終章 龍麻呂のモノローグ
その後、僕や姉たちがどうなったかというと、全てがあの高向朝臣大足との出会いによって運命づけられていたのではないかと思うような道が続いていた。
謀反人の捕縛から一年。養老二年の初夏に、平城京で細かく事情聴取を受けていた前下総守の佐伯宿禰百足が病のため死亡した。そして、謀反が主上の知るところになったと聞いた紀皇太后と瑞葉皇子は、もはや佐伯の助けも得られないと観念し、密かに服毒自殺を図ったらしい。関係者だからということで、僕たちには内密に知らされたが、世の中がこの一連の事件を知ることはなかった。
元凶が消え去ってしまった今、太政官はこれ以上の審議を打ち切り、何事もなかったかのように時が経った。
ただ、国守は謀反に対する怒りと同時に、何か僕たちの知らない深い哀しみを抱いていたように見えた。国守の舎人として側に仕えていた僕はある時、その訳を聞いてみることにした。
「いや、私は若い頃、
国守によると、豊祖父天皇は何もかもが優れた情のある青年だったらしい。だから、自身が二十五歳の若さで崩御するまで、紀皇后も藤原宮子夫人も同じように大切に扱っていただろうと。
ずっと後になってから知ったことなのだが、豊祖父天皇が崩御し、不比等によって事実上皇后の座を下されると紀皇后はこんな歌を詠んだらしい。
――軽の池の
池を泳ぎ回る鴨ですら夫婦で共寝をするものなのに、今、私は一人で寝なければならない……という嘆きが歌われている。
もし夫である豊祖父天皇がこの先も存命だったら、紀皇后は皇后であり続け、心を惑わせ道を外すことはなかったかもしれない。そのことを想うと、僕は国守が見せた悲痛が何となく理解できた。
翌養老三年、夫婦で医学舎で学んでいた姉貴と勝は朗報に接することになった。 勝の剥奪された位階と身分がすっかり戻されたのだ。二年間の勤勉ぶりが中央に報告され、勝の罪はこれで完全に許されたというわけだ。
国守の
「勝君はまた医人に戻ったのだし、木葉ももう少しで女医になれるところまで来たね。どうだろう、二人とも、平城京に行く気はあるかい? 私からの推薦を宮内卿につないだら、早々に出発してほしいと返ってきたんだよ」
「勝だけじゃなくて、あたしも?」
姉貴は何かの間違いじゃないかという風に訊き返していた。
「そうだ。何しろ国府の女医生は初めての存在だし、やはり主上が大そう御関心を示されているそうだからね」
「是非行こう、木葉。僕は下総国に医博士になって戻ってくる。君は初の国府の女医として」
勝は自分の片手を姉貴の片手に添えて言った。
僕はこの二人が心の底から羨ましく思った。医術を司る者の誇りが、愛情をより強く深くしている。
高向大足は僕たちに小さな誇りをもたらした。財だとか物だとかを、上から下へ与えるのではなく、僕たち自身で誇りを見つけられるようなきっかけを与えてくれたのだと思う。もちろん僕も厨長として、それから国守の舎人としての誇りを見つけた。誰にも支配されない僕の心が僕を変えたのだ。
宴からひと月後、姉貴と勝は葛飾郡を去った。
道中、あの気の強い姉貴のことだから勝と喧嘩にでもなりやしないかと、やきもきしたけれど、どうやら恙なく平城京に到着したようだった。姉貴が寄越した手紙を充高に読み上げてもらうと、異界に来てしまったのかと思うくらい都は壮大で華やかで活気に満ちていると書かれていた。毎日が楽しいが、下総国の言葉では時々通じないことがあって不便らしい。ともかく僕は安心した。永遠に凍てつく夜に閉ざされた姉貴は、鮮やかな蕾を開かせようとしていた。
そして、姉貴たちの出発と入れ違いに、采女の任期を勤め上げた若与理が葛飾に帰還した。よく仕えた褒美として絹や綾を抱えて国府に参上した若与理は以前にも増して凛とした美しさを備えていた。
この女人は入江の洞窟で、僕の腕の中で大人しく眠っていた娘と同じ人物なのか。そう思わせるような気品に溢れている。
それもそのはず、若与理が都から持ち帰ったのは褒美だけではなかった。外従六位下という破格の叙位がなされたのだ。
「新しい葛飾郡大領が女人だって!」
「前大領の娘らしいぞ」
そう、僕の愛しい娘、大私部若与理は伊豆に流された父石麻呂の跡を継いで、大領に就任することになったのだった。しばらく空席だった大領の地位を埋めるため、国守が考えた策は、平城京で経験を積んだ若与理を大領候補者として推薦することだった。
若与理が謀反とは全く関係がないことは明らかだし、やはり葛飾の地を治めるのは伝統ある豪族の縁者が適任だという判断らしい。
「式部省で難しい試問を受けたの」
ようやく若与理を独り占めすることができた夜、若与理は突然、大領候補者に推薦された時のことを神妙に語ってくれた。
大切に育ててくれた父親が、罪人となってしまったことを都で知った若与理は衝撃のあまり、数日間出仕ができなかったという。罪人の娘であることを恥じ、すぐにでも采女を解任してほしいと訴えたが、主上は敢えて何も言わないでおいてくれたそうだ。
