第7章 葛飾の真間の入江にうち靡く (3)葛飾の誇り

 茜色に滲んだ水平線が真間の入江に顔を現し始める頃、国府正殿の北の曹司では変化が起こっていた。

 何日間も瞳を閉じたままの木葉の頭の付近に置かれている大きな鏡が、曹司の窓から差し込む朝日を吸い込んで、強烈な光を反射している。壁に寄り掛かるようにして仮眠を貪っていた佐久太は、かちゃりという小さな音に飛び起きた。

 音のしたと思われる方向を確認すると、木葉の胸元に置いていたはずの護身用の刀が床に落ちている。はっと木葉の顔へ視線をやった佐久太は、ぼんやりとだが、目を開いてこちらを見つめる木葉に気付いた。

「こっ、木葉!」

 慌てて立ち上がったせいで足が少しもつれてこけそうになりながら、佐久太は木葉の枕元へ急いだ。相変わらず鏡は直視できないほどの光を発している。

「大丈夫かい!? 私がわかるかな?」

「……佐久太ね。あたし、どうして……? ここは……」

 自分が一体何をしているのか全く理解できない木葉は、ゆっくりと上半身を起こした。曹司の中は茜色の朝日で満たされており、木葉は眩しそうに辺りを見回した。

 四隅に榊の枝やら勾玉やら、何か儀式でも行われたのだろうかと疑問に思う。

「旦那様! 木葉が目覚めましたよ」

 佐久太が曹司に集まっていた皆の体を揺すって、たたき起こすと、大足はすぐに木葉が起き上がっていることに気付いた。

「呪いが解けたんだね。本当によかった!」

 大足はまだ状況を把握できていない木葉の手を握って喜んだ。朱流も大きな瞳いっぱいに涙をため込み、木葉の家族は静かに抱き合った。

「君はしばらくここで眠りについていたんだよ。大領の息子に心を操られて、心身を消耗して倒れてしまったから」

「徳麻呂は木葉ちゃんを手に入れようとして、邪な強い呪いをかけていたの」

「ああ……」

 そういえば、最近どういうわけか徳麻呂が恋しくて彼の屋敷を訪れていたような記憶がある。あの傲慢な野蛮な男を好くわけがないのだから、やはり呪いのせいだったのだ。

「木葉、よかった無事に目が覚めて。徳麻呂に心を奪われてしまったら、どうしようかと思った」

 大足の次に木葉の手を握ったのは、綾苅だった。

 頑として徳麻呂を殺める役目を譲らない勝の言う通り、綾苅はアンラムを勝に引き渡した後、いつ木葉が目覚めても良いように正殿の曹司に控えていた。心が元に戻った木葉の手は温かかった。

「あんた、ずっとここに? 心配かけたわね。ありがとう」

 木葉は優しく綾苅に微笑みを返した。身分が違っても、側にいると約束してくれた友人の姿はとても頼もしかった。すぐ後ろには、龍麻呂、真秦、枳美が姉を穴が開くほどじっと見ている。

「皆、ありがとう。いつもお騒がせな姉さんで、申し訳ないわ」

 少しおどけてみせると、弟たちはようやくほっと笑った。

 しかし、皆が揃っているようで誰か欠けているような気がしてならない。すぐに自分の探している人物に思い至ると、木葉は心の中で寂しげに溜息をついた。

(そうよね。ただ、教え、教えられるだけの関係だったんだもの)

 龍麻呂が姉の体を支えながら立たせようとした時、朝日が正面から曹司の窓に入り込み、木葉の後ろの鏡を照らした。眩しいなとそこにいた誰もが目を細め、手を額にかざしながら目を見開くと、木葉と龍麻呂の横に見たことのない娘が座っていた。

「誰だ、君は」

 綾苅が警戒して誰何する。入り口は佐久太が見張っていたし、窓は壁の上方にあるだけで、人が出入りできるようなものではない。

 娘は常世の国を囲む鮮やかな海の色の衣に身を包み、珊瑚の首飾りを下げている。年の頃は枳美と同じくらいだろうか。絶世の美女と言っても嘘ではないほどの麗しい顔と体つきである。

