第7章 葛飾の真間の入江にうち靡く (2)医人と手児奈
ほとんど化粧の施されていない肌に、一筋の涙が伝った。
いつもは強気の遊行女婦の朱流が突然流した涙は、勝を慌てさせる。
「ごめんなさい、でも、木葉ちゃんを助ける方法はとてもつらいことなのよ」
どうしたら木葉の呪いを解くことができるかと勝が尋ねると、朱流はそれは……と言ったきり黙ってしまい、泣き始めたのだった。
「つらい、っていうのはどういう意味なんだ?」
「呪いを解くためにはね、誰かが呪いを望んだ本人――つまり、大領の息子の心身を破壊しなきゃいけないの」
人形によって発生した呪いの力は人形から離れて、徳麻呂自身に宿ってしまっている。だから木葉を解放するには、呪いの根源となった徳麻呂を破壊しなければならない。破壊ということは、息の根を止めるということだ。
「徳麻呂を殺す……そういうことだよね」
「ええ。例え謀反人でも、殺すのは難しいわ。それに、故殺は流罪になってしまう。情状酌量の余地はあるけど、もしかしたら呪いが跳ね返ってくるかもしれないし……」
「あいつは軍団でも名うての猛者だ。返り討ちに遇うかもしれないってことか」
朱流がつらいと言った意味が理解できた。木葉を救うにはこちらも大きな危険や犠牲が必要なのだ。
「国守は何て?」
「それしか方法がないのなら、徳麻呂と互角に戦える者を……って言ってたわ」
国守が念頭に置いたのは、木葉の仲間で軍団弩手の真熊という若者だろうか。勝はそう想像したが、無意識のうちに、それはダメだと口にしていた。
「え、腕の立つ人じゃ不都合だというの?」
訝しがる朱流に、勝はきっぱりと告げた。
「木葉を救うのは僕だ」
「ええ?!」
朱流が驚くのも無理はない。勝は痩身で、机に向かって仕事をすることが常で、刀など持って訓練をしたことがない。勝の強みは頭脳であって、腕力ではないのだ。
「言いたいことはわかる。僕が武人相手に勝てるわけがないって思ってるんだろう? それでも、木葉は僕が取り戻す。そのためには何でもするって彼女に約束したんだよ」
「……愛してるのね」
勝は朱流から物言わぬ木葉へ視線を移した。敢えて答えなくとも、朱流は勝の胸の内を察しているだろう。静寂の中に、建物の外の木々のざわつきが漏れ聞こえてくる。
生まれた時から勝と徳麻呂は兄弟のように育ってきた。子供の時分から、徳麻呂は体を動かすのが好きで、周りにいたどの子供よりも強く、統率力を発揮していた。だが、身内の勝にはいい兄貴分でも、徳麻呂の統率には常に威圧が伴い、時として暴力が振るわれた。それは青年となった今でも変わらない。
そんな従兄の態度に、勝は特に疑問を抱かなかった。強い者が支配するのは当たり前だし、何より徳麻呂はこの葛飾の地を代々治めてきた大私部の跡取り息子なのだ。勝自身が徳麻呂に不愉快な思いをさせられたことはなく、むしろその腕力と威圧で守ってもらってきた。
(でも、今、お前がやってることは全て人としての道を外れたものなんだよ、徳麻呂。まさか好いた女をお前と争うことになるとは思わなかったけど、こうなった以上は、僕が決着をつける)
一人国衙を抜け出し、台地から入江を見下ろしながら、勝は徳麻呂に宣戦布告を行った。
一方、木葉の訪れが絶えた徳麻呂はすぐに異変に気付いた。四六時中、木葉に対してこちらへ来いと念じても一向にそんな気配がなく、佐流を捕まえて、呪いが効いていないのではないかと詰問する有様だった。
「違うのです、徳麻呂様。呪術は確かです。しかし、予期せぬことに、あの娘は完全には操られていなかったようなのです」
理解不能だと言わんばかりの徳麻呂に、佐流は木葉が心の奥底で必死に抵抗していた、それゆえ、木葉の心身が破壊されていき、意識を失ってしまったのだと説明した。実際に、国府で聞き耳を立てて情報を集め、木葉が倒れたという事実を掴んでいたのだから間違いはない。
「あの女、最後の最後でじゃじゃ馬ぶりを発揮したな! くそ忌々しい。大私部家はもう終わりだ。佐流、どうにかならないのか?!」
