もののけ、もののけ、杏南が通る
河合ゆうみ
第1話 ――杏南、出逢う――
気がかりなことが残っている。
ベッドの上に力なく放り出された皺だらけの手はずいぶんと痩せ細り、すぐには自分の手だとわからないほどだ。
老いて、何もできなくなってしまった手だ。
病室からの変わり映えのない眺めにも、もうすっかり慣れてしまった。
秋に入院してからも外の季節は巡り、今は暦の上ではもう春だ。長かった冬も、もうじき終わる。
「カルテを、置いてきてしまったな……ずっと書き溜めてきたものなのに」
自力ではほとんど動けない身では、その習慣ももう難しい。ペンを握ることすら難儀だろう。
こんなにも急激に、終わりの時が迫ってくるとは思わなかった。
彼は少しの後悔を滲ませつつ、寝たきりの窓から外を見やる。孫娘が持ってきてくれた愛用の置き時計が、カチコチと変わりない時を刻み続けている。
もうじき、午後の面会時間になる。
孫娘がしょっちゅう見舞いに来てくれることが、今の彼の最大の楽しみだ。娘夫婦も、忙しい仕事の隙間を縫うようにして顔を見せてくれる。
特に孫娘はバイトに向かうまでの時間を、ここで一緒に過ごしてくれることが多い。
「……ありがたいことだ」
優しい生き物たちを助けることが、こうして入院するまでの自分の仕事であり、生き甲斐でもあった。そのためにずいぶんと長いこと、
「誰か、私の跡を継いでくれる人が現れれば良いのだが……」
特殊な仕事なので、誰にでも務まるというものではない。
誰かが、あの仕事を引き継いでくれるといい。心残りはそれだけだ。それだけが気になって仕方ない。
呼吸がゆっくりと変化していく。ゆっくりゆっくりと薄れていく意識の中、彼は孫娘の到来を待った。
未来は視えない。自分にはもう、未来はない。
けれど。
「……彼らに、どうか未来がありますように……」
そして、孫娘に幸せが訪れますように。
そのふたつが、最後の願いとなった。
※
ようやく、探し続けていた将来の夢を見つけた。
そんな気がして、どうしようもないくらい胸が弾んでドキドキする。
高校を卒業して二年目の春のことでした。
大学には進まず、フリーターをしている私のバイト先はデパートだ。
東京から河を越えて電車で一時間くらいの
駅の西口にあるから、イーストデパート。ノスタルジックな安直さがたまらないネーミングセンス、嫌いじゃない。
ショッピングモールの多い昨今、デパート自体珍しいかもしれないけど。
私、デパートって結構好き。
一日かかっても回り切れないくらい広いショッピングモールも楽しいけど、イーストデパートは駅から直結していて品揃えが良くて、こぢんまりしていてなんだかカワイイ。
別館とかA館B館とかに分かれた複雑な造りではなく、ストレートに七階立てビルがひとつ、ただそれだけ。
屋上には庭園風のオープンカフェがあって、地下一階には食料品フロアがあって、婦人服、紳士服、子供服、寝具に家具、書店に雑貨、化粧品売り場に宝石店。
レトロでクラシックな、古き良きデパートって感じがする。
私は、その中のイベントフロアに配属されている。六階の一角にあるコーナーで、いろいろとコンパクトなイーストデパートの中ではわりあい広い。
そのイベントフロアでは現在、『春色スイーツフェア』が開催中だ。
フロアの中は桜の淡いピンクや薄い緑、苺の甘い香りに包まれて、まさに春色。甘いものに目がない私としては、嬉しいやら目の毒やら、やたらとお腹が空くわで悩ましい。
そして目の前には、口から泡を飛ばして喚く中年男性が立ちはだかっている。困ったお客さま――別名、クレーマー。
イーストデパートスタッフ特有の言い回しをするなら、9番さん。
「聞いてんのか、ああ!?」
目の前の男性に凄まれて、シックなワンピースの制服を着た私は真剣な顔をして、丁寧に頭を下げる。
最敬礼は腰からまっすぐ四十五度に折って、手は身体の前で合わせる。顎は引いて、動作はゆっくりと品良く。
謝罪の最敬礼だから、微笑みは浮かべない。真摯に、お客さまの苦情を受けるのみだ。
「はい、お客さま」
世の中にはおいしいスイーツがいっぱいあって、それは私をとても幸せにしてくれるものだけれど、世間には甘くないこともありがたくないことに山盛り状態。
高校を卒業してからのバイトで、それを痛感している。
特に、今現在。
なう。
『世の中にはいろいろな人がいるものだよ、杏南』
気が長く穏やかな性格だったおじいちゃんは、ことあるごとに私にそう教え聞かせてくれた。
小さいころは住んでいる家が近かったこともあって、私はほとんど毎日、おじいちゃんの家に入り浸っていたはずだ。
私には、小学校以前の記憶が、あんまりない。途切れ途切れには覚えているので――小学校の間に親の仕事の都合での転校や引っ越しが多かったから、そのせいもあるのかなと思う。
パパとママは、今と変わらず仕事仕事で帰りが遅かっただろうし、学童保育に行ったり他の誰かに預けられた覚えもないし。
――ホントね、おじいちゃん。世の中って、本当にいろんな人がいるものね。
『焦らなくていい、焦ることはない。杏南は杏南のペースで生きて行けばいい。ただ大学に行って就職するだけが進路ではない。杏南のやりたいことを見つければいい。人生は長いんだから、焦らずゆっくり捜しなさい』
高校入試の前に私の家が船坂市内に戻ってきて、おじいちゃんの家とはまた近くなった。
駅を挟んで正反対の場所にあるから、バスだと回り道になって合計三十分くらい、車だと十五分で行き来できる。
だからそれ以降は、私は相変わらずおじいちゃんの家にちょこちょこ顔を出していた。
――焦っているつもりはないけど……でもね、おじいちゃん。
頭を下げ平身低頭の状態でいるのも、そろそろ限界。
頭に血が上りそう。
