私に手を付けなかった人

紫ぐれ 麻衣

紛れ込んだプラトニック

肩まで伸びたまっすぐな黒髪、通学の時にはさわやかに髪を束ね、制服も持ち物も校則違反にならないように気を配り、どちらかというと清楚なイメージを崩さぬように心得ている。そんな私の名は北尾有加。昭和の真っ只中、音大付属の中高に通う女学生だった。当時日本には、二つの大きなホールにしか無かったトランペットの音が出るという地面と平行に突き出たパイプのあるクライス社製のパイプオルガンが学校の敷地内のホールと同時に出来てから学費は結構な金額になったらしい。従って私を除いて借家暮らしという同級生は居なかった。

団地暮らしは私だけ。その上、自分の身に起きている事を考えると、どこかの掃き溜めにでも紛れてそのまま埋め立て地にでも連れて行かれ、圧縮されて一生固まっていたい気持ちだった。

クラシック音楽を学んでいる私は定期的に義務で聴く演奏会で、ある時はお嬢様たちである同級生と同化したような気分に浸る。しかし、某海外のボーイソプラノの少年合唱団の合唱を聴いた時、ハイトーンの透き通るような美しい声のその裏側を想像。。規律まみれの集団生活と言う檻の中で成長する小さな少年たちの声の響きが悲鳴のように聞こえるのは私だけなのだろうか?と思うと何か特別な宝物を見つけたような気分で、共に聴いて声の美しさだけに感動している同級生がボンクラに見えて優越感を得られた。どこか、あなたがたと私は違う!そんな風に悪びれる気持ちは同級生たちを羨む心からだったような気もするが。。

一見、清楚なお嬢様風、実態は生まれた時から暴力の虐待も受けていて、見えない檻の中にいる私と規律厳しい少年たちの世界が何となく{はりぼて}のように感じたのかもしれない。


私は声楽科で、ピアノ科の東野恵子とはいつも一緒に帰っていた。私はトウコ(東子)と呼び、トウコは私をユカと呼んだ。特別な親友ではないけれど、帰りの電車が同じ方面だからいつも一緒に帰っていて、私の声楽の試験や、学内の演奏会では時々トウコに伴奏してもらったりしていた。

私の父は当時悪役俳優で、父をよく使ってくれる監督さんの家へ私も一緒にお呼ばれした時、トウコの家の近くで、それを知った監督さんの奥様が気を利かせてくださって、トウコのお宅へ連絡をとってくださり、私はトウコの家に遊びに行ったことがある。

町田の小洒落た一軒家。庭もそこそこあって、家に入ると応接間には大きなグランドピアノが悠然と鎮座していた。比べて、椅子を思うように引けず、人も通れないような窮屈な四畳半にある我が家のアップライトピアノとは雲泥の差だ。

トウコのお父さんは商社に勤めていて良く海外へ行っているせいか、飾ってある装飾品も高級そうな物ばかり。お母さんは専業主婦。トウコが新宿で電話すると、頃合いを見計らってお母さんが町田駅まで車で迎えに来るらしい。私の母は私が十一歳の時に医療過誤で亡くなっている。。その後は。。考えたくもない生活。。

父は私に「あの女(母)が産んだ子だ!」と詰り、その浮気ばかりしていた母が遺言したせいで私は音楽の道へ進まねばならず、父は母と私を同一化し、「手が腐る」と言いながら私を道具で殴り、どうやら私は「ダメな人間」らしい。。


高校三年生の時の文化祭。クラスで何をやるかをみんなで決めた。合唱をしたり、演奏をしたりするサロンのような事をしたい!として許可が下りた。

同級生の殆どがクラシック演奏する中で、声楽科の私が歌ったのは、トウコに伴奏をしてもらって、当時流行り出していたニューミュージック。

愈々、文化祭当日。丁度私が歌っている時、どこかの男子大学生らしき二人が入ってきて、聴き入っているのは感じていた。私の出し物が終わり、トウコと二人で部屋を出ようとした時、声をかけられる。。


