6.

 寒風吹き荒ぶ廃ビルの屋上。

 黒髪をなびかせる沙尼さにがどこか遠くを見つめるようにじっと佇む一方で、美佳子みかこはその背中をうかがうようにしながら瓦礫や廃材の散乱する片隅で膝を抱えてうずくまっていた。隣には同じように膝を抱えた茉莉花まりかの姿もある。二人とも何の縛めを受けていないが、逃げようという素振りでも見せれば、瞬時に沙尼に捕らえられるだろう。

 沙尼が訊かれる事には答えてくれるので、二人とも既に事情は把握していた。沙尼が何者かも、淳弘あつひろと一緒にいた──沙尼の妹の景都けいとの事も。ただ、景都と淳弘の関係については、沙尼も、景都が子供の頃に淳弘を助けたらしいという程度の事以外に詳しい事情は知らないようだった。

 どうしてこんな事になってしまったのだろう。

 美佳子はふと思う。

 知月ちづきの事が大好きだった。浮世離れしていて、人とは今一つペースが合わないせいで、周りからは近寄りづらく冷たい感じに見られて、なかなか打ち解けられない所もある。しかし、実際に付き合ってみれば、馬鹿正直でお人好しな性格も、本当は友達が少ない事を気にしているのも良くわかった。だから、知月ともっと仲良くして、周りの皆にも知月のいい所をたくさん知って欲しかった。

 茉莉花が事が大好きだった。優しすぎて損ばかりするタイプだと思った。自分に自信がなくて、引っ込み思案でおどおどしている所が放っておけなくて、この子のために力になってあげたいな、と自然に思えた。だから、茉莉花が想い人とうまくいって幸せになれるように、何とか取り計らってあげたかった。

 そんな事を考えて、今日の夕方までは楽しく過ごしていて、これからもずっとそんな日々が続いていくと信じて疑いもしなかった。

 それなのに、どうしてこんな事になってしまったのだろう。

 何もかもが壊れてしまった。

 唐突に巻き込まれた突拍子もない出来事や、知月の事にもショックを受けたが、今は何より刻一刻と沙尼に茉莉花が殺される時が迫っているという事実に打ちのめされていた。

「マリ、ごめんね……」

 美佳子は涙で汚れた頬を拭いながら言った。

 美佳子は茉莉花を売った。

 自分が助かりたいばかりに、美佳子を騙して呼び出して、沙尼に引き渡したのだ。

「あたし……、最低だ……。自分が死にたくないからって、マリを身代わりにして……。こんなの……、あたしがマリを殺すのと一緒だ……」

 止まらない涙を何度も拭う。取り返しのつかない事をしてしまった後悔が押し寄せて、美佳子の心を押し潰す。

「ごめん、マリ……。許してなんて言えないよね……」

 罵って欲しかった。ひっぱたいて欲しかった。最低だと、許せないと、詰って欲しかった。自分の裏切りを責めて欲しかった。

 しかし、茉莉花は一言も美佳子を責めず、代わりにそっと微笑んだ。

「いいよ」

 茉莉花は美佳子に向けてそっとささやく。

「しょうがないよ。殺されるなんて思ったら、怖くって、私だって、同じ事したかも知れないし。だから、ニカコちゃん、そんなに自分を責めなくていいよ、ね?」

「……っ!」

 茉莉花の優しい言葉に息が詰まった。

「何で……? 何でそんな風に言えるの……? マリは……、怖くないの……?」

 美佳子の問いに、茉莉花は少し困ったような顔をした。

「怖いけど……。怖いけど、でも、私が、し、死んでも……、代わりにニカコちゃんが助かるんなら、それは、嬉しいかな、って思うから……」

「マリ……っ!」

 ぎこちなく微笑む茉莉花の声が微かに震えた。

 自分が殺されると言われていて、怖くないはずがない。それなのに、美佳子のために必死に笑って見せてくれている。美佳子の胸が張り裂けるように痛み、いっそ、このまま張り裂けてしまえと思った。

「マリはすごいね……。あたし、マリにひどい事したのに……、それなのに、まだあたしを心配してくれるんだね……」

「そんなの……っ! 当たり前だよ……。ニカコちゃんは……、ニカコちゃんは、友達だもん……。大事な、大好きな、友達だもん……」

 美佳子に詰め寄った茉莉花は必死にすがりつくように胸ぐらをつかんだ。眼鏡の奥で涙をあふれさせるその瞳の迫力に、美佳子は圧倒された。

 ずっと茉莉花の事をか弱い女の子だと思っていた。内気で、大人しくて、頼りなくて、だから、自分が茉莉花の力になって、守ってあげたいと思っていた。

 しかし、そんなものは思い上がりだった。

 茉莉花の方が、美佳子よりもずっと強くて、勇気があって、しっかりしていて、そして、優しかったのだ。その事が今更やっとわかった。

 裏切られてもなお、美佳子を「大事な友達」と言ってくれる茉莉花の気持ちに応えたくて、だから、美佳子はなけなしの勇気を振り絞る事に決めた。

 美佳子はそっと茉莉花の手を引きはがした。

「さ、沙尼さん……!」

 美佳子は勢い良く立ち上がり、震えながらも声を張り上げて叫んだ。

 沙尼はゆっくりと美佳子の方へ振り返り、黙ったまま次の言葉を待つようにじっと美佳子を見つめる。美佳子は足が震えるのもそのままに、カラカラに乾いた喉から必死に声を絞り出した。

「その……、やっぱり、あたしじゃ駄目かな? 沙尼さんに、た、食べられるのって……。マリじゃなくて、あたしにしてもらって、マリは帰してあげるって、それじゃ、だ、駄目かな……?」

「ニカコちゃん!」

 驚きの声を上げる茉莉花に、美佳子は弱々しく微笑んで見せた。

「ど、どうかな? 沙尼さん……」

 震えながら媚びるように、それでも、真剣に懇願する美佳子に、沙尼はふっと口元をゆるめて見せ、つられて美佳子も不格好にひきつった形で笑顔を作る。

 沙尼が自分の提案を受け入れてくれるのではないか、そんな期待が浮かんだ。

「駄目じゃ」

 しかし、それは冷徹な一言で打ち砕かれた。

「美佳子、そなたは既に選んだ。友人を身代わりにして自分だけが生き延びるという選択をしたのじゃ。それは取り消せぬ。茉莉花の死をその目に焼き付けて、生涯、後悔し続けよ」

「そんな……」

 美佳子の胸が絶望に塗り込められていく。足の力が抜けて、そのまま崩れ落ちそうになるが、その前にもう一度だけ力を込めて踏ん張った。

「だったら!」

 沙尼を見つめ返し、回らない舌を必死に動かした。

「だったら、あたしも殺して! マリだけ死なせられないよ、あたしも……、あたしも、マリと一緒に死ぬよ……」

 肺の空気をすべて絞り出しようにして、そこまでの言葉をどうにか吐き出すと、もう顔を上げていられなかった。足下のコンクリートに涙の雫が落ちて染みを作っていった。

「それも、駄目じゃ」

 またも沙尼はあっさりと拒絶した。

「どうしても死にたくば、勝手に自分で死ぬがよい。茉莉花のおかげで拾った命を投げ捨てられるものならばな」

 美佳子は今度こそ力を失って崩れ落ちた。

 最低の選択をした自分には、残酷な罰を用意されていたのだ。

 もし、美佳子が自殺でもしようものなら、自分のために犠牲にした美佳子の命が無駄になる。しかし、行き続けている限り、茉莉花を犠牲にした罪からは逃れられない。沙尼の言う通り、美佳子は後悔し続けて生きていくしかないのだ。

