第7章 葛飾の真間の入江にうち靡く (1)眠れる女医生
新緑の輝く初夏の昼下がり、木葉は枳美と遊行女婦たちと入江で貝拾いをして遊んでいた。
「ほら、姉さん! 真っ白な貝がこんなに」
「綺麗ね。何か飾りに使えないかしら」
水に入るにはまだ少し冷たいが、裸足になって裳裾を上げながら砂浜を歩くのはとても心地よいものだ。潮風が遊行女婦の頭の簪を優雅に揺らす。
「最近ずっと机に向かっていたから、朱流さんがこうやって外に誘い出してくれて良かったわ」
「でしょう? 目の前にあるものだけ見続けたら、頭が破裂してしまうわよ。少なくとも、あたしならおかしくなるわね。あ、桜色の貝よ」
波打ち際から摘み上げた小さな貝は、恥ずかしさにほんのり顔を赤らめた少女のようだ。朱流は大切そうに巾着にしまい込んだ。
木葉が休暇を取ったのは実に十五日ぶりだった。強制的に勉学に従事させられていたわけではなく、自らの意思でぶっ続けに勉強をしていた。日下部博士は日が高くなる頃には木葉の教習を離れ、医生たちの指導を始める。ほとんどが自習のようなものだった。
朱流は岩に座って入江を眺めている木葉に近づき、いたずらな笑みを浮かべて木葉の耳元で言った。
「ねぇ、あの医人はどうなの?」
「医人?」
「あなたを教えてたじゃない」
「誰のこと……って、ええっ、勝ですか? 最近ほとんど顔を合わせてないわ」
木葉は朱流をじっと見つめながら答えた。年上の美貌の遊行女婦に微笑まれると、どぎまぎしてしまう。しかし、今の鼓動の速さはそれだけではなさそうだ。
「じゃあ、今、顔を合わせればいいのに」
どういう意味だろうと訝しがっていると、朱流がほらと木葉の両肩を軽く掴んで右を向かせた。なされるがままに右手を見ると、視線の先にはなんと勝が立っていた。勝は片手で大量の薬草を抱えている。木葉が自分に気付いたことがわかると、勝は意を決して浜辺を歩き始めた。
医人がこちらに向かってくると、朱流は木葉の傍をそっと離れた。彼が話かけたい相手は、この中では明らかに木葉しかいないではないか。木葉は気が付いていなかったようだが、勝はしばらく前から継橋を渡り切った後の入江の入口付近に立って木葉を見ていた。偶然、入江で遊んでいる女医生を目にして、声を掛けに行くか素通りしようか、迷っているように見えたので、朱流は木葉に勝の存在を示したのだった。
「今日は休みか」
「そうなの。貝を集めてるのよ。あんたは何してるの?」
岩に座ったまま、勝に答える木葉は久しぶりに開放的な入江に出られて心底楽しそうに思われた。
「僕は大嶋里に診察に行ってた。数日間泊りでね。あの、お前が試した薄荷を焚いて気を浄化する方法を、大嶋里でもやってみたよ。子供の咳が次の日には軽くなってた」
大嶋里は太日川の西側にある地域だ。遠いというわけではないが、船に乗って行かなければならないので、何日も通うのであれば泊まった方が賢い。
「……昔のあんただったら考えられないようなことをやり始めたのね。嬉しいわ」
「確かにそうだね。医人たちで話し合って、まずは葛飾郡内の病を減らそうってことになったんだ。僕は子供の面倒はあまり得意じゃないから、そういうのは子がいて慣れてる医人に任せてるけど」
いつからかはわからないが、勝の医術に対する姿勢が確かに変わったと木葉は感じ取っていた。
国府の医人が責任を負うのは、国衙の官人や雑任、郡司層、それからせいぜい里長だけだと、庶人や貧者を対象から外して考えていた頃の勝はもういない。もちろん、国の医人の存在意義は官人の健康管理なのだが、なるべく民を健やかにしておくことも国府の運営にとって重要なのだということを理解したようだ。
「じゃあ、僕はまた医学舎に戻るよ。太日川の津でたまたま会った武蔵国の薬園師からこの薬草を分けてもらったんだ。よく調べて、早めに使えるように準備しておかないと」
勝はそう言って、立ち去った。
(こんなに頼もしかったかしら……)
国府へ戻っていく新米医人の後ろ姿を見て、木葉は溜息をついた。入江の砂浜に残された勝の足跡を目でなぞると、なぜか自分も一緒にその横を歩いているような気分に錯覚した。
(行かなきゃ!)
