ノンサッチの亡命者
ノンサッチの亡命者
プロローグ
クライブはまだデスクに居た。既に二十時を回っていた。
「仕事ばかりしてないで週末を楽しめよ」
と言い乍ら同僚は次々に退社して行った。室内には彼一人が残っている。
周囲に誰も居なくなったのを確認して、クライブはパソコンを離れた。珈琲カップを手にしてパントリーへ向う。それは、誰かに出合っても言い訳出来る用意だった。しかし用心するには及ばない。フロアにはもう誰も残っていなかった。
パントリーの先に扉がある。裏階段に通じている。クライブはその扉を開いた。足音を忍ばせ、階下に降りた。ドアノブに手を置き、その向うの気配を探った。誰も居ない。マシンフロアなのだから、通常は誰も居ない筈なのだ。
クライブはドアを開いた。廊下は暗い。そこを進んで「641A」のドアの前に立った。ポケットを探る。マシンの保守で残業だから、と警備室から借り出した鍵束には、ここの鍵も入っているのだ。
先月、上階のフロアのマシンルームに入った時、奇妙な事に気付いた。メインコンピューターに向う基幹の光ケーブルが、スプリッターに依って分岐されていたのだ。テレグラム・アンド・テレホンと名乗る大手の通信会社のメインコンピューターだ。当然、西海岸の通信の殆どが、この回線に載っていると言って過言ではない。その回線が分岐されている。
ではその先は何処に繋いであるのか、クライブはケーブルを辿った。マシンルームの隅を這わせたケーブルは床に開けた配線孔に入っていた。階下のマシンへ繋いであるのだろうか。
クライブの把握する範囲では、メインマシンの他にこの回線を受けるシステムは無い。バックアップなのだろうか。いやそれならメインマシンの系統に用意してある。ではこれは何か。傍受なのだろうか、と疑惑が兆した。そんな物があってはならないだろう。
それからクライブは、この回線についてを密かに調べ始めた。同僚に訊いても、誰もが知らないという。配線図を見つけ出して、この回線が何処に行くのかを調べた。それは階下の「641A」という部屋に引き込まれていた。ではこの部屋は何処の部署なのか。
社内のディレクトリーツリーを見ても、この部屋を管轄する部署は無かった。ビルのテナント契約書まで調べて、この部屋は自社のものではないと判った。メリーランド州の小さな会社が持っているという。それも不審を抱かせた。
その会社の登記を調べた。フォートミードにある不動産管理会社だという。その社名を検索してみた。ヒットしなかった。好奇心が膨れ上がった。
クライブは鍵を開いた。そっとドアを引いた。内部は静かで、ただコンピューターを冷却するファンの音だけが低く聞こえた。クライブは中に入った。サーバーマシンが整然と並んでいる。無数のLEDの点滅が忙しく繰り返される。それはこのサンフランシスコの人々の、息吹の様に思えた。
クライブは配線をつぶさに調べてみた。回線はやはりこのマシン群に繋がっている。マシンの末端からは太いケーブルが、壁にある配線孔に伸びていた。それは我々の回線の基幹に還流している様子だ。これは何なのだろう。我々のメインコンピューターと同じ回線処理システムを、名も無い小さな会社がここに設置しているというのか。
部屋は上階のマシンルームと同じ広さだった。その隅まで調べた時に、クライブはぞっとした。天井近くに数台の監視カメラがある。潜入を知られてしまった。クライブは周章てて部屋を飛び出した。
階段を駆け上り、自分のデスクに戻るとバッグを引掴み部屋を飛び出した。エントランスで警備員に鍵束を放り投げ、駐車場へと走った。後ろで警備員が、
「デートの時間を忘れてたのか」
と声を掛けた。エンジンをスタートさせた。その時、携帯電話が鳴った。番号は非通知だった。けれど吊り込まれる様に通話釦を押していた。
「君に会わなくてはならない様だ」
と相手は言った。
「それを説明して、納得して貰わなくてはならない」
1
「私、見ましたよ。ぶーんて唸ってたんで見上げたら脚のある物が」
と友野嬢が言う。大使館の事務室だ。
「トロカデロ広場だったんで、照明もあって影が見えました」
この娘そんな夜中に遊び歩いてるんだ、と大野は思った。
ここ数日、深夜のパリの上空を、不審な無人飛行機ドローンが飛び回っている事が報道された。パリ中心部で多数の目撃があったという。