「まったく、このデパートは客のことを何だと思ってやがるんだよっ! 俺を殺す気か! お客さまは神さまだろうが! 土下座させて動画を全世界にばらまいてもいいんだぞ、ああ!?」
心の中で毒づく。
――おめでとうございます。立派な威力業務妨害、そして恐喝未遂罪の成立です。
まったく、世の中のクレーマーな人たちって、どうしてこう、やることがパターン化しているんだろう。
喚いて叫んで怒鳴って、威張り散らして。
――みっともない。
クレーマーの男性相手に、私は営業用の取り繕った申し訳なさそうな表情をかなぐり捨てて、すっと無表情になった。
デパートで働いている以上、クレーマーに遭遇することは珍しくない。
というか、いやになるくらいのペースで遭遇する。
とりあえず事情を聞いている間はおとなしくしていたけれど、もう限界。
うちのデパートは、クレーマーに対して厳しいほうだと思う。
大体、
①自分が糖尿病だと知っているのに、先月の地方物産展に来てお菓子を大量購入した。
②糖質制限を行っているのに、禁を破って食べてしまった。
③そのため病状が悪化して医師に叱られ、治療費も上がってしまった。
これをデパートのせいにされても困る。病気だったり、食事制限を受けているのはお気の毒だとは思うけど、それはデパートの営業内容ではない。
――責任取れって言われても、自己責任の域だし。
デパートは、病院でも看護施設でもないし。
まあ、糖質制限を受けてるって知ってたら、購入をさりげなく注意するくらいはしたかもしれないけど。
そしてとどめの一言。
④精神的苦痛を味わわされたから、今後自分の買ったものは全品無料にしろ。
言っていること、やっていることが斜め上過ぎて、もう理解できないし、したくもない。
これが理解できてしまったら、人間として終わるような気さえする。
売る人がいて、買う人がいる。
どちらが欠けても消費と流通は成り立たないっていうのに――大抵のクレーマーは、自分がこの世で一番えらいのだと信じ込んでいるから始末が悪い。
もはや、相手が正常な思考回路を持っているかも怪しい。
――結論。このお客さまは、お客さまではない。
むしろ、前世は人じゃなくて虫とかだったのかもね。
顔には出さず心の中で毒づくのは、最近身につけた特技のひとつだ。こんな9番案件をいちいちまともに受け取っていたら、メンタルがぼろぼろになっちゃう。
――来世『も』人間以外に生まれろ。
視界の隅で、騒ぎを聞いて駆けつけて来たフロア長の
OK、遠慮するな、という意味をこめた合図だ。
きっとそのあと始末書とか上層部への報告とか、事と次第によっては警察を呼んで後処理をしてもらう手間とかがあるけれど、とりあえず許可は出た。
――いいんですね? フロア長。
よし。
それなら私は、私の仁義を貫かせていただきます。
「俺をこれ以上怒らせたくなかったら、ここにいる店員全員、今から一時間土下座しろ! どいつもこいつも、舐めんじゃねーぞ!」
「もしもし。お客さま」
先程までの接客ボイスとは打って変わって、思いっきりお腹の底から出したドスの効いた声で、はっきり告げる。
聞き返されたりしないように、にっこりはっきり、はきはきと。
「あぁ? 早く土下座しろっつってんだろ。日本語も通じねえのかテメー」
日本語が通じないのはそっちだろ馬鹿。
「お客さまは、神さまは神さまでも、疫病神だと思います。当デパートは生憎人間専用となっておりますので、お引き取り下さいませ」
「なっ……なんだとぉ!? 客に対してその口の利き方はなんだ! 訴えてやる!」
すぐにブチ切れる人って、訴えるって言葉、好きだよね。
とっくに騒動に気づいていた警備員の男性二人が、ぎゃーぎゃー喚き続ける9番さんを追い立てていく。あとはバックヤードで、百戦錬磨の警備員と男性社員たちがお相手することになるだろう。
そこで何が行われているのかは、一介のバイトである私は知らない。
何をどうやっているのかは知らないけど、ほとんどの9番さんは、大概そこでおとなしくさせられているらしい。
ちょっとその方法を知りたいような、知りたくないような。
当デパートは、こちらの不備によるクレームには誠心誠意対応する。それはデパートとして当然。
でも、ストレスを発散したいんだか言いがかりをつけたいんだかわからないこういうクレームには、一切遠慮しない。社員が無駄に消耗してしまうから、という理由らしい。
まあ、働いている側としてはありがたい方針ではあるけども。
「うちのデパートって、呪われてでもいるんじゃないかな……」
何しろ、9番さんが多すぎる。困ったものだ。
「毎度のことながら見事な一言だったね、新見さん。バッサリ行ったねー。あれくらいバッサリだと、聞いてて気分良いねー」
仕事上がりの時間になって、バックヤードにあるタイムカードを押そうとしていたところで。
奥にある事務所からフロア長の永井さんが出て来て、なんだかちょっとわくわくした様子で話しかけて来た。
デパート業界において、イベントフロアは花形部署のひとつだ。
客を呼びこむのは圧倒的に食料品街が強いけど、イベントフロアは夏にサマーギフト、冬にウィンターギフト、地方物産展に衣料品のセールなど、目玉となるイベントに直結している上に、それが毎週目白押し。
一週間ごとにイベントが代わり、そのたびにバイトである私が売る物もがらっと変わる。
石鹸タオルの詰まったお中元を売った翌週から、ダイヤモンドの指輪やブランド物の高級腕時計などの宝飾品を展示して売っていたりもするのだ。
毎週お祭りをやっているみたいで、飽きない。
永井さんはそのイベントフロアを取り仕切る責任ある立場なのに、私がクレーマーに言う一言が大好き、と公言して憚らない、ちょっと変な人だ。
仕事はできるし家庭では良いパパしていると聞くし、いい人だとは思うんだけど。
このデパートには、こういう変わり種がわりと多い。
