第二十三話 敬語
野営地を襲った突風は、去った。天幕には火がつけられ、守備兵は全滅させられた。林の奥に消えた主力も帰ってこない。餌に釣られて、一体どこまで進んだのか。間が抜けている。
無人と化した野営地で、たったひとり、サトだけが取り残された。襲ってきた数騎を撃退すると、それっきり彼は捨て置かれた。賊からすると、戦いはすでに終わったのだ。であるのに、わざわざ手負いの虎に挑んで、死にたい者などいない。
女たちが縛られていたらしい場所には、死体がいくつか転がっているのみである。死体の中に見覚えのある顔はなく、ほっと息をつく。アレクと例の少年も、女たちと共に連れて行かれた、に違いない。
捕虜の中で、ころされていたのは老いた者ばかりである。移動の邪魔にしかならない者を、あらかじめ始末したのだろう。非情極まりないが、合理的な判断だった。
負傷した箇所を素早く止血して、サトは歩き出す。事態に気づいて、戻ってきたアタイ兵に捕まれば、不自由な身に逆戻りである。一歩踏み出すたびに痛みが走ったが、歩みを止めるわけにはいかない。
――なんとしてでも、助けねば――
その一心だった。
――怪我人の自分がひとり助けに行ったところで何ができる?――
という弱腰な発想はなかった。
捕まった彼女らがどんな目に遭わされるか。それを想像するだけで、疲れにも痛みにも耐えられた。
進んでも、進んでも、連中の姿は見当たらない。
あちらはほとんどが騎乗していて、こちらは足を引きずりながら歩いている。エレン達との距離が開くのは至極当然であった
夜が明けた。
姿が見えない以上、手掛かりとなるのは人や馬の足跡のみである。けれども、問題が生じた。足跡が二手に分かれているのだ。ひとつは川に沿って北へ、ひとつは森の見える南へと伸びている。
――隊をふたつに分けたのか――
おそらく、追っ手を
より足跡が多い、森側へ進むしかなかった。サトの身はひとつしかない。苦渋の決断だった。
――こちらであってくれ――
そう願って、進む。
足跡は森の中へと続いていた。想定以上に深い森であった。無数の木々が空を覆い、下のほうは夜のように暗かった。
しばらく行くと、開けた場所に出た。大きな建物が前方に現れる。古めかしい、しかし大きい
――ずいぶん前に、放置されたものらしい――
役目を終えた軍事施設というのは、賊が根城とするのに格好の場所である。
茂みに身を隠す。
壁の上に、いくつか人影があった。外敵――まさにサトのような者――に対する見張りだろう。
――エレン達は、ここへ連行されたに間違いない。だが、いかにして乗り込むか――
見張りに悟られないよう、気をつけつつ、砦の様子をうかがう。いくらサトが武勇に長けていると言っても、真正面から突っ込んだところで結果は見えていた。怪我も癒えていないのだ。
遊牧の民であったサトは、日常的に馬上から動物を狩ってきたおかげか、良い目を持っている。その目を生かして、楽に忍び込める隙はないか、探る。
――踏み込むなら裏だな――
どうも裏手の警備は薄かった。できる限り気づかれずに敵を処理していきたい。そういう点では、人数の少ない裏から攻める以外に他はなかった。安全を重視するなら、闇夜に
――夜なんぞ待っていられるか――
サトの頭には、今すぐ乗り込むという選択以外、なかった。
「待った」
しかし、まさに飛び出て行こうとしたところで、背後から誰かに肩を掴まれた。
手を振り払って、身構えるサトの目に飛び込んできたのは、懐かしい顔だった。
「はあ、やっと追いついたわ。んなに警戒するなよ。こっちもびっくりする」
散々聞いた、女の声だ。良く言えば、はつらつ。悪く言えば、うるさい。そんな
「げっ」
「げっ、とはなんだ。せっかく助太刀に来てやったのに失敬な」
女にしては珍しいほどの長身、燃えるような赤い瞳に、ドがつくほど派手な格好。幼馴染のカナメ、その人だった。周りにソラの姿はない。
そして、隣に大きな狼が一頭。これも見覚えがあった。
「エフ! お前も来たのか」
あいさつ代わりに、身を寄せてくるエフの頭を撫でてやる。彼女は、満足げに喉を鳴らしている。
頬をわざとらしく
「カナメ、彼らは一体?」
気になったサトは眉を潜め、尋ねた。
