第8話 そして秒針は回り続ける

館での戦闘から一ヶ月後。

クロノス王国の城下。中流以上の家庭が集まる西の住宅地の一角。その中でもひときわ大きな、グロピウス家の屋敷がある。ガムとチギリはその屋敷の一室にいた。かつて使われていた、エウァの部屋を整理するためだ。

グロピウス家は大きな屋敷だが、エウァの部屋はこじんまりとしている。部屋の両脇には本棚が並べられ、中にはぎっしりと歴史書が並べられている。壁には有名な画家の絵画が掛けられていたが、ガムには誰の作品なのかはわからなかった。その絵画を壁から外すガム。

「いまだに信じられねえな」

ガムがつぶやいた。

「まだ言っているのかい? もうやめよう。終わったことだ」

本棚の本を取り出し、床に置いた木の箱に入れるチギリ。

「だってよ。まだ十二歳だったんだぜ? 俺らが十二歳の時に、世界を背負って守ろうなんて覚悟があったか?」

「……そんな覚悟はなかった。ただ、がむしゃらに強くなろうと思っていただけだ」

「そんで、お前は強くなれたのか?」

「鍛錬を重ねて強くなった、と思っていた。だが今回の結果を見れば、それは思い上がりだったよ」

「お前は十分強いと思うぜ? 肉体的にも精神的にも。騎士を辞めた俺から見ればな。……ただ一個人が、敵対する組織から誰かの命を守り通すなんて無茶だ。人一人は誰かの手助けくらいしかできないのさ」

ガムの言葉にチギリが不満そうな顔をする。

「キミはイーダと同じようなことを言うんだね。確かに彼女の言ったことは正論だ。人は自分のことで手一杯だし、他人を救おうなんておこがましいことなのかも知れない。だが、そうやって諦めたくはない。僕は騎士であり続ける限り誰かを守り続けたい。だが、僕はエウァ殿を守りきることができなかった……。……なあガム。僕は騎士でいる資格があるんだろうか?」

「んなもん自分で決めろよ」

ガムはそっけなく答えた。

「お前が自分で言ってるじゃねえか。誰かを守りたいって。その守る行為に役立つなら騎士の肩書きを背負い続ければいいさ。逆に騎士でいることが守る行為の邪魔になるんだったら辞めたらいい。お前は騎士をやってるから誰かを守りたいんじゃなくて、誰かを守りたいから騎士をやってるんじゃないのか?」

「……そうだ。僕が騎士をやってるのは誰かを守りたいからだ」

「俺達は今回、懐中時計の修復には成功したが、エウァを守りきることができなかった。任務としては失敗だよ。そして世界は変わってしまった。各地での戦争や疫病は収まったが、またいつ起きるかもしれない。そんなときに騎士団であり、お前が必要になるんじゃないのか?」

「……それはそうだけど……。やっぱり、僕は……」

「自分の無力が許せないってか?」

「……ああ」

ガムはため息をついた。

「お前、そんなにエウァのことが好きだったのか?」

「え、な!? 何を急に言い出すんだ!?」

チギリが咳き込む。

「だってお前、アリサが死んだときと同じ顔して同じ言葉で喋ってたから」

アリサとは、ガムとチギリの故郷であるキノタ村にいた彼らの幼なじみのことだ。三人はいつも一緒に遊んでいた。

「お前アリサにマジで惚れてたもんなー。どうやって告白したらいいか俺に相談に来たときは、皆に言いふらさないようにするのに必死だったぜ?」

「き、君は人が真面目な話をしているときに……!」

「確かにアリサはお前の好みだったもんな。女にしてはあけすけなところとか、朗らかで活発なところとか。なんで俺に相談までしといて告白しなかったんだよ」

「そ、それはタイミングがなかったんだ。アリサはみんなの人気者だったから、一人でいることが少なかった」

「だせえ」

「う、うるさいっ!」

顔を紅潮させるチギリ。

「……でも、今思ったら告白しないでよかったって思ってるんだ」

「なんでだ?」

「僕たちの村はなくなっちゃっただろ? そのときアリサも死んだ。もし告白していたら、ずっと引きずったままになってしまってたんじゃないかって……」

「気持ち悪!」

「なんでだよ!?」

「お前はそんなこと言ってすぐに新しい女を作る性格だ。こないだだってシンシアに一目惚れしてただろうが」

「それは……シンシア殿の健気さに心を打たれたからで……」

「違うな。お前は面食いな上に目移りしやすいんだ。その外見と性格だから、周りからは騎士の鑑みたいに思われてるけどな。二十年以上付き合ってる俺が言ってるんだから間違いない。今夜あたり遊びに行くか? 最近いい店を見つけたんだ。セクシーな女がうようよいるぞ」

「ぼ、僕はそんな浮ついたところには行かない」

「お前だから言ってるんじゃねえか。女遊びを知らずに結婚した男は浮気しやすいんだ。お前は真面目一直線だから、友達としては心配だよ」

「僕は浮気なんかしない」

「そう言っている奴ほど浮気するんだ。それに男なら浮気の一つや二つしたって、嫁をつなぎとめておける魅力があれば大丈夫だ」

「暴論だな……」

「それにお前は人の名前を呼ぶときに『殿』ってつけるだろ? それが人との無用な距離を生んでるんだ」

「それは、相手に対して敬意を払うために呼んでるんだ」

「ヘタレめ」

「なんなんださっきから!」

本を箱に入れる手を止め、チギリがガムに食ってかかる。

「最初から相手の胸……いや、懐に飛び込むつもりで呼び捨てにすればいいんだよ。お前は顔がいいんだから、親しくされて嫌がる女はほとんどいない。マリアだってお前のこと、シンシアの好みだって言ってただろ? そんくらいお前はイケメンだ」

「あれは社交辞令じゃないのか?」

きょとんとするチギリ。

「んなわけねえだろうか。お前のその無自覚さはもはや犯罪だ。それでもあと四、五年が限度だと覚えておけ。三十を越すとおっさんの仲間入りだ。と、いうわけで、今から遊びに行くぞ」