「ニカコちゃん……」

 うなだれる美佳子を茉莉花がそっと抱き締めた。

「いいよ……。もう、いいから……、ね?」

 茉莉花の優しい温もりが美佳子を包む。

「だって……、だって……」

 茉莉花は泣きじゃくる美佳子を抱く力を少し強めて、しっかりと抱え、子供をあやすように頭を撫でた。

「ねえ、ニカコちゃん、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

 茉莉花に言われて、美佳子は泣き顔を上げた。

「約束して欲しい事があるの。いいかな?」

 美佳子は答えようとしたが声が出ず、代わりに何度も頷いて見せた。

「幸せに、なって」

 茉莉花が薄らと涙の浮かんだ顔でにっこりと笑い、その笑顔に美佳子は息をするのも忘れた。

「私の分と、知月ちゃんの分も、幸せになって。三人分も幸せにならなきゃいけないから、すごく大変かも知れないけど。ニカコちゃん、約束してくれる?」

 涙で視界が歪んで、その向こうにある茉莉花の笑顔が見えなくなった。しかし、その笑顔を何としてでも目に焼き付けておきたくて、何度も何度も涙を拭った。

「………………うん、……約束、する……」

 美佳子は詰まる息を必死に絞り出して答え、しっかりと頷いた。


§


 淳弘と景都は二人で手をつなぎ夜道を歩く。

 沙尼が気にかけているのは景都だけで、淳弘の事など眼中にないが、だからと言って、景都一人を送り出して待っている事などできない。

 沙尼を倒し、茉莉花と美佳子を助けて、景都と一緒に帰る。そういうハッピーエンドを信じて、最後まですべて見届けたかった。

 冷たい夜風に身を切られても、つないだ手が温かい。微かに汗ばむその手をしっかりと握って、一歩一歩、足取りを進めて行った。

「景都のお母さんにも、また会いたかったな」

「そう言ってもらえると、母上も喜ぶと思います」

「うん。それに、僕にとっても、義理の母親になるんだしね」

「……あ、はい」

 景都が照れ臭そうに頷いた。思い詰めた様子で緊張した景都の気が少しでも紛れればと、淳弘は景都に話しかけ続けた。景都の事を訊き、自分の事を話し、話が途切れた沈黙で景都が心を乱さないように、と。

「淳弘、ありがとう」

 景都は淳弘との会話の隙間を捕まえて、自分からの言葉を滑り込ませた。

「淳弘の気持ち、とても、嬉しいです。おかげで、私、覚悟が決まりました」

 悟ったような口調の景都の言葉に、淳弘は口を挟む事を忘れた。

「やはり、逃げてはいけなかったのです。姉上から、人喰いに堕ちた者を討つという務めから。どのような結果になろうとも、きちんと決着をつけなくてはいけなかったのです」

 景都はにこりと笑って、つないだ手を握る力を少しだけ強くした。

「必ず、守ります。淳弘も、淳弘のお友達も、私、姉上から守ります」

 景都の手を淳弘も強く握り返す。絡み合う指が熱い。

「ありがとう、景都」

 淳弘は答えて景都の頭の天辺にそっと唇を寄せ、そんな気障な仕草が自然に出た事に自分でも少し驚いた。


 やがて、指定された廃ビルの前にたどり着いた。

 寂れた廃墟は威嚇するような威容で不気味に佇んでいる。

 時計は十一時四十分を指す。真夜中まであとわずか。

 沙尼は屋上で待っているはずだ。

 景都は月光を浴びてそびえ立つ廃ビルを見上げた。下からでは屋上の様子はわからないが、そこに彼女の姉が待ち受けている。

「行こう」

「はい」

 頷き合って視線を交わす。

「景都──」

 瞳を見つめて名前を呼んだ。見つめ返してくる瞳は力強く、目映いほどに美しい。

「勝って、一緒に帰ろう。それで、明日の昼は、あの蕎麦屋に茶切りの熱盛りを食べに行こう」

「──はい」

 景都は笑みを浮かべて頷いた。

 そして、二人またビルの入り口に向かって歩き出した。


§


 薄暗いビルの内部の埃っぽい空気に眉をひそめながら、階段を上り終えて屋上へ続く扉に手を掛ける。軋む音を立てて開いた扉の先に広がる、冷たいながらも埃の臭いを追いやるような夜気の中へと、淳弘と景都は踏み入れた。

 月明かりに照らされた屋外は、室内よりも遥かに明るかったが、その光は切りつけるように冷たかった。

「来たか、景都」

 屋上の中央に佇む沙尼は怜悧な視線を景都に向ける。

「はい、姉上」

 短く答えた景都と沙尼が視線を交わし合う。

 屋上の入り口から沙尼を挟んだ反対側の隅には、座り込んだ茉莉花と美佳子の姿があった。

「淳弘、お友達の所へ」

「ああ──」

 淳弘は景都にかける言葉を探したが何も見つからず、代わりにその手を強く握った。景都もそれでわかったと言うように強く握り返し、目に強い力をたたえて微笑んだ。

 ただ、手を離して景都の傍から離れる瞬間、その笑みが寂しげなもののように思えて、淳弘は胸がひどくざわついた。

 悠然と構える沙尼とは、すれ違い際に互いに一瞥を交わし合う以外に何の言葉もなく、淳弘は茉莉花と美佳子の元へと向かった。

「志岐くん……」

「志岐……」

 淳弘は座り込んだ二人の目の前にしゃがんだ。

「菅藤さん、ニカコ、助けに来たよ」

 二人を安心させるように、淳弘はにこりと笑って見せた。

「でも……」

 不安そうに美佳子が呟く。

「大丈夫。景都が助けてくれるから」

 淳弘は振り返って、沙尼の所へゆっくりと歩みを進める景都に視線を向けた。


 景都は真っ直ぐに沙尼を見つめたまま静かに歩みを進め、ぶつかり合う少し前で足を止めた。

「景都、逃げても良かった、いや、逃げた方がそなたのためには良かったのではないか?」

 沙尼の言葉に、景都は頭を振った。

「いいえ、姉上。正直に申せば、私も、できる事なら逃げたいと思いました。ですが、逃げてしまえば、私は大切なものを守れずに、何もかも失ってしまうと思いました。──ですから、覚悟を決めました」

「左様か」

 恐ろしくてたまらないはずの姉から目を逸らさずに、はっきりと言い放つ景都の態度に、沙尼は関心したように微かに口元をゆるめた。

 景都が袖中から懐剣を取り出す。

 それを見て、沙尼もまた景都のそれよりも一回り大振りな懐剣を取り出し、鞘を放った。左手に握る研ぎ澄まされた刃が月光にきらめき、戦いの時を待ち構える。

 しかし、景都は懐剣を鞘から抜かなかった。

 その場に膝を付き、懐剣を目の前に置き、手を付いて、深々と頭を下げたのだ。

「……景都、それは何のつもりじゃ」

 予想外の行動に淳宏達がざわつく気配を感じつつ、沙尼は土下座をする妹を見下ろして冷たく言った。

「姉上、お願いでございます。どうか、あの方達をお助け下さい」

 景都は額をコンクリートに押しつけたまま言った。

「お助けいただけますなら、私の命を差し上げます」

「……っ!」

 頭を下げたままの景都には、見えなくとも沙尼が息を呑むのが感じられた。

 景都にはこうするより他の方法が思いつかなかった。

 淳弘の友人を救うには、沙尼を倒さなくてはならない。しかし、景都が沙尼に勝つ望みはほとんどない。もし、沙尼に挑んで敗れれば、沙尼は宣言通りに茉莉花を喰い殺すだろう。

 だから、沙尼の慈悲にすがる事に賭けた。

 沙尼の目的は、自分にとって驚異となり得る景都を除く事だ。ならば、戦って万一の危険を冒す事もなく確実に景都を排除できるという条件は、十分に検討する価値があるはずだ。

