5.
響く呼び鈴の音に景都がびくっと震えた。
時計は既に九時半を回り、来客には少し遅い時間とは言え、普段であれば何の事はない音のはず。しかし、今のこのタイミングでは、やけに不穏なものを感じさせた。
「はい?」
「あ、えーと、志岐? 遅くにいきなりごめんね。ちょっといいかな?」
「ニカコ? ちょっと待って、今、開けるから」
ドア越しに聞こえたのは、聞き慣れたクラスメイトの声だった。いくらか歯切れの悪い声に訝しさを感じつつも、ドアチェーンを外し、鍵を開けて、家の中と外を隔てるドアを引く。
「いやー、悪いね」
「いいけど、どうしたのさ?」
ドアの向こうには、笑みを浮かべる
「ニカコに、美島さん──」
と、名前を言いかけて止まった。
「じゃあ、ないね」
一瞬で背筋が冷たくなった。
美佳子の隣に立つ人物。よく知るクラスメイトの美島知月──と同じ顔をしている、同じ背丈で、同じ体つきで、同じような笑みを浮かべている。
しかし、違う。
これは美島知月ではない。
淳弘の左目に映る姿は美島知月のそれと寸分違わない。しかし、焼けつくような痛みに破裂しそうな右目が違うと告げる。
これは美島知月ではない。
人間ですらない。
もっともっと、途方もなく恐ろしい何かだ、と。
夕方に会った時はわからなかったが、心構えができていた今は、注意を凝らして見れば知月に化けた上辺の奥にあるものが透かして見える。
「ほう。今度は見破ったか」
知月の姿をした何者かが感嘆の声を上げた。その声は知月と同じ声だったが、
「儂が見えておるな。面白い目をしておるようじゃの」
次の言葉を吐く時には、まったく別の声に変わっていた。
「どうやら、只者ではないようじゃな。でなければ、儂の変化を看破するなどあり得まい」
知月に化けた何者かがほくそ笑んだ。
「ま、少々驚かそうと思うただけじゃからの。見破られたなら化けている必要もあるまい。では、あらためて──」
一瞬、空気が歪んだような気がした。
そして、次の瞬間、知月の姿が消えたその場には、まったく別の姿があった。
「儂の名は
くっくっと揶揄するような笑い声が真紅の唇から洩れた。
「妹の顔を見に参った。景都はおるかや?」
沙尼が艶めかしい笑顔で淳弘を見据えた。
その色香婀娜めく姿を前にしても、淳弘には戦慄ばかりが襲いかかる。本能で感じるのは紛う事なき恐怖そのものだ。
これは正真正銘の化け物だ、脆弱な人間などたやすく殺してしまえるのだ、と。
その場から一歩も動けないまま、冷や汗がこめかみを伝って流れ落ちた。
「……姉上……」
背後からの声にも振り向けなかった。
いつの間にか玄関へやって来た景都が淳弘の隣に並んだ。横目で見るその表情は、青褪めて強張っている。
「景都、息災のようじゃな。儂を追って来た──という訳ではなさそうじゃの。しかし、呑気に男と乳繰り合うておるのは、ちと気の抜きすぎではないかえ?」
「そのような……っ!」
嘲りの言葉にかっと顔を赤くした景都が声を上げるが、沙尼の一睨みで息を呑み口をつぐんでしまった。
「景都」
トーンを落とした重い声で沙尼が言う。
「儂を討つか?」
景都は黙って頷く。
「一族の裏切り者、母の仇、その儂を討つか? そなたごときでは儂には到底敵わぬと知りながら、それでもやってみるか? どうじゃ、景都?」
沙尼はすっと手を伸ばし、景都の頬に指でふれた。その瞬間、怯えた景都がびくっと身を震わせた。
「もし、そうであれば、景都、儂は感心する所じゃ。弱虫景都が必死に覚悟を決めて儂を追って来た事にの。そなたが儂と戦うて、勝ち目はいかほどじゃ? 二割か? 三割か? どれだけひいき目に見ても三割はあるまい。だいぶ甘く見ても二割がせいぜいかのう。どうしたのじゃ、景都? 震えておるぞ?」