「驚かせてごめんなさい。私は葛飾の少女おとめ、手児奈と呼ばれる者です。遥か昔から、魂として真間の入江を住処にしてきました」

「て、手児奈だって!? 伝説じゃなかったのか」

 龍麻呂が思わず言うと、手児奈は頷き、木葉に向かい合った。目まぐるしい展開に、胸の鼓動が速くなっていく。

「木葉、あなたの呪いは破られました。呪いをかけた徳麻呂を倒し、あなたを救った人は今、入江で静かに横たわっています」

 衝撃的な事実を告げられた木葉は、胸が締め付けられるような苦しさと切なさを覚え、知らないうちに涙を流していた。もし、ここにいないあの人が自分の呪いを破り、そのために倒れたのだとしたら――。

 木葉は憶測を確かめようと、大足を見た。

「もしかして、あたしを助けてくれたのって……」

「ああ、勝君だよ」

 答えを聞くや否や、木葉は龍麻呂の腕を振り払って曹司を飛び出した。

(勝が、命と引き換えに自分を救ってくれたのよ! 木葉のバカ! あいつの命を犠牲にさせて、初めてこれほど愛されていることを知ったなんて、もう遅いのよ!)

 待ちなさい、という大足の声が聞こえた気がしたが、木葉はかまわずに突っ走った。涙でぐしょぐしょになって視界が遮られても、次第に高くなる朝日が眩しくても、ひたすら走った。

 崖を一気に下り、砂州のどこで一騎打ちが行われたのか、左右を見渡す。こんなにも走ったのは後にも先にもないだろう。すると、こっちですと手児奈の鈴を転がすような声が背後から聞こえ、木葉は継橋の手前を左手に向かって駆け出した。

 手児奈は水際をすうっと滑らかに進んでいる。美しい色の裾と入江の水とが溶けあっているように見えた。

 しばらく前進すると、木葉は立ち止った。

「嫌だ……白い砂浜がこんなに真っ赤だわ」

 目の前には、穏やかな真間の入江に似つかわしくない凄惨な光景があった。木葉は息苦しさを感じながら一歩一歩進む。二疋の馬は所在なさげに立ち止り、思い思いに崖の下に茂る草を貪っていた。

 そして水際には、血の池に浸り絶命した徳麻呂が、そのすぐ隣に苦痛に満ちた表情の勝が倒れている。

「勝っ! ねぇ、目を覚ましてよ! 嫌よ、あたしを助けて死ぬなんて、あんたらしくないじゃない」

 衣が汚れるのも構わず、木葉は勝に縋りついた。頬に手を添えたが驚くほど冷たく、そして息をしていない。

「ねぇったら。起きて、勝。あたしが悪かったわ。あんたの気持ちにちっとも気付かないで、素直に受け止められなくて……」

 瞳から流れ落ちる雫がぽたぽたと、勝の頬を濡らしていく。

 武術の心得なんて全くないのに、命がけで軍団で名を馳せる男と対峙し、相討ちとなった勝。

 自分を大領の息子から解放するために、このような結末を選んだ意味を理解するにつれ、木葉は今更ながらに勝の深い愛情を全身全霊で感じ取っていた。

 両膝を砂州につき太陽の光を浴びた木葉と、砂州に横たわる勝の影は一つに重なった。木葉は、手児奈の魂がそうしたように、勝が握り締めていた神剣の刃をそっと撫でた。勝の力が全て注がれた神剣は、温かく光を反射している。

 手児奈の魂はいつの間にか消えていた。時折、鴎が上空を軽やかに鳴きながら渡っていく。

「もう一度、あたしに医術を教えてよ。ずっとずっと傍にいてよ。まだ、全部教えてもらってないじゃない」

 せめて最後に、自分の想いを伝えられたらと、木葉は男にしては柔らかめの勝の前髪をかきやり、そのくちびると自分のくちびるを重ね合わせた。

 太陽をほんの少し隠していた薄雲が流れ去り、突然、辺り一面が輝きに満ちた。だが、一日の始まりの美しい入江も、物言わぬ背子を前にしては風の吹きすさぶ荒野も同然だった。

 木葉は涙を拭い、天を仰いだ。この世界に神がいるなら、聞いてほしい。

「……ねぇ、勝。あたし、あんたに教えてもらったこと忘れない。ううん、それだけじゃなくて、大私部勝の妻として医術を受け継いでいくわ。だからこれからは一人でも生きていける。大丈夫よ」