「それが、そなたの覚悟か、景都」

「……はい」

「あの者達を、人間の命を救うために、己の命を儂に差し出そうというのじゃな?」

「はい」

 景都は顔を伏せたまま答える。

 生きて帰る望みは最初から捨てていた。

 死ぬには怖かった。

 しかし、覚悟ができた。

 淳弘とのやり取りで、淳弘の答えを聞いて、自分の望みが叶う事を知った。

 幸せな未来を思い描く事ができた。一時の夢を見る事ができた。

 だから、それで十分だ。

 本当は、寂しくて、悔しくて、夢を現実にしたいけれど、諦める事ができる。

 どうせ叶わない夢だった、と諦めるのではなく。

 叶えられる夢だったけれど、それを諦める事で、大切なものを守れるのだと思う事ができる。

 だから、怖くない。

 幸せな夢を抱いて死んでいける。

 そう思って、覚悟を決めた。

「景都」

 沙尼の声が重く響いた。

「そなたには──失望した」

 冷たい声に込められた爆ぜるような怒気に引きずられ、景都が思わず顔を上げかけた瞬間、側頭部に蹴りが叩き込まれていた。

 頭部を襲う衝撃に、体ごと吹き飛ばされた。

「失望したぞ、弱虫景都! よもや……、そこまで情けない奴じゃったとはな!」

 沙尼が怒りに吼えた。

「鬼喰いのそなたが人間ごときのために己の命を捨てるじゃと? 我が身かわいさに逃げ出す方が余程ましじゃ!

そこまで落ちぶれたか!」

 沙尼の怒気に空気までもがビリビリと震える。屋上の隅の茉莉花と美佳子は、その迫力に当てられ、うずくまって身を縮めた。

「望みとあれば殺してくれるわ!」

 口の端から血をたらし、よろよろと顔を上げた景都に向かって、沙尼が荒々しく足を踏み鳴らして歩み寄って行く。

 ただ一蹴り。受けたのはそれだけだったはずなのに、咳込んで血を吐く景都は、起き上がる事すらままならないように、震える腕で体を支えようとしては、何度も崩れ落ちた。

「景都!」

 悲鳴のように叫んで淳弘が走った。

「淳弘! 駄目!」

 景都の制止も耳に入らず、一気に駆け寄って沙尼が眼前に迫った時、沙尼の瞳に嘲笑が浮かぶのが見えて、はっと我に返ったが既に手遅れだった。

 左手の懐剣を振るう事もせず、無造作に突き出した──無造作のように見えた──右の掌打が突進する淳弘の胸板を捕らえ、淳弘の体が飛んだ。

 どのくらい飛んだのか自分ではわからない。恐らく、ほんの一瞬の事だったのだろうが、自分ではひどく長い時間宙に浮いていたように錯覚し、そして、落ちて叩きつけられた。

 コンクリートの床に全身を打ちつけて、まずは衝撃に呼吸が詰まり、それから、体中を激痛が襲った。悲鳴を上げる事もできず、ただ、息の塊を辛うじて吐き出す。

「志岐くん!」

 茉莉花が駆け寄ってくるが、そちらに目を向ける余裕もない。体がバラバラに砕けてしまったかのような痛みに、もがくよりも硬直した。

「引っ込んでおれ、小僧!」

 沙尼が一喝した。

「次は加減せぬぞ」

 嘲笑う沙尼の声が遠かった。定まらない視線の先にいる沙尼がひどく遠い場所にいて、自分が走ったのと同じくらいの距離は弾き飛ばされたのだとわかった。

「姉上っ!」

 絶叫と共に景都が立ち上がった。その足は震え、背筋も伸び切らないが、瞳には爛々と怒りを燃やして沙尼を睨みつける。

「ほほう。いい顔をするではないか」

「淳弘に……手出しは……!」

 沙尼が淳弘をまともに相手しなかった事はわかっていた。もし、沙尼が空の右手ではなく、懐剣を持つ左手を突き出していれば、淳弘は今頃血みどろの死体だっただろう。その事実に景都の背筋が冷たくなった。

「淳弘……、来ては駄目です」

 視線を沙尼に据えたままで絞り出すような景都の言葉に、淳弘は異を訴えようとしたが、まだ体が動かないどころか声すら出せなかった。

「弱虫景都、そなたは儂を怒らせた。その腑抜けぶりは我慢がならぬ。じゃから、もう色々と考えるのはやめじゃ」

 沙尼はにぃっと笑い、その狂気じみた笑みは、見る者の背筋を冷たく凍り付かせた。

「すべてなしじゃ。そなたの望みなぞ聞かぬ。あやつらの誰を喰うとか、誰を喰わぬとか、そんなものもすべてなしじゃ。

 ──この場にいる者は、皆殺しじゃ」

 突風が吹いた。

 ──否、吹きはしなかったが、その場の誰もがそう錯覚した。

 沙尼の狂おしいほどの怒りが吹き荒れて、すべてを巻き込んで引き裂こうとしているのだ。

「景都、拾え」

 沙尼は足下の鞘に納まったままの懐剣を景都の方へ蹴り飛ばした。床を滑った懐剣が景都の元で止まる。

「そなたの望みを叶える唯一の手立ては儂を殺す事じゃ。これ以上、儂を怒らせも失望させもするでない」

 景都は懐剣を拾い上げ、ゆっくりと白刃を鞘から抜き放った。

「姉上……、わかりました。ならば……、姉上を討ち果たしてみせます。お覚悟を」

「意気やよし」

 悲壮な面持ちで懐剣を構える景都の姿に、沙尼は笑いを零した。

「では、こちらから行くぞ──」

 懐剣を構え、沙尼が走った。

 初太刀から容赦はしない。

 深く、速く、踏み込んだ一撃は景都の心臓を抉り取ろうと迫る。

 ──が、直前で沙尼は太刀筋を変えた。

 沙尼の刃は景都が構えた刃とすれ違い様に打ち合わせたのみ。

「ふむ──」

 沙尼は間合いを取って、景都の動きを牽制するように身構えた。

「──捨てた命を拾い直す気はない、という事か」

 襲いかかる沙尼を前に、景都は避けようとも防ごうともしなかった。ただ、沙尼の一撃をしっかりと見据えて待ち構える姿からは、景都の狙いがはっきりと読み取る事ができた。

 刺し違えるつもりだ。

 元より力量の遠く及ばない景都が、何が何でも沙尼を倒そうと言うのなら、そうでもするより他はあるまい。

 肉を斬らせて骨を断つ、という程度では足りない。

 命まで斬らせてなくては、自分の刃が届く所まで引き込めず、勝機は死中にしかない。

 それだけの覚悟、それだけの気迫が景都の瞳に宿っていた。

「ちと、煽りすぎたかの」

 沙尼は自嘲するように呟いた。

「ならば、仕方あるまい。楽には死なせてやれぬぞ。

 ──景都、足掻き尽くして苦しんで死ね」

 沙尼は景都に再び刃を向けた。


§


「景都……!」

 淳弘は奥歯を噛み締めて呻きを洩らした。

 景都と沙尼が互いの刃を閃かせ、何十合と打ち合いを繰り広げるが、その差は歴然だった。

 煌々と輝く月明かりのおかげではっきりと見て取れる景都の姿は、控えめに言ってもボロボロだった。

 深緋の袷は埃にまみれて黒く汚れ、袖や裾にざっくりと大きな裂け目が走る。くしゃくしゃに乱れた黒髪は汗でべったりと額にへばりつき、白い頬が血と埃で汚れた上に汗が流れて斑の模様を描く。手に握った懐剣を床に突き立てて、震える体を起こそうと必死にもがく様子は、景都の消耗が並々ならぬ事をありありと物語っていたが、対する沙尼の方は傷一つなく、汗の一筋もたらさず、余裕綽々といった様子で手にした懐剣をもてあそびながら、妹の無様な姿を冷たく見下ろしていた。

