第6章 それぞれの運命 (3)復讐

 供の者を一人もつけず、大足は愛馬墨空すみそらの背に揺られながら入江にかかる真間の継橋を渡っていた。墨空の普段の世話は馬丁に任せてあるが、綾苅に世話のコツを教えてもらい、佐久太が時々状態を確認している。そのため、墨空の美しさは際立ったまま保たれていた。

 潮風が馬上の貴人の緋色の衣をはためかせ、春の薄い空を彩る。

 久しぶりに入江にやって来た。大足は対岸に渡り、そのまま墨空を水際を歩かせた。津守のじいさんは相変わらず小屋で眠りこけている。

 これから春の祭りの時期で、国司たちが国内を巡回し、里の長老たちと語らい、籾を民に貸し付けていく。毎年のことだ。詔に従い、畑の開墾を奨励したため、去年の秋の収穫は増加した。だから、出挙すいこも少なくして、民の負担を減らすことができる。

 それでも、前国守たちによる不当な搾取は国府の財政を圧迫し、国司たちは禄の一部を国府へ返納している。

(鈴、俺はどうやら大きな仕事をしなければならないようだよ)

 亡き妻に話しかけるように空を見上げると、鴎が崖の上から飛び出してきた。

 昨日、平城京に残してきた息子の諸足と義父から便りが届いた。諸足は漢詩の勉強に夢中とのことだ。義父は政情について知らせてくれた。

 二月には遣唐使らが出国前の拝朝を行ったという。今回は吉備真備や阿倍仲麻呂といった二十歳前後の若者も留学生るがくしょうとしても派遣される。大足もいつか自分もと夢見た大陸で学問を修められる若者たちを羨ましく思った。

 そして、三月に入り、長く要職を務めてきた左大臣の石上朝臣麻呂が高齢で死去したとのことだ。

(あの方は歴史の証人みたいな人だと聞いたな。もう四十五年前の壬申年の大戦を知っていらっしゃる。俺は一度も仕事で配下になったことはなかったけど、石上殿を悪く言う人を見たことがない)

 主上は深く哀惜され、三日間政務を執り行わずに喪に服したと、義父からの便りには記されていた。

(これで、名実ともに右大臣藤原不比等殿が第一の臣下か…… まぁ、我々は愚直に太政官の上の面々を支えるのみだ)

 それが主上を支えることにつながり、日の本の国が栄えゆくための基礎になるのだ、と大足は深呼吸をして潮風を吸い込んだ。

 だからこそ、数々の不正を行い、主上に背こうとしている輩は許すことができない。

 昨晩、勝から榎井知麻呂の容疑を聞いて、以前、国司や郡司らの宴の席で大毅が遊行女婦の大海に手児奈の亡霊の話をした時、知麻呂が怖がった理由がわかった。それは本当に怖かったのではなくて、手児奈の亡霊の話題を打ち切らせたかったからだ。

 大毅が入江の洞窟に隠されたものがあることをどこまで知っていたのかはわからない。もしかしたら、知った上で構わずに話題にして遊行女婦をからかいたかったのかもしれない。

 それに気を揉んだ少掾が、怖いから亡霊の話はやめてほしいと言い出した。

「不覚だったよ、墨空。だけど、もう俺が委任されたこの下総国で、あいつらの好きにはさせない」

 主人の決意を理解したのかしていないのか、墨空はぶるぶるっと頭を震わせた。


 その男は今日も穏やかに笑みをたたえながら、菊野牧の放牧地に足を運んだ。冬の間、寒さに耐えた馬たちがのんびりと休んでいるのを横目に、男は綾苅に近付く。

「やあ、君の馬たちは随分と立派に育ってるね」

「どうも。お忙しくないんですか、少掾」

 カシンカの蹄の手入れをしていた綾苅は、顔を上げて言った。

 立派に育ってるというのは、お世辞でもなく、本当のことだ。力のない駄馬のような牧の馬は、綾苅の細やかな世話と十分な運動のお蔭で筋肉質で毛並みの良い馬に生まれ変わっていた。

 綾苅に言わせれば、あまりにも適当過ぎる牧の管理をちょっと改めただけなのだが、それだけで効果は十分に現れた。馬は番号をつけて毎日健康状態を確認し、できるだけ十分な餌を与えた。

 それだけでなく、種馬を複数野放しにしていたやり方を改め、種馬一疋を軸にして複数の牝馬を交配させる方法を採用することにした。近親交配を繰り返すと弱い馬ばかり生まれてしまい、それを防ぐためだった。そうして春先から初夏にかけてが出産時期で、既に今年生まれた仔馬もいる。

「大事な話だからこうして来てるんだよ。考えてもらえたかな」

「ありがたいとは思っています。でも……」

 実は綾苅は、蝦夷の地にある出羽柵いではのきへ派遣されてみないかと少掾から打診されていた。

 出羽柵周辺には蝦夷の馬を扱う牧が設置され、軍用に飼育されている。そこへ東国諸国から人を派遣して蝦夷の馬の飼育方法を習得し、国へ知識を持ち帰るのだ。

「興味はありますよ。俺の夢は下総国の馬を最強にすることだし」

「それならいいじゃないか。菊野牧の牧子は補充人員を探しておくよ」

 まだ少掾が謀反計画に加担していることを知らない綾苅は、この話が当然、国守からの提案だと信じ混んでいた。

 蝦夷の地には一度行ってみたいと思っていたし、木葉にもそう語った。けれども、下総国を離れてしまっては、木葉を守るという約束が守れなくなる。どれくらいで帰郷できるかわからないからだ。

