第7話 反逆のネジ

石作りの大きな館。その敷地の中には荒れた庭園が併設されている。空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。

ガム、チギリ、エウァの三人はクロノス王国領の貴族が住んでいただろう屋敷の前に来ていた。彼らは逆針の徒からの手紙通りにやってきた。この館でジャンが捕われている。『懐中時計』の修復ひいては世界の時間の修正には、修復師の一族であるジャンの存在が絶対必要だ。グロピウス家の使命を果たすため、そして何よりジャンを必要とするクジョウの町の人のために、ガム達はジャンの救出に来た。

館の正門に向かう三人。正門の横には一人の女が立っていた。黒いメイド服姿の無表情な女。キリだった。右腕は肩から白い布で吊られている。どうやら先日の森の中での骨折がまだ治っていないようだった。

「お待ちしておりました」

キリがガム達の姿を認めて一礼した。

「今日はニャギは一緒じゃないのか?」

ガムがキリに問う。

「本日、私はあなた方の案内を仰せつかっておりますゆえ」

「案内?」

「ええ。私があなた方をお嬢様の元へ案内いたします」

「どういうことだ?」

相手の真意がつかめないガム。

「お嬢様の指図により、あなた方には館内でのルールを守っていただきます。もし従わないようであれば、ジャン様の命はないものと思ってください」

「ルール? 遊びのつもりか?」

「説明いたします」

ガムの質問を無視し、淡々と説明を始めるキリ。

「館内には獅子の間、鷹の間、そして謁見の間があります。獅子の間、鷹の間には刺客が待ちかまえています。

この二つの間に待つ刺客を倒し、謁見の間に辿りつくことができればあなた方の勝ち。倒せなければあなた方の負けでございます」

「勝ったら、ジャンを返してくれるんだろうな」

「もちろんでございます。しかし負ければ、エウァ・グロピウスをこちらに差し出してもらいます」

「!」

チギリがエウァを背に隠した。

「ガム、どう見る?」

顎に手を当てて考えるガム。

「普通に考えれば、エウァがほしけりゃ人質のジャンと交換でいいはずだ。それをこんな回りくどい手を打つってのは、他の狙いがあるか酔狂かのどっちかだな」

「その、他の狙いっていうのは?」

「刺客に俺たちを殺させて、エウァの奪還を不可能にさせる。それか殺せないまでも、俺たちを疲弊させてエウァを奪うってところだ」

「もし失敗すれば、エウァ殿もジャンも……」

「ボクなら平気だよ」

エウァがチギリの背から出る。

「ボクは二人を信じてる。二人なら、ボクを守ってくれるって信じてるから。だからガム、チギリ、お願いだ。ジャンを助けて」

「エウァ……」

「エウァ殿……」

にっこりと微笑むエウァ。だが、その手は小さく震えている。

「お前、無理してるだろ」

ガムがエウァに言う。

「……うん。ほんとは怖いよ。だけど、ホラ」

エウァがガムとチギリの手を握る。エウァの体温が二人に伝わる。エウァの手の震えは止まっていた。

「もう、大丈夫。それにボクにはジャンにやってもらわなきゃいけないことがある」

『懐中時計』の修復。それはグロピウス家の使命だ。

「だから二人に依頼する。ジャンを助けてほしい」

毅然とした表情で言うエウァ。

「依頼主の命令とありゃ、なんでもやるぜ」

不敵に笑うガム。

「僕があなたを守ります」

胸に手を当て、チギリ。

「お話は済みましたか?」

キリがガム達に言う。

「一つ確認したいんだが、ジャンは無事なんだろうな?」

「ええ。丁重にもてなしております。ご心配なく」

「わかった。じゃあ、案内してもらおうか」

「それでは、私に付いて来てください」

キリとガム達三人は門を抜け、館の敷地内へと歩を進めていった。そして玄関から館の中に入る。時間は昼間だが、館の中は薄暗い。

玄関を入って正面には赤い絨毯がひかれた大きな階段。階段は奥の壁際で突き当たり、そこから左右に廊下が伸びている。

キリがガム達を連れ、正面の階段を上る。キリの後ろでエウァの手を引くチギリ、最後尾にガムが続く。こつ、こつと廊下に四人の足音が響く。

天井にはシャンデリア。左右の壁には大きな絵画が掛けられており、この屋敷が裕福な貴族のものであることを示していた。

階段を上がった突き当りに、右手に剣、左手に懐中時計を持った女神像が置かれている。

「…………?」

突き当りを右に曲がるキリ。ガムはその像に違和感を覚えながらも、キリの後に続く。

「キリ殿。聞きたいことがあるんですが」

チギリがキリに問う。

「何でしょう?」

前を向いたままキリが言う。

「あなたはなぜ、『世界を壊したい』などという願望を持つニャギ殿に仕えてるんですか?」

「それは私がお嬢様のメイドであるからです」

「あなたも世界を壊したい、と思うんですか?」

「お嬢様が望まれるのなら、そうします」

キリの答えには迷いがなかった。

「では、ニャギ殿が言う『世界』というのは文字通り、僕たちが生き、暮らしているこの世界のことですか?」

「そう捉えてもらって構いません」

「世界を壊した結果、この世界に生きる人々、もちろんキリ殿も含めて命を落とすことになっても構わないと?」

「ええ。それをお嬢様が望まれるのであれば。チギリ様は騎士でございますれば、主を守る気持ちは分かっていただけると思いますが」

淡々と答えるキリに、チギリは眉間にしわを寄せる。

「僕は自分の意志で主を守ると決めている。あなたには、主がいるこの世界を守りたいとは思わないんですか?」

「……お嬢様のおそばで一生仕えるのが私の望みです。お嬢様が望まれるのであれば、私は世界が壊れようとも構いません」

「しかし、それは自分の生命を犠牲にしてまで、言わば他人の意思で自分の命が左右されてもいいことなんですか?」

「ええ」

それが決まりきった答えであるかのようにキリ。

「ところでチギリ様。貴方には守れなかった人はいますか?」

一瞬チギリは口を噤んだ。

「……ええ、いますよ」

「これはあくまで私見ですし、想像でしかないのですが」

キリが言う。

「世界は優しい者に優しくありません。世界は弱い者に優しくありません。世界は醜い者に優しくありません。世界は汚い者に優しくありません。世界は愚かな者に優しくありません。世界は貧乏な者に優しくありません。

守られるべき弱い者達からこそ、世界は真っ先に奪い取るのです。その財産、生命を。人を守ろうとする意志でさえ、人から奪おうとする夥しい数の勢いの前には無力です」

「だから、人を守ろうとするのが無駄だと言うんですか?」

「人を守ろうとする意志は尊重すべきものでしょう。しかし圧倒的な暴力や理不尽の前には、意志だけではどうにもならないのです。力のある者は、力のない者を食らい尽くすまで止まりません。力に蹂躙され、最も大事なものを奪われた者は、その後どうしたらよいと思われますか?」

「……二度とそんな目に遭わないように、強くなるしかない。少なくとも僕は騎士として、そうしてきた。大切なものを守れるように」

「チギリ様の言う、大切なものとはなんですか?」

「人です。家族であり、友人であり、日々平穏に暮らしている人たちです。その人たちが生きるこの世界を守りたい」

「そうですか。私はお嬢様を守りたいのです。その存在、意思を。世界を壊すというのは二の次に過ぎません」

「それならば、僕はあなた達を止めます」

「ええ。チギリ様はそのために来られたのでしょうから。お嬢様もそのような貴方に会いたがっておりますゆえ」

キリの言葉をチギリは訝った。

「それはどういうことですか……? ニャギ殿が狙っているのはエウァ殿だけなのでは……」

「それは一部にしか過ぎません。お嬢様が相手にしているのは世界そのものですので」

チギリはキリの言っていることがよくわからなかった。

「さあ、獅子の間でございます」

キリの正面には大きな木製の扉。両開きのその扉には、獅子のレリーフが彫られていた。

左手でその扉を開くキリ。扉を開ききると、チギリ達三人を部屋に引き入れる。

部屋の壁には動物の首の剥製。壁のそばには中世の騎士の甲冑。奥には古びた机と、その手前に革の破けたソファが設置されている。もともと応接間に使っていた部屋なのだろうが、その広さは庶民の家一軒ほどあった。

そのソファに一人の男が座っている。全身黒尽くめ。腰に剣を携えている。口を黒い布で覆った金髪碧眼の男だった。ガム達三人にはその男に見覚えがあった。黒尽くめの男が立ち上がり、言った。

「よお。久しぶりだな。あの時はどうも」

それは、シンジニの宿でチギリとエウァを襲った黒尽くめの二人のうちの一人だった。

「自己紹介がまだだったな。オレの名前はタイチ。逆針の徒の一人だ」

言って、左手の皮手袋を外し、ガム達に手の甲を見せる。そこには逆針の徒のマークが彫られていた。手袋を再びはめるタイチ。

「お客様、少々よろしいでしょうか?」

キリが言う。

「なんだ?」

ガムが答える。

「タイチ様と戦っていいのはそちらの三人のうち一人だけです。加勢をする等、二人以上の参戦は認めません。また、逃走も認めませんのでご了承ください」

「それをやったらルール違反でジャンの命はないってか?」

「その解釈で構いません」

ガムがチギリに言う。

「……だってよ。どっちが行く? チギリ」

「まず僕が行こう。ガムはエウァ殿を頼む」

「いいのか? なんでだ?」

「以前宿屋で僕はタイチと闘っている。ある程度のクセは分かっている」

チギリの言葉にタイチが反応した。

「おいおい、以前はそこのウニ頭の乱入で撤退を余儀なくされたが、今回は一味違うぜ?」

チギリがエウァをガムに預ける。エウァの手を取るガム。

「それは僕にとっても同じことだ。今はエウァ殿を守ってくれる友が背中にいる。だから僕は全力であなたの相手をしよう。そして、あなたを止めて見せる」

「ははっ。格好いいなあ、オイ。だけど余計な心配だぜ? オレはお前に負けるつもりはないからな。いままでに何百人の剣士を相手にしてきたんだ。それに机の上を見てみろ」

チギリが部屋の奥の机に目を遣る。机の上にはトランプが表全て表を向けて規則的に並べられていた。

「今日のオレは絶好調なんだ。せいぜい楽しませてくれよ。騎士のお兄ちゃん」

タイチが鞘から剣を抜く。長さはガムのものと比べて半分ほどの長さだ。チギリはその構えから相当の手練であることを察していた。

チギリも腰からレイピアを抜く。

「チギリ、がんばってね」

エウァがチギリに言う。

「はい。必ず貴方を守ります」

振り返らずにチギリが言った。

チギリとタイチが互いに剣を構え、対峙する。

「初めて会った時から思ってたんだ。オレはお前が気に食わないってな」

「そうですか。貴方にどんな理由があって、逆針の徒を名乗っているのかは知りませんが全力で止めます。大切なものを守るため」

ぎり、とタイチが歯噛みする。

「……そういうところが、気に食わないと言ってるんだ」

タイチが剣を振り上げ、チギリとの距離を詰める。そしてチギリに剣を振り下ろす。チギリは冷静に軌道を見極め、右半身を後ろによじってタイチの攻撃をかわす。

タイチは一歩下がり、再び刃をチギリに突き出す。チギリは一歩下がって攻撃をよけ、タイチの刃をくぐるようにレイピアをタイチに突き出した。それを身を引いてよけるタイチ。

タイチがチギリの反撃に舌なめずりする。

次にタイチはチギリの右肩を狙って刃を振るった。左に飛んで刃をかわすチギリ。すかさずチギリの飛んだ方向に追撃をかけるタイチ。レイピアの刃で斬撃をそらすチギリ。レイピアが弾かれる。その隙にタイチは左の拳でチギリの頬に打撃をたたき込んだ。体をのけぞらせるチギリ。さらに打撃を続けようとしたタイチだったが、チギリがレイピアを横なぎに振るったので、後ろに飛び退いた。

