3-5-1-4

 サングラスの男が四恩に向かって手を差し出した。握手ということらしい。彼女にはそのような習慣がなかったから、小さな会釈で応えた。「はじめまして――」とも、言った。

「初めまして。ミス・シノミヤ、ミス・トードー、ミス・イシミネ。私はセントラル・インテリジェンス・エージェンシーの――」

「結構。貴方が私たちのことを知っているように、私たちも貴方のことを知っている」

 東子が自分の瞳を指差した。四恩はその仕草を、スマートレティーナが展開した視界の第二層越しに見た。小型コンピュータが男の映像からサングラスを取り除き顔写真を生成し、その横に膨大な量の彼の個人情報を表示している。これこそ、組織のバックアップを受けることのメリットの一つだった。

「では結論から言います。プロジェクトは失敗しました。我々は〈鳥栖二郎〉との契約を解除します」

 ぶぉおぉぉぉぉぉぉぉぉおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――。

 彼が告げたのと同時、十分な距離を使ったのにも関わらずまだ離陸していないジェット機が爆発し、炎上した。玉虫色の解決策は存在しなくとも、紅蓮の色の解決策は存在したようだった。

 距離が、石油と爆薬の混合が生み出す熱波と熱風から、四恩たちを守った。物質の急速な酸化に伴う独特の臭いすら、届きはしなかった。鳥栖二郎の影など、見ることもできはしない。

 ただ僅かに、空気の温度差が風を作り、少女たちの髪を揺らしていた。

合衆国ステイツは貴女方をプレイヤーとして認めます。貴女方は恐ろしい。金でも力でも操作できない。まるで世界帝国と争った我々の祖先のようだ。ですから、これは保険としていただくことにします」

 男がジェラルミンのケースを手にとった。ビジネスマンがそうするように、彼は片手でそれを持つ。四恩はケースの重量を思い出し、彼がCIAで何を担当しているのかを想像した。

「ミス・シノミヤ、貴女は私がこれを持っていくと言っても表情ひとつ変えない。何という残酷さだ。世界を上回る残酷さ……」

「まるで建国の父のよう?」

 磐音が問いかけ、彼が微笑む。四恩はそれをただ観察している。どのような時、どのような場所であれ観察を実行できることこそが彼女の〈高度身体拡張者〉としての能力だった。

 彼は鳥栖二郎をここまで運んできたメルセデスに乗り込んだ。炎上する飛行機にも、乗り込んできた白人にも運転手は一切、取り乱さなかった。それどころか、Uターンして彼をターミナルへと運んでいく。彼もまた、合衆国ステイツの残酷さの一部を成している人間なのだろう。

 見送りが終わった瞬間、猛烈な疲労が四恩の膝に噛みついた。彼女の頭は彼女の意志に逆らう。地面を目指し、自由落下する。

「珈琲でも飲みましょうか」

 東子が四恩の身体を抱きかかえる。背中と膝裏に、彼女の硬くて、頼もしい腕を感じる。何より、その冷たさが心地よい。

 空港の封鎖はまだ解除されていない。彼女たちがターミナルに入ると、全てのデジタルサイネージが真赤に染め上げられていた。警告! 退避してください!

 赤く染まった少女たちは誰もいない建物の中を進んでいく。四恩は何処に向かっているのか、全く、予期することもできない。スマートレティーナが館内地図を表示しているが読む気にならない。