青くなり、赤くなり、また青くなった景都の顔は、血の気を失って死人のようになっていた。見開かれた目は瞬きもできず、沙尼を見つめて恐怖を映す。
「ふふ。しかし、そうではなかろう。──景都、そなた、逃げたのじゃろ?」
沙尼の言葉を受けて、景都の顔が強張った。
「おお、景都、そのように怯えるでない。儂はそれで良いと思うておるからな。一族の掟だの、母の仇だの、そのようなくだらぬ事はすべて投げ出してしまえ。どうせ鬼喰いはそなたが最後の一人じゃ。律儀に掟なぞに従って儂を討っても誰も褒めてはくれぬし、討たなんだ所で誰も責めはせぬわ。忘れよ、景都。鬼喰いとしての己も、儂の事もすべて忘れて、そなたの望むように人となって、好いた男と暮らせばよかろう。それがそなたのためじゃ。儂も面倒は好かぬゆえ、そなたと無理に事を構えようとは思わぬ。じゃから、儂は今晩にもこの街を去ろう。そうして、そなたの前には二度と姿を現さぬ」
沙尼が微笑む。それは妹を思う姉の笑顔のようにも見えた。
「ただし──」
しかし、それは一瞬の事。次の瞬間には沙尼の笑顔は冷たく凄惨な色に染まった。
「それは、儂が人喰いである事を見逃すという事じゃ。儂がそなたの目の届かぬ所でどれだけ人を喰らおうと構わぬという事じゃ。じゃから──」
にいっ、と沙尼の口の端が歪む。艶めかしく、凄まじく、見ているだけで心臓を鷲づかみにされたような錯覚すら感じる禍々しい笑み。
沙尼がちらりと視線を横に流すと、その先にいた美佳子がポケットから携帯電話を取り出して、景都と淳弘の方によく見えるようにディスプレイを差し出した。
「儂は街を去る前に、この人間を喰い殺す」
美佳子が差し出すディスプレイに映し出されていたのは──、縛られて、猿轡を噛まされているが、はっきりと誰だかわかるその写真は──、
「な……」
驚愕の声は、凍りつく景都の隣で上がった。
「何で……、何で、菅藤さんが、こんな事……っ! ニカコ、これは……! それに、そもそも、何でニカコがここに……!」
頭に血が上って巧く言葉にならなかった。美佳子が沙尼と一緒にいる理由も、茉莉花が捕まっている理由も、落ち着いて考える事もできずに気ばかりが焦る。
美佳子は淳弘が取り乱す様に気圧されて、唇を噛んで目を逸らした。
「だ、だって……」
目を逸らしたまま、美佳子はぼそりと呟きを洩らした。
「あたし……、し、死ぬのは、嫌だもん……」
ぼろぼろ涙を零して崩れ落ちそうになる美佳子を、逃がさぬとばかりに沙尼が抱き寄せて支えた。
「くく。そう責めてやるな。可哀想ではないか。
儂はの、初めはこの美佳子を喰うつもりであったがの、どうしても死にたくないと言うのでな、代わりを差し出してもろうたまでじゃ」
沙尼は嗚咽を洩らす美佳子を嘲笑って言った。
「誰しも我が身が一番大事であろうしのう。仕方あるまい? 淳弘と申すのであったな? そなた、美佳子を責められるか? 自分の命を守るために他の者を犠牲にせぬ、と言い切れるか? でなければ、美佳子を責める資格はなかろう?」
「それは……」
淳弘は即答できなかった。
沙尼はそんな淳弘を冷たく笑い、再び景都の方へ視線を戻した。
「さて、景都。正直な所、儂はそなたと戦いとうない。戦えば、十中八九は儂の勝ちじゃが、残りの一割二割で怪我をする。それが嫌じゃ。儂は臆病での、負ける喧嘩はおろか、怪我をするかも知れぬ喧嘩もしとうない。じゃから、そなたと同じ街にいるくらいなら、居心地が良かったのでちと惜しいが、出て行く方がましじゃ。じゃが、そなたが何かの拍子でその気になって、後から儂を追って来たりしようものなら、煩わしくてかなわぬ。
