親殺し

巡ルコト一平

第1話 

 お辞儀をしたら叩かれた。ピシッと背筋を伸ばして45度、流れるようなお辞儀はマナー教室でも褒められた。なのになんで?

「お前は儂を馬鹿にしておるだろう、三郎、長男なのになあ」

 鼻息荒く、開口一番祖父は私にそういった。馬鹿にしているのはこの名前ではないか、と心の中で反論する。

 私は長男でも、名前は三郎だ。祖父が子どもは三人生む予定だからと、腹を痛める母は無視して決定した。だから、長男の私が三郎、弟が次郎だ。太郎はまだこの世に生まれていない。

「申し訳ありません」

 礼儀正しく、もう一度深々と頭を下げる。喧嘩しない、流されるままの、私は、笑顔を返す。大丈夫、いつもこの困り笑顔で私は危機を乗り越えてきた。

「なんだその気持ち悪い笑顔は? お前は儂を馬鹿にしているのか!」

 祖父には私の笑顔が中途半端だったようだ。

 私はこんなときは黙っている。

「いたい!」

 やはり、頭をはたかれた。

「お前は本当にできが悪い、な、三郎」

 ワハハと店の中でも構わずに私を大きな声で僕を馬鹿にする祖父。

 その様子はむしろ、私の馬鹿さ加減を店内の人々に広めたいのかと疑ってしまうほどだ。

 だが、祖父のコネで会社員にしてもらっている私は逆らえない。

 というか、私は会うごとにこうして、馬鹿にされるが、本当に私は馬鹿なんだろうか。目が合った店員にお辞儀をする。若い女性店員さんは動揺しながらもプロ意識なのか、微笑みを崩さず礼を返した。私は顔が赤くなった。

「本当に勘弁して下さいよ、おじいさま」

 杖で叩かれた頭をさすりながら祖父に笑いかける私。

「さてと、まあ、込み入った話はこの奥で話そう、なあに、心配ない、儂が決めた通りに事は動いておる」

 祖父の声を聞きながら、私は今日弟によって殺される父のことを思った。

 --父は道場を経営していた。しかし、いつも閑古鳥が鳴いていた。

 だから、いつも、なし崩し的に、私と弟は、父の一番弟子であった。

 唐の聖人が丸い池に釣り竿をゆっくり垂らして、釣れるとも分からぬ時間を楽しむように父は、今日も今日とて、私と弟の肩を竹刀で叩いた。

 父が悟りの境地を開いていたかは、学校に通い始め、ようやく自分の名前を漢字で書けるようになったばかりの私には分からなかったが、でも、頭ではなく、肩を打ったという事実が少なくとも、感情にまかせっきりというわけではないことは幼子心に、感じるものだった。

 とはいっても、私は、幼い弟が涙を流し、父の竹刀を受けているところを見ていると、その当時の、自分を僕と呼んでいた頃の私は逃げ場のない感情の渦巻きに涙を流さずにはいられなかった。いや、同情ばかりではなかっただろう。きっと、当時の私は、弟の痛みをそっくり私の痛みに変換していたのだ。痛いのは嫌だった。 

 だが、武道は痛みへむしろ進んで突き進まなければならない。

 脳しんとうを起こしてうつむけに倒れ、表情の見えない弟の頭を見下ろしたら、腹が立った。

 私は、父にタックルして、ぽかぽかと殴り、思う存分の罵詈雑言を父に向かってぶつけた。涙が頬を流れた。

 父は私をはねのけると、弟の側に寄って蘇生を行った。心臓マッサージの要領で胸に手をあて、強く押す。空気の破裂音が聞こえると、弟は息を吹き返した。

 私は安心の気持ちで、目に手をやってわんわん泣いた。

 父は、私の側に優しく近づいて、女性をエスコートするみたいに優しく手を摘まむ。

 勢いよく後ろに捻りあげた。

 私は痛みと驚きで、涙も涸れた。父を見上げた。

 見上げられた父は、腰をかがめて私に目線を合わせると、

「なぜ手を両目に使う? 手ぶらで次に備えておけ、頭に邪魔な荷物が多いと勘が鈍る、だからこんなことで騙される」

  何も分からぬ私はそのまま、泣き面のまま、腕を捻られた。痛さに反応して腕に力がはいる。

「そうだ、良い子だ、お前の腕くんは素直だ、痛いに反応して、しっかり力を入れる、お前は駄目だ、三郎、お前の馬鹿な頭で腕くんの邪魔をしなければ、良い動きをするのに、可哀相にな腕くん、お前は馬鹿な三郎くんのために壊される」