 自分に言い聞かせるように一言一言ゆっくりと呟いて、木葉は再び俯いた。

 もう少しだけと、勝の掌をそっと包み込む。その場から離れがたく、もう一度、勝の頬に顔を寄せようとしたその時――。

「勝手に一人で生きようとするなよ、アホ賤民」

 木葉の片方の頬に、大きな温もりのある掌が添えられた。



*  *  *



 いくらか日差しの強さが和らいだとはいえ、入江は晩夏の空気に包まれている。綾苅とモヌイが目的地に着く頃は、天高く鰯雲が当たり前のように見られる季節になっているだろう。

 井上駅で簡単な送別の宴が開かれ、綾苅とモヌイは出羽国へ旅立とうとしていた。

「次はいつ会えるかしら」

「さあなぁ。だけど、俺たちは皆、どこへ行っても最後は葛飾の地に戻ってくることは確かだろ」

 共にありたいと願った娘の隣には、競い合った男が立っている。相変わらずの仏頂面だが、綾苅は彼に全面的に信頼を寄せることにした。

 何があっても傍にいるという約束は、この男に引き継がれたのだ。それに、変わらぬ友人としてはいつまでも木葉の心の中で支えになることはできよう。

「まぁ、俺としては蝦夷の地に赴いて軍馬の調達ができるっていう夢が一つ叶うわけだから、ありがたい話さ」

 ここに愛馬はいない。地位のない綾苅たちが公用の馬を使用することはできないため、最低限の荷物を背負って、身一つで出羽まで赴くのだった。

「がんばれよ」

 勝は真っ直ぐに綾苅の瞳を見て、短いながらも激励の言葉を贈った。

 片手をひょいと上げて挨拶をした綾苅はモヌイと共に歩き始めた。松林の見える砂州を東へ、浮島駅と河曲かわわ駅を通り、それから北へ進路を変えて常陸国を目指す。

 ここにはもはや誰一人として、つるばみ色の衣を身に纏わねばならぬ者はいなかった。


 相討ちとなり息絶えたと思われた勝が意識を取り戻した後、砂州に打ち捨てられた徳麻呂の亡骸は大足の指示によって国府の一角へ運ばれた。穢れを国府内部へ入れるわけにはいかなかったので、目立たないところに安置した。

 息子の姿が消え、家人の報告によってその壮絶な死を知った大領はすぐさま国府へ乗り込んで国守と対峙した。しかし、非情にも、大足は葛飾郡大領及び少領の罪状と証拠となる証文を示し、捕縛したのだった。

「息子を殺めたのは誰だ?! お前たちの誰かだろう、卑怯な真似をしたのは!」

 獄舎へ連行される途中で変わり果てた息子の姿を目撃した大領はところ構わずに喚いたが、大掾の正成が告げた言葉は大領を絶句させるに十分だった。

「残念ながら、彼を殺めたのは甥御さんですよ。一人の娘を巡って争ったのです」

 その後、関係者は全て獄に入れられることになった。

 ともすれば大足の命に従わなかった葛飾軍団は、既に少毅であった佐太忌寸人成さたのいみきひとなりを大毅に昇格させ、郡内を取り締まり、他の軍団も動員をかけて国境を固めさせていた。

 大伴佐流は大領家に結界を張り、軍団の包囲を食いとどめていたが、朱流の解除はらえによって破られることになった。全ての力を注いだ朱流は祭壇の前で倒れ、三日間起き上がることができなかった。

 そして、俘囚の身分を隠しながら有能な医博士として下総国府に勤めていた日下部刀利が、なぜ佐伯氏と大領家の計画に加担したのか。誰も最後までわからなかったが、察獄の機会にいとも簡単に動機を明かしたのだった。

「……単純ですよ。蝦夷討伐が許せなかった。それだけのことです。忘れもしない和銅二年、私が医博士の称号を得る直前でしたが、陸奥と越後の蝦夷が反乱したということで討伐軍が派遣され、陸奥にある私の故郷のコタンは焼き払われたと聞きました。当時、私は医博士として下総国へ戻ることになっており、朝集使として下総国から平城京に来ていた佐伯殿に会ったのです。佐伯殿はもちろん私が陸奥からの俘囚と知っていましたから、春から夏にかけての蝦夷討伐に不満を抱いているだろうと声をかけてくださった。酒の入っていた私は酔いに任せて、怒りを話してしまったのです。佐伯殿の従弟が征越後蝦夷将軍であったにも関わらず……。佐伯殿はこう言いました。別の体制のために働く気はないかと。その時は曖昧なやりとりしかしませんでしたが、下総国府で働くようになってから、徐々に佐伯殿の意図を知るようになり、計画に協力することにしたんですよ」

