大晦日の歌姫

御手紙 葉

大晦日の歌姫

 大晦日の歌姫、と言えば、紅白歌合戦の歌手のことだろうか、と思う人もいるかもしれない。でも、私がその言葉を自分の心の中で確かめる時、それは一人の少女の姿を思い出させるのだ。肩に触れるか触れないかのところで切り揃えられたショートヘアー、小動物を思わせる小さな体に、明るい大きな瞳……その全てが人懐っこくて、よくクラスでも慕われていた。

 そんな彼女が歌姫を目指すと言ったのだ。それは冬の名残を引きずって春を迎えた時、叶えられる夢だったかもしれないのだ。でも、もうそれは不可能だ。彼女は人の歌声から、天使の歌声へと、その至高の存在へと昇り詰めてしまったのだ。

 彼女はずっとずっと、永遠に歌い続けるのだろう。でも、それは本当に私にとって信じられないことで、信じたくないことでもあった。彼女は今、空の向こうで微笑んで、私にあの冬のバラードを囁いているのだろうか。

 それはわからないけれど、きっと彼女の道筋にはメロディと音符と、たくさんの観衆の熱狂が溢れているのだろう。それを天国でも叶えようとして、必死に頑張っているに違いない。

 私はその冬の記憶を、今、貴方に語ろうと思う。それはきっと意味のあることで、彼女の歌声を想像して記憶に留めてもらえば、十分だからだ。


 *


 私はよくクラスの中で彼女と話し込んだり、一緒に笑い合ったり、と明るい記憶だけが胸に刻まれていた。誰に対しても明るく振る舞っていて、元気に周りを盛り上げてくれる彼女の姿は、私には十分眩しく見えたのだ。

 こうして卒業してしまった今でも、たまに彼女のことを思い出しては、彼女の可笑しなコントを想像して思い出し笑いに肩を揺らせることもあった。でも、高校卒業後に私達は疎遠になり、彼女のことを考える暇もなくなってしまった。

 私は県内の私立大学に通ってアルバイトをしながら、大学一年を終えようとしていた。今は夢に向かって勉強を続けている。将来編集関係の仕事に就きたいと思っていたので、小さな編集プロダクションでアルバイトをさせてもらっていた。

 冬の冷たい空気はその日の高揚感に比べれば、大したことではなかった。大学一年目の年が終わろうとしていたのだ。家でゆっくりとテレビを見ながら、本でも読んで新しく執筆する記事のアイディアを思い浮かべる……そんなことを考えていると、心が浮き立つような気がするのだ。

 郵便局のアルバイトを終えて帰路に就いた私は、夜道のぼんやりとした街灯の光を頼りに、ゆっくりと歩き出した。道路には車の通りは少なく、人の姿も見受けられなかった。怖いと言うより、年の終わりだな、とその実感の方が強く迫ってきた。

 来年も頑張るぞ、と私は小さく拳を作って自分を鼓舞しながら、広い道路の脇を歩き続けていたけれど、そこでふと、宵闇の霞んだ光の中に、白い影が踊ったような気がした。それは白ウサギのように軽快に地面を跳ねて、両手を広げながら遊んでいた。

 ショートカットの髪が舞うと、それは宙に焼き付いた光の筋のように残像を描き、私の目に強く映った。心をくすぐるくらいに可愛らしく、そして自然な仕草が彼女の小柄な体には染み付いていた。

 私は思わず声を上げそうになってしまう。彼女が道の段差の上で跳ねながら、歌を唄っていたのだ。今年のクリスマスにヒットして、話題になった有名歌手のバラードだった。その懐かしい背中を見ていると、私はすぐに駆け寄って、肩に手を置いてしまう。

「咲ちゃんじゃない?」

 その人がゆっくりと振り向いた。そう、本当に咲ちゃんだった。明るいまんまるの瞳がこちらを向き、にっこりと微笑んで、「奏ちゃん!」と笑った。

「すごく久しぶりだね! 元気にしてた?」

 私は声を弾ませながら、そう呼び掛けた。彼女はうなずき、くるりと振り向いて、「この通り、元気にしてたよ」と明るく笑った。

「奏ちゃんは本当に大人びてきたね。今どうしてるの?」

 咲ちゃんは栗色のショートヘアーを頬で揺らせて、私に近づいてくると、言った。私は彼女の背中に手を置いて、何度も叩きながら言葉を返す。

「私は今、大学に通って、記事を書くアルバイトとかしてるよ。咲ちゃんも髪を染めたんだね。なんだか見た瞬間に、モデルさんかと思っちゃった」

 私がそう言って笑い声を上げると、咲ちゃんは豪快に笑い返しながら、私の肩をとんと突いた。

「全然変わらないなあ、奏ちゃんは。人を褒めるのがうまいよね、ホント」

「褒めてるんじゃなくて事実を言ってるのよ。咲ちゃんは今、どうしてるの?」

 私がそうつぶやくと、咲ちゃんの言葉が途切れて、じっとこちらを見つめてくる。その表情があまりにも落ち着いていて、静かなものだったので、私は少し体の動きを止めて口を閉ざしてしまった。