突然、木葉は立ち上がり、妹たちに向かって「ちょっと先に帰るわね」と声を掛けると、裳裾を摘み上げて駆け出した。貝拾いもいいけれど、やっぱりあたしは薬草と向かい合うのが合っているわ。
勝と共に、医術に打ち込んでいる時の自分はとても幸せだということを、木葉は思い出した。
せっかくの休暇を放り出して追いかけてきた木葉を、勝は一度は、ちゃんと休みは取りなよと追い返そうとしたものの、頑として言うことを聞かない女医生はそのまま医学舎へ戻ってしまった。そして、あたしも薬草の勉強すると言って、勝に同行した。
譲ってもらった薬草はコガネバナといい、山の斜面や山腹の草原に生息しているため、入江や湿地帯が多い葛飾郡ではお目にかかれないものだ。根を乾燥させた生薬は、胃腸炎や下痢、肺の熱を取る作用などがある。
「五気は寒、五味は苦。生薬名は
「黄芩湯だと比較的体力がある患者にしか処方できないからなぁ。とりあえず、
「じゃあ、あたしは
その後の二人は黙々と作業に没頭し、必要最小限の会話しかせず、ようやく、木葉の空腹の音が鳴ってしまってから、二刻近くも熱中していたことに気付いたほどだ。
「ああ、お腹が空いた。今日の夕飯は何かしら。早く行かないとなくなっちゃうわ。龍麻呂が厨長になってから、その辺きっちりするようになったのよね。今までは勝手に厨から持ち出しても何も言われなかったのに」
「先に行ってていいよ。僕はこの調合の割合をちょっと記録してから行く」
「わかった。あんたの分は確保しといてあげるからね」
「うん」
この時、木簡に記録を付けることに集中していた勝は、木葉と一緒に出ていかなかったことをすぐに後悔することになった。
医学舎と国衙の曹司群の中間に位置する食堂に向かった木葉は、食堂に入る前に忽然と姿を消したことがわかったからだ。
どうしちゃったんだろう、と頭の中では今のこの状況がおかしいのではないかと考えていても、体がいうことを聞かない。それだけでなく、それはダメと拒否したいことを木葉自身が求めてしまう。
勝に先に食事に行くと告げ、医学舎を出ると、何者かに腕を引っ張られた。そして素早く口に布が当てられ、驚いてもがいたところまでは記憶している。そして、もがいているうちに、独特な強い甘い香りが鼻腔をくすぐり、心地よい気分が押し寄せてきたのだった。
「木葉、俺と一緒に行こう」
「駄目よ……。あたし、戻らなきゃ……」
必死で抗おうとしている相手は徳麻呂だった。しかし、言葉では拒否をしてもその場から動けず、信じられないことに、徳麻呂に口を塞がれて舌を差し入れられても嫌悪感どころか、甘美な気持ちで満たされてしまった。一体自分自身に何が起きているのか皆目わからない。
徳麻呂の大きな手が肩から背中をなぞり、木葉の腰を強く引き寄せる。そのまま気分が高揚し、木葉は両腕を徳麻呂の首に絡ませてもっと唇を重ねるようにねだった。徳麻呂は軍団の幹部として鍛えられた力強い腕で、木葉を抱き上げると闇の中へ歩き出した。
初めは抵抗しようとしていた木葉は、もはや徳麻呂を求めずにはいられない状態になっており、その瞳は恍惚と大領の息子を見つめていた。
徳麻呂が夜陰に紛れて木葉を屋敷に連れて戻ると、大伴佐流が出迎えに立っている。住んでいる敷地は同じだが、徳麻呂は大領夫妻から独立した建物に住んでいて、別の門から出入り可能だ。
「すごい効き目だぞ、佐流」
「そうでしょうとも。あの媚薬は大陸伝来で、特別な経路でないと入手できません。さてさて、この媚薬は一晩しか持ちませんから、早いところ次の作業に移りましょうかね」
夢のようだと徳麻呂は思った。手に入れ損ねた女が、自ら己の胸に飛び込んでくる。そして、うっとりと微笑みかけてくるのだ。
「木葉、俺がわかるか?」