「そうですか? まあ、ああいう人の相手にはだいぶ慣れてきましたけど……」
何度経験しても、メンタルをごっそり削られるのは事実だ。ああいうタイプの相手は心底疲れる。
話の通じないクレーマーなんて皆滅びてしまえ。それか、一度接客サイドに回ってみろ。
その後絶対、接客業に対して鷹揚になるはずだから。
「新見さんみたいな若い女の子を、9番さんは舐めてかかるからね。そこで言いたいだけ言わせた挙句、びしっと一言で切り捨てる! いやー、すかっとするよ」
「いや、喜んでないで、クレーム処理にはまずフロア長が出て下さいってば」
ダメダメ、と永井さんが首を横に振る。
ちょっと小柄でずんぐりむっくり、たぬきみたいな体形をしているので、首を振ると同時にお腹もぷるぷる揺れる。
「知ってるでしょ? 男性クレーマーには若い女の子、女性クレーマーにはイケメンをまずぶつける。それで撃退できる確率って、思ってる以上に高いんだから。僕みたいなおじさんが最初に出て行っても、何も言い事無いよ。こうして裏方に回って全体を取り仕切るのが、僕たちおじさんの役割なの」
「それが正社員の台詞ですか。私、ただのバイトですよ?」
「まあまあ、そう言わないで。今回の件も、ちゃんと手当てつけておくから。それとこれは、『苺ロンド』さんから新見さんに、って。はいこれどうぞ」
小さなケーキ用の箱を渡される。
中を見なくても、苺の爽やかな匂いがするのがわかる。
「なんで『苺ロンド』さんから? 私、『苺ロンド』さんの担当じゃありませんよ?」
私が今週『春色スイーツフェア』に出店する店舗の中でレジと接客のヘルプを受け持っていたのは、クリーム苺大福で有名な、スイーツの老舗『
『苺ロンド』は苺スイーツの中でもメディアによく取り上げられている有名なお店で、中に入っていたのは苺のたっぷり詰まったエクレアだった。
エクレアの正式名称は、エクレール。チョコレートをかけてあるものだと、エクレール・オ・ショコラ。
エクレールは、フランス語で稲妻、つまり雷という意味。
中に詰まったフレッシュなクリームが溢れてしまわないように、稲妻のように素早く食べる、というのがその由来らしい。
まあ、諸説ありますけど。
「9番対応を見て胸がすっとしたから、新見さんにプレゼントだって」
私は思わず笑顔になってしまった。
「わあ、ありがとうございます!」
甘いものは大好き。喜んでいただきます。
いつもいつも、甘いもので懐柔されてしまう自分が我ながら情けないけど……ええい、仕方ない。好きなものには逆らえない。
甘いものを求めるのは、人間の性だ。
遥か昔、古代の時代から人間は蜂の巣から蜂蜜をかすめ取り――蜂にとってはえらい災難だと思う――、樹木から樹液を採取してメープルシロップを作り。
国も時代も違えども、お菓子のない国はない。人間は遺伝子レベルで、甘いものを愛してきた。
箱の中のエクレアを見てうっとりしている私に、永井さんが、うんうんと頷く。
「もともとうちはクレーム処理は容赦しない方針だけど……新見さんの言葉のチョイスは小気味良くていいよ。新見さんの毒台詞は、うちの立派な名物だからね。これからも頑張ってね」
「え」
本当に、困ったものだ。
※
9番さんの襲撃があった『春色スイーツフェア』も、昨日でおしまい。
イベントフロアでは今日からは駅弁のフェアが始まっているけど、私は今日はバイトは夕方からだ。
パートの主婦層は早く上がりたがるので早番希望者が多いから、時間の自由が利く私は遅番になったり急きょ休んだ人の穴埋めに入ったり、結構便利に使われている。
それが、パートさんにも大学生バイトにもできないフリーターの強み。
今日は遅番だ。
バイトまでに時間があるから、プチプラのカットソーにデニム、その上にパーカーを羽織った軽装で、おじいちゃんの家を訪ねることにした。
おじいちゃんが亡くなって、もうじき四十九日。
寒さも緩んできたことだし、そろそろ、家や遺品の片づけをしなくちゃいけない。
バイトのときは制服に合わせてストッキングやパンプスを履くし、お化粧もそこそこするけど、ショートカットで少年体形の私は、普段はこういうラフな格好のほうが好き。
大掃除や片付けで多少汚れるのは覚悟の上だから、軍手や掃除道具も持ってきた。
船坂駅からバスに揺られ、住宅街の坂を上がったところにある、赤い三角屋根の古びた一戸建て。
ちょっと錆びつき気味の門のところにある郵便ポストには、洋館にふさわしくない達筆な筆遣いで記された、新見、の表札がかかっている。
「お邪魔しまーす。おじいちゃん、来たよー」
もはや誰もいないとわかっているけれど、いつものように声をかけて、玄関の鍵を開ける。
ここはおじいちゃんの家――持ち主は、もういない。
親しい人が亡くなってから四十九日までの間というのは、信じられないくらい短く感じるのが不思議だ。何なんだろうね、あの慌ただしさは。
亡くなった直後からお葬式の相談と手配、親戚縁者に連絡をし、お通夜と告別式が終わるまでは息つく暇もない。
忙しく慌ただしく別れの儀式を執り行うことで、押し寄せる悲しみを紛らわせる目的があるのかもしれない。
初七日が済むころ、残された遺族の悲しみは、愛しさと寂しさの入り混じった切なさに変わっていく。
お仏壇も位牌も私の家にあるから、おじいちゃんの家は今はもぬけの殻だ。
でも、おじいちゃんの匂いがする。気配がまだ残っていて、亡くなってしまったことが信じられないくらい、家の中は何も変わっていない。ちょっと埃が積もっていて、空気が冷え切っているだけだ。
その空気の冷たさに、改めて実感する。
「おじいちゃん、ホントにもういないんだな……」
途端に、背筋がぞわっとした。
風邪でも引いたみたいな寒気が一瞬走って、すぐ消える。
「あ、そうだ。お土産持って来たんだった」
お土産というより、正式にはお供え?
