後編
国道を南西に走らせる。
地図はない。
当てもない逃避行。
回る料金メーター。
往く先を照らすヘッドライトの頼りない灯り。
遠景のネオンが帯状に流れてゆく。
工業地帯の無機質な光が海面をきらめかせていた。
左手にガソリンスタンドが見えてくる。
フューエルメーターが半分を大きく下回っているのを確認すると減速してハンドルを左に切った。
少女…アヤナは相変わらず黙ってシートに納まっている。
ジャケットを脱ぐと後部座席へ放った。
「それを被ってシートの下に隠れてろ」
「どうして?」
「ガキは目立つんだ」
返事はなかったがバックミラーに映る少女の姿が消えたのを見てとるとガソリンスタンドに車を乗り入れた。
コンソールボックスに入った厚紙で料金メーターの表示を覆うとセルフサービスの計量機へ車を横付けした。
手早くカードで支払いを済ませ、レギュラーの赤いノズルを給油口へ突っ込む。
黒スーツの男どもを殴ったときに擦りむいた手の甲からはまだ少しだけ血が滴っていて、そこから流れ出る臭いは新聞紙の紙面を彩るインクの臭いとは違ってはっきりと死を連想させた。
重い鉄の塊を走らせるガソリンの粘ついた油臭さも、遠くに見える工業地帯の光も、何もかも死を身近に感じさせる。
人を殴ったせいだ。
余計なことを考えるのは。
こんなことは当たり前だった、以前の人生では。
ただ忘れていただけだ。
もう、俺とは関係のない世界だと思い込もうとしていただけだ。
だが、暴力はいつだって影のように俺の後ろをついて回る。
そういうものだ。
俺はいま、暴力を乗せて、いつ発車するかわからない暴走機関車のような暴力を乗せて、タクシーを走らせているのだから。
給油口にノズルを突っ込んだままシャツの胸ポケットからタバコを取り出して口にした。鼻筋を抜けて脳まで達する煙の息苦しさが俺から不安を取り除いていく。まやかしの快楽。偽りの人生。
俺の居場所はいつだって秩序の側にはない。
カチッと音をたててガソリンを供給していたノズルが動きを止める。
給油口に蓋をすると吐き出された釣り銭をズボンのポケットにしまってドライバーズシートに戻った。
料金メーターの厚紙を剥がしてボックスに投げ込むと、キーを回した。
フューエルメーターが限界まで振り切ってエンジンが駆動する。
コラムシフトのギアを入れてクラッチを繋ぎ発車した。
「もういいぞ」
言うとシートの背に軽い抵抗が加わった。車の車体がわずかに揺れてアヤナの切れ長の青い目がバックミラーに現れる。
「イオンは?」
「やめだ」
「どうして?お腹空いたのに」
「お前、追われてるんだろ?」
「たぶん。いつもの事だからよくわかんない」
「で、いつも殺すのか?」
「さあ…みんなすぐ動かなくなっちゃうから…さっきのおじさんは、死んだの?」
「死んだ。お前が殺ったんだ」
「そうなんだ」
アヤナの全身を濡らす血痕は固まって白いワンピースに茶色い染みを作っていた。大量の返り血。正直、これ以上の面倒事はごめんだ。
一刻も早くこの荷物を降ろしたい。
金さえ貰えればもうこの女と関わる必要もない。そのはずだった。
俺と客との契約はそれで終わるはずだった。
「どうして俺を助けた」
それが俺にとって唯一の問題だった。
少女は俺を助けた。
見捨てて逃げることもできたはずだ。
そうすれば人を殺すこともなかった。
そこまで考えが回らなかっただけかもしれない。
そうも取れる。
だが、それだけじゃない。
あの一瞬、無愛想で無口な少女は俺と積極的に関わる事を決めたのだ。
あの瞬間、どうでもいい他人のはずの俺と少女の間に関係性が生じてしまったのだ。それを清算しなくては、俺はこいつを降ろせない。
これは俺自身の問題だった。
「どうしてって…優しくしてくれたから」
「優しい?俺がか?」
「車に乗せてくれたし、守ろうとしてくれた」
「客を車に乗せるのは俺の仕事だ。厄介事を引き受けるのも…仕事の内だ」