儂はの、安心するために、そなたが追って来ないという確証が欲しいのじゃよ。
景都、そなた、儂が人を喰うのをみすみす見逃して、その後で儂を討つために追えるかえ?」
沙尼の問いに景都は答えられなかった。
しかし、その沈黙が答えである事を、沙尼も景都もわかっていた。
きっと、否、決して景都は沙尼を追えない。
救えたかも知れない最初の一人を見殺しにした時点で、景都の心は折れるだろう。
その後で、仮に沙尼を討ち果たす事ができたとしても、最初の一人を見殺しにした事実は消えない。最初に逃げた後悔はなくならない。だから、景都は目を逸らし、逃げ続ける道を選んでしまうだろう。母を殺されてなお逃げてしまった時と同じように、逃げ続けてしまうだろう。
沙尼は景都の心の弱さを見透かしていた。景都に自分の人喰いを見逃させる事で、景都を消極的な共犯者としての意識を刻みつける。その後でいくら足掻いても、ただの自己満足、ただ自分が楽になりたいためだけの偽善にしかならない事を思い知らせ、縛りつける。
そうして、決して自分を追うために立ち上がる事などできないように景都の心をへし折ってしまう。それが沙尼の狙いだ。
「じゃが、この茉莉花という娘をどうしても救いたくば、儂を力づくで止めても構わぬぞ」
そして、もう一つは、沙尼にとってより確実だが、幾ばくかのリスクを伴う方法。
「儂がそなたを殺してしまえば、何の憂いも残らぬゆえのう」
わずかでも自分を脅かす可能性のある景都を殺してしまえば、不安は何も残らない。ただし、景都との戦いで負傷を受けるリスクはある。それでも、リスクに見合う収穫はある。沙尼にとっては、どちらでも良かった。
「真夜中まで時間をやろう」
夜気を裂くような沙尼の声がその場を制した。
「十二時をすぎれば、儂はこの街を去る。二度とこの地に戻る事はあるまい。それは約束しよう。ただし、去る前にする事は、景都、そなた次第で変わるぞ。
そなたが儂を討ちに来れば、そなたと儂は戦うてどちらかが死ぬ。まあ、そなたが死ぬ事になるであろうがの。もしかしたら、儂を殺して、あの娘を救い出せる可能性も皆無ではなかろうの。
来なければ、儂はあの娘を喰う。喰った後にこの街を去る。生贄一人と引き替えに、余生を安泰に暮らすがよかろう」
妖美に微笑む沙尼が淳弘の方にも視線を向けた。
「そなたにも関わる事じゃぞ。二人の女のどちらを生かしてどちらを殺すか、そなたが選ぶようなものじゃからな。そなたが行けと頼めば景都は喜んで死地へ赴くであろうし、行くなとすがれば留まるであろうからのう」
と、言う事を言い終えた沙尼が目を伏せて閉じる。
それから、目を閉じたままゆっくりと顔を上げて、
静かに目蓋を開き、
轟、と響かんばかりの殺気を放った。
「──では、さらばじゃ。儂の居場所は後で美佳子から知らせが行こう」
すっと沙尼が抱えた美佳子ごと身を翻し、その場から去って行った。
後に残された淳弘は、足が震えるのを止められなかった。
沙尼の放った殺気が体を打ち据えた瞬間、自分は死んだと思った。もしも、蟻が踏みつぶされる瞬間の気持ちがわかるとしたら、きっとこういう気持ちなのではないだろうか、そう思った。
そして、淳弘の隣ではカチカチと鳴り止まない音が続いている。
きつく我が身を抱き締める景都が震えて歯を鳴らし、今にも崩れ落ちそうな足下に濡れた染みが広がっていく。
一睨みで圧倒的な差を見せつけた姉への恐怖のあまり、景都は涙を流して失禁していた。
§
