第3話 ――引きこもれ、クローゼットの住人――

【第三話 ――引きこもれ、クローゼットの住人――】




 門の前に立って、大きな旅行用キャリーケースを片手に、白い洋館風の家を見上げる。

「今日からここが、私のおうち」

 もともとおじいちゃんが長年住んでいた家でメンテナンスは定期的にしてあったし、引っ越しは掃除と電気水道諸々の手続きだけで済んだ。

 実家も近いし、慣れた家だし、勢いで決めた一人暮らしの障害は、泣きそうな顔で心配するパパだけだった。

『女の子の一人暮らしなんて絶対に駄目だ! 危ない! 第一、おじいちゃんの家なら近いんだから、行きたいなら通えばいいだろう。どうして一人暮らしをする必要があるんだ』

 ごもっとも。

 でもこれが、お互い仕事の都合がつかなくて、電話でのやり取りだというのがちょっと泣ける。春先は空港は転勤や旅行などの利用客が増えて忙しいし、出版社も春は何かと新刊や増刊号が組まれて忙しい。

 でも、ママは強かった。

 母は強し。名言です。

『あら。知らない街で一人暮らしをされるより、近いほうが心配が少なくていいじゃない? いざというときでなくても、すぐに駆けつけられる距離だし。それに今だって、一人暮らしをさせているのとそう変わりないわよね』

 夜勤だったり出張だったり泊まり込みだったりと、家を留守にすることが多いパパが、この意見でぐっと黙ってしまってKО。

 実際パパはここ数日、宿直続きで帰って来られない。

 ママ、相変わらず強い。

『それに、私のお父さんの家だもの。ご近所の様子も知っているし、家そのものも頑丈だし、セキュリティもしっかりしているし。娘の一人暮らしに、これ以上都合の良い家はないと思うわよ』

 持ってきたのは当面必要な着替えやちょっとした生活用品だけ。

 季節外れの洋服や本、その他かさばるものは、後日配送してもらうことになった。

「そもそも、一人暮らしじゃないんだよね。パパやママには内緒にしているけど」

 ヌーさまやおシャレさんは、『居着き妖怪』なのだそうだ。

 文字通り、家に居着いた妖怪。

「だから気分的には同居……ちょっと違うな。同棲? も、ちょっと違うし。シェアハウス?」

 まあいいか。

 郵便ボックスに入っていた新聞を手に取り、玄関の鍵を開ける。

「ただいま!」




 昇るとちょっとぎしぎしいう階段を昇って二階の寝室が、今日から私の部屋だ。

 一階は例の部屋のほかダイニングキッチンと居間ぐらいしかないので、プライベートは二階だけになりそうな感じ。

 引っ越し初日だから、今日のごはんはコンビニで買ったお蕎麦にしてみた。

 引っ越し蕎麦の由来は江戸時代。

 『引っ越してきましたのでよろしくお願いします』と、ご近所さんに挨拶を兼ねて配ったから。

 『お側に来ましたのでよろしく』と、蕎麦と側をかけた言葉遊びの意味もあるという。

 江戸時代の人って全体的に言葉遊びが好きだよね。

「お蕎麦はお中元、お歳暮の主要戦力のひとつだからね……お客さま相手に披露するトリビアも覚えるよね。最近は蕎麦アレルギーの人もいるし、隣近所に挨拶なんかしないっていう人も多いみたいだけどさ」

 おじいちゃんが近所づきあいをきちんとする人だったから、私もすでに顔馴染みだ。今はちょっとバタバタしていてご挨拶に行けていないけど、近いうちに行かなくちゃ。

 今引っ越しのご挨拶として重宝されているのは、小さなタオルとかハンカチとか、あっても邪魔にならない物系だ。

 イーストデパートでも、こういうギフトはよく売れる。

 友達は一人暮らしをする際、隣近所にちょっと高価な箱入りのティッシュを配った。花粉症の人からはいたく感謝され、それ以降良い関係が築けているという。

 発想の勝利だ。

 もともと配るだけのものだったはずのお蕎麦を、引っ越してきた当人が食べるようになったのはいつからだろう。

 とはいえ、引っ越しというと、なんとなくお蕎麦が食べたくなる私は生粋の日本人だ。

「ごはんのとき、ヌーさまに聞いてみれば良かったかな」

 ヌーさまなら、知っていそう。

 超ご長寿美少年ぬらりひょんは、食事を摂る。

 食べなくても死にはしないけど、美味しいものを味わうのが大好きで、まずいものは食べないという贅沢なグルメでもあるらしい。

「おシャレさんはダイエット中だって言ってたけど……」

 食べない理由はそれだけじゃないような。

「第一、食べようにも噛めないだろうし、飲み込んだものがどこに行くのかもわからないし」

 もののけには色々なタイプがいるんだ、と思うことで片付けておく。

「まだそんなにもののけに詳しくないもん」

 勉強することはこれから山ほど出て来るだろうから、焦らない。

 お風呂に入ってさっぱりしてから、二階の寝室のドアを開ける。

 来てすぐに、窓をちょっと開けて空気の入れ替えをしておいたおかげで、埃臭さはかけらもない。

 小さいころからたびたび引っ越しをしていたから、引っ越しそのものには慣れている。生活リズムやスペースが馴染むまでの間は、なんかキャンプしているみたいな気分になるんだよね。

「でもおじいちゃんの家だから、慣れるの早そう」

 新しいシーツを敷いたべッドの上に腰を下ろして、私はお風呂上がりの濡れ髪を拭きながら、真新しいノートを取り出した。

 ドライヤーをキャリーケースからまだ出していないし、この気温ならドライヤーなしでもすぐ乾く。

 ショートヘアの利点だ。

 濡れ髪をぷるぷる振って、ベッドルームには机はないから、膝の上に直接ノートを乗せる。

 ベッドルームは小さめで、ベッドのほかはクローゼットしかない。

 ベッドが大きめだから狭くは感じないけど。

 さっきまで風を通していたせいか、壁に作りつけのクローゼットの扉がやけにギイギイ軋んでいる。

「建てつけが悪いのかな……? この家、築何年くらいだっけ。小さな折り畳み式のテーブルでも、そのうち買おうかなあ……家の中を捜せば、手ごろなものが見つかりそうな気もするなあ」

 おじいちゃんの遺した家具はありがたく使わせてもらうけど、ちょこちょこと片付けて、私が使いやすい、住みやすい家になるように手を入れていこう。

「もちろん、ヌーさまたちにとっても住みやすい家にしないとね」

 おじいちゃんのカルテは、これから参考にする資料として大切に扱って、少しずつでも読んでいくつもりだ。

 アプリで、ドイツ語の勉強も始めている。

 そして私は私で、新しくノートを付け始める。

 パソコンでデータ管理をするのも便利だとは思うけど、ここはなんだか、おじいちゃんのやり方を踏襲したい気持ちだったから。

 おじいちゃんのカルテが日誌も兼ねているように、昔も、そして今も、人間の世界ともののけの世界は繋がっている。昔に比べてひどく細い、頼りない繋がり方になってしまっているかもしれないけれど、それでもまだ繋がっている。

 それを受け継ぐ自分でありたい。

 この家で見つけた、私の夢だ。

 だから私も、もののけのこと、自分のこと、全部を手書きの文字で記していきたい。



 一ページめに書くのは、やはりこの一文だろう。



 新見杏南。先代もののけの医師、新見佐一郎の孫。

 今日より、この家で、もののけの医師としての勉強を始めます。



 ちんとんしゃん。

 雅なBGM、天井には造花の桜の花をいっぱいに飾って、イーストデパート春の最大イベント、『京都物産展』の開催でございます。


 ――うわああ、人の波! フロア中、人でいっぱい! 圧死しそう!

 京都物産展は人出も多いし売り上げも跳ね上がり、話題にもなるしその他のテナントの売り上げもつられて伸びるという、ゲームで言うならラスボスみたいな最強イベントだ。

 ただ、あまりに忙しすぎて、関わるスタッフ側としては嬉しいを通り越してもはや恐怖のお祭り。

 ――物産展恐怖のツートップ、京都と北海道!

 他の物産展ももちろん評判は良い。

 ――ただ、京都と北海道の破壊力が神レベルに高すぎるだけ!

 レジカウンターの中で私は、気合いを入れて店内アナウンス用のマイクを握った。

 レジカウンターが小さなバリケードで囲まれていることを心の底から感謝する。

 そうでなければ、とっくに押し潰されているんじゃないだろうか。

 ――物産展で殉死したくはないなあ……。

 混雑の具合は、都心の朝の満員電車と同列くらいかも――と言えば、恐怖の度合いが一部の人にはとてもよく伝わると思う。

 スプリングコートの時期だけど、デパートの中は空調効いているし荷物になるので、コートはサービスカウンターの手荷物預り所か、駅のコインロッカーに預けたほうが動きやすいですよ、お客さま方――と、心の中で語りかける。

 帰り際に忘れないよう、注意が必要だけど。

「新見さん、ぼーっとしてどうしたの。アナウンスお願い」

「ああ、はい」

 背後から永井さんに突かれて、できるかぎりゆっくりと滑舌良く、さっき暗記した内容をアナウンスする。

 たぶん皆、買い物に夢中でほとんど聞いてないと思うけど。

 それでもやるのが、イーストデパートなりの心意気でございます。

「皆さま、本日はイーストデパートをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。ただいま、六階イベントフロアにおきまして、『春の京都物産展』を開催致しております。京都の名物、銘品と謳われる品から話題の最新スイーツまで、京都の粋を集めました。どうぞごゆっくり、お買い物をお楽しみくださいませ」


 今日から始まった、イーストデパート春の風物詩、『京都物産展』。

 予想通り――いや予想以上に、朝から大変だった。

 物産展の初日の開店前は、上を下への大騒ぎなのだ。

 備品が足りない、時間が足りない、納入するはずの品がまだ届かない――バックヤードもフロアも、社員もバイトも出店スタッフもバタバタ、バタバタ。

 お客さまもお目当ての商品のために開店前から行列を作って、わいわいがやがや、お祭り騒ぎだ。整理券を配っても配っても、あっという間になくなる。

 ――『盆と正月がいっぺんに来た』って、嬉しいこと、忙しいことの代名詞だけど。

 イベントフロアにおいては、それは別に大げさでもなんでもない。

 今日一日の総動員数が、福袋でごった返すお正月三が日を合計したくらいにはなるかも――いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。