一昨夜は、未明にコンコルド広場の米大使館周辺から南の方向に向うのが目視された。エリゼ宮やエッフェル塔の周辺などでも目撃があり、少なくとも計五機飛んでいた事になる。昨夜も未明にかけて同じ場所で目撃された。原発の上空での飛行も目撃されたといい、危険性を指摘する報道もある。
「ひょっとしたらあれでしょうか、米軍の」
と友野嬢はトーンを上げる。
「無人偵察機ですか」
「なんか韓国が購入するとか言われてますよね」
「でも一機三億円とかぢゃありませんでしたか」
と大野は記憶を呼び出す。
「そーんなに。ラジコン機だから安いと思ってましたけど」
「いや、全長十数メートルもあるそーですから、普通の飛行機と同じですよ」
「それぢゃ、夕べパリの上空を飛んでたのとは違いますね」
友野嬢はさっそくデスクのパソコンで検索した。
――無人偵察機グローバルホーク。
ノースロップ・グラマン社が製造する高高度滞空型無人機。機体は全長十五メートル、両翼四十メートル、六・八トン。二十八時間以上の航続が可能。高度一万八千メートルから画像の撮影や電子情報の収集が出来る。集めた情報は即時に、地上へ発信する。四十機近くが製造されており、米軍向けの他、米航空宇宙局も研究目的で数機を保有。米軍はアフガニスタンやイラク戦争に実戦投入。東日本大震災では救援活動「トモダチ作戦」に投入し、原発の状況を上空から調べた。
午後の事務室内では館員達が忙しく立ち働いていた。そんな中を大野はのんびりと珈琲など汲みに行く。
大野は内閣調査室と米国NSCシチェーションルームの間の、交換出向要員だった。かつて第一次安部内閣の時にライス国務長官との取り決めで、設置された連絡機構だった。しかしその後の両国の政府の再編成で、彼等は取り残されたのだ。結果、こうしてパリの大使館で暇な日々を送っている。おそらくは主要国の各大使館で、こんな風に暇を持て余している同僚がいる事だろう。
マノアはアラモアナの山側に位置する閑静な地域。上り坂の左右に広い間隔を措いて民家が並んでいる。長沼は、タブレットの地図を見乍ら、ゆっくり通りを進んでいた。そこに小ぢんまりとした家があった。
長沼は左右を見回した。日差しも柔らかい長閑な午後。周囲には人の姿は無い。長沼はエントランスに立った。ジャケットの内ポケットから、鍵束を出した。勿論、普通の鍵ではない。いずれも細く、骨の部分だけの構造に見える。
長沼は膝まづき、それを鍵穴に差し込んだ。周囲を見回し乍らも、神経は鍵の感覚に集中している。手応えがあった。捻る様に回すと、鍵の開く感覚があった。
長沼はドアノブに手を置いた。もう一度周囲を確認してから、ドアを開き、素早く室内に入った。後手にまだドアノブを押さえている。それをゆっくりと戻して、扉を閉じた。扉の脇には小さな靴箱がある。しかし中身は、ビーチサンダルが二足あるだけだ。
室内は薄明るい。ブラインドを通して外光が入っている。広い居間、その向うはキッチンになっている。扉が見える。水回りだろう。左の隅に階段がある。踏み板だけを渡した素透しで、塗料も塗っていない。
右側にカウチがあり、テレビやオーディオのコンポがある。三〇枚程のCDが積み重なっている。地元のコンテンポラリーハワイアンバンドや、サーフ系のシンガーソングライターのものだ。
キッチンへ向う。シンクの上にはフードプロセッサと珈琲メイカー。いずれも新しくはないが、汚れてもいない。食器棚は綺麗に整頓されている。無地の皿、小鉢。大きめの珈琲カップがふたつ。
料理好きな彼女がいたのだろう。そう思うと、浮かぶ面影があった。結婚には無縁な自分の境遇を思った。いかん、仕事だ、と思考を切り換えた。出身部隊から派遣されDIAの部隊に張り着いて、防衛情報を貰っている。今回は奴等のハワイの基地へ、随行して来た道中だ。
この処、NSAの情報が小出しにリークされている。遠征の道中で隊長のスティーブンにそのディープスロートについて訊ねてみた。すると、そいつの個人情報があるぞ、と教えて呉れた。ハワイのシギントセンターに勤務していた男だという。当時の旧居の住所を訊き出した。奴等のパワーランチの時間に抜け出して、アドレスを手にここまで来てみたのだ。
長沼は階段へ踏み出した。二階は片側だけ棟が上がっている。階段を上り詰めると、そこに僅かなステップがあり、扉が二枚あった。右の扉に手を置いた。ゆっくりと開く。ベッドルームだった。
