第2話 ――ずるずるぞろぞろ、一反木綿――

【第二話 ――ずるずるぞろぞろ、一反木綿――】




 なにか大きくて重いものが。

 息をひそめて這い寄ってきている気がする、そんな嫌な予感と恐怖でいっぱいの今日この頃。

 ずるずるずるり、ずるずるずる。

 部屋の中が、一気にしんと静まり返った。

 怪談にはまだ気が早すぎる、三月の昼下がり。

 私は顔をこわばらせたまま、ごくんと唾を飲み込む。

「……な、何かが近づいてきてる、よね…………?」

 ついでに言うなら、近づいてきているものには足がなさそうだ。

「足音がしない。その代わりに、這いずってる音がする…………」

 ということは。

 つまり。

 ――今度こそ、本物のお化け……!?

 ずるずるぞろり、がすぐそこまで近づいてきたかと思うと、不意に止まった。

 廊下が、ぎぎぎ、と軋む。相当重いものでもない限り、うちの廊下はあんな風には軋まない!

 がちゃりとドアノブに触れる音がして、私は文字通り飛び上がった。

「ひゃああ!」

 だって。

 ――あの物音、絶対人間じゃないもの!

 聞こえてくる物音がいちいち怖すぎる。

 だけどドアノブは回ることなく、物音も一瞬途切れた。

「……あれ?」

 ヌーさまと顔を見合わせて、目を瞬かせる。

「……気のせい……?」

 次の瞬間、ほとほとと扉を叩くような撫でるような、なんとも頼りない音がした。

 弱々しい声も聞こえる。

「扉を、……開けて、下され……もはや、その力も残っておらん――無念…………」




 ヌーさまが、澄ました顔で私をちらりと見た。

杏南あんな。客のようだぞ」

「客? この状況を、お客さんで片付けるの?」

 ええと、どうしよう。

 扉を開けてと言われて、すなおに開けていいものか。

 だって今の状況から考えて、相手は人間ではないんだろうし。

 人間であんな歩き方で近づいてきたのだとしたら、それはそれですごく嫌だけど。

「開けて、いい、の、か、なぁ……?」

 なんとなく伺うようにヌーさまを見てみると、そっけなく知らんぷりされてしまった。

「ここは佐一郎の家じゃ。孫のお前が決めろ」

「ヌーさま冷たい。年長者のくせに」

「ワシはただの居候じゃ」

「のらりくらりと……ぬらりひょんって薄情なのね」

 まあ、ヌーさまが平然としているところを見ると、絶対的な危機ではないのかもしれない。

 と、あえて楽観的に考える。

 人間、ポジティブに考えないとね。

 この場合、単なる現実逃避とも言いますが。

 気を取り直して、恐る恐るドアノブに手を伸ばす。

 ちょっとへっぴり腰になってしまったのはご愛敬だ。

 部屋の中から、少し苛立ったような声が飛んでくる。

「早う開けてやらんか」

「……だったらヌーさまが出てくれればいいのに~……」

 ぶつくさ言いながらも細くドアを開けて、廊下を覗き込む。

「――あのー、どちらさまでしょうか?」

 あれ。

「誰もいない?」

 廊下はただの廊下で、誰の姿も見えない。

「どうしたのじゃ、杏南」

「ええと……誰もいないみたい。あの音、何だったんだろう」

 気のせいだったのかな。

 さっさとドアを閉めようとすると、ドアを下から何かがガッと掴んで押さえた。

「え」

 何気なく見下ろした足もとに。

 元は白かったのであろう、今は結構汚くてぼろぼろの布の塊が蠢いていて、私はお腹の底から絶叫した。

「いやああ、お化け~っ!」

 思わず逃げようとしたものの、部屋に入り込もうとしていた布の隅に絡まってしまい、足を取られる。

 ――うわ、転ぶ……っ!

 咄嗟に、ぎゅっと目を閉じる。

 でも、転んだ時の、息が詰まってお腹がうっとなる衝撃は、いつまで経っても襲ってこなかった。ばさばさしたものに包まれている気がする。

「…………?」

 恐る恐る目を開けると、転んだ私の身体ごと、知らない誰かの腕に抱き取られていた。白い髪の、若い男の人だ。薄汚れてぼろぼろの着物をラフに着ている。

 もっと言うなら、鼻筋のすっと通った、妖しいくらいの美形。冷たいんだか甘いんだかわからない、女性誑かし要素満載の、絶対的美形オーラが溢れ出ている。

 今までこんな人に会ったことはないし、誰なのかも知らない。

 その見知らぬ人が身体を張って私を抱き留めてくれたらしい。

「え、なに」

 ていうか、あの布もどきはどこに行ったの。

 上半身を起こそうとすると、顔を上げたその人と、鼻先と鼻先がかすめ合うくらい間近で目が合って、つい動揺して反射的に手が動いてしまった。

「いやーっ!」

「うぐっ」

 両腕での渾身の突っ張りが見事に決まり、私を受け止めてくれた人はそのまま仰向けに倒れ、頭をごんと床に打ちつけて、気を失ってしまった。

 もとの、大きな布の塊の姿に戻って。




 ――一反木綿て、実在するんだ……。

 想像上の生き物かと思ってた。

「ヒトの姿も取れるなんて知らなかった」

「妖力の強いもののけなら一応それなりにな。姿を似せることぐらいはできる輩が多い」

「さっき、何で一瞬だけヒト型になったの?」

「杏南がいたから、無意識のうちに合わせたのだろう。人間の前では似せた姿を取ることが礼儀だと思っているやつは多いぞ」

「そうなの?」

「ま、それぞれじゃ。変化へんげしようと思ってもできぬモノもおるし、強くてもヒトの姿を取れない、取りたくないというモノもいる」

 それよりも、とヌーさまがあごをしゃくる。

「そっちを持ってくれ。少々重いが、気張れよ」

「あ、うん」

 ヌーさまに促されて、布、改め、一反木綿さんの隅っこを両手で持つ。

 一反木綿さんは気を失ってしまっているので、とりあえず室内に運ぼうという事になったんだけど。

「せーのっ」

 ヌーさまと協力して運ぼうとするものの、この一反木綿さんがものすごく重い。

「重っ!」

 想像以上の重さにびっくりしつつ、半ば引きずるようにして、なんとか部屋の中に運び込んだ。

「長椅子の上に寝かせる。杏南、もう少しだ」

「ヌーさまもっ、腰、気を、つけてねっ。中身、おじいさんなんだ、しっ。よいしょっ」

「失礼なことを、ほざく、なっ。こらしょっ」

「ふたりとも、頑張ってぇ~」

 自力では動けないおシャレさんが、一生懸命応援してくれる。

 息を切らせながらも、ずるずる引きずって、意識のない重い一反木綿さんを長椅子の上に寝かせることに成功した。二人とも、終わったころには汗だくだった。

「ふー……重労働であったな」

 ヌーさまが、着物の袖で汗を拭う。私も、カットソーの襟もとを摘まんでパタパタ風を入れる。

「杏南、見かけによらず結構力持ちねぇ? 細くて今にも折れそうな見た目なのに」

「バイトが肉体労働だからね」

「あらぁ、バイトしてるの?」

「うん。デパートのイベントフロアでね」

「デパート? ああ、百貨店のことか」

 ヌーさまはどうやら、カタカナに疎いらしい。

 お年寄りあるある、だね。

「デパートの仕事なら接客業でしょ? 力仕事なんてしないんじゃないの?」

 不思議そうに尋ねて来るおシャレさんに、私はふっとほの暗く笑う。

「だよね。私も、実際にバイトしてみるまではそう思っていたよ」

 ところがどっこい。

「おしょうゆ三本セットとか日本酒飲み比べセットとかサラダオイル詰め合わせとか、お中元お歳暮の売れ筋って結構重い品物が多いんだよ。それをバックヤードから持ってきて速攻ラッピングして、必要なら熨斗紙もつけての包装だからね。腕力体力は嫌でも鍛えられていくよ」

 ギフトシーズン、私は発送を承る部署ではなく、お持ち帰り品担当なのだ。

 発送部門は持久戦の頭脳戦、お持ち帰り部門は体力勝負。

「ためしに万歩計アプリで測ってみたらね、一日で二万歩超えた。ピンヒールで」

「へえぇ、そうなのぉ?」

「ラスボスは夏の売れ筋の洗剤詰め合わせセット。これを10セット以上、お持ち帰りって言われた日にはね、もうねえ」

 それが仕事だから仕方ないとはいえ、あれはかなりきつい。頑張って出来ない仕事じゃないけど、終わったあとしばらくは手がぷるぷる震えて、伝票に字を書くのもつらかった。

「一人でやってるわけじゃないし、だんだん慣れていくけどさ。だから私、高校のときよりきっと力持ちになってると思う」

 おシャレさんと喋っている間にヌーさまが、棚の引き出しからメジャーを取り出してきた。

「ヌーさま、それどうするの?」

「測る」

 一反木綿さんを、ということらしい。

 無言で手招きされたので、手伝ってメジャーの片方を持つ。

「杏南。どれくらいの長さになっておる?」

「ええとね。全長10メートルちょっと……長っ。道理で重かったはずだわ」

 いくら布とはいえ、それだけ長いなら重くて当然だ。長椅子に収まり切るわけはないから、布地の大半が床にだらんと降りて伸びている。

 ヌーさまが小首を傾げて怪訝そうな顔をした。

「メートルで言われてもよくわからん。鯨尺でどのくらいじゃ?」

 こっちは、鯨尺がよくわからない。

「ちょっと待って待って」

 ずっとバッグに入れっぱなしだった携帯端末スマートフォンを取り出し、調べてみる。

「10メートルちょっとで……なんか、一反って出て来たけどこれのこと?」

「ああ、一反あったか。なるほどな」

 ヌーさまは、ひとりで納得している様子だ。

「何が? 一反って、一反木綿の一反?」

 詳しく聞いてみようとしたところで、当の本人が軽く呻き声を上げた。手足も口もどこにも見当たらないけど、さっきは一瞬ヒトの姿を取っていたのだから、喋ったり動いたりはできるんだろう、と勝手に思うことにした。