「ええ、葛飾郡大領の息子で軍団校尉の徳麻呂様よ。ずっとお慕いしていたわ」
佐流がいる前だというのに、木葉は恥ずかしげもなく徳麻呂の腕にすがりついて甘えてくる。佐流は苦笑いして、これからの作業に必要な物を並べていった。
「あのじゃじゃ馬娘とは思えませんな。始めからこの薬を使えば良かったですね。まぁ、とりあえず、この
徳麻呂は言われた通りに、木製の人形に大私部徳麻呂と孔王部木葉と筆を滑らせた。意外と達筆である。息を吹きかけた後、再び佐流に手渡す。佐流は人形を両手に挟んで目線の高さに掲げながら呪文を唱え始めた。長い呪文を一心不乱に声に出していく。
「オン・マカラギャ・バゾロ・シュニシャ・バザラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク、オン・マカラギャ・バゾロ・シュニシャ・バザラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク、オン――」
この間、龍麻呂は木葉を腕に抱き、瞑想をしていた。木葉は相変わらず徳麻呂に身を委ね、目を閉じて大人しくしている。佐流の呪文が効力を発揮すれば、いよいよ木葉は徳麻呂の思う通りに操ることができるようになるのだ。
妾にしようとした時のように、曹司に閉じ込めておく必要はないし、どんな男から言い寄られても徳麻呂以外の男を受け入れることはしない。だから野放しにしても心配いらない。
呪文が呪文でなく、ただの音の羅列に聞こえてくると、徳麻呂は時折意識をなくし、どこか知らない夢の中をゆっくりと彷徨っている心地になり、抱きかかえている木葉が天の羽衣を羽織った天女なのではないかと思った。
佐流の呪術によって、天女は羽衣を奪われ、永遠に地上の男に従属することになる。それは想像するだに快感だった。どれくらい時間が経っただろうか。気付くと呪文を唱える声が止んでいた。
「徳麻呂様、ご覧ください。人形に印が現れました」
信じがたいことに、人形の顔の部分に両目のようなものが浮かび上がっているではないか。
「人形は肌身離さずお持ちください。これで、この娘は徳麻呂様の意のままに動き、外に出しても念じれば戻ってきます。そもそも媚薬の効果も人形に封じたので、何もしなくとも徳麻呂様を慕うでしょうが」
「凄いぞ、佐流。妾にしておくよりずっといいじゃないか。これで国守も、仲間の賤民どもも手出しはできないぜ」
「はい。ただし、念じて意図的に動かせるのは娘が目覚めている間だけです。今はもう寝てしまっているようですから、このまま横にしておきましょう」
徳麻呂は頷いた。なんと愉快な日々が始まるのだろうと思うと、頬が緩む。木葉は普段通り医学舎で勉強をし、そして夜には徳麻呂に会いに来る。誰にも非難されることなく、一度手放した女が手中に入るのだ。
翌朝、木葉は徳麻呂の腕の中で目を覚ました。どうして自分が医学舎ではなく、大領家で寝ていたのかよくわからない。しかし、自分を包み込んでいる男が徳麻呂だと気付くと、木葉は微笑んだ。
「徳麻呂様?」
名を呼ぶが、徳麻呂はぴくりとも動かず寝息を立てている。枕元に酒の入れ物と杯が置かれているところを見ると、夕べはたくさん酒を飲んでそのまま寝てしまったようだ。木葉はそっと腕の中から抜け出して、大領家の屋敷から医学舎へ向かった。
今日は朝から医博士は講堂で講義を行っており、木葉は一人で経を開いた。そして、朝食を食べに行こうとした途中、勝に出くわした。
「おい、木葉。昨日、どうしたんだよ、後から食堂に行っても見当たらないし、お前の曹司にもいなかったし」
「ごめんね、ちょっと用事ができてしまって」