「ま、待ってくれ。まだ心の準備が」

「迷う前に飛び込むんだよ。さあ、行くぞ」

部屋の整理を放り出し、町へ繰り出そうとするガムとチギリ。部屋を出ようとする彼らの前に、人影が立ちふさがった。


「どこに行くんだい? ガム、チギリ」


肩で切りそろえられた銀色のゆるふわウェーブの髪、くりくりと大きな目にきれいなアーチを描く眉。ちょこんと取り付けたような鼻に大きめの口。顔いっぱいに笑顔を湛えた、可愛らしい顔立ちの少女がそこに立っていた。ガムが初めて彼女と会ったときと違うのは、彼女が銀縁のメガネをかけているところだった。

「エウァ、用事は終わったのか?」

エウァに問うガム。

「ううん、まだ。お父様に来客があったから、一旦休憩。ついでにキミ達の作業の進捗を確認に来たんだよ。これから遊びに行こうって言うんだから、もう片付いたんだよね?」

満面の笑みでガム達に問うエウァ。どうやらガム達の会話の一部始終を聞いていたようだ。

部屋に入ってきょろきょろと中を確認するエウァ。

「エウァ殿、これは、その……」

エウァがチギリを振り返る。

「何これ! 全然片付いてないじゃない! ふざけてるのガム、チギリ! こんなんじゃお給料出せないよ!?」

ぷんすか怒り出すエウァ。

「もう、ちゃっちゃと片付けちゃってよ! 今日中に引越しを完了させたいんだから!」

「申し訳ありません、エウァ殿!」

頭を下げるチギリ。

「へいへい。頑張りますよ」

嘆息するガム。

エウァは今日で十三歳の誕生日を迎えた。現在使用している部屋が狭くなったため、広い部屋に引っ越すのだ。ガムとチギリはその引越し要員として呼ばれていた。本来引越しを行うはずの屋敷の使用人達は、主人に暇をもらって旅行しているという話だった。

「ところでエウァ。体はもういいのか?」

「うん。完治したよ。って言っても、やっぱり視力は完全には戻らなかったけどね」

エウァは死ななかった。正確に言うなら、ニャギに雷撃を受けて仮死状態になったが、デンゼルの薬のおかげで蘇生した。ガムがニャギを討った後、エウァは意識を取り戻した。戦いの後、エウァをウキョウの病院に連れて行き、応急処置を施してもらった。そして馬車でクロノス王国まで戻り大きな病院に入院していたのだ。

「あのときボクは本当に死んだと思ったよ」

「いや、実際死んでたんだ。お前は」

「でもひどいよね。チギリったらボクを『守る』って言ってたのに、肝心なときに気絶してるんだもん」

「う、面目ない……」

言葉に詰まるチギリ。

「でもそのおかげでエウァはチギリにキスできたんだろ? 痛みわけじゃないのか?」

ガムの冷やかしに、エウァが顔を真っ赤にする。

「あああああれは、完全に不測の事態だったです! 誰かに『世界の心臓』を継承しないと、世界が終わってたです! ボクの目の前にチギリがいたから、チ、チギリにするしかなかったですっ!」

ガムがしゃがんでエウァの顔を覗き込む。

「じゃあ俺が目の前にいたら、俺にしてたのか?」

「もちろんですっ!」

言葉とは裏腹にエウァの目は泳いでいた。ガムは立ち上がり、チギリの肩をぽん、と叩いた。

「良かったなチギリ。あの時エウァの目の前にいるのがお前じゃなかったら、世界は確実に終わってたぞ。そのイケメンパワーを俺にも分けてくれ」

「イヤミな奴だな、君は」

「ガムのばかーーーーーーーーーーっ!」

エウァがガムに突進し、両手でぽかぽかとガムを叩く。

「いてっ、いてっ。やめろエウァ、俺が悪かった。……その調子なら目は大丈夫そうだな」

自身を叩くエウァの両手を掴み、ガムが言う。

「あ、うん。裸眼だと視界がぼやけるけど、メガネがあれば平気」

エウァの目は一時完全に失明していたが、『懐中時計』の修復により視力をある程度取り戻した。

エウァが病院に入院しているときに、彼女はジャンに『懐中時計』の修復を依頼した。ジャンははじめ、エウァの依頼を断った。しかしエウァの熱意に押され、しぶしぶ了承した。

『懐中時計』の修復とは、本来『懐中時計』の修復を通じて『終末時計』の進行を元に戻すことだ。しかし、エウァがジャンに依頼したのは『懐中時計』の文字盤を、針の進行に合わせて回転させることだった。『終末時計』が大幅に進めば、世界に大規模な戦争や疫病が発生する。そして『終末時計』が進んだ針を戻せば、強制的に戦争や疫病が終了させられ、大量の犠牲者が出てしまう。

そこで、『懐中時計』の文字盤を針の進行に合わせて回転させれば、見かけ上では常に現在の状態を維持できる。『終末時計』は『懐中時計』と連動しているため、『終末時計』は『懐中時計』の動きを追いかける。だが、もちろん既に起こってしまっている戦争や疫病はそのままになる。それは人間の手で解決するしかないのだ。戦争の場合は国同士が対話を重ね、戦線の縮小を図る。疫病の場合は医師に薬を開発してもらい、患者に与える。人間を無視したシステムによる救済ではなく、人間の手による救済をエウァは選んだのだ。