「一緒にお茶でもいかがですか?御馳走させてください。」

見上げるとさわやかな笑顔が{僕たちは悪い人ではありません。}とでも言いたげで、私にとって彼の目線はまぶし過ぎた。


{フン!こういうの一番嫌っ!真面目で誠実そうな男なんている訳もない!}

 

ところが、トウコが私のスカートのすそを引っ張って、私を端っこに連れて行った。どうも、声をかけてきた方の学生に一目ぼれしたみたいで、お茶したいというのだ。仕方ない。一緒に付き合う事にする。

聞けば明治時代からあるという由緒正しい?ある薬科大学の三年生らしく、声をかけてきた学生は仁川隆と言っていた。

仁川さんはトウコのピアノも私の歌も同じように褒めながら私たちがどこから通っているのか?いつから音楽を志したのか?等、順番に聞いてきました。

私が「もうそろそろ、行こう。」とトウコに声をかけると、トウコはまだモジモジしていた。お茶を飲める教室を出て、もう一人がトウコに話しかけている隙に、仁川さんは私を呼び止め、廊下の端の方で彼の連絡先が書かれたメモを渡しながら「お付き合いしてください。」と私に言った。。


当時の私はいろんな顔を持って生活していて、家に帰れば、地獄!そして、学校での明るく清楚な私。。ところが、帰る頃には電池切れを起こす!いつも一緒に帰るトウコに、時々「帰りたくない。」と涙ぐんで言葉を漏らした。


地獄。。それは。。


神様って本当に居るのだろうか?勿論答えは簡単。いる筈もない!

そしてもう一つの私の顔。。。それは強い私。。

{どうせ私はあの女が産んだ子だ。落ちるところまで落ちてやる。}

メソメソしている私を叩きのめすもう一人の私が居ないと生きてはいけない。


彼からこっそりメモを持たされたこの日、トウコは「仁川さんって素敵!」と乙女心丸出しで私に話していた。新宿駅で彼女の電話を待つ間、母親とのやり取りを聴いていて、私はトウコに意地悪をしてみたくなったのです。何もかも私より恵まれていて、その上恋までも上手くいかれてはたまったものでは無い。トウコの淡い初恋なんてどのみち片思いなんだから私の手で壊す事で私は優越感に浸れるではないか!

私は帰宅後すぐに仁川さんに電話をして待ち合わせの約束をした。


本性なのだろうか?変化したのか?もう一人の私。。


男の数え方は一本。二本。。一回使い切りのロケット花火。

汚れを消すには泥しか無い

自殺する事ばかりに囚われていた私が生きなおすには、

一夜の花火が必須になっていた。。1本。又1本と。。

どうでもいい相手との交わりは己の体の浄化の儀式。

あの男が京都のロケで居なくなる。私は流行りのディスコへ向かう。

髪を下し、化粧した顔はもう一人の私。

クッキリ引いたアイライン。怪しい目。。少しはみ出す深紅の紅が、

向けようのない不条理と共に、鏡の向こうにあぶりだされる。

ここから朝までが本当の時間。。見知らぬ手垢が私を変える。

朝陽を迎える頃、私はキレイに塗り替わるのだ。

しかし、又あの男によって汚される。。あの男。。私の父親。。。


特別好きでも無い仁川と関係を持つ事等、いとも簡単に思えた。

どうせ、若い男なんて同じようなもの。。左手にはヌード写真、右手は大忙しで、

頭の中はエロい妄想でぐるぐるキャンディ。。仁川だってそうに決まってる。


ある日、私は「今日、仁川さんとデートなんだ。」とトウコに言った。

トウコは泣きそうな顔をしていた。


初デートの時、

一人暮らしの彼の家のある大森駅で待ち合わせ。

天気の良い日だった。。もうすぐ冬を前にした透き通るような空気。。

通りの向こうからやってくるさわやか笑顔の仁川。

その笑顔がキモチワルイ!

