夢食堂

月山

夢食堂

「ようこそいらっしゃいました」


 ただただ広い空間。果てのないほどに広がった床と正面の壁。壁と俺の間にあるカウンター、その向こうの黒いシルエット。シルエットは輪郭が少しぼやけている。陽射しの強くない時の影のようだと俺は思う。

 俺は椅子に座り、手元のメニューを眺めている。

 メニューの一番上には夢食堂と書かれている。おそらくここの店名なのだろう。

 その三文字を隠すように黒い手が伸びる。黒い指がひとつの料理名をさす。

“月光豚と太陽草のパスタ”

「本日のおすすめです」

 メニューから指を離し、黒いシルエットはそう言った。


 言うまでもなく、これは夢の中の話である。

 この店の夢を、最初に見たのはまだ幼い頃だ。オムライスを食べたことを覚えている。料理名は何だったろう、金星オムライスだったか、金塊オムライスか。一口食べると、卵の食感はざらざらとしていて、チキンライスがパチパチ弾けた。


 回想していると、目の前に皿がごとりと置かれる。注文をした覚えはないのだが、それはいつもの事だ。代わりに料金を請求されることもない。夢の中で俺はいつも、料理を薦められ、提供され、食べる。それだけだ。

 皿の上にはパスタが乗っている。見た目は、普通のベーコンとほうれん草のパスタ。フォークで巻きとり、口に運ぶ。パリン。口の中で、麺はパリパリと音をたてる。巻きとったやわらかな麺が、噛むたびに硬い音をたてて砕けていく。と、ほのかな苦みがあり、それから塩気と脂の旨味が感じられる。これはベーコン、でなく月光豚の方だろうか。案外、太陽草の味かもしれない。ここの料理は、変わっているから。見た目と味は一致しない。ざらざらの卵とか、パリパリする麺のように。さくり、さくりという食感がある。甘酸っぱい味がする。これはどっちの味だろう。

 ことり。

 目の前に、グラスが置かれた。

 それはクリームソーダに見えた。グラスに満ちた緑に、細かな泡が浮かび、白いアイスが乗っている。

 ここで、飲み物を提供されるのは、初めてではない。

 ただ。ひとつの夢に二品というのは、初めてだった。

「サービスです」

 珍しいこともあるもんだ。

 俺はクリームソーダに手をのばす。

 途端、グラスが倒れる。

 一瞬、俺が倒してしまったのかと思ったが、指の触れる前だった。勝手に倒れたのだ。いや、どっちでも変わらない。ソーダがカウンターの上に広がっていく。何か拭く物を借りようと思った。

 カウンターの向こうに、シルエットはいなかった。

 広い広い店内に、俺ひとり。

 ソーダが広がっていく。

 カウンターから垂れて床に広がっていく。

 床に溜まっていく。

 果てのない床に広がる、溜まる、俺の足が沈んでいく。これは夢だと、分かってはいるが焦ってしまう、けれど、どうしようもなく、俺はソーダの中に沈んでいく。

 あたり一面緑色だ。

 ああ、甘い。口の中に甘さが広がる、けれど、メロンソーダの味ではない、この甘さと酸味は、この味は、ああ、苺だ。苺の味の、緑のソーダに沈む。

 頭上の影は何だろう。水面の丸い影。――そうか、あれはバニラアイスか。あれは、どんな味なのだろう? 床を蹴り、俺は浮かび上がる。周囲に、泡が浮かんでいる。ゆっくりと、上に向かって浮いていく。泡を追いかけて、追い越して、俺は浮かび上がっていく。

 何かが俺の横を通って行く。

 氷……いや違う……やっぱり氷か? あの透明な……でも四角くはない、あれは、あれは魚だ。透明な、おそらく氷でできた魚だ。泳いでいく。氷の魚がソーダの中を泳いでいく。しばし俺は、透明な魚に見惚れている。

 すると視界を上から下に、雪の舞い降りてくるように、何かがゆっくりと落ちてくる。赤い粒。それは苺だった。何粒も、何粒も。目だけでそれを追いかける。苺は下へ、下へ。

 あの苺はどこから来るのだろう。

 上を目指す。

 上へ泳ぐ。

 水面へ。

 ざぱり、と、ソーダから顔を出せば、そこには巨大な白い島がある。バニラアイスの島だ。上陸しようと手を触れれば、ふかふかとスポンジのようにやわらかく、そして温かい。そんなアイスに乗っかって、仰向けにごろんと寝転がる。空から苺が降ってくる。あの広がっている雲から、降ってきているのか。あの雲はどんな味がするのだろう。きっと雲だって食べられるだろうと思う、なにせこれは夢なのだから。綿菓子のように甘いかもしれないし、もしかすると辛いのかもしれない。

 そういえば、そもそも俺は店の中にいるのじゃあなかったろうか。目の前に広がる空は、雲は、一体何なのだろう。天井はどこへ行ってしまったのだろう。元からなかったのかもしれない。果てのない床と壁しか俺は見ていないのだから。ずっと空はあったのかもしれない。俺の頭上に。

 ふと、視界の端に何かが見えた。

 バナナだ。巨大なバナナが、ソーダにぷかぷか浮いている。何か、細長い物がくっついている。バナナが、こっちに向かって流れてくる。細長い物は、ボートのオールなのだとわかる。ボートの。

 バナナボートかあれ!