「けーやく?」
「ああ、そうだ」
契約。
まさかガキと交わした他愛もない会話に縛られる事になるとは。
ドライバーといっても俺に雇い主はいない。個人タクシーの事業主は運転手自身で、仕事は俺の裁量でどうとでもなる。
だから俺には俺の仕事の流儀、ルールってやつがあった。
1.金を払えば誰でも乗せる
誰でもというのはアヤナのような身元不明の不審者だろうが、シャブ中だろうが、殺人犯の逃亡者だろうが、誰でもという事だ。
2.料金が発生している間は客の望みを出来るだけ叶える
指定のルートがあればそれを使う。制限速度を越えろというならそれもいいだろう。警察を撒いたこともあったし、ヤクザを病院まで密かに搬送したこともある。今回だってそうだ。アヤナに言われるままに俺は当てのない道中を旅している。
3.無駄口は利かない
そのままの意味だ。
客とコミュニケーションを取って退屈をさせないなどという考えは俺にはない。
客が俺に話せと命じない限り、俺は余計なことは喋らない。必要がない。
既に俺は2と3のルールから逸脱している。望まれもしない喧嘩でヤクザを痛め付け、客に下らない質問を投げ掛けた。
これ以上、深みに嵌まる前に早く少女を降ろさなければ。
「ねえ」
「何だ?」
「おじさんの事、何て呼べばいいの?」
「何でもいい」
「よくないよ!呼び方は大事だし。アヤナの事はアヤナでいいけど…」
「"お前"の好きに呼べ。現にいま"おじさん"と呼んだだろ」
「おじさんは名前じゃないじゃん。名前を教えてほしいんだけど」
ハンドルを指で叩きながら俺はアヤナにわかるかわからないかくらいの大きさで舌打ちをした。
またルール3に抵触している。
しかも今回は2と3の板挟みだ。
当然、優先すべきはルール2だ。
客の望みは何よりも優先される。
「助手席の後ろに書いてあるだろ。それが俺の名前だ」
「漢字とか読めない」
「立花」
「タチバナ?」
「そうだ」
緊張がほどけてきたのか、俺の中の暴力性に親近感を覚えたのかは知らないが、アヤナはヤクザ連中を叩きのめす前よりも饒舌だった。
こうして話しているとそこらへんにいるガキと何ら変わりはないように思える。
だが、彼女は俺が視線を外しているわずかな間にハジキを持った、それなりに場数を踏んでいるであろう男の首を一瞬でへし折ったのだ。
それは、普通じゃない。
少なくとも俺の知る常識の中にそんな女は存在しない。
このまま埠頭に向けて車を走らせ続けても問題の解決には繋がらないだろう。
やはり、どこかで俺はこいつとの関係に一歩踏み込まなければならなかった。
まったく面倒な話だが、血まみれの少女を客として拾った時点で、こうなることはある程度予想の範囲内だったという気も今になればしてくる。
「タチバナって変わってるね」
「"さん"くらいつけたらどうだ」
「サン?サン・タチバナってこと?」
「もういい…続けろ」
「あ、うん。タチバナってアヤナの事、殴ろうとしたり、刺そうとしたり、撃とうとしたりしないなーって。みんな、アヤナのこと見るとそうするのにタチバナはしないでしょ?それってすごく変わってない?」
「変わってるのはお前だ」
「どこが?」
「普通のヤツは誰かに狙われたりしないし、簡単に人を殺したりしない」
「タチバナだって殺したじゃん」
「あいつらは死んでない。少し痛め付けただけだ」
「ウソ!?でも動かなかったよ。アヤナがやった人と同じように」
「同じじゃない」
「ふーん。わかんないや」
命が終わるとはどういう事かを説明するのに充分な言葉を俺は持ってはいない。
特にろくな教育も受けてなさそうなガキに対してならなおさらだ。
それに、俺に命の尊さを説くような資格はありはしない。
俺自身が、そんなものわかっちゃいない。
信号機が視界に入ってくる。
そろそろ工業地帯を抜けて都内を出るころだ。
デジタル時計の表示は午前2時。