怒りに任せた徳麻呂は、小柄な佐流の胸ぐらを掴んで迫った。佐流とてこんなはずではなかったと思っている。木葉の心を操り、身柄をこちらに確保しておけば、国守に対して優位に立てる見込みだったのだ。ところが、木葉は自らの心身を犠牲にして、これ以上、操られることを拒否してしまった。
「と、徳麻呂様、逃げましょう。あなたの命が危ない」
「どういうことだ?」
苦しげに訴える佐流を見た徳麻呂は、ようやく佐流を手から解放した。
「国守たちは女医生の呪いを解こうとするはずです。それはつまり、徳麻呂様を殺すことでしか為し得ません」
「嘘だろ……?」
徳麻呂は乾いた笑いをたてた。呪いをかけるのに失敗し、挙句の果てには自分の命が狙われるなど、悪い筋書甚だしい。
しかし、徳麻呂はすぐに絶望に浸る性格ではなかった。
「ふん、馬鹿馬鹿しい。誰が俺を倒すのかは知らんが、俺の腕っぷしは葛飾に轟いているはずだ。もし軍団の兵士を差し向けたとしても、あいつらは俺を見たら足が竦むぜ」
「そ、そうでしょうとも。でも、やはり身の安全はお考えください」
恐る恐る佐流が同意し、注意を促すと、徳麻呂は自信ありげに頷いた。
「ああ、わかった。古忍と共に行動すればいいだろう。あいつがいれば、百人力だからな」
国守に木葉の呪いを解放するのは自分だと、勝が告げた翌朝。
木葉が眠る曹司は常に朱流と佐久太によって清められ、
今は朱流や佐久太は自分の仕事をしに行っていていない。代わりに勝が残っていた。これから、徳麻呂を倒しにいく準備をしなければならない。そして勝はここへは戻らずに、そのまま徳麻呂の元へ向かうつもりだ。
もしかしたら、この時が木葉との今生の別れになるかもしれない。呪いを解くことができたとしても、勝の力と技量ではよくて相討ちだろう。
「僕が戻らなかったら……来世で逢おう。いや、逢ってほしい」
カタン、と扉が開いた音がした。勝は撫でていた木葉の髪から手を引き、扉の方へ振り返った。
「やあ、勝君。女医生が倒れたと聞いてね、様子を見にきたんだよ」
「出ていってください、日下部殿」
勝は感情を圧し殺した静かな声で言い、木葉を守るように立ち上がって日下部刀利と対峙した。
「どうしたんだい、邪険に扱われるなんて困ったな」
「……あなたが裏切り者だとは思いもしませんでしたよ」
「裏切り者だって?」
日下部はおかしそうに笑い、かまわず中へ入った。
「蘭雲玉使い。あなたの異名なのでしょう? 僕があなたの言動に疑問を抱くようになったのは、偽の疫病が流行った時です」
「何を言ってるのか皆目わからないよ」
日下部は立っている勝の横に座り、女医生の爪先から頭までをゆっくり眺めた。まるで人の姿そっくりに作った人形のように木葉は微動だにせず白い肌で瞳を閉じている。
手を伸ばし、脈を測ろうとするとすかさず勝の手によって遮られた。
「この娘には触れないでいただきたい」
「私が救えるかもしれないのに?」
「その左手に持ってるものは何ですか。あなたの得意な毒、蘭雲玉じゃないですか? それを木葉に飲ませて息の根を止めることが、あなたの言う、救いってわけですね」
勝は日下部の腕を掴んで、握られた左手に視線をやった。日下部はあくまでもそっと勝の手を振りほどき、握っていた何かを懐にしまった。
「……あの偽の疫病騒ぎで、木葉が実は毒がばらまかれたのだとあなたに告げた時、確かあなたは木葉に、『私が気づかなかったことに、よく気づきましたね』と言った。あなたの医術の知識と技能は本物です。なのに、気づかなかった? それは嘘だ。僕はその時はあなたが苦悩しているように見えたのは、医博士も万能ではないことに心を痛めたからだと思っていましたが、毒であることが見抜かれてしまったからですね」
「それが正しかったとして、私がどうして毒をばらまく必要があったんです?」
「実験ですよ。蘭雲玉の毒が人に対してどのくらいの効果をもたらすか、調べたんでしょう。その理由は、大領にある条件の毒を作ってほしいという依頼をされていたから」
穏やかな微笑みを浮かべた日下部は、弟子の口上を黙って聞いている。
