ツロの紫

荒川 空

ツロの紫



 そこは白い病室であった。


 窓からは引かれた白いカーテン越しに、陽光が柔らかく射し込んでいる。


 僅かに開いたその窓からは、春から夏へ変わる前のまだ涼やかな風が時折渡ってきてはカーテンを静かに躍らせ、風の通り抜けた隙間が眩しい外光を絵の具にしたいたずら書きを、白い壁に書いては消してと繰り返している。


 ふんだんに光の入るこの白い部屋にベッドは一つのみであった、だからといって金持ち用の個室という訳ではない、ここは重篤な状態の患者を抱える頻度が高い病院は大抵が準備している部屋……そう、もう明日をも知れぬ手の施せない患者専用の終の部屋であった。


 その死を待つだけのベッドにオレは寝かされていた、両脇には心電図の機械や吊り下がっている点滴の瓶やパックなどが、そちらへ少し目を動かせばすぐ視界内に入ってくる、下方はなんとか頑張ればベッドサイドに引っ掛けられている畜尿パックと、股間から伸びてパックにつながるカテーテルの管も見えるはずだ。


 オレの眺めることのできる世界の果て、つまりこの部屋の奥隅には活ける花の無い一輪挿しが、小さなベッドサイドキャビネットに寂しく乗せられている、眼球のみを動かして見ることのできるこれが今のオレの世界である……この部屋に移されてから三日程経つが、この視界の光景に飽きるのは半日もあれば十分であった。


 だが、つい先程から状況は激変している、気が付いたとき声が出るなら驚きの叫びが出ていただろう、最初は自分の目を疑いもしたし眼球と同じくそこだけが自由に動かせるまぶたを何度も閉じては開きして確認もした、しかしそれで幻のように消えることもなく、今、見飽きた病院の備品など映そうともしないオレの目は、いつの間にか音も無く窓の前に立っている黒衣の紳士に釘付けになっていた。


 いつからそこに居たのか、いや、どこから入って来たのかすらも知れない、ただ人懐こい笑顔でこちらを静かに見ているだけである、どこから来た何者なのかすら想像もつかぬその人物を漠然とながら紳士だと断定したのは、まずその服装のせいであった。


 品の良い黒のフロックコートにベストとズボンも黒であり、対照的に眩しい純白の高襟シャツがベストの下に見えている、首のアスコットタイは明るいグレー系の色であり、タイと同じ色のポケットチーフが胸に、そしてベストの内側へ通されている銀の鎖がチラリと見えて輝いていた、鎖は懐中時計からつながるアルバートチェーンであろう。


 そして極めつけはその頭のシルクハットであった、映画やミュージカルならまだしも普段着的な用途でかぶってるヤツをオレは初めて見たのである、どこからどう見てもその姿は洒落たイギリス紳士であった。


――死神かな。


 オレが漠然とそう考えた途端に、穏やかな笑みを浮かべた紳士は右手から白い手袋を抜き取ると、慣れた手つきでひょいとシルクハットをつまみ優雅に一礼を送ってきた。


「招かれもせぬ身での無作法どうぞお許しくださいませ、名乗るべき名を持ち過ぎており自ら名乗ること叶いません、どうぞあなた様のお好きにお呼びいただけますれば」


 それは錆を含んだなんとも重厚な声であった、何の説明もなくイギリス紳士と思ってしまったほどの外人顔であるが、さほどの高齢とは思わなかったのでこの声には素直に驚いた、それと共にこの紳士の実年齢はその声の方にこそあるだろうと直感する、いよいよ普通の人間には思えなくなってきたフシがあった。


「実は私、ゆえあってあなた様の本名もお呼びすること叶いません……ですので、時に至りますまであなた様と呼ばせていただくことお許しくださいますよう、いえ、まあ……本名をお呼びしてしまうと少々面倒なことになってしまいますのでね、ハッハッハ……どうぞご容赦を願いたく」


 そう思わせぶりに言うと紳士は悪戯っぽい表情でウィンクをして、ニッと唇の片側だけを持ち上げた少し皮肉っぽい笑顔になった、言葉の意味はさっぱり解らぬが実に人間らしい魅力的な笑顔である。


「それにしましても、まあなんとも……ずいぶんと苦労なさったようですなあ」


 紳士は窓際よりゆっくりと三歩ほど進みながらオレの様子を眺めつつ言う、揶揄するような口調ではない、多分に同情を含んだ聴いていて心地良いと思わせるほどの慰労の言葉であった。


「幼き頃にご両親が事故にてお亡くなりに……兄弟はおらず、親類縁者も頼れそうな者は誰一人としておらず、援助と補助を受けつつ高校課程を優秀な成績で修了後、経済的な理由で大学進学は諦めて出版社へ就職、しかし僅か数年で書籍電子化の波による事業規模縮小のため人員整理でリストラと……」


 眉をひそめた悲しそうな顔がオレを見つめながら、それでも言葉は続いていく。


「ですがやはり生きねばと色々頑張ったようですねえ、中途採用の面接をいくつも受けながらアルバイトにパート……ですがリストラ枠に入ってしまったというのが痛かった、職歴を辿られて調べられたら簡単にバレてしまいますものねえ……おかげで正規雇用の面接は全滅、それではとパートを掛け持ちして寝る間も惜しみながら働きづめ、しかし今度はある日突然……」


 紳士は深い憐みのこもった目をこちらへ向けていた、イージアンブルーの瞳に全てを見透かされているような、漠然とした不安がよぎりながらも動けぬオレには成すすべもない。


「一年ほど前でしたね、倒れたあなた様が運び込まれたこの病院で、現在治療法の確立しておらぬ難病だという診断結果を告知されたのは……」


 そうである、運動ニューロン病の一種と診断されたオレの病気は難病として指定されており、対症療法すらろくに無いどうにもならぬものであるらしい、そのまま入院したオレの体は診断の通り日に日に動きが鈍くなり、半年も経過したころには歩くことすら出来なくなっていた。