しかし代償がないわけではなかった。

『終末時計』が完全に元に戻らないということは、『世界の心臓』であるエウァになんらかの影響が出るということだ。そしてエウァの視力はほとんどが失われた。

エウァ本人は「一時は全く見えなくなっていたのだから、それに比べれば遙かにマシ」と言っていた。

本人は気丈に振る舞っているが、時々階段でつまづくことがあるので、まだメガネに慣れるのには時間がかかりそうだった。

「似合う?」

エウァがメガネを人指し指でメガネのつるを持ち上げながら二人に問う。

「ええ、とても似合っていますよ」

チギリが答える。

「メガネザルみてえだな」

ガムも答える。

「もーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

エウァが頬を膨らませて怒る。

「冗談だ。怒るなよ」

「ガムはひどいです! ボクは女の子なんですよ? それなのにサルって……!」

目の端に涙を浮かべるエウァ。

「チギリ、エウァが泣いてるぞ。慰めてやれ」

「君が泣かしたんだろうが」

ジト目でガムをにらむチギリ。やれやれといった感じでチギリがエウァの頭にぽん、と手を置く。

「ガムの言うことなんか気にしないでください。メガネをかけたあなたはより知的に見えますよ」

「本当?」

「ええ」

「なら『かわいいよ、エウァ』って言って」

チギリは逡巡したが、さらに機嫌を損ねそうだったので

「かわいいよ、エウァ」

と言った。

「やったです」

「え?」

「チギリが『エウァ殿』じゃなくて『エウァ』って呼んでくれたです。これでチギリとの距離が縮まったです」

エウァがガッツポーズを取る。

「お前、転んでもただじゃ起きなくなったな」

つぶやくガム。

「もう、転ぶのには慣れたですから」

「笑えねえよ」

肩をすくめるガム。

「そうだ、ところでエウァ」

「なんですか、ガム?」

「『懐中時計』の修復の内容なんだが、いつ『針と文字盤を連動させる』ってことに決めようと思ったんだ?」

『懐中時計』の針と文字盤を連動させ、見かけ上、針の進行を停滞させることでこれ以上の犠牲者を出さず、戦争も疫病も最小限にとどめる。そしてその解決は人がおこなう。

ガムとチギリが思いついたのはせいぜい『懐中時計』の針ををほんの少し戻す、という内容だった。しかしエウァは『懐中時計』の文字盤を針の進行に合わせて回転させる、という内容を打ち出した。その結果が出るのはまだまだ先だろうが、おそらくエウァの狙い通りになるはずだ。

しかしこの内容では『世界の心臓』たるエウァの体にも影響が出続けるということも予想できた。それ故にジャンはエウァの修正の依頼を一度断ったのだ。エウァの体を犠牲にすることで得られる平和など、ジャンは認めなかった。それはガムとチギリも同様だった。だからガムとチギリも最初エウァの正気を疑ったが、覚悟を決めたエウァの意志を動かすことはできなかった。

「ヤクシの町を出てちょっとしてから。お姉ちゃんの背中にマークがあったんだ」

「マーク?」

「『逆針の徒』のマーク」

「なんだと!?」

「何ですって!?」

エウァの言葉にガムとチギリは驚きを禁じ得なかった。

「でもね。他の『逆針の徒』の人とはマークがちょっと違ったんだ」

「マークが違った?」

「うん。他の人のマークは丸の中に垂直に、二本の矢印が頭同士をつけて並んでた。だけどお姉ちゃんのは、矢印が二本とも頭を上にして並んでたんだ」

両手の人差し指を縦に二本並べて立てて説明するエウァ。

「でも、どうしてそれが『修正』の内容につながるんだ?」

「お姉ちゃんは『懐中時計』の『修復』の真実を知ってた。ボクは、お姉ちゃんは大量の犠牲者を出す『修復』以外の方法を探るために家を出たんだと思うんだ。だから、背中のマークはボクへのメッセージなんじゃないかって思った。だからその意味をずっと考えてたんだ。

そしてたどり着いた。答えは『針に合わせて文字盤を動かす』ことだって」

「……互いに頭同士を向けた矢印が時間をゼロに、つまり元の位置に戻す。そして二本とも上を向いた矢印は時間と文字盤を進める、という解釈ですか」

チギリがつぶやく。

「うん、そう。お姉ちゃんは出奔しちゃったから、『懐中時計』を修復に直接関わることはできなくなってた。だけど、いつかボクが追いつく日を待ってくれてたんだと思う」

「お前の姉ちゃんは妹想いだな」

「うん。ボク、やっぱりお姉ちゃんが大好きだよ。ボクもいつかお姉ちゃんみたいな立派な女性になって、グロピウス家をきりもりしていくよ」

胸を張るエウァ。

「しかしエウァ、大丈夫なのか?」

ガムがエウァに問う。

「何が?」

「『修復』のことだよ。今回の『修復』の内容は歴史からすれば例外なんだろ? しかも独断で実行した。何かあれば何らかの責任問題に発展するんじゃないのか?」

「なるだろうね」

「なるだろうねって……。まるで他人ごとだな」

「考えてみてよ、ガム。グロピウス家は有史以来『懐中時計』の『修復』を実行してきた。世界が危機を迎える度にだ。つまり元々グロピウス家には世界を正常に機能させる使命が課せられている。逆に言えば、グロピウス家が『修復』を実行しなければ世界は壊れる。極端に言えば、グロピウス家は世界を好きにできるんだよ」

