エピローグ
翌朝、
ここを出て、もう、二度と戻らない。そう決めた。
人になりたかった。鬼喰いをやめて、人になって、ずっとここで暮らしたかった。好きな人と一緒になって、子供を生んで、年を取って、そんな風に生きたかった。
しかし、できない。
きっと、いつか無理が来る。
鬼喰いとして生まれて、鬼喰いとして育ち、どんなに人にあこがれても、所詮は鬼喰いの化け物。人間社会で生きていく
鬼喰いはもう景都が最後の一人なのだから、鬼喰い同士の諍いなどというものは起こり得ない。しかし、それが景都が余生を平穏に暮らしていける証とはなるまい。多くのあやかしを喰い殺してきたのが鬼喰いの一族だ。それを恨むあやかしもいる事だろう。そして、その恨みを晴らそうと思えば、狙う相手は景都一人しか残っていない。
もし、景都が他のあやかしから狙われるような事になれば、否応もなく淳弘や周りの人達を巻き込む羽目になるだろう。
人の世はあやかしの住み処ではない。そこにあやかしという異分子が紛れ込めば歪みが生まれる。
だから、ここにはいられない。
淳弘達が平穏に暮らしていくには、景都は邪魔になる。いつかそんな日が来てしまう。
──夢を見たのだ。
幸せな夢を見た。好きな人と一緒になって、子供を生んで育てて、一緒に年を取って、幸せだった人生を振り返って死んでいく。そんな未来の夢を見たのだ。とても、とても、幸せな夢を。
でも、それは夢であって、叶う事はない。
だから、帰ろう。生まれ育った山へ帰って、人里を離れて暮らそう。幸せな夢を見た思い出を抱いて、一人で死ぬまで生きていこう。
昨夜、その夢を抱いて一人で死ぬ覚悟をした。
今日、その夢を抱いて一人で生きる覚悟をした。
大好きな淳弘。友達の仇である沙尼の妹の景都を慰めてくれた美佳子。優しくてしっかりした茉莉花とも仲良くなれたかも知れない。
大切な人達を遠くから見守って、その幸せを見届けたら、きっと満足して滅んでいける。
早朝の空気は冷たく、吐く息が白く曇る。
「さようなら、淳弘。どうか、お元気で」
閉ざしたドアに向かって別れの言葉を告げ、静かに背を向けて門を出た瞬間、目が合った。
「行ってしまうの?」
掃除のためにか箒を手にした
「……はい」
「喧嘩でもしたの?」
「いいえ!」
景都は慌てて首を振って、すぐに力なく俯いた。
「……ただ、私はいない方が良いのです……」
「お馬鹿さん」
景都が言うや否や、小雨がぴしゃりと言った。
「好きな人と一緒にいて、いけない事なんて何もありはしないものよ」
「………………」
小雨の言葉に景都ははっとした様子は見せたものの、黙り込んで唇を噛むばかりだった。
「……いいのです、すみません」
やっと、それだけ言うと、景都は深々と頭を下げて、その場から逃げるように歩み去って行った。背後に小雨の溜め息が聞こえたが、それを振り払うように足を速めた。
目の前がぼやけるのは朝靄のせいばかりではなく、いつしか涙があふれていた。
いいものか。何がいいはずがあるものか。
本当は残りたい。ずっと淳弘と一緒にいたい。しかし、もう決めたのだ。
納得などできない。満足などできるはずがない。後悔して、後悔して、泣いて、悔やんで、泣き暮らして、ずっと後悔して生きるのだ。
「淳弘……」
知らず声が洩れていた。
「淳弘……、好きです、大好きです……」
しかし、仕方ないのだ。諦めるしかない。泣いて、泣いて、泣きまくって、諦めるしかないのだ。
「ずっと……、ずっと、一緒にいて……、お料理も教えてもらって……、また一緒にお蕎麦を食べに行って……、お散歩をしたり……、お買い物をしたり……、一緒に色んな事をしたいです……」