レイピアを構え直すチギリ。頬が腫れ、口の端が切れ、血が顎に伝っていた。

「色男が台無しだな、オイ」

ぺっ、と血液混じりの唾液を床に吐くチギリ。

「……その戦法、タイチ殿はエルシュタット家の出身ですか?」

チギリの言葉にタイチの頬がぴくりと動いた。そして思い至る。

「……ジルの奴か……」

「ええ、あなたの戦法は副団長とよく似ています」

「オレがあいつに似てるんじゃない。あいつがオレに似てるんだ。ジルはオレの弟だからな」

不機嫌そうに答えるタイチ。

タイチには下にジルという弟がいる。そしてジルはクロノス王国の騎士団の副団長の地位に就いていた。チギリはジルと何度か手合わせしているので、その戦法からタイチがエルシュタット家の者ではないかと推測したのだ。

「エルシュタットといえば代々、クロノス王国の騎士団に優秀な団長を輩出している剣の名門のはず。あなたはなぜこんなところにいるのですか?」

「お前には関係ない」

「国を剣で守る家の人間が、世界を壊そうとする組織に与しているのは解せません。それに副団長とは長い付き合いですが、兄弟がいることなど聞いたことがありません。何があったんですか?」

「……オレが役立たずだから家を追い出された。それだけさ」

言って、地を蹴り、剣を繰り出すタイチ。チギリは次々に襲いかかるタイチの斬撃をレイピアで受け、防御に徹する。

「男なら、ベラベラ喋ってないでかかって来いってんだ!」

攻撃を続けるタイチ。剣がチギリの鎧にかするが、タイチはチギリの体を捉えきれてはいなかった。タイチはどこか冷静さを失っているようだった。その動揺を見逃さず、チギリはタイチの隙を狙い、レイピアをタイチの胸に一突きした。タイチの鎧に穴が開く。たまらずタイチは飛びすさった。チギリがレイピアを構え直し、言う。

「あなたの現在の行動、そして逆針の徒を名乗ることが家名を汚す。それをわかっているのですか?」

「そうだ。オレはそのために逆針の徒に入ったんだからな」

「なぜそのような馬鹿なことを……」

「家がオレを必要としなかったからだ。だからオレは家を出た」

「家があなたを必要としない? どういうことです? エルシュタット家は長男が家督を継ぐと聞いていますが」

チギリの問いに、タイチが一瞬躊躇する。

「……オレには生殖能力がない。だから家はオレを見限って弟に家督を継がせることに決めたんだ。オレは家にとって価値が無くなったんだ」

「…………」

「オレは家に復讐がしたかった。子供をもうけられないという理由だけでオレを捨てた家が憎かった」

「…………」

「オレに生殖能力がないとわかったときの、両親の落胆した顔は今でも忘れられない。まるでゴミを見るような目だった。もうここにはいられないと思ったよ。そこでオレは剣闘士になった」

家を出奔したタイチは剣闘士に身を落とした。剣闘士とはいわば、コロシアムで戦う見せ物の剣士のことだ。剣士と言えば聞こえはいいが、その実体はごろつきの集まりだ。早い話が一般民衆の賭博の対象である。そこには国を守るとか誰かを守るとかの気概はない。

「剣闘士は楽だったぜ? 周りの人間は腕力はあるが剣に関しちゃ素人だ。何より誰も家の名前なんて背負っちゃいない」

剣の名門の出身であるタイチは、すぐに剣闘士として名を上げた。タイチの強さ、そして心に抱える闇を見通したニャギが、彼を逆針の徒に引き入れたのだ。

「ニャギ様には感謝してるよ。オレはニャギ様の命令に従って剣を振るうだけで、国に反逆するっていう、家に対して最高の復讐ができるんだからな」

高笑いするタイチ。

「それはあなたの本心なんですか?」

チギリが言った。

「……何が言いたい」

「家を捨てたなら、あなたはなぜエルシュタットの剣技を使うんですか?」

「人を殺すのに便利だからだよ。オレはこの剣技で何人もの剣闘士を葬ってきた。その剣技をジルも使うんだから、そのうち噂になるだろ。『騎士団に汚らしい剣闘士と同じ剣技を使うやつがいる』って。そうすれば弟は終わりだ。最高だろ?」

「あなたは自分の弟がどうなってもいいと言うんですか?」

「弟とは仲が悪いんだ。家にいるときから野心が見えてたからな。あいつはオレから家督を奪おうと必死だったよ。だからオレが家を出て一番得してるのはあいつなんだ」

「騎士団でも内部の腐敗は進んでいます」

チギリが急に話題を変える。

「……何のことだ?」

「訓練中の怠惰な行動。素行の乱れ。有力貴族への賄賂による昇進。言っては悪いですが、あなたの弟君であるジル副団長も、今の地位を金で買っています。家の名前にあぐらをかいています」

「だろうな。あいつは指揮官に向くような男じゃない。利己心と虚栄心が強いだけのボンクラだよ。騎士団の腐敗は今に始まったことじゃない。それがどうかしたってのか」

「あなたの剣技は副団長を遙かに凌駕しています」

「…………!」

「きっと剣闘士になってもなお研鑽を続けていたのでしょう。あなたの剣技には誇りを感じます。あなたの剣は、家名を貶めるために振るうべきものなのですか? 本当は守りたいものがあったんじゃないですか?」

「……わかったようなこと言ってんじゃねえぞ!」

再びタイチがチギリに攻撃を仕掛ける。タイチの下からの斬撃がチギリを襲う。チギリの前髪が十数本散る。タイチはそのまま刃を降り下ろしてもう一撃。後ろに飛んでかわしたチギリの腹に刃を突き刺す。後ろに転がり、立ち上がったチギリが何度かせき込む。腹からじわりと血がにじんでいた。タイチの剣の切っ先が赤くぬめっている。

「チギリ!」

ガムが叫ぶ。

「僕がわからないのは、家を出たあなたが、なぜ騎士にならなかったかということです」

腹を押さえながら、チギリが言った。

「……ああ?」

「その力は必ず騎士団で役に立つはずです。騎士として国を守ることで、あなたが守りたいものを守ることができるんじゃないですか?」

「黙れ。お前に何がわかる」

タイチには守りたいものがあった。

「僕は未熟な人間です。あなたと何度も話をしている訳でもない。ですが、剣を振るうあなたはとても苦しそうに見えます」

「黙れと言っている」

タイチの守りたいもの。それは家族だった。

自分の手で、家長として家を守る。厳しくも優しく自分を育ててくれた両親。わがままながらも自分を慕ってくれていた弟。いずれ自分の妻になっていただろう恋人。それらの大切な人を守りたかった。

しかし、自身の体の欠陥のせいで、タイチは家にとって不要な人間になった。誰もタイチを見ようとしなくなった。タイチが大事にされていたのは、ゆくゆくはエルシュタットの家督を継ぐからだった。両親にとって大事なのはタイチではなく、これからも連綿と続いていくエルシュタットという名前だけだった。

タイチはそんな家に失望し、家を出た。自分が守りたいと思っていたものは何だったのか。自分は何のために剣技を研鑽してきたのか。今まで積み上げたものの意味は全て無に帰した。価値のなくなった自分は何をして生きていけばいい? 意味のなくなった自分は誰のために生きていけばいい? わからなくなった。進むべき道が。歩むべき未来が。