景都の動揺があまりにひどく、震えが止まらず足下も覚束ない有様だったので、何とか落ち着かせようと、着替えをするついでに沸かしてあった風呂に入らせた。
景都が取り乱す分、自分がしっかりしていなくてはならない、と淳弘は自身の動揺を懸命に抑えながら、玄関先の片づけを終え、居間のソファーに腰を沈めて待つうちに美佳子から携帯電話にメールが届いた。
知月の住むマンションの近くに廃ビルがある。老朽化し、取り壊すより他にないのだが、オーナーが解体費用を捻出できずに何年も放置されている建物だ。近所の小学生からは、その風貌から『お化けビル』と呼ばれている。
そこで沙尼が茉莉花を人質にして待っている。
時計の針は十時半を指していた。
あと一時間半。それだけ過ぎれば茉莉花は沙尼に喰い殺される。
あるいは、景都と沙尼の元へ向かい、茉莉花を助け出して沙尼と戦い──。
──言えるはずがなかった。
景都が沙尼を倒せば茉莉花を助け出せる。しかし、それが可能であろうか。立ち合う場面を見る間でもない。景都と沙尼では格が違いすぎる。景都とて鬼喰いの裔だ。人智の及ばないほどの力を持つのは間違いない。
だが、その景都を沙尼はただの一瞥で圧倒した。絶望的な隔たりがあるという事ではないか。──勝てるはずがない。
──友達を助けるために、代わりに死んでくれ。
そんな事を景都に頼めるはずがなかった。
茉莉花を見捨てる訳にはいかない。
しかし、そのために景都を見捨てる事もできない。
どちらも選ぶ事はできないのに、どちらかの結末が待っている。沙尼の用意した残酷な選択が恨めしく、ぶつける宛てのない怒りがただただ我が身の中で煮えたぎった。
煩悶する淳弘の元に、静かな足音が近付いてきた。
「──淳弘」
小さくささやくように名を呼ぶ景都。
汚した薄紅の代わりに
「私、行きます」
うつむいて、そう呟いた。
「姉上の元へ行きます。私、姉上を討ちます」
ぼそぼそと呟く景都は顔を伏せて、隣にいる淳弘の方を向こうとしない。
「私、大丈夫ですから。心配しないで下さい」
「景都……」
こらえきれず景都を抱き締めた。
「何が大丈夫なもんか!」
力一杯景都を抱き締めた。強く、強く。
「大丈夫な訳ないじゃないか……」
腕の中で景都が震えていた。温まったはずの体が冷たく強張って、真っ白な顔をひきつらせて。失禁するほど恐ろしい相手に立ち向かおうと言うのに、殺されに行くようなものだと言うのに、大丈夫なはずがない。
「大丈夫、です……」
景都の目に涙がにじみ、かすれる声が震えた。
「大丈夫……、大丈夫ですから……」
嗚咽が混じる声を必死に絞り出し、ひたすら「大丈夫」を繰り返す。
「きちんと、淳弘の友達を助けますから……」
涙があふれて止まらない。
「ごめんなさい……」
しゃくり上げてしまって途切れる声で、必死に言葉を紡ぐ。
「巻き込んでしまって……、ごめんなさい……。私、会いに来てはいけなかった……」
「景都っ!」
淳弘の両手が景都の頬を挟んで顔を上げさせる。涙で曇った景都の瞳を、淳弘は真っ直ぐに覗き込んだ。
「そんな事、言わないで……」
涙の奥の瞳をじっと見つめる。揺れる澄んだ瞳を。愛しいその瞳を。
「僕は、景都に会えて嬉しかったよ」
そう言って微笑んだ。
「ずっと、景都に会いたかった。景都に会えて、景都が会いに来てくれて、本当に嬉しかった。まだたった一日しか経ってないけど、景都と一緒にいてすごく楽しかった。景都と一緒にご飯を食べて、一緒に出かけて、一緒に過ごすのがすごく楽しかった。また家族ができたみたいな気がしたんだ」
と、淳弘はそこで言葉を切って、小さく息を吸い込んで、それから再び口を開いた。
「景都は聞かなかったよね、どうしてこの家に僕一人しかいないか」
