42.魔界の虹をイメージしたのだと言われれば
「あああぁぁぁ……」
深い深い嘆きの声を上げて、伊織は喫茶ベルツリーの木目調のテーブルに突っ伏した。
手には、先ほど終えたばかりの中間考査最後の科目である数学の問題用紙がくしゃくしゃになって握りしめられている。
「信じられない……あんな簡単なミスするなんて……最悪だ……」
「伊織くん、元気出して」
向かいの席でコーヒーカップを手に、ハルが苦笑気味に慰めの声を掛ける。
「たった一問じゃない。そんなに打ちひしがれることないよ」
「うぅぅ……」
伊織はハルに向かって目だけ上げた。
「だけどその一問が……。ハルが教えてくれた問題とぴったりおんなじだったんだよ……ほかは全然自信ないけどこれだけは『もらった!』って思ったんだ……なのに……なのに、その一問を簡単な計算ミスで」
「考え方は合ってるんだから、部分点くらいはくれるかもしれないし、ほかもまったくできてないってことはないと思うよ。あんなに勉強したんだから、自信持っていいよ。――伊織くんは」
言ってコーヒーに口を付けながら、ちらりと背後のカウンターを振り返るハル。
「そうだよ。伊織くん、元気出せ」
力強く言ったのは、ハルの隣に座っている楠見だった。
試験明けの打ち上げをするからと――要はサイフ係として――、高校生たちを慰労するために仕事の隙を縫ってやってきたのだという。
「一生懸命やったことは必ず結果に出ている。いま間違いに気付いたってことが、力が付いた証拠だよ。大丈夫。――伊織くんは」
励ますように言って、最後にちらりと後ろのカウンターを振り返る。
二人がちらちらと視線を送っている先。カウンターの席に横座りでジャガイモの皮を剥いていたキョウは、その視線に気づき目を丸くした。
それから、
「ん。そんな落ち込むな。伊織」
しかつめらしい顔で頷いたキョウに、
「お前はちょっとは落ち込んだらどうだ!」
楠見は椅子ごと振り返って声を荒げる。
隣でハルは、起き上った伊織と入れ替わるようにテーブルに腕を載せがっくりとうな垂れた。
「ねえ、伊織くん。信じられる? 間違って去年の……中三の時の教科書をいまだに使ってたヤツがいるなんて」
この店に入ってきてから三回は聞かされた下りである。
「試験範囲を間違ってたんじゃないんだよ。教科書が違ったんだよ。有り得る? 気づかないって。おかしいでしょ。高校生になって一か月半も経ってるんだよ?」
「有り得ない」
片肘をテーブルに突きそこに額を載せて、楠見もゆるゆると首を横に振った。
「一か月半、なんの授業を受けていたんだ……いやそれ以前に去年一年間、何をしていたんだ……? これ去年使った教科書だなって覚えてるだろう普通……」
「ってさー」
二人の頭上に漂うどんよりとした空気に気圧されたように、キョウは包丁を動かしながら気まずそうな声を上げる。
「英語の授業、多いんだもんよ。んで授業ごとに教科書とか参考書とか副読本とかあんじゃん。全部は覚えらんねえだろ」
たしかに緑楠高校は、一般の高校と比べ全体として科目数が多い。必然的に、テキスト類も多い。だが、そんなものが言い訳になるはずもなく、ハルと楠見はまた揃って大きなため息をついた。
「俺、四月の初めにキョウの部屋の本棚ちゃんと入れ替えたよ。中学の時の教科書は箱にしまって押し入れに入れて、高校で使う教科書を出したんだよ。どうして一冊残っていたんだろう……いや、そんなことを言っても遅いよね。どこかで一度確認するべきだったんだ。毎週持ち物チェックをするべきだったんだ」
「ハルのせいじゃねえよ」
なぜか慰めるような口調で言ったキョウに、
「当たり前だ!」
楠見がまた叫んだ。
とそこへ。ドアに吊るされたベルが軽い音を立てて鳴り、制服姿の琴子が姿を現す。