だったら壊そうと思った。家を、家族を。自分を壊したものを道連れにしようと思った。自分をこんな体にした世界に復讐を。

タイチが剣を構える。

「お前がオレの復讐に邪魔だ。殺してやる」

「……後戻りはできないんですか?」

「それは無理な相談だ」

タイチは今まで、何の罪もない人間を何十人も手に掛けている。それは全て家の名を傷つけるため。そんな自分が今更光の当たる場所を歩めようはずもない。

「では、あなたを止めます。僕の全身全霊をもって」

「調子に乗るなよ、青二才が」

チギリが右半身を後ろにやり、レイピアを持つ右腕を引く。チギリの構えを見てタイチが言う。

「その構えは聞いてるぜ? お前の奥の手だってな」

チギリは呼吸を整える。

「後の先を取ってこそ真価を発揮するんだってな。だったら、こうだ」

タイチは後ろに下がり、チギリと距離を取る。そして自分の体の正面に剣を構えた。

「距離を取っちまえばこっちのもんだ。オレはお前が腹から血を流し続けて倒れるのを待てばいいって寸法だ」

「…………」

「卑怯だとか言うなよ? これは殺し合いなんだ」

チギリの腹の周りの布は、時間が経つに連れて赤い染みが広がっている。

チギリは構えを解かなかった。そして、タイチが見ていたチギリの姿が一瞬でかき消えた。

次の瞬間、チギリはタイチ目の前にいた。タイチは自分の目を疑った。そしてそのときにはもうチギリのレイピアが頭、両腕両脚、腹に突き刺さった後だった。

タイチが攻撃を受けたと思った瞬間には、彼の体は後方に吹き飛び、部屋の壁際の甲冑鎧の槍に貫かれていた。突然の出来事にタイチの目が見開かれる。

「が……なに、が起きた……」

レイピアを突き出したチギリ見つめながらタイチが言った。そしてさらにその先。チギリが構えていた床板がずたずたに引き裂かれ、めくれていた。

チギリの剣技のレベルの高さはさるもの、注目すべきはその脚力の方である。一瞬にして十数メートルの距離をゼロにする脚力。その光景はさながら瞬間移動のようである。

脚力による爆発的な突進から突き出される超高速の突刺。

皮肉にも、この攻撃法をチギリにもたらしたのは逆針の徒のひとり、イーダだった。

「イーダの奴……、こんな戦法のことなんて聞いてねえぞ……。適当なこと言いやがって……」

タイチはイーダからチギリの回転式拳銃リボルバーについて話は聞いていたが、脚力の話は聞いていなかった。

それに加えてタイチはチギリをどこか甘っちょろい、騎士道精神を盲信する人間だと思いこんでいた。それが油断につながった。

「……僕はあなたを止めることしかできません」

レイピアを血振りし、鞘に納めるチギリ。先ほどの攻撃で無理をしたのか、腹からの出血が増えていた。額に油汗をかいている。

「……はん。……油断しただけだ……。今度やったら……お前みたいな青二才に、負け、な」

槍に貫かれたまま、がっくりとうなだれるタイチ。

チギリはガムとエウァの元に戻った。

「大丈夫か? チギリ?」

「チギリ、どうしたの? どこかケガしたの?」

心配そうに尋ねるガムとエウァ。

「腹をちょっと……。ガム、包帯をくれ」

「ああ」

ガムがリュックから包帯を取り出し、チギリの鎧と服を脱がせた。そして包帯をケガした箇所に巻いていく。

「止血はした。だが激しく動くとまた傷が開くぞ」

「……ああ。すまない」

チギリはどこか上の空だ。ガムがチギリに言う。

「もしかしたら殺さずに止められたかもしれない、なんて思ってるんじゃないだろうな」

「思ってない、といえば嘘になる」

「相手の実力はわかってるだろ? お前、そんな戦い方してたら次は本当に死ぬぞ?」

「タイチの剣はどこか迷いがあった。本当に彼が守るべきもののために。もしかしたら、まだ引き返せるんじゃないかって思ったんだ」

「……そうだとしたら、お前はあいつを止めることで、これ以上あいつが守るべきものを傷つけるのを防いだんだ。自分を責めるな」

「……ああ」

「ジャンが待ってる。行くぞ。立てるか?」

「ああ、大丈夫だ」

チギリが鎧を身につけ、立ち上がる。

「ガム、すまないが次は君に頼む」

「もちろんだ。お前は休んでろ」

エウァがチギリに言う。

「チギリ……本当に大丈夫?」

「ええ。戦場ではこのくらい日常茶飯事ですよ。死にはしません」

「……そうなの?」

「ええ。僕のことよりジャンが心配です」

キリがガム達のもとに来る。

「では、次の部屋へ案内いたします」

言って、キリが先導を始める。

「あんた、タイチをあのままにしとくのか?」

「……ええ。彼は負けました。彼にこれ以上時間を裂いている余裕はありませんので」

「仮にもあんたの主人のために戦ったんだろ? 冷たいんじゃないか?」

「敗者には相応かと思います。ガム様達こそ早くジャン様を助けたいのでしょう。それならば案内にお従いください」

「……?」

そのまま歩き始めるキリ。ガムはキリの態度に違和感を覚えつつも、キリの後ろに付いていった。その後にエウァの手を取るチギリが続く。

三人は獅子の間を後にした。


獅子の間を出て、再び薄暗い廊下を歩く一行。四人の足音がこつ、こつ、と廊下に反響する。

「なあ、キリ」

ガムがキリに声をかける。

「なんでしょう?」

「あんた、ニャギとはどんぐらいの付き合いなんだ?」

「生まれてからずっと、です。私はお嬢様の屋敷に仕えていたメイド長の母の子ですので。私はお嬢様が誕生されたのと同じ年に生まれました」

「じゃあ、付き合いは深いんだな」

「ええ。主人とメイドとしてですが」

「ニャギを止めるタイミングはあったんじゃないか?」

「止める、とは?」

「『世界を壊す』っていう大それたことを実行するのをだ」

「私はいちメイドですので。主人の言うことに従事するのが役割です」

「一緒に死ぬことまでか?」

「……ええ」

「単なる主従関係で命を懸けられるとは到底思えないがな」

「お嬢様は私の命の恩人なんです」

「命の恩人?」

「ええ。まだ私が幼い頃、何者かの手によって屋敷に火がつけられました。時間は深夜でしたので、眠っていた私は逃げ遅れました。私の寝室に火が回り、逃げ場はありませんでした。私が諦めたいたところに、お嬢様が来てくれたのです。恐怖で動けなくなった私に肩を貸してくださいました。ですが、屋敷から脱出する途中で燃えている柱の一部が崩れ、私に向かって倒れてきました。それをお嬢様が盾になってくださったのです。そのときに顔の左側に大火傷を負ってしまったのです」

「なんだ。優しい奴じゃないか」

「ええ。その時に私はお嬢様に一生仕えようと決めたのです」

「でも、自分の身を挺してお前を守るような優しい奴が、なんで世界を壊すなんて言い出したんだ?」

「お嬢様は優しすぎるんです。愛情が深いからこそ、失ったときの悲しみが世界への憎しみに変わってしまうのです」

「…………」

「ガム様には守れなかった人はおられますか?」

「ああ、いるよ。山ほどな」

「どんな理不尽な理由であろうと、自分が大切な人を守れなかった事実を受け入れられますか?」

「素直に『はい』とは言えないが、受け入れなきゃしょうがない。俺だって生きていかなくちゃならない。起こってしまった出来事は巻き戻らないし、なくなった命は戻らない。どんなに悔しくても、生きていかなきゃならないんだ」

「ガム様のおっしゃることはわかります。ですが、理不尽に命を刈り取る世界、弱者を真っ先に淘汰する世界、無意味に試練を与える世界。どれも、心から納得いくものではありません。私は、そちらの方が人の真実の声に思えるのです。なぜ世界はこんな残酷にできてしまったのだろう、と」

「自分がこの世界に納得がいかないから、壊すっていうのか? それは単なるガキのわがままだぞ?」

「わかっています。ガム様は騎士をしておられたことがあると聞いています。僭越ではありますが、戦場で理不尽な、不条理な思いをしたことは何度もおありだと思います。それを乗り越えることで強くなられた。ですが、それは一種、心が麻痺してしまったのではありませんか? 人が死ぬことに慣れてしまったのではありませんか?」

「……そうかもしれねえ。だけど、誰だって理不尽のひとつやふたつ抱えてるもんだ。腑に落ちない真実だって、飲み込んで進まなきゃ人として成長できない」

「ですが、私達は私達の運命を受け入れるわけにはいかないのです」

キリがどこか遠くを見るよう言った。

「……さあ、鷹の間に着きました」

キリが鷹の間の扉に手をかける。その扉にはやはり、鷹のレリーフが彫られていた。キリが扉を開く。ガム達が鷹の間に足を踏み入れた。


鷹の間は大広間のようだった。がらんと広がった空間。壁には古びた絵画。また装飾の施された壺が、大理石の台の上にところどころ置かれていた。

その部屋の真ん中に一人の女が立っていた。金髪のショートカットに小麦色の肌。服装は胸と股を隠すだけの下着のような格好。それと腰にひらひらした布を巻いているだけだった。彼女の腹に逆針の徒のマークが彫られていた。

ガムはこの女に見覚えがあった。

「ニキータ、って言ったっけか?」

ガムが金髪の女に言った?

「あら、アタシを知ってるの?」

「シンジニの宿屋でタイチの奴がお前を呼んでただろ」

「ああ、そうだったっけ? 覚えてないよ。ゴメンね」

特に悪びれた様子もなく、ニキータが言う。

「ところで、アンタらがここに来たってことは、タイチは負けたんだね」

「ああ、そうだ」

「まあ、どうでもいいけどね。男なんてそんなもんでしょ」

両肩をすくめるニキータ。

「そんでアタシの相手はどっちがしてくれんの? ウニ頭ちゃん? 金髪ちゃん? それともお嬢ちゃん?」

にこりと笑ってニキータが言う。

「俺だ」

ガムがニキータに言う。

「嬉しいよ。アンタは殺し甲斐がありそうだわ」

「そりゃ光栄。俺はお前みたいな美人が死ぬのは惜しいけどな」

ガムの軽口にニキータのこめかみがぴくりと動く。

「アンタがアタシを殺すんじゃない。アタシがアンタを殺すんだ。勘違いしないで。たかが男が」

「ずいぶんと嫌われたもんだな。まあいいや。よくあることだし」

言って、ガムはチギリの方を振り向いた。

「エウァをよろしく頼む」

「ああ、任せてくれ。君は戦いに集中してくれ」

チギリが言う。脂汗が引いていたので、先程より調子はいいようだ。エウァがガムの服の裾を引っ張る

「ガム、よろしく頼むよ」

「ああ、もちろんだ」

ガムがエウァの頭をなでる。そして振り返り、ニキータと向き合った。

「ずいぶんとそのお嬢ちゃんが大事なようだね」

「依頼主だからな」

「てっきりロリコンかと思ったよ」

ニキータがニヤニヤしながら言う。

「バカ言うな。俺はガキには興味がないんだ。エウァとお前が同時に俺を誘惑したなら、間違いなく俺はお前を選ぶよ」

「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃないか」

喋りながら、ガムはニキータの腕を、胸を、腹を、脚をなめるように観察した。

ガムの後ろでエウァがぶつぶつ言う声が聞こえたが、ガムは無視した。

「それにエウァにはもう婚約者がいる。名前は教えられんが、金髪のクソまじめ野郎だ」

「……ガム。まじめにやらないか」

ガムの後ろでチギリの恨みがましい声が聞こえたが、ガムは無視した。

「……ふぅん。そうかい。それはおめでたいことだね」

ガムの言葉に、先程までニヤついていたニキータの表情がすぅーと消える。何かを突き放すような冷たさを見せている。

「アタシは男が嫌いだ」

ニキータが言う。

「男はアタシのたった一つの願いを奪い取った。そしてウニ頭、アンタも男だ。だから、殺す!」

ニキータが腰の後ろから、刃が湾曲した二振りのナイフを鞘から左右の手で抜き、ガムに迫る。みるみるうちにニキータはガムとの距離を詰め、両方のナイフをガムに繰り出した。

ガムは腰の鞘から抜いた長剣でニキータのナイフを押し返す。押されたニキータは一旦後ろに飛び、ガムの左手に回り込み、再びガムにナイフを繰り出す。左右連続で繰り出されるナイフを、ガムは長剣で受け、弾き返す。ニキータの右の一撃が飛んでくるのに合わせて、ガムは長剣を左に大きく振るった。長剣に弾かれたナイフがニキータの手から離れ、宙を舞う。ニキータは後ろに飛び、ガムと距離を取る。一瞬後、からんと音を立てナイフが床に落ちた。ニキータは空いた右手を腰の後ろに当て、半身でガムと対峙する。ガムがニキータに問う。

「お前のたった一つの願いって、なんだ?」

「アンタには関係ないだろ」

「つれないな。互いに殺し合うくらい深い仲なんだぜ?」

「……いいだろ。教えてあげるよ。アタシの願いってのは……」

言って、ニキータは右腕を、ガムに向かって弧を描くように振り回した。ニキータの手から何かが振りまかれる。

「ぐっ!」

思わずガムは目を閉じ、後ろに飛んだ。

ニキータが振りまいた物が落ちる。それは砂だった。ガムが目をそっと開ける。ニキータが眼前に迫っていた。左手でガムにナイフを突き出すニキータ。ガムは身をよじってかわそうとしたが、ナイフはガムの右肩をかすめた。苦悶の表情を浮かべるガム。彼の右肩から血しぶきが宙を舞う。ニキータはガムの右側をそのまま走り抜けた。すぐに踵を返し、ガムを向く。

「ガム!」

チギリが叫ぶ。

「かすり傷だ。心配すんな」

目をこすりながらガムが言う。

「あははっ、よくよけたね」

からからと笑うニキータ。ガムが目をこすっている間に、彼女は先程落としたナイフを拾っていた。

「……室内で砂、とはな。案外盲点だったぜ」

「卑怯なんて言わないでよ? アタシの周りはいつだって敵しかいなかったんだ。生き残るためならどんな手段だって使うよ?」

「俺を殺すんなら簡単だよ。腹上死させてくれりゃいい」

おどけた表情で言うガム。その言葉を聞き、エウァがチギリに問う。

「『ふくじょうし』って何? チギリ」

「エウァ殿はまだ知らなくていい言葉です」

うんざりした様子のチギリ。ガムの軽口にニキータの表情が険しくなる。

「……ふざけるんじゃないよ。アタシはアンタみたいな軽い男が一番嫌いだ!」

両手のナイフを逆手に持ち替え、体勢を低くしてガムに突進するニキータ。ガムは迎え撃つため、長剣を構える。そしてニキータが剣の間合いに入る。ガムは長剣を振るった。ニキータをガムの長剣が捕らえた。はずだった。