「……国守から教えてもらいました。あなたは陸奥からやってきた俘囚なのですね。偽の疫病の時、俘囚里からは一人も犠牲者が出なかったのは、里に毒を撒いて同胞のことを傷つけたくなかったからでしょう」
この時初めて日下部は、ふっと自分を突き放すような微かな笑いをした。そうか、全て国守は知っているのだな、自分が本当は俘囚の身であることさえも。
「君はさっき、私を裏切り者と言ったね。でも、私はそもそも高向様に仕えていたわけでも、君たちの仲間だと宣言した覚えはないよ。私は初めから真っ直ぐに己の意思と義務に従って生きてきただけだ。私が大和の良民でなくてがっかりしただろうね」
「いえ、あなたが俘囚だろうが、そんなことは関係ありません。ただ、尊敬してきた師匠が、僕の歩むべき道とは違う道を歩んでいたことを知って落胆しただけです」
これでも僕はあなたのような医博士を目指して努力してきたんですよ、と心の中で呟く。
「教えてください。なぜ、俘囚のあなたが大領の計画に加担したんですか? あなたほどの能力の医博士なら――」
「君こそ大領家の一員なのに、私を追い詰めるんだね」
日下部は勝の問いには答えず立ち上がった。そして、今まで微笑んでいた表情を急に固くして言い放つ。
「君に、この娘を救うことはできない」
黄土色の衣を翻し、俘囚の医博士は足早に出ていった。
「私にできることは?」
「木葉の身を守ってください。それから、叔父の動きに注意して」
正殿で国守と医人が二人のみで会っていた。大領が息子の行動とその結果をどこまで把握しているのかはわからないが、警戒するにこしたことはない。
「医博士のことは大掾に監視させているよ。私も彼の正体が未だに信じられないが」
「はい。しかし、少掾が医博士の過去を文書から抹消していたんですから、誰も気付かなくて当然でしょう。……それより、徳麻呂は古忍を連れて真間山に分け入ったのですね」
自由に動ける光藍に徳麻呂の行動を把握させていたところ、昨日から徳麻呂は夜の闇をぬって真間山に向かったという。しかし、問題は真間山には光藍の結界が張ってあり、佐流のような術使いならともかく、徳麻呂と古忍ではどこかの地点で行く手を阻まれてしまうということだ。
つまり、山中に逃げることができず、引き返すはずだった。
「北か南か……。もし医博士が同行するのなら、北へ逃げるかもしれません。俘囚の彼は北方をよく知ってるでしょうから。しかし、そうでないなら南の上総か安房へ向かうかもしれません」
「海路というわけだね」
「どちらにしても、僕はこれから鍛冶場に行かねばなりません。これで失礼します」
勝は国守に一礼し、踵を返した。
徳麻呂を倒さねばならないと知った時、勝が思い至ったのはその手段となる武器を自分は持っていないということだった。そして、下総国府には都にも名を馳せている鍛冶職人がいた。阿弥太だ。
春が来たら枳美と共に逃亡しようと密かに決めていた阿弥太だったが、なかなか準備に手間取り、そうこうしているうちに枳美の姉が魔の手にかかってしまった。こうなると枳美はやはり姉の行く末を見届けるまでは逃亡できないと主張し、それからほどなく、一人の青年が鍛冶場にやってきたのだった。
夕刻、既に職人や
「何か?」
「話があるんだけど」
「……どうぞ。医人が珍しいですね」
穏やかな阿弥太とて、初めて勝と対面した時の印象は最悪だったと記憶している。賤民の自分たちがどれだけ馬鹿にされたことか。しかし、枳美によると今ではこの医人はこちらの味方になったとのことだった。
阿弥太は鍛冶道具の手入れをしながら、珍客を迎えた。すると驚くべきことに、勝は深く頭を下げ、ある依頼を口にした。
「僕に一振りの剣を作ってくれないだろうか」
「……剣、ですか」
不思議そうに首を傾げる阿弥太に、勝は全てを語った。木葉を救うには徳麻呂を殺すしかない。そのために、下総国で最高の剣がほしい――。
「医人のあなたが、なぜそんな危険を冒すんですか」
当然、阿弥太はそう疑問に思って尋ねた。確かに木葉は勝に師事していたが、そこまでする理由がわからなかった。