早速彼は私を家へ連れて行った。。

{あ!やられるんだな!}って私は思った。


ところが、一向に誘ってこないのです。

手をにぎる事すらしない。珈琲を入れてくれて音楽を流し、学校は楽しいの?とか。歌はいつから好きだったの?とか。ケーキ食べる?とか。そんな会話!

ここ。。喫茶店ですか?といったような会話!。

彼は机の椅子に座り、私は小さなソファーに座らされ、一体何なの?この人。。と段々腹が立ってきた。


私はしびれを切らし、「家まで連れてきて、何故?何もしないんですか?」

と聞く。

すると、彼は、「君は高校生だから、そんな事はまだ早いと思うよ。でも、どうしてそんな事を聞くの?」と。

詰問するでもなく、やさしく問いかけてくる言葉に私は堪らなくなり、涙があふれだす。そして自分の身に起きている事を打明けた。

最初は信じて貰えず、必死に訴えかけているうちに「ここに逃げてきてもいいか?」と聞いてみる。

彼が住んでいたのは、小さな一軒家。

話せば話すほど、二階にも部屋がありそうな彼の家に逃げ込みたくなっていた。

しかし、断られる。。それには理由があって、彼の実家は八王子。通学時間が長いので一人暮らしを始めるも、アパートより家賃が安いこの家は、二階は滑り台のように傾き、一階の一部屋だけを使うと言う条件で住んでいるそうで、それでも危険な家だから近々実家に戻るというのです。

私を家にまで誘ったのは、この傾いた家ともうすぐお別れなのが名残惜しくて、一緒にお茶をしたくなったらしい。

二人で恐る恐る二階へ上がる。本当に滑り台か?というくらい傾いていた。


彼から発する論理立てた会話は私をどんどん現実に戻していった。あの家から逃げたい!という咄嗟のSOSでさえ、よくよく考えてみれば、連れ戻された時、どんな制裁が待っているか分からない。あの男はそんな父親なのだ。

「今すぐ良いアイデアが浮かば無いけれど、きちんとした大人に相談して君の事はちゃんと考える。」そんな事を言われた。けれど、当時の私の心にはまったく届いてはいない。


時間が経ち、帰る時間になる頃、私は学校帰りの地獄行きの女学生に戻っていました。すなわち、私は心の檻の中に再び入り込んで鍵をかけたのです。

彼は私に八王子の実家の住所と電話番号を教えてくれた。

私の連絡先も聞かれたのですが、私はもう二度と彼と会うつもりは無く、滅茶苦茶な電話番号を教えた。大森駅まで送ってくれた彼が私に助ける方法を考えると何度か言っていた記憶がかすむ。改札に入って歩きかけた瞬間、何かに操られるように振り向くと心配そうだった彼の顔は雑踏に紛れて消えた。


ある日の下校時、学校の門のところに彼が待っていました。。

私に「大事な話がある!」と言っていた。逃げる私。。

「君の将来にとって大事な話だ!」と叫び追いかける彼を振り切り、「もう二度と来ないで!」「この人、痴漢です!」と彼が恥ずかしくなるくらいに罵声を浴びせ、振り切った。。それで最後のつもりでした。。


年月が経ち、私は実家を出て、それでも消えない汚れた感覚にとりつかれていた。それはまるで取りこぼしたガン細胞の後遺症の様に沁み込んだ父親の「嫌な感触。」自分の息の根を止めてしまいたい衝動から逃れられず、かといって死にきれず、浄化の儀式は続いていて、何をしてもうまくいかず、住んでいた十一階のマンションから飛び降りようか?迷い、誰かにSOSを出したくなり、否、話すだけでもいい。ぼんやりと手帳を眺めていたら、八王子の住所と電話番号が目に飛び込んできた。