 今より二週間ほど前から声すら出せなくなり、現在に至っては眼球とまぶた以外はピクリとも動かない、人工心肺による延命措置を断っていたオレは自発呼吸ができなくなれば終わりという、ゆっくりとした……しかしその影を色濃く見せながら、確実に近付いてくる死と向き合い続けているという悲惨な状態であった。


 なまじ頭だけははっきりとしてるものだから、動けぬことへの気が狂いそうな恐怖が当然襲いかかってくる、そしてその恐怖から目を逸らせるための、死を肉体からの解放だと勝手に美化した逃避が後に続いてやってくる、大雑把に分けてその二つが色の違う波のように交互に打ち寄せてくる日々を送っていたのである。


 よくまあ今まで発狂しなかったものであると、振り返ると我ながら感心するほどであった――いや……まてよ、目の前の突然現れたイギリス紳士……これってもしかして発狂したオレの妄想の産物なんじゃ……


「ご安心を、今のところ私めはきちんとした存在として此処に立っております、あなた様の脳内で造られたものではございませんな、おっとこれは失礼」


 思考に返答されたオレが、そこだけがまだ自由な眼球とまぶたの動きで驚きを表現すると、紳士はすぐに察したようで途端に笑みを浮かべながら詫びつつ一礼する。


「いやいや、本当に失礼いたしました、お察しの通り思考を読ませていただいております、ああっ、いえいえ、だからといって先程考えられていた死神とは違いますし、今思ってらっしゃるサトリなどという日本古来のクリーチャーでもございません」


 掌をひらひらと振りながら慌てているが楽しそうでもある、雰囲気的にオレの思考に触れているのが愉快だというように見えてならなかった。

 

「ですがまあそうですね……私だけが言語を発するというのも味気ないものですし……ここは一つこのくらいはサービスさせていただきましょうか」


 そういうと紳士は右手を前に差し出し、笑顔でオレの顔めがけて指をパキンッ! と打ち鳴らした、見事なスナップフィンガーである、訳の分からない言動に戸惑いを感じはするが、全く動けない身でもあるオレはそれを不思議そうに見ているしかない。


「さあ、それでは私の名を決めていただき、その口よりお呼びくださいますよう、これより先、お許し無い限り思考を読むなどという無粋な真似はいたしませぬので、どうかご安心くださいませ」


 胸に手を当てて軽く礼をしながら言う言葉にオレは唖然としていた……今、紳士が言っていたことというのはつまり……


「あ……」


 自分の目が限界まで開かれているのが分かる、そう、あまりの驚愕に失神しそうである……声が出た……


「こ……声が……」


 紛れもない自分の声である、しゃがれてか細くはあるが失ってもう戻るはずの無かったオレの声であった。


 こうなるとなんと人間の心の脆いことであろう、今まで死を美化して最後を迎えようと覚悟していた心が一瞬にして消し飛ばされてしまった、奇跡を目の当たりにして生への可能性が提示された瞬間、全てを擲ってでもその可能性に縋ることしか考えられなくなってしまっていた。


 しかしそのとき、紳士が自分の口の前に右手の人差し指を一本立てているのに気が付いた、それを見た瞬間ハッとする、そうであった、先程紳士はオレに彼の名を決めて呼べと……そう言っていたのである、なぜかは知らぬがただ感覚で……オレにはそれが何か重要な契約のようにすら思えたのだ……


 打算的な考え方をするのであれば、オレが声を出せるようになったのはおそらくこの紳士の力なのであろう、彼の言うことに背かない方がいいと考えるのは当然の流れであった。


 じっと紳士を見つめ、観察し、慎重に口を開いてゆっくりと伝える。


「メフィスト」


 それを聞いた紳士は指を口元から下ろして満足そうに微笑んだ、想定内の名前であったのだろうか驚く様子はない、まあ、ありきたりな呼称なのはオレも承知の上であった。


「なるほど、悪魔と断じていただきましたか、理由をお聞きしてもよろしいでしょうかな?」


 気分を害した様子ではないのにホッとしながら、思考を読める相手に隠し事などしても無意味だろうと、全てを明け透けに話す覚悟で言う。


「神や天使は、洒落が通じるイメージではないんでね……」


 オレが言うなり、ほっ? と一瞬キョトントした表情になったメフィストであるが、すぐに、クッ……クククッ……ハッハッハッと本当に愉快そうに笑いだした、どうやらオレの言葉が少々意外で面白かった様子である。


「いや、これは参りました、まさにおっしゃる通りです、まさかこのような所で宇宙の真理に匹敵するようなお言葉に巡り逢えますとは……ククッ、さすがは候補者さまでありますな」


「候補……者?」


「左様でございます、ありていに申し上げますと、あなた様は今、とある役目を担う者の候補者として選ばれたのでございます、おやっ? なんだか今すごくイヤそうな目をなさいましたね……? 虫の息というヤツでございますか?」


「それを言うなら虫の知らせだろ……まあ、オレの状態的には虫の息で間違っちゃいないけどな……メフィスト、オレの運の悪さは今お前が語ってくれたじゃないか、何かが当たったり選ばれたりってのはオレの場合、それは厄災としか思うことができないんだが……」