ガムの攻撃は空振り、一瞬遅れてニキータがガムの懐に入った。そしてニキータの右のナイフがガムの頭を狙う。ガムは上半身を逸らしてかわしたが、続けて繰り出された左のナイフがガムの胸板を切り裂いた。ガムの胸に赤い筋が走る。たまらずガムは剣をぶん回したが、ニキータはとうに距離を置いていた。ガムが剣を構え直す。

~~~………。……お前、元は踊り子か?」

ガムがニキータに聞いた。

「鋭いね。その通りさ」

ガムの剣は、敵が間合いに入れば必中する。完璧に捉えたはずの一撃がよけられた。

「その手の店にはよく出入りしてたんでな。お前の筋肉の付き方が、店のお姉ちゃんそっくりだったから、なんとなくな」

「ただのスケベじゃないようだね」

「いや、ただのスケベさ。綺麗な女の肌はつい見入っちまう」

「それでアタシの職を当てるんなら大したもんさ」

呆れたような、感心したような口調のニキータ。

「その観察眼に敬意を表して教えてやるよ」

ニキータがナイフをくるくると手で弄ぶ。

「アタシの願い。それは母親になることだったんだ」

「母親?」

ガムが聞き返す。なんら特別なことではないと思った。ニキータは若い。見た目で言うなら二十代前半だろう。そしてその容姿は同世代の女性の中では群を抜いていると言っていいい。男だって彼女を放ってはおかないだろう。町を歩けばほとんどの男が振り返るはずである。その女がなぜそんな普通のことを願うのだろうか。

「ああ、だけど永遠に叶わなくなった。男のせいでね」

「男のせい? どういうことだ?」

「アタシは知らない男に犯されて妊娠して堕胎した。そうしたら二度と子供を生めない体になった」

ニキータは母子家庭で育った。彼女が育ったスラム街での生活は貧しいものだったが、母親は彼女に精一杯の愛を注いだ。食べ物が足りなくてニキータが不満を漏らせば、母は彼女に自分のパンを分け与えた。ニキータが風邪で高熱を出せば、一晩中看病した。朝は早くから夜は遅くまで働いた。それは娘が少しでもひもじい思いをしないように。彼女の母親は、彼女が元気に育つようにといつも彼女のことを考えていた。ニキータの前ではいつも微笑んで見せていた。

そしてニキータもそんな母のようになりたいと思うようになった。生活は貧しくとも心は豊かに。いつも笑顔を絶やさない母のようになり、自分も子供に精一杯の愛情を注ぎたいと思った。

しかし、ある日ニキータの母親は倒れた。過労だった。そしてそのまま帰らぬ人となった。ニキータが十四歳の時のことだった。そしてニキータは自分で食い扶持を稼がなくてはならなくなった。教養はなかったが、美しい容姿と人より優れた運動神経を持っていた彼女は、酒屋で踊り子として働くことになった。見た目の美しさと華麗な踊りで、すぐに彼女は店の売れっ子となった。ニキータを指名する客は増え、収入も自分ひとりで食べていくには十分な金額をもらえるようになった。

だが、それを面白く思わない者達がいた。店の先輩の踊り子の女達だ。ひいきの客をニキータに取られた女達は彼女に嫉妬し、あることを企んだ。スラムにいる浮浪者の男達に金を渡し、ニキータを襲わせたのである。腕力で男に劣るニキータに抵抗できようはずはなかった。浮浪者達はニキータで己の欲望を満たした後、その場にニキータを捨て置いた。その行為によりニキータは妊娠した。もちろん、そんなおぞましい行為の結果できた子を生みたいはずがなかった。彼女は堕胎を決意した。しかし施術をした医者のミスによりニキータは二度と子供を生めない体になった。

自分は決して母親にはなれない。絶望に打ちひしがれたニキータは、自分を襲った浮浪者共、そして襲わせた女共を皆殺しにした。

「それから、男っていう生き物全てが憎くなったよ。見ただけで殺したくなるようになった。アタシのたった一つの願いを台無しにしたんだからね」

「それで、ニャギに協力してるってのか?」

「そうだよ。聞けばニャギは世界を壊すっていうじゃないか。世界が壊されれば男もみんな死ぬ。こんな爽快なことってあるかい?」

「お前も死ぬんだぞ。いいのか?」

「どうせもうアタシの願いは叶わないんだ。男が全員死ぬんだったら、アタシは死んだって構わないよ」

ガムはため息をついた。

「お前を見ていると腹が立つな」

「……何だって?」

ニキータがガムを睨む。

「お前は何と戦ってるんだ? 男っていう種類の人間か? それとも男っていう単なる記号か?」

「うるさいな。アタシは男を消し続ける。この命が続く限りね」

彼女の憎しみは止まらない。黒く燃え上がった心の炎は、彼女の命が尽きるまで消えることはない。

「その憎しみは俺にぶつけろ」

ガムが言った。

「はあ?」

ニキータはわけがわからない、といった顔をしている。

「俺にぶつけろって言ったんだ。そんな『男』なんていう曖昧な概念じゃなく、お前が最も憎んでいる男の体にぶつけろ。お前の中にある憎しみ全てを」

「何を言ってるんだい? アンタ、頭がおかしいんじゃないのかい?」

「そんで約束しろ。お前が俺を殺せば、お前は男を殺すのを終わりにしろ。俺がお前を殺せば、否応なくお前は止まらざるを得ない。そんだけだ。俺がお前にしてやれるのは。さあ、全力で殺し合おう」

「……アタシは殺されてやるつもりはない。そしてアンタを殺した後はそこの金髪を殺す。その後は今まで通り男を殺し続ける。アンタにとやかく言われる筋合いはないよ」

「俺の後のことはどうでもいい。ここでお前が生き残るか俺が生き残るかだけだ。来い」

「馬鹿な男が……。そんなに死にたいなら、喜んで殺してあげるよ!」

ニキータが飛び出す。右へ、左へ、前へ、後ろへ、相手に先を読ませない、複雑なステップを踏み、ガムに襲いかかる。ナイフが一閃、また一閃と走るたび、ガムの腕に、肩に傷が生まれる。対してガムは、じっと剣を構えて動かなかった。

「さっきの勢いはどうしたんだい? アタシを殺すって言ったのはハッタリかい?」

再びニキータの攻撃。ガムの脚に傷が生まれる。間髪入れずにニキータがガムの懐に飛び込む。ガムの胸にナイフが突き刺さった。

「ガム!」

チギリが叫んだ。直後。

ニキータの動きが一瞬止まった。そしてガムの長剣の一振りがニキータの体を部屋の壁まで吹き飛ばした。彼女のナイフが手から離れ、宙を舞った。ガムは俊敏なニキータの動きを止めるため、わざと彼女に刺されたのだった。

「げ、げほおっ……」

ガムの長剣の腹で、自身の腹を殴られたニキータが激しく咳き込む。ガムがゆっくりとニキータに近づく。

「こんなもんなのか? お前の憎しみっていうのは。ずいぶんとがっかりさせてくれるじゃないか」

「な、……んだと……!」

「お前は自分より弱い男を殺して、ちっぽけな復讐心を満足させていただけだ」

「この……、言わせておけば」

「さあ、立てよ。もう終わりなのか?」

言って、ガムは長剣を床に放り投げた。がらん、と重い音が室内に響く。

「……舐めてんじゃないよっ!」

立ち上がり、ガムの頭に蹴りを放つニキータ。衝撃にガムの頭が揺れる。だが、ガムは彼女の前に立ちはだかったままだった。ガムの拳がニキータの頬を打つ。殴られ、壁際にうつぶせで倒れるニキータ。

「ち……ちくしょう……。男に……たかが男なんかに……」

ガムを見上げるニキータ。

「お前が殺してきた男」

「……?」

「お前が殺してきた男の中には、家族がその帰りを待っていた奴もいたはずだ」

「……」

「お前は、家庭を望んでいたお前が一番やっちゃいけないことをしたんだ」

「……!」

「憎しみに駆られ、男を記号で見るようになり、その男に家族がいることを忘れてしまったんだ。相手のことを考えられない人間は獣と一緒だ」

「アンタに、アンタなんかに何が分かるってんだ! 犯されて、孕まされて、子供を生めなくなったアタシの何がわかるっていうんだ!」

「わからねえよ。だけどな、どこかで止めなきゃならないんだよ。憎んで復讐すれば、さらなる憎しみを生む。それを止めるのは獣にはできない。人間だけだ」

ガムの脳裏に二十年前の光景が蘇る。焼き尽くされた村。敵の国の騎士に殺された家族。

「お前は人間だ。必ずやり直せる。本当はわかってるはずだ。自分はどう進むべきなのか」

ガムがニキータに諭すように言う。ニキータはガムの言葉に首を横に振った。

「……夢見たことはあったさ。誰かと結婚して、養子でもいいから子供をもらって家庭を作るって」

体を起こし、壁に背をもたれて座るニキータ。

「でも、だめなんだ。男なんてもう信用できないし、アタシはどうしても自分が生んだ子供を育てたかった。もう、行き止まりなんだよ。アタシは」

生きる意味を、目的を失くした。残っているのは、寝ても覚めても悲惨な過去の体験が頭によぎる生き地獄だけだった。そんなニキータを拾ってくれたのはニャギだった。彼女の悲惨な過去を、世界を壊すという方法で浄化してくれるニャギの目的だけが、ニキータの心の支えとなった。たとえどんな犠牲が生まれようと、ニキータの救いはそれだけだった。

「ニャギだけが最後の希望なんだ……。でも、見ての通り、アタシはアンタに敵いそうもない。だから、おしまいだ」

ニキータが床に落ちている自分のナイフを拾う。

「おい、待て!」

ガムが叫んだ直後。

ニキータはナイフで自分の胸を貫いた。彼女の胸から鮮血が迸った。ガムがニキータに駆け寄ったが、彼女は既に事切れていた。

「……ばかやろう……」

ガムがぽつりと言う。

骸となったニキータに背を向るガム。そして先程放り投げた長剣を拾って鞘に収め、チギリとエウァの元に戻った。

「大丈夫か、ガム?」

「ああ、かすり傷だ。包帯をくれ」

チギリがガムのリュックから包帯を取り出し、渡す。

ガムはリュックから薄手の毛布を取り出す。ニキータの元に歩み寄り、物言わぬ彼女に毛布をかけた。

ただ、彼女が寒そうだったから。ガムはそう思っただけだった。

ガムがキリに言う。

「さあ、勝負はついたぜ。ジャンを解放してもらおうか」

「かしこまりました。ですがその前に、お嬢様に会っていただきます」

「なんでだ?」

「お嬢様から、あなた方が刺客を破ったなら、最後に話がしたいとことづかっておりますので。必ずエウァ様を連れてくること。それがジャン様を解放する条件でございます」

「……いいだろう」

ガムの了承にチギリが待ったをかける。

「ガム、危険すぎる。もしかするとニャギはジャンを解放する振りをして、大勢で待ち伏せしているかもしれない」

「ああ、わかってる。だからこっちも条件を出す」

「条件?」

「こっちもキリを人質に取る。案内されたところでジャンが既に死んでいたり、ニャギがジャンを解放しなければキリを殺す」

「キリに人質の価値があるのかい?」

「ニャギはほぼ全身の自由が利かない。それをキリはずっと支えてきた。ニャギが目的を達成するまで、あいつはキリを必要とする」

「本当に大丈夫か?」

「まあ、これは保険だ。何か不測の事態が起きたとき、最後の最後は俺達がエウァを守ってジャンを助けなきゃならん。やるぞ、チギリ」

「……もちろんだ。そのために僕は騎士になったんだ」

「エウァ、お前は必ず俺たちが守る。お前は安心していろ」

ガムがエウァに言う。

「うん、ボクはガムとチギリを信じてる。だから、ジャンを助けて」

「ああ、まかせとけ」

「まかせてください」

ガムとチギリが胸の前で拳を握る。

ガムはキリに先ほど話し合った『条件』をキリに伝えた。

「かまいません。私はあなた達の人質になりましょう」

キリの身動きを取れなくするため、ガムはキリの両手を、ガムのリュックに入れてあった縄で縛った。その縄の端をガムが持ち、キリに先頭を歩かせる。

広間を出て、再び薄暗い廊下を進む四人。キリはしばらく歩いたところで廊下の脇の扉を開けた。扉の向こうに下りの階段が覗いている。どうやら螺旋階段になっているようだ。キリを先頭に階段を一段一段と下りるガム達。下るにつれて空気が重く、薄くなっていくような気がした。