「それは恐ろしい権力だな」

でもグロピウス家の呪縛のせいで、世界を壊すなんて選択肢はないんだけどね……。

エウァが小さくつぶやいた。

「ん? なんだって?」

ガムがエウァに聞き返した。

「ううん。なんでもない。まあ、クロノス王は権力の集中を恐れて、グロピウス家を王国の管理下に置いたんだ、名目上。冗談抜きで世界中の人々を支配できちゃうからね。

話を戻すと『修復』の内容は当主に一任されているんだ。今回ボクは現当主、つまりお父様の代行で『修復』を実行した」

「と、いうことは……」

「今回の『修復』の責任を問われるのはお父様であってボクじゃない」

「世界の未来をいじっておいて、恐ろしいガキだなお前は。権力がある分、ニャギよりタチが悪いぜ」

「僕もガムに同感です」

ガムもチギリも顔をひきつらせている。

「やだなあ。ボクはいずれグロピウス家を継ぐことになるんだから、どうしたって責任はボクに回ってくるんだ。……それとね、今回の『修復』の実行は独断じゃないんだよ?」

「え?」

「事前に誰かに相談してたのか?」

チギリ、ガムがきょとんとした顔で聞いた。

「何言ってんの。『修復』する前にガムとチギリ、ついでにジャンも内容を聞いてたじゃない。つまりボクらは共犯だよ」

にやりと口の端をつり上げて笑うエウァ。ガムとチギリはこんな悪そうなエウァを見たことはなかった。

『なんだと!』

ガムとチギリがハモった。

「二人がハモるの久しぶりに見た。やっぱり二人は仲良しだね」

「仲良しじゃねえ」

「仲良しじゃありません」

再びハモるガムとチギリ。それを見てエウァがくすくすと笑う。

ガムがエウァに食ってかかる。

「っていうか、そんな責任のかぶせ方ありかよ! 俺は依頼主の命令通りに動いただけだ!」

「そうですよエウァ殿!」

チギリも食ってかかったが、エウァがチギリを人差し指で差して制した。

「チギリ、『殿』はやめて」

チギリはしばらく逡巡し、言った。

「無茶ですよ、エウァ! 世界を背負うなんて僕には荷が重すぎます。僕はあなたを守るだけで精一杯だというのに……!」

「キミは情けないけど嬉しいことを言ってくれるね……」

チギリの言葉にもじもじするエウァ。しばらくして我に返ったのか、こほんと咳払いをした。

「まあ、冗談はさておいて……。キミ達には今回の件で、何の責任も発生しないよ。全てはグロピウス家の判断だ」

エウァの言葉に胸をなで下ろすガムとチギリ。

「それと、改めてお願いがあるんだ」

真面目な表情をするエウァ。まっすぐにガムとチギリを交互に見つめていた。

「これからも、ボクと付き合ってほしいです」

エウァがガムとチギリのそれぞれにすっ、と両手を差し出した。

ガムがエウァの左手を、チギリが右手を握り返した。

「もちろんだ」

「もちろんです」

ガムとチギリがハモる。

「……ありがとうです」

エウァが二人の手をぎゅっ、と握り返した。しばらくして三人は手を離す。エウァがガムを見ると、彼はにやにやしていた。

「どうしたの、ガム?」

「良かったな、エウァ。チギリが付き合ってくれるってよ」

ガムの言葉にエウァが赤面する。

「い、いまのはそういう意味の『付き合う』じゃないですっ!」

「いや、だって握手したとき。お前チギリの方ばかり見てたから」

「なんでそんなとこばかり見てるですかっ!」

エウァがガムをぽかぽかと叩く。ガムがチギリに言う。

「ははは。ほら、チギリ。告白されたんだからお前もなんか言ってやれよ」

「デートしましょう」

『ええっ!?』

今度はガムとエウァがハモった。ガムがチギリの額に手を当てる。

「どうしたチギリ! 熱でもあるのか!?」

「やめろ。僕は子供じゃない」

エウァはチギリの言葉がまだ信じられないらしく、目をぱちくりさせていた。チギリが咳払いをする。

「いつまでもガムにからかわれるのは癪だ。それに僕はエウァの騎士になると決めたんだ。それならお互いを知っていた方がいいだろう」

「チギリくん……大人になったんだね……」

ハンカチを目に当てて泣く真似をするガム。

「やめろ、鬱陶しい」

ガムを冷たくあしらうチギリ。

「あの、その……」

エウァがもじもじしながらチギリを見上げる。

「どうしました、エウァ?」

「それならさっそく、お父様に会ってほしいんだけど……。実はお父様にさっき『チギリ君に会いたいから、呼んでくれ』ってことづけられてたんだ」

「え?」

チギリがきょとんとする。

「さっそく挨拶かよ。とんとん拍子じゃねえか、チギリ」

ガムが茶化すが、チギリの耳には入っていなかった。体が石のように堅くなっている。それでもチギリは、挨拶くらい誰でもするだろう、と覚悟を決めた。そしてエウァの父が待つ応接間へと、ガムとエウァと共に向かった。


◆◆◆


ダークブラウンを基調にした壁に家具。部屋の奥には縦長の窓が二枚。そこから日光が差し込んでいる。部屋の真ん中には楕円形の分厚いテーブルと、その周りに六脚の椅子。

応接室には既にエウァの父であるドゥイズ・グロピウスがテーブルの向こうに立っていた。

百八十センチメートルを越える長身に、オールバックになでつけた銀髪、そして整えられた口髭。身には、丈の長い黒地に金の縁取りのジャケットに、同色のズボン。足には革のブーツを履いている。年の頃は三十代後半といったところだ。チギリは彼の立ち姿だけで圧倒されそうになった。

エウァはチギリを応接間に招き入れたあと、ドゥイズから席を外すように言われたため、現在部屋にいるのはドゥイズとチギリだけだ。ちなみにガムは部屋には入らず、部屋の前で待っている。

「まあ、そう堅くならなくていい。座りたまえ」

ドゥイズに席を勧められ、チギリは椅子に座った。ドゥイズはチギリの正面に座った。ドゥイズはテーブルの上で手を組み、チギリに話しかける。

「この度はご苦労だった。特に、娘が世話になったようだ」

「いえ、騎士として当然のことをしたまでです」

平静を装っているものの、チギリの内心は動揺していた。ドゥイズとは任務を受けるときに一度顔合わせしたが、そのときは指令を下されるだけで、ろくに話をしていない。自分より立場が上で、どんなことを考えているかわからない相手をチギリは苦手とする。しかもグロピウス家という有史以来の名門である。地方の村から出てきた、いち騎士のチギリが本来話のできるような人間ではない。

……こんなとき、ガムならまるで緊張しないんだろうか。あいつの性格がちょっとうらやましいな……。

チギリが心の中で思う。

「君と、もう一人。ガム君と言ったかな。君達のおかげで『懐中時計』の『修復』は達成された。多少、例外なことはあったようだが」

「は、申し訳ありません」

チギリが頭を下げて謝るが、ドゥイスは気にしていないようだった。

「気にするな。全ての判断は娘に任せたことだ。君は娘の意向、つまりはグロピウスの意志に沿った行動を取ってくれたということだ。感謝する」

「光栄です」

再び頭を下げるチギリ。

「あまり堅くなるなと言っているだろう。そうだな、チギリ君。君とは腹を割って話をしたいと思ってるんだ。どうやら君は娘のお気に入りらしいじゃないか」

「その、なぜエウァ殿は僕なんかが良かったのだろうかと不思議で……」

「そうだな……。娘には言えんが、あれには厳しく躾ている。母親と顔を合わせさせてやる時間もあまり取らせていない。不憫だとは思うが、グロピウス家を背負うには必要なことだ。私はきっと娘に憎まれているだろう」