あまりにも木葉があっさりと答えたので、勝は不審に思い、さらにどういう用事だと尋ねた。しかし、木葉は別にあんたには関係ないことよと、素っ気ない。おかしい。確かに木葉は時々おかしな行動を取るが、それを隠したり何も説明せずに終わらせることはしないはずだ。
勝は思わず木葉の両肩を掴んで、少し強めに問いただした。
「何かあったんじゃないのか。ここで話せないようなことなら、僕の曹司で――」
「触らないで! あたしたち、医学の話以外のことをするような仲じゃないでしょう?」
その言葉は強烈過ぎた。
急ぎ足で去って行く木葉の後ろ姿はもう取り付く島もない。何が彼女を怒らせたのかはわからないが、今、勝は完全に木葉から拒否されたのだった。医学の仲間以上の間柄ではないし、そうなり得ないときっぱり宣言されたようなものだ。
最近の木葉からは考えられないほど冷酷な態度に、勝は狼狽した。
(でも、やっぱりおかしい。あいつが何か隠すようなことなんてしない)
もしかしたら、勝には言えない事情があって、たまたま虫の居所が悪かっただけかもしれない。一度そう思うことにした勝だったが、木葉の態度は次に会った時も、よそよそしかった。
よそよそしいだけでなく、行動も気になった。日が落ちる前に、木葉は曹司を整理してから外出をした。はじめは家族の元へ帰っているのかと思ったが、ある日、勝が偶然木葉が大通りを歩いているのを見かけて密かに行先を追うと、家族の待つ家の方面ではなかった。
(え、うちの方向じゃないか)
当然、勝はそのまま身を隠しつつ木葉の動向を見守った。だが、その結末は予想だにしないものだった。
木葉が徳麻呂と逢っている――。
しかも、以前のように交換条件のもとで半ば無理やり共にいるという感じではない。木葉は大領家の裏門に佇んでいた徳麻呂を見つけると、嬉しそうに袖を振りながら駆け寄り、ぴったりと寄り添って中へ入っていった。
何かの見間違いなのではと自分の視覚を疑ったが、翌日も木葉は同じ行動をとった。
勝は一人苦悩に苛まれていた。まさか木葉は本当に従兄に惚れてしまったというのか。医学舎で勉強したり、他の医人と会話をしている時の木葉はいたって普段と変わらず、大領家から脅されているなどといった隠し事をしているようには見えない。
勝とも言葉を交わすが、医学に関する話はいつも通りだ。ただ、それ以外の話題に及ぶことはなく、用が済むと勝からすぐに離れてしまう。
(徳麻呂の
考えているうちに、勝は息が詰まるような感覚に襲われた。木葉が龍麻呂の妹ということは、つまり、その柔らかく滑らかな肢体が全て徳麻呂の知るところとなったという意味だ。きっと木葉は喜んで徳麻呂に応えたに違いない。そこまで想像すると、勝は死んだ方がマシだとさえ思った。
「木葉、最近、夜はどこに行ってるの?」
勝は昼間に廊下ですれ違った時に、思いきって木葉に声をかけてみた。しかし、木葉は困惑したような表情で勝を見返し、あんたに監視される覚えはないわ、と呟いて去ってしまった。
(あいつ、なんか顔色があんまり良くなかったな。一体、徳麻呂のところで何をしてるかわからないし、国守に報告しないと……)
実際、木葉は体の不調を自覚していた。いつも通りに勉強をして、薬草を調合して、空いている時間には他の医人たちと医術の話をする。
はじめは女医生の存在を疎ましく思っていた医学舎の人たちも、木葉の意欲と能力を認めざるを得ず、筆頭医人の勝ですら木葉の教育に協力しているとあって、今では医学舎の一員として扱われている。
ともかく、そういう普通の生活をしているにも関わらず、眠気が増し、体に徐々に重石がつけられていくように動きが鈍くなった。夜、時々、徳麻呂を訪れると決まって抱かれるのだが、それとて夜通し続くわけではない。だから、体が動かなくなってきた理由は思い付かないのだ。