入口でいつもの仏頂面で店内を一瞥して入ってきた琴子に、
「お疲れ、琴子。試験どうだった?」
ハルがまだ少々元気のない声を掛けた。
「まあまあね」
琴子はやはり無表情に言って、そのまま伊織たちの隣のテーブルに着く。
「こ、琴子も成績いいんだ……」
サイには知能の高い者が多いのだと、楠見だったかから聞いていた。ならば自分はいったいどうなのだ……と消沈しながら呟いた伊織に、琴子は無表情のまま視線だけ向けて。
「出る問題はだいたい分かってるし」
「……また先生たちの思考を読んだね?」
ハルは頬杖をついて顔だけ琴子に向けてため息混じりに言う。
琴子は片方の眉だけわずかに上げて、その質問をかわした。
「え……」
「伊織くん。琴子はどういう問題が出るのか、調べてるんだよ」
「えええっ?」
思わず叫んでしまった伊織。
「いいの? それって、カンニングにならないの?」
琴子は煩そうに眉を寄せて、横目で伊織を見た。
「全部の問題が分かるわけじゃないし。分かった問題の答えを自分で解いてるんだし。そもそもこれ、あたしの能力だし。カンニングと一緒にしないで」
「ええええ……」
いいんですか? と楠見に視線で問いかけると、楠見も困ったように口を歪めた。
「そうなんだー……。知ってたなら、教えてくれればいいのに……」
「分かったって、なんでも言っていいわけじゃないって言ったでしょ」
「ええー……」
(そういうことだったんだ……?)
釈然としない伊織からふいっと顔を背け、琴子はカウンターの奥にいる店主の鈴音にコーヒーを注文すると、カバンから本を取り出してそこに目を落とした。
「さて。あとはお嬢か」
「真野さんを送ってから来るから少し遅くなるけど、いつもの感じだと、もうあと十分か二十分だと思うよ」
ハルが楠見に答えたその時だった。
またドアのベルが、今度は少し慌てたような音を立てる。
全体重で圧し掛かられたかのような勢いで開いた入口のドアに、店内の全員の視線が集中した。
「あれ……小早川さん?」
驚いたように目を見開いたハルの席へと、小早川志穂は興奮を滲ませながら勢いよく駆けつける。
「ねえ、あおいちゃん、来てる?」
「え? いや、これから来るはずだけど、まだ来てないよ」
「そう……」
少々落胆したように身を引く志穂。ハルが目を丸くしたまま、
「どうしたの? そんなに慌てて」
訊くと、志穂は口元をにやりと吊り上げた。
「うふ。気になる?」
ハルは一瞬、伊織と、隣の楠見と顔を見合わせて。
「いや。別に」
「ええー? 訊きたいならー、教えちゃってもいいけどぉ」
「え? いや、いいよ……」
「どうしよっかなあー。あおいちゃんにぃ、一番にぃ、報告しようと思ったんだけどぉ」
「うん。それがいいよ。そうしなよ」
「うはーっ! でも言いたい! 言っちゃうかもー!」
「……うん」
ハルの笑みは諦めたように固まっていたが、志穂がそんなことを気にした様子はまったくない。
「あのねっ」
テーブルに両手を突いて、志穂はハルと伊織へと交互に顔を向けながら身を乗り出した。
「タカがね、久しぶりに一緒に帰ろうって言ってきたのぉっ」
「へえ」
ハルは、引き気味だった様子を消して本気で感心したような声を上げた。
「話したいことがあるからぁ、今日は一緒に帰ろうって!」
大雑把にではあるが事情を聞いていた楠見も、小さく目を見張る。
気づけばカウンターのキョウもジャガイモの皮を剥きながら上目遣いに、隣のテーブルの琴子も顔を本へと向けたまま横目でちらちらと、こちらを窺っている。
「良かったね」
ハルは微笑んだ。
「それで、深町くんは? 一緒に来てるの?」
「ううん。試験明けで軽く部活に出てくるって言うから、待ってるとこ。あおいちゃんに報告したくて、抜け出してきたんだ!」
