43.晴れ、ときどきシーツ、自転車、カーネルおじさん

 美咲の手を引いて、来た道を駆け戻る。

 百メートルも行かないうちに美咲の足取りがわずかに落ちてきて、あおいは気にして振り返り、そのままさらに背後を窺う。

 声を掛けてきた男が追ってくる様子はない。けれどそれは安堵よりも、むしろ不安を掻き立てる。どこかで待ち伏せでもしているのか、あるいはあおいたちが逃げても、どうにかして追ってくる手段を持っているのだろうか。


「走って!」

 強く声を掛けて美咲を前に押し出すと、その手を放してあおいはカバンをあさる。


(油断した――!)


 すぐに援軍の連絡をつけられるように準備しておくべきだったのだ。漫然とただ美咲の後を追っていただけの数分前までの自分に腹が立つ。というか――。


(こんな厄介なヤツが現れるって想定してたなら、言っておいてくれれば良かったじゃない!)


 伊織のガードをしていた時と違い、美咲がサイに追われているなんて聞いていなかったのだ。キョウには帰ったら、ひとこと言っておかないと……。奥歯を噛みしめながら携帯電話を取りだした瞬間、すぐ前を走っていた美咲が足を止めた。

 即座に携帯電話から視線を上げて、前方に黒いスーツを着た男の姿を見止める。先ほど声を掛けてきた男とまったく同じ格好。先日の朝、美咲を車に引き込もうとしていた男だ。あおいは一歩前に出て、美咲を背後に庇う位置で立ち止まった。


「サエキさん……」

 背後の美咲が、つぶやくような小さな声を上げる。


 男は美咲を一瞥すると、しかしすぐにあおいへと視線を移した。


「またきみか」

 抑揚のない、それでもかすかに呆れの混じったような声で、

「そちらの美咲さんと友人ということで同行しているだけならば、このまま帰りなさい。先日も言ったと思うが、我々は美咲さんの知り合いだ。ただ――」


 言いながら、視線を険しくする。

「退かないのであれば、きみも一緒に来てもらうことになる」


(そんなので、このあたしを脅したつもり?)


 やや態勢を低く構え、あおいは男に注意を向けつつ視線だけ動かしあたりを窺う。

 見える範囲にはマンションと一般の住宅。声を上げれば人に聞こえるだろうか? だが、相手がどういう行動に出る種類の人物か分からない以上、中途半端に他人を呼んでしまうのは危険かもしれない。

 何しろ先日は、仲間の男がナイフを振り回そうとしたのだ。


「行ったらどうなるのかしら」


 迷いながら、あおいは精いっぱい平然とした声で問う。

 サエキと呼ばれた男は、ほんの少し唇の端を上げた。


「どうもしない。美咲さんとの用事が済んだら一緒に解放しよう」

「用事って?」

「きみには関係のないことだ」


「あら」


 びっくりしたような声で答えた。慎重に、視線でさらに周囲を確認しながら。

 男の斜め後ろにある住宅のベランダで、白いシーツがかすかな風に小さく揺れている。五月下旬。五月晴れの洗濯日和だ。


「だって一緒に行くんでしょ? それなのに、『関係ない』なんて」

「きみには別の部屋で待っていてもらおう」

「ちゃんともてなしてくれるんでしょうね」

「お茶とケーキがあればいいかね?」


「うーん」と、あおいは口を尖らせた。「そこらのコンビニやスーパーのケーキじゃ嫌よ?」


 家とマンションの戸数は多いが、路地は静まり返っている。

 在宅している家はあるだろうか。時間を稼げば人が通りすがってくれるだろうか?