勝は小さく息を吐くと、実直な青年を見下ろして答えた。答えというよりも問いかけをもって、悟らせたと言った方が正しいだろう。
「もし君の
「……助けます。この身を犠牲にしても」
目の前に佇む医人が、最も激しく罵っていた木葉を救おうとする理由を知った阿弥太は衝撃を受けたが、同時に強い共感を抱いた。真正の愛が、阿弥太や勝を動かしているのだ。
「わかりました。けど、どんなに集中しても、新しい剣を作るには十日はかかってしまいます」
勝は頷いた。依頼はしてみたものの、そもそも一日や二日で新しい剣が出来上がるとは思っていない。そこで勝は持参した古い剣を阿弥太に差し出した。古ぼけた錦に丁寧に包まれていた剣が、阿弥太の手に渡される。
この剣は自宅の祭壇にずっと昔から祀られていた。祈りを捧げる対象であって、実戦で使うためのものではない。それは承知の上で、勝は持ち出したのだった。
「それは神剣だ。どれくらい昔かは知らないけど、大私部の先祖が
「それならなんとか。幸い、柄の部分に施された装飾がほとんどないので実際に握っても違和感はないと思いますし、刃についた錆も多くはありません」
二日後に引き取りに来るという約束をして、勝は鍛冶場を後にした。
そして、当日、再び夕刻になってから勝は阿弥太を訪れた。あの神剣を受け取れば、勝はいつでも従兄を倒しに行ける。
正殿で眠っている木葉はぴくりとも動かず、死者が横たわっているかのようだった。従兄の息の根を止めなければ、勝の最愛の人の瞳が光を受ける日は二度と来ない。あるいは呪いに完全に浸食されてしまって目覚め、徳麻呂以外の男を愛することがなくなってしまうかのどちらかしか道はない。
しかし、愛する木葉を目覚めさせたいと願う若者は、勝だけではなかった。
勝が鍛冶場に着くと、阿弥太の他に先客がいる。
「綾苅、お前もか……」
一瞬怯んでしまったが、綾苅とはきちんと話さなければならない。綾苅の目の前には数本の剣が置かれていた。
「俺は木葉に、ずっと待っている、俺がそばにいて守る、何があっても助けるって約束したんだ」
「……ああ、そうだろうね」
勝はかろうじてそう答え、間に挟まれた形になった阿弥太は両者の様子を心配そうに交互に見つめた。
「大領の息子を
冷たい挑発に勝は俯いた。かつての勝ならば、売り言葉に買い言葉で応戦しただろう。しかし、今は違う。綾苅の言葉がぐさりと胸に突き刺さった。一時は協力して木葉を婚礼の場から連れ去った二人だが、その時とは訳が違う。文字通り、命がかかっていた。
そして、綾苅は阿弥太から勝も徳麻呂を倒す剣を必要としてここにやってきたとおしえられた時に、勝の本心を悟ったのだった。もしかしたら、勝が木葉に懸想しているのではないかという不安を抱いてはいたが、それは綾苅の想像に過ぎず、確信には至っていなかった。だが、この場に勝が来たということは、綾苅と勝の動機と目的は同一でしかない。
「阿弥太、どの剣がいいと思う? これか、いや、あれも使いやすそうだな」
完全に勝の存在を無視して、綾苅は阿弥太に向き合った。
「僕の神剣を……」
もう一人の依頼人に請われた阿弥太は、黙って例の神剣を差し出した。柄にも手入れがなされているらしく、握った感覚が以前と違い、手になじむ気がした。そして、鞘から抜くと、刃は見違えるほど美しく磨き上げられていた。曇っていた表面に、薄っすらと自分の顔が映っている。
「ありがとう、阿弥太」
刃を再び鞘に戻すと、勝は綾苅に声を掛けた。
「二人で、とも考えたけど、やっぱり従兄は僕が倒すよ。木葉を想う気持ちに優劣はつけられない。だけど、僕はお前に残ってほしい」
「……何だって?」
「その理由は、徳麻呂を倒せずに返り討ちに遭ってしまったら、誰が木葉を守るんだってことだ。あいつは軍団の幹部なんだ。僕たち医人や牧子が太刀打ちできる相手じゃない。遊行女婦が言ってたけど、呪いが跳ね返ってくる可能性もある。僕はお前を温存しておきたいと思うよ。故殺は良くて
一気に思いを吐き出した後、勝は付け足した。