 いや……バナナボートってオール使ったかな……。前に見たTVでは確か……。

 いやまあどうでもいいか。苺味のメロンソーダの夢の中で、正しさを求めたって意味はないだろう。それよりボートがあるのだから、きっとこれは乗れということなのだろう。

 バナナがアイスにぴたりとくっついたところで、俺はそれに乗りこむ。

 オールでアイスを押し、反動でバナナが動く。オールでソーダをかきまわし、ボートを進めていく。ボートに乗るなんて子供の頃以来だし、あの時オールを手にしていたのは親だったから、つまり漕ぐのは初めてなのだった。バナナボートはすいすいと進んでいく。どうしてこんなにスムーズなのだろう。苺が降っている。ソーダが満ちている。

 目の前に何かが見える。

 それは建物だった。メロンソーダに浮かんでいる。何かの店のようだと思う。見たことはない店だった。だけど何度も訪れたことのある店だとわかった。

 だって看板に「夢食堂」と書いてある。

 いつだって夢はこの店の中から始まっていて、だから外観を見るのは初めてだった。こんな見た目をしていたのか。二階建てのように見える。窓が幾つもついている。俺がいたのはどの窓の向こうだったのだろう。窓なんて中からは見えなかったけれど。床と、正面の壁しか見えやしなかった。しかし、俺はそもそもこの店の中にいた筈なのだが、いつの間に外へ出ていたのだろう。ソーダの中を泳ぐ自分を思い出す。この店の中で、上へ上へと泳いだら、天井や屋根に邪魔をされることだろう。

 ところであの紙は何だろう。

 店の扉に、何やら紙が貼ってあり、何やら文字が書いてある。俺はボートを近付けていく。店が近付いていく。紙の文字が。

「えっ」

 紙には。

“当店はただいまより移転いたします”

 そう書かれていた。

 それだけ書かれていた。

 いやいや。普通こういうのには地図を、移転先を書いておくもんだろが。それが無い。この店は一体どこへ行ってしまうというのだろう。不親切な張り紙だ。

 どこへ。

 どこかへ行ってしまうのか、この店は。

 店は。

 動き出した。

「えっ」

 波もないおだやかなソーダの海で、店はゆらゆら流れていく。離れていく。追いかけようと思った。オールを動かせば、視界がぐるりと回り出す。回っているのは俺だ、ボートだ。さっきまでスムーズに漕いでいた筈のバナナボートは、進むことなくぐるぐる回り続ける。ぐるぐる。ぐるぐるぐる。目が回る。ぐらぐらと。体が揺れて。傾いて。

 どぼん。

 俺はソーダの中に落ちる。

 口の中に満ちる甘い味は、苺のそれとは違っている。喉でパチパチいっているこれは、どう味わったって、メロンソーダの味だ。ソーダの味がするソーダの中で俺は沈んでいく。

 視界が暗くなる。


 携帯のアラームが鳴っている。


 床が見える。

 壁が見える。

 床にも壁にも果てがある。だってここは俺の部屋だ。だってここは現実だ。

 起きて朝飯を食って仕事に行かなきゃいけない。

 食パンをトースターにつっこむ。焼けたらバターを塗る。食べる。トーストとバターの味がする。

 夢の直後の食事はつまらない。見た目どおりの味しかしないのだから。なんていうか、わくわくしない。コップに注いだ牛乳を、ぐっと飲み干す。トーストの味が牛乳の味で流れていく。

 適当に片付けて身支度をしながら、俺は考えている。あの移転の張り紙。店がどこかへ行ってしまうのなら、俺はもうあの料理を食べられないのだろうか。パリパリするパスタ。ざらざらの卵。

 あんな、ただの夢に、夢中になるのは馬鹿らしい。忘れたらいい。そう思う。思おうとする。そう思いこもうとする度にあの味がよみがえる。あんな料理はどこでだって食べられないのに。

 そうして俺は職場へ向かう。


 トーストを食べて、職場の近所で定食を食べて、コンビニで買った弁当を食べるのを数日繰り返して休日になる。

 あれ以来、店の夢は見ていない。もともと、毎日見ているわけでもなかったけれど。

 用事もない休日、家でごろごろしていると、あの夢ばかりを思い出す。俺はもうあの店に行くことはないのか。こうなると仕事というのはありがたいものかもしれない、体を動かしていれば夢のことを忘れていられる。昼休み、定食に箸をのばす頃には、俺はそいつを普通に味わえるようになっている。唐揚げを噛めば衣はざくりと、鶏肉はやわらかく、肉汁が口に広がる。味噌汁の、温かさと出汁の旨味。白米をほおばり漬物をかじる。

 コンビニの弁当だってなかなかいける。トーストはよく焼いたのが美味しい。

 俺は普通の食事を楽しんでいる。

 それでもこうして暇な時間、頭にはあの食堂が浮かぶ。

 もう一度あそこの料理が食べたい。

 ああ――俺はあの店のファンなのだ。

 ごろごろしているからこんなことばかり考えるんだ。散歩にでも出よう。スマホと財布だけポケットにつっこんで家を出る。ぶらぶらと歩く。気をまぎらわすように、辺りを見回しながら。

 しばらく歩いた頃だった。

 どこかで見たような建物があった。

 ああまるで、ソーダに浮いていたような。

 ひとりの男が店先を掃除している。黒い服を着ていた。

 彼が俺を見た。輪郭がぼやけてもいないしシルエットでもない彼は、

 聞き慣れた声で、何度も夢で聞いたあの声で、

 俺に向かって、言うのだった。


「ようこそいらっしゃいませ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢食堂 月山 @momosui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