 福袋は数量限定なので早めに売り切れるけど、今回は朝から晩まで、それが一週間。

 気が遠くなるほど忙しい一週間になりそうだ。

 私は、もう一度マイクのスイッチを入れる。お客さまの熱気で、フロアがぼんやり霞んで見えるくらい熱い。

「なお本日、大変混雑しております。お客さまも、お手回りの品やお買い物袋のお忘れにどうぞご注意くださいませ」

 意訳。

 スリに注意してください。




 フロアに小さな区切りをいくつも作って、三十店以上の販売コーナーがひしめいている。

 宇治茶の試飲サービスに御手洗団子の実演販売、そのほか銘菓と謳われる京の和菓子は数知れず。

 もっちもちの生八つ橋、今や京都の代表的なスイーツとなった抹茶スイーツ、ぷるんぷるんのわらびもちに、色とりどりで宝石みたいな小さな飴、ちょっと渋めに五色豆。食べきれないほど、美味しいものがずらりと並ぶ。

 お菓子の他、名物ニシン蕎麦も実演と飲食コーナーあり、京野菜とお出汁をたっぷり使ったおばんざいも有名。お漬物は千枚漬け、柴漬け、どちらも甲乙つけがたい。

 どれだけ美味しいもので溢れているんだ、京都。

 そしてどれだけこだわるんだ、京都。

 こだわりの老舗でこだわりの職人さんたちが造る、こだわりの美味三昧。

 そして京都はもとは帝の御膝元の土地柄、着る物も欠かせない。

 京友禅の着物に、西陣織の帯。

 草履や下駄はお好みに合わせて鼻緒をすげるサービスあり、着物は試着コーナーあり。

 着物の生地をリメイクしたワンピースやバッグなども人気があるし、かんざしに用いられるつまみ細工を髪飾りやイヤリングなどのアクセサリーに応用もしており――以下省略。

 とてもじゃないけど、語り切れない。

 それくらい、京都物産展は売る方にとっても、気合いの入ったイベントなのだ。

 わいわい、ざわざわ、ざわめきと興奮で、リラックス系のBGMなんてもはや聞こえない。

 盛況盛況、大盛況。

 ということで当然、イーストデパートの社員もバイトも早朝出勤してフル動員だ。

 私は、和風小物の老舗名店のレジを担当している。売っているのは半襟とか帯揚げとか帯締めなどの、着付けに必要な小物だ。

 お値段はお手頃なものから目が飛び出そうになるものまで、多岐に渡っている。そこの辺りも、さすが京都だ。

 売り子には老舗からベテランスタッフが出張してきているから、接客はお任せして、私はひたすらレジ処理とヘルプに回っている。

「おい、この混雑なんとかしろや! 足踏まれたっつってんだろ、ごらぁ!」

 お客さまの波の向こう、はるか彼方でなにかをおほざきになっていらっしゃるお客さまは9番さんのようだけど、私は本日、四方を販売コーナーに囲まれた小さなレジカウンターの中から、一歩も出られない。

 この混雑が、開店直後から閉店間際まで続く。

 ――あー、酸欠になりそう。

 人酔いはすでにしてる。

 ――でも、このぶんだと、大入り袋が出るかな。

 他のデパートがどうだかは知らないけど、イーストデパートは、ギフトシーズンやこういう大きめのイベントのとき、売り上げ目標額を達成するとスタッフ全員に大入り袋が配られる。

 中身は飲み物だったり、プリペイドカードだったり。

 ちょっとしたものだけど、なんだか大入り袋って妙に嬉しい。

 ――お正月三が日に出勤したときも、お年玉もらえちゃったんだよね。500円。

 考え事をしながらも、手は忙しくレジを叩き、同時に目も光らせる。

 この混み具合だと、具合が悪くなるお客さまも多い。それと、最高レベルに警戒してほしいと事前にバックヤードで通達されているのはスリだ。

 満員電車並みに混んでいるから、スリをしようとして潜り込んで来るお客さまもいると聞いている。注意を払ってお客さまの安全を守るのも、私たちの役割だ。

 昨今のスリはスキミングが大半とはいえ、これだけ混み合っていると、お財布や貴金属などを抜き盗られることも珍しくないので。

 ――お願い、自衛してください!

 と祈るしかない。

 せいぜい、アナウンスでの注意喚起が関の山だ。

 働いている側の人間だって、身動きひとつ取れないんだから。

「俺が呼んでんだぞ、そこの店員、すぐ来い! 来いっつってんだろう!」

 それにしても、あの9番さん。

 来いって言われても、すぐに駆けつけられないって、見ていてわからないのかなー。

 わからないから9番さんなのか、それとも9番さんだからわからないのか。

 ――ニワトリと卵みたいな感じになっちゃった。

 私は軽く肩を竦める。

 京都のそれぞれの店舗から派遣されている店員さんたちも、これくらいの騒動には慣れているんだろう。見向きもしない。

 とはいえ、放っておくわけにもいかない。

 なんとかしないとなあ……と思っていたら。

 9番さんの周りのおばさま方が動いた。

 京都土産のお菓子の紙袋を両手いっぱいに抱えたおばさまその①が、迷惑そうに振り返る。

「ちょっと貴方、さっきから何なの? 耳もとで喚かないでちょうだい、うるさいわね」

 耳に金の大きなイヤリングを着けたおばさまその②が、そうよそうよと頷いた。

「これだけ混んでるんだから、足を踏まれるくらい仕方ないでしょう。それくらいでそんなに騒ぎ立てて、みっともない」

 おばさまその①が、ふと気づいて大きな声を上げる。

「あ、この人、さっき『三松屋みまつや』のお饅頭の行列に割り込もうとした男じゃないの! ちょっと警備員さん! この人、つまみだしてちょうだい!」

 ――おお。

 私が何もしないでいるうちに、9番さんが駆除された。

 心の中で、最敬礼を送る。

 ――グッジョブでございます、お客さま方。

 不意に、ちんとんしゃんのBGMが途切れ、『雨に唄えば』がかかりだした。

 雨が降って来たことを、店員に知らせる合図だ。反射的に窓を見ようとして、はっと気づく。

 イーストデパートにはほとんど窓がないから、天気をチェックできない。

「雨……てことは」

 レジの下から、紙袋にかけるビニール袋の束を取り出して在庫数を確認する。

 お客さまのお荷物が濡れないように、ビニール袋を上から被せるのだ。

 デパートたるもの、そこのところの抜かりはない。

 ――それにしても、雨かぁ……。

 こっそり、ため息をつく。

 春の雨は、ちょっと憂鬱。

 昔から、何故か春先の雨は苦手だ。

 冬の疲れが出やすいのかもね。

 心でため息、顔には笑顔。

「ちょっと、店員さん。これ打ち込みお願い、あと両替お願い。百円玉は明日はもっと用意しておいてくれる? 釣銭が足りなくなりそうや。それと領収書これで切って。名前これね。あと、紙袋の補充も頼んますわ。ほな、よろしく」

 出店スタッフさんに矢継ぎ早に言われて、私はフルスピードで手を動かした。

「はい、わかりました!」




「ぐったりしてるわね~……大丈夫?」

「ん~……あんまり大丈夫じゃないけど、大丈夫……」

「人の搾りかすが喋っているような不景気な声は止めんか」

 ヌーさまとおシャレさんが、それぞれ心配してくれている。

 閉店時間を大幅に遅れてバイトが終わって、疲労困憊、満員御礼。

 食欲も落ちているけどコンビニごはんを済ませてお風呂に入って、寝る前のひとときを、一階のもののけ部屋で、ぐったりくったりまったりしているところ。

「疲れておるのなら早う休まんか」

「疲れてるけど、寝るのはまだ早いもん」

「子供の夜更かしは感心せんぞ」

 ヌーさまは目がとろんとして、もう眠たそうだ。

「さすがお年寄り」

 眠すぎたらしく、反論なし。

 長椅子の上にごろんと寝そべって、私は手すりの上にいるおシャレさんに向かって、買って来たばかりの雑誌のネイル特集のページを広げて見せた。

 おシャレさんの全身をぴかぴかにデコってほしいと頼まれたので、とりあえず参考になりそうなものを買って来たのだ。

「おシャレさんが行ってた模様って、こんな感じ? それとも次のページの、もっとスワロ使った派手派手系?」

「きゃー、見せて見せて~!」

 おシャレさんは基本的に明るくて元気だけど、時々電池が切れたみたいにパタッと静かになることが多い。

 今はとっても元気。

 おシャレさんも夜型なのかな。

「こっちこっち、これよ杏南! これカワイイ! こういう感じに、蝶のシール貼って! それからキラキラストーンをセンス良くあしらって、ペンダントとかもほしいの!」

「首ないけど、ペンダントどこにかけるの」

「おでこ! ああでも、リボンも捨てがたいわよね。フリル、リボン、小さいころからの憧れだったわ!」

「オシャレさんて、何年前くらいに生きてた人なの?」

「うふふ~。忘れちゃったわ~」

「そうなんだ。あ。この雑誌、ヘアカタログもあるよ」

 おシャレさんはしばらくヘアカタログを眺めたあと、雄たけびをあげた。

「杏南! アタシ、カラーリングもしたーい!」

「髪は? ウィッグ被る? 形はあるから被れないことはないよね」

「ううん、カラーリングしたいだけ! 絶対ピンクよピンク! 可愛いわ~! こういうの見ると、アタシなんてまだまだ地味ね~!」

 おシャレさんは存在自体が派手なんだけど、そこら辺はつっこまないのが女の友情――なのかもしれない。

 どちらにしてもおシャレさんがすごく楽しそうで、私まで嬉しくなる。

 半分眠りかけてこっくりこっくり船を漕いでいたヌーさまが、怪訝そうに首を振る。ていうか、意地張って起きてないで眠ればいいのに。

 どこで寝ているのか、はっきりとは知らないんだけど。

「女子のこういう話には、さっぱりついていけん」

「ヌーさま、そういえばタンさんは?」

 室内を見回してみても、タンさんの姿は見えない。

「あやつは最近、二階の部屋を好んでおっての。きっとそっちにいるだろう」

「あ、そ」

「ベッド? とかいう洋風寝台の上がいたく気に入ったとかで、ほとんどこっちには降りて来ぬのよ。あやつも基本的に夜型だしのぅ」

「ベッド? 二階の?」

 聞くなり私は、おシャレさんを放り出す勢いで立ち上がった。




 階段を駆け上がり、寝室に飛び込む。

 ベッドの上に、シーツではない白い布が悠々と広がっている。

 ――いやまあ、素材的にはシーツと同じだけどさ。

 でも、私的にはタンさんは男性だ。

「ちょっと! このベッドは、私の! タンさん出て行って!」

 タンさんの足――と思われる隅っこ――を掴んで、一気に引っ張ってベッドから引きずり下ろす。

 床に叩きつけられたせいか、ビッターン! と、やけに良い音がした。

 眠りを妨げられたタンさんが、慌てて起き上がる。

「何事だ!?」

「何事だ!? じゃねえわよ。乙女のベッドに潜り込むなんて何考えてんの!」

「お前のどこが乙女だ!」

 パジャマ姿で腰に手を当て、ふんぞり返る。

「十九歳未婚女子、立派な乙女よ」

 どうだ参ったか。

「はっ、お前が乙女を称するなどおこがましい。まだまだ子供のくせに」

「高校も卒業しているし、子供ではありません。大体来年成人式だし」

「我らからみればお前など、まだまだ赤子の域だ」

「ともかく、この家の主は私よ。別に出て行けとは言わないけど、最低限のルールは守ってよね」

「ルール、じゃと?」

 おシャレさんを抱えて追いかけて来たヌーさまが、首を傾げる。

 さすが見た目は子供、中身は長老。階段を昇ってくるのにいやに時間がかかっている上に、軽く息切れしてる。

 眠気はすっかり覚めたらしい。

「あの部屋はおじいちゃんが生きていたときと同じように、もののけエリアにしておくつもりだからいてくれて全然構わないけど。二階はプライベートスペースよ。勝手に入り込んだりしてほしくないの。私、プライベートは大事にする派だし」