「それに、大領家が起こした不始末は大領家の者が片付けるべきだ」
「それとこれとは話が違うぜ」
納得できないと、綾苅は反論したが、勝も譲らない。
「徳麻呂は僕に警戒してない。策があるんだ。お前が現れたら絶対に逃げられる。そうなれば、木葉はもう助けられないんだよ。お前は木葉の傍にいてやってほしい。その方が木葉も安心するだろうな。木葉はきっとお前を好いてる。僕なんかよりずっとね。だから手を汚すのは僕だけで十分なんだ」
「……バカだな、あんた」
綾苅は鼻で笑い、勝を見返した。しかし、愁いを帯びた医人の瞳には真剣な、死を覚悟した独特な光が宿っており、綾苅は怯んだ。
――木葉を本気で愛してるんだな、こいつ。
綾苅は大きく溜め息をつくと、同じ言葉を繰り返した。
「……バカだな、あんた。自分が好いた女と幸せになることは考えないのかよ」
これ以上、話しても埒が明かないと悟った綾苅は阿弥太の用意した武器を全て返すと、二人に背を向けて歩き出した。
(それは僕には許されない。木葉が綾苅を選ぶのなら、それでいいんだ)
勝は片手に握った神剣の柄を、もう一度強く握り締めた。
鬱蒼と茂る木々を見上げると所々、太陽の光を受けてまだらに輝いている。真間山に分け入ったのは実は初めてかもしれない、と勝は思った。
山というよりは高台と言った方が相応しいくらいの標高の低い真間山の、少し開けた場所に出て目線を上げると、真間の
新緑と紺碧の穏やかな入江と白い砂州が、一度に目に飛び込んでくる様は何度見ても爽快だ。
遥か昔の、この国がまとまりかけた時代から真間の入江の景色は変わらずに四季折々の彩りを生み出してきたのだろう。下総の地に住み着いた豪族たちは、大王の支配下に入り、地位を固めていった。国府からほど近い場所にも墳墓があり、遥か昔の葛飾の豪族が眠り続けている。
勝は馬の蹄の音を聞いた。まさか徳麻呂が、と思ったが、それは綾苅の可愛がっているアンラムの足音だった。
「綾苅、どうしたんだ」
「俺の代わりに、アンラムをあんたに預けることにしたよ」
「……僕は乗馬が苦手だ」
「それでも、徳麻呂と戦うには速い足が必要だろ。徳麻呂は一度、屋敷に戻ったみたいだぜ」
綾苅は愛馬の手綱を医人に引き渡した。アンラムは大人しく鼻をひくつかせている。
「ありがとう、綾苅」
馬は徳麻呂をおびき寄せるのに使える――。そう考えた勝はありがたく手綱を取ったのだった。
馬に乗るのは久しぶりだった。少年の頃、徳麻呂と馬で浜辺を走って遊んだことがあった。易々と馬を操る従兄の後ろを、勝はもたもた、よろよろとついていった気がする。
青年になった今でも、乗馬には自信がない。しかし、アンラムは自分の使命を理解しているらしく、寄り道もせずに勝を国府まで運んだ。
自宅に戻ると、勝は隣接する大領家の屋敷に向かい、徳麻呂を呼んだ。綾苅が知らせてくれた通り、徳麻呂は一度戻ってきていた。
「何か用か?」
状況に焦りを感じているのか、徳麻呂は不機嫌を露にしている。そこで、勝は小声で言った。
「女医生が倒れたことは僕も知ってる。遊行女婦の一人が、大領家の仕業だと言ってるのを聞いたよ。逃げた方がいいよ。足の速い馬を手に入れたんだ」
「お前が、馬を?」
「うん。医人として格別な働きを認めてもらった禄だよ」
努めて平静を装って偽りの事実を答えると、徳麻呂はさすが勝だなと呟いた。普段、医人らの仕事など見ることのない徳麻呂が簡単に納得するのも無理はない。
二人で厩に行き、勝はアンラムを披露した。アンラムはつんと澄ましている。
「すげえ。こいつは上等の軍馬になるじゃないか」
毛艶といい無駄のない引き締まった筋肉といい、あの国守の愛馬に匹敵するだろうと思われた。
こんないい馬を牧に留めておきやがって、と徳麻呂は文句を言いつつ、早速乗り心地を試している。
その間に勝は、逃げるならどこがいいんだろうねと、さりげなく話題を振った。やっぱり上総か安房まで行くしかないかな、と呟いてみると、徳麻呂もまた同意した。上総介が佐伯氏の同族なので、匿ってくれるはずだと言う。