 そう言って、父はさらに深く腕を極めた。ギリギリと骨がきしむ音がした。痛さと恐怖心で、悲鳴を上げる寸前で、腕が緩んだ。私は地面に尻餅をついた。

「なあ、怖いだろう、だがな、考えるころにはもう手遅れなんだ」

 父は私の腕を離して自由になると、門まで来て、外の様子をうかがうと、と大きな溜息をついた。入門希望者こないことに肩を竦めていた。私と弟は顔を見合わせた。

 修繕もせず隙間だらけの道場には閑古鳥が居着いていた。

 そして、ある日の組み手では、父の拳を後ろにスウェーしてかわしたところ、身体が伸びきった私の、顎を蹴り上げた。

「逃げるな! 防御から攻撃への流れが悪くなる、ボクシングのまねごとなどするな!」

  かといって、タックルに迎えば今度は父に闘牛士のようにいなされて、私はコントロールも効かず道場の壁に頭をぶつけ、世界が暗転し、俯けに倒れた。

  目を開けると天井が写る。寝室の布団の中だった。

 次に隣の部屋で父と母がなにやら言い争っているのが聞こえた。

 母は父の行いが信じられないと悲鳴を上げた。子どもをなんだと思っているのかと。

 父の声は聞こえない、母のカンカンとした悲鳴が響く中で私はなぜか、私自身がばつの悪い気持ちになった。腕の痣と、頭のコブが一層痛んだ。

 私は、布団から跳ね起きて、母に向かって抗議した。

 母は目を丸くした。

 私は説明した。確かに父は粗暴で乱暴者だ。でも、この稽古が役に立っている。

 林檎がニュートンの手を離れても、地面に落ちるのは必然だ、この稽古も真理探求なんだ。だから、放っておいてくれ。

 あら、そう、と母さんが静かに頷いた。それから、幾日と経たず母さんは出て行った。

 曇天から雨の滴がポタポタと流れおちた。

 悲しむ間もなく、稽古は続く。

 野ざらしで固い砂袋をたたく毎日。拳の皮が裂けて、血が一滴ずつ地面に垂れるごとに、私は確かに真理へ近づいていると感じた。だが、同時に心の奥底では尻込みもしていた。

 垂れた血を地面が吸って、それが、満杯になると雨が降る。垂れた血を見ながらそんな妄想が日に何度もあった。

 母からのお金が入らなくなり、高校生となった私は年齢を偽って高額のアルバイトを始めた。父はしぶしぶサラリーマンになった。

 夕方に父は帰ってきた。私はコロッケを摘まむ箸を置いて、迎えに上がった。父は眉間に深いしわを刻んでいる。

「今日、上司の指をへし折ってやった」

  鼻っ柱ではなくて? 手で口を覆った。父が言葉で上司を負かす姿は想像できなかった。

 「どうしてだろうな、三郎、俺が間違っているのか?」

 そう丸い目で私に尋ねる父。

 父は、会社で上司に叱られた後で、突きつけられた人差し指を握り込むとパッキリと折ったらしい。

 父はその場で、お役御免となり、家に帰ってきたようだ。

「それは父さんが悪い!」

 私はわざと思いと反対のことを父に向かって言った。殴って欲しかった。

 私は頭を空にして備えた。しかし、拳はとんで来なかった。父は静かにうずくまったまま頭を抱えている。

 私は弟を残して家を出て行った。家を出た私は祖父に泣きついた。

 祖父のコネでまっとうな会社員となって、働いている。

 --「さてと、そういうことでいいか、三郎」