(もし木葉が勝を好いていたとしても、あいつはいずれ流罪だ。木葉の側にいるべきなのはやっぱり、俺だよな)

 そして、少掾の話を断ろうと決めた時、少掾が追い撃ちをかけてきた。

「国守はね、君の派遣で下総国の馬を強化することができたら、その功労を中央に上申して身分を解放する許可をもらおうと考えていらっしゃるよ。どうだい?」

 少掾は微笑みながら真っ直ぐに綾苅を見つめている。人はそれが誠実さの現れだと思い込んできた。

 なぜ綾苅を出羽柵に送り込もうとしているのかと言えば、国守の力を少しでも削ぐために、その手足となっている若者たちを下総国から排除するためだ。

 大領は少掾を使って、阿弥太にも中央で鍛冶の技術を生かさないかと持ち掛け、あるいは、真熊を演習中の事故に見せかけて葬ってしまおうとも目論んでいた。

(まさか。でも、うまくいけば俺も良民になれるんだ。そしたら、木葉と一緒になれる)

 こうして、疑いを抱かないまま、綾苅はその提案を受け入れてしまった。

 だが、少掾の目論見は勝の推理を発端に打ち砕かれていった。

「何で遠くに行っちゃうのよ?!」

 久しぶりに綾苅の自宅に様子を見に行った木葉が見たのは、小さくまとめられた荷物だった。その理由を尋ねた後の木葉の言葉が、何で遠くに行っちゃうのよ?!である。

「俺だって自分の力を試したいんだよ。下総国の役に立つことだしさ」

「そうじゃなくて、少掾は大領家とつるんでるのよ。あんた、騙されたんだから!」

「そうなのか?!」

 すっかり国守からの伝言かと信じていた綾苅はうわぁと呟いて頭を抱えた。

「とりあえず、あたしたちが気づいてるってことはバレないようにね。それから、少掾を逆に罠にかけようと思ってるの」

 木葉は声を低くしてその罠の内容を綾苅に告げた。


 葛飾郡から二人の賎民が消えた。それは綾苅と阿弥太だったが、もちろん本当に蝦夷の地や平城京に旅立ったわけではない。真間山の光藍の庵に身を隠しただけのことだ。

 しかし、少掾を安心させることはできた。一応、わざわざ国守に一言挨拶をしてから旅立ちたいと少掾に言ったが、案の定、国守は多忙でその必要はないと返された。

 その前に、関係者を集めた作戦会議が開かれた。罠というのは、宴に招待して囮を仕掛けるというものだった。主催者は大領の息子だ。この計画は勝に協力してもらう。

「以前、木葉のことで徳麻呂が悶々としてる時に宴でも開いたらどうだと言ったことがありました。で、遊行女婦の月紗や他の女を呼ぼうと」

 手に入れられなかった女を、別の女で穴埋めしようという安易な態度に、勝は呆れたが、結果としてこの状況は使えることになった。

「それで、僕は枳美も宴に連れていくことにすると徳麻呂に言ったんだ」

「枳美なんか連れてどうする?! まさか少掾に会わせる気じゃないだろうな」

 綾苅のあらぶる様子に、勝はやれやれと肩を落としてため息をついた。これだから、頭を使わないやつは、とでも言いたげだ。

「木葉の妹を同席させるというのは囮だよ。実際には連れていかない。木葉を連れていく」

 この姉妹は性格も正面からの見かけも随分と異なるが、後ろ姿は区別がつかないくらいに似ている。現に綾苅は枳美と間違えて、木葉の後ろ姿に口説こうとしたことがあったではないか。

 宴の日になり、関係者が大領家の離れに集まった。若者限定ということで、徳麻呂、古忍こおし、勝、知麻呂、そして軍団長の土師狛はじのこまという面子だ。遊行女婦の月紗と大海も呼んでいる。

 少掾の知麻呂も仲間だったことを勝が知らされていなかったのは、大領からの指示で関与している者をなるべく互いに知らせずにおいて、万が一に備えるためだったらしい。

 宴の名目は徳麻呂の失恋憂さ晴らしということになっているが、とりあえず酒が飲めればそれでよかった。

「おい、勝! お前、結とはどうしたんだ。終わっちまったらしいじゃないか」

 遊行女婦たちを両脇に侍らせて、酒をがんがん飲み、だいぶ気の緩み始めた徳麻呂が絡んでくる。

「まぁ、仕事が忙しくて構ってやれないからね」

「じゃあ、俺がもらっても文句ないですよね?」

 結が今は一人だと知って、古忍が興味を示した。

「文句はないけど、大切にしてやってくれよ」

 結に対しては後ろめたい気持ちがないわけではない。木葉のことが心を占めるようになってしまって、そのまま結と疎遠になった。

 一度だけ結は、勝に恨み言を歌で送ってきたのだが、むしろありがたかった。もし結が何も言わずに勝の移り気を許していたら、それこそ勝は罪悪感を捨てきれなかっただろう。

「で、新しい女は? まだ来ないんですか?」

 古忍が突然、勝に尋ねて、勝は一瞬息が止まった気がした。木葉のことを指摘されたかと思ったが、彼らが勝の密かな想い人を知っているわけがない。

 古忍が言ったのは、囮の枳美のことで、付き合っていると言ったわけではないがそういう関係だと勝手に誤解してくれている。

「ああ、枳美か。そろそろ着くはずだけど…… ちょっと見てこようかなぁ」

 勝は枳美を迎えに行こうと立ち上がったが、ふらついてまた座り込んでしまった。実は枳美(に扮した木葉)が遅れてくるのはあらかじめ決めたことで、勝が今、酔ってふらついたのも演技だった。

「大丈夫かよ。いつもより酔いが早いな」

「冷たいお水をすぐに持ってきますわね」

 大海が慌てて離れの座敷から厨に向かった。

 そして、勝は酔った振りをしながら、知麻呂の方をうかがった。さあ、お前の欲している女は今一人で夜道を歩いてる。どうする?