「――うう……」

「気がついたようじゃの。杏南、こっちへ来い」

 おシャレさんがついてきたそうなので、両手で抱えて連れていく。

 汚れありほつれありの布全体にぶるぶるっと震えが走り、顔――よくわからないけど、たぶん顔、きっと顔――を向けられる。まだ、起き上がることはできないらしい。

「貴殿は……」

「ぬらりひょんの一族の者じゃ。そちらは一反木綿の中でも、相当力のある者とお見受けするが」

「……何でそんなことがわかるの?」

 腕に抱えたおシャレさんにこそっと聞いてみると、小声で答えが返ってくる。

「一反あるんでしょ? それってかなりよ。妖力が弱いと、そこまでの長さは保てないものねえ」

「長さが基準なの……?」

「騙りの輩は、長さが足りぬことが多いんじゃ。覚えておけ。この先、知っておいて損なことではないぞ」

 知識としてしまっておいて、それがいつか役に立つことがあるかなあ。

 バイトには、役に立たなさそうだけどなあ。

 ちょっと疑問だったけど、それはこの際置いておく。

「騙りとかあるの? ていうか、妖怪――じゃなかった、もののけは皆知り合いじゃないの?」

「たわけ。あやかしものはこの世に数え切れぬほどおるのだ。顔すら合わせぬ輩のほうが多いわ」

 へえ。

 確かに、知らないことばかりだ。

 どうやら本物認定されたらしい一反木綿さんが、小さな声でうわごとのようにつぶやく。

「ここは、もののけの医師の住まいと聞いた。医師どのはどちらに」

 ヌーさまとおシャレさんの意識が、私に向けられたのがわかった。

 確かにそこからは、私の受け持ち区域だ。




 長椅子のすぐそばに座り込み、私はまたしてもおじいちゃんの死をもののけに告げる。

「なんと……医師どのは亡くなられていたか。それは……お悔やみ申し上げる」

 低い声でしみじみとそう言われて、つられて私もぺこっと頭を下げた。

「こちらこそ、お知らせするのが遅れまして」

 できることなら、お知らせ通知をもののけ界にも出しておきたかった、くらいの気持ちになってくる。

「では、長居は無用だな。失礼させていただく」

「え?」

 起き上がろうとする一反木綿さんを、ヌーさまが引き止める。

「無駄だろう。その有様では、ろくに動くこともできまい。しばらくここで養生すると良かろう」

 家主の意見を無視して勝手に進めないでほしいけど、でもまあその意見には賛成だ。

「だが、佐一郎さいちろうどのがいないのであれば、もう、この世にもののけの医師はいない。俺を治せる者はもういないのだから、ここにいても無駄だ」

 口調はだいぶしっかりしてきたけど、でも身体は動かせないでいる一反木綿のその一言が、胸に意外なくらい鋭く突き刺さった。

『もう、この世にもののけの医師はいない』

 ずきっと胸が痛くなる。

 ――何だろう、この痛みは。

 その次の瞬間、電子音がピピピとけたたましく鳴り始めた。

「な、何じゃ!? このうるさい音は」

 ヌーさまが耳を手で覆う。

「やかましい~! 早う止めんか! 耳に突き刺さるわ!」

「ごめん、スマホのアラーム音なの! バイトに遅れない様セットしてたの忘れてた!」

 アラームを止め、バタバタと手荷物をバッグに放り込む。

「ヌーさま、おシャレさん、私もう行くから! 一反木綿さんのことは任せるね。明日も遅番だから、お昼までにはここに来るからそれまでよろしく!」

「お、おい、杏南」

 声をかけてきたヌーさまを振り返る余裕もなく、私は部屋を飛び出した。



 固定電話の受話器を耳にあてがい、すでに三十分経過。

 私はだんだん目が据わってくるのを感じながら、バックヤードにある大時計に視線を向ける。

 ――私、そろそろ休憩に入れるタイミングだったんだけどなー……夕方以降は、仕事帰りのお客さまで混むだろうから休憩取れないし……。

 『訳あり着物反物・一斉処分フェア』は、連日大賑わいだ。とはいえ入荷数が限られてしまうので、良い物は片っ端から売れていく。

 特に、人気のあるブランド物は値引きを狙って目利きもやってくるから、着物のセミプロたちの密かな戦場とも呼ばれている。

 でも、9番さんは今回も登場。

 しかも苦情電話の形で。

「私が買いたかった名古屋織の帯がっ! せっかく買いに行ってあげたのに、品切れってどういうことよっ!! 数量限定なんて関係ないわよ、お客さまが欲しいって言ってるんだから、どうにかして調達して家まで持って来なさいよ、わかったわねっ!!! そっちが悪いんだから当然お詫びの品なんだから、代金なんて払わないからねっ!!! 大体、フェアやってるんなら知らせに来ればいいでしょ初日に行きたかったのに広告なんて新聞取ってないから知らないわよこっちの都合だって考えるのが接客業ってもんでしょちょっとアンタつけ上がるのも大概になさいよ馬鹿にするんじゃないわよこっちはお客さまなのよ」以下略。

 さっきからずっとこのループで、しかもテンションは段々と上がってしまっているご様子。

 切れたおばさん――いえ、中年女性のしつこさは半端ない。

 大罵声の大安売り状態だ。

 延々、延々、延々、あまりに大声で喚かれるので、鼓膜がびりびり痛くなってきた。罵声はすでに人間の言葉ではなくなっているみたいで、内容が全然理解できない。

 私の目の前で、永井さんが拝みポーズを取って私を見つめている。フェア中、ありとあらゆるところで頑張って接客をし、陰に日向にサポートを続けてイベントフロアを支え続けた永井さんは本日、喉を嗄らしてしまって声が出ない。

 僕の声が出ないばっかりに、新見さんごめんね、のポーズだ。

 ――リスなら、拝みポーズは可愛いけど。

 その昔猟師は、朝出掛けにリスの拝みポーズを見てしまうと、

『今日は生き物を殺さないでください』

 と伝えられていると解釈し、一日狩りを自粛する風習があったとか。

 心和むエピソードを思い出してみても、心はちっとも和まない。

 とん、と指先で机を叩かれる。

 永井さんからのGOサインだ。

 だって、売り切れ品切れに関してのお詫びはすでにした。広告にもそう明記してあるし、名乗りもしないお客さまの苦情に付き合うのは、これが限度だ。

 ――やれやれだわ。

 すっと息を吸い込んで、私は口を開く。

 最近裏で、9番さんに対しては飛び切りの毒を吐くと心外な評価をされている唇を。

「申し訳ありません、お客さま。お電話が遠くて少々聞き取れない部分がございまして……もう一度、最初から全部お願いできますでしょうか?」




「出た出た、新見さんの9番祓い!」

 イベントフロアの事務及びディスプレイ担当の女性社員さん――田中たなかさんが、声の出ない永井さんの代わりに、私の肩をポンと叩いた。

「新見さんが退散させた9番さんて、リピート率低いから助かるのよねえ。一撃で仕留めているからかしらね」

 仕留めるって、猪か何かを狩っているわけじゃないんだから。

「はいこれ、お疲れさまの貢ぎ物」

 色とりどりのグミを、手のひら一杯に盛られる。これ、フルーツの味がすごく濃くて美味しいやつだ。ちょっと高価めの。

「貢ぎ物?」

「9番さんを除霊してくれるような人だもの。貢ぎ物っていうか、お供え? お酒飲めるようになったら、いくらでも奢るんだけどね」

 田中さんはその可愛らしい容姿を裏切って、結構な酒豪だと聞いてる。

 日本酒一辺倒で、ビールはジュースだと言い張っているらしいし。

「は、は、は……」

 力なく笑って、私は釘を刺す。

 神さま扱いされてもお菓子くれても、私は苦情処理係にはならない。

「あの。私、ただのバイトですからね? 販売担当で、苦情処理係にはなれませんからね?」

 それは社員さんの管轄だ。

 田中さんも永井さんも、なんでか急にそっぽを向いて聞こえないふりしてるし。

 永井さんたち、そのうち私を本気で苦情処理係にしようとしてるんじゃないかな。


 バイトはぎりぎり滑り込みセーフで無事終わり、夜遅くに自宅に戻っても、いつも通りパパとママはまだ帰ってきていなかった。

 パパは三交代制の空港勤務、ママは出版社勤務のワーカーホリック夫婦で、それでもここ半年くらいは仕事を出来るだけ削って、おじいちゃんの看護に当たっていた。

 その反動なのか、最近ふたりとも帰りが遅い。

「ま、今に始まったことじゃないけどね」

 スーパーで買って来たお弁当で夕食を済ませてお風呂に入って、ベッドに潜り込む。

 ――ヌーさまたち、どうしているかな。一反木綿さん、大丈夫かな。

 気にはなったけど、おじいちゃんの家には電話が繋がらないし、連絡手段もない。

「明日、早起きして行こう……」

 色々あって、それなりに疲れていたみたい。

 目覚まし時計をセットしたところで、私の意識は気持ちよく途切れた。



「考えたんだけどさ」

 ずいっと身を乗り出すと、向かいの椅子に座っているヌーさまが、ちょっと引き気味に頷いた。

「お、おう。何じゃ」

「もののけの医師って、もういないんでしょ? そうしたら、一反木綿さんはどうなるの?」

 一反木綿さんは長椅子に横たわったまま、私が訪問してもぴくりとも反応していない。

 定位置の机の上ではなく、長椅子の手すりの上におシャレさんがいるのは、どうやら看病しているつもりらしい。

 でもおシャレさんがまだ一言も喋っていないということは、寝ているのだとヌーさまがこっそり耳打ちで教えてくれた。

「おシャレは昨晩、ずっと一反木綿の容態を気にかけておったからの」

「それで、大丈夫なの? 一反木綿さんは」

「さあな」

 ヌーさまが、私からお土産のお茶のペットボトルを受け取り、ドライに首を振る。

「佐一郎がいない今となっては、どうしようもならん。養生して回復するなら良いが、このまま妖力が衰え続ければいずれ消えることになる」

「消える?」

「もののけには、死ぬという概念があまりないのでな。しっくり来るのは、消えるというか失せるというか」

「ねえ」

 昨日のバイト中、ずっと考えていたことをぶつけてみる。

「助けてあげることって、できない?」

「誰がじゃ」

 そんなの決まってる。

「私がよ」

 ヌーさまが、はっと嘲笑する。

「ワシら程度のもののけにも悲鳴を上げて腰を抜かす臆病者がもののけの医師とは、ちゃんちゃらおかしくて臍で茶が沸くわ。あれは、なまなかな根性ではとても務まらぬさ」

 むっと唇を尖らせた私に構わず、ヌーさまが続ける。

「ヒトの姿を取ってこそいればまだ見られもしようが、化けられぬモノも多いのだぞ。医師ならば、それでも診てやらねばならん。杏南には無理じゃ。おおかたそこの一反木綿の様子に絆されでもしたんじゃろうが、これも定めというものじゃ。同情だけで深入りするのはやめておけ。ここでそやつが命尽きるというのなら、それがそやつの寿命だったということよ」