「エクレアは食べちゃったけど、おじいちゃんの好きな鈴最中買って来たよ。食べる?」
まるでおじいちゃんがいる時みたいにそう言いながら、玄関を上がって居間へ入る。
欧州趣味だったおじいちゃんの家は、若いころ建てたにしてはモダン建築だ。
今は、そのレトロモダンな感じがちょうど良い風合いになっている。
一階の、フローリングで暖炉のある居間がいつもの私の居場所だった。
おじいちゃんも大抵いつも、この居間にいた。
籐でできたお気に入りの椅子に腰かけて、新聞を広げて。
機嫌が良くて暇なときは、ゆっくり葉巻を吹かしたり、コーヒーを飲んだりしていたっけ。
ここ半年くらいの間は入院しっぱなしだったから、この家もほったらかしにされていた。
「にしては、綺麗なような気がする……」
まるで、誰かが時々風通しだけでもしていたみたいに。
「半年放っておいても、住んでいる人がいないと汚れないものなのかな? 埃もあんまりないみたい」
私は、きょろきょろと辺りを見回す。
すべて、おじいちゃんがいたときのままだ。
「パパもママも、病院には顔を出してたけど……こっちにまでは手が回らなかったはずだよね?」
うちの両親は自他ともに認めるワーカーホリックで、寝るために自宅に戻ってくるのがやっと。とてもとても、おじいちゃんの家のことまでは手が回らない。
いいなあ、と思うときがある。
寝食を忘れてまでして没頭できる仕事があるっていうのは、将来の夢が見つからない私からしたら羨ましい。
「ま、だから私が片付けに来ることになったんだけどね」
業者に依頼すれば、すぐに片付けは終わる。ママも最初はそうしようとしていたけど、私が止めた。
もう一度、この家の中をゆっくり見てみたかったし。
おじいちゃんの私物が全部処分されて跡形もなくなっちゃうのも、嫌だった。
『そうね。杏南が片付けて管理をしてくれるのなら、あの家はしばらくあのままでもいいわよ。ママも、あの家がなくなっちゃうのは寂しいし』
居間の暖炉の上に置いてある透かし彫りの手箱は、おじいちゃんが愛用の時計や手紙などを入れておくために使っていたものだ。愛用品は遺品として引き取って、うちにあるお仏壇に供えてあげたい。
眼鏡は入院中でも使っていたけど、万年筆とかお気に入りのコーヒーカップとか、おじいちゃんのそばに置いてあげたいものは色々ある。
「すごくお気に入りだった手巻きのゼンマイ腕時計、あるかな? イギリスに行ったときに買って来たって言ってたやつ」
わはは、こうして家人のいない家で捜し物をしてると、なんだか空き巣にでもなったみたい。
やましいことはしてないけど、ちょっと背中がざわざわして、お腹が落ち着かない。
「あれ? 何だろ、これ」
手箱の中から、大ぶりの鍵が出て来た。
ずっしりとしたレトロなフォルムで、アンティークとして人気がありそうな見た目だけど……この家に、単なる飾り物の鍵があるはずはない。
インテリアならどこかに飾っておくはずだし、玄関の鍵は別の場所にかかっているし。
「ということは、これって、どこかの部屋の鍵?」
あそこだ、とすぐに思い当たる。
小さいころから、絶対に入っちゃいけないと言われていた一階の突き当りの部屋。
いつも鍵がかかっていて、何があるのか訊いてもはぐらかすだけで、絶対に教えてくれなかった。
「――あの部屋、か」
玄関を開けて突き当り――覚えている限りいつも鍵がかけられて大きな飴色の扉に閉ざされていた、謎の部屋。
*
やけにずっしりと重い気がする鍵を鍵穴に差し込んで、かちっと回す。
鍵の開く、かちゃりと重い音がして、私はびくっと肩を竦ませる。家の中が静かだから、鍵を開けた音が余計に響くんだろう。
――うわあ、なんだか悪いことしてる感、半端ない!
だって、ずっと、入っちゃいけないと言われていた封印部屋だもの。
でも、誘惑には勝てない。
私は、鈍い金色に光る真鍮のドアノブに手をかけた。
――おじいちゃんの趣味の部屋なのかな?
おじいちゃんは熱しやすく冷めにくい、実に多趣味な人だった。
花札トランプ、ダイスに将棋、チェス、テーブルゲームはなんでもござれ。野球観戦に行くし読書や映画は大好きだし、機械に強いし詩吟も吟じちゃうしの、何歳になっても、興味を持ったことには何にでも突き進んでた。
「なんか、得体の知れないものとか出て来たらどうしよう……基本趣味は良いんだけど、時々とんでもない悪趣味なもの買ってたりもしてたよね。裏地がものすごい怖い地獄絵図の羽織とか、見た途端大泣きしたくらい怖い顔の民芸品とか」
ふっと息を吸い込んでから、思い切って扉を開ける。
「……お邪魔しまーす」
中は、結構広いみたい。私は、恐る恐る足を踏み入れた。
カーテンが閉めてあるせいか、部屋の中は薄暗い。庭に面したお部屋のはずなのに。
――隣の居間と同じくらい……もっと広いかも?
色々なものが、雑然と置いてある。
大きな窓枠のついた出窓、壁際には扉と同じ飴色に光る木製の棚、部屋の中には大きめの座卓、それとソファーがいくつか。
贅沢なゴブラン織りの布張りソファーは、凝った細工の猫足つきだ。ひとりがけ用と、大人でも寝っ転がれるサイズの長椅子もある。
庭に面した大きな窓には、レースのカーテンと蘭の花模様の分厚いカーテンが二重にかけられている。
古めかしい洋風の部屋で、ちょっと広いけど――まあ、書斎とか趣味の部屋と言われれば、まあそうかなという気がする。
「あんなに秘密にしてたのに……何の部屋だったんだろう?」
そうしたら。
庭の木がざわめき、春先の昼日中だというのにやけにひんやりと空気の冷えたその部屋の中で――いやだなあ。私、こういう妖しい感じは苦手だ。
「おや……人間の匂いがする。この匂いは」
誰かがつぶやきながら、横になっていたらしい長椅子からゆっくり、あくび交じりに身を起こした。
「戻ったか、佐一郎。待ちわびたぞ」
くるっとこちらを振り向いた姿は、少年のようだった。
くるくるさらさらの巻き毛、ふわふわのお肌、お人形みたいにぱっちりとした眼の――五歳くらいの、絶世の美少年だ。
美少年だからこそ、古風な仕立ての青い着物を着ているのが不釣り合いなんだけど、妙にしっくりと似合っても見える。
私は一瞬、反応に困って固まった。
――子供……? でも、おじいちゃんの家に上がり込んでいるということは、不法侵入者だよね? 良くて迷子、悪くて泥棒? どっち?
とりあえず慎重に、声をかけてみる。
「……どちらさまですか? おじいちゃんの知り合いの、お孫さん……とか? それともご近所の子?」
犯罪には巻き込まれたくない一心で、思いついた中で一番ましな理由を口にしてみる。
すると、まだまだ眠そうにぽやっとしていた美少年が、はっとしたように目を見開いてソファーから立ち上がった。
「なんと! 佐一郎ではないではないか! 女、何者だ! この不届きな不法侵入者め! ここは新見佐一郎の館ぞ!」
新見佐一郎は私の祖父ですが何か!? と、あえて私は言わなかった。
だって。
出た出た。
得体の知れないモノ。
「きゃーっ、お化けーっ!」
腰を抜かしながら絶叫した私に、美少年が慌てて訂正した。
「お化けではない、もののけじゃ!」
「どっちでも似たようなものよーっ!」
*
心臓が、まだばくばく言っている。
――生まれて初めて出会った妖怪が、見た目がラブリーで人に危害を与えないタイプの妖怪で良かった……本当に、良かった……!