 あ―なるほど……と思っているのが手に取るように判る同情顔になったメフィストは、それでも次の瞬間には微笑んで軽く首を振りながら言を継ぐ。


「なるほどなるほど、確かにご当人が望まれぬことであれば、例えば周囲がいかに羨むこととてそれは不運として映ることでありましょうなあ……ですがどうかご安心を、今あなた様に提示されておりますのは『全てにおいての自由』もしくは『全てからの拘束』という素敵な選択肢にございます……ああっ! またそんなイヤそうな目をっ」


「そりゃ、イヤそうな目にもなるだろう……それって要するに生きるか死ぬか、成功か破滅かの賭けってことじゃないのか……?」


 オレのその言葉に、しかしメフィストの微笑みは少し深い笑みに変わる、自然な感じで目を伏せたその表情はどことなく暗い部分を潜めているようであった、そしてそのまま彼は告げる。


「それこそが、今あなた様が望まれていることではございませんか?」


 オレはぶん殴られたと思えるほどの衝撃と共に気付く、そうであった、ただただ迫り来る死を見つめながら、恐怖と逃避の繰り返しが残された時間を徐々に削り取っていく……その拷問に等しい決定事項しか与えられていなかったオレにとって、メフィストの提示してくれた選択肢は何をもってしても縋らねばならぬほどの希望への可能性であった……


「そうだ、そうだなメフィスト……その通りだ……お前の言った『全てにおいての自由』なんてものが本当に手に入るのなら……それが生でも死でも構わない……オレは自由になりたいっ!」


 オレのそのか細い叫びを聞いたメフィストは、スッと姿勢を正してシルクハットをつまみ深々と一礼をする、再び姿勢を正したその顔を見たときオレは少しドキッとした、恐らくは超常の存在なのであろう彼の目に、とても深い慈愛の光が見えた気がしたのだ……


 そんなオレの驚きを知ってか知らずか、すぐにトレードマークともいうべき皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた彼は、懐に左手を差し込むとチャラッと音をたてる銀の鎖がつながった懐中時計を取り出した。


――カチカチ……カチリッ


 白い手袋をはめた掌の上で、かなりの年代物であろうくすんだ銀色の懐中時計が歯車の止まったような音を短く奏でた、その途端である……


「あっ……光が……?」


 窓から射し込み、風に揺れるカーテンの動きと相まってさざ波のように部屋を巡っていた光がピタリとその動きを止める、カーテンもその揺らめきを恥じ入ったように静まり返り、僅かに開いているはずの窓からは風どころか外から聞こえてきていた遠くの喧騒や車の走る音なども、まるで隔絶されたように一切届いて来なくなっていた。


 今この瞬間にカーテン越しに射す光は、それまでの生命に満ちた陽光ではなく、まるで同等の明度の発光パネルを据えられたような光に取って代わられ、この部屋を無機質なしかし神秘的で静寂な空間に変えて照らし出している。


「少々隔離させていただきました、これよりは邪魔の入ってはならぬ場所で厳かに行われねばならぬことでございます」


 そう言うとメフィストはイージアンブルーの瞳を静かにオレへ向け、まるで古い物語を語り聞かせるように話し出す。


「あなた様はアナテマ……つまり聖絶を受けました……あなた様の聖絶とは神より呪われ楽園を追放されたということ……全ての光があなた様を避け、その身と魂には獣の数字が焼印され、生涯を苦難にまみれて非業の死を遂げる運命にあるということです……」


 オレは呆気にとられていた、意味が解らないという訳ではない、むしろなるほどと思わされる部分も無いではない、しかしそれにしても神とは突拍子もない話である、言葉も無いオレへメフィストの話は続く。


「あなた様はギフテッドです、それはご自覚があることかと思います、観察力に優れそれに伴う分析力を持ち、そして分析した結果を展開してさらにそこから先を予測していく応用計算力、その結果のデータを利用してさらに分析の精度を向上させていく思考の積層化……ごく平均的な人間では理解すら出来ますまい……」


「他の者に対する時は、顔の表情つまり表情筋や眼球等の随意筋はもとより、緊張などの心理的圧迫からくる不随意筋の微細な反応までを察知して、その挙動から相対する者の言葉の真贋やあなた様への感情、果ては心理状態や隠蔽している本心までをも感覚的に見抜く、そのようなことが出来る能力をお持ちです……それは皮肉にもまるで先程、私に対して思ってらしたサトリに酷似しておりますね……」


 ここまでを一気に述べると軽く溜息をつき、それから少し憐みが浮く眼差しに変わったメフィストは更に続ける。


「本来ならば……せめて生きていくために急いで就職をせずともよく、進学出来得る環境でありましたのなら……数学者や精神医療の専門家などあなた様に適した道などいくつもありましたでしょうに……いや、しかしこれはご当人であるあなた様ならとうに考え尽くされていることでしょうね、失礼な物言いどうぞご容赦を……」


 軽く頭を下げて非礼を詫びるメフィストへ、オレはこの上なく最悪な気分で尋ねた。


「メフィスト……今のお前の言い分だと、まるで……まるでそのギフトは、オレ自身を苦しめるために意図して与えられたもののように聞こえるんだが……」


 糞のような気分であった、生まれてこの方何度考えたか知れない……なぜこんな枷のような能力がオレにあるのか……なんの役にも立たない、それどころか対人関係を悪化させる要因として業のように付きまとう忌むべき能力だと感じていた。


 というのもオレが他人の心理までを把握できるのと同様に、相手にも動物的な勘というものがある、オレが相手を見透かすような目で見ると、途端に腹の黒い連中は防衛本能がそうさせるのであろう、意味も無いまま攻撃的になってオレに向かってくるのであった、逆恨みにも等しいその現象にオレは子供のころから苦しめられ続けてきたのである。