「──はい」
小さな声で答える景都の瞳に、寂しげな淳弘の瞳の色が落ちる。
「死んだんだ、みんな」
景都が息を呑んだ。
「両親の事は景都も知ってるよね。あの事故の後、僕を育ててくれたお爺さんは僕が中学校の頃、お婆さんは半年くらい前に。二人とも随分と長生きしたから、天寿だったんだと思う。それから、僕はこの家に一人なんだ」
祖父母が淳弘の両親の遺産を、淳弘の将来のためにとほとんども使わずに残していてくれた事は後にわかった。
祖父を亡くした後、負担をかける事を気にして、高校へは行かずに就職しようという考えを祖母に告げた所、進学するお金くらいあるからしっかり勉強して大学まで行きなさい、と本気で叱られた。今、思い返しても、あんなに怒った祖母の姿は他になかった。
実際、淳弘に残されていた遺産は、進学し、大学を出るまで生活していく資金としては十二分な額だったが、それは大切に使わなくてはいけないお金だ。毎月、決まった額だけを生活費と少額の小遣いに充て、それ以外の個人的な出費はアルバイトで貯めた分から賄った。幸い、高校の二年までの間、夏冬の長い休みを使って貯めたバイト代はそこそこの額になっていた。
自制して生活している分には金銭的に不自由する事はない。祖母の叱咤で心を入れ替え真面目に勉強もしてきたおかげで、受験でも希望通りの成功を収める事ができた。まだ手探りな部分はあれど、将来の目標もある。
──ただ、それなのに、家族がいない。
親を亡くした空虚な穴。その穴は祖父母が埋めてくれた。淳弘を慈しみ、時には叱り、実の両親の分まで心血を注いで育ててくれた。
しかし、その祖父母を失い、淳弘の胸には埋まったはずの穴が再び開いてしまった。
「だから、景都がいてくれて──、」
そこに景都が来てくれた。誰もいない家に、自分以外の誰かがいてくれる。──それが嬉しい。
「景都が一緒にいてくれて──、」
同じ屋根の下で、一緒に過ごす人がいる。一緒にいる人の、息吹がある、鼓動がある、体温がある、笑い声がある。──それが嬉しい。
「それが──、」
一緒にいてくれる人がいる。──それが嬉しい。
「──嬉しいんだ」
──それが、何よりも嬉しい。
思い出した。その喜びを、その温もりを、二度までも取り上げられた幸せを。
景都がそれを思い出させてくれた。この一日、淳弘は幸せだった。間違いなく、心から幸せだったと思った。
──もし、何かに迷う事があれば、自分の中で大事な事の優先順位を決めて、それに従って行動すればいい。
亡き祖父の教えの言葉。では、今の淳弘にとって、一番大事なのは何か。他のすべてをなげうってでも守りたいものは何か。他の誰かに恨まれ罵られても、自分自身でさえも軽蔑するとしても、どんな犠牲を払ってでも、自分を最低の屑に貶めてでも、それでも守りたいものは何か。
きっと、その言葉を口にすれば後悔する。一生、自分を軽蔑し続け、許す事はできないだろう。
しかし、それでもいい。
二度と胸を張れなくてもいい。この先に待ち受けているものが汚辱と後悔だけでもいい。たった一日分の幸せを宝石のように抱えて、喜んで泥に飛び込もう。
この幸せをくれた人のためならば。
「景都」
覚悟を決めて口を開く。たった一言を言うために。
──すっと指が唇にふれた。
淳弘がその言葉を口にするより先に、景都の人差し指が唇を押さえてふさいだ。
「駄目です」
景都が微笑む。穏やかな笑顔は花のように綻んで、優しく柔らかく淳弘を包んだ。
「そんな事、言わないで下さい。言ってしまったら、淳弘も私も駄目になってしまいます」