赤信号で停車する。
料金メーターが90円加算されて13590円を示した。
ギアをニュートラルに入れて足を投げ出す。
タバコをくわえて火を点ける。
ミラー越しにアヤナの表情を窺った。
特に気にした様子もなかったのでそのまま吹かし続けた。
「タチバナ、お腹空いたよ」
アヤナはランドセルの側面についた金具をいじりながら言った。
信号が青になる。
道の広い国道を往く。
前方にテールランプが幾つか光った。
「上着を着てろ」
ランドセルをシートに放り出してアヤナは俺が渡した制服のジャケットに袖を通した。
「ハンバーグランチでいいよ」
「今は夜だ」
「え?ハンバーグは夜食べちゃダメなの?」
「指でもしゃぶってろ…」
「いじわる」
拗ねたようにアヤナは足をばたつかせる。バックミラーの位置を上方修正してわずらわしい少女の姿が映らないようにした。ガキの話相手をするのもいい加減に疲れてきた。
この車内の会話に限ってルール2と3の優先順位を変えることにした。
無駄口は叩かない。
どうせ次に俺から会話を振る時には事の確信に迫らねばならないのだ。
道の左側に灯りが増えてきた。
市街の灯り。
人々の営みの光。
深夜2時の通りに灯るのは24時間営業の飲食店が放つネオンの光ばかりで、歓楽街を遠く離れても眠らない街の様相が変わることはない。
この国には昼も夜もありはしない。
食いつめた労働者を馬車馬のように働かせて成り立っている。
いや、そんな事はどの国でも一緒だ。
それでも下らない戦争に巻き込まれて死ぬよりはマシだと思って日々を生きるしかない。
法定速度で走る俺の横をバイクが3台連なってすり抜けていく。
小回りの利くバイクは前を進む車を縫うように走り去った。
反対車線には数字をふたつ組み合わせたコンビニエンスストアの看板。
大型トラックが停車する脇にはカップルが手を繋いで身を寄せあっていた。
ばたつく少女の足がドライバーズシートの背面を蹴り上げる。
振動が背中に伝わって身体が前後した。
「やめろ」
「お腹空いた」
「知るか」
「アイス」
ルール2は全面的に見直すべき時期のようだ。
ハンドルを回し交差点を転回してコンビニへ停車すると、クラッチを切ってシートベルトを外した。
「雪見だいふくね」
少女の声を後ろに受けながらシートを這い出し、くたびたれたスラックスのしわを伸ばしてからコンビニに入った。
深夜バイトの外国人が向ける気怠けな眼差しを無視して冷凍庫に近づく。
ショーケースから雪見だいふくを掴み上げるとレジへ行こうとして足が止まった。
ガキのお使いをさせられるだけなのも癪に障る。
酒の棚を物色し、スキットル型のボトルに入ったブラックニッカを選んでからレジへ向かった。
仕事が終わったら一杯やろう。
今はドライバーの飲酒にうるさい時代だ。
何でもかんでも自己責任、では許してくれないのが法治国家だ。
レジでCOOLを1箱を頼んで切れかけのタバコを補充すると再び寒空の下へ戻った。
エンジンを点けたままのクラウンの助手席からわずかに頭が覗いている。
後部座席には口の開いたランドセルと白いシーツへ飛び散った茶色い染みが残されている。
替えのシーツは持ってきていない。
この件が片付いたら今日は仕事納めだ。
「何してる。戻れ」
「いいじゃん、ここがいい」
「助手席はガキの座るところじゃない」
「お金はある」
「好きにしろ」
タバコの箱を抜き取ると1本だけ唇に捩じ込んで袋をアヤナへ手渡した。
100円ライターの安っぽい火でつけられたタバコからは同じように安っぽい味がした。
アヤナがアイスの蓋を剥がしてプラスチックの串でだいふくを口に運ぶと、俺も口の中に溜め込んだ煙を開けたウインドウから外に向かって吐き出した。
鼻に溜まった血の固まりが臭いだして死にたい気分になる。
夜の帳が完全に落ちた深夜の侘しい街はどうしようもなくやるせなさを加速させる。俺はどうして生きているのだろう。