 なんだろう……昔の咲ちゃんとは、ちょっと違う気がするな。

 その時の咲ちゃんはそんな感覚を、私に抱かせた。それでも、咲ちゃんはすぐに目を細めてうなずき始め、また歌声を囁き始めた。それは先ほどのバラードだった。私は突然の熱唱に、困惑する暇もないまま彼女の声に聞き入ってしまった。

 彼女は昔から歌が巧く、その度に我を忘れて聴き入ることがあったけれど、その歌声の透き通った響き方は、まず想像を超えていた。私は彼女の声があまりにも凛と張りつめて、そして甘く遥か彼方へと上り詰め、夜空に舞っているのを見て、本当に信じられない心地がした。

 こんなにも綺麗な声で歌う彼女を、私は初めて見たかもしれない。今までの歌が巧かった彼女は、その瞬間に、確かな存在を輝かせる歌姫へと変化したのだった。世界へとどこまでもどこまでも羽ばたいていって、煌めく水平線の彼方へと飛んでいく可能性がある……私はそんな、確信に近い直観で感じ取ったのだ。

 気付けば、私は小さく拍手をして、そして彼女に何か掠れた声を囁き始めた。

「どうかな、私の歌? 昔よりかは巧くなったかな?」

「すごいよ、本当に……実際の歌手みたい。絶対に、プロになれるよ」

 私が熱に浮かされたようにそう語ると、咲ちゃんは溢れるような笑顔に包まれながら、ありがとう、と囁いた。そして、今の自分の身の上話を語り出す。

「私ね、音大に通い始めたんだ。歌手を目指して猛特訓してるのよ。高校時代には恥ずかしくて皆には言ってなかったんだけど、本気なんだ」

 彼女はそう言って、星空よりももっともっと煌めく光を放つ、その笑顔を振り撒いたのだった。

「絶対に、夢叶うよ。私、応援してるから」

 私が彼女の両手を握って何度もうなずきながら、そう言うと、彼女は薄らと目の縁に光を照り返らせて、ありがとう、と繰り返した。

「また、いつか連絡するから。その時には絶対、歌手になっていてね」

 私が強く囁きかけると、彼女は私の手をぎゅっと握って感触を確かめながら、「奏ちゃんも頑張って」と凛とした声で言った。

 その声音に、私の背中はドン、と強く押されて前へと踏み出せたような気がした。

「私も夢に向けて頑張るから」

 私がうなずいて歩き出すと、そこでふと、ひとひらの雪片が肩を掠めた気がした。それが幻なのではないかと思ったけれど、確かにそれは空から降り注ぎ、私の肌へと消えていったのだ。雪はすぐに次々と降り出して、私の心の火照りに溶かされ、胸の中に消えていった。

「雪だ……」

 私がそっと掌を空へと翳すと、咲ちゃんは両手を広げて跳ねながらその歌を唄い出した。

 ――私の熱情が雪をも溶かす程に……

 ――私の心の熱のせいね 粉雪が消えるのは……

 彼女は目を細めて跳ね回りながら、その明るい軽やかな歌声をどこまでも宇宙の彼方へと広げていった。そこにはきっと、咲ちゃんの歌いたいという純粋な気持ちが篭められているに違いない。私はただその想いを受け取って彼女の奇跡を祈るだけだ。

 きっと歌手になってね。それで、私も咲ちゃんの歌をずっと聴き続けていきたいから。

 そう思いながら、私は何度も振り返って手を振り、そっと宵闇へと消えて行った。雪が道路を白く染め上げても、私の視界を光が満たしても、彼女の歌声はどこからか私の背中を追って、前へと踏み出させてくれた。

 それだけでもう、私は来年も夢に向けて頑張ろう、と強い気持ちを抱くことができるのだった。


 *


 家に帰った私は両親と一緒に食事をしながら、紅白歌合戦を観始めた。その年の最後を彩る番組として、私達は大いに盛り上がって、心地良い年末を過ごした。咲ちゃんが唄っていた、あのクリスマスバラードが流れて、私はテレビに張り付いて見入ってしまった。

 そうしてもうすぐ紅白が終わろうというところで、普段から仲良くしている高校時代からの友人からメールが入った。バイトお疲れ~、もうすぐ今年も終わりだね、と絵文字付きで送られてきた。

 私はすぐに偶然の再会について語り出し、すぐにメールを送信したけれど、何故かそれから全く返ってこなかった。どうしたんだろう、と私は怪訝に思いながら自室に篭って、ベッドに腰かけて待っていたけれど、そこでようやく返信が来た。