「こいつら? こいつらは……」
カナメは言葉をいったん切る。そして、にやけた笑いを浮かべて、こう言った。
「盗賊」
ルートは身震いした。雨によって濡れた衣服は、いまだ乾き切っていない。
例の襲撃の後、賊に捕まり、狭い馬車へ押し込められていた。
灯りらしい灯りと言えば、入口から
ルートは、隣でうずくまる妹を心配そうに見つめる。人の死を間近で感じるのは、祖父母がころされた、例の夜以来だった。
「母さん、大丈夫かい?」
女だらけの馬車だが、例外はあった。アレクと、少年がそれである。絶望的な状況に置かれても少年は、平気な顔で、母を心配していた。年齢のわりに、落ち着きすぎていて、少し気味が悪い。
―― 一体、どこに連れていかれるの。サトさんは無事なの。ソラさんは今どこに――
心の中で、様々な疑問が浮かんでは消えた。
馬車は使い古された物らしく、内部に穴がいくつか開いているのだが、どれも外の様子を確認できるほどは大きくない。
それでも、聞こえてくる水音から、馬車が川の側を通っていることだけはわかっていた
己を心中で
馬車が停止し、一人ずつ、外へ降ろされる。抵抗する者もいたが、結局は、力ずくで引き
ルートもエレンも、思わず目を
別のひとりが、剣を剣で弾き飛ばし、仲間の凶行を止めたらしかった。
「やめておけ」
若い男だった。色白で、鼻は高く、目元はすっきりしている。端正な顔立ちだ。立派な体格で、身なりも小綺麗。みずぼらしい格好の者が多い中、彼だけが浮いていた。
この青年は、さきほどの野営地においても、最後まで捕虜の殺害に反対していたので、印象に残っている。
「ふん。『ホウテン』の犬
制止された男が、吐き捨てたが、青年は聞こえないふりをする。
――どうやら、彼らも一枚岩ではないみたいね――
ホウテンという名が出た途端、賊の中で緊張が走ったのを見過ごさなかったルートは、思った。
目の前には、大きな滝が流れていた。水音が激しくなったのは、これのせいである。
「さあ、歩け」
滝の裏には、ぽっかりと穴が開いていた。洞窟への入り口らしい。きっちり、石造りの階段が敷かれている。明らかに人の手によるものだった。
「連中が造ったとは思えないな」
後ろを歩くアレクが、ルートに
階段を下った捕虜たちは皆、洞窟の広さに目を丸くした。
巨大空洞が広がっていたのだ。五つほどの階層に分かれており、張り巡らされた縄の橋が各階層を繋ぐ。大食堂があり、それぞれの寝室があり、数か所の牢屋がある。もはや、小さな宮殿であった。各所に兵が配され、目を光らせていた。
「たかが盗賊には、もったいないほどの施設だな。国でも造るつもりか」
アレクが呆れた口調で言った。
彼としては冗談で言ったつもりなのだが、実はほとんど当たっている。
「マルテに首尾を報告してくるぜ。お前は、捕虜を牢屋にぶちこんでおけ」
統率者のその一言を契機に、多くが散っていった。
捕虜を任せられたのは、あの顔立ちの良い青年だった。
「こっちだ」
口調が柔らかい。やはり、他の者とは違って、彼には優しさが
最下層には牢屋があり、捕虜はそこへ入れられた。
「おっ、女か。抱き心地のよさそうな者もいるじゃないか」
牢屋番が、舌なめずりをしながら、言った。
欲にまみれたその言葉に、ルートは心から怯える。他の女たちも、恐怖に顔を引きつらせていた。
労働力に、さしてならなさそうな女の使い道など、捕まった時点でわかっていたことだ。覚悟の上のつもりだった。しかし、いざ現実を突きつけられると、さすがに身がすくむ。
「マルテのやつが戻る前に手を出してみろ。首が飛ぶぞ」
青年が、
「はいはい、わかってるさ」
牢屋番は口惜しそうに、苦笑した。
「あいつが戻ったら、また宴会かな」
牢屋番は話を変えた。
「だろうな。『スバク』の家の者がやってきて、酒樽をいくつか運んできた。明日、運びきれなかった分を持ってくるそうだ」
『スバク』とは、彼らと繋がりを持つ商人の名である。
「そういや、お前。前の
牢屋番は、語気を強めた。
「余計なお世話はいい。酒は飲まない主義だ」
「警告してやっているんだ。たださえ、お前はホウテンに近かった。裏切られはしないかと、マルテは疑っている」