ガム達の身に浸食するような黒い空気。何度か経験したことがあるこの空気は、間違いなく、ニャギが放っている殺意だろう。

チギリの手を握るエウァの手の力がぐっと強くなる。

ニャギが狙っているのはエウァの命。そしてガムとチギリを危険に晒しているのはエウァの、いわばグロピウスの使命のため。エウァは目が見えなくなってからも気丈に振る舞っていたが、心の中では不安だったに違いない。そんなエウァの不安を察したのか、チギリが言う。

「大丈夫です、エウァ殿。僕たちが必ずジャンを助けます。そしてみんなで帰りましょう」

「……うん。そうだね……!」

やがて螺旋階段を下りきる四人。その先に鉄製の扉があった。

「この先でお嬢様がお待ちです。扉を開けてくださいますか、ガム様」

両手を縄で縛られたキリが言った。

「ああ」

ガムが扉を手で押す。

ぎぎぎ、ときしみながら扉が開いた。ガムが扉のむこうに一歩踏み入れた瞬間、彼の頭を衝撃が襲った。

よろめき、床に伏せるガム。

ガムの手から、キリの両手を縛っていた縄が離れる。キリはすぐさまガムの元から、部屋の中へと走り去った。

「ガム!」

何事かと、チギリが叫ぶ。

チギリが部屋の中に入ると、ガムの前にはハルバードを手に持った女が立っていた。

「よう、久しぶりやな」

それはイーダだった。

「……いててて」

頭を押さえながらガムが立ち上がる。

「どっかで聞いたことある声だと思ったら、あんたか。いきなり殴るなんてひどいじゃないか」

「悪いな。階段下りてくる足音聞いたら、一人違ゃうし。そんでキリちゃん捕まってるやん? ほな、助けななあって」

悪びれた様子もなくイーダが言う。そして彼女はチギリの方を見る。

「ダーリン、ウチに会いに来てくれたんか? 嬉しいわぁ」

「……キリ殿が人質に取られることは折り込み済みですか」

「いややわ。ウチ、そんな計算高い女違ゃうで?」

顔の前で手をぱたぱたと振るイーダ。

「ま、ダーリンらがタイっちゃんとニキちゃんに勝つっちゅうのはわかっとったけど。どや? あの二人強かったやろ?」

「……ええ。タイチ殿は立派な剣士でしたよ」

チギリが言った。

「いや、全然強くなんかねえ」

横からガムが言う。

「あいつらは平然と他人を害してきた。そして自らの命も省みなかった。強いのは戦い方だけだ」

「ウニ頭ちゃんは辛辣やな。ま、終わったことをどうこう言ってもしゃあないし。お嬢が話あるゆうから聞いたって」

ガム達に背を向け、部屋の奥に向かうイーダ。部屋は地下とは思えないくらい広く、天井が高かった。しかし長い間使っていなかったようで、床に敷かれている赤い絨毯は痛み、石作りの壁には所々にひびが入っていた。壁には等間隔でランプに火が灯っている。部屋の奥の壁際に、時の三女神の石像が据えられていた。

そしてその手前に、黒い車椅子に座ったニャギがいた。

対峙するガム達から見て、ニャギの左にキリ、右にイーダが立つ。キリの両手を縛っていた縄は、イーダによってほどかれていた。

イーダの右には巨大な砂時計が設置されていた。砂時計上の段には砂が、下の段には鉄の檻に閉じこめられたジャンの姿があった。砂時計の真ん中のくびれたところはガラスが繋がっておらず、薄い板が挟まれている。その板が上の段の砂をせき止めていた。

「ジャン!」

「ジャン殿!」

ガムとチギリが言った。

「お前ら……、何で来たんだ!」

ジャンがガム達に叫んだ。

「お前を助けるために決まってるだろうが!」

答えるガム。

「こいつらの狙いがエウァなのはわかってるだろ!? エウァが殺されれば世界は終わる。おいらにかまってる場合じゃないだろ!?」

「お前にはぜひ『修復』をやってもらわなけりゃならない。そんでそれとは別に、お前はクジョウに帰らなきゃならねえんだよ。ゴウゾと町の人のためにもな」

「…………!」

「嫌とは言わせねえぞ。そんな腕と若さを持ちながら引退はさせん。日々不条理な依頼を受けて苦労してる俺がアホみたいだろうが」

「あんたアホなのか? これは世界の危機なんだぞ?」

「世界の危機より俺の生活の危機だ。エウァの依頼を果たさないと、俺は明日食べる飯にも事欠くんだよ。エウァの命を守るのはもちろん最優先だ。お前を助けるのはそのついでだ」

「……はあ。あんたと話すと力が抜けるな。じゃあ、ちゃっちゃと助けてくれよ。このままじゃ、趣味の悪い処刑をされちまう」

砂時計の上の段を指さしながらジャン。

「任せておけ」

ガムが答える。そのガムを見てチギリが言う。

「ガム、帰ったらまず君は貯金を始めろ」

「ああ、検討するよ」

「無駄話は済んだか? 下衆ども」

車椅子の上からニャギが言った。

「貴様等はどうせここで死ぬ。希望など持たないことだ」

「よう、ニャギ。また会ったな」

ガムが言った。

「気安く名前を呼ぶな。忌々しい」

「可愛い名前じゃないか。似合ってるぜ?」

「口の減らん男だな。死にたいのか?」

ニャギがガムを睨む。ガムはその圧力に冷や汗が吹き出た。

「おお、怖ええ。……で、俺たちに話があるそうだが、なんなんだ?」

「そこのグロピウスの娘をよこせ」

あごでエウァを指すニャギ。

「ん? 最初にキリは、俺たちがタイチとニキータに勝ったら、ジャンを解放するって言ってたぞ?」

「それは嘘だ。そんなうまい話があるものか」

「やっぱりそうか」

ガムは半ば予想していた。相手の狙いはエウァの命だ。ジャンを解放する条件にエウァが関わらないのは不自然だ。

「イヤだ、と言ったら?」

「そこの修復師を殺す」

あごでジャンを指すニャギ。

「それはできない相談だ。お前はエウァを殺す気だろ? エウァが殺されれば世界はそこで終わりだ。言ってみれば、ジャンが死んでも世界は続く。修復師がいなくなれば世界は悪い方にずれていくんだろうが、終わるよりはマシだ。俺はそんな世界になろうと、ちょっとでも抵抗したい」

おいらを助けに来たんじゃないのかよ、とジャンがぼそっと言ったが、ガムは聞こえない振りをした。ガムの言葉に対して、ニャギが言う。

「絶対に殺す、というわけではない。ただ『継承の儀』を私に行わせるだけだ」

「『継承の儀』?」

ガムがニャギに問う。

「そうだ。グロピウス家に伝わる伝承儀式だ。お前は資格者なんだろう、グロピウスの娘よ?」

ニャギがエウァに言った。

「……よく知ってるね。確かにボクは資格者だ。だけど、あの儀式は本人の強い意志がなければ、心から願わなければ決して継承されない。無理矢理やらせたって無駄だよ。形だけ真似たって意味がない」

ニャギの考えを真っ向から否定するエウァ。

「継承させてやるさ。そのためにはお前をむごい目に遭わせてやる。なんならお前の家族を血祭りに上げてやろうか?」

「脅したって無駄だよ。ボクはグロピウス家次期当主として世界の時を正す使命がある。それに、ボクの家族はキミ達になんて屈しない。力で攻めようとも、最後まで戦い抜くよ、ボクの家族は」

エウァがきっぱりと言う。

「キミはなんで世界を憎むの?」

ニャギに問うエウァ。

「この世界はいいことばっかじゃない。みんな戦争だったり、病気だったりで苦しんでる。……ボクもついこのあいだ、家族を失くした……」

ヤクシの郊外の草原で、矢に胸を貫かれて死んだ一人の盗賊。決して、殺されて当然のことをしたわけではなかった。だが、不条理にも死んだ。その彼女を思い出し、エウァ唇をかんだ。

「だけど、悪いことだけでもない。ボクにはボクを支えてくれる大事な友達がいる。それはキミもそうじゃないのかい?」

エウァがニャギに言う。

「……小賢しい……! お前が私をわかったような口で語るな……! お前みたいな『良品』は『不良品』を見下すことしかできないんだからな」

「……『不良品』?」

エウァがつぶやく。

「そうだ。この世界には『製作者』がいる。そして『制作者』は世界を『時計』として創った。『時計』を作り上げるのに必要な部品……それが我々人間だ。だが『製作者』は精巧な『時計』を生み出すために数多くの部品を作っているが、なにかの気まぐれか偶然で規格外の部品が作り出される。それが決して『時計』に組み込まれることのない『不良品』だ。『不良品』は世界に必要とされない」

「キミは、自分のことを『不良品』だって言うのかい?」

「そうだ。見てみろよ、私の体たらくを。自分ではどこにも行けない。何もできない。用を足すのだって人の手を借りなきゃできないんだ。世界はなんで私をこんな風にした? 私がいつ、こんな体に貶められるほどのことをしたっていうんだ? 経過がどうあれ、私は『不良品』さ。世界に対してなんにも役に立たない。このはがゆさが分かるか、『良品』?」

「キミは間違ってる。……ボクは、もちろんキミだって世界の一部であっても、モノなんかじゃない。ボクらは人間なんだ。『良品』や『不良品』なんていう分け方はできない」

「はっ。それは五体満足な人間のセリフだよ、グロピウス。お前に、お前の手足を切り落とす覚悟はあるか?」

「……それはできない。ボクには使命がある。そのためにこの手足は必要だ」

「だったら同情じみたこと言ってんじゃねえっ!」

ニャギが怒鳴る。その顔には汗が吹き出ていた。

「私と同じ目線で語ってんじゃねえよ『良品』がっ! お前みたいな奴は私を見下してればいいんだっ! 憐れんで、優越感に浸れよ! そのほうがぶっ潰しがいがあるってもんだ!」

「……キミは『資格者』になって、何をするつもりなんだい?」

「決まってる。世界をぶっ壊すんだよ」

即答するニャギ。その言葉に、エウァはぞっとした。『機構部の一族』を受け継ぐことは世界の心臓となること。世界を壊すことは、世界の心臓を壊すこと。ニャギが『機構部の一族』を継承した後に行うのは自死だと、エウァは察した。

「だったら、なおさらキミを『資格者』にするわけにはいかない」

「ああ? また同情かよ。お優しいことだな」

「キミにはキミを必要としてる人がいるでしょ? キリとイーダがそうじゃないの?」

「こいつらは私の駒だよ。お前が思ってるような素敵な関係じゃない」

「だとしても、キミに尽くしてくれるキリを、一緒にいてくれるイーダを世界ごと道連れにしようっていうの? そんなの自分勝手すぎるよ!」

「黙れ。お前のものさしで私達を測るな。恵まれたお前には一生わからんよ。世界から弾き出されたモノの気持ちはな」

吐き捨てるようにニャギが言った。

「キリは、それでいいの!?」

エウァがキリに問う。

「私はお嬢様の命に従うだけです」

「イーダはどうなの!?」

エウァがイーダに問う。

「ウチはお嬢がおらな、おもんないねん。それにお嬢はウチのこと駒やうけど、ウチはお嬢を友達や思っとるし。最後まで付き合うのが義理っちゅうもんや。悪いな、エウァちゃん」

眉間にしわを寄せ、申し訳なさそうにイーダが微笑む。

「……ボクはこの世界が好きだ。お爺様、お婆様、お父様、お母様、使用人のみんな、チギリ、ガム、今まで出会った皆、もちろんジャンも。大事な人が生きているこの世界が大好きだ。皆に笑っていてほしいから、ボクはこの世界を守りたい」

「綺麗事だな。くだらん」

ニャギがにべもなく言った。

「綺麗事だっていいさ。世界に勝手に絶望して、子供みたいなワガママ言ってるキミよりずっとマシだ」

「なんだと……? ……もう一度言ってみろ……!」

ニャギがエウァを睨む。

「何度でも言ってやる。キミはボクなんかよりずっとガキだ。自分の体が動かないのを盾に取って、癇癪起こしてるクソガキだよ」

エウァの両手にぐっと力が入る。

「…………!!!!」

エウァの挑発に、ニャギの殺気が一段と膨らんだ。ニャギの殺気を感じ取ったイーダが間に入る。

「エウァちゃん、今のは聞き捨てならんわ。撤回しいや」

だが、なおもエウァは怯まない。