「………………」

 ヌーさまの言いたいことはわかる。

 でも。

 それでも。

「だからって、はいそうですかって言って見捨てるなんてできないよ」

 昨日、咄嗟のことで仕方なかったとはいえ、瀕死の状態の一反木綿さんを殴ったのは私だ。

 多少責任があると思うし、それに私はおじいちゃんの孫だ。

「何か、できることがあるんじゃないかと思って考えたんだけど」

 ヌーさまは私に背を向けてお茶を飲んでいる。もう話を聞く気はない、という意思表示らしいけど。

 私はそんな空気は読まない。

「あのノート、使えないかな?」

 小さな背中が、ぴくっと反応した。

「おシャレさんが、おじいちゃんのカルテって言ってたあのノートなら、手当ての仕方とか、いろいろわかるんじゃないかな」

 そのほかにも、捜せば資料とか本とか、勉強に必要そうなものは出て来ると思う。この家には昔から、古めかしい蔵書や書籍が本棚から溢れるくらいいっぱいあった。

「ていうことで、色々不便だから、今日から電気とか水道とか復活させるね。手続きするってママに連絡したら、OKもらえたから」

「何じゃと!?」

「あら、それホント!?」

 振り向いたヌーさまの一声と、目が覚めたらしいおシャレさんの朗らかな声とが重なった。

「もともとこの家は、しばらくの間このままにしておくつもりだったの。ただ、遺品整理と掃除だけはしようって話し合ってたけど。ママに電話してOKももらったし、ライフラインが復活したら私、ここで一人暮らしするね!」

「ひと……っ、ちょっと待てぇ!」

「待たない! このまま待ってたら、一反木綿さん消えちゃうんでしょ?」

 うぐ、とヌーさまが言葉に詰まった。

 運命を受け入れるのと、助かるかもしれない相手を見捨てるのとは話が全然違う。

 ――なんだかんだ言ったってヌーさまって、死にかけている相手を見捨てられるようなヒトじゃないよね。

 読みは、気持ち良いぐらい的中したっぽい。

「杏南ってば、佐一郎の血が騒いじゃったのね?」

 うふふ、と嬉しそうに含み笑うおシャレさんの頬の辺りに、そっと手を添える。

「おシャレさんも協力してくれる?」

「もちろんいいわよ。このおシャレさんに任せなさい。佐一郎にはホントに世話になったから、少しは恩返ししたいもの」

「女ふたりで勝手に話を進めるんじゃない!」

 声を荒げかけたヌーさまが、寝ている一反木綿さんを気にして慌てて声をひそめる。

「仮にも、妖力のある一反木綿じゃ。今日明日でどうこうなるという訳でもないが、まあ……急ぐに越したことはあるまい」

 ふーっと特大のため息をついて、ヌーさまが渋々頷いた。

「――致し方あるまい。これも佐一郎への供養だと思って、ワシも杏南に力を貸してやろう」

 もののけって、もしかしたら人間よりよっぽど義理堅いのかもしれない。

 このヒトのこういうところ、好き。

 出逢って一日しか経っていないけど、わりと性格が掴めてきた気がする。

 この性格を知ってしまうと、もののけって、全然怖くないかも。




 何はなくてもカルテ、というわけで、おじいちゃんのノートを開いてみると。

「ぜ、全然読めない」

 早くも挫折の予感。

「諦めが早すぎるぞ、杏南」

 ヌーさまにそう突っ込まれても困る。

「だって、何これ。万年筆のインク文字なのはいいよ。少し癖字なのもまあいいよ。でも途中から横書きになってる部分、これ、全然読めない……英語? じゃないよね?」

 しかも、読み取りにくい筆記体だ。

 あ、と思い当たる。

 カルテって、ドイツ語だって聞いたことがある。カルテは、英語で言うとカード。

「確か昔のお医者さんって、カルテをドイツ語で書いてたんだよね。マンガで読んだことがある」

「え? 佐一郎、ドイツ語なんて書けたの? やだ、インテリ~♡ やっぱりかっこいいわぁ~♡」

「ハートマーク飛ばしてる場合じゃないんだってば。でもおじいちゃん、若いころ何年かドイツにも留学していたっていうし、読み書きができても不思議じゃないかも」

 だとしたら私は、このカルテを読み解くために、ドイツ語の勉強もしないといけないのか?

「まあ、翻訳アプリとかもあるし、なんとかなるかな。……ならないかな」

 でももう、なんとかするしかない。

「おシャレさん。一反木綿さんの具合ってどうなの? 私、見ただけじゃ全然わからないんだけど」

「そうねぇ……」

 おシャレさんが、ちょっと言葉を捜す間が空いた。

「だいぶ衰弱してるって感じよ。あちこち汚れたりほつれたりしているでしょ? あれは、妖力が弱っている証拠なの。充実しているときなら、自分でなんとかできるもの。それもできないくらいに身体が弱ってるんだわ、きっと」

「ヌーさまは? どう思う?」

 振り向いたヌーさまが、一反木綿さんの様子を一瞥して、頷く。

「おシャレの診たてでまず間違いないとは思うが」

「が?」

「――ここまで衰弱した理由がわからん」

「理由?」

 おシャレさんが言い添える。

「同族との喧嘩とかじゃあ、こうはならないもの。何か理由があってここまでの状態になったってことなのよ」

「その理由はわかる?」

 この質問には、ふたり揃って否定してきた。

 皆目見当もつかない、と。

「もののけ同士でも、わからないことってあるのね」

「人間同士ならわかるか?」

 そう言われると。

「……わからないことのほうが多いかもね」

 とりあえず、時間があんまりないことだけははっきりしている。

「日本語の縦書き部分だけでも、読み始めないとね」

 そう言って、私は窓際の机の上に広げたノートの中身に意識を集中させた。

 春の昼間の部屋の中に、静けさだけが満ちる。




 渋めの鶯色の和紙を張ってある表紙裏の但し書きは、『新見佐一郎ここに記す』、これだけだった。

 日付は、昭和――何年だろう。数字の部分がぼやけて読めない。万年筆のインクが、大きく滲んでしまっている。

 かなり古いノートだものね。仕方ない。

 おじいちゃんの年齢からして、戦前なのは確かなんだけど。


『親戚の伯母の紹介で見合いをした若竹わかたけ家の令嬢・虹子こうこさんとの祝言の日取りが決まる』


 わあ。

 ――おじいちゃん、独身のときのノート? これ、カルテと日記も兼ねてるのかな……?

 ぶ厚いノートは、全体的にざらっとした手触りをしている。何冊も何冊も書き連ねて来たこのカルテノートの中には、私の知らない、若いころのおじいちゃんがいる。

 そう思うと、ちょっとわくわくした。


『若竹の家には、私が商社務めであることを話してある。収入などの件についても、了承してもらえたものと確信する。清々しい目をした虹子さんを妻として、生涯かけて幸せにしていく所存であるが、まだ彼女とゆっくり話をする機会は訪れていない』


 おお、さすがおじいちゃん。日記も生真面目。

 なんか、明治文学とかで、こういう文章を読んだことがあるかも。

 文面が堅苦しくて難しいんだけど、おじいちゃんにはよく似合っている。

 おじいちゃんたちが若いころは結婚前の男女がふたりきりでデートなんてふしだらなことで、手を繋ぐなんてとんでもないことだった――とは、おじいちゃんから聞いたことがある。

 結婚は親や親せきの勧めるお見合いで決まるもので、自由恋愛なんてそれこそとんでもなかったらしい。それが、昭和初期の公序良俗っていうやつだったんだとか。

 今となっては、信じられないことだけど。

 ちなみに、おばあちゃんの若いころの写真なら、私も見たことがある。古いアルバムにしまってあった写真は、お見合い用に撮った振袖姿のほかに、セーラー服の女学生時代のものもあった。

 長い黒髪をおさげにして、白黒の写真でもわかるくらい色が白くて、ほっそり華奢なお嬢さんだった。少し気が強そうな、切れ長の目が大人っぽい。

 昔の女学生って、今の高校生よりよっぽど大人だったんだとわかる。

 女学校を卒業したらすぐに花嫁修業をしてお見合いをして嫁ぐ、というのが定番コースだった時代の話だ。

 とはいえおじいちゃんがヨーロッパに留学したりと、俗に言う『洋行帰り』で進歩的な人だったので、当初は考え方がかなり違っていてしょっちゅう話が食い違ったり、おばあちゃんが戸惑ったりもしたらしい。

 ハイカラなおじいちゃんと、保守的な家庭で厳格に育てられたおばあちゃんとでは、違う点も多かったんだろう。

 それでも新婚時代、夫婦揃って銀ブラをしに行くなど、だんだん仲良くなっていったっぽいのよ、というよりおじいちゃんがおばあちゃんに一目惚れしたからぐいぐい押したらしいの、とママに聞いた話がおもしろくてよく覚えている。

 おじいちゃんおばあちゃんの時代の恋話こいばななんて、ロマンチックな恋愛ドラマみたいだ。

「若いころのおじいちゃんとおばあちゃん、この目で見てみたかったな」

 小さくつぶやいて、はっと我に返った。

「おっと、脱線してる」

 カルテに目を戻す。

 ゆっくりじっくり癖字を読み解いていき、次の一文に、私は驚いて息を飲む。


『ただし私が『もののけの医師』であることは、終生隠し通さねばならない。普通の人間にとっては、妖怪は恐怖の対象だ。婚約者を怯えさせるわけにはいかない。だが、困っている妖怪たちを見捨てることは、私には考えられないことである』


「お、おじいちゃん……! 結婚相手に秘密を持つとか、良くない……!」

 でもこの場合、仕方ないかな?。

「おばあちゃんは、『視えない』人だったっぽいな」

 私が生まれてすぐに亡くなっているから、よくわからないけど。

 おばあちゃんのことも、このノートを読んでいけば、知ることができるかもしれない。そう思うと、ちょっとドキドキした。

 プライベートの侵害かな? 