「そうだわ、この近くに美味しいお店があるの。そこの米粉とフルーツのロールケーキ。それだったら付き合ってあげてもいいけれど。……でも、この後で約束もあるから、長居はできないわ」


 遠くを車の走る音が聞こえる。

 一区画向こうには、広めの都道が走っているのだ。だが、大声を上げてもそこまでは届くまい。


「人を待っても無駄だよ」

 男があおいの行動を先回りするように冷やかな声音で言う。

「声を上げたって、このあたりは昼間はほとんど人がいない。一人二人出てきてもらっても、我々には『対処』できる」


「『対処』って?」

「それも、きみには関係のないことだ」

「やっぱり怪しいわね。お茶かケーキに毒でも入ってて、よばれたらあたしも始末されちゃうんじゃないかしら?」


「面白いお嬢さんだね。きみは」

 さして面白そうでもなく、けれどサエキはもう少し唇の端を吊り上げて、

「自分の立場が分かっているのなら、大人しく今すぐ帰ったらどうかね?」


 男が立っている角を曲がれば数十メートルで大通りに出る。人もいるし、コンビニやファストフード店があったはずだ。


(どうにか切り抜けて、そこまで行ければ……)


 自転車。郵便ポスト。

 宅配の車が一台、角を曲がって姿を現す。


「さあ、美咲さん、こちらへ」


 抑揚のない口調で、右手をこちらに差し伸べる男。

 彼はサイに関わる人間。ならば、あおいの持てる「能力」を隠す必要はないかもしれない。だが……。


 あおいは背後の美咲をそっと振り返る。同じ学校の生徒である彼女にあおいの「能力」を知られてしまうのは――。


 美咲はあおいとサエキの会話を、驚きと戸惑いの混じったような表情で見守っていたが、振り返ったあおいと目が合うと、


「あ、あの……」と遠慮がちに小さな声を上げた。


「あおいちゃん……すみません。わたし、やっぱりサエキさんと一緒に行きます。あおいちゃんは、このまま真っ直ぐおうちに帰ってください」

「ええ? だって」

「いえ。大丈夫、わたしはあの人に酷いことをされたりしません。一緒に行きたくないと言ったのは、ただのわがままなんです。本当に、ごめんなさい」


 美咲は両手を揃えぴょこりと頭を下げてすぐに上げると、サエキのほうへと足を向けかけたところで思い立ったようにあおいをまた振り返った。そして小声になって早口で、


「あの。わたし、あおいちゃんの『能力』のこと、知ってます。もしもこの後で危ないことになったら、わたしのことは気にせずに、その『能力』、使ってください」


 言い終わるが早いか、くるりと身を翻し駆けだそうとした美咲。


「待って!」


 あおいはその腕を掴んで引き止めるのと同時に、頭の芯へと意識を集中する。


 前方の宅配の車から、配達員が一人降りる。

 視界の端でわずかに裾をひらめかせる白いシーツ。

 不敵に唇の端を吊り上げた黒い男。


 刹那――ベランダの物干しに掛かっていたシーツがふわりと広がり、宙に浮かびあがる。

 さほどの風もないのに大きな白い布が舞い上がったのに、美咲が先に気づく。その驚いたような視線を察して男が背後を振り返るが、避ける間もなくシーツは男を包み込んだ。


 次の瞬間、配達員が開け放った宅配トラックの荷台から、大小の段ボール箱や封筒が大量に飛び出してきて、シーツを払いのけようともがくサエキ目がけて飛び掛かる。


「くっ……!」


 次々と身に襲いかかる見えない物体に、男はシーツの下で小さく悔しそうな呻き声を上げた。

 宅配のドライバーが信じられないという目で、荷物の飛んでいく行方を呆然と追う。


(ごめんなさいっ!)