電話をしてみると聞こえてきたのは、若い女性の声。

私が名乗ると「有加さんでしょ?切らないでね!心配していたのよ!」と思いもよらぬ言葉。

見知らぬ女性からそんな風に言われて困惑していると、「彼とお付き合いして、今は結婚して彼の実家で暮らしています。お付き合いを始めた頃からいつもあなたの話を聞かされていました。彼はあなたの事をずっと心配していて、もし、万が一電話がかかってくるような事があったら、必ず、連絡先を聞いてくれ!と言われています。」


この瞬間、今になって思うと私は彼に初めて恋心を抱いたのだと思います。そしてその恋心は瞬時に打ち砕かれた。


若い二人が恋愛をして結婚をする。明るい未来に向けて何よりも二人の為の時間を大切に紡いできた筈。。ただ一点、彼の心に影を落としていたのが、恋人未満の女子高生だった私の不運な影。。それをも含めて彼が時折話す私の事を受容し一緒に支えてきた新妻の愛情に私の瞬間の恋は砕けたのだと思う。


「どうか連絡先を教えてください!帰ってきたら必ず彼が電話をしますから。。」


そんな風に言われる資格は私には無い。高校生ではなくなった私は、事の流れによっては、仁川さんにSOSを出すという建前に加えて、彼を誘惑することぐらいやってのけたかもしれない。。長きに渡り泥水に浸かった私は、いつの間にか体だけではなく心まで汚していた事に気づき、己の何もかもを恥じた。。

気づくと私はその場を取り繕うのに必死になっていた。

実家を出たという事実の上に体裁の良い嘘で論理立てた。

ボロボロになってSOSを出そうとしていた事や醜い心は封じ込め、「今は実家も出て、自活して、元気にしています。昔の事を思い出して、心配をかけたままでしたので、近況を連絡してみたまでですので、どうかそんなに心配なさらないでください。」

「連絡先を聞かないと彼に叱られます。」という奥様を振り切って番号を教えなかったのは、折り返し彼から電話があったら、元気を装いきれなくなる。 彼の声を聞いた途端、きっと心は粉々に崩れてしまい、私は何を言い出すか分からない予感。それでは、この夫婦に迷惑をかけてしまう。


「今、私は大丈夫ですから。。新婚さんなのだから、私の事より、お幸せにしてください。。」と言って電話を切りました。。


この時、何の関係も無かった彼が、たったあれだけのすれ違うような出会いだったのに、そこまで私の事を心配してくれていた事に驚き、感謝しました。

電話を切って、窓の外の夕陽をぼんやり眺めていたら、突然叫びたいくらいに泣きたくなってへたり込む。。あっという間に陽は暮れかけて、あちこち明かりが灯る頃、やわらかい風が私を包み込んだ。。手ですら握られなかった事が私を大切に扱おうとしていた彼の真実の優しさであって、その思いが時を経て私を包み込む風となって現れたような気がした。この時、「あともう少しだけ、生きて行けるよ!」と囁くような風の音を聞いた。。


今思えば、怒涛のような十代を命からがら生きて、己を恥じるという経験はこの時が初めてだったのだと思う。それまでの私は蹴散らかすようにしか生きていなかった。勿論、すぐには立ち上がれず、立ち上がろうとすればするほど、自傷行為は酷くなっていったけれど、到頭どん底に落ちた時、偶然の産物の様に生きがいを得られる仕事を得て、その後を生きて行けるようにこの時から繋がっていたのかもしれない。。

仁川さんに瞬間だけ抱いた恋が己を恥じさせ、私の向かう方向性を無意識レベルで少し変えたのだと思う。

彼の優しさや、思いに今だからこそ濁りの取れた心でありがとうって言える。。

あれは。。きっと。。心の隙間に紛れ込んだ、一瞬の恋だったのでしょう。



           紫ぐれ 麻衣








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