勝は多忙な国守に、書面で状況を伝えることにした。すると、その日の夕刻に国守から呼び出しがあった。急いで参上すると、その場に木葉もいるではないか。
青ざめた顔で苦しそうに息をしている姿があまりにも痛々しく、勝はこの場に二人だけであったら迷わず抱き締めただろう。
「大足さん、どうして勝も呼んだの?」
不服そうに木葉は言ったが、勝はすかさず心配しているからだと答えた。
「彼の言う通りだよ。最近の君の様子がおかしいと気付いて私に知らせてくれた。何でも、夜、大領家に足を運んでいるそうだね。しかも、見るからに体調が良さそうではない。また無理なことを何か言われたんじゃないかい? 下総国で最高の権限を持っているのは私だ。大領家が君に何を強いようと、恐れることはないんだ。話してくれないか?」
大足は説得したが、木葉は悲しそうに微笑んで、予想外のことを口にした。
「ねぇ、大足さん。あたし、愛されてるの、徳麻呂様に。だから、彼の元に行くのはおかしなことじゃないわ」
「木葉……。それは本気なのか?」
思わず強い語気で聞き返したのは勝だった。大足も驚きを隠せない。
「本気よ!」
弱々しい姿とは思えないほど、きっぱりとした口調で木葉は反論する。
「僕の従兄を、愛してるっていうのか?」
「ええ、愛してるわ」
「……あり得ないよ。だって、あいつは謀反計画に加担してて、僕たちは今、大領家を追い詰めようとしている最中じゃないか!」
「でも、仕方ないじゃない。どうしようもなく好きなのよ」
これは本当に木葉の言う通り、徳麻呂と相思相愛なのだと勝は悟った。どうしてなのかさっぱりわからないが、木葉の意思が固いのは紛れもない事実だった。
二人のやり取りを聞いていた大足は、木葉の体調が優れない理由を考えた。まさか徳麻呂の子を身籠ったのではないかと推測してみたが、木葉の様子がおかしくなってからまだひと月も経っていない。
それに、妊婦の見せる具合の悪さとは違うような気がする。
「大足さん、もう戻っていいかしら。これから薬草を調合したいの」
木葉は申し訳なさそうに言いながら立ち上がろうとした。そして、完全に立ち上がる前に上体がふらつき、慌てて大足が抱き止めたが、既に木葉の意識はなくなっていた。ずっしりと全体重が大足の腕にかかる。
「佐久太、来てくれ! 勝君、医人として木葉を診てほしい」
すぐに廊下で控えていた佐久太が飛び込んできた。国守の腕の中でぐったりしている木葉を見て驚いたが、国守から静かな曹司に運ぶよう指示されると、佐久太と勝は正殿の北側にある客人を通す一間に木葉を抱えて移動させた。
木葉は真っ白な血の気のない色をして、敷物に横たわった。勝は一度触れることを自ら拒否した木葉の手首をそっと持ち上げ、その脈をみた。とても弱々しく、これで生きているのが不思議なくらいだった。
「熱はないのですが、生気が感じられません。どうしてこんなことに……」
勝は言葉を詰まらせた。
木葉が病に冒されていたということを考えたが、心当たりはない。ついこの間まで元気だったし、自分で処方した薬を服用しているせいか、
国守と佐久太が出ていってしまうと、勝は指先で木葉の唇を撫でるように触れた。少し乾いていて冷たい。
このまま黄泉の国へ旅立ってしまうのではないかという恐怖が勝を支配した。意識を失った今でも、木葉は徳麻呂を想っているのだろうか。
しばらくすると、国守が朱流を連れて戻ってきた。
「ひどいわ……」
朱流は入り口に立つなり言ったが、それ以上中に入ろうとはしない。
「どうしたんだい?」
「ああ、わからないのね。木葉ちゃんからとても強い邪気が出てるのよ。おかしな行動は、心を操られていたせいね」