ここにもブラインドを通して薄い光が射している。部屋の奥にはチェストがある。引き出しを開けると、男女の衣服が綺麗に畳まれ重なっている。その量が少ないのは、ここにもう対象者は居ないという事を物語る。申し訳ない、と思いつつもその衣服の下へ手を入れて探る。何も無い。こんな処に物を隠すスパイが居るもんか。部屋を出た。
左のドアを入った。こちらは書斎というべきか。デスクと本棚がある。デスクにはパソコンがあった。パソコンの陰にはルーター。キィボードの脇には時計やデジタルカメラもある。
不容易には起動しない。どんなトラップを仕掛けてあるか判らないからだ。スパイなのだ。電源を入れた途端に、ハードディスクを抹消する程度の仕掛はしてあるだろう。
エントランスへ出た。周囲には依然として誰もいない。開けた街路に日差しだけがある。それは寂莫ではなく、何故か郷愁に近い感覚だった。
レンタカーを置いた場所へ急ぐ。スティーブン達もランチを終えた頃だろう。また合流しなくてはならない。しかし、ここでは何も収穫は無かったな。対象者は、ここでの生活を放棄してしまったという事が窺えただけだ。だが、何か違和感がある。何だろう、この家宅捜索教練の模範回答の様な現場は。
事務室に出勤すると、館員達が賑やかにお喋りをしていた。その脇を擦り抜けて、大野は自分のデスクにバッグを置いた。同僚はルモンド紙を手に盛り上がっていた。覗き込んで記事の冒頭を読み取った。
――フランス大統領が保有する高級ワインやシャンパンなどが五月末の二日間、競売に掛けられた。不足するワイン購入費を捻出する為の、緊縮財政下の苦肉の策である。
「フランス政府も随分と困窮したもんですね」
と大野は口を挟んだ。
同僚が記事を直訳して読み上げる。
「今回売られたのは約一千二百本だが、大統領府が保有するワインの一割に過ぎない。ボルドーの千九百九十年産「シャトー・ペトリュス」が予想の三倍を超える七千六百二十五ユーロの最高値で競り落とされた、とありますよ」
「あれ、同じ銘柄のワインは昨日も買われてるよ、この人は安く買えて良かったね」
と、言葉を添えるのはウェブ画面で同じトピックを検索していた同僚だった。
「横浜のワイン輸入業者が買ったらしい。売上げは二日間で計七十一万八千八百ユーロにもなったらしい」
「目標は二十五万ユーロだったとあるから、かなり儲けたね」
当然乍らここフランスでは公式晩餐会にワインを欠かす事は出来ず、在フランス日本大使館でも、ワインを買い付けている。そんな雑事も大野の仕事で、ソムリエを相談役に、どの銘柄を何本、と作戦を立て予算の獲得に知恵を絞る。
そんな時に、ソムリエはフランスの事情を話して呉れた。大統領府では毎年約十五万ユーロもの予算をかけワインを仕入れている、と言う。エリゼ宮にワインセラーを設けたのは六十六年前だが、お宝のワインを放出せざるを得なくなったのは今回が初めてだったらしい。
「で、結局、競売で得た収益はまたワイン代なんだな。廉価なワインを購入し直して、残金は国庫に戻すらしい」
「それもきちんと温度管理されたワインセラーで数十年寝かせば、プレミアが付くんぢゃないですかね」
「それを言うならビンテージでしょ。本来の意味だ」
その週末、前大統領が、身柄を拘束された。退陣から半年が過ぎ、訴追を逃れる大統領特権が期限切れとなった途端の事だった。新聞の見出しは「政界に激震」とあった。
前大統領は司法当局に十時間を超える拘束を受け、解放された直後に今度は判事の事情聴取を受けた。パリ郊外の自宅に戻ったのは午前二時頃と見られる。事務所は、この日の夕刻にテレビに出てコメントする予定だと発表した。
所属する野党UMPの議員らは仏メディアに対し、
「無実を信じるが、十七年の大統領選で右派を束ねる候補になるのは、難しいのではないか」
などと述べ始めた。
首相はこの日、ニュース番組のインタビューに、事態は深刻だ、と語った。
夕刻、物見高い国民が見守る中で、前大統領がニュースショウに登場した。やつれは見えたが、真新しいスーツ姿で質問者に向き合った。
「法の支配の原則に反したり、国民の信を裏切ったりしたことは、一切ない。この身柄拘束は、私を侮辱する意図があったのだ」
と、疑いは否定した。質問が続くと、やや激して来て、