心からそう思い、運命に感謝しつつ。
それでもやっぱり、怖いものは怖い。
私は腰を抜かして床にへたり込んだまま、両腕を床についてがっくり項垂れている。
疲れた。
この数分間で、デパートの棚卸しの日みたいになんだかものすごく疲れた。
「ということはつまり何ですか、アンタは妖怪ぬらりひょんなの?」
腑に落ちない。
「その可愛い見た目で? 座敷童子じゃないの?」
「正真正銘ぬらりひょんじゃ。ちいとばかし、青坊主の血も混じっておるが」
もしかして、それで青い着物着ているの?
妖怪ってそんな安直なものだったっけ?
「妖怪というのは妖しい怪と書くのであまり好かぬ。もののけというほうが全体的にやわらかいし無害に聞こえるので世に広めたいと思っておるのでよろしく頼む」
「よろしくと言われても……」
花模様を織り込んだ重厚な造りの長椅子にだらしなく横たわり、どう見ても完全に寛いでいる猫みたいな様子で、美少年が尊大に頷く。
ふわふわの髪が絶妙に可愛らしくて色白の頬っぺたはつんつん突きたくなるくらいやわらかそうだというのに、語り口は妙に古めかしくて固い。
そしてなんだか理屈っぽくて面倒くさい。
声は可愛いんだけど。
「ぬらりひょんとか青坊主って、どういう妖怪……いえ、もののけだったっけ。人食べるの?」
自慢じゃないけど、私は妖怪とかお化け系は詳しくないし、むしろ苦手だ。
だって怖いんだもの。
「食わんわ、そんな不味そうなもの。食ったら腹を壊しそうじゃ」
「微妙に失礼ね……で、その、ぬらりひょ……ぬらりひょんって、なんか言いにくい。噛む」
「ヌーさまと呼べ」
「何で」
「本来ならばこんな役にも立たなそうな
「とりあえず、ニックネームのセンスなさすぎ」
むかむかくる気持ちをなんとか宥めて聞き流す。
怒るな杏南、相手は可愛い。
と、自分に言い聞かせる。
危害を加えられないというのなら、可愛くもないデパートの9番さんよりはずっとましだ。
9番さんのほうが妖怪じみているときもあるし。
とりあえず恐怖とか何故私がもののけが視えているのかとかの疑問は潔く後回しにして、話を進めることにした。
一番気になるのは。
「おじいちゃんが『もののけの医師』だったって、ホントなの……?」
その言葉を、私は何故か知っている。確かに、どこかで聞いたことがある。
――でも、どこで?
私、今まで妖怪とは無縁の生活を送ってきたはずなのに。
「それより喉が渇いた。茶を振る舞ってくれ」
「えー? お茶? ココアとかジュースのほうが似合うよ」
「ああいう飲み物は好かん。こういうときは日本茶に限る」
なるほど。中身は確かにお年寄りだ。
ぬらりひょんって確か、妖怪の中でも結構長老格にあるんじゃなかったっけ?
アニメやマンガでしか見たことないけど。
怪談が苦手だから、ほんのちょっとしか見たことないけど。
「これで良ければ、はい」
ここに来る途中にコンビニに寄って来たから、お茶のペットボトルは持っている。
そのまま、どん、と座卓に置くと、美少年ぬらりひょんが、はーっと首を振り振り、思わせぶりなため息をついた。
「何」
「ガサツな……佐一郎は孫娘の教育を失敗したのかのう。客相手に礼儀がなっておらん」
「アンタを客だと認めた覚えはないんですけど?」
「生意気な小娘だ」
「黙れ爺」
間髪入れずに言い返すと、ちょっとだけ溜飲が下がる。イニシアチブを取られっぱなしっていうのも悔しいしね。
「じ、爺とはなんだ。佐一郎に頼んで、若い姿に変えてもらったのだぞ!?」
「おじいちゃんに?」
「おう。ええと、なんと言うたかな。あんちえーじんぐじゃ」
「もしかして、アンチエイジングって言いたいの? アンチエイジングで済ませていい域じゃないと思うけど、とりあえず何やってたのうちのおじいちゃんてば……」
もののけの医師の仕事は、美容整形ですか?
頭が痛くなりかけたので、慌てて話を元に戻す。
「あのね。この家は、おじいちゃんが長期入院になるってわかったときから、電気も水道もガスも止めてあるの。食器類だって手入れしてないから、すぐにはお湯沸かすこともできないの。冷たいお茶でもありがたいと思いなさいよ」
蓋を開けていないペットボトルを上下に振ったりあれこれしていた妖怪爺が、困惑したように私を振り仰いだ。このガキ、私の話を半分も聞いてやがらなかったな。
「……おい。口の減らない孫娘」
「何よ、不法侵入者」
「これはどうやって飲むのだ。逆さに振っても茶が出て来ぬぞ」
「ペットボトルのお茶、飲んだことないの?」
「ない!」
胸を張って言われ、脱力する。
「……わかった。開けてあげるから貸して」
キャップを外して渡すと、にっこり笑顔を向けられる。
「済まぬな。そうやって飲むものであったか。いや、不覚」
美少年スマイルに、不覚にも胸がきゅん、とときめいた。
――だって……!
可愛い。
可愛いったら可愛い。
性格に難があろうと中身がお年寄りであろうと、可愛いものは可愛い。
妖怪だろうとかまうものか、と思う程度には可愛い!