 でも、絶対誰にも口外しないから。

 私だけの宝物にするから、許してほしい。

 日記部分を読んでいる限り、おじいちゃんはおばあちゃんにお見合いの席で一目惚れしたらしい。

 特に反対されるようなこともなく、話はとんとん拍子に進んで、あっというまに結納まで済ませている。

 新婚旅行は京都に行っていて、そこで見かけたどの芸妓さん舞妓さんよりもおばあちゃんが綺麗だった、と日記に堂々と書いてある。

「おじいちゃん、本当にべた惚れだね……」

 お土産には、おばあちゃんのために京都友禅の着物を誂えている。

 わりあいすぐにママが産まれているけど、その前の悪阻の時期や安定期に腹帯を巻くまでの間のおじいちゃんの狼狽えっぷりも、ママからそれとなく聞いたことがある。

 あの、冷静沈着で穏やかなおじいちゃんが愛娘の誕生の際にはどれだけ慌てふためいたのか、今度じっくり教えてもらおう。

 ママのエリ子という名前を考えたのはおじいちゃんで、本当ならもっと洋風の名前を付けたかったのだそうだ。

 おじいちゃんは、もり鴎外鴎外が好きだったみたいだからね。

 森鴎外は自分の子供や孫たちに、世界に通用する名前をたくさん付けている。

 茉莉まりさんとか杏奴あんぬさんとか、於菟おとさんとか不律ふりつさんとか。

 ただしおばあちゃんが、

「娘の名前には子をつけたいです。子の字には、一から了までをすべて無事に終える、というありがたい意味が込められているんですから」

 子のつく名前は平安時代ごろから明治時代辺りまでは、貴族のお姫さまたちにしかつけることのできない高貴な名前だった。

 漢字ではなくあえてカタカナでエリ、そして漢字の子で、エリ子。

 ママの名前には、おじいちゃんとおばあちゃんふたりの譲れない想いが詰まっている。

「私の名前も、おじいちゃんのアイディアなんだよね」

 パパとママが私の名づけに頭を悩ませていたときに、おじいちゃんがさらっと、

「杏南はどうかな」

 と提案した。

 それを一瞬で気に入った両親が、即採用して今に至ります。

 なんか、自分の名前のルーツにまで辿り着いちゃった。

 はっとまた脱線していることに気づいて、私は胡乱げにノートを見下ろした。

「……これ、カルテじゃなくてただの惚気た日記じゃない? ホントに、もののけの治療の方法とか書いてあるの?」

 肝心のカルテ内容のところは横書きで、全部ドイツ語らしきもの。もしかしたらもののけ専用の文字とかがあるのかもしれないけど、とりあえずアルファベットに似たような形に、見えないこともない。

 いきなり横書きになるので、違いはすぐにわかる。

 横文字が数ページ続いた後、また縦書きの日本語部分に戻る。


『船坂の駅から少し離れた地に新居を構え、奥の一室のみを書斎として施錠し、虹子さんの出入りを禁じる。仕事のものを置いてあるから、と言うと、すぐに納得してくれた模様。本日より、しばらく休んでいた診察を再開する。昼間は仕事に出るので、診察は夜間および休日の由』


「杏南」

 不意に名前を呼ばれて、私は夢から覚めたような気分で顔を上げた。

「ん?」

「一反木綿が目覚めたようじゃ。少しこちらに来い」

「わかった」

 カルテを置いて、私は机から離れ、長椅子のそばへと駆け寄った。




「とりあえず、医師どのに破れた部分を縫い閉じていただこうと思ったのだ。今までお目にかかったことはないが、もののけの医師の名は噂に聞いていた」

 しばらく休んだことで、相変わらず身動きはほとんど取れないものの、一通りの説明ができるくらいには回復したみたい。

 一反木綿さんが、訥々と語る。

 低くて良く通る、どっしりとした重みと深みのある声だ。やっぱり人間とはちょっと、声の響き方というか、周波数的なものが違う気がするけど、気になるほどではない。

 むしろ、とっても良い声だと思う。耳に心地よい。

 そう考えると、最初から全然違和感がなかったヌーさまとおシャレさんは、わりともののけの中では人間寄りなのかも。。

「だが、医師どのがいないのならこれ以上ここにいても仕方ない。すぐにも失敬する」

「それは無理だってば」

 話は堂々巡りだ。

 帰るという一反木綿さんと、引き止める私その他二名。

 もともと消える運命を受け入れていたのならともかく、一反木綿さんは、治してもらうためにおじいちゃんを訪ねて来たのだから。

 孫としても、このままはいさようなら、と帰す訳にはいかない。

「ふん……しかし、どうも腑に落ちぬのう」

 どこから取り出したのか、ヌーさまが煙管を口にくわえていた。見た目が完全美少年なので、一瞬ぎょっとする。

「ヌーさま未成年!」

 慌てて腰を浮かしかけて、気づく。

「じゃなかったっけ。でも、この家では煙草吸わないで」

「む? なにゆえじゃ」

「私、煙草苦手なの。咳が止まらなくなるから」

「なぜワシがお前ごときに従わねばならん」

「私、一応今日からここの家主」

 手続きや引っ越しはまだだけど。

「む……」

 ヌーさまが、おもしろくなさそうに頬をぷーっと膨らませる。

 そうしていると、どこからどう見たって立派なこどもだ。

「世の中が、どんどん愛煙家にとって住みにくくなるのう。どうにかならんか。人の世の煙草も買いにくいぞ。年齢を証明するものなぞ、もののけは持ってはおらんし」

 そりゃ、タスポも持ってないだろうしね。

 前は、おじいちゃんが買ってあげていたのだろうか。

 おじいちゃんは、煙草よりも葉巻とかパイプ派だったと思うんだけど。

「のう杏南、今度使いを頼まれてくれんか。煙管のほうはなんとか手に入るんじゃが、時折きつめの煙草も吸いたくなってのう」

「私だって未成年なのでまだ煙草買えません。煙草に関しての問題は色々あると思うけど、今はともかく急患さんの治療が先でしょ。さっき言いかけたことって何?」

「ああ、それか」

 火をつけない煙管を未練たらしくくわえたまま、ヌーさまが一反木綿さんのいる長椅子に顔を向ける。

「昨日も言ったように、一反木綿といえば、妖怪の中でもかなりの力を持つ部類じゃ。確かに怪我の程度はひどいが、その程度で消える命でもあるまい。その弱りよう、他に何か理由があるのではないか? だからこそ、佐一郎を頼って来たのであろう?」

 う、と一反木綿が息を詰まらせる。

「……確かに理由はあるが、そこの娘はただの人間だろう。医師どのの孫といえども、人間には関わりたくないし、話したくもない。いろいろ世話になったことは感謝する。それでは」

 ふらふらの状態で立ち上がろうとする一反木綿を、私はタックルの要領で力任せに押し倒した。このヒトを突き飛ばすのは、これで二度目だ。

「きゃ♡ 杏南ったら、ダイターン♡」

「な、なにをする!?」

 反射的に暴れようとする一反木綿を全体重をかけて押さえ込み、叫ぶ。

「ヌーさま!」

「お、おお?」

「この家の中に裁縫道具がないか捜して来て!」

「裁縫道具、だと?」

「ごちゃごちゃ言ってても始まらないでしょ。とりあえず縫うから!」

「縫う、と言っても、そう簡単なことでは――」

 一反木綿は、やめろ、離せと大騒ぎで抵抗している。

「話はあと! 急いで!」




 私よりもよっぽど、この部屋に関しては詳しいらしいヌーさまが、棚から木箱を取り出して来てくれた。

「裁縫道具、というか、針と糸くらいはここに入っているはずじゃ。佐一郎はあまり使ったことがないがの」

「ありがとう。おばあちゃんが使ってたお裁縫道具かな」

 受け取った箱は、二段重ねになった京風の箱だった。上の段に針や糸、指ぬき、糸切りバサミがきちんと仕舞ってある。下の段には布切りバサミとミシン用品が入っていた。

 なおも逃げようと、一反木綿は渾身の力で足掻いている。

「くそ……っ、身体が思うように動けば、お前ごとき小娘など一ひねりだというのに……!」

「はいはい、怪我人はおとなしくしていてください」

 針に糸を通して、私はにっこり笑顔で脅しつけた。バイト先の9番案件を考えれば、一反木綿をおとなしくさせる程度、たやすいことだ。

「言っておくけど、変に暴れたりしたら、この針がどこに刺さるか……」

 人生、何でも、経験しておいて無駄になることってないものだわね。

「責任は、持てないかもしれないよ」

 ぎく、と一反木綿が反応し、束の間逡巡してから、渋々といった様子でおとなしくなった。

「――わかった」

 私は腕を組んでふんぞり返った。

「よろし」




「くっくっく…………ふくくくく、くふふふふ」

 ヌーさまが小刻みに震えながら、目に涙まで浮かべて私の手もとを眺めている。口もとは、噛み殺せない笑い声が零れ出ている。

「あのね、ヌーさま。そこまで笑うならもういっそのこと、声を我慢しないで大爆笑してくれて構わないんだけど」

「いやまあ堪えるのが一応年長者としての礼儀かと思うてな、頬をつねったりもしていたのだがもう無理じゃ……うひゃひゃひゃひゃ!」

 お腹を抱えたヌーさまが、ひっくり返って笑い声を立てる。

「うやははははは、傑作じゃ、ここ数十年稀に見る傑作じゃ! おシャレも見るか、これは笑えるぞ!」

 こうまで笑われると腹も立つけど、お腹を抱えてきゃっきゃっと笑い転げるヌーさまの姿が無邪気で可愛らしくて、怒りが萎んでいく。

 ふんだ。

「どうせ、私は不器用ですよ」

 指はさっきから針で突きまくって、何か所か血がにじみ出ている始末だ。

「あの偉そうな態度でこの縫い目とは……杏南よ。お前がガサツな娘であると、すっかり忘れておったわ」

 おシャレさんもヌーさまのそばから私の手もとを覗き込んで、あらあらと困惑している。

 ぷくくと笑いを含んだ声ではあるものの、ヌーさまみたいに笑い転げないのは、さすが大人の女性のたしなみだ。

「杏南、お裁縫は得意じゃないみたいね。学校やご家庭で習わなかった? あああ、アタシに手があったら、代わりにやってあげるのもやぶさかじゃなかったんだけどねえ」

「家庭科は、成績がずっと2だった。テストは良いんだけど実技が全然駄目で」

 なので、安定の2。

 5段階評価の2で安定しちゃいけない気もするけど、憧れの3までは辿り着けなかった。

「お裁縫も料理もなんか苦手っていうか、相性が良くなくて。家庭科の授業では、ミシンの針を折って壊したりお鍋焦がして火事になりかけたりして散々だった」

「――散々なのはその家庭科の教師と、今の俺だ」

 それまでぶすっと黙りこくっていた一反木綿が、とうとう口を開いた。長椅子に腰掛けた形で私のやることを静観していたんだけど、我慢できなくなったらしい。

「なんだ、このじぐざくと汚く美しさのかけらもない縫い目は! 縫い目が揃っていないし布地が引き攣れているし、第一1センチばかり縫うのに三十分もかけてどうする! 縫い終わる前に俺の寿命が尽きるわ!」

