壁打ち

鷲峰すがお

壁打ち

風の強い夜だった。家の雨戸が時折、薬が切れた中毒患者のように暴れている。物置のトタン板がきいきいと泣いている。外を渦巻く風の流れが目に映るかのごとく吹きすさんでいた。まるで台風だな、一郎はパソコンと対峙した状態から窓を向きやり独りごちた。

 窓からパソコンのウインドウに視線を戻し、一郎は引き続き趣味のブログの記事を入力していった。テーマは高校の部活動であるテニスについて。日々の練習メニューや試合の結果、贔屓のプレイヤーの活躍ぶりなどを書き込んでいく。今日の記事はコーチから指摘されたバックハンドの強化方法についてだ。書き込むことで理解が深まると一郎は信じている。

 ふと、風の音に混じって聞きなれた音がすることに一郎は気づく。ラケットがテニスボールを叩きつけるインパクト音、そしてボールがコンクリートに当たる乾いた音、ボールがアスファルトを叩く比較的湿った音、誰かが壁打ちをしている。時刻はそろそろ真夜中というのに、この強風の中、熱心な人だなと一郎は思った。

 いつからだろう、ここ数日、夜遅い時間に壁打ちする音がするようになった。昨日までは深く気に留めていなかった。今日みたいな日まで練習するなんて、きっと試合が近いのだろうな、一郎は見えないプレイヤーにエールを送った。

 一郎は耳を澄ます。一定の間隔で3つの音が聞こえてくる。音で判断する限りではごく一般的な選手だろう。しかしラリーが少しも途切れないことを考慮すると恐ろしいほどのスタミナだ。一郎は音の主に興味を抱き始めた。

 音がする方角と音量から100メートルほど家から離れたところにある駐車場で壁打ちをしているのだろうと一郎は推測した。電灯設備が整っている駐車場で未契約のスペースも多く残っている。近所迷惑を考えなければこの時間でもさほど支障はないだろう。

 一郎はコンビニに行くがてら音の主を見てこようと思い立ち、外着に着替えた。


 玄関を開けた途端強い風が一郎の体にぶち当たった。風の強さは想像以上であった。一郎は壁打ちの主に対して畏怖を覚えた。普通ではない。練習熱心の一言では片付けられない風力であった。

 駐車場に近づくとともに壁打ちの音も徐々にはっきりとしてきた。この時点で見えない選手のプレイスタイルよりも、どんな人間なのかに一郎の興味の比重は置かれていた。

 駐車場は小学校の校庭ほどの広さがあり、1方が高さ約3メートルのコンクリートの壁になっている。壁の上には中規模マンションが佇む。3方は入口以外を高さ約2メートルの金網で覆われている。一郎は金網越しに駐車場内を見渡した。一郎の位置から20メートルほど離れたところにちょうどテニスコート1面分くらい駐車されていないスペースがあり、そこで見えないプレイヤーが壁打ちをしているはずだった。


 シューズがアスファルトを噛む音、ラケットが風を切る音、ボールをインパクトする音、ボールが壁に当たる音、そしてそしてそして。壁打ちをする全ての音が一定の間隔と順序を持って一郎の耳に飛び込んでくる。しかし目の前には、夜の人気のない駐車場で、数台の自動車が駐車されているのみである。どういうことだ? 一郎は眼を見張った。スペースを凝視する。何も見えない。それでも相変わらずそこで音がする。瞬間、姿が見えた。いや見えた気がしただけかもしれない。何も見えない。音が脳を刺激し見えない者の像を結んでしまったのだろう。想像力が一瞬の像を一郎に見せたのだ。また、瞬間、姿が、見えた。2度目なので先程よりも印象に残る。一郎が通っている高校と同じ臙脂色のジャージを着ている女子のように思えた。一郎はそこで気づく。瞬きをする瞬間コンマ数秒その見えないプレイヤーが像を結ぶことに。一郎は瞬きを繰り返してみた。フラッシュライトを浴びるようにして少女の動きが見える。おかっぱ頭の髪の毛が降り乱れる。決して力強くはないが、すべるように体を動かしスイングしている。電灯に当たる彼女の肌の色は土色をしている。強風をものともせず、一心腐乱に壁打ちをしている。その姿を見て一郎の思考回路と運動回路は分断されてしまった。ただ絶え間なく瞬きを繰り返した。

 

 にぶい音がした。ボールがラケットのフレームに当たったのだ。ボールはそれまでの軌道とは別の方向へ飛んで行った。かのように一郎には見えた。

 ラリーは終わった。同時に風も止んだ。音が止んだ。全てが死に絶えたかのように静寂に包まれた。

 一郎も瞬きを止めて瞳を見開いていた。今では目を開けていても少女の姿が見える。少女が一息ついて一郎の方を向いた。

 臙脂色の上下ジャージ姿。黒髪のおかっぱ頭。肌の色は皮膚病に侵されたかのように土色をして荒れている。そして瞳は無く全て白目だった。

 一郎は小さく息を呑む。この世ならざる者に見つめられ始めて恐怖感に包まれた。冷たい汗が背中を伝う。突如、少女が一郎に近づいてきた。手足は動かしていない。少女は地をすべるように移動してきた。

 その姿に恐怖して一郎は小さく悲鳴を上げた。と同時に体が動くようになった。一郎は急いでその場から逃げ出し、全速力で家まで駆け戻った。


 玄関の鍵を掛け2階の部屋まで駆け上がった。息が切れて心臓が爆発しそうになっている。テレビを付け、オーディオの電源をオンにして音楽を流した。

 とうとう見てしまった。一郎は自分で霊感のない人間と思っていた。しかし今見たものを幻覚の類ではなく人ならざる者と確信していた。あの動き、肌、目。一郎はベッドの上で体育座りのまま布団に包まった。

 ふと気付くとあの少女が目の前に立っていた。いきなり一郎の前に現れたのだ。再度一郎の体は脳の命令を無視する。少女は体を一郎の正面に向けたまま、夜航する船を守る灯台のように首をゆっくりと1回転させた。

 少女は部屋にある一郎のテニスラケットを拾い、一郎の前に突き出した。一郎がおそるおそる手を伸ばしラケットのグリップを握る。少女はおもむろに口を開き、断末魔のごとく擦れた低い声で、するよと言った。

               

* * *


5年後、一郎はウインブルドンのセンターコートに立っていた。対峙する相手はこの2年間の4大大会で5度優勝をしている名実ともにナンバーワンプレイヤーだ。一郎はエンドライン上で腰を沈めつつつま先立ちをして相手のサービスに身構えた。相手がボールを天に向かってほおる。獲物に襲い掛かるチーターを思わせるしなやかさと力強さでラケットを振りぬいてきた。時速200kmを超す虹のようなドライブサーブが一郎側のコート内に突き刺さる。一郎は流れるように体重移動を終えバックハンドでクロスに打ち込む。一郎の持ち味はその体重移動にある。今ではスムーサーの異名を与えられ、ここ数年で頭角を現してきた。今日は初のメジャー大会決勝戦だ。クロスが相手コートのサイドライン上に決まる。相手は追うのをあきらめた。リターンエースが決まった。歓声と拍手が一郎を包み込む。一郎はボールボーイの横に佇む、おかっぱ頭で白目の少女に向かって拳を突き上げた。


(了)


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