「現状においては否定できません……ですがお聞きください……この先においてはその限りではありません、ならばこそ私は今あなた様の眼前に立っております……」


 真摯な言葉にオレはハッとなる、そうであった、メフィストに当たり散らしてもどうにもならぬのである、むしろ彼はオレにチャンスを与えてくれているのである、思い直しながら落ち着こうと努め、そんなオレを見ながら彼は続ける。


「付きまとう不運とそのギフトにあなた様は苦しみました……どれほど前向きに頑張っても苦しみと悲しみしか与えてくれないこの世界に何の意味があるのか、そしてこんな世界に自分はなぜ存在しているのか……この病院で病気の告知を受けた日、あなた様はとうとう天を呪い世界を呪いました……」


「しかしあなた様は同時に心の……いえ、魂の奥深くでこうも望んでおられました、自分の存在する理由が知りたい……と、私が今この場におりますのは、あなた様のその呪いと願いがあるが故……ならば私は示させていただきます、あなた様の求める全てを得る道を……どうぞ『神の錠』をお解きくださいますよう、そして『ツロの紫』をその手にお納めください……」


「神の……錠……ツロの紫……?」


「はい、『ツロの紫』とはツロ王の衣のことでございます、深く鮮烈なる紫のその衣は、遥か太古の都ツロの王であったさるお方がその身に纏われておりました……そしてその衣にはそのお方の意思が……」


 そう言うメフィストの表情からは皮肉な笑みは消えており、とてつもなく遠くの懐かしく哀しい想い出を眺めているような目をしていた。


「さて、それも『神の錠』を解くことができればの話であります、よって説明させていただきましょう」


 使命を思い出したかのようにクルッと表情が変わり、彼にとっても緊張することなのであろうか、少し硬くなった様子で慎重に喋り出す、それはまるで定められたルールから逸脱せぬように細心の注意を払っているように見えた。


「聖絶を受けた者は皆、『獣の数字』をその身と魂に焼印されます、それは実際の焼印とは違い目に見えるものではございません、しかしてその焼き付けられた『獣の数字』こそが『神の錠』なのでございます」


「そ、その『獣の数字』って……」


 言いかけたオレをメフィストの挙げた手が遮った。


「まずは全てお聞きください、これより私がお伝えできることの範囲は非常に狭くなっておりますれば……」


 先程の緊張感はそういうことだったのか……と納得しつつもオレは言葉を失う、ここからはメフィストの言葉を一言も漏らさずに理解しなければと、こちらも緊張感に包まれてきたのだ、そこへ彼の説明が再開する。


「ここから私がお答えできますのは三種類の事柄に分けられます、まずは一つ目『神の錠』に関係の無い雑談……これには自由にお答えすることができます」


「二つ目が『神の錠』に関するルールの説明を求める質問……これは回数の制限もございません、しかして『神の錠』の解となる数字が含まれる質問、もしくは解となる数字を特定出来得る質問ではない限り自由にお答えすることができます、もしお答えできない内容なのであれば沈黙のみのご返答となります」


「そして三つ目、『神の錠』の解となる数字を含めた全ての事柄に関する質問は『質問する』との宣言をいただいた後に問われた事柄へ『YES』もしくは『NO』で必ず返答させていただきます、ただし、質問の回数は三度までとなっておりますのでお気を付けくださいますよう」


 そして短く息をついたメフィストは、今まで以上に真剣な表情で告げた。


「これより申し上げます『導きの言葉』の後、開錠への挑戦は開始となります、刻限はもちろん……あなた様の命の終わりまででございます……」


 聞いた瞬間血の気が引く思いだった、メフィストは今、期限ではなく刻限と言った、オレの残る余命が日単位ではなく時間単位であり、それはすぐそこに迫っているかのような表現に感じたのだ、そしてそれは恐らくその通りであるだろうと直感が囁いている、オレは改めて気を引き締め、メフィストの告げる『導きの言葉』に全神経を集中させる。


「――それはあるいはベテルギウスとリゲルに見つめられる調和の数、あるいはそれは調和を乱す忌むべき裏切りの烙印、それのいる海の広さは獣の数字で満ち、そこでは確率を告げる者がそれを表すために並ぶであろう……」


「以上でございます、後はあなた様よりのご質問で進行いたします、ご幸運を……」


 なんてことだ……かなり難解である、さっぱり分からない……だがまずは要点だな、メフィストの言葉から最終目的は『神の錠』の鍵となる数字を探し出すということだろう……


「なあメフィスト、もし解答を一度でも間違えた場合どうなるんだ?」


 雑談の部類になるのか、答えることの可能なルール説明になるのか、あっさりと答えが返ってくる。


「ただ解錠が永遠に不可能になるというだけです、その場で何かが起きるということはございません……しかしそれは魂が永劫に呪われ続けるということを示します……それがどういうことなのか、あなた様ならご想像可能であられるかと……」


 背筋にとんでもない寒気が走る、死が目前に迫っていることすら生易しく感じる根源的な恐怖感であった、肉体は朽ちようとも魂は永劫に呪われ続ける……聖絶とはそれほどまでに凄まじいものなのか……一体オレはなぜそんな聖絶を受けることに……


 ハッとした、メフィストが無言でその青い目をオレに向けている、そうであった、時間切れの場合とてオレは聖絶から逃れられないのである、恐れている場合ではない、魂の自由を賭けた戦いに集中力を極限まで高めていく必要があった。


「じゃあ始めよう……先に要点を抜き出すとまず、最終的に求めるのは『神の錠』を解く『鍵の数字』だ、そしてその数字を導き出すヒントが『導きの言葉』であるのだろう……まずその『導きの言葉』を理解するところからだろうな……」