 景都の相討ち狙いを読み取った沙尼は、即座に戦い方を変えた。

 一撃で相手を仕留めるような深い攻撃はしない。速く、浅く、軽い、牽制のような攻撃を絶え間なく繰り返す。

 自身に隙を作らず、景都に反撃の糸口を与えずに抑え込み続けた。

 結果、景都は防戦に終始し、体力を消耗しながら、捌ききれない攻撃に浅い傷を負っていく。そうして負った傷が景都を消耗させ、動きを鈍らせ、また傷を負う悪循環。

 沙尼は堅実な戦い方を選んだ。

 圧倒的な戦力差があろうとも、一気に攻め立てて窮鼠に猫を噛ませたりしない。欲張らず、深追いせず、少しずつ確実に消耗を強いて、反撃する力を完全に奪うまではその姿勢を崩さない。

 だから、景都は楽には死ねない。

 決して退く事ができない戦いを、抗って、抗って、抗い続けて、心が折れて立ち上がれなくなるまで、あるいは、最後の一滴まで血を吐き尽くすまで、戦い続けなくてはならない。

 景都は絶望的な戦いの中で一方的に傷ついていく。

 ──とても見てはいられない。

 ──しかし、決して目を逸らしてはならない。

 淳弘は瓦礫の中からひっつかんだ鉄パイプを杖のように突いて、傷ついた体を持ち上げた。

「志岐くん?」

 茉莉花が心配そうな声を洩らした。

 まるで武器を提げるように鉄パイプを手にして立ち上がり前へ出る淳弘は、これから眼前の戦いの場へ乗り込んで行こうとでもしているように見えた。

「志岐、あんた……」

 同じように感じたのか、美佳子も不安げな声を上げた。

「まさか、あの中に飛び込んで行こうってんじゃないよね……?」

「うん。行ってくる」

 あっさりと答える淳弘に、茉莉花も美佳子も返す言葉に詰まった。

「ちょっと……、無茶だよ! だって、あんなの滅茶苦茶じゃん! あたしらがどうこうできるようなのじゃないよ!」

 美佳子が悲鳴を上げたが無理もない。

 景都と沙尼が繰り広げる戦いは、常人の目ではほとんど捕らえられなかった。身体能力が人間とは桁違いなあやかしの全力の戦いだ。目にも留まらぬ、とはまさにこの事だった。

 人間が割り込めるようなものではない。完全に次元が違った。

「ありがとう。でも、景都を助けなきゃ」

 淳弘は静かに言った。

「僕は、急に色々な事がありすぎて、驚いて、途惑って、だから、きちんと考えなかったんだ。景都だけに任せて、景都に頼って、景都に甘えて……。それじゃ駄目だったんだ。景都が僕らのためにしてくれる事に頼り切って、何もせずに待っているんじゃ駄目なんだ。景都のために、少しでも力になりたいんだ」

やらなきゃいけない事があるから」

 そう言って、淳弘は二人とは逆の方へ視線を向けた。景都と沙尼が戦いを繰り広げる方へと。

「ちょっと……! 志岐!」

 足を踏み出そうとした淳弘に、美佳子の罵声が飛んだ。

「本気なの!? さっきだって、あっさり吹っ飛ばされちゃったじゃない! 殺されるわよ!」

 美佳子は思い切り吐き出すように叫ぶと、ぐっと拳を握ってうつむいた。

「もう……、駄目だよ……。あたし達、みんな、殺されちゃんだよ……。だったらさ、せめて……、志岐、最後までマリと一緒にいてあげてよ……」

 呻くように絞り出す美佳子の言葉に、茉莉花ははっと息を呑んだ。

 しかし、淳弘はまたもあっさりと答えた。

「死にはしないよ」

「何で言い切れるのよ!?」

「約束したから」

「──は?」

 淳弘の答えに、美佳子はぽかんとした。

「景都と約束したから。勝って、これからもずっと一緒にいる、って。だから、僕も景都も死なないし、ニカコも菅藤さんも殺させない」

「あんた、何言って──」

「そう決めたんだ。だから、二人で勝って生き残る。そのためなら、何だってするし、何も怖くない」

 それだけ言うと、淳弘はもう振り返らなかった。あまりにも貧相な武器を手に、ボロボロの体で真っ直ぐ向かって行った。

 美佳子にも茉莉花にもそれを引き留める事はできず、ただ、茉莉花が「敵わないな」と小さく呟いた。


§


 意気込んではみたが、淳弘が沙尼の一撃で受けたダメージは深刻だった。

 膝に力が入らない。息をするだけで胸が痛む。目眩と吐き気が治まらない。額にはじっとりと脂汗がにじむ。全身がボロボロなのは自分でもよくわかっていた。体を支えている八割方は気力だ。

 それでも、止まる訳にはいかない。すぐ目の前では、今も景都が必死に戦っている。圧倒的な力の差にも挫ける事なく、傷だらけになりながら沙尼に立ち向かっている。

 真っ当に戦っているだけでは勝てるはずがない。満身創痍の景都に対し、沙尼は髪一筋すら乱さないまま。

 覚悟一つを上乗せしたくらいでは届かない。都合良く愛の力でパワーアップしたりなどしない。景都が沙尼に勝つためには奇跡が必要だ。

 しかし、奇跡は祈っているだけでは起きはしない。ただ、奇跡を起こそうと必死にあがいた者にだけ奇跡は訪れる。

 ただし、それは奇跡ではない。起こってしまった奇跡はもう奇跡ではないからだ。

 それはただの、かつては奇跡という名だった現実となる。


§

 

 沙尼の刃が舞う度に、景都の着物が裂け、髪が散り、肌をかすめて血の雫が飛ぶ。

「弱いのう、景都」

 沙尼の軽口に答える余裕もない。

 致命傷こそ避けてはいるが、小さな傷と疲労の積み重ねで今にも意識を失いそうなほどだった。沙尼の動きについていくためには、常に全力を振り絞らなくてはならない。その上、一瞬でも気を抜けば、たちまち沙尼の刃が容赦なく景都を斬り裂くであろうという事は言わずもがなであり、張り詰めた神経の糸もわずかたりともゆるめる事はできない。肉体も精神もとっくに限界だった。

「口先ばかりの弱虫景都。このままでは時間の問題じゃぞ」

 沙尼の言う通りだ。このままでは景都はいずれ力尽きるしかない。

 しかし、沙尼にも決して余裕がある訳ではない。景都とて鬼喰いの娘、隙を見せれば一撃で沙尼の首を斬り飛ばすくらいの事はやってのけられる事はよく承知している。だからこそ、沙尼も全力で懐剣を振るい、容赦なく景都を攻め立てている。本当ならもっと早く勝負が決まると思っていたので、景都の意外な粘りは正直驚きだった。

 ──心意気一つも馬鹿にならぬか。

 と、胸中でそっと舌を巻きもした。

 ただ、それでも、圧倒的な力の開きがある事は変わらない。

 その上、景都の相討ち狙いを見越した沙尼は徹底して隙を見せない。

 その差を引っ繰り返して景都の勝機を呼び込むには運か偶然が必要か。

 しかし、その運すら景都を見放した。

 ダメージを負っていたのは景都本人ばかりではない。例えば、無茶な動きで振り回された着物。例えば、何度も打ち合わせた刃。例えば、渾身の力で跳ね回る足を支える下駄、踏み締めたコンクリートの床。

 だから、運悪く景都が踏み出した足下のコンクリートがわずかにえぐれてバランスを崩し、運悪く痛んできていた下駄の鼻緒に少し余分に力がかかって切れてしまうという事も、決してあり得ない事ではなく──。

 ──そして、その時の景都はひどく運が悪かった。

 たたらを踏んで崩れた体勢を即座に立て直すには、景都の体はあまりにも疲れ果てていた。そして、その致命的な隙を沙尼が見逃すはずもなく、

「運が悪かったの」

 振り下ろされる刃が白く軌跡を描いた。

 

