一方的な因縁に無関心を捧ぐ
淡々と身を躱す彼女の足許に、いくつもの魔法が炸裂する。しかしそのいずれもが猫の娘を捉えることなく霧散した。焔が大理石を舐め、氷が細い足首を絡めとらんと手を伸ばし、風が彼女を刻まんと唸る中、ひらりひらりと身軽に動き回る彼女の姿はいっそ踊っているようにすら見える。何しろその表情には苦悶の色は愚か、汗一つ浮かんでいないのだ。余裕すら感じるその姿は、しかしてひっきりなしに魔法を紡ぐ彼にはそうは映っていないらしい。
「どうしたリュシール!避けるだけで精一杯か!?」
ひらひらと逃げ惑うリュシールに向けて、並べられた簡略式をなぞるように操作しながらアンセルムは高笑いをしている。そら見たことか!先程から何かの呪文を口走ろうとしてはいるが、アンセルムの放つ魔法弾を躱すのに精いっぱいで完成させるに至っていないではないか!『
一方で、乱れ撃たれる魔法を軽々と避けるリュシールは、アンセルムが構築した省略式を見てあることに気が付いていた。リュシールとて一応は現役の軍人だ。こんな正確性もクソもない魔法射撃など、目を瞑っていても躱し続けられるし、なんなら全て相殺したうえで相手に確実に致命傷を与えることもそう難しくはない。
だが、一応名目としては『情報収集の為の捕獲』をメインに据えた戦闘だ。出来るだけ今のうちに相手の損傷を少なく、かつ反抗心を圧し折っておきたいというのが彼女の本音である。別に慈悲ではない。損傷を少なくすればいざという時に口が利けないという状況に陥らなくなるし、反抗心さえ踏み砕いておけば損傷がなくとも此方に従うからだ。人道的かはさておき、合理的な見解ではある。
閑話休題。リュシールがアンセルムの魔法式に着目した理由と言えば、実のところそう難しいものではない。先も述べた通り、反抗心を砕くためである。見たところ彼──リュシールは未だに名前も思い出していない──は、リュシール=シャト=フランシェに強い敵愾心を抱いているらしい。ならばその敵愾心を利用して心を圧し折らない理由が何処に在ろうか。其の為にはまずアレが誰なのかを思い出さなければならないのである。自分は優れているのだ、と喚き散らしているのならば魔法式の特徴を見ればその特徴の一つくらい思い出せるだろう──そんな思惑が故に、彼女の視線は男の魔法式に注がれていた、のだが。
(誰かは思い出せないけど、何をしたかには気付いちゃったなあ)
深々と溜息を吐き出す。ひっきりなしに乱射される魔法のその制御式──その構成式のバランスの悪さ。それは、このネケシタスという施設の結界に施された魔法式によく似ていた。
──さて、どうしたものか。リュシールは思案する。これ以上記憶を探ってもこの男について、彼女が思い出せることは何もないだろう。いい加減頃合でもあるし、回避行動を辞めても問題はあるまい。判断が下されるが早いか、彼女はその場に立ち止まった。
それを諦めと取ったのか、男は笑い声を更に大きくした。耳障りな笑い声は興奮で裏返ったまま「やはり俺の方が優れていたなァ!リュシィィィイルゥ!!」と言葉を紡ぐ。ぎゃはははははと続く下品な笑い声に呼応する様に大きくなる魔法弾は、でたらめな軌道を描きながらもリュシールの元へ飛び込んで──
「
──ぴたり、と。その動きを止めた。
これに驚いたのはアンセルムだ。自身の渾身の魔力を込めた魔法弾が、
「
その前に、と魔法式を展開させて巨大な火球を焼失させる。その場で大きく燃え上がった焔は、瞬く間に霧散した。後には痕跡すら残っていない。
「な、何故……いつの、まに……」
「何故もいつもないでしょ?あんな程度の魔法を喰らってあげる義理もないし、いつからって言うなら最初から準備してたに決まってるじゃない」
思わず漏れた、といった風体のアンセルムのその台詞に、リュシールは鼻を鳴らす。嘲笑まじりのそれは、容易くアンセルムの心を裂いた。憤怒に赤黒く染まるその顔を見下ろしながら、さも楽しそうにリュシールは言葉を続ける。
「そうそう、そう言えば此処の結界式ってあなたの作品でしょ?いやあ、舌を巻いたわ。酷いバランスで崩すのに難儀しちゃった」
くすくすくす。笑い声が冴え冴えとアンセルムの耳を擽る。怒りで沸騰する彼は手元に再び魔術式を呼び出した。魔力を注ぎ込み、幾つもの光弾を発生させる。その軌道を全てリュシールへと向けた。
「黙れ、黙れ黙れ黙れェ!」
無茶苦茶に打ちまくるそれは、しかし彼女に届くことはない。涼しげな声で紡がれたたった一言が、あっという間に戦況を支配する。この先は最早彼女の独壇場だろう、アンセルムがそれを理解できるかは否として。
「
鋭角に向きを変えて、鋭く迫る魔法弾。それを避けるのはアンセルムには無理だろう。殆ど反射的に結界を張る。キン、と硬質な音を立てた障壁は、淡く光を放ちながら魔法弾を弾いて見せた。霧散する魔法弾を編んでいた魔力が視界を白く染めたのに、彼は安堵の息を吐く。
「あらお見事。流石にそれなりには頑丈な結界みたいね」
しかし、それで終わるはずもない。ぱちぱちぱち、という乾いた拍手は結界の目の前から響いた。晴れていく視界のその中心。淡い緑の壁越しに金月の瞳がアンセルムを覗き込んでいた。その瞳に滲む確かな嗜虐心を感じ取り、ひ、と引き攣った声が喉から漏れる。
「でもまあ、壊すだけなら簡単なのよねえ?」
ざあんねんでした。と続いた言葉と共に、リュシールの掌から魔力が流し込まれる。みしり、という嫌な音。巨人が踏みつけているかのような圧に、結界が悲鳴を上げ──刹那、硝子が砕け散るかのように破裂した。
ふぃ、と掻いても居ない汗を拭うような仕草をする彼女に、今度こそアンセルムは崩れ落ちた。冗談ではない、勝てるはずがないだろう。真っ白になった脳に、呑気な声が紡いだ言葉が落とされた。
「ところで、結局あなた誰だっけ?」
──ぷつり、と。最後の自尊心を繋ぎ止めていた糸が切れる音がした。
黄昏のソルセルリー 猫宮噂 @rainy_lance
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