やはりね、と大足は呟いた。朱流を呼んだのは、木葉の状態が通常の病ではなく、何らかの人為的な効果のせいではないかと疑ったためだ。勝は知らないことであるが、以前、真秦が佐流の妖術にかかって深く眠ってしまったことがあった。
「じゃあ、木葉は徳麻呂に妖術をかけられてたってことか?」
「正確には、呪いね。おそらく、大伴佐流だわ」
朱流は懐から小型の神鏡を取り出し、動かしながら木葉の全身を映した。
「人形を使ってるみたい」
その時、突然、朱流が掲げていた神鏡がぱりんと派手な高い音を立てて砕け散った。
明かりを反射して、床がキラキラと輝いて見える。
「驚いた! こんな強力な呪いだったなんて」
「呪いの力で木葉の体力が奪われたということなんだね?」
「……いいえ。佐流は心を操る術しかかけていないと思う。徳麻呂がただ木葉ちゃんを自分のものにするためにね。木葉ちゃんは徳麻呂を慕うように仕向けられて、その通りに動いていたんだけど、本当は心の奥底でものすごく抵抗していたのよ。それで、体力が消耗されたんだと思うわ」
木葉の心の状態が偽物だとわかり、勝は安堵したが、もしこのまま木葉の本当の心と人形により操られた心とが衝突し続けたら、木葉の肉体も壊れてしまうのだ。
激しく抵抗すればするほど、木葉は傷付く。そして、木葉が呪いに屈服した時、木葉の苦痛は消滅するが、完全に心が死んでしまう。
「……できるだけのことはしたわ」
大きく息を吐いた朱流が言った。
横たわる木葉の四方に、勾玉を結んだ新鮮な榊の枝を立て、大きな神鏡を頭の辺りに置いた。さらに、刀を胸の上に乗せ、朱流が
勝は唇を噛み締めた。医術を学んでも、この呪いを祓う術は自分にはない。
「勝君、ここで一晩、木葉の様子を見ていてくれないかい?」
「僕がですか? だって、僕には何の力もありませんよ」
「君はわかっていないね。木葉の心身を一番わかってるのは君しかいない。医人として長く見てきただろう? それに、この娘を想う強さも」
勝は大足を真っ直ぐ見つめ、頷いた。もう自分の気持ちを無視して木葉から逃げない。
「私がここにつきっきりでいるわけにはいかない。勝君に任せるよ。私は木葉をもとに戻す方法を探ってみる」
「また明日、あたしも来るわ」
朱流と大足は退出したが、朱流の表情が始終深刻なものだったことに、勝は気付いていなかった。
じじじ、と燭台の明かりが揺れる。格子窓の隙間から、小さな蛾が入り込み、壁にやたらと大きな影を映し出している。
木葉はほとんど息をしていないように思われたが、胸の上に置いた刀がわずかに上下していて、呼吸が行われていることが確認できる。
復讐だ、と勝は確信した。徳麻呂が木葉を気に入っていたのは否定できないが、木葉を大領家に取り込めば国守側にどんな影響が与えられるか、よく考えた上での行動なのだ。
最近、国守からある衝撃的な話を聞いた。俘囚の
否定できるものならば、何度でも否定したかった。勝はその話を聞いた時、信じてきたことが一瞬にして崩れた時の絶望感を初めて味わった。
国守は中央政府からも正式に葛飾郡大領の身辺調査を指示されている。収監された榎井知麻呂はなかなか余罪を自白せず、国守はやむなく拷問を実行させ、ようやく国府の公文偽造や虚偽報告などを認めた。
要するに大領家は背水の陣に臨んでいるのだ。しかも、天皇家を武力で守るべき名門の佐伯氏が紀皇太后と結託し、謀反を起こそうとしていることは、中央政府を震撼させるに十分であった。
女帝は下総国からの報告を聞くや、右大臣と従兄の長屋王に徹底調査と厳重警戒を命じた。
いずれ、国守が捕縛に向けて動くのはわかっている。だからこそ、徳麻呂は木葉に呪いをかけたのだ。心を奪い、人質のように扱うつもりだった。大領はまだ余裕があると信じているようだが、息子は違った。その点では、徳麻呂の方が賢かったのだ。