あふれる涙が拭っても拭っても追いつかない。袖がびっしょりと濡れて色が変わるほど、止めどなく流れ落ちるばかり。
「お嫁さんにしてくれるって、約束してくれて……、そうしたら、赤ちゃんもたくさん生んで……、家族で……、みんなで……」
諦めた夢が幸せすぎて、次々と浮かんで離れない。どんなに涙を流しても、少しも押し流されて消えていってはくれない。
それでも、景都は泣き続けるより他に何もできず、ただ、泣きながら歩き続けた。
景都が去ってしばらく後、小雨が掃き掃除をしながら待っていると、ようやく血相を変えた淳弘が飛び出してきた。
「おはよう、淳弘くん。もう、行ってしまったわ」
淳弘が何か言う前に、小雨は穏やかに微笑んで、景都が去って行った方を指した。
「早く追いかけなさいな。大事な人を逃してしまうわよ」
「──あ」
荒い息を吐いて言葉を噛んだ淳弘は、いったん、息を呑み込んで頷いた。
「ありがとうございます!」
小雨に一言礼を述べると、淳弘は一気に駆け出して行き、その背を見送る小雨は満足そうに微笑んだ。
「それは、大変よ。色々と苦労は多いわ。でもね、いざとなれば何とでもなるものよ。私だってそうやってきたんですもの。──あら?」
そう一人呟くと、小雨はうっかり気を抜いて飛び出しかけた尻尾を上から抑えて押し込んで、辺りに誰もいない事を確かめて、ほっと胸を撫で下ろした。
淳弘は走った。
正確な行き先などわからない。ただ、小雨の教えてくれた方へ漠然と向かうしかなかったのだが、考えるより、とにかく走った。
あれこれ悩む暇があるなら、その分は足を動かす。景都の姿を求めてひた走るしかないのだ。
ずっと一緒だと約束した。
ずっと一緒にいたいと心から思った。
その気持ちは景都も同じだと信じている。
きっと、景都は一人で色々と悩んで、その結果、出て行ってしまったのだろう。その理由は淳弘も考えれば思い当たる事もあるだろうが、今はそれを考えるよりも、するべき事は別にある。理由は後で本人に聞けばいい。しかし、その本人がいなくては、聞く事もできなくなってしまう。
「景都……」
冬の寒さの中でも、全力で走る淳弘の体からは滝のように汗が流れ落ち、全身から湯気が立ち上った。
「景都……」
肺が苦しかった。心臓が破裂しそうだった。足がパンパンに張って今にも崩れ落ちそうだった。体中が悲鳴を上げていたが、そんなものが無理にでもねじ伏せて黙らせなくてはならないかった。
「景都!」
景都を見つけるまでは、一瞬たりとも止まっていられない。淳弘が走る先には、道行く人達がいて、様々な物があるのだろうが、それらはすべて不要な情報だ。必要なのは、景都の姿、景都の声、それが見えないか、聞こえないか、それだけだ。だから、それ以外のすべてはただの背景に変えてしまう。周りの目に自分の姿がどう映るかなど、気に留めるにも値しない事柄だ。
「景都!」
背景しかない世界を走る。絶え絶えな息の合間から景都の名を叫び、走り続ける。
名を叫んで走り、何度も何度も名を呼んで走り続け、走って、走って、そして──。
──見つけた。
背景の中に浮かぶ鮮やかな赤は景都のまとう袷の色。その赤い一点に向かって、一直線に駆け抜ける。
「景都っ!」
ひときわ大きく張り上げた声に景都が振り返る。真っ赤に泣き腫らした目が淳弘の姿を認めて大きく見開かれる。
「景都っ!」
「淳弘!」
互いの名を呼ぶ声が重なって、そして、二人の姿が一つに重なった。
鬼喰い景都 瀬戸安人 @deichtine
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