 ヌーさまがおシャレさんと顔を見合わせ、うーんとため息をついた。

「一反木綿はともかく、あとは、なあ……?」

「そうだわよ、ねえ……?」

 ふたりとも、いやに歯切れが悪い。

 隙を見て、諦め悪くベッドに上がろうとするタンさんの裾を踏んで押さえ込んで、私はヌーさまたちを見やる。

「何? その歯切れの悪さ」

 ――まさか。

 聞きたくないけど、聞いてみる。

「――この家、まだ妖怪がいたりする?」

「ワシも歳かのう。どんどん忘れっぽくなっていかんのう、げほごほ」

「こらそこ! 年寄りぶって誤魔化すな!」

「あの、ねえぇ~?」

 おシャレさんが、言いにくそうに一瞬黙ってから可愛らしく切り出す。

「杏南が思っているより、結構多め?」

 まいがっ。




「――居るの? まだ他にも? この家に?」

 天を仰ぐ私に、おシャレさんが取りなすように話しかける。

「大丈夫よぉ。杏南が来たことに気づかないでまだ寝ている連中もいるし、あっちから来ることはほとんどないだろうし。怪我してたり病だったりしたら別だけど、ほら、ここって基本的に『病院』だから。階段だって、普通に使えたでしょ? ちょっとアレなときは段数が違ったり、うっかり三階に繋がっちゃったりするから気をつけてね」

「うちに三階はないでしょ。どこに繋がるの、どこに」

 タンさんを引きずるようにして一階に連れ戻し、私はくつろぎタイムに戻った。

 細かいことをいちいち気にしていたら、この家では暮らしていけない気がする。

 でも気になる。

「基本的におとなしい妖怪はね、すぐには出てこないの。隠れてるから、姿は絶対に見せないわ」

「ちょっと待ってよ。そんなにいるの?」

「少なくともクローゼットに人型骨格標本の付喪神が引きこもってて、屋根裏部屋に家鳴たちがいるでしょー、それからトイレに棲んでるのと、階段の踊り場と、……ヌーさま、あとどこだったかしらぁ~? まだまだあったわよねえ?」

「いいいい、もういいから」

 私は慌てて手を横に振った。

「――あとでのお楽しみに、取っておく」

 思えば私も、なんと神経が図太くなったことか。

 自分自身で、ちょっと感心する。

 でもこの家にいるもののけがちょっと視えるだけで、外では遭遇したことがない。

 それが私の霊力が弱いせいなのか、現代にもののけが減ってしまったせいなのかは、よくわからない。

 ――この家にいるっていうだけで、なんか、警戒する気になれないんだよね。

 ヌーさまやおシャレさんみたいな明るいタイプにしか、逢ったことがないからかもしれないけど。

 ――もののけを、怖いとは思えない。

 今のところもののけって、ちょっと個性的なヒト、くらいの感覚なんだけど――もしかしてそれって、もののけに対して失礼な感覚なのかしら。

 ――もののけなんだから、怖がってあげないと失礼に当たる、の、かな?

 よくわからない。

 ――おじいちゃんが生きている間に、こういうことを聞けたら良かったのに。

 二階から引きずり下ろしてきたタンさんは不貞腐れて、隅っこの床に直接だらんと倒れ伏している。よほど、ベッドが気に入っていたらしい。

 すっかり目が冴えたらしいヌーさまは出窓のそばで、今日から配達が再開された夕刊を熱心に読んでいた。おじいちゃんの入院以来取っていなかった新聞を取ってほしいと言い出したのはヌーさまだけど、私もなんとなく納得できた。

 ――この家には、新聞が似合うものね。おじいちゃんも好きでよく読んでたし。

 そしてヌーさまの新聞の読み方は、あれだ。

 ――縁側で新聞読んでる、昭和のご隠居さんだ……!

 うぷぷ。

 ヌーさまって本当に、見た目は子供、中身は老人。もしくは超・老人。

 うちのおじいちゃん――皆が佐一郎と呼んでるおじいちゃんはダンディで、ヌーさまみたいに新聞を床に広げてあぐらかいて読んだりしなかったけどさ。

 おじいちゃんは籐の椅子にゆったり座って、葉巻を吹かしながら読む派だ。

 筆記用具は万年筆、コートはインバネス。

 紳士のたしなみとして、靴はいつもぴかぴかに磨き上げられた黒。どこまでもこだわりのある人だった。

「そう言えば杏南って、お化粧ほとんどしていないわねえ。ま、若いからそんなに塗り込む必要ないものねえ~。羨ましいわぁ」

 おシャレさんをデコる話ついでに、女子トークが盛り上がる。

 デパートで接客している以上、お化粧なしは有り得ない。高校まではお化粧禁止で、卒業したらいきなり、メイクをするのが当然の義務みたいになった。

 少しは猶予というか、練習期間が欲しいよ。女子の皆が、メイクが上手いとは限らないんだから。

「今はすっぴんだけど、バイトのときはそれなりにお化粧してるよ。肌がちょっと弱めだから、肌に優しいコスメ使ってる」

「あー、わかるわかる。合わない化粧品使うとお肌荒れるわよね~」

「そこそこメイクしてないと、お客さまに失礼に当たるから。しっかりメイクに見えるナチュラルメイクを勉強したよ。でも、あれだけはダメ」

「なあに?」

「マスカラ。あれは、塗ると目が痒くなる」

「あらまあ。そうなの~。アタシはマスカラでもつけまでも、どんとこいなんだけど」

 女子トークに、おシャレさんのテンションが上がって来たらしい。もともと、普段からテンションが高めのヒトだけどね。

「ねー杏南。マニキュアでカラーリングしてぇ♡」

「それはやめたほうがいいと思うよ。マニキュアって、そんなに広い部分塗るのに向いていないから。すぐ乾いてムラになっちゃうだろうし」

「え~」

「今度ちーちゃんに……ええと、美容系に詳しい友達がいるから、聞いてみるよ。全体的に塗るなら絵具とか、ペイントのほうが上手に出来そうだし。スプレー使ってグラデーション作るのも綺麗だと思うし」

「そうかぁ。杏南がそう言うなら、そうしようかしら」

「おシャレさんはいい子だね~。じゃあサービスで、今度、キラキラシールいっぱいつけてあげる。ネイルに使った残りとか、いっぱいあるから」

「そういうのって、乙女心が燃え上がるわね~! きゃー、楽しみぃ~♡」

 今度、お気に入りの和風の蝶やお花の金箔風ネイルシールで、おシャレさんを変身させてあげよう。

「お茶にしようか。京都のお菓子買って来たから」

 おシャレさんやタンさんは、食べ物には興味がない。

 新聞に熱中していたヌーさまが、無言でバンサイした。




 日付けが変わる前の時間帯のおやつは、ちょっとしたお楽しみだ。

 毎日じゃないけど、時々ね。

「今バイト先で京都物産展やっててね、色々買って来たんだよ」

「お。京の銘菓か。それは楽しみじゃ」

 長椅子の前の、脚の低い紫檀のテーブルの上に、包みをほどいていろいろ広げる。

「まずね、葛桜! これはマジでおススメ! 冷蔵庫に入れると固くなっちゃうから、保冷バッグに入れて来たんだけど」

「ほお。葛菓子は夏のものだろうに。気が早いな」

 そうでしょ?

 そう思うでしょ?

 私は、ふふんと胸を張る。

 うちに買い物に来るお客さんでも、年配の方は同じようなことを言うよ。あと、お茶をやっている人たちは季節感をとても重要視する。

 ああいう日本の美的感覚、ちょっと好き。

 だから私もそこの辺り、だいぶ詳しくなってきている。

 へへん。

「ここの葛桜はね、なんと、桜の季節にしか作らないんです! 春の今が旬の、季節限定グルメ! 桜の餡を、とろっとろの葛餅でくるんであるの。もうね、この美味しさを知っちゃうと癖になっちゃって、毎年楽しみになるよ!」

 私も、この葛桜を去年初めて食べて驚いた。

 桜を混ぜ込んだ白餡のさらりとした口解け、葛餅のとろんとろんの甘くて、それでいてすっきりとした口当たりと喉越しの良さ。

 一口食べると、口の中で葛餅も餡子もさらっとほどけて、舌の上でじゅわっと溶けて消えちゃう。

 あとに残るのが、桜の香りと葛の風味。

「私、これを食べたのがきっかけで、葛餅とか葛切りとか大好きになっちゃった。それまで和菓子にはあんまり興味なかったのに」

 お土産は、まだまだある。上生菓子は消費期限が短いけど、日持ちのするものも選んできたからね。

「金平糖とか飴も、京都のは細かくて可愛いんだよ。それとね、クッキー」

 は? と、テーブルの上を嬉しそうに眺めていたヌーさまが、妙な顔をした。

「京都で、洋菓子か?」

「え? 変? 京都のスイーツって美味しいよ? あとパンもいい。京都はイタリアンが美味しいって聞くし、修学旅行で泊まったホテルのオリジナルブレッドもおいしかった。あのね、朝食にパンビュッフェがあってね」

「え~!? 修学旅行って言ったら、朝から晩まで京料理じゃないの~?」

 定位置の、おじいちゃんの机に戻っていたおシャレさんが、ちょっと遠くから会話に混ざって来た。

「アタシ、京都の湯豆腐好きよ~! あと、湯葉ね~。朝はお粥さんがいいわ。できれば茶粥で~」

 食べなくても、好みはあるらしい。

「うむ。やはり京都と言ったら懐石料理じゃな」

 ヌーさまも何かを思い出したのか、ごくりと唾を飲み込む。

「極上の美味であった。手も込んでいて、さすがは京の都と感心させられたものじゃ」

「皆と一緒に湯葉作り体験は行ったけど、ピザ食べたりおうどん食べたり、ケーキ食べたりパフェ食べたりしたよ。今考えると、あんまり懐石料理とかは食べなかったかも」

「なんと。それでは、京都に行く必要がないではないか」

「え~? 現代の京都の食文化は、かなりの勢いでグローバルだよ? もともと美味しいもので舌が肥えてる人たちが、更に美味しいものを生み出し続けてるんだから」

 それに、今はアレルギーを抱えている子が多い。

「全員一緒のものを食べるっていうのが難しいから、食事のときはグループに分かれてそれぞれ好きなものを選んだり、あとはまあビュッフェだね。個人で好きなものを選んで食べれば、アレルギーの問題ないから」