 むか。

 確かにお裁縫は下手だけど、そういう言われ方をするとちょっとムカつく。

「……私、ボタンつけはできるもん」

 それが奇跡に聞こえるな、とヌーさまがおもしろそうに言っているのが聞こえる。

「むしろ、あの縫い方で一応の縫い目を保っているんじゃ。あの糸、ものすごい根性があるぞ」

「ただの人間に頼ろうとした俺が愚かだったんだ。さあ、さっさとその汚い縫い目をほどいて俺を自由にしろ」

「……わかった。要は、綺麗に縫えればいいのね?」

 私はすっかり据わった目つきのまま針と糸を座卓に置き、じわりと一反木綿との間合いを詰めた。

「――――二階のクローゼットにね」

 ひょおおお、とタイミングよく、出窓から風が吹き込んで来る。笑い転げたヌーさまが、新鮮な空気を入れようとしたらしい。

 今日は花曇りで朝から風が冷たい。部屋の中も、一気に寒くなった。

「おばあちゃんが若い時に使っていたっていう、足踏み式のミシンがあるの。ミシンでならきっと、綺麗な縫い目になると思うよ……?」

 じりじり距離を詰めて、私は、猫の様に俊敏に一反木綿に飛びかかった。

「お望み通り、ミシンに突っ込んでやる~!」

 火事場の馬鹿力――力任せに一反木綿を引きずって、階段へ向かう。

「うわあああ、やめろ! ミシンはやめてくれ、一反木綿殺し!」

 ヌーさまが慌ててそのあとを追いかけて来た。

「待て杏南、乱心するな! 落ち着け!」

「ちょっとぉヌーさま、アタシも連れてってよ~! アタシも見たい~!」

「ふざけるな、見世物にされてたまるか! やめろ、やめてくれ、言い過ぎたことは謝る!」



 一階の部屋に戻った一反木綿が、部屋の隅に寄って背中を向け、恐れおののいている。

「なんという恐ろしい娘だ……よりによって、俺をミシンに突っ込もうとするなど…………こんな荒っぽい娘は初めて見た。人間は、俺が思っていたよりずっと恐ろしい方向に変化していたようだ」

「そこ、ぶつぶつうるさい。ミシンはやめてあげたでしょうが。それに、手縫いは良くてミシンは駄目ってどういう理屈よ」

 仏頂面を崩さないまま、私はおじいちゃんのカルテをぱらぱらめくる。

 笑い疲れたヌーさまは休憩すると言ってどこかに行ってしまったし、おシャレさんも連れて行ってしまったから、今は一反木綿さんとふたりきりだ。

「おい、孫娘」

「……何」

「……無理に治そうとしなくていい」

「……うるさい」

「お前は祖父と違い、修行もしていない身だろう。ただの人間には所詮無理な話だ」

「うるさい」

「俺も絶対に治ると思ってここに来たわけじゃない。もし治るのならと藁にも縋っただけで、消えるのが運命なのなら、それはそれで受け入れるつもりだ。お前に責任などないから、もう俺に関わるな。苦労した挙句に傷つくのが関の山だ」

「うるさい!」

 何が腹が立つって、おじいちゃんの血を引いているくせに、もののけの医師のことをかけらも知らなかった自分に腹が立つ。

 藁にも縋る思いで必死におじいちゃんを頼って来たくせに、今となってはあっさり消える気でいる一反木綿に腹が立つ。

 カルテの横書き部分をすっ飛ばして、とにかく縦書きですぐ読める箇所を拾い読みしていく。

 何か。

 何かヒントになるものはないかと思いながら。


『もののけの治療は、人間に対してのものとは全然違う。己の未熟さを痛感するばかりだが、寄り添い、理解し合えることで得るものは大きい』

『願わくは、自分のようなもののけの医師が、後世も存在してくれることを切に願う』

『心優しい、友人たちのために』


「そこまで思うなら、どうして大切な部分を日本語で書いてくれなかったのよ……」

 先ほどまでとはちょっと変わった、少し困惑したような声で呼びかけられる。

「おい。集中しているところ悪いが」

「何!」

 噛みつきそうなくらいの勢いで振り返って、私は息を飲んだ。

 長椅子の足もとや床のあちこちに、白い糸がバラバラと散らばっている。

「さっき縫ったところ、全部ほどけて糸が落ちてる……」

 不器用とはいえ、手で縫って、ちゃんと玉止めしたはずなのに。

 確認した限りでは、ほつれた部分は全部縫い閉じたはずなのに。

「……ほつれが、広がってひどくなってる……」

「――お前が頑張ってくれたのに悪いが、もうそろそろ限界が来そうだ」

 縦に裂かれた穴が、最初に来たときよりもずっと大きく広がっている。裾もぼろぼろにほつれて汚れて、明らかに前より状態が悪くなっているのがわかる。

「気にするな。これも寿命だったんだろうよ」

 聞き分けのない子供を諭すみたいな口調でそう言われて、私は目の前がかっと赤くなった。

 そんな言葉は聞きたくない。

 そんなことを聞きたくて頑張ったわけじゃない。

 ドン、と机を叩いて立ち上がる。

「うるさいって言ってるでしょ! だってそれ、おじいちゃんが生きていたら助けられたはずなんでしょ!?」

 おじいちゃんさえ、ここにいてくれたら。

 でもそのおじいちゃんはもういない。

 この世を去る瞬間、私はおじいちゃんの手をずっと握っていた。

 悲劇のヒロインぶるつもりはないけど、大好きな人が死んでしまったのは充分すぎるくらいの悲劇だ。

 虹子おばあちゃんのほか、パパのほうのおじいちゃんおばあちゃんも早くに亡くなってしまったから、私にとっての『おじいちゃん』はひとりだけだった。

「治せるなら治したいと思って何が悪いの! おじいちゃんだって私、治らなくても、せめて生きていてほしいってずっと思っていたよ! 入院が決まったときからずっと! 見込みがなくて弱っていくだけだってお医者さんから聞いても、もう年だからしょうがないって言われても、生きてさえいれば奇跡が起こって治るかもしれないって、ずっとずっと、信じてたんだよ……!」

 年齢のせいと、病気のせいと。

 両方が悪い具合に重なって、入院当初は歩けていたおじいちゃんはみるみるうちに歩けなくなり立てなくなり、車椅子になり、そしてベッドが介護用の電動ベッドになった。

 自力で動けなくなり、床ずれ防止用の機能がついている電動ベッドでも、痛々しいぐらいの床ずれができた。

 そこまで悪化するのに、たった数カ月しかかからなかった。

 坂を転げ落ちるなんてものじゃない。墜落する勢いで病魔がおじいちゃんの身体を蝕んでいった。

 傍から見ていて怖かったし不安になったりもしたけど、救いは、おじいちゃんの目がずっと変わらないことだった。

 いつもと同じ笑顔で、いつ病院にお見舞いに行っても優しかった。穏やかな物腰とか表情とか、元気なころと全然変わらなかった。

「生きてさえいれば、医学がある日突然ものすごく進歩するとか特効薬ができるとか、おじいちゃんの病気が突然綺麗さっぱり治るとか、そういう奇跡が、もしかしたら起こるかもしれないでしょ? 奇跡はなかなか起きないけど、絶対起こらないっていうものでもないでしょう?」

 子供っぽい考えかもしれないけど、私なりに精一杯考えた結果だ。

 それでも無理なものは無理で、駄目なものは駄目だった。

「おじいちゃんが息を引き取ったあと、ずっと手を握って温め続けたのに、おじいちゃんの手はどんどん冷えて固くなっていった。病院のスタッフさんに綺麗に清拭してもらったあとは、氷みたいに冷たくなってた」

 最期の瞬間に、家族三人揃って立ち会えたのがせめてもの幸いだったけど、止まってしまった心電図や、担当のお医者さんから、

「ご臨終です」

 と告げられるのは、悪い夢を見ているみたいに現実感がなかった。

 身近な人の死は、すぐには信じられない。

 でも魂の消えた身体がだんだん硬直して、死んだ人特有の冷たさに冷えて、ようやく実感する。ベッドに横たわっている身体はもはや、空になってしまった器だ。生の痕跡がどこにも残されていない。

 口もとをいくら確認しても呼吸していないことと、心臓が止まっていることを確認して、受け入れざるをえなくなる。

 亡くなってしまった人の顔には、どこか安らかさがあるから。

 もう苦しまなくていいし、病気から解き放たれて自由になった安心感が、死に顔ににじみ出て来るから。

 おじいちゃんの死に顔は、いっそ赤ちゃんに戻ったかのように安心して、うっすら微笑んでさえいるようで。

「おじいちゃんがもののけの医師だったなんて、全然知らなかったけど――」

 もののけが視える人間じゃなかったし、だからおじいちゃんも私には秘密にして、跡を継いでほしいなんて一言も言わなかったけど。

 だからこそ、一階のこの部屋をおばあちゃんの死後もずっと立ち入り禁止にしていたんだって、今になってようやくわかったけど。

「視えるようになったし、カルテもある。自己満足とか我がままだって言われたって良い。私は」

 おじいちゃんの意志を継ぎたい。

 何もできない不甲斐なさに涙が出て来るけど、泣いても何にもならないから、目じりを両腕でぐいぐい拭う。

「お、おい。泣くな。おい、孫娘」

 一反木綿のおろおろした声が聞こえて、私はふっと口もとだけで涙を逃がすように微笑んだ。

「ねえ」

「何だ?」

「私は、私の我がままで、あなたを治すの」



「もののけの身体というのは人間と違って、寿命というか、時の流れ方も少し違うんじゃ。確かに一反木綿は重傷を負っている状態だが、数日でどうにかなるほどではない。安心して、まずはバイトとやらを果たして来い」

 ヌーさまに放り出されるように追い立てられて、本日もバイトの遅番の時間に間に合った。

 ロッカールームで制服に着替える。

「まあ、一反木綿さんもあれだけ喋れるようになったから、前よりは良くなっているっぽいけどさ」

 心配なことに変わりはない。

「――駄目駄目、今からはバイトに集中!」

 少し慣れて来たせいか、デパートの奥にひっそりとあるロッカールームでイーストデパートの制服に着替えると、背筋がしゃきんと伸びる気がする。

 ワンピースタイプの制服は薄めのグレーで、濃いピンクのパイピングが可愛い。ウエストについている細めの共布のベルトが良いアクセントになっている。

 ストッキングはベージュあるいは薄めの黒で、パンプスはシンプルな黒。

 そして胸もとに、ネームプレート。

 個人情報を守るために、フルネームではなく苗字だけね。

 着替えるついでに、メイクをちょっと直す。

 バイトの交代時間までには、まだ少し時間があるし。

 メイクは派手になり過ぎない程度に上品に、でもしっかりするようにと、バイトに入ってすぐに化粧品売り場のお姉さんたちから直接指導を受けた。

 お客さま相手に、ノーメイクやナチュラルすぎるメイクでは失礼に当たるからだ。

 髪もすっきり整えて、ネイルはそのときのイベントに合わせる。食べ物を扱うイベントのときはネイルをしない、または薄くトップコートだけとか、目立たないピンクにしておくとか。

 その他のイベントの際には、何も手入れをしていないネイルだと逆にNGだ。商品にひっかけたりしないように、邪魔にならない程度に綺麗にしておかないといけない。

 指輪は結婚指輪以外はNG、ピアスは控えめなものならOK。

 他のデパートがどうなのかは知らないけど、これがイーストデパートスタッフのドレスコードだ。お客さまへの言葉遣いや気遣い、お辞儀の仕方も、研修のときにしっかり教え込まれる。