考えても無駄な疑問が頭を駆け巡り、脳味噌を掻き出したいような衝動を紛らす為にタバコの本数を増やした。
横から串が差し出される。
先端にだいふくの皮がついたままのプラスチック串。
「何だ、それは?」
「一個あげる」
「いらん」
「女の子からのプレゼントは受けとるべきだと思う」
「ションベン臭いガキの食べ残しを食わなきゃならんほど生活に困っちゃいない」
少女が頬を膨らませた。
そういった仕草は紛れもなく小学生のそれだった。
家を知らない、両親の影もさせない少女。社会の枠組みから外れてしまった少女。この年で人を殺す事を覚え、ヤクザを恐れず、俺のような男と行動することに何の疑問も抱かない少女。
少しだけ不憫だ。
かといって彼女が車を降りた先の事まで考える義務は俺にはない。
彼女もそんな事は望みはしないだろう。
「アヤナはね、人を探してたんだ。アヤナがちゃんと生きていけるように色々な技を教えてくれた人。タチバナに少しだけ似てる人。…って言っても顔とかじゃないよ。ふいんきとか話し方」
「雰囲気だ」
「何が?」
「いや、いい…父親なのか?」
「父親って?」
「お前を産んでくれたヤツの、男のほうだ。女ならパパとか呼ぶのか?」
「よくわかんないけど…それかもしれない」
「そうか」
少女は常識をほとんど何も知らなかった。
少女の背負ったランドセルは色鮮やかで真新しい。
毎日使っていた物には思えない。
比較的最近買い与えられた、まるで別れを惜しんだ父親が最後に残した思い出のような…
いや、止めよう。
下卑た想像だ。
吐き気がする。
そんな上等な父親がこのガキにいるわけがない。
年端もいかない娘に人殺しの術を仕込むようなヤツはろくでもないクソ野郎だ。
「あいつらはよく来るの。アヤナがどこに行ってもついてくる。ついてきてアヤナの事を…」
「もうよせ」
「聞きたくなかった?」
「お前にどんな事情があろうとお前が望む限り、俺はお前を乗せ続けるだけだ。だから、そんな事は聞いても意味がない」
「けーやくだから?」
「そういう訳でもない」
「え?」
「もう他人じゃねえんだよ」
それ以上は少女の話には取り合わなかった。彼女の差し出すアイスを口に放り込み、側頭部に走る心地よい痛みを感じながら車を出した。
来た道を逆走して都心へと走らせる。
ほんの数分前の考えを述懐し、あり得ないなと自嘲する。
俺は今、自宅へ車を向けているのだ。
この少女をしばらくの間、あの薄汚い、埃にまみれた、カップラーメンの臭いのしみつく1Kの部屋へ匿おうと、そう本気で考えているのだ。
この少女の真新しいランドセルが傷だらけに汚れるまで、きちんとした教育を受けさせてやろうと、そう本気で考えているのだ。
頭がおかしくなったのだろうか。
そうに違いなかった。
俺にガキの面倒が見れるはずがない。
そう思うのだが車は料金メーターの数字を増やしながら確実に目的地までの距離を詰めている。
よせばいいのに法定速度を越えたスピードを出して工業地帯の灯りへと飛び込んでいく。
同じように街へ向けて走る車と並走し、やがて追い抜くとさらにスピードを増した車体が一度大きく前後に揺れた。
車体の揺れに合わせて脳も揺れた気がする。
前向車のテールランプが視界を覆ってカレイドスコープのように景色が回る。
心地好い疾走感。
少女はコンソールボックスの端を指で握りこんで揺れに耐えていた。
小さな身体に120キロの衝撃は少しばかり堪えたらしい。
だが、速度を緩める気はない。
これが一番彼女の目的に適っているのだ。
信号機のない工業地帯の広い通りを出来得る限りの最大速度で駆け抜ける。
トンネルが見える。
あれを抜ければもう都内だ。
前照灯をハイビームから通常の車幅灯に切り替えたとき、バックミラーに猛烈な勢いで背後に迫る車の影を見た。
黒塗りのセダン。
アクセルを踏み込む。