 ついに硝子張りの壁のあるカフェテラスに辿り着き、四恩はそこで降ろされる。壁の向こうに滑走路が見える。火の玉がまだ膨らんでいる。

「店員さんもおられませんわね」

「いるわけないでしょ。いたら、そいつは死神か敵ってことになるわ」

 死と敵を区別する東子の判断基準について推測していた四恩の手に、彼女は硬貨を握らせた。目の前には清涼飲料水の自動販売機がある。

〈137〉の動産に過ぎなかった彼女には、その使い方がわからない。

「好きなものを買いなさい」

 東子がゆっくりとした動作で缶コーヒーを購入した。

「わたくしはお茶を……」

「貴女も缶コーヒーにしなさい。缶コーヒー以外は買っちゃだめ」

 四恩は何処に硬貨を入れて、どのボタンを押せば東子と同じ缶コーヒーが手に入るのかを理解した。

 かちゃ。

 ぴっ。

 ぴっ。

 がしゃーん。

 カフェテラスの一角、彼女たちは丸いテーブルを囲んで着席した。特に何を合図するでもなく、彼女たちは殆ど同時にタブを引っ張り、殆ど同時に珈琲を口の中に含んだ。猛烈な甘さと、僅かの酸味、そして苦味。四恩は若干の粘性のある液体を唇と舌と重力とで、喉の奥へと運んでいく。疲労した身体には、この上ない滋味だった。缶に印刷された商品名を読み取ろうと、テーブルの上に缶を置く。硝子と金属の接触が思いがけず、大きな音を立てる。

 恐らくはそれが弔鐘。または警策。四恩の意識と缶コーヒーの間の蜜月が終わる。夢のようなマインドフルな時間が終わる。常に邪念とともにある現実が押し寄せる。人間にあっては、認識能力の不完全さがその現実の不完全さを齎している。

 彼女は缶コーヒーを味わいつくす主体から、かつて彼女の魂を救ってくれた少年をジェラルミンのケースに詰め込んで外国に売り渡した少女になる。巨大なものと戦うためにさらに巨大なものに供物を差し出した。それぞれの配られたカードで自由を求めた者たちと争い、彼ら以上の残酷さによって彼らを滅ぼし、そして結局、何処へ行くこともできなくなって、飛行機の離陸できない空港で缶コーヒーを啜っている。

〈四恩ちゃん、泣いてるの?〉

 四恩を訪ね、そして尋ねた。

「ん――」

〈ぼく、どうしたらいい?〉と、三縁のこの上なく不安そうな声。

「一緒に、いて――、ずっと――」

〈『だが君の愛が流す涙は真珠だ』! 『それは貴く、そして、それはあらゆる罪を贖う』!〉

 カムパネルラの鼓膜を引き裂くような声量に、3人の少女が同時に椅子から小さく飛び上がった。

「貴女ね、外部注入するわよ! 耳がおかしくなりそう。適切なタイミングとボリュームで発話することを学びなさい」

「でも引用そのものは適切ですわ」

 いや、違う。全てが適切だ。彼女が〈137〉の基地に向かい、三縁の外界との物理的な遮蔽を破壊して時間を作ってくれたのだから。四恩は彼女のエメラルドグリーンに輝く両手足を想起した。〈バースト・ゾーン〉の部分的移行が明らかに始まっていた。四恩の腹部と同様に、彼女の手足にも〈バースト・ゾーン〉の不可逆な生成変化の跡が刻み込まれることになるだろう。例えこれから、四恩がその後で受けることになっているのと同様の〈調整〉を釜石から受けるにせよ――。その苦痛を四恩は知っている。あの生成変化した患部の切除と〈還相抑制剤〉による〈還相〉の作動の誘導を繰り返す施術の苦痛は――。

 三縁が〈シェイクスピアが好きなのかい?〉と言い、東子が缶を握りつぶしながら残りの珈琲を飲み干し、磐音が缶を両手で持ちながら「やっぱりナリタ五番街に寄ってカルティエが見たいですわ」と呟き、カムパネルラが〈『わたしの愛はこれほどに大きく、わたしは君のものだから、君が正しくあるためにわたしが全ての罪を被ろう』〉と信じられないほど大きな声で独唱している。

 全てが適切だ。そう、全てが。四恩は施術の苦痛を予期することの苦痛から解放された。そんなことを味わっている暇はなかった。彼女の眼前に今、少し前には望むこともできなかったような、想像することも不可能であったような光景が拡がっているのだから。

 甘ったるい缶コーヒーを一気に飲み干す。次はブラックにしようと四恩は思う。



                               3-5-1  終わり

                                              

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