 すると、ほとんどへべれけになった徳麻呂が口を開いた。

「知麻呂、代わりに枳美を迎えに行ってやれよ」

「えっ、俺が?」

「俺たちふらふらだしさ、大海のいない間に狛が迎えに行ったら嫉妬するだろ」

 徳麻呂が言い出すとは思わなかったが、なかなかいい展開だ。しかし、ここで月紗が自分が迎えに行くと名乗りをあげた。

「ああ、それもそうだな」

 狛が賛同する。勝はまずいなこれはと冷や汗をかき始めた。だが、これが逆に知麻呂の気を急き立てたらしい。

「いや、夜道を遊行女婦に歩かせるのは…… 俺が行ってくるから」

「悪いね。枳美は一度ひどい目にあってるんだよ」

 勝はさりげなく知麻呂の罪に触れた。その時の知麻呂の表情は何も変わらず、ゆっくり頷いただけだった。

 そして知麻呂が外に出た頃、木葉は頭に布を被って顔を隠し、大領家へ続く道の途中でしゃがみこんでいた。沿道の林の中には、大掾の星川正成と真熊、そして真間山を下りた綾苅と阿弥太が控えている。

 雲が月にかかり、辺りがわずかに暗くなった時、木葉は背後に人の気配を感じた。

「どうしたんだい」

「気分が悪くて……」

 木葉は顔を膝に埋めながら、小声で短く答えた。暗がりをいいことに、知麻呂は通りすがりの人を装っている。

「そうか。おいで」

 優しく言った知麻呂は、木葉の腕を掴み、その痩身からは想像できないほどの力で木葉を軽々と持ち上げた。木葉は顔を見られないように知麻呂にしがみついてじっとしていた。大丈夫、側に仲間がついてるじゃない。

 運ばれた先は人気のない林の中だ。知麻呂は腕の中でくったりしている女を見て満足した。枳美が勝と付き合っているなんて冗談ではない。この女はずっと前から俺のものになっていたのに。

 木葉は背中が冷たい大地に触れたのを感じた。そして、知麻呂は木葉に覆い被さると、裳の間を掻き分けて片手を差し入れ、いよいよ顔をよく見ようと布を払いのけた。

「いやっ!」

 ここで初めて木葉は抵抗を示した。しかし、知麻呂は木葉を地面にぴったりと釘で打ち付けたように、押さえている。

「枳美、どうしてあの医人なんかと付き合ってるんだ。俺がいるだろう」

「あんた、狂ってる。力で女を手に入れるのが正しいと思ってるわけ?」

「……多かれ少なかれ、皆そうだよ、枳美」

「離しなさいよっ!」

 木葉が大声を出すと、知麻呂の力が一瞬だけ緩んだ。やっと別人だと気が付いたのだ。そして、騙されたことを知った知麻呂は木葉の首に手をかけた。

「む、だ、よ……」

 苦しさに顔を歪めた木葉に、知麻呂はいい表情だねと呟いた。早く助けてよ!と心の中で叫んだと同時に、木葉の体から全ての重みが消えた。

「動くなよ、少掾榎井知麻呂」

「現行犯で捕縛する」

 知麻呂を木葉から引き離し、威嚇するように見下ろしているのは真熊だった。刀の切っ先を知麻呂の喉元に当てている。その隣には、大掾の星川正成が仁王立ちになり、冷ややかな目で成り行きを見守っている。

「木葉! 大丈夫か!?」

 茂みから綾苅と阿弥太が飛び出し、木葉を助け起こしてくれた。

「ありがとう。自分で立てるわ」

 木葉はなんとか綾苅と阿弥太に微笑んだが、その時、正成が素早く知麻呂の右腕を押さえ付け、掌から何かをもぎ取った。

「毒で死のうなんて選択はありませんよ、少掾。きっちり律の決まりに服してもらいますから」

 正成が摘まんで見せたのは、小さな丸薬だった。

「さすがはキレ者の大掾だ。ところで、どうして俺が女を襲うとわかったんだ」

 身動きできず、両手を後ろに回されて、大掾に縄をかけられた知麻呂は笑顔で自分を取り巻く人々を見上げた。

 今回の待ち伏せは、勝の推測によって行われたものだが、ここで勝が関与していることを明らかにするのは得策ではない。

「悪事はバレるんですよ。それだけです。僕はあなたを国司の一員として敬意を持っていたのに、残念だ。日頃の女人に対する柔らかな態度が、卑劣漢の仮面だったとはね」

「捕縛の理由は?」

 知麻呂は大人しくしているが、油断はできない。

「強姦未遂及び故殺未遂だ。とりあえずはね。このまま獄舎へ収用します。察獄の機会はありますから安心してください。言いたいことがあればその時にじっくり聞きましょう」

 この時の正成は、やり手の弾正台の官吏か刑部省の解部ときべのごとく鋭い視線で言い放ち、それに加えて微笑んでいるので、木葉も綾苅も敵に回したら恐ろしい人だという感想を抱いた。その後、国介が兵士を二人連れてきて、知麻呂は引き立てられていった。

 大領家の離れの座敷では、なかなか知麻呂が枳美を伴って戻らないことに、皆が不審を抱き始めていた。しかし、しこたま飲んでいるので誰かが様子を見に行こうと言い出すわけでもなく、比較的正気を保っている大毅でさえ、お気に入りの大海の膝枕に現を抜かしている有様だ。