 金属音が響き、火花が散った。

 沙尼の懐剣は景都に届かなかった。

「……淳弘!」

 景都を背に庇って立ちはだかり、両手で持った鉄パイプを半ばまで食い込んだ懐剣に断ち割られながら、淳弘は必死に沙尼の一撃を押し留めていた。

 それは騎士の姿だった。

 ──乙女の危機に体を張って助けに参るは騎士の役目じゃからな。

 幼い頃、母が冗談めかして言った言葉。しかし、それは真実だった。

 かつては身を挺して魑魅の爪から景都を守り、今もまた絶体絶命の危機に刃を食い止め、二度までも景都の命を救った。

 その身を包む鎧はなく、その手に輝く剣もなく、武術の嗜みさえもなく、背に庇う姫君よりも遙かに弱いちっぽけな騎士。

 しかし、だから、どうした。

 これなる者は誠実にして高潔。想い姫に一途な愛を捧げ、その御為ならば命を賭していかなる敵にも立ち向かう。かの者こそ勇敢なる真の騎士なりや。

 胸にあふれる想いが涙になって零れ落ちそうになる。それを景都は必死にこらえた。今はまだ泣いている場合ではない。まだここは戦場であり、戦わなければならないのは景都なのだから。

「小癪な小僧じゃ。しかし、よう受けたものよ」

 懐剣を引いた沙尼が呵々と笑った。

「……自分でも驚いた」

 対峙する淳弘は沙尼の動きに集中して、一瞬たりとも気を抜かないように緊張の糸を張り巡らせていた。

「それほどまでに景都が大事かえ?」

「景都より大事なものなんて何もない」

「ふふ。惚気るのう。そこまで想われるとは、ちと景都がうらやましいわ。しかし、それほど大事なら、なぜ景都を殺される危険を冒してまで来よったか、と問いたくもあるが──、聞くも野暮か。決めて、覚悟して、来た。それは変わらぬ。儂はそれでよい」

 すうっと沙尼は懐剣を持つ手を上げながら、淳弘の背後の景都をちらりと見やった。

「景都は足を痛めたようじゃな。もう、前のようには動けまい」

 沙尼の言う通り、下駄の鼻緒が切れて躓いた時に、景都は足を挫いていた。鬼喰いの回復力ならば数分もあれば癒える怪我だが、その数分間を動かない足で持ちこたえる事は叶わないだろう。

「小僧、言うだけ無駄じゃろうから、邪魔するなとは言わぬ。そなたも命の覚悟はできておろうな?」

「もちろん! 景都は絶対に死なせない!」

「淳弘! いけない!」

「よう言うた! ならば、行くぞ!」

 各々が叫び、身構えた。

 淳弘の正面には沙尼。人喰いに堕ちた鬼喰い。同じ血を引く鬼喰いの景都ですら敵わない正真正銘の怪物。

 しかし、退けない。

 万に一つも勝ち目はない。淳弘が立ち向かっても、足下にすら及びつかない。

 それでも、退けない。

 背後にはもう満足には動けない景都がいる。淳弘が退いてしまえば景都が死ぬ。

 だから、退けない。

 決して、退く事はできない。

 緊張で喉がカラカラに渇き、粘つく唾液が口のなかにへばりつく。体中にまとわりつく痛みが鉛のように重い枷になる。ただ立っているだけの沙尼が放つ殺気に正気を吹き飛ばされそうになる。

 しかし、そんな事に構ってはいられない。無理矢理にでも無視して、自分が持つただ一つの武器に集中する。

 沙尼の性格は何となくわかった。

 激しやすいが冷めやすい。

 激すれば、見くびり、侮り、隙を見せる。

 しかし、すぐに落ち着きを取り戻し、一度、落ち着けば、冷静で慎重な姿勢を崩さない。

 景都への怒りで暴走しかけたが、ただ一太刀を振るう間に自分の失態も景都の狙いもすべて把握して、厳格なまでに己を律している。

 だから、チャンスは一度しかない。二度目は種が割れてしまって通じない。もし、先の交錯で見破られていたら、絶対に成功しないだろう。沙尼がただの人間の淳弘を見くびってくれている事を祈るしかない。

 集中する。極限まで神経を研ぎ澄ます。沙尼が動き出す瞬間を見逃してはならない。見逃せば──負ける。

 不要なものはすべて削ぎ落とす。必要なものでも、優先度の落ちるものは削ぎ落とす。

 痛みは要らない。音も、匂いも要らない。要らない感覚はスイッチを切って、その分を唯一の器官に集中させる。

 必要なのは視覚のみ。それも左目は忘れる。必要なのは右目のみ──。

 沙尼が動く。

 その動きを右目が逃さずに追う。

 淳弘の右目には沙尼の動きが見えていた。初めに頭に血が上って突っ込んだ時は、何も考えていなかったのでわからなかったが、落ち着いて集中すれば、右目は動きを追う事ができ、先からの景都と沙尼の戦いもしっかりと見えていた。

 傷つき、鬼喰いの血で癒された右目は、ただの右目ではなくなっていた。姿のない幽霊やあやかしを見る事ができるようになっていた。

 姿のないものすら見る事のできる目だ。姿のあるものが見えない事があるものか。

 沙尼が振り下ろす懐剣の軌跡を見極めて、その先へ鉄パイプを差し込む。

 一度は偶然があったとしても、二度は続かない。まさかただの人間の淳弘に二度も続けて受けられるとは思わなかった沙尼は、鉄パイプを真っ二つに断ち割った後、すかさず刃を返すが一瞬だけ反応が遅れた。

 その一瞬の遅れが、沙尼にとっては致命的、淳弘にとっては決して逃せない貴重な一瞬。

 邪魔な鉄パイプなど手を離して捨てて、前へ踏み込む。沙尼の懐、伸ばした腕の内側へと潜り込み、全体重をかけて体ごとぶち当たった。

 沙尼は怪物だ。その膂力も敏捷さも、肉体の強靱さも人間の常識では推し量れない。しかし、その体が人間と同じ形をしている以上、そこに通用する物理法則には逆らえない。

 そこで沙尼も判断を誤った。力のベクトルに逆らわず、素直に押されて下がれば良かったのだ。そうすれば、浅知恵で突っ込んできた素人のタックルなど、軽くいなす事もできたはずだった。

 しかし、沙尼はがむしゃらにぶち当たってくるだけの人間相手に退かされる事を疎ましく思い、咄嗟に崩れた姿勢のままでこらえようと身構えてしまった。

 背は高いが、体格自体は細身で体重の軽い沙尼の、しかも、刃を返すために上体を起こしてしまった姿勢の極めてバランスの悪い重心では、十八才男子一人分の重量が突っ込んでくる力を支えきれなかった。

 結果、沙尼は淳弘ともつれ合ってコンクリートの床に押し倒される羽目になった。

 倒れながら淳弘は形振り構わず沙尼にしがみついた。絶対にこの機を逃してはならないが、淳弘の力で沙尼を押さえ込み続ける事などできない。淳弘にできる事は、少しでも長く沙尼の隙を長く保つだけだ。

「景都!」

 叫び声を絞り出す。床に倒れた瞬間、夢中で絡め取った沙尼の腕から鈍い音が聞こえた。

 背後の景都が走った。こちらも形振りなど構ってはいられず、痛めた足で強引に床を蹴って、ほとんど這いつくばるようにして飛び込んで来る。

 もつれ合う淳弘と沙尼に向かって懐剣を持つ手を伸ばし、とにかく、一番近い所へ斬りつける。

 

 ──沙尼の左足が脛の半ばから斬り落とされた。

 

 沙尼の絶叫が天をつんざいた。

 力ずくで振り払われた淳弘が再びその身を床に叩きつけられて苦悶を洩らす。

 代わって景都が沙尼にのしかかり、馬乗りになって懐剣を首に突きつけた。

「姉上──っ!」

 切っ先が沙尼の首の皮一枚を突き破り、血の玉がぷくりと浮かぶ。

「これで、終わり……、私の……、私と淳弘の……、勝ちです……」

 荒い息を吐く景都の見つめる先、苦痛と憤怒に顔を歪めた沙尼の眼光は、見る者を射殺さんばかりに強烈に輝いていたが、徐々にその光が薄れ、やがて、沙尼の頬に不敵な笑みが浮かんだ。