「勝手に疑わせとけばいいさ」
青年は、まったく取り合おうとしなかった。
翌日の昼、ある男が数人を伴って、牢屋にやって来た。天井に頭がつくのではないかというほどの巨漢である。歳は、三十代から四十代くらい。
「どの女にする、マルテ」
檻の前で品定めを始める男に対し、脇に控えた牢屋番が問う。
『マルテ』。散々、賊たちのやりとりで聞かされた名前である。紫色の派手な羽織が目立つ。賊の頭目に違いなかった。
頭目の目を引いたのは、やはりエレンとルートの姉妹だった。その他にも綺麗、あるいは可愛らしいと言える女はいる。しかし、この姉妹の容姿ときたら、抜きんでていた。
「あの娘だ」
指差されたのは、ルートのほうだった。沈み加減のエレンより、毅然としていた彼女に目が留まったのだろう。
なんのための指名かなど、わかりきっている。男の好色な目がすべてを物語っていた。
「宴まで、まだしばらくある。今すぐ連れてゆくか?」
「野郎どもに、指示を出したあと、楽しみたい。数刻後、連れてこい」
そう言って、頭目は去っていった。
ルートは膝を抱えた。
エレンもアレクも、そんな彼女に、言葉ひとつ掛けてやれなかった。どんな言葉も慰めにはならなかっただろう。
他の女たちも、安堵と
――エレンが指名されなかっただけ、マシよ――
ルートは、そう思おうと決めた。開き直るしかなかった。地底深くの洞窟である。助けなど期待するだけ無駄な状況だった。
「おい、聞いていただろう。立て」
牢屋番が無慈悲に、言い放つ。
ルートだけ縄を解かれて、牢から出された。
「姉さん……」
「大丈夫よ、エレン」
心配そうにつぶやいたエレンに、返す。
――何が大丈夫なの――
自分の無責任な返答に呆れる。大丈夫なことなど何もなかった。
目的地は、食堂を通った先にある。
食堂は、宴会の準備の只中だった。夜が更けるのを待ちきれず、すでに賊たちは騒ぎ始めていた。そんな彼らを呆れたように見やりながら、並んだ酒樽の横を通り過ぎる。不思議と酒の匂いはしなかった。
頭目の部屋は、ふたつの部分に分かれており、手前は書斎、奥が寝所である。
「寝所にマルテが待っている。ゆけ」
案内したのは、あの青年だった。ルートは、すがるように、青年を見つめた。
「すまない……」
そんな視線に青年も、少し心が揺らいだようだが、最終的には目を背けて、謝罪した。
書斎も寝所も
書斎には、高級感のある、しっとりとした木製の机や衣装棚、本棚。
寝所には、金色のシャンデリア、美しい絵画、真紅の
――ああ、あそこで見ず知らずの盗賊に私は……――
そう思うと、泣き出したくなった。
さて奇妙なことに、頭目の姿はどこにもなかった。
――おかしいわね。まだ戻っていないのかしら――
『野郎どもに、指示を出したあと、楽しみたい』。頭目の台詞を思い出したルートは、そう思った。
ルートは、ベッドの脇の椅子に座って待った。部屋から出ようと思えば、出られる。しかし、洞窟内には警備の兵があちこちにいるのだ。諦めて待つしかなかった。
手前の部屋で物音がした。何かを開けるような音だ。
――帰ってきた……――
ルートは、目線をできうる限り、下げた。無理やり抱かれる男の顔など見たくない、と考えての行動だった。手に震えが走る。
足音が近づくたびに、心臓が脈を打つのを感じた。
「怯えているのか」
意外にも穏やかな声が降ってきた。
「怯えてなんかいないわ。好きにすればいいじゃない」
と、振り払うように首を振って、言った。そうやって強がってみたところで、手の震えは止まらない。
男はひざまずくと、両の手で、彼女の震える手を、そっと包み込んだ。
「やはり、敬語よりそっちの口調のほうが断然良い」
「えっ」
『敬語』という聞き覚えのある文句に驚き、ルートは顔を上げる。かつて自分を救ってくれた人の顔が目の前にあった。
「ソラ?」
驚きのあまり、名を呼び捨てにして、つぶやく。
「おいおい。俺の声や顔を忘れるほど、時は経ってないだろう?」
ソラは静かに笑っていた。
ぽかんと開けた口を閉じるのも忘れて、ルートは目を白黒させていた。
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