「やだね。イーダだって、ニャギを友達だって言うんなら止めるべきだ。無茶なことをしようとしてるのに」

「絶望の果てまで付き合うのが、友達としてのウチのけじめや。エウァちゃんはグロピウスっちゅうでかい後ろ盾があるから、のうのうと生きとれんねん。ウチはつまはじきもんや。どこ行っても煙たがられる。誰もウチみたいな漂流者には手を差し伸べてくれん。どっかで野垂れ死んでも、誰も悲しまんのや」

「じゃあ、ボクがキミ達に手を差し伸べる」

エウァが両手を前に伸ばす。イーダはそのエウァの言動にきょとんとした。

「なにうとるん、自分?」

「ボクがキミ達の思いを受け止める」

「ふざけるなっ!」

エウァの言葉にニャギが憤る。

「善人ぶって、英雄気取りか? 世界に必要とされない『不良品』の行き着くところは、ゴミ箱しかないんだ!」

「……自分を『不良品』だなんて言わないでよ。ボクらは人間だ」

「はっ。まだわからんのか。製作者が必要とする部品以外は全て『不良品』なんだよ。これは作られた運命なんだよ。お前は『当たり』で、私は『はずれ』。ははっ。世界はなんて簡単で残酷にできていやがるんだろうな」

けらけらとニャギが笑う。

「……だからボクは世界から運命を人間の手に取り戻す。だから、ジャンを開放してほしい。お願いだ」

エウァの言葉に怪訝な顔をするニャギ。

「何を言っている?」

「『製作者』の意図によって『懐中時計』の修正が行われるのは真実だ。そのたびに膨大な数の人間の命が犠牲になるのも。そしてボクらは世界という『時計』の部品として作られた。世界が正しい時を刻むための部品として。……だけどそんなの理不尽じゃないか」

ロクシーの死は運命で決まっていたというのか。

「自分の生が他人の思うままなんて、悔しいじゃないか」

エウァは思った。ガムとチギリと出会えたのだって、自分が選び取った道だと信じたい。歯車によって定められた未来だったとは思いたくない。

「ボクに考えがある。少なくともキミ達の利害にも一致する」

「おい、エウァ」

ガムが止めに入ったが、エウァはガムに手をかざし、制した。ガムがエウァを止めようとしたのは、エウァが自身の目的を語ろうとしたからだった。相手に自分の腹を晒すのである。そうすればいくらでも敵に付け込まれる。だが、エウァは敢えてやろうとした。それは同時にガムとチギリに覚悟を固める決意をさせる命令でもあった。もし相手が受け入れなければ、あとはもう戦うしかない、と。

言って、エウァはニャギ達に説明した。エウァが考える『懐中時計』の修正方法を。運命を自分達の手に取り戻す。ジャンが帰ってくればそれが実現できると。そして『製作者』に対して一矢報いることができることも。しかし。

「くだらんな」

ニャギの返答はにべもなかった。

「それで私の手足は動くようになるのか?」

その言葉に、エウァは眉根を寄せ、苦い顔をした。

「……それは無理だ。現在の医学で治らない物はどうしようもない」

「なら、却下だ」

「だけど、『製作者』の手から世界をちょっと離すことができる。運命の戒めを解くことができるんだ」

ニャギが大きくため息をつく。

「言っただろう? 私は『製作者』を許さない。だから奴が作ったこの世界を壊す。それ以外に欲しいものはもうない。そしてお前らはこの世界の『抑止力』として遣わされた存在だ。お前らを殺すことで、私は世界に復讐できる」

「『抑止力』だと?」

ニャギの言葉にガムが聞き返した。ポポ山でモゴが口にした『抑止力』という言葉。ガムの心の中でずっと引っかかっていた。

「この世界に仇をなす存在が現れたときに、それを消す使命を持った者のことだ。人間だって病気になったらばい菌を外に追い出し、打ち消そうとするだろう? それと一緒だ。『製作者』はお前らにその役目を与えたんだ。お前らが私を止めようとするのは自分の意志じゃない。『製作者』の思惑通り動かされてるだけなのさ」

「……そうじゃない。俺は、俺達は自分の意志で選択してきた。己の運命を」

ガムがニャギに反論する。

「じゃあこのクソったれな世界で起こってる戦争や、クソ以下の為政者がやってることをどう説明するんだ? 誰が望んで戦争する? 誰が望んで悪政の犠牲になる? 世界を動かすのは上層部の一部の人間だけさ。後は皆そいつらに搾取されるために作られた奴隷みたいなもんだ。まあ、奴隷ならまだいいさ。そいつらと比べて私はどうだ? 『奴隷のほうがまだマシ』と思わないか? 誰だって『自分よりまだ下がいる』ことがわかれば安心するからな」

「お前は自分のことをクズのように言うが、お前に付き合っているキリとイーダに対して申し訳なく思わないのか?」

「なぜだ? おかしなことを言う」

「俺だったらチギリがそんな腑抜けたことを言うようだったらぶん殴ってるとこだ。俺の自慢の友達を、自身に貶めさせたりしない。誇りを持ってほしいから」

「ガム……」

チギリがガムを見る。しかし、ガムの言葉にもニャギはからからと笑うだけだった。

「だから、お前らのものさしで測るなと言っている。私達は全員、この世界が憎いんだ。弱者から先に淘汰され、守られるべき者が心無い者によって害される世界に。私は、そしてこいつらもそんな世界に絶望した。だから壊すのさ。二度と悲劇が起きないように」

「……キリ、イーダ。キミ達もそうなのかい?」

エウァが二人に問いかける。

「ええ。私はお嬢様に従うのみです」

「すまんな。ウチもお嬢と一緒にいきたいからな」

キリとイーダが答えた。ニャギが言う。

「残念だったな、グロピウス。そんなおためごかしで動かせるほど、私達の憎しみは軽いものじゃあない」


『不良品』が世界の歯車ぶっ壊すとこ、見せてやる!


ニャギが言う。

「キリ、砂時計の板を外せ」

「はい、お嬢様」

キリがジャンを閉じ込めた砂時計、その真ん中に挟まれた板を取り外した。砂時計の上からさらさらと下に砂が落ち始める。下の、檻に閉じ込められたジャンに砂が降りかかる。

「うわ、本格的にやばくなってきた……。おい、ガム! 本当に大丈夫なんだろうな!」

ジャンがガムに訴える。

「ああ、任せろ。お前はそこで俺達の応援をしててくれ」

ガムが言う。

「さて、エウァ。交渉は失敗だ。どうする?」

エウァが数瞬沈黙した後、口を開く。

「……ガム、チギリ。お願いだ。彼女を止めて欲しい」

ひどく冷たい、乾いた声だった。それに対して、ニャギが言う。

「キリ、イーダ。グロピウスをやれ」

キリとイーダがエウァに向かって飛び出した。ガムとチギリが彼女らをそれぞれ迎え撃つ。

イーダがハルバードを振りかぶり、チギリに振り下ろした。チギリは右にかわし、ハルバードが床を抉る。チギリがレイピアで振り向きざまにイーダを突こうとしたが、彼女はハルバードが床を抉った反動を利用して、空中で一回転して、チギリの攻撃の範囲外に移動していた。

「ダーリンともっかいやれるなんて、嬉しいわあ」

「僕はできるなら、あなたとは二度と戦いたくなかったですけどね」

「つれへんなあ、ダーリン。お互いに命のやりとりしとるんやし。楽しまな、損やで?」

「僕にはその感覚がわからない。こうしてあなたに武器を突きつけらるだけで、手が震える」

「なんやの? ウチが怖いんか?」

「いいえ」

チギリが床を、右足でケンケンするように叩く。そしてつぶやく。

「あなたを殺さなければならなくなるからだ」

床を蹴って急加速するチギリ。一瞬でイーダの目の前に移動し、レイピアを繰り出した。

ハルバードでチギリの突きを受けるイーダ。レイピアの剣先が上方に逸れ、イーダの右肩をかすめた。イーダがチギリをかわし、チギリは勢いそのままにイーダの後方へ突進し、その身を翻した。

「っつう~~」

右肩から血を流しながら、チギリに向き直りハルバードを構えるイーダ。チギリは再び右足で床を蹴り、イーダに突進する。再びイーダが構えたハルバードに、チギリのレイピアが当たる。レイピアが大きく上に逸れ、剣先が空を突く。大きく体が開いたチギリの腹に、イーダの拳が叩き込まれた。チギリはイーダの攻撃に体のバランスを崩され、宙を舞って床にごろごろと転がった。しかしすぐさま立ち上がり、レイピアを構える。

チギリはエウァを守ると決めた。小さな体を精一杯使って世界を救おうとするエウァを。彼女は世界の人々がちょっとでも幸せに、ちょっとでも笑って過ごせるような世界にしたいと願った。自分はその願いを叶えてあげたいと思った。大きな運命を背負った彼女を。

彼女を守るためには、彼女の宿命を中心にして寄ってくる敵を排除しなければならない。

少しでも多く、困っている人に手を差し伸べてあげたい。

「あなたは、本当にそれが正しいと思ってやっているのか?」

レイピアで突きを連続で繰り出しながら、チギリがイーダに問う。

「正しいとは思わん。ウチがそうしたいからやっとるだけや」

チギリの攻撃をハルバードで受けながらイーダ。

「世界を壊す他に方法は残っていなかったのですか? 自ら破滅を選ぶなんて、僕は認めない!」

チギリの突きをハルバードで防いだイーダが、後方へと押し出される。

「ダーリンはやっぱり優しいな。ウチみたいな女を、元来た道に戻そうとしてくれとる」

イーダがハルバードを構え直す。

「せやけど、前にもうたよな。人は誰をも救うことはできん」

「…………」

イーダの言う通りだった。チギリの望みは弱き者を救うことだ。だが誰かを守るためには他の誰かを排除しなければならない。そして、自分を守れない者は他人を守ることはできない。

「敵をも救おうとする迷いは、本当に守るべき者を危険に晒すねん!」

イーダがチギリに向かって踏み出し、ハルバードを横なぎに振るう。後方に飛んでかわすチギリの頬に、さらに突進したイーダの拳がめり込む。その場で踏みとどまったチギリは、牽制のためにレイピアを振り回すが、イーダはなんなくかわした。そしてイーダの蹴りがチギリのみぞおちに食い込んだ。たまらず後方に飛びのくチギリ。左手で腹を押さえながらせき込んだ。

「ウチを気にかけてくれたことは感謝する。せやけど、こっちにはもう、時間がないねん……。せやから、もうやめようや。手加減するんは。さっきまでの攻撃も、威嚇やろ? 全然ウチの体に当たってへんし。そんな覚悟でウチとやり合おうなんて、お前舐めとんのか」

チギリがレイピアを構え、体制を立て直す。

「……それでも……僕は……」

「ええ加減にせえ。もうウチを怒らしなや」

イーダが再び構える。

「次で最後にしたる。ワレみたいなヘタレは何も守れんまま死ね!」

チギリは選択しなければならなかった。

エウァを守るため、敵を排撃することを。

「それでも! 僕は、あなた達を殺したくはなかったッ!」

チギリが右足を上げ、床に強く叩きつけた。その反動でイーダに、砲弾のごとく飛び出す。対してイーダは、冷静にその間合いを読み取っていた。

「ワンパターンやな! そんなんもう見飽きたわ!」

これまでの攻撃で、イーダはチギリの攻撃を完全に見切っていた。初見でチギリの回転式拳銃リボルバーを全て防いだイーダにとってはわけもなかった。

チギリの攻撃にカウンターを食らわせるため、イーダは一歩足を踏み出した。そのままイーダに突っ込むチギリ。

チギリを完璧に捉えられる! と確信するイーダ。

チギリの体を斬り裂くべく、イーダのハルバードが振るわれた。


◆◆◆


チギリがイーダと戦い始めたと同時に、ガムとキリも戦い始めた。

キリが左手でガムにナイフを放つ。飛来したそれをガムが大剣の胴で弾く。ナイフの軌道は正確にガムの眉間を狙っていた。からん、と乾いた音を立ててナイフが床に落ちる。

ガムはキリを観察する。キリは以前、右手でナイフを投げていた。しかし現在は右腕が骨折しているため、左でナイフを投げている。なのにこの正確無比な投げナイフの腕。おそらく片腕が使えなくなった時のことを考えて、両腕でナイフを投げられるよう訓練したのだろう。