エンジンが唸りをあげて速度計が右に振れようとわずかに揺らいだ瞬間、背中に大きく衝撃が伝わった。
ぶつけられたと感じた時には遅かった。
減速した俺の車の進路を塞ぐように黒塗りが二台でトンネルの入り口を固めた。
急ブレーキで車を止めると上体がハンドルにぶつかってクラクションがけたたましく鳴り響いた。
セダンから男が降りてくる。
4…いや、8人。
後ろの車に乗っているヤツを合わせたらもっとか。
先程よりも多い。
甘かった。
角刈りを殺した以上、追っ手が来るのは当然だった。
ヤクザはメンツを第一にする。
喧嘩でカタギに遅れをとったなんて死んでも言わない。
だが、身内が殺られたら話は別だ。
奴らは全力で報復に来る。
額から血が流れた。
頭を打ったらしい。
さっきまでの全力疾走が災いしてまだ平衡感覚が戻らない。
ハンドルに突っ伏している間にスーツの男はドライバーズシートに近づくと俺の身体を引きずり起こして車外へ連れ出した。
後ろから羽交い締めにされて腹部に二、三発もらった。
脳が麻痺した身体へ吐き気が込み上げたが何とか飲み下した。
背後の男が腕の力を緩めると浮き足だった俺の体は千鳥を踏んで床に転がった。
革靴が地面を鳴らす小気味良い音が幾つも近づいてくる。
俺の側で足を止めると男たちは一斉に蹴りを浴びせかけた。
両腕を引き上げて顔を守るように覆うとがら空きになった腹部に足は吸い込まれていった。
今度こそ吐きそうだ。
奥歯を喰いしばって声が漏れないように堪え忍ぶ。
口の中に血の味が広がった。
「よし。やめろ」
ドスの利いた声がそう言うと腹部から圧力が消えた。
解放された俺は反射的に転がって身体を俯せに横たえた。
そのまま指示を出した男の顔を見上げる。
「立花?お前、立花じゃねえか」
癖毛を無理矢理オールバックに撫で付けた無精髭の男は俺の顔を覗き込むとひきつった笑いを口許に浮かべた。
「尼子…か」
「奇遇、と言えば奇遇か。まさかこんな再会をするとはね。あの頃は同じ立場だったってのにずいぶんと差がついたもんだな」
襟に光るバッジはさきほどの男たちと同じだった。二匹の龍が尾を絡め、天に吠えた浮き彫りの中央に"刃"の文字を踊らせた龍刃会の代紋。
昔はただのチンピラにしか見えなかった男がずいぶんと出世した。
「その女は疫病神だぜ」
助手席から降りたアヤナを尼子は顎で指した。
少女の透きとおるような青い瞳が切なさを帯びて一瞬アスファルトを向いた。
「何の得があるかは知らないがそいつと関わるのはやめときなよ。早死にするぜ。俺もお前もせっかく拾った命なんだ。せいぜい長生きしよーや」
「その言葉、そのまま返させてもらう。いまだにそんなバカやってるようじゃお前こそ早死にする」
鼻で笑った尼子はストライプの入った細身のデザイナーズスーツから銃身の長いリボルバーを取り出すとシリンダーを回転させて玩んだ。
龍刃会の構成員に支給されているのは安物のトカレフのはずだ。
スーツのデザインといい趣味に走りたがるのは見栄の問題なのだろう。
ヤクザはいつ死んでもおかしくはない、文句は言えない、そんな商売だ。
だからこそ今を精一杯に生きる。
見栄を張って格好をつけて自分の生き様を通す。
組に走れと言われれば安い武器ひとつで人の命を奪いに行く男たちの、それはほんのささやかな意地でもある。
「なあ、立花。俺やお前はこの銃の弾みたいなもんだよな。一度、発射されたらもう止まることはできねえ。殺るか殺られるか、てめえの命を担保に博打を打つしかねえ」
「一緒にするな。今の俺はしがないタクシードライバーさ」
「夜中に血まみれのガキを乗せてヤクザをぶちのめすのがタクシードライバーの仕事なのか?」
「違う。それは俺の仕事だ」
それも違う。
自分で定めたルールはもうくしゃくしゃに丸めて捨てられた紙屑のように破棄された。
それもこれもへこんだボンネットに腰かけて沈黙を貫く少女と関わったがためだ。
