【6刊試し読み】魔人の箱庭 〜囚われの淫花〜
角川ルビー文庫
第1話
激しい雷雨に晒されながら、ロロは険しい岩山を必死に登っていた。
十月の雨は冷たく、昼だというのに真っ暗な空からは絶えず轟音が鳴り響いている。
(どうしよう……、どうしよう、間に合って……)
涙すらも顔面に叩きつけられる雨に流され、ロロは風に飛ばされそうになりながら岩にしがみついた。
赤子の時分に母が亡くなってから男手ひとつで育ててくれた父が、山で大怪我をして教会に運び込まれた。止血してもなかなか血は止まらず、見る間に命の炎が小さくなっていくようだった。
村で唯一の薬師である老齢の神父は「せめて魔人の庭にある幻の薬草が手に入れば……」と難しい顔をした。
「薬草……? どんな薬草ですか。ぼく、行って取ってきます」
「無理だ。魔人ハディールは恐ろしい力を持つ残虐な魔物だぞ。見つかれば殺される。そのうえ魔人の庭への入り口には門番のオークがいて、そこを通る以外では人の地と魔人の庭を隔てる岩山を越えるしかない。普通に行っても危ないのに、この雷雨の中ではとても……」
「でも、そのぶん人間の臭いが消えるでしょう? お父さんを助けるにはそれしかないんでしょう? ぼく、岩登りは得意です」
このままでは父の絶命は時間の問題だ。
魔人の庭に近づく人間は、門番である凶暴なオークが追い払ってしまう。宝物や名声のために魔人の庭に忍びこむ人間は後を絶たないが、ほとんどは城を取り囲む迷宮で挫折して、魔人の住む城までたどり着かないという。
だが迷宮の手前にあるという森までならば?
薬草は森にこそ豊富に生えているらしく、岩山からこっそり忍び入る商人がときどき持ち帰ってくる。大きな町や都で売れば、珍しい薬草なら高値がつく。
嗅覚に優れた門番のオークに気づかれず岩山を越えるなら、雨の日がいい。
屈強な成人男性でも危険と言われる岩山に、同年代と比べても小柄な十三歳のロロが行くのは自殺行為だと神父は難色を示したが、ロロは引き下がらなかった。自分がやらねば誰が父を助けられるのだ。
魔物は火を恐れるので、魔除けと護身のために火打石を懐に入れ、ロロは家を飛び出した。
間に会って……、間に合って……!
目にも口にも雨粒が飛び込み、肌を刺すように吹きつける。何度転んだだろう。腕も脚もすり傷だらけで、かじかむ指先にはもう感覚がない。
それでも諦めなかった。ひたすら父の身が心配で、その気持ちだけを力に足を動かし続けた。
母の形見であるペンダントを、服の上からぎゅっと握る。どうか父を助けて下さいと、天にいる母に祈った。
どこまでいけば魔人の庭に入るのだろう。雨が激しくて周囲がよく見えない。
進んでいるつもりで、同じところをぐるぐる歩いているのではないか……。
そんな不安がよぎったとき、足を乗せた岩ががらっと崩れた。
「わっ……!」
ろくに見えていなかったが、一歩先はすでに岩山の反対斜面だったのだ。
ロロの小さな体は、雨で滑る岩肌をこすりながら転がり落ちていく。
「つっ、い……っ!」
熱い!
全身が痛いというより熱くて、なにがなんだかわからなかった。目の前に火花が飛び散る。
大きな岩にしたたか体を打ちつけ、一瞬意識が飛んだ。
ずるりとさらに岩から滑り、何度か体をぶつけながら落ちた先は滝壺だった。
ざぶん! と頭から水に潜り、息苦しさに手足を夢中で動かした。全身をナイフで刺されたように痛いが、構ってはいられない。
動きの鈍った体で溺れるようにしながら岸にたどり着いた。
「ごほっ……、く……、い、つぅ……」
草の上に体をうつぶせたときは、もう指一本動かせない気がした。
痛い……、苦しい……。でも立ち上がらなければ。
薬草を……。
遠のきそうになる意識を必死で繋ぎとめ、肘で体を支えて上半身を起こした。気づいてみれば、雨はすっかり上がって温かな日差しが降り注いでいる。
いや、草も土も濡れていない。ここには雨は降らなかったのである。
ではここは間違いなく魔人の庭。とうとう着いたのだ。
「いた……」
あちこちすり傷だらけで血が滲んでいるが、気にしている余裕はない。
強打してひどく痛む背を庇いながら立ち上がろうとして、足首から脳天まで貫く痛みに思わず地面に倒れ込んだ。
「ぃ……っ!」
右足首に尋常ではない痛みを感じる。折れているのかもしれない。
当たり前だ。あれだけ滑落して命があるだけでもありがたいのに、足の一本で済んだのなら奇跡的な軽傷である。
岩に滝のように雨水が流れていたのが幸いしたのだろう。水の上を滑ってきたのだ。落ちた先が滝壺だったのも僥倖だった。
早く薬草を探して家に帰らねば。
もう一度立ち上がろうとしたロロの視界に、緑色をした巨大な豚のひづめのような足が映った。
驚いて見上げると、斧を手にしたオークが、覆いかぶさるようにしてロロを覗き込んでいた。
「ニンゲン、ドコ……カラ、キタ。オレ、モン、マモッテタ。オマエ……、シラナイ。コロス」
「……――ひ、っ」
オークが斧を振りかぶったのを見て、とっさに横に転げる。
重い音がして、斧が地面にめり込んだ。
「コロス。オレ、シラナイニンゲン、コロス」
オークは頭上で軽々と斧を振り回し、勢いをつけてロロに向かって振り下ろした。
(殺される!)