そして私は、可愛いものに滅法弱い。
よっぽど喉が渇いていたのか、くーっと勢いよくお茶を飲み干す喉がこくこく動いている様子まで可愛い。
――確かに、ヌーさまって呼びたくなるかも。
ええい、惑わされるな杏南。
「馳走になった。なかなかに美味だな、この面妖な入れ物に入ったお茶は」
ペットボトルより、あなたの存在のほうがよっぽど面妖だわよ。
とは言わないでおく。可愛いし。
「口に合ったんなら良かったけど」
「お茶があると、お茶請けもほしくなるな。何ぞないか?」
「そんな気の利いたものがここにあるわけ……」
思い出した。
「あるわ。ちょっと待ってて」
お土産に持ってきた、おじいちゃんの好物。本当は私のおやつの予定だったけど。
「鈴最中ではないか!」
小ぶりの化粧箱を紙袋から取り出すと、ヌーさま――やっぱりしっくり来るからそう呼ぼう――が長椅子から飛び上がった。
「やはり、佐一郎が贔屓にしている『
包装紙をバリバリと剥がし、鈴最中を両手に持ったヌーさまが嬉しそうににこにこする。
「長期入院とか言っていたが、佐一郎の病はまだ治らんのか? ワシは佐一郎の帰りを待ってずっとここにおったのだ。留守ではなにかと物騒かと思ってな」
そう言われて、はっと気づく。
――ヌーさまは。
知らないんだ。
おじいちゃんがこの家に帰ってくることは、もうない。
その事実を。
――どう伝えたらいいんだろう。
ちょっと迷って、結局シンプルな言葉を選ぶ。
一人がけ用のソファーに座り、心持ち姿勢を正す。
「……おじいちゃんは。祖父は」
「うむ」
「亡くなりました」
鈴最中を頬張ったままのヌーさまが、一瞬、動きを止めた。
「……………………」
「もうすぐ四十九日なの。息を引き取ったのが、三月の頭だったから」
黙ったまま、ヌーさまが口の中の最中を飲み込む。
ペットボトルに手を伸ばし、苦々しそうに一気に煽る。
美味しいはずのお茶も最中も、今はきっと、何の味もしないだろう。私も同じだったから、よくわかる。
親しい人が死んでしまったとき、自分自身もほんの少しの間だけ、死んでしまったような気分に陥る。身体は動いていても、心の中にぽっかりと穴が空く。
「――水臭いやつじゃのう……逝きおったか。別れの前に、挨拶のひとつくらい寄越せば良かろうものを」
驚きというよりは、悲しみ。
ほろ苦い寂しさ。
寂寥。
目の色を沈ませて、ヌー様が疲れたような声でぼそりとひとりごちる。
「長年の友だ。一言くらいあっても良いものを。どうせ、人の世の理だからと、あっさり死を受け入れたのだろう。あれはそういう男じゃった」
「ヌーさま」
「潔い男じゃった。ワシの知っている人間の中で、もっとも好ましい男だった。真の友であった……」
おじいちゃんの死を静かに悼むヒト――妖怪だけど――を前にして、私も神妙な気持ちになる。
幼稚園のころ私はこの家の近くに住んでいて、しょっちゅうこの家にも出入りしていた。
おじいちゃんはある意味ちょっと変わった人で、孫である私のことを、一人前のレディとして扱ってくれた。小さなお姫様みたいに大切に扱ってもらったけど、絶対に子ども扱いはしなかった。
どんなときでも、同じ目線で対等に扱ってくれた。
丁寧でやわらかい紳士的な物腰、穏やかな言葉遣い、いつもイギリス風のおしゃれを楽しんで、茶目っ気もあって――私はおじいちゃんのことが大好きだった。
お葬式以降出たことのなかった涙が、ぽろぽろ出て来る。
ヌーさまの深い哀しみに、共鳴してしまったみたいに。
ぽろぽろぽろぽろ、亡くなった人のために流す涙は熱くて痛くて、胸が苦しくて人恋しい。喉がひりつく。
「お、おい孫娘。なにゆえお前が泣く? お前は野辺送りまで見送ったのであろうが」
「……うっく……っ、送ったよ。仮通夜からお通夜のあとの通夜振る舞い、そのあと一晩一緒にいる夜伽もして告別式、火葬場まできっちりしっかり全部一緒にいて見送ったよ~……バイトをキャンセルして、だから最後のお別れまで全部一緒にいられて良かった~……うう~……っ!」
不意に、スイッチが入ってしまうときがある。
大好きな人だからこそ。
生前のことをはっきり覚えているからこそ、がらんとした今のこの家がたまらなく寂しい。寂しくて寂しくてたまらない。心に空いた穴が埋まらなくて持て余す。
もう四十九日とよく言われるけど、まだ四十九日。
ひと月半とちょっと。
寂しさに慣れて、おじいちゃんの死を静かに受け入れられるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
心の中にはまだおじいちゃんがちゃんといるけれど、もう触れることはできないし、あの深みのある温かな声で名前を呼んでもらうこともできない。小さな子供みたいに頭を撫ぜてもらうことも、相談に乗ってもらうこともできない。
この寂しさに、まだ慣れない。
死というものは非現実的なようでいて、その反面とても現実的だ。
おじいちゃんの身体は、すでにもうこの世にはない。消滅してしまった。残っているのは、白くさらさらになった骨だけ。
――私は。
おじいちゃんに、『大好き』って、きちんと伝えることができただろうか。
子供のころは素直に言えた言葉だった。
いつからだろう、無邪気に『おじいちゃん、大好き!』と口にして、抱き着くことができなくなったのは。
態度でも言葉でも、もっと率直に示せば良かった。こんなに早くに永遠の別れが来ると知っていたら――もっと、もっと、おじいちゃんのそばにいて思い出を作って、もっと一緒にいたかった。
いつかは別れが来ると知っていたはずなのに、それをすっかり忘れて、気が付いたときにはおじいちゃんは入院して、あっという間に弱っていった。
おじいちゃんが息を引き取ったとき、私はたまたま休みで、病院を訪れていた。だから、最期の瞬間に手を握っていることはできたけど。
人は死ぬとき、最後の最後まで耳が聞こえているという。
ただ泣くんじゃなくて、そのときに、ありがとう、と――大好きだよ、と伝えることができたら良かった。
そのことが悔しくて、寂しくて、今でも後悔している。
「手のかかる孫娘じゃな」
ふ、と小さく微笑んだヌーさまが、小さな手を伸ばして私の頭を撫でてくれた。
小さいくせに、撫で方は頼もしい大人だ。
あったかくて、どっしりしてる。
「杏南。佐一郎の見送り、ご苦労であった。つらかったであろうな。えらかった。佐一郎もきっと、孫娘の孝行を喜んでおるぞ。死者を見送るのは、生きる者の最大の孝養だ」
わしわしわしわし、ショートカットの髪を撫でられるのは良い気持ち。
――あれ?
泣きじゃくりながらも安心していると、ふと疑問が生まれる。
私、ヌーさまに名前を教えたっけ?