「いえ、そんなことは。エウァ……、いえ、エウァ殿は貴方を大変尊敬しておられます」

「気遣いありがとう。娘には私からの、そして母からの愛情が足りていない。だから、君にそれを求めているんだろうな」

「僕がそんな、父や母としての愛情などをエウァ殿に与えられるなどとは思えませんが」

「いや、そんな大層なことじゃない。娘は甘えられる相手が欲しいんだ。どうかこれからも、娘と仲良くしてやって欲しい」

ドゥイズがチギリに頭を下げる。

「いえ、そんな。僕でよろしければいくらでも引き受けます」

「ありがとう。助かるよ」

チギリは自分の動揺が徐々に収まっていくのを感じた。なんだ、いい父親じゃないか。チギリが心の中で思った。

ドゥイズが席を立つ。

「ところで、チギリ君は一時的に娘から『世界の心臓』を『継承』したそうだね」

その言葉にチギリは背筋が凍った。今回の旅で、結果としては任務を達成したものの、エウァの命を危険に晒したのは事実だった。

チギリは額がテーブルにぶつからんばかりに頭を下げた。

「申し訳ありません! 僕は、エウァ殿の身を危険に晒してしまいました!」

平謝りするチギリを見て、ドゥイズが言う。

「娘の身を危険に晒したのは遺憾だが、それを咎めようというのではない。危険なのは分かっていた。それを乗り越えねば、グロピウス家を継承する資格はないのだからな。言うなれば今回の旅は、娘にとってグロピウス家を継承する試練だったのだ」

「…………」

「君は『世界の心臓』を守った。結果として世界は守られた。なんら問題はない。よくやった」

「……は、光栄です」

チギリは胸をなで下ろしたが、跳ね上がった心臓の動機は止まらなかった。

ドゥイズがチギリに背を向け、後ろ手を組む。

「ところで、娘は君に『継承の儀』をおこなったそうだな」

「……え? ……はい」

ニャギの館でエウァが瀕死の状態に陥り、チギリはエウァから『継承の儀』を受けた。その時チギリは『世界の心臓』を継承した。そして戦いの後、ウキョウの病院でエウァが意識を取り戻した。『世界の心臓』は本来グロピウス家の人間が持っていなければいけない、ということでエウァはチギリに『世界の心臓』を返すよう要求した。その時にチギリは預かっていた『世界の心臓』をエウァに返すために再び『継承の儀』をおこなったのだ。

今度はチギリからエウァに、ニャギの館でやったのと同じやり方で。

それを思い出して、チギリは顔を赤くした。

ドゥイズが微笑みを浮かべてチギリを振り返る。

「チギリ君。一発殴らせろ」

「え」

応接室の外で待っていたガムとエウァに、部屋から骨と骨がぶつかるような鈍い音が届いた。



◆◆◆


エウァの誕生日から数日後。ガムは自分達が死闘を繰り広げた地を訪れていた。広大な敷地の中には館と庭園。ガムは鉄製の門を開き、館の玄関に続く石畳の上を歩いていく。そして館の扉の前に立ち、ノッカーで扉を叩く。彼の右手には薔薇の花束。死者に対して薔薇はそぐわないと思ったが、彼は彼女に似合う花が他に思いつかなかった。

彼女、館の主であるニャギはもうこの世にいない。ガムが殺したからだ。そんな自分がどの面を下げてニャギの館を訪れたいと思ったのか、ガムは自身にもよくわかっていなかった。ただ、彼がニャギを刺し貫いた瞬間に脳裏によぎった光景が、彼の頭に焼きついていた。世界を破壊したいと思うほどの衝動は何だったのか。その真相を確かめずにはいられない。いや、それは建前だ。答えはもうわかっている。ただ、彼はニャギを知る者と一緒に、彼女を偲びたいと思っただけなのだ。互いに殺し合った相手として。

ぎぃ、という音と共に扉が館の内側から開かれる。

「お待ちしておりました」

黒いメイド服の若い女性、キリがガムを出迎えた。

「ああ」

ガムが短く答えた。


キリはガムに館の庭園を案内した。庭園は遊歩道になっており、石畳の道の脇に様々な草花が植えられている。それらはしっかり手入れされていた。おそらくキリが一人で世話をしているのだろう。ガムには庭園の花の名前はどれも分からなかったが、どの花も綺麗に咲いているのが見て取れた。

「お前が一人で世話してるのか?」

ガムが先導するキリに問う。

「ええ。お嬢様は花がお好きでしたので」

「こんだけ広いと大変じゃないか?」

「いえ。他にやることもありませんし。それに気が紛れるんです」

「そうか」

そこで会話が途切れる。ガムは再び遊歩道の脇の花に目を遣る。

キリにとってガムは主を殺した仇だ。一体どのような気持ちでガムを案内しているのだろうか。

ガムは二十日ほど前、この館に当てて手紙を書いた。『館の主人の墓前に花を供えたいので、訪問してもいいか』と。館にはもう誰もいないかもしれないので、だめもとで書いた手紙だった。しかしその数日後にガムの元に返信の手紙が届いた。キリの名前で『ぜひいらしてください』と。

自分で手紙を送っておいて、ガムはこれに面食らった。十中八九返事は来ないと思ったし、来たとしても痛烈に非難される内容のものが届くと思っていたからだ。

そして実際に館を訪れて、ガムはある意味拍子抜けしていた。キリに面と向かって罵倒されると思っていたのだが、キリは至って平静だった。そして今もガムに庭園を案内している。もしかしたら、庭園を案内している最中にキリが襲ってくるかもしれないが。

その時はその時だ、とガムは覚悟していた。

そこでキリが足を止め、ガムを振り返った。

「着きました。ここがお嬢様のお墓です」

庭園の中心。石版を横に倒したような墓が静かに横たわっていた。

墓の表面には『ニャギアス・エル・ノワール 1708~1728』と彫られていた。

ガムは墓の前にしゃがみ、手に持っていた薔薇の花束を墓の前に置いた。そのまま黙祷する。しばらくすると、雨がぽつぽつと降ってきた。ガムが立ち上がり、キリを振り返った。