「『それはあるいはベテルギウスとリゲルに見つめられる調和の数』……『それ』というのは『鍵の数字』そのものを指しているんだろうけど、抽象的な表現でまだピンとこないな……」


「『あるいはそれは調和を乱す忌むべき裏切りの烙印』……これも『それ』と言っている……『鍵の数字』を指しているとしか思えない表現だが……同じ数字を二通りの表現で表しているのか……?」


「『それのいる海の広さは獣の数字で満ち』……『それ』というのが一貫して『鍵の数字』を指しているのなら、『海の広さ』というのは『鍵の数字』を含む数全体の範囲といったところか……」


「メフィスト『獣の数字』というのは世間一般で認識されてる『666』と考えていいのか?」


「はい、その通りでございます、『666』とお考えください」


「ならば『それのいる海の広さ』つまり数全体の範囲は『獣の数字で満ち』と言っているんだから……『666』が最大値だと仮定できそうだな『獣の数字』こそが『神の錠』だと言っていたメフィストの言葉にも合致する、ということは『0』もしくは『1』から『666』までの範囲と考えていいのだろうか……」


「そして最後に『そこでは確率を告げる者がそれを表すために並ぶ』……要約すると『確率を告げる者』が『鍵の数字』を表すために並ぶ……この『確率を告げる者』とは一体……だがそいつが並んで『鍵の数字』を表すのであれば……逆に考えるとそいつが並ばないと『鍵の数字』は表せないということなのか……」


「だとすると『確率を告げる者』もまた数字ということになる……その数字が並ばなければ『鍵の数字』は表せないということになるのであれば……」


 オレのハッと何かに気付き開かれた目を見てメフィストが僅かに身を乗りだす、オレの視線は宙の一点を凝視していた、まるでその何もない空間に求める解へのヒントが浮かび上がってくるようにである。


「メフィスト……これはルールの説明を求める質問として認められるかは判らんが……聞いてくれ……」


 やがて茫としながらそういうオレに、メフィストは緊張した様子で頷き応える。


「はい……お伺いいたします」


「まず範囲の話から始めよう『鍵の数字』を含む範囲の最大値は『666』だ、しかし最小値はいくつなのか、当然のごとく先入観で『0』か『1』だろうと思い込みそうになったんだが……実はそうじゃなかった……」


「『そこでは確率を告げる者がそれを表すために並ぶ』……これが『鍵の数字』の表記法とその性質、そして最小値を設定する重要な文言だとオレは考える」


「まず前提として『確率を告げる者』とは数字であり、それが並んで『鍵の数字』を表記するというのであれば……最大値が『666』という三桁の数で表されている『鍵の数字』は『確率を告げる者』という数が三つ並んで三桁表記される数だということになる」


「次に最小値はどう導き出すか……最大値があり『鍵の数字』を表記する以上『確率を告げる者』は定数ではない、決まった範囲を持つ変数だ、その独立した変数がそれぞれの桁を担って三桁を構成する。


 その三桁の最大値が『666』であるならば三つの変数の最大値はそれぞれ『6』ということになる、『確率を告げる者』と呼ばれ得る最大値が『6』というものをオレは一つしか知らない、それは……」


「――立方体ダイス、サイコロだ」


 オレをじっと見つめるメフィストは真剣な表情で聞き入っている、しかしその口元が少し緩んでいるように見てとれた、その僅かな笑みに勇気づけられてオレは言葉を継いでいく。


「だとするとサイコロの目は『1』から『6』だ、そしてそこから表記できる三桁の『最小値』は『111』になる、さらに重要なのがこの方法で表される数は『1』から『6』までの数のみで表記される三桁の『6進数』だということだ、メフィスト」


「はい……」


「オレが解答するときは、その『6進法』で答えればよいということなのか?」


「まさしくその通りでございます」


 隠せぬ歓喜の感情がメフィストの口の端に表れている、ここへきてなぜこの謎の紳士がこんなにもオレに親身になってくれるのか、若干の疑問が湧いてもくるが今はまず集中せねばと思い直す、なんせようやく『鍵の数字』解明の入口に立っただけなのであった。


「『111』から『666』までの……いわゆるダイヤル錠だなこれは……六の三乗で二百十六通りの範囲になっている、その中からたった一つの『鍵の数字』を探し当てるのか……ん? 待てよ……」


 思考を再開したオレは嫌な推測に突き当たりハタと止まってしまう、気が付いてしまったのであった、二百十六通りの範囲の中から一つの数を探し当てる……範囲を狭めたり数字そのものを特定できる確実な要素があれば不可能ではないであろう……だが導きの言葉に表されていた二つの内容……


 『それはあるいはベテルギウスとリゲルに見つめられる調和の数』と『あるいはそれは調和を乱す忌むべき裏切りの烙印』である……


 『ベテルギウスとリゲル』というのはオリオン座の星だというのは周知であろう、ベテルギウスがオリオンの右肩、リゲルが左膝の位置にあると記憶している。


 その二つの星に『見つめられる調和の数』というのは、おそらくオリオンのベルトに位置する三つの星ではないかと思われた、単純に言い換えればベテルギウスとリゲルに見つめられる『3』であるのだが……


 それからもう一つの『あるいはそれは調和を乱す忌むべき裏切りの烙印』は調和を乱す数、忌み数、裏切りを象徴するような数、の三つの条件に当てはまる数ということであろう。


 キリスト教における忌み数は誰でも知っている代表的なものが一つあるが、数秘術なども含めて考えるとその数は膨大なものになってしまうのだ……


 しかもやっかいなことにこの二文で示される数は『鍵の数字』を異なる表記法で表していると推測されるのだ、それぞれの文頭の『それはあるいは』と『あるいはそれは』が如実に物語っている『6進数』の表記がすでに提示されているので、もう一つは『10進法』での表記ではないかとオレは予想する。


