」
「うひゃあっ!?」
突然の声が降ってきたのは、木陰に腰掛けて、壊れかけの鞄のファスナーをどうにか開けて、お弁当を取り出した時だった。
思わず変な声が出て、アニメみたいに飛び上がった私の頭上から、クスクスと控えめな笑い声が響く。
「ごめんなさい、驚かせるつもりは無かったのですけれど」
申し訳の無さを全く感じられない、上品な声に見上げると、私の喉は再び妙な音を立てた。
頭の上、手頃な太さの枝に、美少女が腰掛けていたのだ。
肩までかかる癖の無い、滑らかな黒髪。
肌は対称的に、透明感のある白さ。
ついと歪んだ唇は瑞々しい肉感と日本人らしい薄さの奇跡のバランスで、仄かなピンク色が蠱惑的だ。
まさに、美しいという言葉が擬人化したみたいな、神様みたいな美しさだ。
けれど、私が息を飲んだのは、美しさのせいではない。
その瞳。
真夜中、電気を消した部屋の天井の隅みたいな、黒々と口を開けた漆黒。
明かりをつけても消せないんじゃないかと思う、夜の闇を集めて固めたような、穴のような暗闇。
何処と無く空虚な、意思を感じないガラス玉のようなそれは、私のことを見ているようで、その実何も見ていないような気がした。
クラスメートのあの視線とも違う、親の、無価値なものを見る目付きとも違う、それより遥かにゾッとするような眼。
あれは――『見る』という行為に何の価値も見出だしていない者の眼だ。
虚無は、凍り付いたように動けない私を、ゆっくりと見回す。
その瞳が、不意に曇った。
「……ごめんなさい。驚かせたせいかしら?」
「……え?」
「お弁当」すっと彼女の指が、私の手元を指した。「ぐちゃぐちゃになってしまっているわ、落っことしてしまったの?」
あぁ、と私は我に返った。
飾り気の無い金属の箱の中身は、おかずもご飯もしっちゃかめっちゃかだ。
「ち、違うの、その――少し振り回してしまったから」
「そう」
「うん、そう」
「…………」
「…………」
見下ろす視線の冷たさに、私は目を逸らした。
誰だろう、という思いがその時初めて浮かぶ。着ているのは、私と同じ中学校の制服だけど、あんな美人は見たことがない。
「えっと、あなたは」
「虐められているの?」
放たれた言葉は、銃弾のように私の胸を穿った。
ひうっと喉が、三度叫んだ。
いじめっ子の行為、クラスメートの白けたみたいな眼、教師の呆れたような顔、親の侮蔑。
私を取り巻くあらゆる日常の風景がフラッシュバックして、私は立ち竦んだ。
「そう、やっぱり」
ひょいっと気軽に、見知らぬ少女は枝から飛び降りた。
結構な高さだったのに、苦もなく、また音も無く着地すると、彼女は私に近付いてくる。
「……弄られてる、だけ。おふざけみたいなもの、だから……」
「ごめんなさいね、貴女の意見はどうでも良いの。大事なのは、第三者が見てどう思うか。この身体を返すときに、生活に不備があったら困るのよ。ひいらぎかなたの出身校は、非の打ち所の無い所でないといけないのよ」
「…………えっと、何を、言って?」
「二年三組ね、ありがとう」
「っ、え?」
そう言って彼女が差し出したのは、私の生徒手帳だった。
鞄に入れていた筈なのに、いつの間に?