「そう。もうすぐ来ると思うよ。少し待ってれば?」
「うん、それじゃそうさせてもらおっかなあ」
浮かれた様子で志穂は笑って、琴子の向かいの椅子を引いた。
「武井さん、お邪魔しまーす」
琴子は視線だけ上げて、
「どうぞ」
と無表情に答える。
中学から一緒の志穂は琴子のそっけない態度を知っているのか、それとも嬉しくてほかのことは気にならないのか、やはりご機嫌な様子で席に着くなりカバンを開けた。
「そうそう。それからね。例のマフラー」
言ってカバンを広げ、
「試験勉強の合間に少しずつ編んでたんだけど、だいぶサマになってきたのよー。あおいちゃんに見せようと思って今日学校に持って来たんだけど、出しそびれちゃって」
嬉しそうに言いながら、志穂がカバンから引っ張り出した緑色の毛糸製品。少しずつ引き出され全貌を露わにしてゆくその物体に、店内の一同の目が呆然と釘づけられていた。
「じゃーん!」
志穂はまだ編み棒の付いたままのそれを両手に持って、頭上に掲げる。
端は緑色。そこから十センチほどでなぜか毛糸はショッキングピンクに変わり、そして渋みのかかった紫、茶色、からし色、黒、あずき色と、絶妙な不快さにカラーコーディネートされた謎の物体だった。
身につけているだけで体に悪そうに見えた。
「魔界の虹をイメージしてみたの」と言われれば、素直に頷けると伊織は思った。
「あのさ。小早川さん?」
「うん?」
「今回は緑一色って話じゃ……なかったかな」
マフラーに目を奪われたまま、愕然とした様子でハルが言う。
「ああ」悪びれずに志穂は機嫌のよい笑顔を作った。「やっぱり一色じゃ、なんだか物足りないなって。ほかの色の毛糸もいっぱい余ってたし」
「……そう……」
「神月くんの指導のおかげで、素敵なマフラーに仕上がりそうです!」
「いや、それは俺の指導の成果じゃなくて、小早川さんの実力だと思うよ」
ハルが指導責任を逃れようとしているのは、傍目にも明らかであった。
(お、俺……あのマフラーの勝負の判定を、するの……?)
伊織は戦慄する。どう評価を下したらいいのかさっぱり分からない。
もはやどう言葉を発していいのか分からず沈黙する一同には構わず、幸せいっぱいの表情でマフラーを丁寧に畳む志穂の横で、携帯電話の着信音が鳴る。
「あれ」
呟いて携帯を取り出し一瞥すると、志穂はまた嬉しそうに首を傾げた。
「タカだ。もう部活終わったって。早いな」
志穂は手にしていた邪悪な香りのする毛糸製品を大事そうにカバンにしまって、ニヤけ顔で席を立ち、
「ごめん。やっぱり行くわ。あおいちゃんにはメールしとく。来たらよろしく言っておいてくれる?」
「あ、うん」
心持ちぎこちなく頷いたハルににっこり――というかにやりと笑いかけ、それから顔を上げて、
「武井さん、お邪魔しましたっ。相原くんも、成宮くんも。またね。あとどなたか存じませんが、そちらのイケメンのお兄さんも、また」
志穂は軽やかに身を翻すとご機嫌な足取りで店を出ていった。
「なんていうか……元気な子だね」
イケメンのお兄さんと呼ばれた学園副理事長は、曖昧な笑顔を浮かべてそう漏らした。
「けどさ、どういう話だろう、深町くん」
ハルが首を捻った後ろで、キョウも皮を剥いたジャガイモをひとつボウルに置きながら軽く首を傾げる。
「いい話かどうか、分かんねえよなあ」
「琴子、知らない?」
琴子は本に目を落としたままで、
「知らない。深町のこと探ったのは、試験の前に真野さんに相談されてるってことを調べた時が最後だもの」
ハルは「うーん」と口をへの字にして、隣で腕を組んでいる楠見と顔を見合わせた。
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