「なんとまあ……時代は変わったのう」

「まあねえ、アレルギーはその人にとっては毒だからね。私も、豆乳飲むと頭痛がするの」

「豆乳でか?」

 私はうんうんと頷きつつ、胸の前で腕を組んだ。

「何でか豆乳だけね。あとでものすごく頭が痛くなるから飲まないようにしてる。大豆食品とかは全然平気なんだけど。むしろ、大豆食品大好き」

 あと、牛乳を飲むとお腹を壊す『乳糖不耐症』。

 日本人の半分くらいが、実はこの乳糖不耐症なのだという。症状の出方は人それぞれだし、症状もかなり違うみたいだけどね。

 子供のころは普通に牛乳を飲んで平気だったのに、大きくなるにつれてお腹を壊すようになった私は、その典型的な例のひとつ。

 おじいちゃんの入院中、顔見知りになった看護師さんに教えてもらった。

「高校のときはまだ体質に気づいてなくて時々ひどい頭痛を起こして、そのたびに保健室に行ってたよ」




 おやつを済ませてから、私は寝室に引き上げた。もちろん歯磨きは欠かさない。

「結構疲れたからな。今日は絶対よく寝れる……ふわあ」

 人目をはばからないあくびをして、ベッドに入る。

 けれどその夜、私は一晩中、切なくて悲しくて怖い夢を見てうなされ続けた。

 そして悪夢は、それから毎晩続いた。



 完全な一人暮らしとは言えないものの、一応私は一人暮らしを始めたわけで。

 それなのに、帰ったら、他人が家に上がり込んでしかもキッチンを占拠していたとき、私はどう対処するのが正解なのでしょうか。

 しかも。

 キッチンから、ものすごく美味しそうな匂いがしています。

 これは一体なにごと。




「おー、お帰り」

「ただいま」

 ほぼ反射的にそう答えて、一階のキッチンダイニングに入った私ははっと我に返った。

 高校三年間よく見た人が、うちのキッチンでフライパンを握っている。

 しかもすごく馴染みきった様子で。

「うちにそんな大きなフライパンあったんだー……じゃなくて! なんで真人まなとがここにいるの!?」

「やー、だって、チャイム鳴らしたら新見、留守だったし。そこのヌーさまが入っていいって言うから」

「ちょっとヌーさま! 私が鍵かけて出かけた意味ないじゃない!」

 『視えない』人の方が多い今日この頃のことだ。ひとりで喋ったり笑ったりしている私の様子は傍から見たらかなり異様だと思うけど、家の中のことで別に見る人もいないから、気にしない。

 美少年ぬらりひょんが、ふらりと話題に入って来た。

「おう、客だと言うので招じ入れておいたぞ」

 ヌーさまはいつもは大抵一階の奥の部屋にいるけど、食事時はこうしてキッチンに入ってくる。

「ていうか!」

 すごく大事なことに気づいた。

「真人って、視えるの!? 今、完全に視えてるよね!?」

 高校三年間の付き合いで、そんな素振りは見たことがなかったんだけど。

 高校を卒業してすぐにアッシュ系にカラーリングした髪をふわりと揺らして、真人がなんでもなさそうに頷いた。

「生まれたときから視えてるよ。実家が寺だからさ、その辺は経験豊富よ俺」

 うっそお。

 五年目の付き合いにして初めて知る真実。

「お寺さんの人だったの!? てことは、将来お坊さんになるの!?」

「兄貴がすでに跡を継ぐことになってるから大丈夫。俺、三男でね。最初っから跡を継げって期待されてないから」

「あ。そうなの?」

「うん。そうなの」

 高校を卒業しても真人とは連絡を取り合っていたから、一人暮らしをすることも伝えておいた。

 住所もそのとき、伝えてはおいたけど。

「来るの、早すぎない? 真人、大学生でしょ? 暇なの?」

「暇じゃねえけどさ、女子の一人暮らしだろ?」

 おお。

 心配して様子を見に来てくれたってやつ?

「家に地縛霊とかいたら困るだろうからさ、確かめに来たの。もし憑いてたら、うちの寺が責任もってオトモダチ価格で祓おうと思って」

 そういえば、真人はこういうやつだった。

 明るいっていうかジメっとしたところがなくて、高校のテストで記録的な高点数を叩き出す反面、興味のない授業にはとことん手を抜くとか服装規定を守らないとかサボるとか、仲間内で『突き抜ける馬鹿』と呼ばざるを得ない一面も持っていた。

 夏休みに不意に海外放浪しに出かけて、携帯端末無くして連絡つかなくなったりね。

 高校のときと全然変わらない笑顔で、真人がからから笑う。

「笑ったわー。冷蔵庫の中、一人暮らしのおっさん並みに何も入ってないんだもん。飲み物とあと、パンとかプリンだけ。お前、どういう食生活してんの」

 それでスーパーに行って色々買い出しをして、今テーブルに並んでいる豪華な夕食メニューになったらしいけど――おしょうゆとか油とかもなかったもんね。食器類や調理器具はおじいちゃんのが揃ってたけど、ほとんど使っていない。

「ヌーさま……お留守番はちゃんとして……」

「普通の人間なら無視したんじゃがのー。あまりにもはっきり視られてしまってな」

「もうちょっともののけとしての自覚を持ってよー……」

「ま、積もる話はあとにして」

 真人が、フライパンで炒めていた料理を大皿にざっと乗せる。

「出来上がったから、まずは食べよう。冷めるぞ」




 ダイニングテーブルにちょこんと座ったヌーさまが子供用のお箸を手に、嬉しそうにほうっと吐息を零す。

 お箸は、普通の大人用だとヌーさまの手には大きすぎて使いづらいみたいだから子供用のものに変えた。

 私用の食器やカトラリーを買うついでに、一緒に買って来たものだ。子供っぽいアニメの絵がついていない、でもちょっとデザインが可愛いお箸。

 ついでに、普通に椅子に座ったのでは低くて届かないから、座面にクッションを重ねて座っている様子はとても可愛い。

 私も子供のころ、よくこうしてクッションを敷いていたっけ、と思い出す。

 子供の身体には、大人用の全部がいちいち高かったり大きかったりしたから、結構工夫していたなあ。

 たった10年ちょっとくらい前のことなのに、忘れていることも多い。

 私もこの椅子から転げ落ちて頭をしたたか打ったこととか、おじいちゃんのベッドの下は絶好のかくれんぼスポットだったこととか。

 ――小さいころ、この家でよく遊んでいたんだよね。おじいちゃんがずっと相手をしていてくれた訳じゃないけど、でも。

 ご近所に、年の近い子とかいたのかな。あんまりよく覚えていないけど。

「杏南が一人暮らしを始めてからというもの、この家に美味そうな匂いが漂うのは初めてじゃ」

「……悪かったわね、料理しないオンナで」

「そういえば新見の調理実習は伝説だったな。忘れてた」

「そのまま一生忘れてて」

 高校が一緒だった真人は、私と仲の良い男友達だ。

 というか、高校三年間、クラスも選択授業もほとんど全部一緒で、知らない間に仲良くなっていた。

 真人は、私が高校の間、部活の違う先輩にずっと片思いしていたことをたぶん知っている。

 その先輩は一学年上でクラスはもちろん部活も違ったけど、委員会で一緒になることがあって、顔を合わせる機会が多かった。

 一年しか違わないのに、やけにおとなっぽい感じが好きだった。

 少しでも可愛いと思われたくて、先輩の前ではいろいろ頑張った。髪型とか肌のコンディションとか、返事の仕方とか立ち居振る舞いとか。

 でも告白する勇気がなくて迷っているうちに、

『新見さんって、あんまり女子っぽくないよね。見た目もボーイッシュだし、話しやすくて助かる』

 何気ない一言で、淡々していたふわふわの想いはどこかに吹き飛んでしまった。

 ――私だって、女の子なのに。

 ――話しやすいっていうのは、どういう意味ですか?

 先輩はもしかしたら、好きな子相手のときは何を話したらいいのかわからなくて、ドキドキしたりするんだろうか。今の私みたいに。

 でも、私はその女の子にはなれない。

 だって先輩は、私の前だとすごくリラックスして楽しそうに喋る――妹に接するような態度で。

 わけがわからないくらいのショックを受けて、泣くこともできず、ただうつむいて高校の廊下を走るような勢いで歩いているときに、真人がいた。

 泣いている私を、見ない振りをしてくれたことだけは覚えている。

 それ以降、私は先輩に関する話をしない。真人とも、したことがない。



「まあ自己紹介が遅れましたが、木名瀬きなせ真人です」

 テーブルに座った真人が、ヌーさまに向かってぺこっと頭を下げている声で、私ははっと我に返った。

「うむ。先程申したが、ぬらりひょんじゃ。ヌーさまという愛称で呼ばれておる。そちにも許すぞ。杏南の友人じゃからな」

「そのヌーさまって呼び方、新見が考えたんですか?」

「いや。違うぞ」

「そうなんすか。ネーミングセンスがないから、新見のアイデアかと思った」

 むー。

 何か引っかかる言い方だわね。

 ネーミングセンスがないって言葉、最近よく耳にしている気がする。

 ヌーさまと真人の会話を耳にしつつも、私はお箸が止まらない。

「お味噌汁久し振り……! 酢の物も煮物も美味しいけど、特にこの厚揚げが美味しい!」

「焼いて薬味乗せただけだぜ?」

「薬味?」

「今回は、みょうがとネギ。んで、しょうゆをたらっと」

「ああ、だからちょっと風味が違うんだ」

 あつあつほふほふの厚揚げに、シャキシャキする薬味がばっちり合っている。

「美味しいようぅ~……!」

 こういうごはんの美味しさがわかるのって、少なくとも義務教育が終わってからだよね。

 まあ、人によって時期も好みも違うと思うけど。

 小さいころ苦手だったニンジンやピーマンが、ある日突然美味しいことに気づく。一歩、味覚が大人になった証だ。

「厚揚げなら、中にチーズ挟んで焼くのも美味いよ。あと、トッピングをじゃことかシラスに変えて胡麻油垂らしてもいいし」

「何それ、美味しそう!」

 何が好きって私、油揚げとか厚揚げとか、揚げ出し豆腐とか、大豆製品全般大好き。

 一時期、油揚が大好物過ぎて、家で子キツネちゃんと呼ばれていたくらいだ。

 そのせいか、キツネが御使いを務めている稲荷大明神は、今でも親近感がある。

「時間がなかったから、たいしたもの作れなかったけど」

 テーブルにずらっと並ぶ家庭的な料理の数々。

 大根とネギのお味噌汁にタコとワカメの酢の物、焼き厚揚げに、チキンと根菜類とアスパラガスのグリルソテー。こんにゃくの煮物に、キャベツ炒め!