ガムが考察している最中にも、ナイフは次々と飛んで来る。ガムがナイフを弾くと同時に、次のナイフが飛んでくる。ナイフをよけようとすると、よけた先にナイフが飛んでくる。ガムはキリとの距離が詰められず、防戦一方だった。ガムがナイフを弾きながら、キリに向かって言う。

「キリ。俺とあんたは似たもの同士だな」

「……何がでしょうか?」

ナイフを投げながらキリが問う。

「俺は傭兵で、あんたはメイド。職は違うが、主人に従うってところが」

「それがどうかしましたか?」

「似ているが、考えてることは全く逆だ。俺はエウァを生かすため。あんたはニャギを死なせるために命令に従っている」

「否定はしません」

「あんたの、主人に対する忠義は大したもんだ。俺みたいないい加減な人間から見たら、うらやましいほどだぜ」

「それはありがとうございます」

「でもな。なぜ、ニャギを救おうと思わなかったんだ?」

「……お嬢様がそれを望まなかったからです」

「違う! お前は自分で考えるのをやめたんだ!」

「…………」

「『否定はしません』か? あんたの潔さには感心する。だけどな、それは諦めって言うんだ!」

キリのナイフがガムからわずかに逸れる。ガムは一気にキリとの間合いを詰める。それを防ごうと、キリがナイフを投げる。ナイフはガムの頬をかすめが、止めるには至らなかった。ガムはさらにキリに接近した。そして左の拳でキリの腹を打ちつけた。体をくの字に折るキリ。

「~~~~~っ…………」

キリは一瞬体を硬直させたが、すぐさま左手を大きく振るって、ガムにナイフを投げつけた。

「おっと」

キリのナイフがガムの横をすり抜ける。

キリが身を起こし、ガムを睨む。

「あなたにお嬢様の苦しみが分かるというんですか?」

「わからねえよ。だけどそれをいいわけにして、他人に八つ当たりするような人間はろくなもんじゃない」

「始終、体を内側から食い破られるような痛みに苛まれ、最高の知識と技術を持った医者でも手を付けられないと言われた人間の気持ちが、あなたに分かるというんですか?」

キリの言葉に熱がこもり始める。キリがスカートの中から左手でナイフを取り出し、構える。

「昔、屋敷の火事で私を救ってくれたお嬢様に、私は地獄まで付き添います」

キリがナイフを持つ手を引く。


「たとえそれが世界を壊す者であろうとも!」


キリが左手を振り、ナイフを投げる。しかし彼女が放った銀の光はガムのはるか頭上を飛んでいった。

外した? ガムは思った。

一瞬後、ガムに悪寒が走る。と同時に叫ぶ。

「エウァ! 右に飛べ!」

「え!?」

エウァはガムの叫びに、とっさに右に飛んだ。急に飛んだので着地のバランスを崩し、転んだ。

直後。

先ほどまでエウァが立っていた位置の床にキリのナイフが突き立った。

ガムは驚愕した。キリの投げナイフの距離感の完璧さに。

「あんた、いったい……」

「お嬢様に仇なす者は排除します」

キリは負ける訳にはいかなかった。命を救ってくれたニャギのために。だが、自分には恵まれた体格も戦闘のセンスもない。そこでキリが目を付けたのが、ニャギの料理を作っていた時に使用していたナイフである。軽量なため、非力なキリにも扱える。近距離はもちろん、投げれば遠距離の敵も相手にできる。キリは投げナイフこそが自分に合った武器だと確信した。

それからキリは徹底的に投げナイフの鍛錬をした。遠くの敵にも当てられるように、命中精度を磨きに磨いた。半径三十メートル以内であれば、キリに当てられないものはなかった。全てはニャギの目的を達成するために。

キリがガムにナイフを投げる。ガムはそれを剣で弾く。二発、三発、四発とガムにナイフが投げられ、次の一発が再び大きく弧を描いた。エウァを狙った一発だ。エウァはまだ床に転んだままだった。

「エウァ!」

ガムは叫んだが、エウァが自力でよけるのは無理だと思い、全速力でエウァの元に向かった。

ナイフがエウァの頭に迫る。

エウァに突き刺さる直前で、ガムが剣でキリのナイフを弾き飛ばした。

エウァが床に腕を立ててへたったまま、きょろきょろとしている。

「ガム、どうなってるの?」

「キリがナイフでお前を狙ってる。動くな」

ガムがキリに向き直ると次のナイフが飛んできていた。

大剣の腹でナイフを受けるガム。

だが、ナイフは間断なく次々とエウァに飛来する。エウァを守らなければならないガムはその場に釘付けにされていた。

ガムはジャンをちらりと見る。不安そうな顔をしているジャンの体は半分が砂に埋まっていた。

「このままじゃ埒があかねえな……」

ガムはキリのナイフを弾きながらエウァに言う。

「エウァ、俺の背中にしがみつけ」

「うん」

エウァがすぐさまガムの背中にしがみついた。

「走るぞ。絶対に手を離すなよ」

「うん」

ガムがキリに向かって走り出す。飛んでくるナイフを、ジグザグと走ることでよける。そしてキリとの間合いを詰め、ナイフを持つ左手に剣の腹を叩きつけた。衝撃でナイフを取り落とすキリ。

「……腕ごと斬れば良いものを。敵に手心を加えるのはあなた方の悪い癖です」

「……何だって?」

ぼそりとつぶやくキリに問い返すガム。

直後、肩から布で吊っていたキリの右手が、ガムの背中のエウァに伸びる。ナイフを握った右手が。

「お前! その右腕は……!」

「折れた振りをしていただけですよ」

キリのナイフが人間の肉を突き刺した。


◆◆◆


イーダがハルバードを振り上げ、勝利を確信した瞬間。チギリが突き出していたレイピアが急加速した。そのスピードは今までのチギリのスピードを遙かに越えていた。

イーダは瞬時に感づいた。


こいつ、レイピア投げよった!


イーダにレイピアをかわす余裕はなかった。

がきぃん、と金属同士が衝突する音が響く。イーダはとっさにハルバードの柄でチギリのレイピアを防いだ。

しかし、衝突の衝撃でハルバードは中央から真っ二つに砕け散った。砕けた箇所は、今までチギリのレイピアでの攻撃を何度も防いだ箇所だった。

チギリが突進の勢いそのままに、イーダに一直線に突っ込んでくる。


まさか、最初から武器破壊が狙いか……!


「おおおおおおおおおっ!」

チギリの叫びと共に、その拳がイーダのわき腹にめり込む。チギリの手に、イーダの肋骨が折れる感触が伝わってくる。

「ふぐうううっっ!」

体をくの字に折り、うめくイーダ。吐血し、両手から折れたハルバードが放り出され、床に落ちる。

「僕は、あなたたちを止める。たとえ貴方たちの命を奪うことになろうとも」

「……それでこそ男やで、ダーリン……」

うっすらと笑みを浮かべながら、イーダが右手を振り上げる。

「でもなあ、ウチかて負けるわけにはいかんねんっ!」

イーダが歯を食いしばりながら、チギリの頭に右肘を振り下ろした。

骨と骨がぶつかる鈍い音が響く。その衝撃にイーダの右肘は破壊され、チギリの頭から血がしぶいた。両者の意識はそのまま闇に落ちた。

チギリとイーダが相打ちになったのと同時刻。

ガムはとっさに、キリのナイフがエウァに届かないように体をひねった。ナイフはそのまま、ガムの左わき腹に突き立った。

「……ぐうっ!」

ガムはうめき声をあげる。そして背中のエウァをひきはがし、後方に放り投げた。キリの二発目の攻撃から彼女を守るためだ。

「ガム様は残酷です」

ナイフをガムに突き刺したままキリが言った。

「…………?」

「あなたは私たちに進めと言う。この、闇の広がる、先には崖しかない道を」

「…………」

「生きていて希望が持てるのは、もともとそういう道を与えられた者だけです。しかしながら、お嬢様に与えられたのは崖へと続く一本道です。暗く何も見えない中、もがいてもあがいても行き着く先は崖なのです。

ガム様はそんな運命を素直に受け入れろと言うのですか。

私たちは……いえ、私は嫌です。行き着く先が崖なのならば、たどり着く前に抗いたいのです。反撃してやりたいのです。そんな理不尽な道を与えた世界に」

キリがさらにガムのわき腹にナイフを押し込む。

「ぐあああああっ!!」

叫ぶガム。ガムはキリの頭を殴り、キリを吹っ飛ばした。ナイフはわき腹に突き立ったままだ。

わき腹からナイフを取り出すガム。ナイフについた自身の血が、床を汚した。

キリは気を失ったのか、床に横たわっている。

「くそっ……、おとなしそうな顔してやってくれるぜ……!」

悪態をつくガム。

「チギリの方はどうなった……?」

ガムがチギリとイーダが戦っていた場所を見ると、二人は床に伏していた。

「チギリ!」

ガムの呼びかけにもチギリの返事はない。

「チギリ……! くそ。死んだりしたら承知しねえからな……!」

刺されたわき腹を押さえながらガムが言った。ガムは自身も負傷しているが、動けないというわけではなかった。戦場に出れば、刺されることは珍しいことではなかったからだ。負傷しても、死にたくなければ動くしかない。

ガムが背後のエウァを振り返る。エウァは立ち上がり、あたりを警戒するように構えていた。

「エウァ、大丈夫か?」

「うん。ボクは大丈夫。それより何が起こったの?」

「俺がキリにナイフで左わき腹を刺されたが、動けないことはない。チギリはイーダと相打ちだ。どちらも意識を失ってる」

「チギリは大丈夫なの!?」

「……俺の心配もしてくれると非常にありがたいんだが……。チギリはあれくらいじゃ死にやしねえ。それは俺が保証する」

ため息を吐くガム。

ガムがジャンを振り返る。彼は肩まで砂に埋もれていた。

どうやらぎりぎり間に合ったようだ。ガムは、ジャンの隣で車椅子に座っているニャギに言う。

「さあ、勝負はついたぞ。ジャンを解放してもらおうか」

ガムの言葉に、ニャギは不敵に笑った。

「何を言っている? 勝負はまだついていない」

「悪あがきはよせ。お前にその体で何ができる?」

「その言葉、そっくり貴様に返してやる。それとな、私は手足が動かなくても、口だけは動くんだ」

「……何を言っているんだ?」

ガムが不思議そうな顔をする。

「貴様は知らんだろうが、私は『調停者の一族』の人間だ。世界で唯一『時の番人』を止められる一族なんだよ」

数秒後、ニャギの口から、詩のような言葉が紡がれ始めた。

ガムはこれに似た光景を見たことがある。シンシアの『癒しの力』の行使だ。しかし、シンシアの時と違うのは、禍々しい空気がニャギから広がってきたことだった。ニャギの胸元のペンダントが暗く輝く。ニャギに目に見えない力が集まりつつあることを、ガムは感じた。


こいつはやばい。


ガムの本能が、危機が迫っていることを知らせる。一刻も早くニャギを止めないと、取り返しのつかないことになる。

頭より先に体が動く。はずだった。

ニャギに向かって一歩踏み出したガムの体は、そのまま床に倒れ伏した。

「なんだ……体が動かない……!?」

ガムはこれと同じ感覚を前にも経験していた。森でニャギ達三人と遭遇したあの日に。

「しびれ薬か……!」

キリにわき腹を刺されたガム。その刃にはしびれ薬が塗られていたのだ。

「ちくしょう……こんなときに……!」

顔だけを上げ、歯ぎしりしながら悪態をつくガム。そのガムに、エウァが心配そうに呼びかける。

「ガム、どうしたの? 何があったの?」

「エウァ……逃げろ! 今すぐ! ニャギが攻撃してくる……!」

「だめだ! ジャンを助けなきゃ! 世界が終わっちゃう!」

「エウァ! おいらのことはいいから、早く逃げろ! マジで死ぬぞ!」

ジャンがエウァに叫ぶ。

「……ごめん。それはできない。世界を救うのがボクの使命だなんて言ったけど、チギリが、ガムが、ジャンがいない世界なんて意味ないんだ」

ニャギの口から、さらに言葉が紡がれる。ペンダントは次第に輝きを増していく。

「チギリ! いつまで寝てる! ニャギを止めろ!」