「ねえ。なんで私の名前」
問いかけは、途中で遮られた。
「ちょいと、聞き捨てならないわ! 佐一郎が死んだって本当なの!?」
古びた飴色をした木製机の、山積みになった書類やらノートやらの上で。
真っ白で小さめの頭蓋骨が、おいおいと泣き声を上げる。
空洞になっている目から、器用に涙も流れ出ている。
頭蓋骨は頭蓋骨でも、喋ったり泣いたりしているところからして、普通の頭蓋骨ではないだろう。
――確か、そういうお化けもいたっけ。
「ええと、頭蓋骨……骨……骨のお化け……しゃれこうべ……?」
「そうよ、しゃれこうべのもののけよ。お化けじゃなくて、もののけよ。ああ佐一郎、アタシのダーリン~!」
待って待って待って、なんかとんでもないこと言ってる。
私の涙は一気に止まった。
泣いている場合じゃないわこれは。
「ということは、私のおばあちゃん、なの? 私が生まれてすぐに亡くなったっていう、
ヌーさまが、ひらひらと手を振る。
そしていつのまにか、三つめの鈴最中をちゃっかり手にしている。
ああ、全部で六つしかないのに。
「違うぞ杏南、おシャレはお前の祖母上«そぼうえ»ではない。祖母上の虹子どのが亡くなってしばらくしたころに、この家にやってきたしゃれこうべだ。寺で焚き上げ供養されるところだったのだが、たまたま見つけた佐一郎が引き取ってきてな」
「そうなの。それ以降、文鎮代わりとして置いてもらってたの。もちろん、佐一郎の話し相手もしていたわよ。アタシは喋るの得意だから」
「そ、う、なの?」
文鎮代わり?
お寺で供養されるはずだったモノを?
引き取って来た?
それって――。
「そういうテンションで受け入れていいものなの? もうちょっとこう、抵抗とかなくて大丈夫?」
「全然問題ないわよ」
今日まで妖怪にまったく縁のない人生を送って来たというのに、今日一日で、ふたりめの妖怪に遭遇。
この家は一体どうなってるの。
「アタシのことは、おシャレさんって呼んでちょうだいね。杏南の話はいろいろ聞いていたわよ」
「私の?」
「ええ。何だっけか、小さな機械で佐一郎と連絡したり、文を出したりしていたでしょう? ああいうのを、全部聞かせてもらったり、ちらっと盗み見したり」
小さな機械が携帯電話のことなら、矢文はたぶんメールで合ってるだろう。
合ってるのだろうか。
「おじいちゃんのプライバシーが……」
「恋する相手のことは、全部知りたい乙女心なのよーぅ♡」
それよりさあ、とおシャレさんが続ける。おシャレさんは、かなり陽気な性格のようだ。
「アタシの涙を拭いてくれない? このままだと、下に敷いてるカルテが濡れちゃう。この机に乗ってるのは全部、佐一郎のものだから」
「あ。ああ、うん」
ティッシュの箱は見当たらなかったから、バッグの中からポケットティッシュを取り出して、おシャレさんの目の辺りの雫を拭う。
ついでに私も鼻をかんでスッキリした。
「お世話かけて悪いわねえ。なんせアタシ、手がないから拭けないのよ」
「おい、おシャレよ。手どころか、目玉もないのに何で涙が出るんだ?」
「悲しけりゃ涙なんていくらでも出るもんよ。ああでも、カルテ濡れてないかしら。大丈夫? 杏南、ちょっと見てみてくれない? これ、佐一郎が大事にしていたものなのよ」
「うん」
しゃれこうべに頼まれて、私はおシャレさんにそっと手をかけた。
我ながら、すごい順応力と適応力かもしれない。
十九年の人生で妖怪に遭ったのも初めてなら、触れるのも初めてだ。
さっきまでは、確かに怖かったはずなのに。
今はもう、前からの知り合いみたいに平気になっている。
それが一番不思議。
――だって、おじいちゃんが死んだことに対して悲しんでくれる相手を、怖いとは思えないもの。
仲間意識というか、連帯感のほうが強い、の、かもしれない。
――大体ヌーさまは見た目が怖くないし、おシャレさんのほうは中身が怖くないし。
このふたりが、私が思っていたより親しみやすすぎるのも問題だ。
「ちょっとどけさせてもらうね。カルテ? が、あるの?」
できるだけそっと、両手でおシャレさんを持ち上げ、ふかふかしたクッションが敷いてある椅子の座面に移す。
おシャレさんの感触はさらさら乾いていて、見た目よりもっと固い。重くはないけど軽くもない、不思議な重みだ。
おじいちゃんの骨壺も、重いようでいて軽い不思議な重みがある。あれと同じような感じだと思う。
妖怪って、体重とかはなくて軽いのかと思ってた。
なんていうか、幽霊みたいに。でも、幽霊とはちょっと違うのかな。
「紐閉じの分厚いノートが山積みになってるけど、大丈夫みたい。表紙の部分が、数滴くらい濡れたかもしれないけど拭いたから問題ないでしょ」
「そう? 良かった~。それ、佐一郎が大事にしていたノートだから心配で心配で」
「さっき、カルテって言ってたよね?」
そうだ。さっき言いたかったことに話を戻さなくちゃ。
私は椅子の上のおシャレさんと、長椅子の上のヌーさまの顔を交互に見比べた。
「それじゃあ、ホントの話なのね。おじいちゃんが『もののけの医師』だったって話」
*
『もののけの医師』のことは、知らない人間のほうが多い。
私も、今日ここで聞くまで、すっかり忘れていた言葉だった。
唐突に、記憶が蘇る。
昔よりはずいぶんと妖怪の居場所が狭まってしまった世の中だけど、依然として視える人間には視えているし、存在も知られている。
でも、今は妖怪のことを知らない人間のほうが多くなってしまった。
人間と妖怪の暮らしがどんどん切り離されていった中で、変わらずに妖怪たちと接点を持っていたのは『もののけの医師』だった。
妖怪全般の医師。
妖怪に医師はいない。妖怪には縄張り争いや仲間の連帯感が強く、妖怪全般を分け隔てなく診ることのできる妖怪が存在しないからだ。
だから昔から、視える人間がその役割を務めてきた。
妖怪だって時には病気になる。思わぬ怪我をしたりすることもあるから。
妖怪の視える目を持った人間たちが代々、治療を受け持ってきたのだ。
「私、なんでそんなことを知ってるんだっけ…………」
眉間に皺を寄せながら、懸命に記憶を辿る。
誰かに、絵本を読み聞かせるように、繰り返し話して聞かせてもらった記憶がある。
「……おじいちゃんだわ」
両親の帰りが遅くておじいちゃんの家に泊まることになったときも、お昼寝の際の寝かしつけにも。
おじいちゃんはよく妖怪の話をしてくれた。ユーモラスで優しくて、人間とずっと寄り添って暮らしてきたもののけのお話を。
「おかしいな」
私は、心の中でつぶやく。
――だって私、今まで妖怪なんて視えたことなかったはずなのに。なんで今日いきなり視えるようになっちゃったんだろう?