「コンビニで生きている私にとっては、大御馳走だよ」

「どんな食生活してんだよお前」

「杏南は外食頼りじゃ。この家に来て、湯も沸かしたことがないぞ」

「失礼ね。お風呂は沸かしたからお湯は沸かしたもん」

 ぷーっと膨れてみせるものの、ものぐさなことはわかっているので、いまいち反論しにくい。

 その代わり、美味しいごはんを思う存分食べる。

 手作りのごはんって、電子レンジで温めたレトルト食品やお弁当とは全然違う温かさがあるよね。

「いい食べっぷりだ。遠慮しないでたくさん食べな」

「うん」

 満足そうな真人が、ふと顔を寄せて来る。

「それにしても新見お前、ちょっと顔色悪くね? 目の下に隈も出来ている。仕事忙しい?」

「忙しいよ。今週いっぱいは戦争だからね」

 茶化して答えたものの、原因はわかっている。

 ――最近、ろくに眠れていないから。

 メイクでも、隈を隠し切れないくらい疲れが溜まっているのがわかる。

 コンビニご飯に口も胃も飽きて来たころだから、真人の手作りごはんが嬉しかった。

「忙しくても、睡眠はしっかり取りなよ」

「うん」

 真人がテーブルの向かいから長い手を伸ばして、私の頭をぽんと撫ぜた。

「また、飯作りに来るからさ」

 お代わりが止まらないヌーさまが、満足そうに頷いた。

「うむ。真人とやら、大歓迎するぞ!」




 ――また、あの夢だ。

 浅い眠りの中で、神経に障る感覚に、私はベッドの中でため息をついた。

 ぐっすり眠れていないからか、夢がやってくる感覚がすごくはっきりと感じ取れる。

 ぐるぐると渦巻く夢の中に、意識だけが引きずり込まれる。

 ――おじいちゃんの夢。

 入院しているおじいちゃんが息を引き取る瞬間、私は確かに手を握り締め、最後の最後までそばにいた。ひとりきりで寂しく死なせたりしなかった。

 私の訪れを、おじいちゃんが待っていてくれたから。

 でも、夢の中で私は、おじいちゃんの最期に間に合わない。いつも何かに行く手を阻まれて、焦っても急いでも、おじいちゃんをひとりで逝かせることになってしまうのだ。

 夢の中で私は号泣する。

 ――間に合わなくてごめん、ひとりで逝かせてごめん、寂しい思いをさせてごめんね。

 目に映るおじいちゃんの顔も安らかではなくて、とても寂しそうで悲しそうで――つらそうで。

 直視することが出来ない。

 泣いて泣いて泣き尽くして、そこではっと目が覚める。

「……っ……、また、あの夢…………っ」

 死別したのが最近の記憶なだけに、傷口が生々しい。

 全身に、冷や汗をびっしょりかいていて気持ち悪い。あっという間に身体が冷える。

 疲れているから、またすぐ眠りに落ちるのだけれど。

 訪れるのは、同じ夢。

 出口が見えない迷路に、迷い込んだかのように。




 だんだん眠るのが怖くなって、疲労と寝不足が確実に蓄積されていく。 

 寝不足が脳に与えるダメージは大きいと、授業で習った覚えがある。確か、脳細胞が損傷したり損失したりするんだったっけ。

 頭がぼーっとして、今朝は朝食も食べる気になれなかった。

 ドリンクタイプの栄養ゼリーを飲んだだけ。

 とはいえ、京都物産展も今日でおしまいだ。

 明日は休みだし、少しは身体を休めることもできるだろう。

 それだけを心の支えに、今日も出勤してバックヤードに入る。

 物産展で疲れているのは、私だけじゃないものね。

「おはようございまーす」

 京都物産展中はずっとフルタイムで入っていたけど、今日は早上がりの予定だ。

 物産展の撤去作業があるので、閉店時間よりも早めの六時にフロアを閉めることになっているから。

 お客さまがいなくなったあとをカーテンで囲み、専門のスタッフさんたちが入って、一気に今の配置をバラす、例の魔法が適応される日だ。

 社員さんたちと専門のスタッフさんたちの管轄なので、バイトである私はさっさと帰れる。

 永井さんは明日はきっと、よれよれだろう。

 ――デパートのスタッフって、表面的にはもっと優雅なイメージがあったんだけどなあ。

 やっぱり世の中って何にでも、裏と表があるものだ。

「あ、そうだ。永井さんに、再来週のシフトの希望表を渡さないと」

 ふと見回してみると、永井さんが自分の席で、電話を片手に平身低頭していた。

「あれ? フロア長のところに苦情ですか? こんな朝っぱらから?」

 イベントフロアの事務兼ディスプレイ担当、田中さんに顔を寄せてこそっと尋ねると、田中さんも心配そうに永井さんのほうを見つめながら、そっと教えてくれた。

「苦情っていうか、こちらのミスよ。昨日帯揚げと帯締めのセットを数セットお買い上げのお客さまのお包みの中に、個別袋が入ってなかったらしくて。そんな初歩的なミスするなんて、担当したの誰かしら。まったくもう」

 デスクの上でパソコンの打ち込み作業をこなしながら田中さんが教えてくれた内容に、私は一気に青ざめた。

 恐る恐る、片手を上げる。

「……すみません。それ、私です」

 ――やっちゃった。

「え」

「昨日の午後、スタッフさんが2番に行っている間接客して。そのとき確かに、帯締めのセットを数点買ったお客さまに、プレゼント用だから個別袋も入れて欲しいって言われたんでした」

 そして個別袋を入れた覚えが、見事にない。

「あー……新見さん、やっちゃったか」

 私は慌てて頭を下げた。

「すみません!」

「まあ、永井さんがお詫びがてら個別袋をお届けするってことで処理できると思うけど。新見さんがこんなミスするなんて珍しいね。最近疲れているみたいだし。何かあったの?」

 田中さんが、高いヒールの爪先で、ぎいっとデスクの椅子を回して私の顔を見つめる。

「隈も出来てるし、もしかして眠れていないの? 不眠症? それか、何か悩みでもある? それなら相談に乗るわよ?」

 田中さんはイベントフロアの癒しだ。

 丸くて可愛らしい顔立ちのベビーフェイスだけど、私より年齢はちょっと上。

 そのせいか、とっても面倒見が良い人だ。

「ただでさえ細いのに、一回り痩せた気もするし……本当に、どうしたの?」

「いえ、あの、まあ……今週忙しかったからですよ。激務が続いたから寝ても寝ても寝足りなくてこんな感じに」

「そうお? それならいいけど……明日はゆっくり休んでね。なんか、お化けにでも取り憑かれているみたいなやつれ方してるから」

 ぎく。

 ――お化け……?

 一瞬、息が止まった。

 目の前が真っ暗になって、くらくらとした目眩に襲われる。

「ちょっと新見さん!? やだ、大丈夫!?」

 立ちくらみを起こして、床に座り込んでしまっていたみたい。

 驚いた田中さんが、駆け寄って私の腕を掴んだ。

 電話対応中の永井さんも、驚いたようにこちらを見ている。

 田中さんが私の額に手をあてがって、びっくりしたような声を上げる。

「ちょっと! 新見さん、ひどい熱じゃないの!」

 大丈夫だと言い張ったものの、田中さんに強引に医務室に連れていかれてしまった。

 デパートの一階の隅っこに申し訳程度のスペースだけど、医務室が常設されているのだ。

「今日はもう最終日だから客入りもそこそこだし、大丈夫。仕事のことは気にしないで、少し落ち着いたら帰りなさい。治らないようだったら病院に行って診てもらったほうがいいわよ。永井さんには私から説明しておくからね」

 てきぱきと医務室のスタッフに事情を話し、田中さんが六階に戻っていく。

 医務室の簡易ベッドに横たわったまま私は、先程の田中さんの言葉が頭から離れなかった。

 ――お化けに取り憑かれているみたい……私が?

 考えてみれば、思い当たる節はある。

 今まで私、不眠症になったことなんてなかったし。

 毎晩嫌な夢ばかり見るのも気にかかる。

 それが、ヌーさまやおシャレさんのせいだとは思えない。そんなことをするヒトたちだとは思っていない。

 あのふたりに、悪意はない。少なくとも私は、そう信じている。

 でも、もし。

 ――妖怪と暮らしていることで、体が何らかのダメージを受けているとしたら。

 ――例えばヌーさまに悪意がなくても、私の生気を知らず知らずのうちに吸い取っているとかって……怪談のセオリーだよね?