懐に入れた火打ち石など取り出す余裕がない。頭を抱えて背を丸め、硬く目を瞑った。
そのとき。
「もういい、やめろ」
突如、男の声が割り込んだ。
おそるおそる目を開くと、禍々しい闇色の翼を背に持つ威厳に満ち溢れた男が立っていた。オークの斧を素手で押さえ、ロロを見下ろしている。
金色の双眸の中心に、黒い瞳孔が竜の瞳のごとく縦長に走っているのを見て、ハッと気づいた。
(魔人ハディール――!?)
魔人の庭の主と言われるハディールに間違いない。人間を取って喰らうとか、一人で千の兵を殲滅したとか、村人の間で語られる怖ろしい噂話が脳を駆け巡る。
ハディールはオークに向かって「戻れ」と短く命ずると、ロロを冷ややかに睥睨した。
「動けるなら出て行け。私は人間は好かぬ。大人しく出て行くなら、門の外まで案内してやろう。そうでないなら、命の保証はせぬぞ」
突き放すような声音に、腹の底から震えが走った。
でもここまで来て手ぶらで帰るわけにはいかない。
「魔人さま!」
立ち上がれず、両手両膝をついたままハディールを見上げた。
「お願いです、薬草を……、死人すら生き返らせるという、幻の薬草をお分けください! 父が大怪我をして……!」
乱れた服の合わせ目から母の形見のペンダントが零れ出て、首の下で揺れる。ペンダントを見たハディールの目がかすかに開かれる。
「おまえ……」
「ぼくの命でよければ差し上げます。い、家に帰ってから……、父に薬草を与えたらすぐに戻って参ります。だから……!」
必死で懇願するロロに、ハディールは怒ったように眉を顰めた。
「そんなものは存在せぬ。人間どものくだらぬ噂だ。ありもしないものを探しに、大勢の人間が私の庭に忍びこむ。まったく腹立たしい」
そんな……。
ロロは絶望に顔を歪め、大きな瞳からぽろぽろと涙を零した。
「う……、ひっ、く……」
嗚咽が込み上げる。自分が命がけでした行動はまったくの無駄だったのだ。
急激に全身に痛みが戻ってきて、手足から力が抜けた。
草の上に崩れ落ち、体を震わせながら泣いた。胸が張り裂けそうで、心臓の上に手を当てると鼓動がめちゃくちゃに乱れている。このままここで魔人に喰われて死ぬだけだ。
「……たちどころに痛みを和らげる薬くらいならくれてやる。よく効く傷薬も。だがすでに損壊した肉体は修復できぬぞ。おまえのすり傷程度には効果を表すだろうが」
ぐっとやわらかくなったハディールの声が落ちてきて、ロロは涙で濡れた顔を上げる。
見れば、ハディールは眉を寄せたまま、瞳に困惑を滲ませていた。
「子どもが泣くのを見るのは辛い。せめて痛みからは救ってやる。おまえもその傷では痛むだろう。飲め」
怖ろしいばかりと信じていた魔人の思いがけない言葉に、ロロは目を見開く。
栓を抜いたガラス瓶を受け取ると、嗅いだことのない薬草の匂いが鼻を刺した。疑うことすら思いつかないまま、ロロは瓶の口を咥えて傾けた。
口の中にどろりとした甘苦い液体が流れ込んできて、むせながらそれを嚥下する。
「い……、ぅ……」
ひどく痛んだのは一瞬で、痛みは潮が引くように治まった。
「すごい……!」
「痛みを感じないようにしただけだ。傷が治ったわけではない。すり傷には膏薬を、折れた足首には骨をつけやすくする飲み薬をやるから、家に帰ってから使うがいい」
言うと、ハディールはロロを抱き上げて翼を広げた。
普段なら人間に見られることを嫌って境界の岩山を越えることはしないと言いながら、今日は悪天候だから誰にも気づかれないだろうと、ロロの家の前まで送ってくれた。ロロが雨に濡れないよう、懐深く抱きこんで。
ロロの足では例え門から出してくれたとしても、到底父の息があるうちに帰り着かなかったろう。
結局父を助けることは叶わなかったが、最期はハディールからもらった薬で苦しみから解放されたし、ほんの少し言葉も交わせた。
ハディールに深く感謝して、ロロは怪我が治ったあと、彼に礼をするために再度険しい岩山を越えたのだった。今度は怪我をしないよう、ロープや手袋を準備して。
「なにをしに戻ってきた」
ハディールは眉間に深い皺を寄せた。
ロロははにかみながら、革袋から木彫りの猫を差し出した。
「おかげさまで、父は穏やかに息を引き取ることができました。ぼくの足もたった一週間でくっつきました。どうしてもお礼を言いたくて。ありがとうございました。お礼になるかはわかりませんが、ぼくが作ったんです」
木彫り職人だった父に教わって、売りものにならないながらロロも木彫りを趣味にしている。折れた骨がつくまでの間、ハディールに感謝しながら彫り上げた。