「え、すいません、なにの事でしょうか、おじいさま?」

「聞いていなかったのか、本当にお前は愚か者だ……」

 祖父は懐から出した煙草を一息吸って煙を吐き出すと、灰皿に押しつぶした。

「いいか、もう一度いうぞ、三郎、明日の夜、次郎は父親を殺す、お前はその場に立ち会って、見届けろ、そして、儂に結果を報告しろ、いいな」

 私はぼんやりしていたのだろう。父は、目を見開いて私を見る。

「儂はお前達を目に入れても痛くないほどに愛しておる、だがな、父親は駄目だ、お前は賢明に逃れたが、弟は父親の毒牙にかかった、あいつはもう手遅れだ」

 平然と祖父は言い、ストローで炭酸ジュースを吸い上げる。

「だが、おかげで決闘などと銘打って、師匠と弟子の一騎打ちが成立したわけだ、まあ、その意味では感謝せんとな……さて、お前にはもちろん相当の謝礼をやろう、それが当然だ、対価は常に平等に、お前も平日の真ん中なのだからな、仕事にも差し障りがあるだろう」

「それなら、週の終わりにでも……」

 祖父のひと睨みで私はまたパフェに視線を落としてスプーンで掘り起こす作業に没頭した。

「そして、これが……」

 祖父は声を潜めた。

「拳銃だ」

 黒縁の小さめなトランクケースをテーブルの上にたたきつけた。

 私は次に祖父が声を発するのを待ったが、黙ったままだった。すると、とりとめもなく、

「そうだ、それとな、三郎、もし、あの男、に今日は何の日か、聞いたら、決闘の日だとかなんとか言うだろう、だがな、親殺しの日と名付けたのは、孫のお前達に勝って欲しいからこそだ、当たり前だが、次郎も儂の可愛い孫なんだ、儂はお前達の名付け人だぞ、儂はお前達を愛している」

 パフェで口が塞がれていたので、声を出す代わりに激しく首を縦に振った。

 祖父は私怨で父を恨んでいる。祖父の頭ごなしに決めつける性格と自由人の父は水と油だった。

 「本当に分かっとるのか?」

 訝しげに私の顔を除くと、固まる私に溜息をついて、黙って、レジの人に一万円札を乱暴にたたきつけて店を出て行った。余りは小遣いにでもすればいいということだろう。

 祖父が出た後で、私は、残り8千円分の甘味料を摂取することに全力を注いだ。

 スプーンでパフェのクリームがついたガラス部分を執拗につつく。

 糖分で回った頭で、目の前の拳銃の入ったケースを見下ろした。

 この拳銃はつまり、アレだ。

 もし、弟が父を仕留め損ない、殺されたら、その瞬間、父を撃てということだ。

 祖父はなんでも決めつける。親への反抗の仕方まで決めつけるのだ。

 -寒い日だ。

 昔工場だった廃屋に今夜、父と弟が現れる。縦に長い廃屋でぼろぼろになった廃工場は、無駄な沢山の換気口のせいで、ただでさえ寒いのにすきま風が異常にふいた。私は持っていた煙草に火をつける。煙を吐き出すと幾分か落ち着いた。リュックサックから、携帯を取り出して、祖父と連絡を取った。

「まだ、来ていません」

 裏返った声を抑えて私は報告した。すぐにブツリと携帯は切れた。

 リュックサックには携帯と拳銃、さらに、昨日もらった札束が入っている。金は、仕事を終えるまで手をつけるなと言われている。だから、私は律儀に守った。対価だと仕事終わりに確認するために。