慌てて引ったくるように受け取ると、彼女はクスリと笑った。
「大丈夫、名前とクラスを知りたかっただけだから」
「全然大丈夫じゃない……っ!」
「私も明日から、クラスメートだから。宜しくね、お嬢ちゃん?」
パンパンと軽くスカートを叩き、裾を直すと彼女は歩き出す。
嵐のようなその背中を見送りながら、私は「あの」と呼び止めていた。
不思議そうに振り返った彼女より、私の方が驚いていた。普段の私らしくない、唐突な積極性だったから。
それでも、意を決して私は尋ねた。
「あの、貴女の名前は?」
その質問の、何が彼女の琴線に触れたのだろうか。
彼女の瞳に、感情の色が浮かんだ。楽しそうな、楽しいのだと人に解って欲しいと言うような、役者さんが映画の中でするみたいな目付きをして、そして。
片方の眉が上がり、それに釣られるように唇の左端を持ち上げて。
シニカルに、ニヒルに、君は本当に馬鹿だなあとでも言いたげに、少女は笑った。
「私は、彼方。
宜しくね、と言って、彼女は本当に帰っていった。制服を着ていたけれど、学校には行かなくて良かったのだろうか。
――山火事みたいな人だったなぁ。
憂鬱で、自分の無力さと社会の卑劣さ、或いは絶望に届きそうな暗い感情に満たされていた毎日。
そんな下らない日常が、何か変わるのではないかと思わせるような、力のある人だった。
……その予想は、明日、恐ろしいほどに正解だったと知ることになる。
私の意思とか、意見なんて本当に関係無く。
冬木彼方は、いじめっ子の全てを薙ぎ払っていったのだった。
「……友達に、なれるかな……?」
今日の私は、そう無責任に呟いた。
明日の私がそこにいたなら、止めておけと首を振っていただろう願いを、無責任に。
『やあやあどうもお疲れ様です、貴方のアイドル黒木ちゃんですよ?』
「……黒木さん、どうも」
『学校の様子はどうでしたか? 無理矢理の転校、旧お友達との涙のお別れはさっさと切り上げたと聞きましたけれど?』
「あいつらは、彼方ちゃんの敵ですから」
『転校先ではもう少し、楽しめると良いですねぇ』
「楽しみますよ、勿論。その前に、膿みを出す必要がありますけどね」
『おやおや。いじめ反対ってやつですか?』
「いずれ、彼方ちゃんに返す人生です。一点の傷も無いような、楽しくて充実した人生にしなくてはね」
『はぁ、まあ貴方の話を聞く限り、記憶そのものは残ってますからね。意識さえ取り戻せれば、彼方ちゃんに戻ることは可能でしょうけれど。その場合、貴方は死にますよ?』
「知ってます」
『端的ですねぇ。それは覚悟ですか、それとも、諦め? まさかとは思いますけど、償いだなんて言いませんよね?』
「…………」
『まあ、良いですけど。そういう意味では良い話をしましょうか。
実は今度、御影社長に出資してもらって新しく研究所を造るのです。責任者は私、名前も……黒木研究所とかにしちゃいましょうかね?』
「止めてください。あと、山の中に造るのも絶対に止めてください」
『勿論、貴方にも来て貰いますからね?』
「え?」
『内定おめでとうございます。……ふふ、嫌そうにしないで下さいよ。貴方の意識を消して、怪物とやらの意識も消して。彼方ちゃんの意識を掘り起こすことも出来るかも知れませんよ?』
「至れり尽くせりですね、僕のために?」
『彼方ちゃんのためです。貴方自体は、正直今すぐ死んで欲しいと思っています。出来れば、私の目の前で』
「じゃあ、そうすれば良いでしょう? 貴女なら、僕を事故に見せかけて殺すくらい何でもない筈です」
『白沼博士の記憶、彼方ちゃんの天才性、スミスさんの格闘知識、そしてまぁ、日向さんの善性。どれをとっても、捨てるのは勿体無いですから』
「……少し、考えさせてください」
『駄目です。
もしかしなくとも貴方は、『彼方ちゃんが過ごす筈だった人生に悔いの無い選択を』なんて、正解の無い自問自答なんて無意味な事ばかり考えて人生を無駄にしているのでしょうけれど、はい、そういうのは止めましょう。
無いんです。
そんな都合の良い答えは、この世界のどこを探しても落ちてません。死ぬ直前に後ろを向いて、足跡がそれなりの長さ続いていたら上出来程度のものなんですよ。
貴方は、進むしかない。当たっていようと間違っていようと、何処だか解らないゴールに向かって歩き続けるしかないのです。
加えて一つ、貴方のために言葉を付け足しましょうか』
「……何ですか?」
『心に刻みなさい。貴方を津雲日向と呼ぶのは、この世界でもう私一人なのだと』
「……随分と、優しいんですね。貴女は僕のこと、嫌ってくれると信じてましたけど」
『えぇ、勿論。私は貴方を嫌っています。憎んでいます。恨んでいます怒っています憤っています』
「…………」
『貴方の生存が不愉快です』
「……………………」
『絶対に、赦すことはありません。私のために生きて、私のせいで死んでください、津雲日向』
それは、僕にとって漸く得た宝物だった。
僕を正当に憎んでくれる人を、僕は待ち望んでいたのだから。
「……一つ、条件があります」
『聞きましょう』
即答だった。
僕は軽く目を閉じる。
まぶたの裏を駆け巡るのは、必死に過ごした仮初めの日々。悪夢のような夢、夢みたいな再開。
僕は、ひょいと片方の眉を上げ、左の口の端を持ち上げ、シニカルにニヒルに、
「
黄昏の夢幻 レライエ @relajie-grimoire
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