なんだか、すっごく自然に視えるようになってる気がするんだけど、身に覚えはない。
どうしてもというなら、おじいちゃんの死に触れたことくらいで、あとは平平凡凡な日常を送っている十九歳のフリーターに過ぎないのに。
それにしたって、もう一月半も前のことだし。
「杏南、どうかしたか」
空になったペットボトルを、ヌーさまがからからと振る。
「お茶のお代わりがほしいぞ」
そういえば、私も喉が渇いた。ここに来てから結局飲まず食わずのままだったし、そういえば片付けも全然進んでいない。
「ああ、うん。そこの自販機で買ってくる。おシャレさんも飲んだり食べたりできる? 何かいる?」
「アタシはいらないわ、ダイエット中なの」
「あ、そ……」
私はすっかり毒気を抜かれていて、今のおシャレさんに突っ込む余裕はなかった。
とりあえず、水分補給がしたい。
泣いたあとって、喉が渇く。
「うん、じゃあ買ってくるね」
トートバッグから抜き取った財布だけを手にふらふら杏南が出て行くのを見送って、ぬらりひょんとしゃれこうべは互いに顔を見合わせた。
「あの子、最初っから貴方のことが視えていたわね」
「……普通の人間は大きくなるにつれ、我々に関しての記憶は封じられて忘れ去るものなのだが」
「身近な人の死に触れたことで、再び視えるようになる人間は結構多いって聞くわよ。大体あの子、子供のころはしっかり視えていたクチだし」
「佐一郎の死がきっかけとなったことは確かであろうな。それに加えて、この家が磁場となったのかもしれん。最初油断していたのはワシの落ち度じゃが……さすが、佐一郎の孫じゃな」
しゃれこうべが、吐息だけで小さく笑う。
「何じゃ?」
「ううん……あの子が、佐一郎からアタシたちへの、最後のプレゼントなのかもしれないと思ってね」
ぬらりひょんが愛くるしい顔をしかめる。
「あの小娘に『もののけの医師』は、荷が重すぎる気もするが――」
「でも、佐一郎の孫よ」
「それはそうなんじゃが」
ぬらりひょんの歯切れは悪い。
「何よ。はっきりしないわね」
少々苛立った様子のしゃれこうべに、ぬらりひょんは困り切った眼差しを向けた。
「あの怖がり娘に、もののけの医師が務まると思うか?」
※
目の前の坂の下にあった自販機で温かいお茶と――ヌーさまが二本立て続けに冷たいお茶を飲んだら、お腹壊すんじゃないかと思って――私用にリンゴのジュースを買って、片手で抱えて持つ。ちょっと疲れているときに、唐突にリンゴジュースが飲みたくなるのは私だけ?
ゆるやかな坂を、家に向かって上りながら考える。
「もののけの医師、かぁ」
おじいちゃんは若いころは、海外との輸入輸出を扱う商社に勤めていたと聞いている。少なくとも医師ではなかったと思うけど、視える人ではあったんだろう。
うん、ヌーさまやおシャレさんの話を聞いている限り、とってもよく視えていたに違いない。
「あの部屋は、もののけ専用に使っていたのか。だから私は立ち入り禁止だったのか」
そう思うと、ふふふ、と、つい笑ってしまう。
「おじいちゃんに白衣に聴診器、絶対似合っただろうなあ……!」
渋イケメンな上に、ダンディなおじいちゃんだもの。嵌まりすぎ。
「いいなあ。見たかったなあ。写真とか捜してみようかな。あるかな?」
気の長いおじいちゃんに似たのか、私は高校三年生のときに進路を決めなかった。決められなかったというか、決めたくなかったというか。
「大学に進学するほど勉強したいことがあったわけじゃないし、すぐに就職したいわけでもなかったし」
迷いに迷っていた私に、おじいちゃんが言ったのだ。
おじいちゃんが入院してすぐのころ、お見舞いに行ったときに。
『たかだか十代のうちに、将来を急いで決めなくてもいいだろう? やりたいこと、夢がはっきり見えている人は別だがね。焦ることはない。杏南は杏南のペースで、ゆっくりと捜せばいい。急がば回れだよ、杏南』
悩んだ末私は、進学も就職も選ばなかった。
フリーターになると堂々表明したら、担任の先生や進路指導の先生たちからは案の定、良い顔はされなかったけど。
おじいちゃんの勧めと、自分の直感を信じた。
――まだ。
まだ私、やりたいことが見つかっていない。
自分捜しとはちょっと違うと思うけど、とにかくバイトを始めて色々な可能性を捜してみることにしたの。
パパとママも、反対はしなかった。
大学も専門学校も、行きたくなってからでも行けるから、杏南がやりたいようにやってみなさい――うちの教育方針は普通とはちょっと違っているようだった。
クラスメイトの親たちは皆、子供が少しでも良い大学に入って良い就職をするように望んでいるんだそうだ。
だから高校時代の友達のほとんどは、今大学に通っている。
皆に置いてけぼりにされているような心もとなさはあったけど、バイトしてすでに働いているという実感もあって。
「でも、私には無理」
第一私は、今日もののけに初めて逢ったくらい、霊感とかがないし。
もののけの医師が具体的に何をするのかもわからないし、どうやったらなれるのかも知らないし。
それに。
「ヌーさまやおシャレさんならともかく、ほかの妖怪って怖そうじゃない。怖い目に遭うのはいやだもの」
飲み物を買って戻ると、ヌーさまとおシャレさんが私の顔を一瞬じっと見て、それからはあーっと揃って深いため息をついた。
「何?」
「いや、何でもない」
「そうそう、何でもないわよ杏南」
ずる……。
「そういうときって、絶対何でもなくないよね。何話してたの? 私のこと?」
「だから、違うと言っておろうが」
ずるずる、ずるり。
「そうそう、杏南は気にしないでちょうだい。関係ないことだし。ねえ、ヌーさまぁ?」
「ワシに振るでない。だが杏南が気にすることではないぞ、うむ」
ずるり、ぺたぺた。
「そういう風に言われると余計気になるよ。私、好奇心は人一倍強いほ」
反論しかけたのを中断して、私は眉根を寄せた。
「――さっきから、なんか変な音が混じってない?」
ずるり……ぞろり。
ひたひたとこちらに向かって近づいてくるような、聞き慣れない音だ。
「ねえ……これ、何の音」
私が大っ嫌いな怪談小説のセオリーだと。
これは、阿鼻叫喚の序曲だ。
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