「わからぬものじゃな、勝負とは。景都、そなたの勝ちじゃ」

 左足を斬り落とされ、倒れ込んだ際のどさくさで左腕も折られた。その上、喉元に刃を突きつけられ、これではもうどうしようもない。沙尼の負けだ。

「あの小僧、儂の動きが見えておったな。あれは何じゃ?」

「それは、私のせいです。昔、私が目の傷を治した時に、私が未熟なせいで、普通とは違う目になってしまいました」

「やれやれ。へぼの術のおかげで拾いものをしたようじゃのう」

 くっくっと沙尼が皮肉った笑い声を洩らした。

「まあ、よいわ。──景都、なにをぐずぐずしておるのじゃ?」

 沙尼の言葉に景都が途惑いの表情を浮かべると、沙尼は呆れたように溜め息を吐いた。

「早う儂の首を落とせ」

「姉上!」

 景都が顔を引きつらせるのを見て、沙尼は再び溜め息を吐いた。

「たわけ。何じゃ、その顔は? 当然であろうが。儂を殺さず何とする。さもなくば、そなたを殺し、そなたの男を殺し、あの娘達も殺すぞ。止めるには儂を殺すしかない。初めからそのつもりだったのじゃろうが」

「はい……、ですが……」

「この機を逃せば二度目はないぞ。儂を殺すには今しかない。ほれ、もたもたしていては、儂の腕の骨がつながるぞ。そうすれば、そなたを振りほどくくらいはできよう。片足でも、ここから逃げ出すくらいはできるやも知れぬ。この場でそなたらを見逃そうとも、儂は人喰いじゃ。生かしておけば、また人を喰う。それは止められぬ。逃げ延びれば、どこかでまた人を喰うぞ。それでも良いのか?」

「いいえ……、いいえ……、ですが……」

 景都の瞳に涙が浮かぶ。涙の粒は大きくふくらみ、雫になって沙尼の頬に落ちた。

「姉上……、どうして……、人喰いなどになってしまわれたのですか……?」

「聞いて何とする? 聞いた所で儂が人喰いでなくなる訳でも、喰った者が生き返る訳でもないわ。ええい、儂の顔に涙を零すな、鬱陶しい」

「は、い……、すみません、姉上……」

「謝っておらんで、早う斬れ」

「はい……、わかって、います……」

 そう言いながらも、景都の手は動かなかった。人喰いの化け物で、一族の裏切り者で、母の仇で、それでも、たった一人の肉親で。沙尼の首筋に突きつけた懐剣を持つ手を、どうしてもそれ以上動かす事ができなかった。

「景都」

 横合いからかけられた声と共に、景都の手に別の手がそっと添えられた。

「いいよ。無理しないで」

「淳弘……、ですが、姉上を、こ、殺さなくては……」

「うん。わかってる。だけど、それでも、景都の姉さんだから、景都がやっちゃいけない気がする」

 淳弘は懐剣の柄から景都の手を離させて、代わりに自分で握った。

「だから、僕がやる」

「──っ!」

 景都は息を呑んで目を見張った。

「ごめん、景都。君の姉さんを僕が殺す。だから、僕を恨んでいいよ」

 例え何があろうと、沙尼が景都の姉である事は変わらない。沙尼は景都の家族だ。そして、家族を失う痛みを淳弘はよく知っている。家族をすべて失う痛みを何度も味わっているのだから。

 それが自らの手でなどと、あっていいはずがない。

 だから、景都に沙尼を殺させるくらいなら、自分が手を汚した方がましだ。本当は沙尼を死なせず、何もかもが丸く収まる結末があればよかった。しかし、そんなものはどこにもない。沙尼は人殺しで、これからも人殺しをやめる事ができなくて、それを防ぐためには、ここで沙尼を殺してしまうしかない。

 もしも、沙尼がこの先人を殺さないように押さえ続ける事ができれば話は違うかも知れないが、淳弘にも景都にもそんな力はなく、他にそんな手立ても知らない。それに、もし、そうできたとしても、沙尼が今までに喰い殺した人は帰っては来ない。

「ごめん、景都──」

「淳弘──」

 悲痛に喘ぐ景都の涙から目を背け、淳弘が懐剣を持つてにぐっと力を込めようとして──。

 哄笑が響き渡った。

 笑い声の主は沙尼だった。喉元に刃を突きつけられたまま、快哉を叫ぶかのような笑い声を上げていた。

「やめい、やめい、この阿呆ども! そのような惚気を見せつけられては、背中がむずがゆくてたまらぬわ!」

 突然の事に淳弘も景都も呆気に取られて沙尼を凝視した。

「男前じゃな、小僧。景都に儂を殺させるのが忍びのうて、己の手を汚そうと言うか。それで景都に恨まれても構わぬと? 辛い苦しいは景都に負わせるが嫌で、すべて己が背負い込もうというつもりか。まったく! どれだけ景都に惚れ込んでおるのじゃ。退け!」

 沙尼が腕を振り払うと、淳弘と景都がまとめて弾き飛ばされた。ふん、と鼻で笑いながら上体を起こした沙尼は、ついさっきまでは骨が折れていた左手で、倒れた時に取り落とした懐剣を拾い上げた。

「ほれ。ぐずぐずしておるから、折れた腕がつながってしもうたではないか」

 座った姿勢のまま、沙尼は見せつけるように大きく腕を振った。

「やれやれ。情けない、まったく、情けないではないか」

 沙尼は大仰に首を振り、自嘲めいた笑みで頬を歪めた。

「弱虫景都は甘ったれて儂にとどめを刺す事もできぬ。小僧が代わってやろうなどと言い出しても、ぐだぐだ青臭い愁嘆場をいつまでもやっておるから、折角の好機が台なしじゃ。まったく、情けない。そなたらに任せておいては、けりがつくまでに百年もかかってしまうわ。