 今週は和服を扱うから爪の先を丸くカットして、更にやすり掛けして、万が一にも爪で商品を傷つけたりしないようにしてきた。

「忘れ物は……大丈夫そうかな」

 手荷物用の、小さなビニールバッグの中身もチェックする。

 黒と赤のペンなどの筆記用具にミニサイズの電卓、メモ用紙。手鏡や櫛、リップなどが入ったコスメポーチに、予備のハンカチとティッシュが一組。

 ハンカチティッシュは、制服のポケットにも入れてある。

 あとはお財布と、ペットボトル。

 仕事中はスマホがないから、腕時計が欠かせない。

「スマホは消音ミュートにしておいて、と」

 スタッフが店内の品物を無断で持ち出したりしないよう、社員さんも私たちも私物入れに使うバッグは、透明なビニールのハンドバッグだ。

 ロッカールームを出る時と入る時は、常駐しているガードマンの前でバッグを心持ち開いて見せる。

 仕事中、休憩時間などに店内で買った品は、専用のシールを貼ってもらえば問題ない。

「ん、準備OK」

 鏡を覗き込んで髪をチェックし、ペットボトルのお茶で喉を潤す。

 さて。

 行きますか。




 毎回思うんだけど、イベントが変わるたびにフロアの様子が一変しているのは、魔法でも使っているんじゃないかと思うくらいの鮮やかさだ。

 先週はスイーツを売っていて甘い匂いが漂っていたのに、今週は和の香り。

 売り物によってディスプレイの仕方もがらっと変わるし、簡易型の売り場の設置の仕方も毎回違う。

 今回みたいな着物関係のときには、分厚い畳を敷いて和室もどきを作ってしまうくらいだ。着物の試着は、洋服みたいに試着室が狭いと不便なのだ。

 お店側の人間が着付けをしてあげることが多いからね。

 毎回イベントが終わるたびに、デパートが閉店してからこの魔法が使われる。

 フロア長の永井さんやディスプレイ担当の田中さんたち社員さんをはじめ、力仕事が得意な男子大学生バイトを集めて、ほぼ力技で一夜にしてフロア中を模様替えするのだ。

 だからこそ、翌日すぐに次のイベントが始められるというわけ。

 お客さまに快適にショッピングを楽しんでいただくための、裏方の努力。一種のエンターテイメントだと思う。

 ――この、地道なんだか強引なんだかわからないやり方、結構好き。

 集合レジカウンターに入る。

 早番のレジ担当の三十代主婦、神山かみやまさんに声をかける。神山さんはこのイベントフロアでは結構な古株で、いろいろ教えてくれる先輩だ。

 ふたりの子持ちのお母さんだけど、子供を産んだようには見えない美貌とスタイルを誇る。

「お疲れさまです」

「ああ、もうこんな時間? じゃあ先に上がらせてもらうわ。新見さん、あとをよろしくね」

「はーい」

 私たち遅番バイトがやってくる夕方になると、開店時間から働いていた主婦のパートさんたちがぞろぞろと引き上げていく時間だ。

「神山さん。お昼間、混みました?」

 交代するに当たっての連絡事項や、レジの内容チェックを一緒にしながら、ベテランパートの神山さんがさばさば笑う。

「それなりにね。でも夕方になるとやっぱり客足が落ちるっていうか、暇になるわね。こういうイベントの山場はやっぱり夕方までよね。あ。ここに今日の伝達事項書いてあるから見ておいてね」

「はーい。主婦のお客さまは皆、夕方は地下食料品街に行っちゃいますもんね」

 夕方以降のデパ地下は、別名主婦の激戦区だ。

 イーストデパート自慢の生鮮食品やお総菜、スイーツなどの値引き品を巡って、仁義なき戦いが繰り広げられることで有名。

「そりゃそうよ。うちのデパ地下、身びいきするわけじゃないけど美味しいし。私も今日、『揚花あげはな』さんの特製天ぷら詰め合わせを狙ってるの。半額になってるといいなあ。30パーセントオフくらいだと、あまりお得感がないのよね。うちの子たち、際限なく食べるし。それじゃ帰るわ。バイバイ。あ。そうだ。再来週以降のシフト希望表、そこの下に置いてあるから。書いたら他の人にも回してあげて」

「はい、わかりました」

 パート、アルバイトがそれぞれのシフト希望表に記入し、永井さんか田中さんに渡す。

 そうすると、社員さん側でシフトを調整して、好きな日程で働けるようにしてくれるシステムだ。

 現在6階イベントフロアでは、『訳あり反物着物・一斉処分セール』が開催されている。

 比較的年長のお客さまが多いことや、着物屋さんから出向してきた専門のパートさんが多いため、今週は私はフロアには出ずに主にレジカウンター対応だ。

 私たちでは、着物の着付けはできないし見立ても自信がない。

 とはいえ、ちょこちょこっと着物に関する勉強はしてあるけどね。

 イーストデパートは、バイトの育成にも熱心なのです。

 ネイルは、フェアに合わせて和柄のシールを使ってみた。

 いつもはシンプルなネイルをすることが多いんだけど、こういうお洒落をしておくと、年配のお客さまが時々、すごく喜んでくれたりする。

 イベントフロアのみならず、接客業は見えないところでもいろいろと気を配ることが多い。

 バイトは平和に過ぎて、午後七時過ぎ――閉店八時の一時間前。

 この時間帯は、仕事が終わった若い女性客で急に賑わい始める。

 最近は和装女子が流行っているから、こういうイベントで和装用の小物が意外とよく売れるのだ。

 すると。

「ねぇえ、ちょっとぉ。これ見てほしいんだけどぉ~?」

 ガムを口の中でくちゃくちゃ噛んでいるみたいな喋り方をする中年女性が、私に向かってカウンターの上に身を乗り出してきた。

 ショッキングピンクのトップスに、スウェット。メイクがドぎついくらいに派手だけど、ぱっと見、四十歳くらいだろうか。

 手にしていたイーストデパートの紙袋から、くちゃくちゃの単の着物を取り出して広げる。

「はい、何でしょうか?」

 接客用の笑顔を貼りつけたものの、私の背筋にざわわっと、うすら寒いものが走った。

 いつのまにか、9番さんを見る目がしっかり養われてしまっているのが悲しい。

 だってこのフロア、なんでか9番さんの宝庫なんだもの。

 毎週毎週、掃いても掃いても9番さんが湧いて出る職場って、本当に、呪われてでもいるんじゃないだろうか。

 一度、お清めの塩でも撒いてやろうか。

 全身に嫌な汗をかいていても、表面は笑顔。これ、接客業の基本。

 ――ああ~……なんか、すっごく嫌な予感がする……!

 こういうときに限って永井さんはバックヤードで業者さんと打ち合わせしているし田中さんは内勤だし、百戦錬磨で頼りになる神山さんもいないし!

 カウンターにだらしなく肘をついて、9番さんはにやにや笑っている。

 普通の9番さんなら、怒って怒鳴りまくっているはずなのに。

 あれ。

 私は、首を傾げた。

 ――なんか、様子が違う……?

 ただの9番さんでも嫌なのに、何だろう。それ以上に面倒くさそうなこの感じ。

 できることなら走って逃げたい。

「この着物ここで買ったんだけど、ひどすぎないぃ~? 返品してくれるぅ~?」

 そう言われて、私は差し出された着物に目を落とした。

「これは……」

 確かに、ひどすぎる着物ではある。

 しわくちゃで、しみもいっぱいついてしまっている、灰色の着物。

 はっきり言って、売り物にできるレベルではない気がする。リメイクするにしても手間がかかりそう。

 私は顔つきを引き締めた。

「拝見させていただきます」

 着物の脇の下――身八つ口の部分と、袖の内側が開いているから、これは女性用の着物。

 くすんだ色と地味な模様からして、年配の女性向けの着物だろうか。かなりのお歳のおばあちゃんが、普段着に着ているようなイメージだ。

 目の前にいるお客さまが好んで着る感じとは、だいぶかけ離れているみたい。

 ショッキングピンクで大きく肩の開いたトップスを着ているし、第一この着物を着るにはまだちょっと若すぎる。

 皺だらけ汚れだらけで、商品価値もほとんどない代物だ。

 点検しているうちに、私はふと気づいた。

 ――かびくさい匂いがする。

 まるで、箪笥に長いことしまい込んでいたみたいなこんな匂いが、このデパートで買ったばかりの品に染みついているのは、おかしくない?

 いまどき、古着だって綺麗にクリーニングしてから売りに出すものだもの。

 私は、さっき感じた悪寒の正体に気づいた。

 ――そういうことか。

「こんな着物売ったなんてバレたら、そっちも困るんじゃない~? 迷惑料口止め料含めて、一〇万でいいからさぁ」

 たまに、本当にごくたまに、こういう9番さんがいると、バックヤードで噂を聞いたことはあったけど。

 これはさすがに初遭遇だ。

 家にあったボロ同然の着物を、イーストデパートで買った品だと言い張り、商品代と迷惑料をふんだくろうとする、いわゆる『ふてえ野郎』。

 一言で言えば詐欺。

「もちろん、迅速な対応をさせていただきます」

「なーんだ。結構話わかるじゃない~。そうしてくれれば私も、騒いだりしないからさぁ」

 ――耐えろ。私。

 にっこりにっこり、穏やかな笑みが引き攣っていないことを祈って、静かに尋ねてみる。

 尻尾を掴むまではなるべく慎重に。

 下手に相手を刺激しちゃいけない。逃がさず、捕らえろ。

「お客さま。失礼ですが、このお品、いつ頃お求めになりました? レシートはお持ちでしょうか?」

「レシートはないけどぉ、買ったのはぁ、先週~?」

「先週、でございますか?」

「そおぉ。買った私が言うんだから、間違いないわよぉ。きっちり弁償してよね~」

 そうですか。

 ビンゴ。

「――お客さま。先週当フロアでは、『春色スイーツフェア』を開催しておりました。『訳あり反物着物・一斉処分セール』が始まったのは今週からです。先週このお着物を買うのは不可能でございます」

 私は、フロア長を呼ぶ『緊急事態』の合図を送った。

 これは、バイトがひとりで片付けていい問題じゃない。




 あー、びっくりした。

 あの9番さんがこのあとどうなるかは、よくわからない。

 へらへらしながらバックヤードに連れて行かれたから、たいして罪の意識はないのかもしれないけど、これはれっきとした犯罪だ。

 未遂だからといって許される問題ではない。

「でも、手口からして初犯じゃなさそうだし。ま、上層部の判断に任せますか」

 バックヤードで、険しい顔をしている永井さんたちに一通りの事情を説明してから、レジカウンターに戻る。

 カウンターの前によく知っている女子高生が立っていて、私を見るなりにこにこと手を振って来た。

 私はほっとして、表情を緩ませる。

「ああいうのと遭遇したあとだと、余計ほっとするわー、なごむわー。ちーちゃん、いらっしゃーい」

 二歳年下の幼なじみで現役女子高生の千夏ちなつ、愛称はちーちゃん。

「お疲れー。一部始終見てたよ。幼なじみがとんでもないシーンに遭遇しているのを。あーちゃん、大丈夫だった?」

 私のことは、杏南だから、あーちゃん。

 引っ越しと転校続きの小学校時代だったけど、習い事のバレエスクールが一緒だったから、千夏との付き合いはわりと長い。

「まあ、大丈夫っちゃ大丈夫だし、良くないっちゃ良くない。私のHPは限りなくゼロに近いよ」

「だよねー」

「あーちゃん。今、喋ってて大丈夫?」

「うん。混み始めるまではまだあるし、休憩もらってくるからちょっと待ってて」

 今回のフェアの山はお昼過ぎまでで、今はフロア全体が閑散としている。イベントのターゲット層によって、ピークの時間帯は毎週変わる。

 神山さんも行っていた通り、うちにお買い物に来る主婦層のお客さまは、ほとんどが、地下一階の食料品売り場での夕方セールに挑む。おいしいデパ地下グルメを、格安でゲットするためだ。