ガムの叫びがチギリに届き、チギリは意識を取り戻した。

「う…………」

うめきながら顔を上げるチギリ。

「チギリ! ニャギを止めろ! 俺は薬にやられて体が動かない!」

「ぐ………!」

肘を床につき、必死に立ち上がろうとするチギリ。しかしイーダに打たれた頭のダメージが抜けきっておらず、思うように体が動かない。

ニャギの言葉が止まる。ペンダントは太陽のように真っ白に輝いていた。そして再びニャギが口を開いた瞬間。

ペンダントから放たれた閃光が部屋を埋め尽くし、エウァの体が雷に撃たれた。

音もなく、その小さな体が床に落ちる。

ガム、チギリ、ジャンがエウァの名を叫んだ。

しかしエウァはぴくりとも動かなかった。

「……はっはっはっ……! 『世界の心臓』も大したことないな、グロピウスよ」

ニャギが哄笑する。しかしそれとは対照的に、彼女の顔は青ざめ、脂汗が吹き出していた。

「私は『抑止力』に勝ったんだ……。世界に復讐できたんだ……! く、くくくく……」

くつくつと笑い、床に伏せったエウァを見下ろすニャギ。

「エウァーーーーーっ!」

立ち上がったチギリがエウァの元へよろよろと駆け寄る。チギリはエウァを仰向けに抱き起こし、右手で彼女の頭を持ち上げた。

「エウァ……、エウァ殿……」

チギリの呼びかけに、エウァがうっすら目を開けた。

「……う……、チギリ、なの……?」

「そうです。僕です。しっかりしてください。どこか痛むところはありませんか?」

「……わからない。なにも、感じないんだ……」

チギリの心臓が跳ね上がる。まずい。攻撃を受けたにも関わらず、痛覚がないというのは命に危険が迫っている証拠だった。

ガムがチギリに向かって言う。

「チギリ、デンゼルにもらった薬をエウァに飲ませろ!」

「わかった!」

エウァのリュックサックに手を伸ばすチギリ。そのチギリの後ろ頭に、エウァが両手を回した。

「エウァ殿、何を! 薬を飲めばまだ助かります!」

「……よく聞いて、チギリ……」

かすかに呼吸をしながら、エウァがささやいた。

「……これはボクの最初で最後のワガママだ……。ボクはキミに『継承』する……」

「え……?」

言って、エウァはチギリの額、右頬、左頬、鼻の頭、そして唇に口づけした。

「……えへへ。ごめんね、チギリ。キミに重荷を背負わせちゃって……」

いたずらっ子のように笑って見せるエウァ。額に汗が浮かんでおり、無理して笑っているのがチギリにはわかった。

「……ボクはもう助からない……。でも、キミには、キミ達にはこの世界を救ってほしい……。キミ達が、キミ達の親しい人たちが笑って過ごせるこの世界を……」

「しっかりしてください、エウァ殿! あなたにはまだやるべきことがたくさんあります! そしてあなたを、僕に守らせて欲しいんです!」

「……チギリは優しいね……」


だいすきだよ。


エウァの唇がその言葉をなぞった。

そして彼女の体から力がなくなり、瞳から光が消える。チギリの両腕に彼女の体がのしかかった。チギリは今まで何度もエウァを背負ったり抱き上げたりしてきた。しかし、今腕の中にいるエウァは、今までで一番軽かった。

エウァ殿の体はこんなに軽かったか……?

チギリは呆然としながら、エウァのリュックからデンゼルにもらった薬を取り出した。薬の紙包みを開け、中身をエウァの口に含ませる。そして指でむりやり彼女の喉の奥に押し込んだ。

しかし、エウァが目を覚ますことはなかった。

もう、戻ってこないのか。考えたことはすぐに実行する時の強気な彼女。ガムにからかわれて頬を膨らませる彼女。自分の鈍感さのせいでふてくされる彼女。そして、旅をしている時にふと見せた、なんでもないときに笑う彼女は。

「ああああああああああああああっ!!!!!」

チギリが天に向かって咆哮する。涙はない。しかし、その瞳は後悔と怒りに染まっていた。チギリがエウァの体をそっと床に置いた。そしてゆらりと立ち上がり、ニャギを振り返った。

「僕は、あなたを許さない」

「……ほう、どうやら貴様は『継承』したらしいな。あと一歩のところで、忌々しい……! ならば世界を……、運命を……貴様ごと葬……」

喋っている途中で、ニャギが突然激しくせき込んだ。口から大量の血を吐く。顔中に脂汗を浮かべ、顔色は青ざめていた。

チギリは思い出した。タイチを破った後にキリが『彼にこれ以上時間を裂いている余裕はない』と言っていたことを。もしかすると、ニャギの体には限界が訪れているのだろうか、とチギリは思った。

しかしニャギ自身はそんなことを気に留めた様子はなく、ふたたび呪文を詠唱し始めた。胸元のペンダントが輝きを増していく。

再び不可視の力がニャギの周囲に集まりつつあった。

「そうはさせないっ!」

チギリがニャギに向かって駆け出した。といってもその足取りはおぼつかず、ニャギとの距離はじりじりとしか縮まらない。

「……無駄だ。これで終わりだ!」

ニャギの詠唱が止まり、ペンダントから部屋を埋め尽くす光が発せられた。

次の瞬間、雷がチギリを撃った。

チギリは体をのけぞらせ、床に膝をついた。そのまま顔面から床に倒れそうになるが、肘をついて踏みとどまった。

「……こんな、とこで……死ねるか……!」

熱に浮かされたようにチギリがつぶやく。そして立ち上がろうとする。しかしその体は今にも床に沈みそうだった。

「ちっ……! まだ生きていたか、死に損いが……! もう一発食らわせてやる」

再び詠唱を始めるニャギ。

「もうやめろっ!」

怒声とともに、長剣を携えたガムがニャギに突進する。その左腕の一部は、自ら食い破った跡が残っていた。かろうじて動く口で自らを傷つけ、痛みで薬の効果を無理矢理抑えたのだ。

「うおおおおおおおっっ!!」

ガムがニャギとの間をあと数歩のところまで詰める。ニャギのペンダントがほのかに光っている。

「雷光よ、撃て!」

ニャギの言葉とともに、雷がガムを撃った。

ガムは一瞬たじろぐが、何とか踏みとどまる。

「……こんなもんかよ。お前の恨みとやらは」

どうやらニャギの魔法は、詠唱時間が短いと威力が弱まるようだった。彼女はもう、ガムの剣の間合いに入っていた。手足が動かせない彼女。彼女の命はガムが握っているといってもよかった。しかし彼女は不敵に笑っていた。

「……どうした? 私を殺さないのか?」 

剣を構えて立っているガムに、ニャギが言った。

「もう、やめにしないか?」

ガムがニャギに問う。

「貴様は何を言っている?」

「お前がこれ以上、世界を滅ぼすための行動を起こさなければ、お前の命は助けてやる。だから退け」

ガムがニャギの胸元に剣を突きつける。しかしガムの提案を彼女はせせら笑った。

「……はははっ。馬鹿か貴様は。私が欲しいのは私の命ではなく世界の心臓だ。それが手に入れられるのならば、私の命はどうなっても構わないんだよ」

そもそも取引が成り立っていない。ガムもそれはわかっていた。しかしそれでもガムは思った。エウァが救いたい世界には、敵であるニャギやキリ、イーダも含まれているのだろうと。ニャギが根っからの悪人であれば、キリが彼女につき従い、イーダが彼女につきあっていようはずがないのだ。そんなエウァの意志をガムは、最後に受け継ごうと思った。

「殺すなら殺せよ。今までお前が殺してきた敵と同じように。なあ、元騎士?」

「…………俺は、………!」

ガムの脳裏に、騎士時代に殺してきた人間の顔が蘇る。敵国の兵士、そして疫病に冒された村の罪もない人間が。

「体の自由が利かない女相手に何を怖がる必要がある? 私を傷付けたくないのか? それとも自分が傷付きたくないのか?」

「……俺は、殺したくて、殺したんじゃない」

ガムは、自分が経験した悲しみを二度と繰り返させないために騎士になった。しかし騎士になってしてきたことは、敵国の兵士を殺し、その兵士の家族に憎しみと悲しみを植え付けることだった。

「ここで私を見逃したって、お前が過去に殺した人間に対する罪滅ぼしになんてなると思うな。お前は一生闇の中で生きていくんだよ。自分が殺してきた人間の血にまみれてな」

「……ああ、そうだ。だから俺は騎士をやめた。王国とは違うやり方で人を守ろうと決めたからだ。騎士として俺がやってきたことが許されるとは決して思ってない。だから、傭兵として目の前の人間の手助けをしようと思ったんだ」

ニャギがガムの背後に倒れているエウァに目線をやった。

「依頼人であるグロピウスの命を守ることができなかった。貴様は騎士としても傭兵としても中途半端だな」

「その通りだ。俺は傭兵失格だよ」

「お前は私を敵とわかっていながら、崖から落ちた私を助けた。その結果がこのザマだ。ははははははははっ!」

ニャギが哄笑する。そしてガムを見やった。

「私は死んでも世界を壊す。貴様は自分の無力さを嘆いていればいいさ」

「本当に退く気はないのか?」

ガムが再びニャギに問う。

「くどい。迷っているのは貴様の方ではないのか? ……ならば、選びやすくしてやろう。どうやらグロピウスから金髪に『世界の心臓』は継承されたようだからな……」

言ってニャギは再び呪文を詠唱し始めた。狙いは間違いなくチギリだ。チギリは先ほどニャギに受けた攻撃によって瀕死の状態だ。もう一撃食らえば間違いなく命を落とすだろう。

「……やめろ……」

ガムが長剣を握る手に力を込める。

彼女のペンダントが見る見るうちに輝きを増していく。血のような紅い宝石に、力が集まりつつあった。それは今までで一番のプレッシャーをガムに与えていた。エウァが逝き、そして今度はチギリまで失ってしまう。

「雷光よ、撃て!」

「……やめろおおおおおおっっ!」

ニャギの言葉と同時に、ガムはニャギの胸を貫いた。胸のペンダントも貫くと同時に、まばゆいほどの光がガムとニャギを照らした。ペンダントを伝って、ガムの頭にある光景が流れ込んだ。幼い子供。武器を持った男達。血。内臓。うつろな目。ちぎれた手足。黒。闇。

それらの映像が断片的に流れては消える。破裂しそうな激痛がガムの頭を襲った。

やがて光が収束し、貫かれたペンダントが床に落ちた。

ニャギを貫いた切っ先が背中を突き抜け、彼女の血で紅く染まっていた。

ガムが無表情でニャギを見下ろす。彼女は剣で貫かれているにも関わらず、先ほどと変わらない不敵な笑みを浮かべていた。その口が動く。

「……はははっ。それが、貴様、の、答えだよ」

途切れ途切れに言葉を発するニャギ。

「…………」

「人殺し、は、一生、人殺し、だ」

「…………」

「世界を、壊せ、なかったの、は、未練だが、私は、一瞬でも、抑止力、に、打ち勝った……。それで、よし、と、して、やる……。……ははははははははっ!!」

部屋中に響く大音声で笑った後、彼女は静かに目を閉じた。ガムがニャギから剣を引き抜いた。大量の血が彼女の服と車椅子、そして床を濡らした。

ニャギに受けたダメージのため、ガムは足を引きずりながら、チギリの元に歩み寄った。

ガムは、かろうじて意識を保っているチギリを起こす。

「……う、ガム。ニャギは……?」

「……殺したよ」

「……そうか……。すまない……」

「謝るなよ。仕事だ」

チギリが起き上がり、右膝を立て、床に座る。ガムも脱力したように床に座り、チギリの背中に自分の背を預けた。

二人は背中合わせで座っている格好になった。

チギリがぽつりとガムに言う。

「……今まで一体、何人殺した?」

「……さあな」

「……今まで一体、何人守れた?」

「……さあな」

「……人を守るって、なんだ?」

「……さあな」

「……騎士って、なんだ?」

「……さあな」

「……命って、なんだ?」

「……さあな」

「……世界って、こんなにも軽いものだったのか?」

「…………」

ガムは答えなかった。

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