4 エピローグ

 仄暗い回廊が果てもなく続いてる。天井の採光窓は小さく、煤けていた。左右には隙間なく商店が並んでいる。行き交う人は無数。まるで人間の河。店頭で商品を売買する者達は声を張り上げて会話しなくてはならない。

 ここはアレッポ城に作られた市場。アレッポは、かつてはシリア最大の都市だった。今は中東で――イスラーム・ユニオンで有数の巨大都市だ。長過ぎた内戦がここを一時、無人にした。その後、発足直後のユニオンが膨大な若年労働者と化石燃料の収入の投下を決定した。市場の現在は未来を予測して形成される。世界各国から巨大資本と小資本とビジネスマンたちがアレッポに集った。街は欧州とアジアが交差する昔日の面影を瞬く間に取り戻した。

 市場の狭い道に充満した人波の間を、石畳の床と黒いエナメル靴のヒールで音を鳴らしながら、四宮四恩が歩いていた。黒いベレー帽と黒いシャツ、黒のネクタイ。上から下まで黒一色。学生服と戦闘服のハイブリッドのような風情。彼女は観光客とは違って、両脇に並ぶ商品にも商店主の声にも興味を示していない。目的地ははっきりとしている。とはいえ、時折、彼女に片手を振る者があると、彼女の方でも小さく手を振って応える。

 四恩が足を止めたのは特に黄金市場と呼ばれる市場の一角だった。金細工屋、貴金属店が集中している。金価格を表示するディスプレイのベゼルまでもが金色だ。

 黄金の反射を反射して金色に染まった観光客の中に、四恩と似たような格好の3人の少女がいる。その中の灰色の瞳の少女がバングルを手にとって見ている。彼女の両脇に立つ少女達はそれぞれ彼女にブレスレットとティアラを強く勧めている。まるで店員のようだ。他方で、店主はボランティアに全てを任せて、レジの横の棚に置かれた小さなテレビを見ていた。アル・ジャジーラの英語放送が流れている。

 映像は海岸の遠望。四恩はそれが何処か知っている。キプロスのエピスコピ湾で、イギリス軍の駐屯地があった場所のすぐ近く。一週間前、彼女はそこにいた。そこは紛れもない闘争領域だった。

〈バーストゾーン〉に完全に移行した〈身体拡張者〉達は人と人とが殺し合っている間に有性生殖と無性生殖を巧みに使い分け、人ならざるものの再生産を繰り返していた。自衛軍の敗残兵だった彼等を〈還相〉と時間の経過とが別の生き物へと変えた。〈還相〉は彼等を世界の残酷さに完全に適応させた。銃弾とミサイルと化学兵器と燃料気化爆弾と劣化ウラン弾が飛び交う砂漠でも、自己の遺伝子の複製という目的を追求することのできる生き物が突如として中東に発生することになった。米国メディアがこの生物を〈ゲンソオ〉と呼称し、ついに〈ゲンソオ〉が国連の安全保障理事会でも使用されると、〈ゲンソオ〉が国際語化するまでにはそれほど時間はかからなかった。

 イスラーム・ユニオンは発足と同時に、まず〈ゲンソオ〉を平定する事業に取り掛かった。この目標は殆ど半年程度で達成された。イラクとシリアから〈ゲンソオ〉はいなくなった。合わせて、自衛軍を中心とする有志国連合もいなくなった。しかし、有志国連合が欧州に引き上げたのと同様に、〈ゲンソオ〉もユニオンとの闘争を避け、地中海へと移動を開始していた。欧州と新生カリフ国家が〈ゲンソオ〉の大規模な移動の責任について言い争う間に、〈ゲンソオ〉はイスラエルを横断し、キプロスとマルタ、そしてギリシャと北マケドニアへ到達した。〈ゲンソオ〉は人と人との争いを餌にしているかのようだった。彼等はさらにまた半年程度で紛争中のコソボ、親露派との内戦中のウクライナにまで侵入し、巣を作り出していた。

 四恩もキプロスで巣を見た。トルコ系住民とギリシャ系住民が〈ゲンソオ〉に削られて減少してきた土地を巡って争っている間に、彼等はかつてのイギリス軍の駐屯地に巣を作り上げていた。彼女はそれをイスラーム・ユニオンの巡洋艦〈スルタン・オスマン1世〉の甲板で見たのだった。見ること、観察することが彼女の仕事だった。

 既にマス・メディアがそう呼んでいたように、確かに一見すると、巣は蟻塚に似ていた。アスファルト混合物をブロックなどに成形してからではなく、彼等自身が口から吐き出して積み上げることで作っているらしい。けれども、四恩はどうしてもサグラダ・ファミリアのことを想起してしまった。実際――、彼女はその能力で〈蟻塚〉の細部を見たが、そこに装飾のようなものを見出した。それは彼等が人間であった頃の名残なのかも知れなかった。明らかに彼女が見るべきものではなかった。彼女は観察することのプロフェッショナルであり、そのために〈スルタン・オスマン1世〉に乗艦したが、そこで彼女が見なければならないのは、その新しいサグラダ・ファミリアの破壊なのだから。