「おかしいな。めんどくさくなっちゃったのかな、枳美は」

 勝は壁に背中を預けながら、なんとはなしに言ってみた。傍から見るとかなり具合の悪そうな勝に、本気で心配している月紗が近寄り、横になった方がいいのではと世話を焼いてくる。

 その時、離れに向かって誰かが歩いてくる気配が感じられた。少し騒がしいようだ。

「皆さん、こんばんは。ちょっとお邪魔しますよ」

 出入り口から現れたのは、きっちりとかとり頭巾ときんを被った国司――浅緑の袍を着込んだ大掾である。

 お呼びでない客人の登場に、徳麻呂は気色ばんだ。

「勝手に人の屋敷に上がりこんでいいと思ってるのか」

「……ここの宴に参加していた私の部下の少掾が、道端で女人に暴行を働こうとしたのを捕縛したんだ。国司として、その宴でさらに非違が行われていないか確認するのは当然でしょう」

「ちょっと待てよ。そんな嘘ついて、知麻呂をどこに隠した?」

「嘘じゃないですよ。彼は以前から孔王部枳美に心を寄せていたのですが、力づくで手に入れることしか頭になかった。今日もまた彼女を襲おうとしました。枳美からは夜で歩く時には見守ってほしいという依頼があってね。そしたら、知麻呂が――」

「枳美を傷つけたのが少掾だなんて、信じられない。大掾、枳美は無事だったんですか!?」

 話を遮って、勝が枳美の安否を確かめた。もちろん、筋書き通りに勝は演じているだけだ。

「ああ、彼女はとても怖がっていたから、家に帰したよ。そのまま、ここに来て飲食する気には到底なれないだろうからね。ところで、国府の遊行女婦まで呼んで、どんな宴を開いてたんですか」

 無邪気に宴にやってきた大海と月紗は、何か悪いことをしてしまったのだろうかと不安な顔つきになって、大掾を見つめている。月紗は以前、自分の行動を大掾に見抜かれていたので猶更警戒しているように見えた。

「大掾! 僕たちはただ仲間うちで飲んでただけです。知麻呂が僕のいもである枳美を襲ったことのある犯人だなんて知らなかったし、ここにいる遊行女婦たちも元々、親しいから呼んだだけなんですよ。強いて侍らせたわけじゃない」

 宴をぶち壊されて不機嫌が最大になっている徳麻呂が、大掾に食って掛かる前に、勝は弁解してみせた。遊行女婦も自分が何かよからぬことに加担しているわけではないことを必死に訴え、勝の言い訳に同調した。

「とりあえず、状況はわかりました。少掾の件とは無関係ということで処理します」

 そう言って、正成は座敷を一瞥して去って行った。

 残された者たちは意外な展開に呆然とし、ひどい酔いと疲労で動けなくなっていた。仲間が捕縛されたことは、確実に大領家への打撃となる。知麻呂は少掾の地位を利用して、国府の様々な情報を大領に流していたし、場合によっては文書の改竄も行っていた。

 しかし、国司の一人が女人への強姦未遂と故殺未遂で獄舎入りとなったことは、下総国府の不祥事でもあり、民への負の影響も大きかった。

 その後、翌日から通常通り、臨床の場に出向いた勝は里人たちから、一体下総国府はどうなってるんだ、何か悪霊にでも憑りつかれているのではないかと言われたりもした。

 それもそのはず、正倉の火災、偽の疫病、軍団長の命令拒否、国印の紛失、そして今回の国司の捕縛は第三者からすれば、国守高向朝臣大足の監督不足と受け取られてしまうものだ。

 ただ、下総国の民はこうした国府の非常事態と、国守からの命や指示によってなされてきた様々な改善事項との矛盾を奇妙なことに思っていた。

「まるで国府には国守様が二人いらっしゃるような事態だなぁ」

 ある里長はそう評したが、あながち間違った認識ではないなと勝は思った。全ての災難の源は、前国守なのだから。


 麗らかな春の日の太日川には、川沿いに無造作に立ち並ぶ桜から花びらが遊びに舞い降りている。一年前の今頃はまだ勝は闇雲に医学の道の野心に向かって進んでいたし、叔父が使っている家女など、見たことはあっても特に心に留めるようなこともなかった。

 医学舎に付随する薬園に出ると、下方に太日川を見渡せる。今日も船が着岸して、商人や市の関係者たちで賑わっている。

 勝は木陰に腰を下して木簡と筆を取り出した。最近ではこうやって、木葉への想いが溜息をつくたびに歌となって口をついて出てくるのだ。

 ――大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも

 ――妹が目の見まくほしけく夕闇の木の葉こもれる月待つごとし

 大きな船に荷を積んでいるように、木葉のことで心がいっぱいになっている。木葉に逢いたいという気持ちは、なかなか現れない月を待つようにもどかしい。

 遠くにいるわけではない。むしろ、同じ医学舎の中で勝は勤務し、木葉は勉強を続けている。そうだというのに、永遠に一定の間隔を保ったまま存在する夜空の星のようだ。

 僕たちは七夕の牽牛と織女なのだろうかと、勝は考えたが、悲しいかなあの二人は自分たちと違って、引き離されていても妹背の仲である。

(身の程を考えろ、勝。どうせお前は、謀反一族の一員であることには変わりないんだ。前途洋々の女医生にこれ以上恋しても無駄だよ)

 再び溜息をついて、歌を書き記した木簡を真っ二つに折ってしまおうとしたが、やはりできなかった。折ってしまったら、本当に二人の関係が近くなるどころか壊れてしまいそうな気がした。

