いつか生じる穴の底で

氷菓子

いつか生じる穴の底で

 恋に落ちる、とはよく言ったものだ。


 考えなしに一目惚れすると、本当によく嵌る。恋は盲目とも言うけれど、まさにその通りの現実が、私の足元に開いた大穴の存在を見失わせる。

 どうしてそうなったかな、と振り返ってみても、そこに至るまでの道順はとうに覚えていなくて、ただまっすぐに進むことしか許されていない。後戻りするために落としてきたはずのパンくずは、みんな小鳥に食べられてしまったのである。


 となると、天井の穴を見上げながら、私は地下に広がるこの恋路を辿っていかなくてはいけない。無数に広がる分かれ道の中、その一つを的確に、ときには勘で選びつつ、確実に歩を進めていく他、陽の光を浴びることなんてできるもんじゃない。


 いつか素晴らしい恋がしたい――なんてほざいていた数日前の自分を殴ってやりたい。恋なんてものは、恋愛なんてものは、愛ってものは、唐突すぎて、重たすぎて、私の理想とかけ離れすぎている。天使の羽のように軽いものかと思っていたのに、いきなり両手に一〇キロのダンベルを持たされた気分だ。


「……どうかした?」


 かくして、私は暗い地の底で、恋路を辿っている。

 いいえ。身体の重たい地上で、私は恋に舞っている。


「ううん、平気。あなたこそ、大丈夫?」


「僕は、平気だよ」


「そう、よかった」


 重たいダンベルを両手に、とぼとぼと歩きながら、しかし彼の心配そうな顔を見たくなくて、私は心底幸せそうな笑顔を作る。作り笑いではない、本当に笑っている。ただ、ちょっとつらいだけで、ちょっと苦しい感じがするだけで、大概幸せなのである。


 肉体的疲労はあっても、精神は健康だ。彼と抱き合えば、それだけで疲労はいくらか中和される。全快できないのは、やっぱり元が人間だからなのだろう。受肉した身では睡眠が欠かせないし、食事も欠かせない。それなら性欲だって人並みにまで回帰したような気がする。


「ねえ、次は何を買う? 買ってほしいものはある?」


 私は笑顔を作る。今まで誰にも見せなかったような表情を、彼にだけ見せて、特別感を演出する。それだけが今の生きがいで、それだけが私の人生の根底だ。


「じゃあ、待っててくれる?」


「?」


「いいから」


 彼はそう言って、私のもとから走り去っていく。


 両手に紙袋を持って、遠くからしか見たことのない都会のど真ん中で、私を置き去りにする。少し心細かった。いつも一人でいたから、そういうのには慣れているはずだったのに、彼と出会ってからは一人でいるのがたまらなく苦しい。


 胸に刺さるこの痛みはなんだ、全身を駆けのぼるこの悪寒はなんだ、周囲の視線に恐怖を感じるのはなぜだろう――彼がいなくなると、はじめて下界に降りてきた日を思い起こす。


 右も左もわからないまま、ただ一心に彼だけを見つめていたあの日。私は知らない間に穴に落ちて、アスファルトの上にいた。


 青色の信号機はとうに点滅を終え、赤色に変わっていたころだった。自動四輪の排気音が響く。地響きにも近いその音色に胸が震えて、目の前に迫る鋼鉄のその体躯には絶句したものだ。

 クラクションが鳴る。横断歩道の中ほどでへたり込んでいた足は動かず、頭も真っ白になる。いつか見た、交通事故で死ぬ子たちの視界とはこういうものなのか、と考える私に笑う余裕すらあったのに、身体は怯えきって身動きの一つも取れない。


 ああ、これが恋に落ちるということか、と私は悟った。


 天界の女神は、地上の子供たちに一目でも惚れてしまえば、即座に地上へと堕とされる。神の権能のその一切をはく奪して、どうしてか戸籍やら家やらを確保された状態で、どこかに落とされる。


 私は運が悪かった。都会のど真ん中で、簡単に人を轢き殺せる自動車の道路側に落ちてしまったのだから。しかも、赤信号。これは、歩行者が渡るための信号であって、自動車側のものは煌々と青色の光を放っていた。