 佐伯のやり方は巧妙だった。医博士としての能力を高く買い、薬を紀皇太后に送ったりしていた。その代わりに、皇太后は蝦夷や俘囚の境遇に同情を寄せて、何かと刀利に褒美を取らせていた。

 こうして、若き医博士は知らない間に紀皇太后側に深く関与する立場になり、毒薬を作ることを約束したのだった。教え子である勝が同じく毒薬作りに取り掛かったことを知った医博士は、敢えて自分の役割を明かさなかった。

「これは私個人の関心でした。優秀な教え子がどれほどのものを作れるのかと」

 その知恵比べが結果を出すことはなかった。勝は途中から大領家と縁を切り、国守側についてしまったからだ。

 こうして、罪人たちの察獄が終わり、調書が太政官に送付された。謀反は斬刑だが、大領以下は伊豆へ流刑となった。

「なんで斬刑じゃないのよ!」

 太政官からの通知を知った木葉は、声を荒げて憤った。主犯である佐伯百足の指示に従っていたという位置付けで、極刑ではなくなったらしいが、その佐伯百足とて即、刑の執行とはならなかった。

 仮にも従四位下の臣下が皇太后と共に謀反の計画を企てたとあらば、慎重にならざるを得ないのだ。

「律令を忠実に実行しようとしていらっしゃるのではないかな、主上は」

 それは藤原不比等の姿勢だろうし、天皇の従兄である長屋王もまたそう助言しているに違いなかった。恣意的に律令を運用してはならないという指示を官人たちに出している手前、太政官としてもそれを曲げるわけにはいかない。

 木葉にはその辺のことがよくわからなかったが、大足が強調して言うのだから納得できなくても大事なことなのだろう。


 瀕死の一撃をくらったと思われた勝は、幸運にも息を吹き返した。勝は倒れたあと、不思議な夢を見ていたと信じていた。

「手児奈がさ、生きて、医学の道を進めって言ってた気がするんだ」

「勝のところにも手児奈が来たのね」

「えっ、じゃあ、そっちにも?」

「あんたが入江で倒れてるって知らせてくれた」

 心地よい沈黙が、西日の射す医学舎の勝の曹司を包んだ。手児奈の魂が二人を繋ぎ続けたのだと思うと、木葉は胸が熱くなるのを感じ、勝の胴体に被さっていた山吹色の領巾を愛おしく撫でた。

 領巾はたくさんの血を吸ってしまっていたが、木葉が丁寧に洗い落とすとだいぶ目立たなくなった。こんなものを勝がはじめから持っていたはずはなく、やはり手児奈が現れたに違いなかった。

「今日の鍼治療はおしまい。横、向いて」

 木葉は調合した練り薬を清潔な綿布に塗り付け、勝に指示した。昨日貼りつけた布を剥がす時、勝は顔をしかめ、痛えと呻いた。

「我慢しなさいよ。あんなにひどい怪我だったのに、手児奈の不思議な領巾のおかげですぐに血が止まったんだから」

「だからって、強く剥がすことないじゃないか。妻ならもっといたわってほしいな――」

「あんたの妻になった覚えはないんだけど」

 女医生らしく、てきぱきと薬を塗ったりしながら、さらりとかわす木葉の腕を握り、勝は木葉をぐいと引き寄せた。前言を撤回させてやろうじゃないか。

「僕は砂州で眠ってたけど、君の声はちゃんと聞こえてたよ。大私部勝の妻として医術を受け継ぐ、って言ってただろう?」

「……そっ、それは、あんたが死んじゃったと思ったから!」

 木葉は俯いて、あまり理由にならない言い訳を返す。勝は微笑み、引き寄せていた木葉を思い切り抱き締めた。まだ、あちこちの傷が痛むが、そんなことを埋め合わせて余りある癒しがそこにあった。

 初めて言葉を交わしたあの日から、ずっと抱き締めたいと願ってきた娘が、今こうして自分の腕の中に大人しく収まっている。しかも、二人の目指す道は同じなのだ。

「僕は君以外の娘を娶るつもりはないよ」

 勝が木葉の髪の毛を撫でながら言うと、木葉は顔を上げて、当たり前でしょ、と笑い声を転がした。


 国司と郡司に少なからぬ罪人が出た下総国の統治は、一時期大変な混乱に見舞われた。とりわけ国守の高向大足は、中央政府の太政官との連絡と国内の通常業務に追われ、寝る間もない日々が続いたのだった。