  二人は中々現れなかった。この広い箱とその外に広がる平野を見ていると、野良武士同士の決闘状にも見える。 

 煙草の先が吸い口まで近づいたところで、人影がシャッターをくぐりぬけ入って来た。その膝はビクビクと震えている。眼鏡を掛けて、少しよれた背広をきている男は私が電車でよく見かける普通のサラリーマンらしく見えた。彼は、もたれかかるように柱に寄りかかった。顔からは汗が流れている。血色は悪く、頬骨が浮き出て、痩せていた。まるで、骸骨のようだ。顔つきはだいぶ変わったが、分かった、父だ。

 汗は無数に地面に垂れている。

 父はぎょろつくような目を工場中に這わせていた。

 私は父に目を合わせようとするが、父は目の焦点を合わせないまま、

「久しぶりだな、飯はくっているか」

 とぶっきらぼうに尋ねた。

 私は首を傾けると、父はそうか、と頷いて地面に座り込んだ。

 肩で息をしている。

「どうかなさったんですか、父上?」

 私の問いかけには答えず、父は天を見上げると息を吐ききった。

 祖父に父が来たことを連絡しようと、リュックの中に入れた携帯を取り出そうとした。

「息子は化け物になった」

 父の抑揚のない声は、嬉しいとも悲しいとも聞こえない。

 父は、立ち上がって、大きく伸びをした。準備体操が嫌いな父が準備をしていた。

 屈伸運動をしていると、

 刀の白い刃と爛々とともる二つの丸い光だけが、懐中電灯のように浮かんでいた。近づくにつれて、容貌が立ち現れてきた。

 刀を持った一人の男がいた。若い青年といったところだろうか。目には爛々とした光が差しており、暗い廃屋とコントラストを描いていた。青年の手はゴツゴツとしていた。彼はびくりと眉をつり上げた。視線の先に父以外の人物が写ったためだろう。つまり、私だ。私を注意深く観察するように、凝視している。私は息苦しさに顔を背けたくなったが、我慢した。

 ニヤリと青年は笑った。

 私はふうと息をつく。彼は本当に私の弟だろうか。

 弟はつり上がった眉を下ろして、再び父に目線を下ろす。目には静かな線香の揺らめきに似た火がともっていた。

 刃物が父へ向かって飛んできた。父は身体を前に倒して避けながら、暗がりに向かって、腕を突き出すと、弟を地面に説き伏せた。

「いいな、太刀筋がいいよ、お前は最高だ」

 弟は褒められても、無表情で、目だけは、ギョロギョロと動いていた。

「自分がなぜ倒されたのか、イメージをしているのか、いいね」

 父は笑って、顔に向かって拳をたたきつける。拳は地面に突き刺さった。青年は父の右腕を、恋人を抱き留めるように絡め取ると、懇ろするように父を巻き込んで、一回転した。今度は父が天井を見上げる形となった。

「今度は天井か」

 弟は父の言葉も耳に届いていないのか。一方的に父を乱暴に殴りつけた。苛立っているようにも見えた。殴り方は大ぶりで乱暴で、芯を外している。徒に長引かせているように見えた。目の玉も右往左往している。

 親に物をねだる駄々っ子のようでもあった。父は切れた唇から流れる血を吐き出すと、焦れったそうに話かけた

「ほら、どうした、刀はそこにあるぞ、簡単だ、一刺し、胸に突き立てればいい、な」

 促されることに腹が立ったのか、父をもう一度強く殴りつけると、弟は刀に目をやった。

 刀は二人から少しだけ遠いところにある。弟は刀に向かって、手を伸ばす。

 弟は刀を握りしめた。

 刀を父の腹めがけて振り下ろす。私は固唾を呑んで見守っていた。ん、そんな訳がない。凝固した唾は不思議な粘着性を持って私の喉に絡みつき、苦しさに私は思わず強い咳を二三度うった。

 苦しさから逃れるように私は駆け込んで、父と弟の刃の間に身体を食い込ませた。馬鹿な事をしたものだ。

 後を考えれば私は、痛みについての想像力が欠如していた。注射の針が腕をさすときでさえ、目を背ける私が、その時ばかりは肉に食い込むであろう、鋭い歯の先を、刃こぼれした細かい粒子に至るまでしっかりと見ていた。