 地下食料品街には、お昼と閉店間際の一日二回、アフリカのサバンナよりも過酷な戦いのゴングが鳴り響く。

「ちーちゃん、こっち来て」

 バックヤードに休憩に入ることを伝えて、フロアの隅っこに引っ込む。

 ここなら、多少お喋りしていても全体が見えるから混んできたときすぐに対処できるし、人目にはつきにくい。

 なかなか便利な場所で、社員さんや他のバイトさんも、知り合いとちょっと話したいときはここに来る。

 ついでに、胸につけているネームプレートを、くるんとひっくり返す。

「これをやっておかないと、面倒なことになりかねないからね」

 名前が隠れて、『ただいま休憩中です』の文字が見える。こうでもしないと、『仕事中にサボっている社員がいる!』系の9番さんを大量召喚してしまうので、イーストデパートなりの解決法だ。

 社員だってバイトだって、出勤時間をオールでは働けない。お昼休憩は必要だし、生きている以上、お手洗いにだって行く必要がある。デパート内は乾燥しているから、水分補給だって必要だし。

 第一、知り合いがこうして来てくれたときに挨拶もできないで、何が接客業か。

 午後にもらえる短めの休憩を、こういう風に使う関係者はわりと多いんだよ。

 知り合いにお客さんとして来てもらえることで、全体的な売り上げにも繋がるし。

 バイトにはないけど、社員さんには売り上げノルマがあるしね。

「最近、全然会えないよね。中学校までは、あーちゃんとは学年違っても何かと一緒だったのにさ」

 千夏はお洒落大好き女子高生だ。

 長い髪もくるんくるんに巻いて、制服のスカートも思いっきり短く詰めている。

「まあね。通勤通学の時間帯も違うし、私、バレエも辞めたしね」

「私も、受験近くなったら休むよ。そのあと続けるかどうかはまだ決めてないけど」

「ちーちゃんもとうとう受験生か」

「そうなの。これから一年どうしよ」

 私がバイトを始めてからというもの、千夏のちーちゃんはちょこちょこ買い物がてら、遊びに来るようになった。

 まあ、女子高生が興味を持つのは、二階や三階のアパレルショップが入っているフロアや、屋上カフェテラスとかのほうが圧倒的に多い。

 一階の化粧品フロアはブランド物のコスメがずらずらずらっと揃っているけど、十代女子にはまだ高嶺の花。中身もお値段もね。

 だからイベントフロアと女子高生の取り合わせは、結構珍しい。

 ――デパートにお中元買いに来る女子高生って、あんまりいないだろうし。

「ねえ、あーちゃん。ここって浴衣ないの? ちー、着物着ないけど、浴衣なら着るよ。夏に」

「夏の浴衣可愛いよね。でも今回はないの、ゴメン」

「つまんなーい」

 制服のジャケットの代わりにダボッとしたカーディガンを着た千夏は、にこっと笑ってフロアを指さした。

「なーんてね。今日は、ママと一緒なの。洋服買ってもらう約束してたんだけど、ママがあーちゃんの働いてるとこ見たいって言うから」

「あれ。おばさん、どこにいるの?」

「なんかねえ、着物見るのに嵌まっちゃってる。なんていうの、着物の黒いやつ」

「ああ、黒留袖のコーナー? あそこ、人気あるんだよ。掘り出しものがいっぱいあるから。おばさん、良いの見つけたのかな」

「黒い着物って、お葬式のときに着る地味なやつでしょ? なんで人気あるの?」

「それは喪服。おばさんが見てる黒の留袖は晴れ着だから、フォーマルドレスみたいなもん。結婚式とかのお祝いの場所で着る、華やか系」

「ああ、なんか皆して金色の帯締めてるほうか」

「それそれ」

 バックヤードでもらえる、着物について簡単にまとめた資料を読んでおいたから、なんとか千夏に答えることができて、ほっとする。

 毎回、イベントで売るものについては事前に勉強が必要だ。

 高校生のときの丸暗記スキル、フル活用中。

 千夏のおばちゃんは黒留袖を選ぶのに熱中していて、私たちには手だけ振って挨拶してきた。

「ちーちゃんは、何買いに来たって?」

「トップスをね、何着か。安くてもいいから、着回しできる量ほしい」

「あ。さてはちーちゃん、またバストアップしたか」

「当たり」

 高校生にしてはダイナマイトボディなちーちゃんは、しょっちゅう胸が育っている。だから、すぐに上着がきつくなるのだ。胸の辺りだけね。

 私とは正反対。

 私は凹凸のないまな板体形――良く言えば、シンデレラバスト。大変好意的かつ便利な言葉である。

「ちーちゃん、成長期だね」

「これでまた体脂肪率が増えるよ……もうすぐ身体測定があるっていうのに憂鬱」

「胸が大きいと、重そうだね」

「重いし汗疹できるし、あんまり良いことないよ。あと、服選ぶのに気をつけないと、すごく太って見えるの!」

 ぷんすか怒っているちーちゃんと、黒留袖に迷い中のおばさんと合流して、ちょっと挨拶。

 さて、私はもうそろそろ仕事に戻らないと。

 ちーちゃんが、お目当てのアパレルショップのある三階へおばさんを連行していった。

 エスカレーターまで見送った私は、小さくつぶやく。

「安くてもいいから、ねえ……」

 私たち向けのブランドは、洋服に科学繊維――化繊をいっぱい使ってる。

 天然素材の絹や木綿コットン、麻は高いからなかなか簡単には手を出せない。

 成長期でサイズもよく変わるし、流行のデザインも移り変わりが早いので、どうしてもポリエステルを多く使ったプチプライスの洋服に手が伸びる。

 私たち人間がコットンの洋服を多用しなくなったことと、一反木綿の衰弱は関係があるんだろうか。

 一反木綿はその名の通り、木綿のもののけ。

 ――妖怪の力の源って、なんだろう?

 神様なら、信仰心とか。

 妖怪も同じようなもので、私たちが木綿の服を着なくなったから衰弱したとかは……。

「…………ないよね? 考えすぎだよね?」

 レジカウンターに戻る前、一度バックヤードに戻り、ロッカーからスマホを取り出して見ると、ママから電話が入っていた。

 履歴を見ると、三分前くらいだ。

 メッセージを送るのも便利でいいんだけど、ママと私はできるだけ通話するようにしている。直接会えなくても、声を聞いたほうが安心できるから。

 家に帰っても忙しいパパとママとゆっくり顔を合わせる機会は少ないから、このコミュニケーションは貴重だ。

 電話をかけると、呼び出し音のすぐあとにママが出る。

『もしもし、ママ? どうしたの? 何か急用だった?』

『杏南、バイト中だった? ごめんね。おじいちゃんの家ね、手続きが済んだから。それだけ知らせておこうと思って』

『ありがとう。早かったね』

 出版業界に務めているママの背後は、ざわざわと賑やかだ。あの会社はいつもざわざわ賑やかで、電話の向こうが、しーんとしていた例がない。

『電気や水道が整えば、あとはお掃除すればすぐに住めるでしょ。ママとしても、お父さんの――おじいちゃんの家が空き家のままなのは寂しいもの。それに近いから、杏南が一人暮らししても安心だし』

『パパは? 何か言ってる?』

『反対したいみたいだけど、私たちに反対はできないわよ。今だって、杏南はほとんど一人暮らしみたいなものだもの』

 電話の向こうのママの声が、苦笑いしている。

『それに、あの家なら、杏南を預けても安心できる気がするから。まあ引っ越しするにしても、その前後に一度三人で集まりましょ』

 気軽に行き来できる距離で一人暮らしをする意味は、たぶんほとんどない。

 でも、あの家でやりたいことを見つけた、と言うと、ママはすぐに賛成してくれた。詳しい事情はまだ話していないけど、熱意だけは伝わっていると思う。

 だってあの日、バイトに向かう途中、私はものすごい大声でママの留守電にこう吹き込んでおいたんだもの。

 もののけに関することは、無闇に話すわけにはいかないけれど。

『私、やりたいことを見つけた気がするの! だから、おじいちゃんの家で一人暮らししていい!?』

 私の直感では、パパもママも、視える人ではない。そういう話は聞いたことがない。

 でもふたりとも、マイペースで我が道を行く人たちだし。私にも、好きなことができたら遠慮なく行けって教育方針だったし。そういうところ、ママとおじいちゃんて、さすが親子なんだなあと感心する。

 親の希望する将来像を押しつけられたこともなければ、学歴だけを重視された覚えもない。

 子供のころ病弱だったこともあって、うちの親が私に望むことはただひとつ。

 心も身体も元気でいること。

 ただそれだけだ。

「ママも、おじいちゃんからそう言われて育ったっぽいな」

 スマホをロッカーにしまって、休憩時間おしまい。

 さあ。

 ひと頑張りしますか。




 バイトを終えて家に帰って、自分の部屋のクローゼットを開けてみる。

 普段着はプチプラのものが多いけど、ちょっとしたとっておきのシャツを取り出してみる。

 コットン100パーセントの、オフホワイトのシャツ。蕩ける様な手触りの絹とは違って、さらっとした、しっくりくったり、柔らかな生地。

 うん。

 明日は、これを着てみよう。



 今日もバイトは遅番だ。

 というか、今週はずっと遅番。

 あんまりゆっくりはできないけど、一反木綿のことが気になるので、午前中におじいちゃんの家に行くことにした。

 土日とか祝日は丸一日バイトに入るし、毎日通うのはこれでもなかなか難しい。

 近いはずなんだけどね、

 玄関を開けて、まっすぐ奥の部屋の扉を開ける。

「おお。よう来たの、杏南」

 相変わらず、自分の家の様に寛ぎきっているヌーさまに挨拶がてら、尋ねてみる。

「一反木綿さんの具合どう?」

 この家の固定電話は解約しちゃったし、一人暮らしするにしたって、スマホひとつあれば充分だし。

 妖怪は誰もスマホ持っていないし、連絡がつけられないんだよね。これはちょっと不便かも。

 ――まあ、ここに住んじゃえばそれも問題じゃなくなるかもね。

「あそこで休んでおる。具合はあまり良くはなさそうだが」

「やっぱり?」

 おシャレさんはまだ寝ている――ところで、妖怪って寝るの? ――のか、話題に入って来ない。一反木綿も静かに休んでいるらしいので、ヌーさまと声をひそめて話をする。

「ヌーさま、お茶買って来た。飲む?」

「うむ」

「見て見て、今日はコットンのシャツ着て来たの。やっぱり天然素材の服って気持ち良いね」

「ほう」

 ヌーさまが意味ありげに、ちらりと一反木綿のほうに視線を流す。

「あと、今デパートで和服のセールやってるんだけど、木綿の着物、けっこう売れてたよ。お出かけ着は正絹の着物だけど、普段使いの着物とか冬物とかは、木綿も人気あるみたい」