 このところ勝は自宅に戻っていない。戻れば隣接している大領家の人々と顔を合わせなければならず、叔父から例の毒薬の進捗状況をしつこく尋ねられることが目に見えていたからだ。裏切ったことが露呈しないよう、勝は時々、適当に調合した毒を捕まえた鼠に与えて見せていた。

「鼠は痙攣して、口から泡を出していますよね。これじゃあ、まだ毒殺だってことがわかってしまいます。叔父上、自然死に近い毒を求めるなら、大陸からもたらされる希少な鉱物だとか、あるいは禁足地に生えてる特別な神の草だとか、そういうのを探さないと……」

「お前の知恵をもってしても難しいのか、勝。ああ、こうなれば頼みは藍雲玉使いしかないのか」

「藍雲玉使い? 大伴佐流のことですか? 冬に各地で疫病に見せかけて毒がばら撒かれた事件がありましたが、あれは佐流の仕業なのですよね。それで国守を窮地に追い込もうとしたのかもしれませんが、結果としては失敗だったじゃないですか」

「ああ、いや……。まぁ、ともかくだ。皇太后様も気にかけておられてな。あからさまに右大臣が殺害されたとわかってしまっては、皇太后様の筋書きが成り立たなくなってしまうのだ」

 健全な右大臣が突然死したとなれば、様々な憶測を呼ぶ。そこで紀皇太后は、正統性を逸脱した立太子を行ったせいで右大臣は神の怒りをかったのだと、堂々と関係者を批判できるというわけだ。

 紀皇太后にしてみれば、病で公に出なくなった藤原夫人、つまり宮子など、妃としての務めを果たしてきていない、取るに足らない存在だった。

 だが、その紀皇太后の主張を実行するのは容易いことではない。

 叔父は焦っている。知麻呂が捕縛されたことに憤慨し、その口から計画が漏れてしまうことを怖れていた。

 今のところ、余罪の察獄を受けている知麻呂が計画を白状したという事実はないらしいが、黙秘を続けていれば、あの国守とて拷問を指示せざるを得なくなるだろう。あるいは、そうなる前に何か取り引きを持ちかけて暴露させるかもしれない。

 どのみち勝にとっては、心の中で縁を切ってしまった大私部家がどうなろうと知ったことではなかったし、それよりも、愛しい娘の行く末の方が何倍も大事だった。

「ねぇ、勝、聞いて」

 つい昨日のこと。ふいに勝の曹司を訪れた木葉が戸口でこう教えてくれた。

「大足さんがね、宮内卿にお願いして、あたしを内薬司の女医見習いとして典薬寮で研修させてもらえることになったの!」

 以前、木葉は中央で勉強したいという意思を国守に伝えていたが、大足はすぐに宮内卿の阿倍広庭に打診し、太政官での審議を経て、それが正式に認められたのだった。左大臣石上麻呂が高齢で逝去したことも、多少は影響したのかもしれない。

 医学を習得する者を一人でも増やすことで、健康管理や疫病対策を強化して人臣の福利厚生を図ろうという大義名分にも適っている。

「ほら、帝は女人でいらっしゃるでしょ? だから殊のほか、宮中から里の女人まで、皆が健やかであれと気にかけてくださっているのよ」

「それは良かったね」

 着実に木葉の未来が開けていることがわかり、勝は嬉しく思った。しかし、一度、木葉が下総国葛飾郡から外に出てしまえば、もう勝の目の届かない場所に行ってしまうのだ。

 平城宮で自分と同じような、いや、もっと優秀で裕福な医人や官人と出会い――。

 止めよう、これ以上考えるのは。

 勝は心の中で、僕の分までがんばってくれよ、と付け足して木葉を返した。閉めた戸を見つめながら、今日何度目かの溜息をつく。せっかく木葉がここまで来たのに、どうしてそのまま曹司の中へ引き入れなかったんだ! 二人きりになれば、思い切って想いを告げることもできたかもしれないのに。

 勝は手元にあった経を押し退けた。恋の病を治す方法は、どこにも書いていないのだ。


 井上駅の手前に国府の市が立っている。入江の中に位置しているため、天気の良い日は青く輝く海に囲まれた市は一層賑わいを見せる。

 市にはいくつかの酒場があるが、光藍は最近そのうちの一つに通っていた。美味い酒が飲めるからではない。店に美しい娘が働いているからでもない。

「どうです、龍麻呂? 飲み比べてわかりましたか?」

「うん。あの店のだけ薄い味のような気がするよ」

 朝から酒場を梯子して少しずつ飲み歩いているのは、調査のためだ。

 当初、情報収集のためと考えて市の酒場に出入りしていたところ、光藍はこの店の酒の味が薄いことに気づいた。店の親父はそういう種類の酒だと言っていたが、どう考えても粗悪だった。

「どこから仕入れてるのか気になって追跡したら、葛飾大刀自かつしかのおおとじでした」

「それって、大領の妻だよね」

 早々に店を出た二人は入江の継橋を渡り、帰路につきながら話をした。

「龍麻呂、大領家には酒蔵があるんですよね?」

「そうだね。僕は酒蔵で作業したことはなかったけど」

「どうやらその酒は市に出す分は水を入れて薄めているようです。それで儲けを騙し取っている」

 龍麻呂は大刀自のごてごてした装飾を思い浮かべ、なるほどあの高価な装飾品や衣の出所はこの水増しした酒からの収入だったのかと納得した。

 かくして国守は大目だいさかんの安倍池守を市に派遣し、酒場の証書をあらためると、事実と違うことが明らかになったのである。

「大領は酒蔵を国司に見せるのに相当抵抗したらしいよ」

「だろうな。今や少掾もお縄だし。にしても、国守は外濠から埋めて追い詰めるんだなぁ」

 牧を訪れた龍麻呂と綾苅は、牧の仔馬が遊ぶ姿を見渡せる高台に座って握り飯を食べている。

 龍麻呂は厨長となり、新しい試みを行っていた。実はこの握り飯は厨で作った給食の余りだ。

「厨で働き始めてからずっと思ってたんだよ。せっかく作っても残飯が必ず出るから、もったいないなって。で、昔の厨長は恐ろしくて何も言えなかったし、前任者は悪い人じゃなかったけど、決められた仕事しかしない人だったから、ようやく何とかできるようになったんだ」