徳麻呂としては、高向大足の追っ手を逃れることができさえすればよく、わざわざ海路で西または北方へ向かう必要はないのだった。
勝はアンラムをだしにして徳麻呂が逃亡する方向を確認できればよかったのだが、徳麻呂は予想外のことを言った。
「おい、お前も一緒に逃げようぜ。古忍に加えて医人が同行すれば無敵じゃないか。親父たちには悪いが、俺たちが置かれた状況は危険すぎる。もう必要な物資や資金は平城京の佐伯へ送ってしまったし、お前に頼んだ毒は完成してないけど、いざとなったら佐伯がどうにかして右大臣を暗殺する手立てを考えて実行するだろうさ」
一時的に避難して、謀反がうまく行ったら姿を現せばいい、というのが徳麻呂の構想だった。
これはまずいことになった、と勝は思ったが、ここで断ると何かと面倒なことになりそうだ。
「わかった。ついていくよ」
ただし、と条件をつけることにした。上総へ無事に逃れるまでアンラムを自分に使わせてほしいと。
「仕方ないな。確かにお前に駄馬を与えたら、余計に足手まといになる」
幼い頃から乗馬やら武術を苦手としてきた従弟を知っていた徳麻呂は、その条件を飲んだ。
国府を離れるのは今夜ということになった。国守の家人を通じて真熊に連絡を取り、付かず離れずの場所から追ってきてもらうよう頼んだ。
今夜は月明かりが強い。松明がなくても、周辺ならばよく見える。
勝は錦の包みを外し、神剣を腰に履いた。筆と経が己の武器である勝にとって、帯刀するのは実は初めてだ。美しいアンラムに跨がると、いよいよ武人になった心地がする。
「行こうか」
郡の人々が寝静まった頃、徳麻呂を先頭に勝と古忍がそれに続いて大領家の門を出た。国庁の周りは軍団で輪番の衛兵が巡回しているが、徳麻呂は自分たちの姿を見ても報告してはならないと命じていた。しかし、誰に見つかるかわからないため、三人は沿道の林の中を進んだ。
入江に面した台地の先端に来ると、一列になって急な坂を下り、砂州に降り立った。
「この入江を見るのも今日でしばらくお預けですね」
継橋の手前までやってきて、古忍が馬の歩みを止めて感慨深そうに言う。穏やかな入江は天高い月明かりを受けて深い紺碧の襞を生み出しており、微かな潮風が生い茂った葦をさわさわと揺らした。
「夜更けにこうして見ると、なんだか手児奈の霊でも出てきそうですね」
「俺は俺の手児奈の魂を掴まえそこねた」
徳麻呂は忌々しそうに吐き捨てると、そのまま馬の首を左手に向けて腹を蹴った。崖の下の砂州を徳麻呂の馬が駆け、継橋の手前に残された二人も慌てて追いかける。例の隠れて逢引きのできる洞穴の辺りに着くと、徳麻呂は反転して止まった。
「あの中に蓄えた財物は全部、都に送ってある。武器もだ。あとは都の連中が勝手に動けばいいんだ。大私部はもう十分働いたぜ」
丸い大きな月が、薄雲を帯びて辺りが少し暗くなる。徳麻呂は何を思っているのか、入江をじっと見つめている。再び雲が月を解放し明るくなると、古忍がそろそろ出発しましょうと促した。
勝は少し焦っていた。護衛を頼んでおいた真熊がちゃんとついてきているのか、確認できないからだ。入江まで来てしまうと、身を隠すための適当な場所がない。これから継橋で砂州を渡り、東へ進まなければならないが、松林が見えるのはもうちょっと先になる。
(大丈夫かな――)
徳麻呂と古忍の後方に下がって、勝は崖の上に視線を送った。するとわずかに明かりが見えた。いた、真熊は崖の上から見張っているのだ。勝は一か八か、右手をすっと高く上げて左右に動かした。
「行くぞ」
徳麻呂が手綱を改めて握りしめたその瞬間。
ぐわっという呻き声が聞こえた。
「こ、古忍!? どうしたんだっ」
振り向いた徳麻呂が言い終わらないうちに、古忍は口から血を吐きながら落馬し、砂州に身を横たえてしまった。自慢の分厚い胸板を、太い矢が貫いている。
「おい、誰かいるのか!? 勝、お前も探せ!」
目の前で起きたことに衝撃を受けた徳麻呂は、怒りの形相で従弟を怒鳴り、辺りを見回した。
勝は目を閉じ、一度深呼吸をすると静かに告げた。