だが、悪くない。
悪くはない気分だ。
命を担保に博打を打つというのなら、その理由は自分の為より他人の為のほうがいい。
そのほうが人間らしい。
「そのガキの親父はよぉ、ウチらの身内みたいなもんだったんだよ。それがある日突然、あんたらと俺は全く関わりのない人間なんだ、ときた。それで…」
「ごちゃごちゃうるせえよ」
「あ?」
「事情なんて知ったことじゃない」
腹に力をこめると両足を踏ん張って何とか身体を支えた。
「もう関わっちまったんだ。最後まで付き合うしかねえだろうが」
額から溢れる血を拭って靴の中の指を握りこんだ。
視線は尼子がリボルバーの撃鉄にかける親指のみに注視する。
人差し指が引き金に向かって伸びていくのを確認してから俺は腰を落として前屈みの姿勢をとった。
動き出すなら今だ。
両足に力を込める。
銃声が鳴った。
尼子の手は動いていない。
銃口から煙も上がっていない。
親指は撃鉄の上にかけられたままだ。
腕時計の中央にぽっかりと穴が空いていた。手首の骨の間を抜けて突き立った銃弾が時計の文字盤から微かに浮き上がり、やがてそこから米粒大の血液が溢れて流れ落ちた。
視界が回る。
膝から力が抜けて地面へ仰向けに転がった。
紫煙をくゆらせるトカレフの銃口が見えた。
スーツの男たちはいつの間にか俺の周りを取り囲んでいた。
左腕からは感覚が消えて、背筋には震えが走り、唇からは血の気が引いていった。
久しく味わっていなかった懐かしい死の気配。
そうだ。
これが死ぬって感覚だ。
紫色に変わっていく左手の指先を眺めながら俺は何とか笑いの形を口許に浮かべてみせた。
どうせなら右腕を吹っ飛ばしてくれたほうがすっきりした。
罪深い俺の利き腕は残され、左腕で掴んだ平穏とドライバーとしての人生は今、終わりを告げようとしている。
尼子が俺の顔の上に跨がってリボルバーを額に突きつけた。
死が舞い降りる。
心地好い死が…
リボルバーの撃鉄が今度こそしっかりと引き起こされた。
「もうカタギなんだろ?あまりヤクザを舐めるなよ」
視線が交錯する。
喉の奥からも鼻の奥からも血の臭いしか薫らない。
だれか助手席に置いたコンビニの袋からウイスキーを取り出してボトルの蓋を開けてはくれないだろうか。
タクシーの仕事をはじめてから翌日への影響を気にして酒の量がめっきり減った。
浴びるほど飲んだ昔が懐かしい。
アルコールが死の恐怖を慰めてくれたあの頃が。
背後から地面を蹴りつける音が近づいてくる。
地鳴りが背中を伝って鼓膜を震わせた。
視界からリボルバーが消えた。
目の端から端までを覆うように白と赤が混ざりあったスカートの裾がはためく。
少女がしなやかに跳躍して小さな身体から右脚を弾丸の如く打ち出した。
リボルバーに続いて尼子の下卑た笑い顔が視界から消えた。
代わりに現れたのは少女の美しく輝く青い瞳だった。
少女は力無く倒れる俺の身体を引きずって、車にもたれかけさせると胸ポケットからタバコを取り出して強引に俺の口へ捩じ込んだ。
「それでもくわえて待ってて。すぐ終わる」
「お、おい…お前」
言っていることの意味がわからない。
ひとりで奴らを相手にする気か。
それはまともな考えじゃない。
だが…
少女は、アヤナは、そもそもがまともな常識の範疇には納まらない人間だった。
ガキはガキなりに何かを思い行動するのだろう。
そうであるのならば、それは俺が口を出せる問題ではなかった。
血染めのワンピースを可憐に翻し、アヤナは男たちの前に立ち塞がる。
その背中は無防備なのに妙に頼もしく映る。
荒事には慣れたはずの龍刃会の連中のほうが気後れしてみえる。
「ねえ、タチバナ」
「何だ?」
「ありがとう」
「礼を言うには早くないか。それに、俺は礼を言われるような事は何もしちゃいない」
「そんな事ない。アヤナにはあれで充分だった。充分すぎた」
少しだけこちらを振り返ると少女は口の端だけで笑った。