 龍麻呂は釜や鍋や提供前の皿にある残飯を捨ててしまわず、郡内の孤児に分け与えることができないか、大足に進言した。以前、姉と勝と共に臨床で訪れた里には、孤児が集団で生活している大きな家がある。最近では他の里も孤児の家ができつつあり、龍麻呂は時々そうした孤児の家を見て回っていた。

「僕だってそんなに暇なわけじゃないけどさ、厨長になって税がかなり免除されてるし、何もしないよりマシだろ。飯や薬草の世話くらいならなんとかできるし」

 立派だなと綾苅は微笑んだが、実際にはあまり立派な動機があってのことではない。采女として平城京に赴いた恋人の若与理を忘れるために、何かに打ち込みたかったというのが本音なのだ。

 もう一年は経つというのに、龍麻呂は風の音も雨の音も、若与理の懐かしい声に聞こえてしまう。柳のしなやかな葉の揺れに、彼女の姿を見た気がすることもある。

 ともかく、そういう幻聴や幻想に惑わされる己の弱さを断ち切るために、龍麻呂は孤児の面倒を厭わずに見ていた。木葉に教えてもらって全く害のない薬草を煎じたり、薄荷の葉を焚いて気を浄化したり、厨の残飯を分け与えたりして孤児の世話をすると、彼らの健康状態が改善され、少し大きな子供は大人たちに混じって農作業を手伝えるようになった。

「高向様は、いつも、民を孤独にしておく国守は国守失格だって言ってる。全員が豊かで不自由ない生活を与えられたらそれは理想だけど、現実には無理だ。でも、最初から民を見捨てるような態度を取る国守は、主上から国を任されたっていう誇りがないに等しいんだって」

「国守様らしいな」

「僕たちもそれぞれ誇りを持てってさ」

 そんなことを龍麻呂に言う大人は今まで誰もいなかった。まして、身分の高い人から誇りを持てなどという言葉をかけられるとは、想定外の極みである。間違いなく、大足との出会いは龍麻呂に生きる力を与え、希望の可能性をも示してくれたのだ。

 龍麻呂の希望は若与理という美しい娘の他にはない。

 身分違いに苦しんだ日々が、若与理の出立と共に唐突に終わり、そして今は龍麻呂が良民となったことで、一縷の望みを抱くことが許されるようになった。

 そして、すっかり春の暖かさが続き、毛皮の羽織り物が必要なくなった頃、龍麻呂は思いがけない朗報を妹から聞いたのだった。

「兄さん、知ってる? 今、入江に船が着いたらしいんだけど、葛飾の采女が降りてきたんですって。任期は三年でしょう? まだ一年しか経ってないのにどうしたのかしら」

 葛飾の采女。それは大私部若与理のことだ。秘めた関係はもちろん二人しか知らず、枳美は兄の恋人が大領の娘であることを知らない。だが、妹の雑談は十分に龍麻呂を驚かせた。

 ちょっと見てくると言い残して、龍麻呂は家を飛び出した。


 全速力で国庁の横を走り、台地の先端から眼下を見渡すと、井上駅の前方に人だかりができていた。

 その中から一人の若い娘が進み出て、継橋に向かう。後から同行してきたらしい仕丁しちょう数名が荷物を背負いながらついてくる。

「若与理っ……」

 入江の中を歩く采女は、薄桃色の裳を揺らし、白い生絹の袖を潮風に靡かせ、堂々と顔を上げている。采女とはこんなにも神々しいものかと、龍麻呂は息を飲んだ。

 台地の上の沿道で待っていると、若与理が現れ、一瞬だけ視線が交差した。娘の唇が、どうして……という言葉を発したように動いた。龍麻呂が出迎えていたことに加え、その姿が良民のものであったことに驚いたのである。

 龍麻呂は采女を静かに見送った。この公の場で声をかけることはできない。なぜ任期の途中で下総国へ戻ってきたのだろう。都で何かあったのか。

 一方、疑問は若与理の方でもわいていた。龍麻呂が橡色の衣を脱いでいる―― 一体なぜ?

 逸る心を抑えつつ、若与理は国庁へ直行し、国守への面会を求めた。

 采女というのは、天皇の食膳に供する役目を担っている女官の一種であるが、それだけではない。何らかの形で天皇や皇后から働きぶりを認められ、能力や人柄を買われれば、単なる配膳係以上の仕事にも従事するようになる。

 若与理は美しいだけでなく、落ち着きがあり、食事の間も女帝の御前に控えて、常に気配りを忘れずに勤めてきたことから、女帝の話し相手や執務のちょっとした雑用を任されるようになっていた。

