あんぱん

ヤンパル

DAY 0

 ああ、お腹が減った。

 ちくしょう、くそ上司め。くそくそ上司め。俺にありえないほどの残業をよこしやがって。俺がちょっと上司にヘコヘコしたら、骨肉をしゃぶらんがばかりに俺をこき使いやがる。気づいたらすっかり俺は上司の腰巾着となり、表向きはいい様に褒められてるので同僚からもいらん嫉妬でジロジロ見られ、上司に枕営業したのだなどと最悪な陰口を叩かれる。もはやこの苦境を打ち明ける相手が同僚にはいない。そもそも嫌だよなあ、自分よりいい待遇のやつから、つらいんだ、って言われるのは。

 俺はこの復讐を帰路でいつも行なっている。

 復讐は楽しい。電車内で足腰の弱そうな老人を前に、気分の悪い人間のふりをして眠り続ける。愉快。

 ふともものかわいい女の子をジロジロみる。必要以上にジロジロ見る。ものすごく嫌がる顔も、凝視して舌舐めずりする。やがて次の駅で急に女の子は降りる。愉快。

 野良猫に靴を投げる。野良猫は驚いてびんこびんこ飛び上がる様に逃げ出す。愉快。

 カオス理論というのがある。蝶の羽ばたきひとつで世界が変わるということだ。

 俺はカオス理論をあやつっている。この日常生活で悪いことをし続けることによって、世界を悪に染めてやるのだ。ふひひ。そうすることで上司がいずれ苦しむことになれば・・・。

 が、今日はそうはいかない。真剣に腹が減った。悪いことをする余裕もない。本当にあの上司は自分の仕事、しかもそれもめんどくさい雑事を俺に投げすぎなのだ。俺は飯も食う余裕もなく夜を過ごした。気がついたらほぼ店じまいの時間だ。疲労、頭痛、空腹。最寄駅に無事に着く程度の知性は残されていたが、ホームに座るなりもう俺は動けないと思った。

「どうしたんだい?」

 異様に甲高い声。俺は振り返って見ると、みょうに顔が下膨れしたような肌のガサガサした男が立っていた。赤いパーカーを着ている。

「くるしいのかい?」

「う・・・」

 俺は何も言えない。もはやこの甲高い声の男の優しさが、悪に染まり傷ついた俺の心に染み渡る。

「お腹がすいてるようだね。」

 すると甲高い男は後ろを向き、しばらくして、またこちらに向きなおる。手に何か持っている。

「えたんべ。」

 お食べ、と言いたいのだろうか。それはちぎれた断片。パンのようにほつれている。

「これは・・・。」

えいひいよ美味しいよ。」

 やはり発音がおかしい。なすがままに、俺はその断片を受け取る。その断片には黒い塊がある。黒い豆のようなつぶつぶがあるから、つぶあんのアンパンといった感じだ。

 ほんのりといい香りがする。胃痛。飢餓。食べたい。俺はもうかっこむようにそれを頬張り、飲み込んでしまった。一瞬口を通過した味は、紛れもなく、

「おい、しい・・・。」

 そして俺の朦朧としていた意識が回復していった。

いぇかった良かった。」

 俺は「ありがとう」と言おうとして、目を上げた。男の右ほほはごっそり削り取られ、歯肉がむき出しであった。削られた肉の傷口はパンのようにぼろぼろであった。

「あっ・・・ひゃっ・・・」俺は痙攣する様に変な悲鳴を上げてしまった。男は満面の笑みを浮かべ、「わたふとをふとりとすけとぅえすまったまた人を一人助けてしまった・・・。」と言って涙を流し始めた。

「う、うあああ!」俺はベンチから転げ落ちる様に逃げだし、改札の扉に向かって激突した。改札機にICカードを当てるのを忘れていたのだ。俺は後ろを見ながら、追いかけてくる気配もない事を確認しつつ慎重に定期券を改札機に当て、そして前に進む。足の震えが止まらない。猫が通り過ぎても嫌がらせをする気力もない。そして俺は思った。


 あいつは俺に何を、食わせたのだ。

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あんぱん ヤンパル @Novel_Yanpal

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