「探す必要はないよ。もう、いないから」
「いない……? どうしてわかる?」
「それは、僕が頼んだからだよ」
徳麻呂の、えっという驚きはすぐに息に飲まれた。なぜならその喉元に月明かりを受けて煌めく美しい剣の刃が押し当てられていたからだ。
「どういう、こと、だ」
「君が魂を奪おうとした手児奈を、救いたいから」
苦しげに言う勝の瞳は深い哀しみを秘め、生まれてからずっと親しんできた従兄を突き刺すように見つめていた。勝の一言で、徳麻呂は勝が木葉を想っていること、大領家を裏切ったことを悟ると、にやりと笑った。
「驚いたな、大私部の有能な医人が一時の情愛から一族を捨てるとは! しかも、相手は葛飾軍団に名を馳せるこの俺だぜ? 身の程知らずなヤツだとは思わなかったぞ、勝。いつから裏切った?」
「そんなことはどうでもいいだろう。僕は一度、右大臣暗殺のために毒薬調合を引き受けた。謀反を知りながら今まで国守に告げなかった。大私部の一員として、どこか遠くへ流されることはわかってる。だから、その前に、この手で君から木葉を解放したいんだ」
一際強い潮風が入江に流れ込み、群生した葦をざわめかせた。水面が波打ち、ちゃぽんちゃぽんとその存在を耳に訴える。
勝は一瞬、崖の上に視線を遣った。明かりはもう見えない。ここへ来る前に、いっそのこと離れた所から得意の弩で俺が徳麻呂を仕留めてやると、真熊が勝に提案してきたのだが、勝は首を横に振った。やはり徳麻呂を倒すのは自分の手で。だから真熊は古忍だけを狙って、うまく行ったら帰ってほしいと頼んだ。真熊は言われた通りに、去ったようだ。
徳麻呂が動いた。
巧みに馬を操って、勝から身を離し、波打ち際を駆けていく。しまった、と思った勝もすぐさま馬の腹を蹴って追いかける。一切武芸を嗜んでこなかったことを今さら後悔しても仕方がないが、馬くらい乗りこなせるべきだった。
「逃げてもいいけど、無駄だよ」
大声を徳麻呂の背中に投げかける。
「僕が君を倒しにきたってことは、国守もご存知だ。上総守は今頃、国境を厳重に封鎖しているよ」
前を行く徳麻呂の馬が勢いよく停止し、次の動作では再び後方を追ってきた勝に向かって駆け出した。右手には太刀が握られている。
「勝負してやる。医人の力がどれほどのものか見せてみろ」
もはや逃げ道はないと悟った徳麻呂は、ありったけの力を込めて勝に突進してきた。勝の言うことが正しければ、崖の上に控えていた真熊の邪魔が入ることはなく、背後に気を取られずに勝に一対一で挑むことができる。それにしても、軍団の猛者が武術を知らない医人を相手にするのは、ほとんど赤子の手を捻るに等しい。
楽勝すぎると徳麻呂はほくそ笑んだ。
一方、急激に対戦状態に変わった従兄の本気を見て、勝は初めて死の恐怖を感じた。神剣を握る右手がはっきりと細かく振動しているのが自覚でき、冷風が吹いているにも関わらず背中には汗が幾筋か流れている。
(頼む、木葉、僕に一瞬でもいいから力を与えてくれ――)
天を仰ぎ、煙るような星空に訴えた勝は、相討ちを決意してアンラムの腹を蹴った。
この時、持ち手である勝は気が付かなかったが、神剣は永い年月の眠りから目覚めようともがいていた。いつの時代だったか、神剣は大和の大王が東国の諸豪族を改めて臣下として認めようとしたそのしるしとして下されたものだった。
大王の神の力が込められた神剣は、下賜された豪族の墳墓に副葬品として置かれることなく、葛飾の地の重要な祭祀のために延々と受け継がれてきた。
そんな神剣も時代が下るにつれ、大私部家のしかも医人の系譜に祀られるようになり、すっかり形式的な祭壇の飾りと化してしまった。それが、ふいに若き医人の手によって、揺り起こされようとしている。
神剣は使い手の魂に共鳴し始めた。
古ぼけた錦に包まれた神剣は、葛飾郡一の鍛冶職人に手渡され、鍛え直されると、神剣を必要とする男の願いをあっという間に吸収した。
――アイノタメニ、イキテ、シヌ。
それは、初めに神剣を鍛えろと命じたあの大王の魂と似通っていると神剣は感じた。今、まさに使い手は神剣の目覚めを必要としていた。