勝は朱流の作った結界に恐る恐る足を踏み入れ、横たわる木葉に近付いた。どうやら、自分には何も害はないらしいとわかると、木葉の上半身付近に腰を下ろし、その手を握り締めた。
「君が目覚めるなら僕は何でもする。だけど、目を覚ましたら僕を真っ直ぐに見てくれ。君を手放したくない。もっと早く君に向き合い、自分の気持ちに素直になるべきだった。君は人を救おうとするけど、僕はその救われる対象には含まれないのかな」
軽蔑の対象でしかないと思っていた。
やたらと生意気で、燃えるような怒りの瞳を向けてきた女。過去に流行り病で愛する家族を失い、痛みを抱えてきた女。
彼女は医術を学ぶにつれ、怒りと苦痛を、他人を癒す力に変えてきた。
あんたが必要なの、と木葉は言った。例え、必要とされたのが医人としての勝だとしても、その言葉が勝の中の何かを変えた。
「僕も君が必要だよ。女医じゃなくて、愛を捧げる対象として」
眠り続ける木葉に語りかける。
木葉の出来が余りにも悪くて怒鳴ったこともあった。勉強の方針や医術への考え方の違いから喧嘩をしたことも多々ある。時間を忘れて調薬に夢中になったり、夜中まで共に勉強をして机で突っ伏して寝てしまったこともある。
全てがかけがえのない時間になった。だからこれからも、共に過ごす時間がほしい。
壁の上部の格子窓から入り込む朝日はどこまでも真っ直ぐ、眠れる女医生を明るく照らした。
「おはよう」
光で目を覚ました勝は、そっと木葉に言った。
一度顔を洗いに井戸場に行き、戻ってくると佐久太が握り飯と汁物を運んできたところだった。
「腹いっぱいにしてくださいよ。でないと、いざという時に力が出ませんからね」
「わかってる。ありがとう」
「旦那様と朱流さんはあれから何やら話し込んでいましたよ。内容はわかりませんが」
それから、佐久太が木葉の様子を見ているということで、勝は自分の仕事に戻った。昼過ぎに再び、正殿を訪れると枳美が木葉の横に座っていた。
従妹の若与理は溌剌とした美貌だが、木葉の妹はどことなく儚さを湛えた美しい娘だ。今、儚げな表情が苦痛に満ちている。姉が呪いをかけられたという知らせに飛んできたといったところだ。
「姉さんはどうなるんですか?」
「わからない。国守たちが方法を考えてる。呪いを解く方法があるはずなんだ」
勝は希望を捨てたりはしていない。かけられた呪いは必ず解除することができるものと聞いている。
しかし、枳美は肩を落とし、呟いた。
「姉さん、真間の手児奈みたいね」
「手児奈?」
「そうよ。姉さんは色んな男に好かれて、そのせいで命を削ることになってしまったんだわ」
勝は徳麻呂だけのせいだと反論しかけて、結局黙ってしまった。
木葉の心の中は誰にもわからない。もし、綾苅への愛が徳麻呂の呪いを必死で抵抗する原動力だとしたら、枳美の言いたいことは何となく理解できる。
「綾苅は……この話を知ってるのか?」
「まだ知らないと思います。私たちに連絡が来たのも今朝だったから」
「そうか。で、弟たちはどうした?」
今日は珍しく龍麻呂と真秦がいない。いつも仲良く共に行動する兄弟姉妹なのだから、何か理由があるはずだ。
「国守様のところよ。真秦がお寺で何か紙を見つけたんです。光藍に見てもらったら、すぐに国守様に持っていくようにって」
枳美と勝がこんな会話を交わしている頃、真秦は兄と国守を引き連れて葛飾郡の仏堂に向かっていた。
自らの意思を音声化できない真秦は、身振り手振りで一生懸命に状況を説明しようとした。