 そして今回、任期の途中で故郷に戻ってきたのには理由があった。

 正殿で国守と対面すると、若与理は早速、平城宮から持参した書状を手渡した。これをしたためたのは、右大臣藤原不比等である。

「主上は私を下総への使者として遣わされました。采女の働きをお認めくださったのです」

「それは葛飾郡、いや下総国の誇りだ。しかし、右大臣からとはどういうことだろう」

 大足は書状の封を開けて、紙を広げてみた。読む前に、若与理がこの内容を知っているか尋ねると、ただ渡されただけと言う。

 読み終わった時、大足はこの聡明で誠実な采女が書状の中身に関知していなくて良かったと思った。なぜなら、若与理の父親である葛飾郡大領と佐伯百足との後ろめたい関係について言及されていたからだ。

 不比等は宮内卿や中務卿からの報告を受けて、正式に下総国守に調査を命じ、必要とあらば強制的な措置を採るよう指示を下した。皇太后宮に軟禁されている紀皇太后の動向もより厳しく監視されているらしい。

「あの、何かあったのでしょうか?」

 眉間に皺を寄せて書状をじっと見つめている大足の様子から、若与理は良くないことが書かれているのだろうかと推測した。しかし、大足は答えることなく、いつまで滞在する予定なのかを尋ねた。

「国守様から御返事をいただけましたらすぐに平城京へ戻ります」

「では、大領家で過ごすのだね。短い間だが、ゆっくりしていなさい」

 若与理は、ええそのつもりですと言って退出した。

 それにしても、書状の後半に書かれていることが気になる。下総国の俘囚ふしゅうの反乱に気を付けろとはどういうことか。紀皇太后は俘囚と通じて地方で反乱を起こすつもりなのか。

 ――宜汝俘囚令下総国之輩起擾乱。然天下諸国知天皇無大徳。

 これは同封されていた小さい木簡に書かれた文である。意味は、俘囚であるお前が下総の俘囚を立たせて騒乱を引き起こさせるがよい、そうして日本国中が天皇の徳がないことを知るだろうというものだ。

 右大臣によれば、皇太后宮から運び出された荷物の中から発見された木簡の写しとのことだが、誰に宛てた指示なのかはわからない。

(下総俘囚と言ったら、菊野牧に隣接しているあの集落しかないじゃないか。汝俘囚というのは、まさかモヌイ……?)

 実際には、葛飾郡だけでなく国内に俘囚が住んでいる郡は存在する。しかし、戸数がわずかで、決起して官衙を襲撃するほどの人数はいないし、老人がほとんどだ。

 そこで大足は自ら俘囚里に足を運び、モヌイを呼んだ。

「元気かい?」

「まあ、変わらずにやってます。龍麻呂が里の子供たちの様子を見に来てくれるんですよ。時々、医博士も来てくれます。ところで、国守様もご苦労されてますね」

「この里でもやはり、私の失政のせいということになってるのかな」

 大足の問い掛けに、モヌイは少し考えて答えた。

「そういう噂は流れました。でも、俺はあの国守様に限ってそんなことはないと、里の者に常々言い聞かせています。俺は巡察使だった時のあなたを存じていますから。エカシも国守様のことは信頼しています。国司の一人が女人を暴行しようとして捕縛されたと聞きましたが、それも国守様が官人の非違を許さなかったからでしょう? 俺が昔いた名取の陸奥国府では、官人はやりたい放題で、罰せられることがありませんでした」

 この言葉だけでも、大足の懸念を払拭するのに十分であったが、念のため、あの木簡をモヌイに示して見せた。

「これは?」

「見たことないかい?」

「ありません。これ、俺たちを煽動するような内容じゃないですか! 葛飾の俘囚が国守様に反乱を起こすなんて……」

 モヌイは心外だというように、声を荒げて答えた。確かにモヌイは和人に対して、子供の頃のような親しみと信頼を失ってしまったが、それでも現在、不自由を強いられているわけではないし、何より国守は高向大足なのだ。それに、俘囚里の皆が耐えられないほどの不満を抱えていることもない。

「実は、下総国は陰謀の渦中にあるんだ、モヌイ」

 大足の告白に蝦夷の青年は目を丸くして聞き入った。天皇の後継者の話などモヌイにはよくわからなかったが、ともかくどういうわけか、モヌイたち下総の俘囚も謀反の一端を担わせられてしまう恐れがあることは事実なのだ。

 問題なのは、汝俘囚という言葉、つまり木簡に書かれた命令の宛先だが、俘囚里の誰かが密かに葛飾郡大領らと通じているとしか考えにくい。

 大足がそう述べると、モヌイはまた少し考え込んだ。少なくとも、エカシを始めとする有力者の中で、強い不満を抱いている者や怪しい動きをしている者は思い当たらない。

「いや、もしかしたら別の郡の俘囚かもしれないね」

 大足が無言で考えているモヌイに言ったが、モヌイは何かに気付いたようで、腕組みをしながらおもむろに口を開いた。

「……国守様、葛飾郡にはこの俘囚里には住んでいない俘囚がいますよ」


 これくらいは許されるだろうと思いながら、龍麻呂は国庁の南門に続く道の木陰で、若与理が出てくるのを待ち続けた。

 思ったよりも早く若与理が現れると、龍麻呂は彼女に近付き、すれ違い様に「日没前、入江で」と一言告げて、顔を合わせることなく立ち去った。

 往来で人目のある今は面と向かって話しかけることはできない。積もる話は二人きりで夜明けまですればいい。若与理が入江に来てくれるかわからないが、龍麻呂は待った。

 晩春の日暮れはゆっくりと、じらすように訪れた。

 手児奈の亡霊騒動となった洞窟は、大領側によってすっかり片付けられており、今では以前のように隠れた逢瀬のために使うことができる。

「龍麻呂、そこにいる?」

 洞窟の少し奥から入江に沈む夕日を見つめていた龍麻呂の視界に、美しい采女が飛び込んできた。茜色の背子はいしと薄紅の生絹の袖が、夕日に溶け込んでいる。

「若与理……」

 それ以上の言葉は必要なかった。

 強く抱き合い、お互いの懐かしい体の匂いを吸い込むと、龍麻呂も若与理も涙を流し始めた。采女は采女である限り、恋をしてはいけない。けれども、葛飾の真間の入江まで、平城宮の監視は及ばない。