「それ、本当なの? 咲ちゃんとは、どこで会ったの?」

 普段から絵文字を多く使う友達が、その時だけは本当に真剣そうな雰囲気で、メールを返してきたのだ。

「え? 郵便局の前にある通りだけど。コンビニが一軒だけある道……」

 その返事からも、しばらく答えは返ってこなかったのだ。

 やがて沈黙の後に、冬の寒気よりももっと、心に凍てつくような言葉が送られてきたのだった。

「そんなこと、あるんだね。咲ちゃんは、もう――」

 ――嘘だよ。私は携帯を握ったまま、そうぽつりとつぶやいた。でもその声は、一人きりの部屋では本当に空しく、滑稽に、そして重苦しく響くだけだった。

 そして、友人は咲ちゃんのことについて話し始めた。彼女が半年前に、その運命に絡めとられてしまったこと。それは本当に信じたくないことで、そして信じられないことで、また受け入れることのできない事実だった。

「嘘だよね? だって咲ちゃん、さっき――」

「音大に通ってたことは確かだよ。現場はその道路であることも間違いないから」

 私はスマートフォンを操作して、すぐにその事実を確かめ始める。そして、その内容に間違いはなかった。なんで、こんな大切なことを私は気付かずに見過ごしていたんだろう。

「奏も知っているのかと思ってた。それで、触れないのかと」

「嘘でしょ、咲ちゃんは歌手になりたいって言ってたんだよ。そんなの……そんなのって、絶対に嫌だよ」

 私はスマートフォンをベッドに振り落として、宙を見上げたまま、涙を降らせた。それは暖かい空気の籠った部屋の中で降った、寒々しい雪の結晶だった。

 咲ちゃんはもうこの世にはいないのだ。でも、彼女の歌声は確かに、私の心に雪を降らせたのだ。それは間違いなく私の心を震わせて、この世に歌声を響かせるような、揺らぎようのない事実なのだ。

 それでも、自分に言い聞かせることはできなかった。私は額に手を当てて泣き続け、涙の余韻をメロディに乗せて、空白の時を過ごした。

 咲ちゃん、また歌ってよ。だってもう、あなたは歌手になったんだよね。

 その言葉は、空の向こうにいる彼女に届いているのかな。そして、まだあの冬のバラードを口ずさんでいるのかな……でも、どんなに考えても、わからなかった。

 そんな私の揺れる心が零したつぶやきが、雪を溶かせて涙の暖かさを肌に感じさせるのだ。


 *


 凍えるような冷たさの雪道も、陽の光が淡く琥珀色に差し込んでいくと、暖かく煌めき始めるのだ。それは冬の名残を引きずって春を迎えた時、一層冷たさが余韻となって陽射しを透明に輝かせるのだ。

 私は雪が降り積もった道を慎重に歩いていき、細い息を吐いた。足は棒立ちになって凍り付いてしまいそうだ。朝陽は道路の雪を溶かして車がゆっくりと脇を通っていった。そして、まっすぐにその道を進み続けて、私は言葉もなく、迷いもなく、そこを目指していた。やがて見えてくるその段差が、雪で盛り上がっていることがわかった。

「……咲ちゃん、」

 私はつぶやき、そこに花束を置いた。雪化粧された大地に、歌の余韻に花咲く私の願いがそっと降り立った。じっとその雪の塊を見つめていたけれど、私はぐっと唇を噛んで堪え、屈み込んで一気に雪を掻き分け始めた。

 冷たさが、切っ先が、肌を痛めても私はコンクリートを目指して掘り続けていた。やがて感覚のなくなった掌に、萎れた花弁が染み付いたのがわかった。私はそっとそれに触れて雪から解き放った。

 そこに咲いている一つの花。私が持ってきたものではなく、何本もの花束が雪に隠れてそこに置かれていたのだ。

 私はその場所で歌を聴いた、その確かな記憶を思い返すのだった。そして彼女がしたように、両手を広げて段差を跳ねながら、歌い出した。

 音程が狂っていても、メロディーがずれていても、音痴でも、私は彼女を想って、冬のバラードを唄い続ける。咲ちゃんはきっと向こうでも歌姫として、たくさんの熱狂に包まれて、幾千もの人々に心の震えを届けているに違いないのだ。

 私はこの世で息づく全ての奇跡の為に、歌を唄うのだ。

 くるくると足を滑らせながら、咲ちゃんの声を鼓膜に感じた。あの至高の歌声は、私の心に熱となって焼き付いている。それはいつでも、扉の奥に仕舞われた宝石箱のように、煌めく光を放って冬空に瞬いている。

 私は唄う、冬のバラードを、幾千の星を想って。

 ――私の熱情が雪をも溶かす程に……

 ――私の心の熱のせいね 粉雪が消えるのは……

 ――いいえ、それは通りすがりの人の吐息みたいよ

 私の涙がふわりと宙を流れ、舞いながら、雪となって地上に降り注いでいく。

 そこには確かに、一人の歌姫――私ではなく、本当の歌姫が舞い降りていたのだ。


 了


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