 人間と妖怪は、基礎からして違うのだから。

「新見さん、だっけ? 具合どう? 病院行く?」

 医務室の看護師のお姉さんが、ベッド側のカーテンを開けて、顔を見に来てくれた。

 頭の下にあてがってもらった氷枕が気持ちいい。

「まだ熱が高いね。こういうときは脇の下も冷やしたほうがいいわ。大きな血管が通っているところを冷やすと、身体が楽になるからね。水分ちゃんと摂ってる?」

 タオルに挟んだ保冷剤を、テキパキと脇の下に挟み込んでくれる。

 医務室には看護師資格を持っているお姉さんたちが数人いるけど、お医者さんは常駐していない。

 ちょっとした怪我や頭痛、腹痛程度なら医務室でなんとかなるけど、それ以上ひどいときはデパートの近くにある大学病院に自力でスライドする方式になっている。

 もっとひどいときは救急車。

「寝不足なんだって? 貧血でも起こしたのかな。熱は今がピークだと思うけど解熱剤飲む?」

「いえ……」

 私は、のろのろと身体を起こした。

「お休みもらえたし、帰ります」

「動いて大丈夫? ゆっくり休んでいってもいいのよ?」

「はい、でも……」

 睡眠薬をもらって眠っても、またあの夢が襲って来そうな気がする。

 そんなところ、他人には絶対に見せられない。

 しかもここは家じゃない。職場だ。

 表情筋をフル活用して、無理矢理元気そうに振る舞って見せる。

「家に帰ってから、寝ます。すみません、お世話になりました」




「お? 杏南、随分と帰りが早いな」

 ヌーさまは、私が帰るといつも玄関まで出迎えてくれる。きっと、おじいちゃんと暮らしているころもそうしていたのだろう。鍵の音に、かなり敏感だ。

 ヌーさまは、かなり前からこの家に居着いているらしいから。

 でも、今日はそこまで頭が回らなかった。

 フラフラの身体でバスに乗ったせいで、気持ち悪い。熱もまだ下がっていないし、立って歩いていることがつらい。

「ごめんヌーさま、ちょっと寝るね……」

 挨拶もそこそこに寝室に入り、ベッドに倒れ込む。

 そこからの記憶は、すっぱり途切れていた。



 怖い夢を見るとはいえ、少しは眠れたせいで、体はちょっと楽になった。

「――今、何時…………?」

 ベッドサイドに、おじいちゃん愛用の目覚まし時計が置いてある。

 手に取ってみると、午後四時過ぎ。

「帰って来たのが午前一〇時くらいだったから、六時間……?」

 寝足りないことは寝足りないけど、喉が渇いているからお水が飲みたい。

 這い出すように起きて、寝不足の時特有のがんがんする頭痛に顔をしかめながら、キッチンで冷蔵庫を開ける。

 こういうときは、スポーツドリンクがいい。

「買い置きしておいて良かった……」

 喉を潤して、また寝室に戻る。一階は静まり返って、誰もいないみたいに静かだ。

 ベッドに潜り込んで、しばらくの間寝返りを繰り返すものの、眠れない。身体はまだ休息を欲しがっているのに、頭の芯が痛くて眠れない。

 静かすぎて、落ち着かない。

「ったくもう……!」

 仕方なく、ベッドをずるずると這い出して、おじいちゃんのカルテを手に取る。昨日ベッドで読んで、そのまま放りっぱなしだった。

「何か、ヒントみたいなもの、あるかも……」

 正直、目が回ってぐらぐらして、文字なんて読みたい気分じゃなかったけど。

 何かで気をそらしていたい気分だ。

 眠れないままベッドで唸っているよりは、ずっとまし。

 我慢して、昨日読んだページを開く。



『妻・虹子と結婚して初めての喧嘩をする。見合いで引き合わされてからというもの、初めてである』


「おじいちゃんたちも喧嘩なんてしてたのね。すっごく仲が良かったってママが言ってたけど。まあ……喧嘩しない夫婦なんていないか」


『たい焼きの頭から食べるか尻尾から食べるかで、おおいに揉める。お互い譲らない。虹子は案外頑固だ。ちなみに自分は、頭から食べる派である。虹子は尻尾からだと言って譲らない』


 全身から力が抜けちゃいそう。

「――世界一どうでもいい喧嘩してない?」

 自分の祖父母にこう言うのも何だけど、バカップルめ。


『たい焼きの件以降、虹子は口をきいてくれない。おおいに難儀。仲直りのため、明日は虹子を連れてモダンな洋食屋などに出向いてみようかと検討。虹子は、カツレツなどは好きであろうか。聞いてみたことがないからわからない。ミルクホールでソーダ水も喜びそうだが、なにしろ給料日前である。懊悩す』


 なんかもう、読むのがつらくなってきた。

「ほのぼのしていていいんですけどね? 今の気分じゃないっていうか、もっと役に立つ箇所を読みたかったっていうか」

 頭、またクラクラしてきた。頭の中がかあっと熱くなってきたから、きっとまた熱が上がっている。

「……寝よ」

 頭を枕に押しつける。

 眠りたい。夢も見ないほどぐっすりと熟睡したい。

 夢を見るのが。

 泣きたくなるほど、怖い。




 ひっくひっくとしゃくり上げて泣きながら目を覚ますと、誰かに涙を拭われていた。

 長い、節くれだった指の腹で。

 さらっとした、よく乾いた木綿の肌触り。

 ――誰?

 目を開けると、ベッドのすぐ近くにタンさんがいた。ヒトの姿を取って、沈痛そうな顔をして。

 ベッドの隅に腰を下ろして、私の顔を見下ろしている。

「――タンさん? 何?」

「いや……」

 一瞬困ったような絶妙な顔をしたタンさんが、白い木綿の着物の袖口に両手を突っ込んだ。

「ぬらりひょん殿が出かけられてな。お前の様子がおかしいから見てやってくれと頼まれた」

「ヌーさまが? お出かけ?」

 どこに行ったんだろう。

 素朴な質問だったんだけど、顔にしっかり出ていたらしい。

 それまで鹿爪らしい顔をしていたタンさんが、ふっと口もとを綻ばせた。

「日本ぬらりひょんの会の会合があるそうだ。夜のうちに戻られるそうだが」

「ああ、そお……日本ぬらりひょんの会。そんなのあるの……」

「以前からしゃれこうべ殿も参加したがっていたらしくてな。ぬらりひょん殿が連れて行かれた」

「おシャレさんも留守なの」

 タンさんが、私のベッドを異様に気に入っていたことを今更ながらに思い出す。

 昼間、確実にタンさんが寝ている痕跡があるんだよね。

 ――私がいない間だけならいいかと思って、放っておいたんだけど。

 タンさんが寝たあとって、お日さまの匂いがするし。

「タンさん、ベッドでお昼寝しに来たの? 悪いけど今日は貸してあげられそうにないよ」

「そんなことはわかっている」

 タンさんの表情は険しい。くっきりした眉間に、深い皺が寄っている。

「――お前、最近何かに取り憑かれた覚えはないか」

 私はベッドから跳ね起きた。

「やっぱりそうなの!?」



「杏南が何者かに取り憑かれておるじゃと? 杏南が取り憑いたのではなく?」

「ぬらりひょん殿、杏南は人間だ。取り憑けるような力はない」

「それはそうじゃが、杏南なら根性でなんとか出来そうな気もするぞ。意外としつこいところもあるし」

「それで、誰に取り憑かれてるっていうのぉ?」

 外出から戻って来たふたりに、タンさんが事情を説明している。

 熱が下がらない私は絞ったタオルを額に乗せて、ベッドでそれを聞いているだけだ。

「本人が、夢見が悪いと言っている。そのせいで眠れないと」

「ふむ……ということは」

「悪夢って言ったら、バクを呼んで食べてもらうのが一番よねっ……ああ、でも、そうね」

 おシャレさんが、ヌーさまと目を合わせて声のトーンを落とす。

「バク、最近めちゃくちゃ減少しちゃってレアなのよね……」

「もともと希少な存在じゃが、今は更に数が少ない。呼ぼうとしても呼べるかどうか」

「バク自体気まぐれで、召喚に滅多に応じてくれないって聞くし……」

 どうする? とおシャレさんがヌーさまにお伺いを立てる。

「どうするも何も、杏南の悪夢を取り除いてやらねばなるまい。不眠症なら人間の管轄じゃが、悪夢となるとこちらの領分じゃ。なんとかせねば」

 私は、へろへろの声を絞り出した。

「――ごめんねヌーさま。ちょっと、お世話になります……もう限界」

「杏南は気にしないでいいのよ。とにかく寝てなさい。何ならアタシが枕もとで子守唄を一晩中歌ってあげるから」

「それはやめてやれ。ただでさえ弱っているというのに。杏南が死んでしまうぞ」

 そういう意味だそれは。

「何よぉ失礼ねぇ。アタシこれでも生前は、セイレーンって呼ばれていたんですからねっ?」

「セイレーン……? って、何だっけ……? 確か、ギリシャ神話の」

「船乗りたちを、美しい歌声で海に引きずり込む怪物のことだ。上半身が女の姿をしている」

「タンさん、意外と博識……?」

 無理に笑おうとすると、タンさんに忌々しそうに窘められた。

「あまり喋るな」

「そうよ、杏南、大体何よこの熱! 三九度って!」

 さっきこの体温計を見せたときから、ヌーさまとおシャレさんの顔色が変わっている。

「病院行かなくていいの?」

「もう診察時間終わっているし、タンさんがなんとかできるかもしれないっていうから、頼んだの」

 どういうわけか解熱剤も効かないらしく、熱が一向に下がらないのだ。

「なんとかできる、とは?」

 ヌーさまが両腕を組んで尋ねる。

「バクを呼ぶ」

「呼べるのか?」

「知り合いがいるんだ」

「あらぁ? 普通バクを呼ぶときって、悪夢に悩んでいる当人が呼ばないといけないんじゃなかった?」

「俺が呼べば、応じてくれると思う。それにヤツは」

 タンさんがそこで一度言葉を区切った。

 嫌そうに、頭をがしがしとかいて続ける。

「上等の悪夢が、大好物なんだ。たぶんそれで釣れる」




 ヌーさまとおシャレさんが一階に引き上げ、残されたのは私とタンさんだけ。

 バクを呼ぶために、タンさんは私と一緒にいないといけないのだそうだ。ヌーさまとおシャレさんは一階で待機しているという。

 ベッドに横たわったまま、私は熱い吐息を吐く。高熱のせいで、手足がじんじん痺れるように熱い。こんなに熱を出したのは久し振りだ。

「寝たくないな……」

 タンさんはベッドを背にもたれかかり、おじいちゃんの書斎から持ってきたらしい本を読んで、相手をしてくれないし。

「寝ろ」

「やだなあ……」

「四の五の言わずにさっさと寝ろ」

「寝なくちゃ駄目?」

「お前、いい加減に……っ」

 苛立たしそうに振り返ったタンさんが、ぎょっとしたように息を飲んだ。

「!?」

 バサッと本を取り落とし、私の顔を覗き込む。

「何だ? 何故泣いている? まだ眠っていないんだろう? 何故泣く必要がある」

「…………起きてる」

 私は、くるっとタンさんから正反対の方向に寝返りを打った。

 自分でも予想していなかったくらい大粒の涙がぼろぼろ転がり落ちて止まらない。

「だから、何故泣く」

「――だって」

 身体を丸めて、掛け布団の中でうずくまる。

「寝ると、またあの夢を見るんだもん」

 怖いというよりも悲しくて哀しくて、寂しい夢。寂しすぎて怖い夢。

「……だが、もう一度眠らないと、悪夢の原因が掴めない。もう一度だけ辛抱しろ。あとは俺がなんとかしてやる」

 タンさんがバクを呼べるというから、お願いすることにしたんだけど。

 またあの夢を見なくちゃいけないのかと思うと、気が重くて仕方ない。

「――寝るの……嫌」

「我がままを言うな。お前のためなんだぞ。このままではお前はいずれ夢に取り殺されるぞ!」

 険しい声で𠮟りつけられて、ただでさえ止まらない涙がますます溢れ出て来る。

 ――ああもう、何で私、こんなに子供みたいになっちゃっているんだろう……!

 ますます身体をぎゅっと丸めて、きつく目を閉じる。

 防御の姿勢。

 人は悲しいとき苦しいときつらいとき、本能的に身体を丸めてうずくまる。

「うく…………っ」

 しゃくり上げるのを、息をとめて必死にこらえる。

 お布団の中で泣くのって、どうしてこんなに苦しいんだろう。

 泣くっていう行為自体、どうしてこんなにも苦しいんだろう。

「おい」

 お布団の向こう、タンさんが弱り切っている気配がする。

 そして。

 ふわり。

 お布団の上から、何かに覆い被さられた。

「――杏南」

 そのまま、ぽん、ぽん、と、あやすように、お布団越しに背中を叩かれる。

「お前が眠れば、すぐにバクを送り込む。もし悪夢を見ても、すぐにバクが喰って退治してくれるから、大丈夫だ。安心しろ」

 うう。

 わかってはいても、一歩踏み込む勇気が出ない。

 ――だって、バクが本当に来てくれるかどうか、わからないし。

「ヌーさまたち、バクを呼ぶのは難しいって言ってた……」

 お布団の向こう側で、ふっと微笑んだのがわかった。

「呼べるさ。俺が呼べば、バクは無視できない。弱みを握っているからな」

 え。

 ――タンさんって、結構腹黒系?