「お前には気の毒したな、キリ」

「…………」

キリは答えない。

「俺のことが許せないか?」

「…………」

「お前は俺を殺す権利がある。そして俺はお前に殺されても仕方ないと思っている。お前は、俺を殺したいか?」

「……私は、貴方が憎いです」

「そうだろうな」

「お嬢様の命を奪った貴方を許せません」

「そうだろうな」

ニャギが自身のスカートの中からナイフを取り出しガムの眼前に突きつけた。

「私は、貴方を、殺したい」

ニャギの瞳が憎悪の感情に染まる。感情が薄く、無機的に見える彼女がここまで激情に駆られるのは、ガムは見たことがなかった。ナイフがもう一センチメートルでも進めば、ガムの目は光を失うだろう。

二人はその体勢のまま、しばらく動かなかった。

「……ですが、私は貴方を殺しません」

キリがナイフを下ろし、手から離す。ナイフが落ち、からん、と石畳を打つ。

「どうして殺さない?」

「……お嬢様はもういらっしゃらないからです」

キリがまっすぐにガムを見つめる。互いに向かい合って立つガムとキリを雨が濡らす。どうやら本降りへと変わったようだ。

「お嬢様がいらっしゃらない今、何をしても空しいだけです。ガム様、あなたは私にとってお嬢様の仇です。ですが、貴方を殺して得られるものは、私の満足だけです。お嬢様には何も届かないのです。既に貴方を殺すことに意味はないのです。私の願いは、お嬢様のそばでずっと仕えることだったのですから」

「それは、ニャギに対する同情か?」

ガムの言葉に、キリの眉がぴくりと動く。

「……何を仰りたいのですか?」

「ニャギを刺した時、小さい頃のあいつが見えた。それと四人の少年達とあんた。そしてガラの悪い五人組の男達が見えた」

「……なぜ、貴方がその出来事を?」

「わからん。たぶんあいつが首にかけてた宝石のせいだ」

「……そうですか」

キリは小さくため息をついた。一段と強くなる雨。キリは、ガムがニャギを刺したときに見た光景について語り始めた。

二十年前。ニャギはクロノス王国の名門ノワール家に生を受けた。

彼女は幼少時から活発でしかも頭の回転が速く、観察力と洞察力に優れていた。そのうえ器量も良く、まさに才色兼備という言葉がぴったりだった。彼女はノワール家の五人兄弟の下から二番目だった。他の兄弟は皆男で、家を継ぐのは長男と決まっていた。

彼女に家の継承権がないのは自身でわかっていた。将来、家を継ぐであろう長男を補佐していこうと決めていた。しかし、彼女の上の兄弟三人は彼女の出来の良さを妬んでいた。万が一彼女がノワール家の当主を継ぐことを恐れ、彼女をいじめていた。それでも彼女はいじめに屈することなく、明るく振る舞っていた。

それは彼女の弟が彼女を支えていたからだ。末っ子のシャノンはニャギのことを慕っていた。シャノンは生まれつき体が弱かったが、利発な子供だった。そのため、何でもそつなくこなすニャギを見て、彼女に憧れを抱いていた。そしてニャギはこの病弱な弟を守らなければならないと思っていた。

体が弱いということは、家督争いで不利になる。家を継ぐためには強靱な肉体と精神が不可欠なのは言うまでもないからだ。きっとシャノンは上の兄達から理不尽な扱いを受けるだろう。幼ごころにそう感じたニャギは、シャノンを大切に見守り、面倒を見ていた。

彼女が十歳のころ、ノワール家の屋敷が火事に見舞われた。幸いにも火事に気づくのが早かったため、屋敷の人間は、ほどなく屋敷の外に避難することができた。だが、一人足りなかった。ニャギと同い年のメイドのキリがいなかったのだ。火事でパニックに陥った彼女は自室で腰を抜かしていた。屋敷の他の人間は自分が避難することに精一杯で、キリのことを気にかける余裕がなかったのだ。

屋敷全体に火が回り、キリを救出することは不可能と誰もが判断していた。屋敷に飛び込もうとするキリの母を、危険だからと周りの人間が必死に止めていた。ノワール家の人間も『一族の誰かならともかく、いちメイドの命くらいなら仕方ない』と考えた。

そんな中、ニャギは炎が渦巻く屋敷に飛び込んだ。ニャギにとってキリは、主人とメイドというより友達という関係だった。ニャギの上の兄達よりよっぽど仲が良かった。ニャギは悩み事があれば母よりまずキリに相談していた。主に相談していたのは恋の話だった。外の世界をあまり知らないキリにとってもニャギの話は刺激的で、まるで創作本の中の話のようだと思って興味津々だった。ニャギはキリと、時間を重ねて仲を育んできた。そんな唯一無二の友達を失うわけにはいかなかった。

火事に見舞われた屋敷の中は地獄のようだった。燃え盛る炎に立ちこめる煙。自分がどこに立っているのかも分からなくなるような感覚が彼女を襲った。それでも十年間自分が住んできた屋敷だ。手に、足に火傷を負いながらも、二階のキリの部屋まで最短の距離でたどり着いた。キリの部屋の中にはキリが腰を抜かしてへたり込んでいた。ニャギはキリを立たせ、キリに肩を貸して、部屋から脱出した。部屋から屋敷の外に脱出する途中で、廊下の柱が崩れ、キリをめがけて倒れてきた。煙を吸って意識がもうろうとしていたキリをニャギが突き飛ばした。炎をまとった柱がニャギの頭にぶつかった。彼女の顔の左半分の火傷は、このとき負ったものだ。柱がぶつかった衝撃で廊下に伏したニャギだったが、気力を振り絞り、再びキリを抱えて屋敷の廊下を歩き始めた。そして命からがら、屋敷から脱出した。

屋敷が火事になったのは、ノワール家と政治的に対立していた一族の者による放火だと噂されたが、真相は分からず終いだった。

火事によってニャギは顔の左半分に火傷の痕が残ってしまった。彼女の火傷の痕を揶揄する人間がいたが、ニャギは火傷のことをむしろ誇らしく思っていた。友達を助けることができた、と。