 ──これでは、自分で始末をつけるしかないではないか」

 そう言って、沙尼は自分の胸に懐剣を突き立てた。

「そなたらのような甘っちょろい雛どもにいいようにされては、みっともなくて、おめおめと生きてはおれぬわ」

 自らの胸を突いた沙尼は、そのまま懐剣で器用に心臓をえぐり出し、無造作に投げ捨てた。いかに鬼喰いと言えども、くり抜いた心臓の再生までは追い着かない。

「姉上──」

「ふむ。清々したわ」

 沙尼は唇に血の泡を浮かべながら呵々と笑った。

「あの……」

 呆然とへたり込む淳弘と景都の耳に、控えめな足音が届いた。

 茉莉花は倒れた沙尼の傍で足を止め、少し離れて途惑いながら後を追って来た美佳子が立ちつくしていた。

「……教えてもらえませんか? 知月ちゃんの事、知月ちゃんが、最後にどうだったのか、教えてもらえませんか?」

「聞いて何とする?」

「わかりません……。でも、知っておきたいんです」

 恐れの色は隠せないが、茉莉花はそれでも引かずに踏み留まる。沙尼はふうっと深く小さく息を吐いた。

「……あの娘は、儂を怖がらなかった。儂に喰われる時も、怯えるでも、泣き叫ぶでもなければ、抗いもせず、まるで取り乱さずにおったな。妙な娘じゃった」

 そう呟く沙尼は、何だか楽しそうに見えた。

「知月ちゃんは、寂しがり屋でしたから」

「それが何じゃ」

「あなたも……、寂しそうですから」

 茉莉花の言葉に、沙尼が眉をしかめた。

「そなたにそう見えるかどうか知らんが、そうだとしても、何を言いたいのかわからぬ」

「私も……、よくわかりません……」

 茉莉花も答えに窮してうつむいた。

「おかしな事を言う。妙な奴の周りには、妙な奴が集まるのであろうな」

 ふふ、と沙尼は小さく笑った。

「もう、よかろう。後もつかえておるのじゃ。少し妹とも話をさせよ」

 そう言って、沙尼は追い払うように手を振って茉莉花を下がらせ、美佳子は戻ってきた茉莉花をぎゅっと抱き締めた。

「茉莉花、美佳子」

 茉莉花が美佳子の所まで戻ると、沙尼は二人の名を呼んだ。

「そなたらを喰えなかったのは、まこと残念じゃ。きっと、旨かったであろう」

 それだけ言うと、沙尼はまた呵々と笑った。

「さて、景都よ」

「──はい」

 呼びかけに答えて、傍に寄った景都は神妙に頷いた。

「儂を喰え」

「できません」

 景都は即答できっぱりと首を横に振った。

「自分で言うのも口さがないが、儂の力は強いぞ。その儂を喰っておけば、そなたは儂に近い程度には強くなろう。それでも喰わぬか?」

「はい、決して。私は鬼喰いをやめて人になります。ですから、もう二度とどんなあやかしも口にしません」

「左様か。そうであろうとは思うた」

 迷いのない景都の答えに、沙尼はふっと力なく笑って目を閉じた。

「そこな小僧」

 目を閉じたままで沙尼が言い放った。

「景都を頼む。儂の妹を泣かせでもしてみよ。化けて出てでも、貴様の一物をねじ切ってくれるから、覚悟しておけ」

 本気としか思えない沙尼の言葉にすくみ上がるような迫力を覚えながらも、淳弘は押し負けずに「はい」と答えた。

「景都、その小僧を喰うなよ。絶対に喰ってはならぬ。好いた男に喰い気を覚えるは鬼喰いの女の性(さが)じゃ。しかし、母上も、母上の母上も、一族の女は皆それをこらえた。そなたもこらえられよう。時折、ちょいと囓るくらいならよかろうが、喰い尽くしてはならぬ。もっとも、そなたの鬼喰いの力が衰えてゆけば、喰い気の衝動も消えてゆこう」

 沙尼は一気にまくし立てて、ふう、と大きく息を吐いた。

「こらえられなんだ弱虫には、ろくな末路は待っておらぬからのう……」

「姉上、それは、もしや──」

 景都は言いかけたその先の言葉は呑み込んだ。言ってもきっと「野暮を聞くな」と叱られるだけのような気がした。

「儂が死に、景都が人になる──。これで鬼喰いは終わりか。少し寂しい気もするのう」

 呟く沙尼の声がかすれていく。

 かすれる声は聞き取りづらく、耳をこらさなくてはならないほど弱々しくなっていた。

「ああ、景都、儂がそなたより強いものなぞ腕っ節ばかりであった。儂もそなたのようであれば──」

 静かに吐く息が夜気に溶け込むように消えていく──。

「儂も叶うものならば──」

 もう、その声はほとんど聞き取れず──。

「人にな──」

 そして、最後の息を吐いた。

「姉上?」

 答える声はもうなかった。

 ふわりと深縹の袷が床に落ち、沙尼の姿が跡形もなく消える。

 景都はその姿を見つめながらじっとたたずんで、目に浮かぶものが零れないようにぐっと唇を噛み締めた。

「景都」

 淳弘がそっと景都の手を取った。

「我慢しないで、景都は泣いていいと思う」

「あ……」

 つう、と涙が頬を伝った。

「はい……」

 堰を切った涙はとめどなくあふれ、景都は淳弘の胸にすがって泣いた。

 

 こうして、人喰いに堕ちた鬼喰いの沙尼は死んだ。


§


 静かな夜道を歩いて四人は美佳子のマンションの前までたどり着いた。

 深夜で人目が少ないとはいえ、服がボロボロだったり血まみれだったりする姿が目撃されては厄介なので、景都の陰形で身を隠して歩いて来た。

「ニカコちゃん、着いたよ」

「うん……」

 茉莉花に言われて、美佳子はぐずぐずと鼻を鳴らしながら頷いた。明るい風を装っていた美佳子の脆さと、普段は大人しい茉莉花の芯のしっかりした所を同時に見るような光景だった。

「ニカコちゃん、今日、おばさんは?」

「……仕事、帰ってくるのは明日」

「そっか。じゃあ、泊まっていってもいい?」

 茉莉花は今の美佳子を一人きりにしておきたくなかった。

「いいの?」

「うん」

 茉莉花はすがるような目をした美佳子をぎゅっと抱き締めた。

「それじゃあ、私はニカコちゃんの所に泊まるから、ここでいいよ」

「うん。ありがとう、菅藤さん」

 淳弘に礼を言われて、茉莉花は照れ臭そうにはにかんだ。

「えっと、ニカコちゃん、ちょっと待ってて。あの、志岐くん、ちょっとだけ、いいかな? 話したい事があるんだけど……。できれば、二人で……」

 そう言って、茉莉花は淳弘の隣に並ぶ景都にちらりと目を向けた。

「私でしたら、ここで待っていますので、どうぞ」

 景都はそっとその場から一歩身を引いた。

「あ、うん。それじゃあ、ちょっと」

「ごめんね。すぐに済むから」

 淳弘と茉莉花が遠慮がちにその場から少し離れて、門塀の角で話を始めたようだった。距離を置いて小声で話しているので、景都の耳にも話の内容は聞こえてこない。

 その場には景都と美佳子の二人が残り、少しぎこちない空気が漂うのは否めなかった。

「あの……」

 と、景都から口火を切った。

「姉上の事……、申し訳ございません。大変な目に遭わせてしまい……、それに、大切なお友達も……。お詫びのしようもございません……」

 景都は沈痛な面持ちで、少しうつむ気味に足下へ視線を落とした。

「姉上のした事は、もう、取り返しがつきません……。私がもっとしっかりしていれば、違ったかも知れないのに……」

 ぽつりぽつりと話す景都の目に涙がにじむ。

 うつむいた景都の姿を見ながら、美佳子は既視感に捕われていた。

 そして、すぐに思い当たった。これは自分の姿だ。後悔して、泣き言を吐いて、叱って欲しがっている、茉莉花に甘えていたさっきの自分の姿だ、と。

 正直な所、美佳子は景都にも恐れを感じていた。沙尼の妹で、人間ではなくて、常識では測れないような真似を目の前で見せつけた景都を恐ろしく思っていた。

 しかし、この姿はどうだろうか。

 傷ついて、悲しんで、弱音を吐いて泣いている。

 この人は美佳子と同じくらい、もしかしたら、それ以上に弱虫で泣き虫なのかも知れない。

 そう思ったら、もう、景都を怖いとは感じなかった。

「いいって」

 そう言って、美佳子は思い切って景都の手を取った。

「景都さんはさ、助けてくれたじゃない。あたしも、マリも、景都さんが助けてくれた。命懸けで戦って、助けてくれたもの」

 手を取られて顔を上げた景都の瞳を、美佳子は真っ直ぐ見つめ返す。

「ありがとう」

 景都が顔を上げた。

 ぐずぐず鼻を鳴らす泣き顔は、儚げで、か弱くて、これは甘やかしてしまうな、と美佳子は思った。

「ですが……、お友達の、美島様は……」

 その言葉には美佳子も胸が詰まった。もう、知月は決して帰らない。それを思えば、景都に八つ当たりしたくなる気持ちも確かにある。しかし、そんな事をしても、せいぜい景都の自責願望を満たしてやるくらいしかできない。

 だから、美佳子は景都を詰る代わりに、ハンカチを取り出してそっと涙を拭いてやった。

「いい、って事はないけど、知月の事はそんなにすぐに割り切れないけど、でも、景都さんのせいじゃない、って思う。だから、そんな風に自分を傷つけるために知月を使うのはやめて。そんなのだったら許せないから」