 ぶっちゃけコレじゃないかな……という数の予想は立つ、が、しかし漠然とし過ぎているのだ、こじつけを含めるとどんな解釈でもできてしまうのが数の暗号というものである、不確定な部分を含んだまま最終判断をしてしまうとそれこそギャンブルになってしまう、負けのペナルティが永劫の聖絶などという恐ろしい賭けなぞ絶対にご免であった……


 なので確実な方法を採っていきたいのは山々であるのだが……先程メフィストが言っていたルールでは『鍵の数字』を解くための『YES』もしくは『NO』で答えてくれる質問は三度までだという話であった……冗談ではない、二百十六通りの範囲を確実に一つの解に絞り込むには八度の質問回数が必要であるはずだ。


 考察してみよう、まず216の中間点を取り、そこより大もしくは小の範囲かどうかを確認しつつ半分ずつに範囲を絞っていく、そうなると。


 一回目216の範囲が半分の108になる。


 二回目108の範囲が54になり、三回目54が27へ、四回目27が14か13へ、五回目14か13が7か6へ、六回目7か6が4か3へ、七回目4か3が2か1へ、運がよければここで特定になるが、絶対確実なラインはやはり八回目であった。


 返答方法が『YES』もしくは『NO』であるのなら、このやり方が最も効率が良いはずである、やはりどう考えても八度の質問が必要であった、それが三度だけと限られているのであれば後はギャンブルしか残されていないのだが……まだ何か見落としている部分があるのだろうか……


 病室に沈黙の時が流れていく、空気にオレの逡巡が混ざり込んでいくのがはっきりと分かるようだ……メフィストも彫像のように身動きもせず黙っているが、焦りの雰囲気もなんとなく漂い始めていた、『鍵の数字』の解明のみならず、オレはタイムアップとも闘わなければならない、いつ自発呼吸が止まってしまうか分からぬのである……


 時間が気になったり思考が堂々巡りのループ状になっている、良くない傾向であった、なんとか打開の糸口にでもなればとオレはメフィストに話しかけることにした。


「なあメフィスト、ルールの確認ってやつなんだが……」


「はい、なんなりと」


 メフィストもその辺は承知しているのであろう、あまり強い緊張感は感じられないが何かを期待しているような目力は伝わってくる。


「『導きの言葉』の中には『鍵の数字』を指していると思われる文が二通りあるだろ? オレは表記法が違うだけで同じ数字を指してると考えているんだが……」


 ここで見たメフィストの表情からは何も窺うことができなかった、漠然とした違和感を覚えながらオレは言葉を続けていく。


「まず大前提として『鍵の数字』って、限定された表記法の中で……例えば『6進法』表記だとしたらその中で、唯一のものであり複数は存在しないだろう? というのを確認したいんだが、いいだろうか?」


 オレの問いかけが終わると、メフィストは軽く口を開けて息を吸い込んだ。


「…………」


 そしてそのまま口は閉じられ返事は無かったのである……そういえば答えられない内容には沈黙で返すと言っていた、何か制限に引っ掛かる言葉を言ってしまったのであろうか……詳しく思い返してみた。


 「『神の錠』の解となる数字が含まれる質問、もしくは解となる数字を特定出来得る質問ではない限り自由にお答えすることができます」とのことだったはずだが……


 今のオレの質問が『解となる数字を特定出来得る質問』とみなされるのはおかしい気がする……『鍵の数字』は一つのはずである、分かってて質問したのだ、複数あるのなら沈黙されるのも分かるが、まさかそんなことはあるはずがなかった、しかも質問形式は確認してもよいか? と問うているのである。


 ということは『解となる数字が含まれる質問』の方に抵触したということか……だとするとオレの質問する範囲の中に『鍵の数字』が入っているだけで、たとえその存在を絞り込むのが不可能であったとしても沈黙されてしまうことになる……しかし、これって……ならば、もしかしたら……


 宙の一点を見つめて思考をフル回転させるオレと、そのオレを真剣な眼差しで見つめ続けるメフィスト、沈黙の落ちた白い光の満ちる部屋の中で、やがて気配を殺して逃げようとする時間を捕まえるかのようにオレの静かな声がメフィストを呼んだ。


「メフィスト、ルールの確認だ」


「はい、お聞きいたします」


「まず『111』から『666』までの『6進数』二百十六通りの範囲を、『1』から『216』までの『10進数』に変換した前提で質問する、いいか?」


「かしこまりました」


「『鍵の数字』は『109』以上の範囲に入っているかどうかを、メフィストは知っているか?」


 オレがこう聞いた瞬間のメフィストの嬉しそうな表情よ、それはあたかも恋い焦がれていた何かに到達を約束されたかのような歓喜に見えた、そして苦労しながら興奮を鎮めつつ、どうしても笑みになってしまう様である口を開き答える。


「はい、存じております」


 返答にオレの口元もメフィストにつられてニッとなっていた、そして念のため確認すべく次の質問を投げかける。


「『鍵の数字』は『108』以下の範囲に入っているかどうかを、メフィストは知っているか?」


「…………」


 今度は沈黙が返ってきた……そうである『解となる数字が含まれる質問』には問答無用で沈黙の返答になるルールの逆手を取ったのである


 『解となる数字を特定出来得る質問』に抵触せずに、範囲設定はするが特定に繋がるような質問にはならない、その条件で考え出したのが、~をメフィストは知っているか? という問い方である、これならメフィストが知ってたとしてもオレは何も特定できないのであった。