「覚悟しろ、徳麻呂!」
高速でアンラムを直進させながら、勝は剣の柄をしっかりと握り締め、真っ直ぐに構えた。剣が熱を発しているように感じるのは気のせいか。それに、なんとなく軽くなっているようだ。
どしんっ、という激しい衝撃が全身を貫いた。それと同時に、生まれてから味わったことのない感触が右手を伝わってくる。そして、強く鈍い痛み――。
「くっ……」
勝の視界に入ってきたものは一面の細かい白い砂だ。そして、側に斑に広がる真紅の液状のもの。勝はアンラムから投げ飛ばされ、砂州に投げ出されていた。だが、もう一疋の馬上にも人影はない。徳麻呂もまた、勝の手の届くところに転がっていた。
神剣がない。
右手はただ砂を掴んでいる。慌てて勝は神剣を探し、片手をついて立ち上がろうとした。しかし、左脇腹に激痛が走り、再び体が倒れてしまう。
「と、徳麻呂っ!」
転がりながら、敵の姿に視線をやると、探していた神剣はなんと徳麻呂のみぞおちから柄を覗かせているではないか。信じられない。しかし、確かに勝が徳麻呂の胸元に向かって真っすぐに突いた神剣は、目的を達成していた。呻きながら何とか起き上がろうとする徳麻呂の周囲は、なぜか風が集まっているように見える。
「上等だな……」
徳麻呂はかすかに呟くと、両手を砂州について立ち上がってみせた。そして、名うての武人は、驚くべきことに、胸元に神剣を貫かせながら自分の太刀を振りかざし、砂州に横たわる勝の頭上から斬りかかったのだった。
その時の勝は、既に大きな負傷を抱えていた。馬上で激突した際、神剣を徳麻呂に突き出したのと同時に徳麻呂の太刀が勝の左脇腹を抉っており、傷口からは鮮血が滝のように流れ出ている。あっという間に、白い砂州は血の池を作っていた。
(まぁ、これでいい。僕が死んでも、徳麻呂にも致命傷を与えられたんだから)
勝は瞬間的にそう考え、渾身の力を込めて前方に腕を伸ばす。右手は徳麻呂に突き刺さる己の神剣の柄を捉え、勝は伸ばした腕を引いた。徳麻呂の絶叫と共に生温かい血が勝の上半身に降り注ぐ。砂州を彩る真紅の池が、徳麻呂と勝のどちらのもので作られたのか既にわからなくなっている。
神剣は徳麻呂の体を離れて再び勝の元へ戻った。ただし、美しく輝く刃は、おどろおどろしく徳麻呂の血を纏わりつかせて妖艶ですらあった。
(木葉……。呪いは断ち切ったよ。僕はもう動けそうにない。明日の朝、皆に発見された時はもう――)
肩で息をしながら、勝は仰向けになった。目を閉じる前に、最後に真間の入江を飾る満天の星空を脳裏に焼き付けようと、瞳を開く。
すると、勝に覆いかぶさるように影がかかっていることに気付いた。
「この、は……?」
朦朧とした意識の中で娘の姿をした人影を見つめると、それは優しく涼やかな声で語りかけてきた。
「医人様、生きてください。あなたの想う人は待っています。黄泉の国へ旅立つなど、まだまだ先のこと」
「君は誰、だ?」
「真間の入江を守る者。葛飾の
「……手児奈か」
これは夢なのだろうか。
「生きて、医人様。私は愛する人と結ばれることは叶いませんでした。だから、私はこの葛飾の想い合う妹背の魂を結び付けたいと、ずっとこの入江で願っているのです。愛しい娘を思い出してください。この神剣もあなたの味方をしているのですよ」
そう言って、手児奈は愛おしそうに勝の神剣を指先で触れた。それから手児奈は、肩にかけていた山吹色の
「僕は……木葉を、もう一度見たい。共にまた医学の道を、歩きたい」
この期に及んで驚くほど素直に、こんな言葉が口を突いて出てきた。
「ええ、あなたの行く道は黄泉の国ではなく、この世の医学の道なのです――」
穏やかな潮風が葦の間から流れてきた。
全身の痛みがすっと和らいだような気がする。きっと自分は死んだのだろう。勝はぼんやりと頭上に煌めく星を眺めた。
伝説上の少女の姿は、もはや消えていた。
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