ここは葛飾郡で最も大きな仏堂だ。国衙の北側、太日川を眼下に見下ろせる場所に建っている。数世代前の大領家が私財を使って建てた私的な仏堂だが、大領家の威厳を示すために作られたもので、全国的な時流に外れず、長らくあまりきちんと手入れがなされていなかった。
確かに立派な外装ではあるが、都にあるような寺院と違って規模もかなり小さく、仏を安置する堂と塔が並び、塀で囲まれていても守衛がいるわけではない。
仏堂ができた当初は、皆、恐れ多いと近付くのを憚っていたものの、今では大領家というよりも近隣住民の日常の信仰の対象となっている。要するに、誰でもいつでも出入り自由というわけだ。
「真秦はずっと家に籠りっぱなしだったんです。姉が女医になるって勉強し始めた頃からこいつも外に出るようになって、それから、この仏堂を時々掃除したりするようになりました」
「ほう、それは今まで知らなかったよ」
「近所の誰かが時々思い出したように手入れはしてたらしいんですが、周りの草刈りやゴミ拾いくらいで、ちゃんと厨子や中の仏像や壇を丁寧に掃除したり供養の品を捧げたりするようにしたのは真秦です」
仏像を彫ることを趣味としている真秦にとって、仏を敬うことはごく自然で、外に出るようになって、この仏堂が放置されていることがいたたまれなくなったのだ。
そして数日前に、真秦はある紙を発見した。
「これが、厨子の中の仏像の背後に隠されてたというわけだね?」
真秦の身振り手振りの説明を理解した大足は確認した。
普段通り、手入れをしにやってきた真秦は扉の一部に螺鈿細工が施された漆塗りの厨子の表面を拭き掃除した後、何気なく厨子の扉を開けてみると、安置された仏像の背中から白い紙が見えていることに気付いた。それが今、大足が手にしているものだ。
ひと月ちょっと前に厨子を開けた時には存在しなかった。真秦は直観的にとても大事な物に違いないと判断し、持ち帰って龍麻呂に見せた。しかし、龍麻呂は字がまだあまり読めない。そこで、光藍に読ませると、一瞬で彼の顔色が変わり、国守に報告をということになった。
国守が龍麻呂たちに読み上げたその紙は、佐伯百足から大領大私部石麻呂へ宛てたもので、こんな風に記されている。
――受納弩刀。皇太后命事畢以大私部君石麻呂為外従五位下中宮亮、大私部君徳麻呂為葛飾郡大領、大私部君若与理為嬪。
「弩と刀を受け取った。皇太后の命で、事が終わったら、大私部石麻呂を外従五位下の
「中宮亮と嬪って……?」
聞き慣れない言葉に、龍麻呂は国守に聞き返す。
「簡単に言うと、大領は皇太后の補佐機関の幹部に任命されて、若与理は謀反によって新しく帝となる瑞葉皇子の妃になるってことだよ」
「ああ……そんなすごい約束を交わしたのですね。でも、この証文は今までなかったんだよね、真秦?」
兄の問いに真秦は自信をもって大きく頷いた。つまり、ここひと月の間に証文が厨子の中にしまわれたということだ。
「私の推測だけど、少掾が捕縛されて焦った大領が、最も決定的な証文を隠したんだろうね。破棄するわけにはいかない物だから、誰も気に留めないようなこの仏堂を選んで隠したようだけど、仏は悪事をお見逃しにならず、信心深い真秦少年に見つけさせたというわけかな」
「すごいよ、真秦!」
龍麻呂は弟の頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。言葉の話せない小さな真秦が、謀反の証拠を雄弁に語る大きな発見をしたのだ。
「あとは姉貴の心を取り戻すだけだね、国守様」
勢いづいた龍麻呂は、木葉の救出も何とかなるだろうという楽観的な気持ちで大足に言った。しかし、大足は顔を曇らせてしまう。
「それが、そう簡単にはいかなさそうなんだよ」
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