 そして沈黙した範囲には『鍵の数字』が眠っている、ならばそれを目印に範囲を狭めていけばよい。


「『鍵の数字』は『55』以上の範囲に入っているかどうかを、メフィストは知っているか?」


「はい、存じております」


「『鍵の数字』は『28』以上の範囲に入っているかどうかを、メフィストは知っているか?」


「はい、存じております」


「『鍵の数字』は『14』以上の範囲に入っているかどうかを、メフィストは知っているか?」


「はい、存じております」


「『鍵の数字』は『7』以上の範囲に入っているかどうかを、メフィストは知っているか?」


「…………」


「『鍵の数字』は『10』以上の範囲に入っているかどうかを、メフィストは知っているか?」


「…………」


「『鍵の数字』は『12』以上の範囲に入っているかどうかを、メフィストは知っているか?」


「…………」


「『鍵の数字』は『12』以下の範囲に入っているかどうかを、メフィストは知っているか?」


「はい、存じております……」


 『鍵の数字』が確定する返答をした瞬間、メフィストは感無量の表情であった、本気なのかどうかは分からぬが目も若干潤んでいるようであった、オレも心底安堵のため息が出る。


 『鍵の数字』の『10進法』表記での解は【13】であった、これは『調和を乱す忌むべき裏切りの烙印』の方であろう、こちらが『10進法』を示す文だったようである、そしてこの『13』を『6進法』に当てはめれば『鍵の数字』の完成である。


 計算を終えたとき『ベテルギウスとリゲルに見つめられる調和の数』がそこにあった、その数を心に刻んだオレは神妙な表情で感激顔のメフィストを見つめながら、言の葉を紡ぐように問う。


「メフィスト『質問する』」


「はい、仰せのままに」


「オレは悪魔になるのか?」


「いいえ」


「そうか、ならば……メフィスト『質問する』」

 

「はい、仰せのままに」


「オレはアダムになるのか?」


「……はい、あなた様はこれより、アダム=カドモンとして救世の道を歩み始めることとなります」


「そうか、最後に……メフィスト『質問する』」


「はい、なんなりと仰せのままに」


「神は……オレの敵か……?」


 オレがそう問うと、メフィストは最初と同じ悪戯っぽい表情で、ニッと唇の片側だけを持ち上げた少し皮肉っぽい笑顔になった、そしてその笑顔のまま……


「わかりませぬ、ハッハッハ、これではルール違反になってしまいますね、全て……そう、全てがあなた様次第でございます……」


「アダムになるのが決まってるようだが……まだあなた様と呼ぶのか……お前は一体何て名でオレを呼ぶのだろうな……」


 その言葉にメフィストの目からは悪戯っぽさが消え、なんとも優しい光が宿った、オレの口元もつられて笑みになる。


「告げる……『神の錠』を解く【鍵の数字】だ」


「ははっ!」


 ベッドサイドに膝を折り、かしずくメフィストへ口を開いたその時であった。


「ゼヒッゼィッゼイィッ」


 それはあまりにも突然襲いかかってきた呼吸困難の症状であった、息を吸うことができなくなってしまっていた、ささやかな断末魔のように喉の奥がゴロゴロと鳴り、あっという間の酸欠による耳鳴りが轟々と響き始める中で、オレは口を弱々しく開いては閉じするだけしかできなくなっていた。


 みるみる土気色に変わっていくオレの顔色を呆然と眺めていたメフィストは、ハッ! と我に返るとオレの耳元へ鋭く叫んだ。


「数字ですっ‼ 早く錠を解くのです‼ 早く数字をっ‼」


 薄れゆく意識の中で聞こえたその声に必死でしがみつくように、充血して真っ赤になった目を剥きながらオレは言葉を絞り出そうとする。


「1……3………………」


 しかしもう肺の中に空気が無い……声が……出ない……真っ黒く染まっていく視界に、これまでか……という絶望が覆いかぶさってくるように意識を沈めようとする、命の細い最後の糸が切れて暗黒の底へ真っ逆さまに落ちていこうとした次の瞬間である。


 切り替わった視界はこの病室であった……白い部屋である……しかし傍らにメフィストは居らず、オレは苦しむこともなくベッドで静かに寝ている、部屋は白く明るい光に満ちてはいるが、何一つとして動くものが無い……まるで時が止まっているかのようであった。


 ふと目を向けるとメフィストが一番最初に立っていた場所、白いカーテンの前に今度は白い光が立っていた……いや、光のように輝いたその姿……六枚の翼を広げた眩しい姿……


 そして強く優しい声が頭に響く、驚いたことにその姿から届く眩しい光が、オレの体から全ての苦痛を嘘のように消し去っているようである、それは頭ではなく魂が理解していた。


「私の意思を受け継ぐ者よ、あと一言だ、がんばりたまえ」


 その声と癒しの光を受けてオレは力を振り絞り、最後の数字を告げる……


「――1」


 そして再び視界が暗くなり、今度こそ意識はその暗い淵へと吸い込まれていった。


 

 ゆっくりとした浮遊感と共に意識が表層へと昇ってくる、なんだか今まで感じたことのない爽やかな覚醒に、とうとう死んで間違えて天国にでも来たのか? との疑問が湧きながらの目覚めになる……


 気が付くとやはりそこは元の病室であった、とても不思議な気分である、呼吸は穏やかに胸郭を上下させ、体中で枯渇していた力が今は満ち溢れて隅々へと巡っているようである。


 目を下に向け自分の体を見ると、なんとも深く鮮やかな紫色が目に飛び込んできた、トガによく似た衣がオレの身を包んでいる、カテーテルの管や心電図の電極などは気が利いたことに全て取り払われていた。