そして、彼女に対する世間の評価は上がった。社会的身分の低いメイドを、身を挺して火事から救出した貴族の令嬢というイメージが広がったのだ。彼女の上の兄達は、このことが面白くなかった。女に家督の継承権がないと分かっていても、ニャギくらい賢く、勇気のある人物となると家督の継承に関して例外もあり得るからだ。過去、女性が一族の当主になった事例がないわけではない。

兄達の疑心暗鬼により、ニャギに対するいじめはいっそうひどくなった。しかし、シャノンとキリがいたから、彼女の活発さは変わることはなかった。

火事から一年後、ある病気がニャギを襲った。原因不明の高熱に冒され意識を失い、十日間生死の境をさまよった。医者にも手の施しようがなかった。それでも彼女は病気を乗り越えた。家族が見守る中ベッドの上で目を覚ました彼女は、あることに気が付き愕然とした。手足が全く動かせなくなっていたのだ。

一命を取りとめたものの、『ノワール家』の人間としてのニャギの人生はここで終わりを告げていた。身体の自由が利かない、これは家督争いにおいて致命傷といえた。ニャギとしてはもともと家督を継ごうとは思っていなかったから、それ自体は問題ではない。問題は世間体である。

家に障害者がいると世間に、特に政敵に知れれば攻撃される材料になってしまう。年々政治的な力を失いつつあったノワール家としては、それは絶対に避けなければならない。

そのため、当時ノワール家の当主であったニャギの父は、彼女を屋敷の地下に幽閉した。彼女は一生表に出ることはできなくなった。このできごとはニャギの心に陰を差した。以前の活発さは失われ、口数も減った。しかし、日に何度か様子を見に来てくれるシャノンと、身の回りの世話をしてくれるキリのおかげで、ニャギの精神はなんとか平静を保っていた。学校に通い始めたシャノンには友達ができ、学校での楽しかったできごとをニャギに話した。その時間は、ニャギにとって一日のうちで数少ない、安らぎの時間だった。また、シャノンが勉強で分からないところがあれば、ニャギはシャノンに丁寧に教えた。ニャギは日々成長していくシャノンの姿を喜んだ。そのうちシャノンに教えられることがなくなるんだろうな、と一抹の寂しさも感じていたが。ささやかではあるが、シャノンとキリさえいればニャギは幸せだった。

しかし、そのニャギの精神が完全に崩壊したのがその翌年であった。

ノワール家の屋敷を強盗団が襲った。両親が外交のために出かけたところに強盗団の男達五人が、屋敷に押し入った。強盗団は屋敷に残った人間、ニャギと兄弟四人、祖母と祖父、屋敷に仕えるメイド達を拘束した。このとき、地下室にニャギの様子を見に来ていたキリは、騒ぎに気付いたニャギの命令によって、隠し部屋に隠れていたため拘束されることはなかった。

強盗団のリーダーらしき男が金庫の在処を教えろと言った。一族の人間を守るため、ノワール家の長男がそのリーダーに対して言った。「金庫の在処を教えるから、屋敷の人間の命は奪うな」と。

強盗団のリーダーはそれを承諾した。長男は金庫の在処を伝えた。金庫にありついた強盗団は、金庫に入っている金、宝石を全て奪った。そして長男は強盗団に立ち去るように言った。

しかし、強盗団は屋敷の人間を殺害し始めた。口封じのためだった。長男は強盗団に言った。「約束が違う」と。

強盗団のリーダーは言った。「約束通りだ。俺は誰も殺していない。お前は俺と約束したんだろう?」と。

屋敷の人間を殺害したのは、リーダー以外の強盗団の人間だった。長男の最期の言葉は「卑怯者」だった。

祖父と祖母、兄弟、メイド達が次々に殺された。手足の動かせないニャギにはどうすることもできなかった。抵抗もできずに殺される。ニャギが歯噛みして強盗団の一人に手をかけられようとした。

その寸前で警官隊が屋敷に突入してきた。警官隊はあっと言う間に、抵抗する強盗団を全員取り押さえた。隠し部屋から脱出したキリが助けを呼びに行ったのだ。

屋敷に戻ってきたキリが見たのは、吐き気を催すような惨状だった。

天井までしぶいた大量の血液。壁にも人間を引きずった血の跡。どす黒く変色した絨毯と床。その床には元は人間だったものの肉の塊。ばらばらになった腕と足。その屍体の庭の中央にニャギは転がっていた。

キリは警官隊が強盗団を捕らえた後、すぐにニャギに駆け寄った。ニャギの目は虚ろで、遠くを見るように焦点が合っていなかった。そしてなにごとかを、ぶつぶつつぶやいていた。キリははっきりと聞き取れなかったが、シャノンの名前を呼んでいるように聞こえた。

ニャギは騒動の全てをはっきりと覚えていた。祖父と祖母が殺される光景。兄達が殺される光景。メイド達が殺される光景。そして、シャノンが殺される光景を。

シャノンはニャギを襲う強盗団の一人の前に立ちはだかった。小さな体で、両腕を一杯に広げて。そしてあっけなく殺された。強盗が握りしめた剣で、左肩から右のわき腹にかけて抉られて。シャノンの体から大量の血が吹き出した。シャノンは床に伏し、床に転がるニャギを見た。そしてかすれる声で言った。「お姉ちゃんは、僕が、守る」と。

ニャギは衝撃を受けた。病弱だった弟が、いつのまにか強くなっていた。人を守りたいと思うほどに。しかし勇敢な心を持った、彼女が世界で一番愛していた弟は殺された。強盗によって、あっけなく。

だからニャギは呼んだ。シャノンの名を。もう一度私に話しかけて。もう一度私の前で笑って。もう一度私の前で泣いて。もう一度私に勉強を教えさせて。もう一度私の手を握って。もう一度私のおでこにキスをして。もう一度。もう一度。もう一度。もういちど、もういちど…………!