 雨のように地中貫通爆弾が〈蟻塚〉へと降り注いだ。彼女は〈蟻塚〉の上空と周辺に形成したレンズを通して、〈蟻塚〉から逃げ出す個体がないかを監視していた。僅かでも生存している個体があれば、来月には地中貫通爆弾に耐えうる〈蟻塚〉がキプロスの何処かに建設されることになる。ユニオンの要請があれば彼女は太陽砲を作ることになっていたが、その日は必要なかった。地中貫通爆弾の第2波が吹き荒れた後でさらに燃料気化爆弾の嵐が訪れた。炎の暴風雨。撒き散らされた燃料が発火し、〈蟻塚〉の酸素を全てを食らいつくし、衝撃波で粉砕した。

 彼女が燃え上がる〈蟻塚〉を見たのは、ちょうど一週間前のことだった。

 入念な調査で〈蟻塚〉の完全な破壊が確認されると、キプロス上陸工作戦の開始が宣言された。それが、一昨日だ。金細工屋の彼が熱心に見ているのはそのニュース映像だ。欧州連合とイスラーム連合の初の共同作戦が行われる。これは初の、〈ゲンソオ〉に対する人類の反攻作戦でもある。等々、等々。

「せっかくだし、これにしましょうよ」

 東子がカムパネルラの頭にティアラを載せた。カムパネルラの方では何の興味もないらしく、手元のバンドルの表面を大きな灰色の瞳で見つめている。東子が彼女の肩を掴んで四恩の方に振り向かせる。

「お姫様――みたい、カムパネルラ」

 四恩が感想を述べると彼女が少し顔を赤らめて、ティアラを両手で隠そうとする。その隙に、磐音が彼女の手にあったバンドルと自分の持っていたブレスレットを入れ換える。

「こういう普段着に合わせられるものの方が良いと思いますわ」

〈四恩ちゃん、次の仕事が決まったよ〉

 三縁が水晶の声で囁くようにして告げた。

 同時、店主が「アルハムドリッラー」と呟く。

 液晶テレビの中、ニュースキャスターの頭上で「Breaking News」のテロップが明滅した。テキストが表示される。

「EU and IU won against Gensow in Episkopi」

〈旧アレッポ城砦広場でヘリが待機中。後10分で国際問題になっちゃうから、急いでね〉

〈ホテルの荷物は!?〉と東子。

〈大使館職員が回収する予定だけど……。まさか来るときより増えてはいないよね?〉

 ティアラとバンドルを見せながら、ハウマッチと店主に尋ねる。彼はゆっくりとテン・ディナールズと答える。こちらの事情は彼には何の関係もないが、もう少し機敏に動いて欲しいと四恩は思ってしまう。ユニオンが発行しているディナール金貨10枚をトレーに置く。彼はまたもそれをゆっくりと手に取った。それからティアラとバンドルと、そして金貨10枚を紙に包んで彼女に渡した。初め、彼女には意味がわからなかったが、再び彼はテレビを見ながら、今度はビスミッラーと言った。

 彼女達が店内から出た瞬間に、シャッターが降ろされた。それがどういう意味の行動なのか、四恩には理解できない。市場を駆け抜け、広場へと出る。イスラーム・ユニオンの兵士達が人々の往来を制限し、即席のヘリポートを作っていた。〈スルタン・オスマン1世〉で見た顔もいる。滑り込むようにして4人の少女が乗り込む。

〈お疲れのところ、申し訳ありません〉

 スマートレティーナの視界の第二層が、機内に武野無方の全く申し訳なくなさそうな顔を映し出した。

〈キプロス上陸工作戦は初期の目標をほぼ達成しました。ところでどんなプロジェクトにもそれが成功することで利益を得る者もいれば、不利益を被る者もあります〉

「手短に! 機嫌が悪いの」

 来るときより荷物が増えているに違いない東子の要求に応じたのは、サクラからの無線通信だった。

〈《鳥栖二郎》案件だ。準備はできているか?〉

〈ん――、常に――〉

 アレッポの街の全貌が既に眼下にある。歌うような、奏でるような声が街全体に満ちていく。

 アッラーフ・アクバル

 アッラーフ・アクバル

 アシュド・アン・イラーハ・イッラッラー

 アシュド・アン・イラーハ・イッラッラー

 イスラム教の礼拝の呼びかけ、アザーンだった。奥崎謙一もこれを1日5回、聞いていたはずだ。四恩は彼がこの美しい朗唱に何を思ったか知りたくなった。教えて欲しかった。絶対に、もう、不可能な試みを一瞬でも望んだことが四恩の胸を締め付けた。ゆっくりと息を吐き、もう一度、アレッポを見下ろす。ところが、もう、何処がアレッポ城なのかさえ、わからなくなっている。彼女は奥崎謙一との僅かの繋がりが断たれたようにさえ、感じ始めている。アレッポではなく、やはりドバイで宿泊するべきだったとさえ、思い始めている。

 半ば助けを求めるようにして、機内の顔を見回す。仲間たちは視界の第二層も機内も機内の他の顔も見ていない。ヘリの外を見ている。固く口を閉ざして。息をすることさえ、惜しむかのような有様――。四恩はもう一度、外を見る。

 そこには広大なシリア砂漠が拡がっている。アレッポはオアシス都市だった。何処までも続く砂の色に遠近感を失う。彼方の地平線だけが存在を確かなものとして保っている。そこへ向かいさえすれば、さらに広大な世界が示されるはずの、境界として。

 いや、これは、ただの――。

〈錯覚じゃ、ない。感じることは本物だよ〉



       システム境界の形成 終わり 

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システム境界の形成 他律神経 @taritsushinkei

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