 茫然としている隙に、掛け布団をめくられてしまった。

 熱のせいで火照って赤い頬に流れる涙を、タンさんが痛ましそうに拭い取ってくれる。

「人の子は眠らないとすぐに弱ると聞いていたが、本当だな」

「なーんか、ずいぶんとお熱いことですわね?」

 突如として、聞き慣れない声が混じって来た。

「いきなり呼び出しをかけておいて。あたくし、これでも結構忙しい身ですのよ?」

「わ」

 一体どこから入って来たのか、寝室の窓際に、ひとりの美少女が立っていた。

 ていうより、足は床よりちょっと浮いていた。

 白黒の二色にはっきり分かれたドレスにチュールつきヘッドドレス、編み上げブーツもタイツも右と左できっぱり白黒に分かれている。

 手袋も左右白黒のレースで、小さめのハンドバックも白黒模様。

 全身、どこからどこまで白と黒。

 頭の天辺から足の先までゴスロリっぽい恰好をしていて、長くて真っすぐな髪は真っ白だ。白というより、月光みたいな銀色に近い。

 きらきらした瞳も銀色で、今は腰に手を当て、タンさんを睨み上げている。

 タンさんが上背があるから、どうしたって下から睨むしかないらしい。

「来たか」

「来たか、じゃありませんわ。いきなり、大至急来い、だなんて。あたくしのこと、しばらくほったらかしにしていたくせに」

 ぷりぷり怒って唇を尖らせている様子まで可愛い。

 私は思わず、今まで泣いていたことも忘れてつぶやいていた。

「かっわい~……! いやだ、お人形さんみたい」

 可愛いものには弱い本性が剥き出しになってしまった。いつもはもっと常識ストッパーがあるはずなんだけど、高熱のせいでどこかに霧散したみたい。

「このヒトがバクさん? すっごく可愛い。こんなに可愛いヒト、初めて見た~……」

 美少女が、私を見つめてぽっと頬を染める。

「あら♡ 褒められるのは、悪い気はしませんわね。初めまして。あたくし、バクでございますの。夢祓い専門のもののけですわ。ご機嫌よう、人間さん」

 すっかりご機嫌になったバクさんが、私からタンさんへと視線を問いかけるように移した。

「ということは、こちらのご令嬢が悪夢に悩まされているという例の方ですの?」

 どこからどういう風に伝えたんだかはわからないけど、一応の事情はもう知っているみたい。

 バクさんがベッドに膝をつき、私の額にそっと触れた。

「それでは、様子をちょっと見させていただきますわね……」

 目を瞑り、何かを確かめているみたいにしばらく黙り込む。

 静寂が流れ。

 不意に、バクさんの喉がじゅるっと鳴った。

「え」

 予想外の物音に私が驚いて目を開けると。

 バクさんが、恥ずかしそうにハンドバックからレースたっぷりのハンカチを取り出し、涎を拭き取る。

 ていうか、涎垂らしてたの?

「失礼致しました。あまりにも濃くて美味しそうな悪夢だったので、つい」

 タンさんが顔をしかめてその様子を眺めている。

 ――タンさん、かなり引き気味……?

「――バクにとっては、悪夢であればあるほど美味く感じるものらしいんだ。俺にもよくわからんが」

「生まれながらの生粋のバクでなくては、夢の味はわかりませんわよ。まあともかくあたくしもお腹が空いていることですし、あなたの悪夢は綺麗さっぱり食べ尽くして差し上げますわ。最近は、極上の悪夢も少なくて」

 うきうきした様子のバクさんがそう言って、私の額を指先でそっと突く。

 ふわ、と身体が浮く感覚がした。

 眠気が襲ってくる。

「え……あ、や」

 眠るのは怖い。

 そう口にする前に。

 墜落するように、夢の中へと落ちてゆく。

「そう……そのまま目を閉じて、身体を楽にして眠っていらっしゃい。そしてあたくしに、夢の扉を開けて」

 意識を保っていられたのは、たぶんここまで。

「あとは任せて、ゆっくりお休みなさいな」

 その声を最後に、私は夢の世界へと送り込まれた。



 あの夢を繰り返す。

 病院の、消毒液の匂いに包まれる。

 入院病棟には朝、昼、晩の食事の匂いも混じるけれど、長期入院しているおじいちゃんの部屋の辺りは、お粥すら食べられない患者さんが多いから、栄養補給は点滴と胃ろうばかり。

 身体を拭くときに使うタオルの匂い、生活臭ではなく病人特有の匂いがいっぱいで、鼻が慣れるまではわりと気になる匂いだ。

 身だしなみを常にきちんとしていないと気が済まなかったおじいちゃんも、段々と身体が動かなくなって、無精ひげが目立つようになってしまった。あんなにお洒落な人だったのに。

 固形の食事がほとんど摂れなくなって高カロリーのゼリーや点滴に頼ることが多くなったおじいちゃんは、みるみるうちに痩せていった。頬骨がくっきり浮き出て、目の辺りが窪む。病人というものは大抵同じような痩せ方、やつれ方をする。

 私は、やけに長い廊下を、溺れる様な足取りで歩いている。

 長い、長い廊下。

 先が見えない。

 ――おじいちゃんが、きっと待っている。

 それだけを心の支えに。

 血色の良かった顔もすっかり老いがわかるようになった。皺も増えたし、何より声に張りがなくなってしまった。

 でも瞳だけが元気なころと同じまま、おじいちゃんはきっと待ってくれている。

 病室に着いたらまず、すっかり痩せて、かさかさになってしまった手を握ろう。皮膚が厚めで手先が器用な、おじいちゃんの手を。

 気は焦るのに、どうしてこんなにも廊下が長く、足が重いのだろう。

 ――まるで、何かに絡め取られて引き止められているみたい。

 そう思って何気なく足もとを見ると、廊下が粘々と脈打って、ぐにゃりと足に粘りついているのが見える。

 ――やめて。邪魔しないで。

 そう叫ぼうとしても、声が出ない。

 ――意地悪しないで、おじいちゃんのところに行かせて。たったひとりで逝かせたくないの。せめて、息を引き取る瞬間までそばにいてあげたいの。息をしているおじいちゃんに、一目でもいいから会いたいの……!

 薄暗く不気味な気配しかしない廊下を越え、やっとのことで病室に辿り着く。夢の中では私は間に合わない。

 ベッドに横たわっているおじいちゃんは、いつも寂しそうな顔で冷たくなっている。

「おじいちゃん、待って……!」

 重たいスライドドアの隙間に必死になって身体を割り込ませ、なんとかしてベッド脇に走り寄ろうとする。

「おじいちゃん…………っ!」

 不意に、ぐいっと手を掴んで引き寄せられる感じがした。

「――こっちだ」

「…………タンさん?」

 いつの間にか、私はベッド脇に辿り着いていた。木綿の着物姿のタンさんが、私の両肩をがっしりと掴んでいる。

「よく聞け。佐一郎の最期に、お前は間に合った。佐一郎はひとりで寂しく逝ってなどいない。お前や娘夫婦に見送られて、静かに息を引き取った。これは夢だ。お前はお前の真実をきちんと思い出せ。心を強く持たないと、悪夢に引きずられっぱなしになるぞ」

 そう。

 私は、おじいちゃんの最期の時に立ち会った。手を握って、最後の最後までおじいちゃんのことを呼び続けた。

「悪意のある、悪趣味な夢ですことね」

 バクさんも、私の目の前に姿を見せる。

「こんな夢は綺麗さっぱり、跡形もなく食べ尽くして差し上げますわ!」

 すうっと、夢全体が大きな雲のようなものに包まれて、バクさんがそれを吸い込んだ。途轍もなく大きな綿飴のようにも見えるそれは、小さなバクさんの身体の中にぐんぐん吸い取られて消えていく。

「杏南さん」

 バクさんに、名前を呼ばれる。

「は、はい」

「この夢を吸い込み終わった直後に、『バクにあげます』と三回唱えてください。それきり、もうこの夢は訪れませんから。あたくしの中に封じ込めますから」

 バクさんが胸を大きく上下させて、夢を一気に吸い取ってゆく。

 悪夢の最後のひとかけらがバクさんの中に消える寸前――私はタンさんの両手を力いっぱい握り締めたまま、大きな声で思いっきり叫んだ。

「バクにあげます、バクにあげます、バクにあげます!」




 しゅう、と、夢がすべて消えて、私はベッドの上で目を覚ます。

 傍らにはタンさんがいて、ベッドの縁にバクさんが何とも優雅な様子で腰を下ろしているが、やっぱりちょっと浮いて全体的にぷかぷかしている。

 そして、悪夢の去ったあとの寝室には。

 ふるふると震える人体模型骨格標本が一体、あわあわと震えながら取り残されていた。

 あれよ、あれ。

 科学室とか保健室によくある骸骨みたいなアレなんだけど、様子が変だ。



「夢の裏に隠れていたのを引きずり出しましたわ。このモノが、今回の悪夢の原因ですわ」

 満腹そうな様子のバクさんが、口もとをハンカチで拭いている。

 タンさんは、いつもより眉間の皺を五倍増しにして骨格標本の腕を乱暴に掴んだ。

 骨格標本は、がたがたと全身の骨を鳴らして床の上にへたり込んでいる。

「……熱、下がってる」

 身体がすっきり、楽になっているのがわかる。

 私はベッドから降りて、クローゼット前の床にへたり込んでいる骨格標本を眺めた。骨格標本は、ガチガチと歯を鳴らして、怯えているように見えた。表情はないけど。

「ひいっ!」

「――骨格標本て、海賊風のコスプレしているものだったっけ……?」

 私の認識とはなんかちょっと違う。

「当たり前でショウ!? ミーに年がら年中オールヌードでどこもかしこも見られたい放題、プライバシーゼロのストリップ生活をしていろとでも言うんデスか!? 恥ずかしいじゃないデスかっ! このチジョ!」