 死の概念がなかった身としては、これはこれでよかったのかもしれない。最後は人の身に堕ちて死ぬ――恥辱のものであろうと、ここから天界に戻れる気もしないのだし。


 もうダメか、と諦めて目を閉じる。震える口の端を引いて、私は一瞬だけ笑う。

 目の端からは、どうしてか涙がこぼれた。


「ダメだ――ダメだッ!」


 その瞬間だった。

 彼が私を庇うように抱きしめてくれたのは。

 温かかった、優しかった。強く抱きしめられるのは少し苦しかったけれど、甘い香りと彼の必死な気持ちは私が遠く求めて見続けていた男の子そのもので。


 暗闇の中、急ブレーキの音が耳を突く。アスファルトに倒れ込む衝撃に背中が少し痛かった。数秒も経たず、抱き起された私に待っていたのは、死ではなく彼の必死な表情だった。


「大丈夫!? 怪我はない?」


「え、ええ……」


「よかった、でも、一応病院に行こう? それから検査をして、どこも何もないかチェックしないと。服も汚れちゃったね、クリーニングに出すよ」


「いえ、その……」


「心配はいらないよ、困ったときはお互い様だから」


 そのときの穏やかな笑顔は一生忘れられない。

 思わず頷いてた私は、瞬く間に救急車に運ばれ、いろいろと検査を受けた。擦り傷以外、健康体であると医師に言われた瞬間の緊張の解けた彼の表情は、私に欠けていたものを満たしてくれる幸福に溢れていた。


 だから、私は彼を見つめていた。


 彼のせいで、穴に落ちてしまったのだ。


「お待たせ……って、なにか良いことでもあった?」


 近くにあったベンチで待っていると、ようやく帰ってきた彼が両手にまたなにかを持って帰ってきた。私の顔を見て、両手にあるコーンに乗ったアイスを見比べる彼の顔は、格別に愛おしい。


「ううん、なんでも。アイスなんて殊勝ね、私の好きな味はどちら?」


「うーん……チョコレートかな?」


 左に持ったほうを差し出してくる彼の右手には、彼の好きなストロベリーアイスが握られている。私は悪戯っぽく笑ってみせる。


「残念、どっちもよ。だから、半分こしましょう。あなたも好きでしょ、チョコレート」


「まあ、そのために二つ買ってきたんだけどね」


「やっぱり素敵ね、あなたは」


 チョコレートアイスを受け取って、私は空いている隣を叩いた。ふう、と息をつきながら座る彼のアイスにちょっとだけ口をつけて、その甘さを堪能する。


「おいしいわ、アイスって」


「だろう? でももっとおいしいものもあるんだ、お昼はそこに食べに行こうよ」


「いいわ。楽しみにしておいてあげる」


「うん、任せて!」


 自信満々に胸を叩く彼に、私はまた笑った。



 見上げると、雲があって、青い空が一面に広がっている。


 高層ビルが立ち並ぶその一角に、こうしたベンチと、緑葉樹の木陰は小休憩にぴったりだ。


 都会は見ているだけでも胸がいっぱいになった。田舎の田園風景は、見ているだけで癒された。雨の日は長靴で歩く小さな子たちを応援して、晴れの日はカップルの子たちを見て羨む日々を送っていた。


 飽き足らない毎日に一筋の光が差したのは、偶然か。それとも必然か。

 わからないけれど、ただ一つ言うなら、私はやっぱり運が良かったのかもしれない。


 恋に落ちることがすべて悪いことじゃないと知ったから。


「そっち貰ってもいい?」


「だーめ。これは私の。そっちも私の。あなたには、分けてあげているの」


「えー、さっき半分こって……」


「言ったかしら? いいえ、言ってないかも」


「そんなぁ」


「仕方ない子ね。はい、あーんして」


 子どもたちと恋に落ちるなんて本来ならあり得ないことかもしれない。

 でも、今の私はもう一人の人間であって、女神じゃない。

 これは、神たちに与えられた一つの罰であり、一つの道なんじゃないかと思う。


 彼の笑顔は、私にそんな期待を思わせる。


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