感情表現の下手なヤツだ。
ガキはもっと大口を開けて笑うものだ。
「舐めるんじゃねえよ」
鼻筋をおさえた尼子がリボルバーを手に立ち上がる。
右腕が持ち上がり、アヤナに向けられた。
銃声。
アスファルトが抉れてコンクリが舞い散る。
アヤナの姿はない。
いや、その姿は高く尼子の頭上にあった。
月明かりに照らされて少女の影が浮かび上がり、長い髪が風に揺れて宙に舞った。
空中で足を前後にばたつかせながら距離を稼ぐとアヤナは両脚を尼子の首へ絡めて身体を捻った。
小気味良い音が夜空に響き渡る。
仰向けに倒れた尼子の身体がわずかに痙攣し、それに反応した指先からリボルバーの弾が空へ一発放たれる。
その破裂音が男たちの沈黙を破った。
スーツの連中は雄叫びをあげると一斉にアヤナへ飛びかかり喰らい付いた。
アヤナはまるでダンスでも踊るように男たちの動きを先読みし、するりと包囲をかわすと、指先をぴんと張って手刀の構えを取った。
一番近くにいた男の喉笛を突く。
膨らんだ喉仏の先端が大きくへこんで奥へ吸い込まれた。
口から血を吹いて男が倒れ、真新しい鮮血に再びワンピースを染めたアヤナは別の男に向き直る。
男たちが懐から武器を取り出した。
ナイフや警棒がほとんどだった。
俺はトカレフの男を探して視線を走らせる。
そいつはアヤナの背後にいた。
俺の左腕を撃ち抜いた時のように姑息に背中から銃を向けていた。
感覚を失った手首が疼く。
残った右腕で地面を強く突いた。
車のドアにもたれかけさせた背に力を入れて何とか身体を立ち上げた。
左手首から流れた血が地面を叩く。
くわえタバコに右手で火を点けると一服だけして吐き捨てた。
トカレフの男を視界に入れながら倒れた尼子に近づく。
首の曲がった尼子が固まった右手に握りこんだリボルバーを片手で何とかひっぺがした。
震える手でそいつを構えるとトカレフの男の尻を蹴り上げた。
振り返った男の眉間に向けて一発引き金を絞る。
俺は背後から撃つなんて卑怯なまねはしない。
殺るときは正面から。
そう決めている。
10年以上前に捨てたかつてのルールだった。
アヤナはひとりで多勢を苦もなく捌いている。
男たちの拳を手の甲でいなし、手刀で顎を砕いて、脊髄を断った。
腹部へ打ち出された警棒を掌で包むように受け止めると、膝の皿へ浴びせ蹴りを放って脚を壊す。
後ろからナイフを繰り出した男の腕は肩へ乗せ、肘の関節を極めてへし折った。
アヤナの周りには苦悶の叫びをあげながらのたうち回る男たちが次々と転がっていった。
疲れも見せずに少女は淡々と無機質に自分を害する人間を排していった。
シリンダーから覗く残弾は3発。
撃鉄を起こすと俺はアヤナの横に並んだ。
「殺したの?」
「ああ。お前のせいでムショに逆戻りだ」
「それはイヤな所?」
「ああ。飯は臭いし、人は腐ってる」
「アヤナも行くの?」
「お前は行かない。その為にこんな事してるんだ」
ずっと生きる意味を考えていた。
俺に生き方を教えてくれたのは両親ではなく、教師でもなく、やさぐれて糞みたいな生活を送っていた俺を拾い上げてくれた極道だった。
だから俺にはヤクザな生き方しかなかった。
それしか出来なかった。
だが、それも中途半端だった。
俺には教養がない。
だからシノギなんて何ひとつ出来はしなかった。
俺に出来るのは暴力を誇示することだけだった。
ことさらに力を見せつけ、組のために、何よりも俺に生き方を教えてくれた兄貴の為に暴力を振るい続けた。
そんな時、兄貴が抗争に巻き込まれて死んだ。
当然、俺は報復に出向いた。
対立組織の構成員を血に沈めてサツにパクられた時には何も残っちゃいなかった。
兄貴がいなくなった組織に俺の居場所はなかった。
親父は刑期を終えた後の生活は保証してくれると言ってくれた。
だが、俺にはもう生きる意味なんてわからなくなっていた。
盃を返した俺はカタギになってタクシードライバーを始めた。