 あ。

 喋れるみたい。

 ――しかも声、ちょっと甲高い。

 骨格標本の目の前にしゃがみ込んで、観察する。

「海賊ジャケットにズボンやサッシュベルトまではまだいいとしても、羽飾りのついた帽子や黒い眼帯までする必要はないと思うんだけど……」

「ミーの好みデス! 素人が口出ししないでくだサイ!」

「タンさんバクさーん……なんかこのヒト、面倒くさいヒトだ」

 意思の疎通がそこはかとなくできない辺り、9番さんと似た匂いがする。

 まあ、あれも一種の妖怪だけど。

「でも、なんで海賊なの?」

 素朴な疑問に、骨格標本が胸を張る。

「ドクロのイメージあるデショ」

「確かに」

 海賊船には、ドクロマークをあしらった旗がかかっているイメージがある。

 海賊が七つの海を巡って探し求める秘宝の在処に、骸骨がたくさん朽ち果てているイメージもある。

「だからデスよ」

 納得。

「ていうか、このヒト、どこにいたの」

「お前の夢を操って、あの趣味の悪い悪夢を見せていた張本人だ」

 タンさんの声は怒っている。

「たかが模型の分際で、生意気な恰好しやがって」

「なんデスか、トゲトゲしい言い方してっ! ミーは悪夢を見せようと思っただけで、内容まではコントロールしていたワケじゃナイんデスよっ」

「まずは黙れ。やかましい」

 タンさんにひょいと片手で首筋を掴まれ、軽々と吊り上げられて、骨格標本がきいきい喚いている。確かに、声が甲高い分うるさいかも。

「放しなサイ、この暴力オトコ! 助けて、おまわりサン~!」

 床につかない足をバタバタさせて暴れていては、せっかくのパイレーツ風伊達男の扮装が台無しだ。

「内容をコントロールできないにしろ、ずいぶんとしつこく悪夢を見せ続けていたようですわね。こんな夢を紡ぐなんて、妖怪の風上にも置けない所業ですわ」

 バクさんが、つんと顎を反らす。悪夢の内容と味は別物であるらしい。

「だってっ、しょうがナイじゃないデスかっ! こいつがずかずか踏み込んでクルからっ。ミーのアンジュウの地にっ」

「あんじゅう? 安住の地?」

 私は首を傾げて考え込む。

 ベッド? ベッドの下?

 こんな人体模型骨格標本があったら、気づくと思うんだけど。

「それって、この家の中なのよね? どこ?」

 足をブラブラさせたまま、骨格標本がきーっと一際けたたましく喚いた。

「クローゼットの中に決まっているデショうが!」

「うるさい。少し黙れ。黙らないと――」

 タンさんが、ヒトの姿から化生の姿に戻る。

 大きな大きな一反木綿が、骨格標本に凄んでみせた。

「ぐるぐる巻きにして、形も残らないくらいに締め上げて粉砕してやるぞ」

 これはもう、圧倒的にタンさんの迫力勝ち。

「ひいい~っ! 妖怪ゴロシ~っ!」

 骨格標本は悲鳴を上げてガシャンと倒れてしまった。

 タンさんの凄みに恐れをなして、気絶してしまったらしい。

「――どうしてこの家に出るもののけはこう、一癖も二癖もある連中ばっかりなの」

 ヒトの姿に変化したタンさんが、私の背後から肩越しに覗き込んできた。

「それは、俺も勘定に入っているのか?」

「う…………それは、そうとは言い切れないけど、でも」

 物音を聞きつけたのか、ヌーさまがおシャレさんと一緒に駆け込んでくる。

「杏南どうした! 無事か!?」

 私を心配してくれていたことが一目でわかる、真剣な眼差し。

 私は、泣き笑いを浮かべてヌーさまにしがみついた。

「何じゃ杏南、幼子みたいに」

 苦笑しながらもヌーさまは、私の好きなようにさせてくれている。

 子供の身体は柔らかい。

 温かい。

 生きている証拠だ。

 私は、零れかけた涙を拭い取った。

「――うん。もう、大丈夫……」




「あーっ! ちょっとコイツ、クローゼットの引きこもりじゃないの!」

 ヌーさまにしがみついた私。

 ヌーさまが両手で頭の上に抱え上げているおシャレさん。

 そのおシャレさんが、目の前に転がっている骨格標本を見て大きな声を上げた。

「ずっとクローゼットの隅っこに棲みついている人体模型骨格標本で超絶根暗野郎の……名前なんだっけ。ヌーさま覚えてる?」

「知らん」

「ちょっとちょっと、名前くらい覚えていてくだサイよ!」

 骨格標本ががばっと起き上がり、おシャレさんに向かって突進する。

「ぎゃーっ! 来ないで! 近寄らないでってば!」

「マイエンジェル・シャレード! おお、ミーの麗しの女神……!」

「相変わらずウザ! きもっ! 何でこんなところにいるのよ、引きこもりは引きこもりらしく、ちゃんと引きこもって出て来るんじゃないわよ! 迷惑だわ!」

 おシャレさんを守るべく、ヌーさまが部屋の中を走り回る。

 そしてそれを骨格標本が全身をがちゃがちゃ言わせながら追いかけるというカオス。

「アンジュウのチを邪魔されたので仕方ナク、ミーにできるセイイッパイの『出て行け』よがしを……でも良かったデス、シャレードに会えるナンてラッキー! 相変わらず美しいナチュラルボーン! 見事なカルシウム100%が眩しいくらいデスよ!」

「アタシはしゃれこうべよ、天然の骨に決まっているでしょう、この紛い物!」

 人体模型骨格標本が、しゃれこうべのおシャレさんに恋い焦がれている、ということで事態をまとめていいのだろうか。

 私は頭を抱えて、タンさんを見上げた。

「タンさん」

「どうした」

「この状況、収拾できる?」

 一拍置いて、答えが返って来た。

「……難しいな」




「それで杏南にわざと悪夢を見るよう呪いをかけたっていうの?」

 ベッドの上におシャレさんが鎮座し、目の前で骨格標本を土下座させている。

 その光景は、とってもシュールだ。

 特にその骨格標本が海賊コスプレなんかしているものだから、余計にシュールで、とても言葉では表現できない。

「大体、クローゼットからは出たくせに、寝室からは出るのを断固拒否などしおって」

 ヌーさまがぶつぶつ言っているのが間近で聞こえる。

 何せこの部屋はほとんどがベッドしかないから、今は私とヌーさま、おシャレさん、タンさんも骨格標本もぎゅうぎゅう詰めになるしかないのだ。

 バクさんは、用が済んだからと帰ってしまった。予定がたくさんあって、毎日忙しいらしい。

 ――ろくにお礼もしていないから、今度、何かお礼をしたいな。

 床にいるのは骨格標本だけ。あとは皆、私のベッドの上にいる。私の両隣には、ヌーさまとタンさんが座っている。

「アンタ馬鹿じゃないの? 人間に意図的に悪さしちゃ駄目だって、佐一郎が口を酸っぱくして言っていたでしょう!?」

 おお。

 さすがおじいちゃん、良いこと言っている!

「妖怪の習性上、ちょっとくらいは仕方ないけどさ」

 あらら。

 骨格標本を叱り飛ばす役目はおシャレさんに任せて、その他大勢で口々に事情を確認する。

「骨格標本がクローゼットに引きこもっていたのは何でなの?」

「基本的に恥ずかしがりなんじゃ、ああいう輩は」

 狭いので顔を突き合わせて、密談しているみたいな感じになる。

「この場合は、佐一郎の妻――つまり、虹子どのが関係しておるのよ」

「おばあちゃんが?」

「おう。虹子どのは怖がりでいらしてな。新婚のころからずっと、愛らしい女子おなごでなあ」

 昔を懐かしむように、ヌーさまの表情が柔らかく変化する。

「あの骨格標本の付喪神がこの家に来たばかりのころ、真夜中に階段で出くわしたとかで、ひどく怯えてしまってな。佐一郎が骨格標本を一階の奥の部屋から出さないようにしていたんだが、あの部屋はもののけの出入りが激しくてなあ」

「それで?」

「寝室のクローゼットの奥に引きこもるようになったんじゃ。扉の奥に隠れておるし一応服も着てカムフラージュしてあるから、虹子どのももう怖がることはなく、骨格標本のこと自体忘れておられたようじゃ」

 ちらっとおシャレさんたちに目をやると、骨格標本はまだ叱られて項垂れている。首の骨が外れそうなくらいにしょんぼりしているのが、姿勢でわかる。

「虹子どのが亡くなり、佐一郎も死んで、杏南がやって来た。その気配で、骨格標本も佐一郎の死を悟ったのであろうな」

 帰って来ない家主の姿を、骨格標本はずっと待ち侘びていたのだろうか。

 クローゼットの隅に隠れて息を殺して、ひたすらずっと、おじいちゃんが再び帰ってきて、声をかけてくれる瞬間を――待ち続けていたのだろうか。

「その部屋で私、普通に寝ていたと思うと今更ながらに怖いんだけど」

 でも今は、その問題はこっちに置いておこう。

「もともとコンプレックスのある性格をしておったのだが、虹子どのに怯えられてしまったことで、すっかり人嫌いになってしまってな。佐一郎以外の人間に心を許そうとしない」

 ヌーさまが、ふうっと重苦しいため息をつく。

「佐一郎もさぞ心残りであっただろうと察するが……骨格標本も、無念だったのだろうよ。唯一心を許し慕っていた佐一郎の死に目に会えなかったのじゃからな」

「……うん」

「結果として杏南に悪夢を見させた。許せるか? 許せぬのなら、あやつはもうこの家にはおれぬ」

「出て行くってこと?」

「家主が拒めば、無理に棲みつくことはできない。隠れておれば問題ないが、今回はこうして、はっきり迷惑をかけてしもうたしの」

 気になることを聞いてみる。

「……もし私が拒否したら、骨格標本はどうなるの?」

 行く場所はあるの?

 行く当てはあるの?

 もう寂しい思いはしなくて済むの?

 答えたのはタンさんだった。

「あいつは力は弱いが、付喪神だ。どこか適当な家を見つけて、勝手に棲みつくだろう」

 決定。

 骨格標本を追い出したりしたら、間違いなくおばあちゃんみたいな被害に遭う人間が増える。

「追い出したりはしない。ここに居ていいけど、もう悪夢は見せないで」

「ちょっと杏南、正気なの!? 追い出しましょうよ、こんな根暗の骨崩れ!」

「アアっ、シャレードのその冷たい言葉はミーの快感! ぞくぞくスルゥ!」

 ブルッと震えた骨格標本のそばに、私は膝をついて座った。

 眼帯で半分隠れている目を、まっすぐ正面から覗き込む。

「おじいちゃんが亡くなったことを知らせるのが遅れてごめんなさい。貴方がいることに気づかなくて、ごめんなさい」

「杏南が謝る必要ないわよ!」

 とことん骨格標本相手にはツンケンするらしいおシャレさんが、そう取りなしてくれるけれど。

 ――そうか。

 私は納得する。

「あの悪夢は、骨格標本あなたが見ていた悪夢だったんだね」

 待っても待っても帰って来ないおじいちゃんを捜して、骨格標本はずっとあの悪夢に怯え続けていたのかもしれない。

 腕を伸ばして、骨格標本をぎゅっと抱きしめる。

 洋服を纏っていても、悲しいくらいに冷たい体だ。

「存在を無視され続けたら、誰だって悲しいよね。――ごめんね」

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