 手はいらん。たぶんそう呟いた。

 血しぶきが飛ぶのも構わず降りかかる刃を手で握り込むと、相対する形から、弟と同じ側に回り込み肩をつきあわせて、刀を地面に叩きつけた。傍目から見れば、結婚式のケーキ入刀を行うカップルである。私と弟は一心同体で、しかし、向く先だけは父ではなく地面に向かって、恋人が彼氏に可愛い我が儘を言って意見を曲げてもらうように、ともかく、彼とプラトニックな関係に心の絆を確かめるように、息を合わせ、地面に刀を突き刺した。

 一瞬の沈黙があった。鼻腔をつくのは汗の酸っぱい匂いだ。垂れた道筋の先で刀の歯が輝いている。

 弟は、父から目をきり、私を睨んだ。燃え上がった青色の炎はガスバーナーのようで、私の目を溶かそうとジリジリと燃え上がっていた。

 私は視線を逸らそうと身をひるがえしかけたが、我慢して、代わりに青年の目をのぞき込む。

 --「満足したか?」

 低い父の声で我に返った。私は、ただ原っぱで、呆然と立ち尽くしていた。手には固い感触がある。

 目線の先には弟が苦しそうに、腹を抱えてもがいている姿があった。緑の葉を血で湿らせた。

 横で父が平然と胡座をかいていた。

 刀傷がついたと思った手は白く、代わりに黒い拳銃が握り込まれていた。

 私は拳銃で弟を撃っていた。

 持っている拳銃を自分に使ってやろうかとさえ、思った。

 もがく弟の手の平の皮は何度も破けて、その破けた皮から突き抜けるようにして盛り上がった皮が何十にも重なっている。

「お前、鍛えることを辞めてから何回自慰をしたんだ?」

 私は、銃口を父に向けた。

「グレゴールザムザは、嫌な夢から目覚めたら、大きな化け物になっていることに初めて気がついたんだよなあ、もしかしたら夢の前から化け物だったってこともあるかもな」

 引き金に指を掛ける。父は笑った。

「怒ったか? ほら、撃て、今度は外すなよ」

 指で自分の腹を指さす父、先ほどの刀傷で、身体からは多量の血が流れていた。

 これは、決断ではない。

 弟が作ってくれた流れに便乗する形で、私はいずれ死ぬ父の介抱をしてやっているだけだ。しかも、仕掛け人は、祖父だ。私という人間は行為のどこに立っても、どこにも姿が立ち現れない。

「おい、指先が震えているぞ、どうした、ただ撃つだけだろう」

 五感がバラバラになっていくような感覚だ。目が物を捉えていない。

 足が、フラフラと波打つ。肩が傾く。顔はあさってのほうを向いてる。

 引き金に掛ける指は止まった。私は銃を捨てた。

「どうした、使わないのか? 息子が死んで、俺だけ生き残ったら爺さんは悲しむぞ」

「関係ない」

「は? どういう意味だ?」

 イテテと言いながら、肩をすくめる父から地顔を背けた。

「俺には爺さんと親父の確執も弟の命も関係ない、金をもらって仕事として、事の顛末を見届けた」

 俺はリュックから札束を取り出して、古紙の臭いを吸い込んだ。諭吉の顔も見える。大丈夫、俺は正常だ。

「× × × × 」

 雑音は無視する。

 俺は携帯電話を取り出した。

 祖父にダイヤルする。

「お爺さま、真夜中にもかかわらず電話失礼致します、ご報告します、終わりました、結果は……」

 真後ろでガチャリと音が聞こえた。

 振り返らない。ただ、今は危機に後ろを振り返るよりも耳を澄ませていたい。

 