犯罪に手を貸す事もあったが暴力とは無縁の生活を手にした。
それでも自分が何の為に生きるべきなのかは見えてこなかった。
今、俺と同じように誰にも生き方を教わってこなかった少女が目の前にいる。
こいつの為に俺の残りの人生を使ってやろうと思ったのはほとんど衝動的な心の動きに過ぎなかったが、それでも後悔はしていない。
こいつはきっとこの先まともな人生なんて歩めるはずがない。
地べたを這いずってもがくように生きていくしかない。
だったらせめて、ガキの頃に自分の為に命を張ってくれた人間がいたと、そう思い返せるくらいの思い出は与えてやりたかった。
俺に兄貴がいたように、こいつにも生き方を教えてくれる大人が必要なはずだ。
穴の開いた腕時計のベルトが千切れて手首を滑り落ちた。
それが合図だった。
正面の男の腹部へリボルバーを撃ち込んで傷口に蹴りを叩き込む。
アヤナと背中合わせで立ち暴力の嵐に身を任せる。
弾を全て使いきると銃身で相手の頭を殴打した。
肉がはじけて骨を砕く感触が生きている実感として全身を震わせた。
血だらけになってふたりで笑いあった。
血の通い合った会話をしている。
さっきまでの実りのない会話よりもよっぽど俺たちはわかりあえている。
俺とこいつは同類だ。
龍刃会のクズ共をひとり残らず地に叩き伏せた時、俺とアヤナは始めて声を上げて笑った。
おかしくてしょうがなかった。
それからタバコを片手で取り出してくわえた。
慣れない手つきでアヤナは火を点けてくれた。
空っぽの心を満たすように煙が旨かった。
「タチバナもこれで追われるよ」
「今までずっと逃げ続けの人生だ。それほど変わらんさ」
「これからどうする?」
「あ?お前、親父を探すんだろ?」
「探さないよ」
「金の事なら気にするな。契約は破棄してやる」
「ありがと。でも違うよ。アヤナ、本当は知ってるんだ。アヤナが探してる人はもう死んでるんだって」
「そうか…なあ、言いそびれてたんだが…」
夜空に乾いた音がこだました。
タバコが口から落ちる。
しまった。
勿体ない。
まだ半分以上残ってるってのに。
拾おうと屈もうとして体勢を崩した。
隣にいたはずのアヤナの顔が逆さに見える。
身体に力が入らない。
腹のまわりが熱かった。
そうか。
撃たれたか。
倒れた男の一人がトカレフを手にしていた。
死ぬのか。
不思議と恐怖はない。
いや、そんな感情はとっくにどこかへ置き忘れてきたのだ。
アヤナがしゃがんで俺の顔を覗きこんだ。
どうでもいい命だったが、こんなガキにくれてやる事になるとは思いもよらなかった。
「タチバナ、死んじゃうの?」
相変わらず感情のこもらないしゃべり方と表情でアヤナは物を言う。
もっとも数時間前に出来た関係だ。
悲しめというほうに無理がある。
ガキってのは淡白な生き物だ。
「ああ。この出血じゃあ助からん。悪いな、途中でほっぽりだしてよ」
「アヤナ、こんなところからじゃ帰れないよ」
「大丈夫だ。お前ならひとりで生きていける」
「タチバナとは仲良くなれそうだったのに残念」
「俺もだよ…」
遠くでサイレンの音が聞こえる。
銃声を聞き付けて誰かが通報したのだろう。
アヤナは保護される事になる。
きっとこいつが何を言ったって警察はまともに取り合わない。
こいつがヤクザをぶちのめした事を知ってるのは俺だけだ。
こいつは誘拐の被害者か何かとして保護され、施設か何かでまともに教育を受け、普通の女になっていく。
それでいい。
その為に死ぬのなら悪くない。
最後の最後で俺は生きる意味を見つけられた。
こいつの中に見つけられた。
それでいい。
悪くない人生だ。
それでいい。
悪くない…
上出来の…
ドライバー・ミーツ・ガール 紅苑しおん @144169
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