唇を押さえる景都の指がゆっくりと横に滑り、手のひらで頬にふれた。もう一方の手も反対の頬に添えて、景都と淳弘は互いの頬を互いの手で包み合う形になった。
「淳弘」
唇が近付きながら想いを紡ぐ。
「愛しています。愛していました、十年前からずっと。あなたを愛しています」
そして、唇がふれた。
唇と唇がそっとふれあうだけのキス。それでも、ふれあう唇から想いがあふれ、互いを包み込んでいく。きっと、愛しているという想いは言葉だけでは伝え切れないのだ。だから、こうして直接ふれて、体と心を一つにつなげて伝えるしかないのだ。その時、二人とも同じようにそう感じていた。
どれだけの間そうしていたのか。自然に唇が離れた後、景都は照れ臭そうに頬を染めて微笑んだ。
「淳弘、私、ずっと淳弘と一緒にいたいです。これからもずっと、淳弘の傍にいて、一緒に暮らしていきたいです。だから、お願いがあります」
景都は涙を拭いながら、淳弘が口を挟む前に先を続けた。
「私が姉上に勝ったら、ご褒美を下さい」
「ご褒美……?」
「はい」
頷く景都の頬が赤みを増す。
「姉上に勝ったら、私を淳弘のお嫁さんにして下さい」
淳弘は不意を打たれて目をむいた。
「あの……! もし、約束してくれたら、私、きっと姉上に勝ちますから! 何としてでも勝ってみせますから!」
勢い込んでまくし立てる景都の顔は火を噴きそうなほど真っ赤になって、顔だけでなく首筋まで赤く染まっていた。
「駄目……、でしょうか……?」
言葉をしぼませた景都がうつむいて、ちらりと上目で淳弘の顔を伺い見る。淳弘はそんな景都の頭を抱え込むようにして、頭の天辺に口を寄せた。
「約束するよ」
天辺から伝わる言葉に景都がびくっと身を震わせた。
「僕も景都が好きだよ。十年前からずっと好きだった。これからもずっと好きだよ。だから、もう絶対に離さない」
十年前、淳弘を助けてくれたお姫様が、今、腕の中にいる。ずっと離れていたけれど、ずっと心の中にいた。十年前に恋をして、今までずっと恋をしていて、きっと十年先も、二十年先も、死ぬまでずっと恋をしている。
「景都を愛してる。僕とずっと一緒にいて欲しい」
「……はい」
腕の中で景都が頷いた。
時計の針が十一時を指す。真夜中まであと一時間。
沙尼を倒す目算など何もない。それでも、逃げずに立ち向かうと二人で決めた。何に恥じる事もなく、二人で手を取り合って生きていくために。
「きっと……、いえ、必ず勝ちます」
景都は意気込むように言ったが、それでも「勝てます」とは言えなかった。景都は生まれてわずか十八年。対して沙尼は既に百年以上の齢を重ねている。数百年生きる鬼喰いの寿命からすれば、沙尼は成長し経験も積んで充実した最盛期、景都は未熟なほんの子供。しかも、あやかしをろくに喰わずにいる景都と違って、沙尼は人を喰って存分に妖力を蓄えているだろう。
力の差は途方もなく大きい。それでも、景都は沙尼を討たなくてはならない。ならば、せめて、戦う前から気持ちで負けるような事があってはならない。
「簡単にはいかないでしょうけれど、勝ち目がない訳ではありませんから……、勝ちます」
虚勢でもいい。気持ちだけでも勝つつもりでいなくては、わずかな勝機さえ逃してしまう。淳弘に答えながら、自分にも言い聞かせるようにして、景都は薄い胸を精一杯張った。
「……うん」
淳弘は景都の張り詰めた気持ちを感じて、それに水を差さないように頷いた。
「行こうか」
「はい」
向かう先は死地。それでも、もう恐怖はない。
二人はしっかりと手を取り合って立ち上がった
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