 ぴく、と、長椅子に突っ伏したままの一反木綿の背中が震えた気がした。

「正直、木綿って言われると馴染みがないんだけど、コットンなら結構日常使いしているものね。洋服でもインナーでも。あと、パジャマとかシーツ系?」

「そうなのか?」

「木綿って呼び方が浸透していないっていうか、わかりづらくしてるんじゃないかな。コットンって言ったら私も、まずはメイクするときに使うコットンパフとかが出て来るし」

 それとね、と続ける。

 いろいろ調べて来たんだ。

「コットンの凄さ! これ、もっとアピールするべきだと思うんだけど」

 ヌーさまはさっぱり要領を得ない顔つきだ。もともと女性の洋服や化粧品になんか興味なさそうだもんね。

「何をじゃ?」

「静電気が発生しないしオーガニックだし、怪我したときとか赤ちゃん用によく使うガーゼだってコットンでしょ? それと、タオルだってもとは綿じゃない。外国の生活習慣はよく知らないけど、日本の暮らしに木綿がなかったら大変なことになるよ」

「ワシはそこら辺のことはよく知らんが」

 ヌーさまが、目を細めた。

「姿を変え名を変えつつも、今も人の暮らしの中に欠かせぬ存在ということか」

「そうだよ! むしろ、大活躍中? 私も、ハンカチはタオルハンカチ持ってるし。気をつけて見てみると、そこら中、木綿だらけよ」

 次の瞬間。

「俺が勝手に視界を狭めて、何も見えなくなっていただけか」

 一反木綿さんが低くつぶやいて、嬉しそうに全身を起こす。

「動いちゃって平気なの? 余計ほどけない?」

 いや、と一反木綿さんが否定する。

「俺などこの世界にはもう不要かと思っていたが……まだまだ需要はあったのだな。すべては俺自身の未熟さゆえとは情けない」

 しゅるしゅるっと、糸の巻き取られる音がした。

「え」

 長椅子の上にいた一反木綿さんの身体が、ふわりと少し浮き上がっている。

「一反木綿さん!?」

 10.6メートルの全身の上から下までがぱあっと淡い光に包まれて、ほどけていた箇所が透明な糸でみるみるうちに縫い合わされていく。縫い目は布地に溶け込んで、全然目立たない。

 視えない手で一瞬にして修復されたように、裂けていた部分が綺麗に繕われた。

 しゅるるるるっと、白くて大きい全身に光が満ちて――温かなものに包まれて、淡い光がそうっと一反木綿の中へと吸い込まれ、消えていく。

 でももう一反木綿の傷口は綻びない。

 完璧に、元に戻ったのだ。

 ふわあっと全身を広げて確かめた一反木綿が、ふわふわと浮いたまま、嬉しそうに天井付近を飛び回った。

「ふふん。これで全快だ」

「全快!? ……何で?」

 どうしていきなり完治したんだろう?

「何で? 何きっかけ?」

 不思議に思いつつも、一反木綿の周囲をぐるぐる回って、もう痛々しい綻びがどこにもないことを確かめる。

 ヌーさまが、小さな声で、

「やはり、佐一郎の孫じゃな」

 とつぶやいたのは、私には聞こえなかった。




「治ったんなら、やらなくちゃいけないことがあるわ」

 私は、シャツの袖を威勢よく腕まくりした。

 一反木綿の件は、まだ終わりじゃない。

 ほつれは治っているけれど、汚れは全然解消できていない。

「あとは、その汚れを落とそう」

「え!? おい、孫娘? わーっ、何をする! いきなり触れるな!」

「だって土とか泥とか埃とか、汚れてるじゃない。ほつれがひどくなっちゃったら困ると思って、今まで洗えなかったんだよ。おとなしくして。それとも、洗濯機に放り込まれたい? おじいちゃんが使っていた洗濯機って結構古いタイプなんだけど……あ、でも。10.6メートルも一気に入れて大丈夫かな」

 なんだか心配になってきた。

「洗濯機詰まっちゃうかな。コインランドリーに行けばいいか。あそこなら大物でも洗えるし。人目につくと困るから、普通のシーツとかの振りしてもらう必要があるけど」

「やめろ! 俺を洗濯機で洗おうとするな!」

「だって汚れてるじゃない」

「……こうすれば良いだろうが」

 ふっと一瞬の沈黙のあと、一反木綿が人間の姿を取った。

「わ、変化へんげした」

 出逢った当初に一瞬見たきりの、ヒトの姿だ。

 一反木綿が、ちょっと得意げに胸を張る。

「妖力もおおかた戻って来たからな。この程度は朝飯前だ」

「で、洗濯機に入れる?」

「だから洗濯機で洗おうとするな。この姿なら湯浴みもできる」

「あ、そうか。湯浴み」

 ぽんと手を打ち合わせて、それから気づく。

「で、湯浴みって何?」

 ずるっと転びかけたヌーさまが、渋い顔つきで教えてくれた。

「物知らずめが。湯浴みとは風呂のことじゃ」

「あ。お風呂。なるほど」

 二階にあるバスルームに案内すると、私は備蓄棚から新しい石鹸を捜し出した。使いかけのものはいったん全部処分したけど、日用品は買い置きが少しある。

「石鹸の買い置きがあって良かった。一応、ざっと掃除はしてあるけど」

 タイル敷きのお風呂場に入って、シャワーが出ることを確かめる。

 うん、ライフラインが復活したから、ちゃんとお湯だ。

 これなら汚れもよく落ちて、さっぱりできるはず。

「シャワーが使えて石鹸があれば、とりあえず大丈夫だよね? あー、ボディソープとか洗剤とかも買い揃えていかなくちゃ。あ。ねえ、衣類用洗剤じゃないと縮むとかある? ウールじゃないから平気?」

 それなら急いで買ってくるけど、と言おうとした私は、次の瞬間、かっちーんと固まった。

 一反木綿がずかずかとお風呂場に入り、出しっぱなしにしていたシャワーを浴び始めたせいだ。

「ちょっと待って、私がいなくなってからにして! 今出るから!」

 着物がシャワーの水を吸って、肌に貼りついているのがわかる。

 一反木綿ヒト型のときは髪と着物が白い分、肌の浅黒さが際立つ。

「何でいちいちお前を待たなくてはならん。さっさと湯浴みを済ませたほうが良いだろうが」

「それはそうなんだけど、でもヒト型だと何か違うの! それに、何で着物のまま浴びてるの!」

「着物を洗いたいのだろうが。それとも何か、お前、俺の裸が見たいのか?」

「バカ!」

 真新しい石鹸を投げつける勢いで渡し、お風呂場を飛び出そうとした私の腕を一反木綿が掴み取る。

「何!?」

 私の狼狽えぶりが相当におかしかったのだろう。一反木綿の目の奥が笑っている。

「背中を流してはくれないのか? 俺は病み上がりなんだが?」

「自分でやれ!」

 一反木綿の腕を振り切って、私はお風呂場をあとにした。




 一反木綿はカラスの行水とも言うべき速さで出て来た。

 でも、ちゃんと綺麗になって石鹸の匂いもする。

 ヒトの姿ではなく、本性の姿に戻っていたのはきっと、綺麗になった自分を確認したかったからだろう。

 その気持ちもわかる。

 あとはまあ、本性のほうが水気をよく絞れて良かったのかもしれない。その辺りのことには深く首を突っ込まないようにしている。

 何もかもが人間と同じだと考えちゃいけない。

「綺麗ねえ……!」

 木綿の真っ白で温かみのある風合いに、さっきからかわれたことも忘れて感嘆する。

「ぼろぼろのときはわからなかったけど、貴方、こうしてみるととっても綺麗。うん、私、やっぱり、結構コットン好きかも。肌触りも良いし」

「…………っ!」

 そのあと何故か黙りこくってしまった一反木綿を、二階のベランダの物干しにかける。

 春の太陽と風を受けて、きっとすぐに乾くだろう。

 なにせ、コットン100パーセントだ。

 生まれながらの天然素材。

「ちょっとここで乾いててね。飛ばされそうなら、洗濯ピンチで留めておく?」

「――そんなものいらん。もう、力が充分に戻った。大抵のことは自分でできる」

 つんけんした一反木綿に、私はこっそり笑う。

 ここまで強気な態度を取れるようになったら、もう心配はないだろう。

「じゃあ、私はちょっと買い出しに行って来るから」

 一階に戻ろうとする私を、物干し竿からだれんと垂れている一反木綿の声が引き止めた。

 この一反木綿は低くて、よく響く良い声をしている。

「――おい。お前のおかげとは言わんが、一応治った礼に、俺を呼ぶことを許してやる」

「呼ぶ?」

「そうだ。俺のことを好きなように呼べ。返事をしてやる」

 それが、一反木綿からのお礼らしい。

「私が名前をつけるの? 貴方の名前はないの?」

「普通、一反木綿としか呼ばれないからな」

 妖怪って、合理的なのか何なのか。

「ええと……それじゃあねえ……」

 ちょっと迷ったけど、すぐにはこれしか思いつかなかった。

「タンさんて呼ぶ」

「……お前、センスないな」

 その台詞、私もちょっと前に同じようなことを言った気がする。

「じゃあ、コットンさん?」

「感覚的にいやだ」

「私も」

 呼び名のほうが可愛すぎて似合わない。

「じゃあ、メンさん……麺類食べたくなりそうでいやだな」

「……タンさんでいい」

 それじゃ、決定。

「さて。タンさんが乾いている間に、買い出し済ませて来なくちゃ。あと、水回りだけでも一応綺麗にしておかないと」

 やることはいっぱいあって、結構忙しい。

 部屋を突っ切って階段を下りる直前、思い出してタンさんを振り返る。

 春の光がさんさんと明るい中、真っ白なタンさんが気持ちよさそうに風に吹かれている。

「私、今度ここに越してくることにしたから! よろしくね!」

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