 あおいはドライバーと荷物の主たちに心の中で詫びつつ、即座に、

「行くわよ!」

 再び美咲の腕を引っ張って、曲がり角に駆け込む。

 走りながら、サエキがいる角を振り返る。


 サエキは降りかかる箱や封筒から腕で身を庇いながらどうにかシーツを除け、あおいたちのほうへサッと目を向けたが、野菜の絵の描かれた大きめの段ボールの直撃を受けて体勢を崩した。

 ちょうどそこで大通りに達する。だいぶ距離ができたのに安心したあおいだが、しかし息をつく間もなく、


「あおいちゃん! あれ!」

 美咲が今までどこに隠していたのかという大きな声で、叫んだ。


 通りの左手に、先ほどのもう一人の男の姿が見えたのだ。

 あおいは美咲を引っ張って、反対側に駆けだす。

 男も足を速め、あおいたちを追ってくる。ファストフード店の前で足を止め、あおいは店のほうを軽く睨んだ。

 店の入り口脇に立っていた、白髪頭の創業者の等身大の人形がふわりと浮き上がり、男に向かって宙を滑るように飛んで――。


 けれどこちらの男はサイである。

 自分に向かって飛んでくる微笑みを浮かべた老紳士の人形を鋭く一瞥しただけで、人形は弾かれたように中空に飛び上がって大通りの向こうに消えた。車の急ブレーキの音が聞こえたが、そちらに気を配る余裕はない。


「カーネルおじさんになんてことするのよ!」


 悔し紛れに小さく叫んで、今度は歩道にあるバス停の看板を浮かび上がらせる。

 男がまたそちらに気を取られた隙に、あおいと美咲はファストフード店の隣のコンビニの広い駐車場を横切り店内に駆け込んだ。


 血相を変えて飛び込んできた二人の女子高校生に、レジにいたコンビニの店員が驚いたような顔をしたが、素知らぬ顔でそのまま雑誌コーナーに向かう。そこで息も切れ切れの美咲と並び、大きなガラス窓越しに周囲を見回すと表にある物体を目に付くごとに次々と


 喫煙スタンド、ベンチ、自転車を二台――男は自分の身を目がけて飛んでくるそれらを軽々と弾き返しながら、けれど足を進めることはできずにガラス窓の中のあおいたちを睨む。

 ちょうどそこに隣のファストフード店から、店のシンボルである創業者の異変を知った若い男性店員が出てきて、コンビニの駐車場上空を自転車が飛んでいるところを目にし、


「うわああぁぁぁ!」


 腰を抜かして絶叫した。

 その声と、何やら騒がしい外の音に目を向けたレジの店員も、惨禍に気づいて呆然と目を見開いていたのは一瞬のこと。入口脇に据えてあったゴミ箱がゴミをまき散らしながら飛んでいくのを見ると、何事かと慌てた様子で店の外へと飛び出し、けれど自動ドアを一歩出たところで立ち竦む。


 気づけば店の中にいた数人の客も、あおいたちと並んで外の珍妙な事件に愕然とした視線を送っている。「なんだ、何が起こったんだ」と知らぬ者どうしで聞くともなく言葉を発している客たち。異様な光景に恐れをなしたのか、客が店から出ていく様子はないが、注目を浴びていることはさすがに男も察したようだ。


 悔しそうな目でこちらを睨むと、さっと助走もなく跳躍し、平屋建てのコンビニの屋根に跳び上がるようにして姿を消した。

 ファストフード店員とコンビニ店員、それに通りすがりの数人が、信じられないという面持ちでその行方を目で追う。


 あおいは自分たちが驚きに包まれる観衆の中に完全に紛れこんでいるのを確認すると、「ふーっ」と大きく息を吐き出した。

 この超常現象を引き起こしたのがあおいだと、気づいた者はないだろう。

 あとは混乱に乗じて上手く抜け出し、人通りの多い道を選んで帰ればいい。


 隣で言葉もなく立っている美咲に目をやると、彼女は驚きを浮かべた瞳であおいを見返してくる。

 あおいの能力を知っていると言っていたが、実際に目にしてびっくりしたのだろうか。


 居心地の悪さに眉を顰めながら、


「ちゃんと、わけは聞かせてもらうわよ」


 ほかの人には聞こえないよう小さな声で言って、あおいは口を尖らせた。

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プラスチック・シンジケート ~緑楠学園サイキック事件録 潮見若真 @shiomi

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