「一体どうしたの。ぼろぼろの衣はどこへいったの」

「姉貴の働きのお蔭で、良民として解放されたんだよ。家も別の場所に移って、僕は国の厨長になった。まぁ、豪族の娘で采女の君には遠く及ばないけどね」

「ううん、そんなことないわ」

 若与理は龍麻呂の両手を握り、しっかりと相手の瞳を見つめて答えた。龍麻呂がどんな身分であっても関係なかった。それでも、こうして同じ良民として生きていけることに、救われる思いがした。

「すぐに平城京へ戻るんだろう?」

「ええ。国守様から返事をもらったら」

「返事?」

「私が下総国に来たのは、右大臣の書簡を国守様に渡すためだったの」

 龍麻呂はああ、なるほどと納得した。若与理に何か問題があったわけではなくて安心した。

 そして、ずっと心に秘めて言いたかったことを若与理に告げる。

「若与理、任期を終えて戻ったら、僕の妻になってほしい。もちろん、大領が、というより大刀自が許してくれるとは思ってないし、それで君を苦しめてしまうかもしれない……。それとも、平城京でいい人を見つけてしまった?」

「そんなわけないじゃない。妻にと言ってくれるのを、待っていたの。両親のことを考えるのは今は止めましょう」

 若与理は微笑んだ。そして、少し背伸びをして龍麻呂に短く口づけをする。美貌の葛飾采女は積極的だ。

 二人は夜明けまで語り合った。龍麻呂は国守の善政で国内が少しずつ豊かさを取り戻したこと、自分の家族だけが良民になったが変わらずに綾苅たちと付き合っていること、姉が女医生として活躍していることを、若与理は最初のうちは采女の仕事も環境も慣れず、望郷の念が強かったこと、世話好きの先輩がいて助かったこと、主上は仙女のように美しく、また、猫が大好きであることなどを話した。

「采女の任期が伸びることはないの?」

 楽しそうに宮中での仕事の話をする恋人に、龍麻呂は一抹の不安を覚えた。将来の約束をしても、また都に戻った若与理が引き留められる可能性がないわけではないし、本人が今後も主上に仕えることを希望するかもしれない。

「それは……私にもわからない。三年で帰郷できるのが通例だけど。でも、私は葛飾に戻るわ。生まれ育った故郷が好きだもの。両親や兄さんもいるしね」

「そうだね」

 若与理はおそらく大領家と佐伯氏の陰謀を知らない。今ここで、それを告げる必要もない。何も知らずに都に戻って堂々と采女の任期を全うしてほしかった。

 もし、と龍麻呂は続けた。

「これから苦しいことがあったとしても、僕がいることを忘れないで。僕だけは信じてくれよ。どんな未来でも二人なら作っていける。いいね?」

 突然何を大袈裟なことを言い出すのかしら、と若与理は思ったが、素直に頷いた。龍麻呂がそう言うのなら信じるほかないのだ。

 それから二日後、若与理は国守からの返信を携えて再び船に乗り、西の難波津を目指した。


 逃した魚は大きかった、と徳麻呂は床の中で瞳を閉じながら一人の娘を想い浮かべた。その名は孔王部木葉という。

 それほど美貌ではないし、威勢が良すぎてじゃじゃ馬の名高い娘だが、どういうわけか忘れられない眼差しをしている。

 あと少しのところで手に入れられたはずなのに、神の仕業によって木葉は婚儀の場から消えてしまい、神隠しに遭ってしまった。

(あの時、母上に憚って木葉との婚儀を破棄したものの、一度手元に置いておいた女を諦めるなんて、男が廃る。それに、あれは神隠しなんかじゃないぞ。きっと国守が真間山の修行者か何かの術を使って、俺たちを騙したに違いない)

 よもや国守の仲間に、従弟の勝が入っていることには気付いていなかったが、徳麻呂は婚儀の場に出てきた伎楽者や遊行女婦が怪しいと疑い続けていた。とすると、彼らを統括しているのは国守しかいない。

 そして国守や木葉の兄弟らには、木葉を取り戻したいという動機もある。徳麻呂は、術には術で対抗することに決めた。

 ここまで意地になっているのも、木葉を手に入れたいという純粋な気持ちと、国守によって大領家が被害を与えられたという背景がある。榎井知麻呂が捕縛され、国府の機微な情報や秘密裏の収入が途絶えてしまい、大刀自が酒の販売で不正を行っていたことが指摘され、販売が一切中止された。

 その他にも、大刀自が布の産地を偽って国府に納入していたり、民に高い利息で稲を貸し付ける私出挙で暴利を貪っていたことが知られるようになり、大領家の財政は悪化するばかりだ。こうなったのも、高向大足のせいなのだ。

 大私部家としては、こうした活動は私腹を肥やす目的がないとは言えないが、佐伯百足と紀皇太后の謀反の資金収集という正当な手段として認識されるべきものだった。正しい道を妨害しているのは、国守の方ではないか。

(待ってろよ、木葉。どんな手段を使ってでも、お前を妾にしてやる)

 協力を仰げる者を思い浮かべ、徳麻呂は暗闇の中でほくそ笑んだ。国守と生意気な女医生への復讐の始まりだ。

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