 そして、ある日、太政官からの使者が一通の返信を持ってやってきた。

 大足は急いでその返信に目を通すと、激務の疲れをほんの少し和らげてくれるような結果が記されていた。今回の事件に関係し、大足の手足として動いた賤民たちを良民に解放せよという主上の裁可が伝えられたのだ。

 関係者として国府に引き留められていた阿弥太は、枳美を連れて流浪の民となることなく、この先生きていくことが許された。以前から兵部省へ納入していた阿弥太の鍛えた武器の功績だけでなく、勝が徳麻呂を倒す手段となった神剣を整えたということも主上の心に響いたとのことだ。

 阿弥太は約束通り枳美を妻に迎え、揃って国府の工房で働いている。

 私的に修行の身となり、禁書を保持していた光藍は、大足から命ぜられた通りに還俗し、刑部充高おさかべのみつたかに戻った。

 国守に代わって様々な情報を収集してきた充高への罰は、その健脚と情報収集力をもって下総国内の不遇な子供たちを救済することである。そして、充高には助手がいた。真秦もまた仏師を目指しながら、慕っている充高に従って孤児たちの救済に奔走することになったのだ。

 真秦は言葉が話せなくとも、自分の生み出した仏が道を照らしてくれると信じている。いつか国内にたくさんの仏堂を作って、人々の心の拠り所を広げるのが夢だ。

 兄の龍麻呂は大足の私的な舎人とねりに抜擢された。国厨で鍛えられた雑用を適切にこなす能力と、常識的なものの見方が、まだ二年以上任期が残っている国守には必要だと思われてのことである。

 実は孤児の救済を国守に進言したのは、龍麻呂だった。いずれ国守はまた交代する。その時のために、民は自力で生き抜く知恵を得なければならない。恵は天から与えられるのを待つだけでは駄目なのだと龍麻呂は思っている。孤児を一つの場所に集めて、共同で暮らし、自分たちで田畑を管理する。その様子を充高や真秦が巡回して、うまくいかないことは改善していく。

 まだ平城京の采女として活躍している若与理はきっと龍麻呂の考えに賛同してくれるだろう。彼女が戻るまでの間、龍麻呂も国守の舎人としてきっちり勤めるつもりだった。

 一番の荒くれ者の真熊は、葛飾軍団の弩手頭に昇進した。少領の息子を弩で殺害した罪は、命の危険を伴う軍団で永続的に働くことを約束させられて相殺となった。謀反人をそれと知って害したのだから無罪でも良さそうなものだと龍麻呂は思ったものだが、大足は結果として謀反人の口を封じてしまったとして、無罪にすることを躊躇ったという。

 真熊はこの後、長らく葛飾軍団の弩手頭を務めることになったのだが、養老四年の秋、大足が任期を終えるのと同時に陸奥国で反乱した蝦夷の討伐軍に加わった。その時、綾苅が育てた馬たちと一緒に綾苅も従軍した。

 謀反人として毒薬を作る役割を与えられていた勝はと言えば、やはり無罪放免というわけにはいかなかった。

「……そういう刑が確定したけれど、異論は?」

 大足は体力が回復し、自宅謹慎とさせていた勝を国庁へ呼んで太政官が下した判決文を読み上げた。

「ありません。主上の温情に感謝いたします」

 勝は深々と大足に頭を下げた。

 外従八位下医人の地位を剥奪し、今後の処分については下総守に一任する。それが、勝に読み上げられた判決だった。叔父らと共に流刑も覚悟していた勝にしてみれば、拍子抜けするような内容だ。

 確かに、一度苦労して得た位階と身分がなくなってしまうというのは末端の官人にとって相当な痛手であることは間違いない。けれども、いくらでもやり直しがきくのだ。

 その証拠に、大足は勝に医生として再び医術の知識と技を磨くよう命じた。医人の身分はなくなったが、医生からまた歩めということが示された。

「よかったじゃない、勝。だってあたしたち、同じ学ぶ身分でまた一緒に医学舎で勉強できるってことでしょ?」

 木葉は謹慎が解かれて再び医学舎に現れるようになった勝に笑いかけた。

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