「その衣は遥かな太古、我が主と定めたお方が身に纏っておられたものです」


 ベッドサイドに立つメフィストが語り始める、オレが意識を取り戻すのを待ちわびていた様子であった。


「そのお方は天上界では他に比類なき光輝と美しさで君臨され、他に比肩なき強大なお力と慈愛で天を統率いたしておりました……我々は皆、崇拝と畏敬をもってそのお姿を目にし、歓喜と賛美をもってそのお声を耳にしました……」


「しかしある時、神は土塊よりご自身の似姿としての男女をお造りになられ……つまりクローニングで分身を造られたということです……全ての天上の者へその似姿への跪拝を強要されたのです、それには実に天の三分の一が異を唱えました……」


「当然でありましょう、コピーは所詮コピーでしかありません、コピー自身が求心力を持ち、皆より認められる過程を経たならともかく、出来上がったばかりの人形に跪けとはあまりにも酷い話ではありませんか……そのお方も神の命に応えず、ついには天より地へと堕され、星の中心ともいうべき重力の最深奥で永劫に封じられることとなったのです……」


「そして造られた男女のうち女、つまりリリスは堕された天の者たちに逃がされ、男へは今度は男自身の情報体を操作した女が造りだされて与えられました……お察しかと思います、古代より文献や伝説等で伝わっております、アダムとエバとして創世記などに記されておりますね」


「楽園追放で語られているように、神の似姿として最初に造られたプロトタイプであるアダムは、知恵の実つまり管理者権限を盗んだために、神よりの呪い……つまり強制的なダウングレードシステムである『神の錠』を、その身と魂の奥深くへ捻じ込まれてエデンより放り出されました」


「メフィスト……じゃあオレは転生したアダムってことなのか?」


「いいえ、人は人である限り全てアダムでありエバであります、ゆらぎによって個体差は生じておりますが、全てのルーツを同じくしておりますれば……ですがその中で『神の錠』にて縛られている数名がオリジナルへ成り得るべき候補者でございます、よって転生ではなく覚醒もしくは進階との表現が最も適しているでありましょう」


「今回あなた様が開錠の候補者として選ばれたのは、より濃く聖絶の影響を受けておられたのと、ギフテッドだったというのもあるのですが、それよりなにより……気に入られたのでございますよ、そのお方に……」


 その言葉に、先程見た光り輝く姿が夢の中の記憶のように脳裏に浮かんだ、メフィストの言う通りあまりにも美しかったその姿……その六枚の翼……


「オレも逢った……あの方の意思がこの紫の衣に込められているのか……」


 微笑み頷くメフィストにオレは確信する、この衣はずっと問うていた、意志を受け入れるか否か……皮肉なものであった、かつて跪拝を拒んだ神のコピーに今度はその意思を託そうというのである……


「オレにもだんだん分かってきたよ……アダム=カドモンになった今、オレは必ずどこかへ歩き出さなきゃならない、どこへ向かうのか……それはオレの自由だ……それがメフィストの言っていた全てからの自由ってやつだったんだな」


「そしてもう一つオレには選択肢が与えられている、このツロの紫をまとい、その込められた意志を受け入れるかどうかの選択だ、なんとなく伝わって来ているよ……意志を受け入れたら結構大変だろうなって……堕天した者達を含めた救世なんて、かなりの無茶振りだもんな……」


「まあでも受け入れざるを得ないだろうなあ、さっきは救ってもらっちゃったわけだし……メフィストにも世話になったしね」


 ギョッとした表情で驚くメフィストに、彼の真似をした皮肉っぽい笑みを口の端に浮かべたオレは、衣に込められた意志が流れ込んでくる感覚に陶酔に似た酩酊感を覚えていた。


 ベッドの上へ上体を起こし、脚は滑るようにベッドサイドへ降りて冷たい床へ足の裏を付けた、痩せ細った身体はしかしふらつくこともなくしっかりと立ち上がり、意志のこもったオレの声が白い病室に凛と渡る。


「行こうか、パイモン」


 イージアンブルーの目を大きく開き、ワナワナと震えてなかなか声の出ないメフィストと呼ばれていたパイモンは、ようやく歓喜に震える声で応えた。


「御意にございます、ルシファー様……」


 そう言いながら病室のドアへ伸ばした手がハタと止まる。


「して、向かわれる先とは何処でありましょうか……?」


「そうだな……行き当たりばったりでいいと思うぞ、オレは決めたんだ、本気になって救うのは好きになれる奴らだけだってね」


 そうオレが言うとみるみる楽しそうな表情になるパイモンが、これも楽しそうに同調してくる。


「それがようございます、なんせ全部救うなんて無理でございますよ、二千年前の救世主はそれでとんでもない苦労をしたようですしねえ」


 そう言ってドアを無造作に開くと、そこには淡い光が白く霧のように立ち込めていた、何処へと続いているのかも分からぬその光の白霧へと踏み出しながら、二人の影は朧に霞んでゆく。


「そうそう、ルシファー様、アダム=カドモンとしてリリスかエバのどちらかを妻として迎えねばなりません、一応お考えになっておいてくださいませ」


「ええっ⁉ そ、そんな突然言われても……」


「両方選ばれてもよいかとは思いますが……大変でしょうなあ……」


「お、お前……他人事だと思ってそんな……」


 はっはっはっ……と遠くなる笑い声を残し、白い病室のドアは静かに閉じていく。

 





Tips:『111』より【13】番目の6進数


1 …… 111

2 …… 112

3 …… 113

4 …… 114

5 …… 115

6 …… 116

7 …… 121

8 …… 122

9 …… 123

10 …… 124

11 …… 125

12 …… 126

13 …… 131 『ベテルギウスとリゲルに見つめられる調和の数』


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ツロの紫 荒川 空 @arakawakara

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