ニャギは絶叫した。もう二度と帰ってこない、弟の名を呼びながら。

跡継ぎをあらかた失ったノワール家。高齢にかかっていた両親には新たに子を紡ぐことができなかった。ノワール家の没落は火を見るより明らかだった。両親のやるかたない怒りはニャギにぶちまけられた。両親はニャギを見る度に彼女を打ち据えた。彼女の体から包帯が取れない日はなかった。ニャギは両親からの暴力よりも、弟を目の前で失ったことの方が何百倍もつらかった。自分は弟が殺されるのを見ていることしかできなかった。

やがてニャギは、自分の体を不自由にした世界そのものを憎むようになった。自分を守ろうとした誰より優しい弟は、生きる価値のないクズにその命を奪われた。自分の体が動けば、少なくともシャノンは助けられたかもしれない。

世界は搾取する。弱いものから何もかも。

世界は淘汰する。弱いものを真っ先に。

残酷な世界に辟易した彼女は『私が生き残ったのは、悲しみを生み出すこの世界を終わらせるためだ』という黒い使命を胸に刻んだ。

この日を境に、徐々にニャギの瞳の色は黒く濁り、マグマのような鈍い光を宿すようになっていった。

彼女は自分では動くことはできない。そのため、自分の代わりに動く手足を必要とした。それが『逆針の徒』だった。ニャギはキリを、各国を巡るための手足とした。そして行脚しながら、心に闇を抱える者を『逆針の徒』にスカウトしていった。心の闇は、世界に復讐するための無尽蔵のエネルギーになることをニャギは理解していたからだ。

また彼女は歴史の文献を読み漁った。『調停者の一族』として自らが秘めている力について研究した。『調停者』とは、『時の番人』が自らの使命を悪用しようとしたとき、それを止めることを使命とする。言わば『時の番人』の監視役である。

また彼女は、イーダの言う童話『とけいじかけのたまご』とそれに類似した世界の民話から『世界の心臓』の秘密にたどり着いた。そしてエウァの命を狙うに至った。

………。

「同情してほしいのではないのです」

キリがガムに言う。雨は相変わらず二人を打つ。ガムが供えた薔薇も、雨に打たれてくったりしていた。

「ただ、忘れて欲しくないのです。お嬢様がどれだけ世界に抗ったかを」

「同情なんてしねえよ。ただ、なんであんた達はニャギを止めなかったんだ」

「止める?」

「ああ。ニャギは強盗団のせいで弟を失った。そして世界を憎んだ。それはわからんでもない。だが、俺には見えたんだ。ニャギがあんたやイーダ、ロクシー、タイチ、ニキータや他のやつと一緒にいるときに笑っているのを」

ニャギの過去がガムの脳裏に流れ込んだとき、ニャギを襲った惨劇とは別に、彼女が仲間に囲まれている光景も見えた。その中でニャギは笑っていたのだ。それはわずかな表情の変化だったが。

「あんた達といることが、あいつの安らぎになってたんじゃないのか? なんであんたはそっちをあいつに選ばせず、破滅に突き進んだんだ? 付き合いの長いあんたが唯一、あいつを止められたんじゃないのか?」

ガムの言葉に、キリが顔を伏せ、肩を震わせていた。そしてガムを睨みつけて叫ぶ。

「……私だって、お嬢様と静かに過ごしたかった! だけど、それ以上にお嬢様から何もかも奪ったこの世界が許せなかったっ!!」

庭園にキリの声が響いた。世界を呪い、聞くものを切り裂きそうなその声は雨に吸い込まれ、やがて消えた。

「……取り乱してしまい、失礼致しました」

「いや、俺が無神経だったよ。すまない」

ニャギにとどめを刺したのはガムだ。そんな彼が、ニャギに仕えていたキリにどうこう言える資格はないのだ。ただ彼は、キリの本音が知りたかった。だから敢えて挑発するような質問をしたのだ。

「濡れてしまいましたね。屋敷に入りましょう。案内致します」

「いや、俺はもう帰るよ。手間を取らせて済まなかったな」

「……そうですか。では、門までお送り致します」

ニャギの墓を後にし、庭園を出るキリとガム。先導するキリにガムが聞く。

「あんた、これからどうするんだ?」

「……私はお嬢様のメイドです。この屋敷をずっと守って参ります。それに、ここを唯一の家としているお嬢様のご友人がいらっしゃいますので」

ガムの頭に、金髪のジプシーの姿がよぎった。

「ガム様は、どうされるのですか?」

「どうもこうも、今まで通り傭兵を続けるさ。食っていかなきゃならないからな」

「ガム様は、強いのですね」

「強い?」

「ええ。自分の道を決めたら迷わない。今回はエウァ様の騎士を務められました。『懐中時計』の修復のために」

ガムは返答できなかった。自分が強いなんて思ったことはない。さらにキリが言う。

「使命のために、人を殺すことも厭わない」

「…………!」

ガムは返答できなかった。そして彼の心に、ニャギの言葉が蘇る。


人殺しは一生人殺しだ。


それは、ニャギがガムに言ったのか。それとも自分自身のことを言ったのか。

ガムは思っていた。自分は決して強くないと。むしろ弱いと思っている。弱いから武器を振るい相手を打ち倒す。誰かを守るためという口実で敵を退ける。敵を殺す。

だが、それは彼が選んだ道だった。本当に守りたいものを守るため、彼は弱い自分を隠して剣を振るい続けている。

今回だってそうだ。ガムはモゴを、ニキータを、そしてニャギを殺した。エウァを守るという大儀のもと。だが、本当は誰も殺したくなんかなかった。殺された人間の影で、また誰かが泣き、憎しみを抱き、復讐が連鎖する。

それでも彼は進まなければならなかった。守るべきもののために。

しばらくすると、二人は屋敷の門にたどり着いた。

「たいしたおもてなしもできませんで、申し訳ありませんでした」

キリがガムに一礼する。

「いや。こっちこそ迷惑をかけた」

ガムが会釈をする。

彼は思った。

もう、二度とこの屋敷の門をくぐることはないだろう。そして、世界を憎み、命がけで戦った女のことを、一生忘れることはないだろう、と。


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クロックワークエッグ【本編】 つぶあん @Tsubuan

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