「それで、試問はどんな風だった?」
「宮中にいたから、試問担当官とは知り合いで、それほど緊張することはなかったわ。主上のお側にお仕えしてたお蔭で、官人の世界のことも地方の統治のことも、知識はそれなりにあったから……」
「すごいな、若与理は。僕からますます遠いところへ行ってしまうね」
「そんなことないわよ。私、ずっと、龍麻呂のいる葛飾に戻りたかった。大領候補になるのを決めたのも、あなたがここにいるからなのよ」
父も母も兄も一度に失った若与理が頼るべき人は、僕だけだった。でも、無位の一介の舎人が、外従六位下の女大領を娶るなんて前代未聞だ。すると、若与理は形の良い横顔をこちらへ向けて言った。
「ねぇ、龍麻呂。大私部家に起きたことはとても悲しいけど、私を政治の道具にしようとした父も、私に通おうとする男を追い払う
僕よりよほど冷静な若与理の言葉を聞いて、僕は笑ってしまった。確かに、僕たちの仲が裂かれる要素は今や何もない。
こうして美貌の女大領は無位の舎人の妻となり、四人の子をもうけたのだった。
そろそろ僕たちの話も終わりに近付いている。最後に、国守と姉貴たちのその後を伝えよう。
養老四年冬、僕たちの運命を大きく変えた高向朝臣大足は、
全ての引継ぎを終え、国守送別の宴が開かれた。
相当深い仲になっていた遊行女婦の朱流は、宴の後、新しい国守に館を引き渡してしまった旧国守が使う曹司に呼ばれた。
「朱流、言うまいと思っていたけれど、やはり君を平城京へ連れていきたい。亡き妻を疎かにするつもりはないんだ。でも、君と過ごす時に慣れてしまって離れがたい。向こうで待っている息子の母親代わりにもなってくれないだろうか」
激しい気持ちが抑えられなくなった高向様は、朱流に懇願したらしい。それにも関わらず、朱流が首を縦に振ることはついになかった。
「もったいないお言葉です。あたしだって、大足さんほど愛した背の君はいません。前世からのご縁があったのでしょう。元はあたしも都に住んでいた身。
朱流は泣き崩れた。いつかこういう日が来るとわかっていながら、国守に惚れてしまった。この先も共にありたいと願う気持ちがないのではない。しかし、中央の官人が地方の遊行女婦にかまけていてはいけない。所詮、隔たりのある恋だったのだ。
高向様が国府を出る時、僕の記憶の限りでは見送りの人々の中に朱流の姿はなかった。未練を残させないようにするためだろう。
だが、朱流は入江の砂州から、そっと国司たちの出発を見守っていた。青く晴れ渡る初冬の空の下で、朱流は歌を詠んだ。
――
気丈な遊行女婦でも、募る恋心を簡単に忘れることはできないのだった。
そして姉貴たちが下総国を発ってから三年後の養老六年冬、初めて中務省内薬司に
意外なことだが、この日まで、女医に関する専門家が日の本の国にはいなかったということになる。
「おかしいと思わない、勝?」
「何が?」
「医博士はいるのに、女医博士はいないのよ!」
「そういえば、そうだね」
東市の近くに住居をあてがわれた姉貴は、宮中での勉強で疑問に思うことを自宅に帰ってから夫の勝に話した。なぜ女医生を育てるのに、別の科目を担当する医博士しかいないのか。
「あたしが勝から習ったのは、仕方ないと思うの。だって、国府で女医生はあたしが初めてだったでしょ。でも、平城宮に女医博士がいないって、やっぱり変よ」
姉貴はずっとそう主張し続けたらしい。
それから、勝は当時、日の本の国で最も医術に優れている
「では、あなたが女医博士になれば良い。実際、あなたは女医生を指導した経験があるのですから」
「えっ、でも、私は脈診を得意としますが、女医の専門家では……」
「典薬寮の医博士や医人だって同じですよ。だから女医博士が必要なのでしょう?」
吉が典薬寮の中でこの話を諮ると、反対する者はいなかった。
皆、片手間に女医生の指導をしてきたため、いっそのこと女医博士ができたらその労力から解放されるという気持ちがあったからだ。内薬司にしてみても、女医生が育つなら誰が指導者でもかまわないということで、女医博士が誕生することになった。
大私部勝は外正七位下に昇進し、女医博士として女医生たちを教えた。そして、彼の指導の下で最初に女医に任命されたのが、僕の姉、孔王部木葉というわけだ。
「勝、今すぐ一緒に来て! 松ノ里で赤ん坊が生まれそうな娘がいるのよ!」
得意の鍼治療の道具と薬を抱えて、姉貴が国府の医学舎から飛び出してきた。夫婦で医術を修め、下総国に帰還した姉貴は、葛飾の誇りだと僕は信じている。
「ねぇ、勝ったら! あたしにはあんたが必要なんだからね!」
「そんな恥ずかしいこと、外で大声で言うなよ!」
相変わらず、勝は姉貴に振り回されているみたいだ。
二人が去った後、医学舎の上空を、入江から飛んできた鴎が二羽軽やかに飛んでいった。
(完)
下総国女医物語 木葉 @konoha716
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