 最後は少し強く言葉を吐いた。

「あ……。はい、申し訳ございません」

「だから、もう謝らないくていいよ」

 そう答えて、美佳子は小さく苦笑した。

「ねえ──、景都さんのお姉さん、沙尼さんって、どんな人だったの?」

 と、美佳子は静かに訊いた。

「あたしにとっては、すごく怖かった。知月を殺した人だし、それは許せないし、憎いと思う。でもさ、何か変な感じなんだ。知月のふりをして、あたし達と一緒にいて、それで『楽しい』って言って笑ってた。あれは……、ただの知月のふりだったのかな。知月に化けて身を隠すためで、何もかも嘘だったのかな。何かね、それがすごく変な感じなんだ。

 あの人は──」

 美佳子は言いかけて、一度、言葉に詰まって、それから、もう一度、口を開いた。

「──もしかしたら、マリが言ったみたいに、本当は寂しかったのかもね。だからって、知月を殺した事を許せる訳じゃないけど、何かね、とにかく変な感じなんだ」

 自分の胸の内に渦巻くものを巧く表せないまま、美佳子はとにかく言葉に出してみた。言葉に出せば、もっとはっきりした形になるかも知れないと思ったのだが、それでも今一つよくわからないままだった。

「私も……、姉上の事はわかっていませんでした。いいえ、わかろうともしていませんでした。私、姉上を怖がって逃げ出すだけで……、自分の事しか考えていませんでしたから……」

 人を殺し、母を殺した沙尼が怖くて逃げ出した。怖がって、逃げ出す事だけで精一杯で、何故、沙尼が人食いに堕ちてしまったのか、沙尼が何を思っていたのか、そういった事までは考えが及ばなかった。

 知った所で何も変わらなかったかも知れない。知っていれば何か変わったかも知れない。今となっては詮なき事だが、それでも、胸の奥に重い苦みは残る。きっと、生涯消える事もないだろう。

「姉上と一緒に暮らしていたのは、小さな頃のほんのわずかな間だけでした。私、不甲斐ないので、姉上にはいつも叱られて、馬鹿にされてばかりでした。

 ですが、あの頃の姉上は、いつも凛として、綺麗で、強くて、格好良くて、ずっとあこがれていて、大好きでした」

 たどたどしく語り終えた景都が口を閉じると、美佳子は「そう」と答えて小さく頷いて、柔らかい笑みを返した。

「いつか、もっと聞かせて、景都さんの事も、お姉さんの事も」

「──はい」

 答えて景都は頷いた。

「あの、お嫌でなければ、私にも聞かせて下さい。二階堂様の事を──」

「ニカコ」

 景都の言葉を美佳子は遮った。

「ニカコ、って呼んで。二階堂美佳子だから略してニカコ。大抵の友達にはみんなそう呼んでもらってるから。いいでしょ、……景都?」

「……はい、ニカコ」

「うん、よし」

 と、美佳子は満足そうに頷いた。

「あたしの事だけじゃなくて、マリの事とか、知月の事とか、色んな事を話すよ」

 知月の思い出を話せば、寂しくて、悲しくて、泣き出すような事もあるかも知れない。しかし、景都が沙尼の事を話せば、やはり同じかも知れない。

 そんな時は、一緒に泣けばいいのだと思う。

 思い切りわあわあ泣いて、慰め合って、励まし合って、そんな風にやっていければいいと思う。

 きっと、そういう事ができる友達になれるだろう。

 美佳子はそう思った。


§


 景都と美佳子から距離を取り、マンションの門塀の角で淳弘と茉莉花は足を止めた。

「えっと、それで話って?」

「うん。あのね……」

 淳弘と向かい合う茉莉花は恥ずかしそうにうつむいて話し始めた。

「志岐くんは……景都さんが、好き?」

「……うん」

 出し抜けの茉莉花の問いにどきりとしながらも、淳弘ははっきりと頷いた。

「そう、だよね。いつから?」

「初めて会ったのが十年くらい前で、その頃からずっと、かな」

「十年……! それは、すごいね……」

 淳弘の答えに茉莉花は目を丸くした。

「志岐くんは結構もてるのに、ちっとも恋愛の話とかなかったのは、やっぱり、ずっと景都さん一筋だったから?」

「まあ、そうなるのかな……」

 照れ臭そうな淳弘の答えを聞いて、茉莉花は溜め息を洩らす。

「やっぱり、敵わないな……」

 と、諦めを吐いた。

「あのね、私、志岐くんが好きだったの」

 茉莉花の告白に今度は淳弘が目を丸くした。

「でも、仕方ないよね。志岐くん、景都さんに夢中すぎて、私が割り込む隙なんて、全然なさそうだし。だから、いいの」

「ええと……」

 どう反応していいかわからない様子の淳弘に、茉莉花はくすっと笑い声を洩らした。

「もう! いいの、って言ってるのに。気にしないで。あのね、恋愛に関しては、女の子は男の子よりもずーっとタフなんだから。失恋の一つや二つでへこたれてられないの。失恋したって、すぐに次の恋を探し始めるの」

「そ、そうなんだ」

 テンション高くまくし立てる茉莉花の勢いに呑まれて、淳弘は微かに頬を引きつらせた。

「そうなの。だから、気にしないで。景都さんとお幸せに!」

 冷やかすような茉莉花の笑顔に、淳弘は顔が熱くなるのを抑えられなかった。


§


 二人が内緒話から戻った後、連れ立って帰る淳弘と景都に別れを告げ、茉莉花と美佳子はマンションの入り口をくぐった。

 戻った時、待っていた景都と美佳子の間の雰囲気が和らいでいるように感じて、茉莉花は少しほっとした。

「景都っていい子だね」

 エレベーターに乗り込み、二人きりの狭い空間の中、美佳子が口を開いた。

「うん。すごく素敵な人。あんな人がいたんじゃ、とっても敵わないよ。私、志岐くんにふられちゃった」

 茉莉花は弱々しく肩をすくめた。

「何だか、色んな事がありすぎたね」

 吐き出す言葉に溜め息が混ざる。

「うん。知月が死んじゃってて、あたしは殺されそうになって、マリを身代わりにしようとした」

「でも、ニカコちゃんは私を助けようとしてくれた。景都さんは自分を犠牲にして私達を助けようとしてくれた。それでも、みんな殺されそうになって、景都さんと志岐くんが必死に戦って助けてくれた」

「あたしは、マリに自分の駄目なトコをいっぱい見せちゃった。それなのに、マリはあたしが思ってたよりずっと強くて優しくて、惚れ直しちゃったな。それと、景都と友達になった」

「私も、景都さんと話したいな。志岐くんを取られちゃったけど。失恋しちゃった」

 いつの間にか、二人とも涙を零していた。あふれる感情を抑えられず、涙になって止め処なく流れ出していた。

「知月が……、知月はもういないんだ……」

「知月ちゃんと、もっと、話したかった……。もっと、一緒にいたかったよ……。知月ちゃん……」

 もう二度と会えない友を思い、二人は泣いた。

「ニカコちゃあん……!」

「マリぃ……!」

 美佳子の部屋の階でエレベーターが止まると、二人は抱き合って泣きじゃくりながら、転がり出るようにしてエレベーターを降りた。抱き合って号泣する若い女二人の姿はどう見てもただ事ではなく、深夜で他の住人の姿がなかったのは幸いだった。

 そして、二人は一晩中泣き明かした。


§


 淳弘と景都は二人並んで帰途をたどった。

 疲れた体でゆっくりと、言葉少なに歩いて行く。

 考える事も、話す事も、いくら時間があっても足りないくらいあるが、今はただ静かに歩く。二人で帰り道を歩いて行けるという事実を噛み締めて。

 冷たい夜風が身を切るけれど、つないだ手と手が温かい。

 空には銀色の月と冬の星座がきらめいて、遠い地上のちっぽけな幸せを照らし出す。

 やがて、二人は家へとたどり着き、そっと扉を押し開けて、声を揃えて互いに言った。

「「ただいま」」

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