猫をモチーフにしたのは、ハディールの目と似ていると思ったからである。本当は竜を作りたかったが、自分には難しすぎた。
ハディールは困惑しながら木彫りの猫を受け取る。
「そんなことのために来たのか。またオークに殺されそうになったらどうするつもりだ」
上から下まで見られ、自分の格好を思い出して気恥ずかしくなった。
オークの鼻ををごまかすために動物の糞尿を体になすりつけ、着いてから滝壺で体を洗ったロロはびしょ濡れだ。まだ臭いが抜けきっていないかもしれない。
「ご迷惑だったら捨ててください」
「そういう意味では……」
口ごもりながら、ハディールは木彫りの猫をぽいと投げ落とす。あ、と思ったのもつかの間、木彫りの猫は一瞬で真っ黒の毛を持った仔猫に変わり、軽々と地面に着地した。
ナーオゥ、と短い鳴き声を上げた仔猫は、ロロの足もとに小さな頭をすり寄せる。ロロは驚いて仔猫を抱き上げた。
黒い毛は天鵞絨のように滑らかで、触れればちゃんと体温がある。目はハディールと同じ金色だった。
「可愛い! すごい、魔力でこんなことができるんですね!」
興奮に頬を上気させながら賞賛の目を向けると、ハディールは照れたように顎を引いた。
そんな様子を見ていると、彼は噂で聞くような怖ろしい魔人ではない気がする。ロロに薬をくれ、家まで送ってくれたのもそうだ。
ハディールが手を差し出すと、黒猫はロロからハディールに飛び移った。腕を駆け上り、ハディールの肩にちょこんと居座る。ハディールは人差し指で仔猫の額をくすぐった。
「城で私の側仕えにしてやろう」
仔猫は嬉しそうに鳴いた。
「さあ、もう帰るがいい。今日は歩けるだろうから、家まで送ってやらずともよいな。門を出るまでオークを眠らせておいてやる。以前オークがおまえを襲ったことは謝るが、あれは自分の役目に忠実なだけだ。悪く思うな」
思わない。本来なら、人の庭に盗みに入った自分は殺されて当然だったのだから。
そして、礼とともにこれだけは伝えておかねばと思った。
「悪くなんて思いません。本当にありがとうございました。ぼく、薬師を目指すことにしました。あなたのおかげです」
薬の勉強をして、病気や怪我で苦しむ人を救いたい。村には老齢の神父しか薬師がいないから、自分が後継者になれれば少しは村人の役に立てるだろう。
「あ、でももう、絶対に許可なく忍びこんだりはしませんから! 門番さんの手をわずらわせたりもしません。これで最後です」
もうハディールに会えないのは残念だが、もともと住む世界が違うのだから仕方がない。
「そうか……」
ハディールはなにかを考えるような顔をすると、そのまま口をつぐんだ。
「魔人さま?」
「……ハディールでいい」
「ハディールさま……?」
名を呼ぶことを許可されて、鸚鵡のように繰り返す。声に出してみると、なぜか胸がとくんと高鳴った。
ハディールはしばらく黙考していたが、おもむろに懐から鈍色の鍵を取り出した。
「これをやる。自由に門を行き来できる鍵だ」
「えっ!?」
突然貴重なものを差し出され、驚いて鍵とハディールを交互に見た。
「門番のオークはこれを身に着けた者を襲わない。好きなときにここに来て薬草を採ることを許そう。ただし、迷宮の手前までだ。そこから先に近づいてはならぬ。危険な魔物がうようよしているからな」
「そ、そんな特別なもの、いただけません……」
うろたえて首を横に振った。
薬師であれ商人であれ、誰だってのどから手が出るほど欲しい宝も同然のものを。
「薬師になりたいのだろう? それとも口だけか」
「……本当に、いいんですか?」
固辞し続けるには、あまりに魅力的な申し出だ。
魔人の庭の薬草が手に入るなら、大勢の人の苦しみを救える。
「おまえだけだぞ。他の人間にはその鍵の存在を絶対に知らせるな。絶対にだ。破れば災いが起こるぞ。私は人間は好かぬ」
村人や神父には、岩山を越えて盗みに入ると説明せねばならないだろう。嘘を吐くのは心苦しいが、それと引き換えても余りある利潤が得られる。
ハディールの視線に促され、やっとロロは両手を皿のようにして鍵を受け取った。
「はい、決して口外致しません」
ハディールの好意に心から感謝して、ロロは鍵を握りしめた。
【6刊試し読み】魔人の箱庭 〜囚われの淫花〜 角川ルビー文庫 @rubybunko
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