バキューン。


 これで、おさらばだ。


「お前は本当に駄目だ、三郎、何をやっておる」


 祖父の声だ。祖父はけだるそうに私に拳銃を突きつけた。

 まったく、お前は何がしたいんだ、三郎。与えられた仕事もしっかりこなせないようではお前に会社を任せることなどできんぞ。

 私はゆらりと刀を構えた。イメージは刀が風ならば、身体はそれに揺られる柳だ。遠い昔の記憶をたどる。

 姿勢を低く構えて刀を前に突き出した独特の構えをとる。数え切れないほどに振った刀から生み出した不格好ながらも自分の構えだ。 


 切りつけた。いや、靄を切りつけただけだった。


「父は死んだよ、僕が殺した、赤の他人、第三者の僕が」


 声のする方を振り返った。そこには、長身の女が立っていた。


「初めまして、三男の太郎です」


 祖父がいつも溺愛していた太郎だ。


「いやあ、ずるいよ、どうして、いつもそうかな、僕はいつだって、日陰者さ、母さんと僕は、いつでも日影だ、どうした、まさか、嫌みで言っただけで僕らは初対面でもないだろう?」


 その通りだ。太郎は最初からいた。ただ、私にとって、太郎はどうでも良かった。


「ずるいよね、兄さんは、母さんが心の安定を損ねていたのに、見て見ぬふりをして、クソ親父のところにばかり行って、あげくに僕はまだ、生まれていない? 最初からいただろうが!!」


 あんたらは、結局、見たいものを見たいようにしか見ていない。終わらせて、たまるか、綺麗に終わらせてなんかやるものか。あたしが、あたしが終わらせてやる。女を舐めるな!


 銃を突きつけられた私は、ストンと腑に落ちた。女がわめく姿がとても滑稽であったのはいうまでもない。だが、この胸の痛さは、ただの、虚しさだった。


 私はゆっくりと女に近づいた。女は拳銃を構えたまま、ガチガチと震える指を押さえている。

 私は拳銃を女に突きつけた。


 --「くしゅん」


 首筋に悪寒が走る。風邪をひいたようだ。

 手で口を覆うと鉄の匂いがした。

 見上げれば、雨が降っていた。ポツポツとした滴から始まり、私がいる地面をすっぽり雨の膜で覆った。私は一体誰なのだろうか。そんな疑問が頭を過ぎって、クスリと笑う。

 思春期の子どもみたいなことを。

 明日も仕事に行かなければ。


 いや、だが、行く必要などあるだろうか。

 私は普通を飛び越えてしまった。真っ当な暮らしは望めない、人並みな幸せは得られない。

 ならば、普通でない生活とはどういう……?

 私は右手で目を覆った。暗闇の中にはいつでも安らぎがあるはずだった。

 だが、今ではいくら目を手で覆っても混沌は目の前に広がっている。


 ああ、嘘だ、嘘だ。そんなはずはない。

 私はいつでも、自分をごまかせるはずだ。

 私の足は震えてる。私の手はもう自由に動かない。拳銃など握り込めるはずがない。私の心臓は不安でバウンドする。


 思い込もうとしたが、無理だった。

 私がいくら心臓を叩いてもそれとは無関係に凡庸なリズムを刻んでいた。


「痛い」


 拳銃を強く握り込んだためだ。柔らかい皮は真っ二つにぱっかり破れ、手のひらからは一筋の血がユッタリと筆でなぞったみたいに流れていた。いや、手だけではない。雨が早く血を洗い落としてくれることを願った。


 俺は変わってしまったのだろうか。これは成長なのか、衰退なのか。

 頭では様々な思惑がループして、回っている。なのに、心臓の鼓動は平凡なリズムを刻んでいる。

 落ち着いてないのに、落ち着いてる。

 落ち着いてることに、落ち着かない。

 指針をなくした足をどこに向ければいいか分からない。


 これから私は、ずっとここに立ち続けていなければいけないのだろうか。

 雨が激しく降り注ぐ。

 そうだ。

 雨で地面がぬかるむ前に、とりあえず、さしあたり、母の家へ。

 一歩進むごとにぬかるみが足を吸い込むようだ。いや、しかし、錯覚である。そうだ、前へ進めるのだ。前へ、前へ、階段を昇るように……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

親殺し 巡ルコト一平 @husumasyouzi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る