「実態と異なるイメージの形成を狙ったものだ」と司法当局を強く批判し「政争の具にされている」とも訴えた。
この状況で、十四年秋に予定される党首選に立つのかと意向を問われ、
「八月終わりか遅くとも九月初めには決めたい」
と答えた。
今回、罪状を問われたのは、有名化粧品会社の跡継ぎで富豪の、某女性からの献金問題だった。大統領在任中に持ち上がったこの問題には、当時も「中傷だ」と疑惑を全否定していた。
捜査当局は現段階ではむしろ、その後に持ち上がったリビアからの不正資金に関する疑惑に関心を寄せていたが、その捜査の過程で富豪からの献金の件に関する情報を入手したという。
大統領は当時、国側の弁護士などに、捜査の手が周囲に及ばない様に働きかけ、また情報を得ようとしたりした。自らの人脈を使うから、と将来のポストをチラつかせたりもしたとの証言もある。
前大統領とは旧知の弁護士も今回、身柄を拘束されている。そのきっかけは、司法当局が入手した通信データで、弁護士らと遣り取りした携帯電話の記録や、クラウド上のToDoリストなどだったという。
ニュースショウの報道を見乍ら大野は、そんな物まで見られてしまうんだ、と思った。手許にあるルモンド紙にはこんなトピックもあった。
――国防省の対外治安総局DGSEが組織的に、個人のコンピューターの通信記録などの情報を集め、蓄積していた。
「DGSEは数年前から、電話・FAX・電子メールなどの個人情報を収集していた。国内だけでなく、外国と交わされる情報までも傍受。全ての情報はパリ本部の地下にあるスーパーオゥディナトゥールに蓄積されている。これにはフランスの他の情報機関もアクセスできるという」
そんな処にコンピューターセンターを持ってたんだ、と大野は思った。
「首相府は我々の得た情報に対しを「不正確」とコメントし、通信傍受は合法的に行われている、と説明している。これらは元CIAワイラー氏が本紙に提供した内部資料によって明らかになった」
おや、これは誰だろう、と大野は思った。
通信の傍受と言えば、数十年前から世間で噂されている。「エシュロン」と呼ばれる通信傍受システムの存在だ。米国を中心に英国・豪州・カナダ・ニュージーランドが共同運用しているという。五カ国は自国や在外公館などに通信傍受施設を設け、電波を収集・交換して来たとされる。とは言え、そんな物の存在を公式に認める筈もなく、これは陰謀論的な伝説の類と言われて来た。
米国が日本にエシュロンへの加入を打診したことはない。しかし電波情報の収集拠点として三沢基地には「ゴルフボール」と呼ばれる通信施設があり、都心でつぶさに監察すれば米国大使館にはアインシュタイン・アンテナなども視認される。まさにこれらで通信を傍受しているのだろう。
それを意識してか日本政府も、ここに来て漸くスパイ防止策の強化に乗り出した。と、言うのも数年前、正体不明のハッカーが中国から、日本のサーバーをハッキングしようとした事例が報告されたからだ。これは米政府情報に接続するものだった。この事を米政府から報告され、内閣府は周章てた。
旧共産圏諸国など盗聴を仕掛けそうな可能性がある国家では、在外公館には特殊な施設も作った。これは盗聴装置の発見を容易にする為、透明な外壁で囲った部屋で「金魚鉢」と呼ばれる。内壁と外壁との間に音楽を流し、盗聴を困難にさせる工夫を施した在外公館もある。
これらの盗聴防止対策に加えて、コンピューターの電磁波を外に漏らさない「電磁シールド」の導入も始めた。コンピューターに表示されるデータは、電磁波のスキャンにより外部に盗まれる場合がある。ディスプレイの電磁波を離れた場所で傍受し、その画面を同時並行で読み取る技術は既に確立されている。それをを防ぐ技術だ。0七年に完成した在モスクワ日本大使館を皮切りに、今後は新設の在外公館施設に原則的に導入して行く。
日本では防衛省情報本部・電波部が、北朝鮮や中国などの軍事電波を傍受している。しかし人員は数百人程度に過ぎず、これを重視しているとは思えない。それでもNSAは職員を東京に常駐させ、この防衛省電波部と情報を交換しているらしい。
〇五年頃には内閣情報調査室が、海外で通信傍受を行う構想を非公式に検討していた。当時の町邑外相が、在外公館にアンテナなどの通信傍受施設を設けるプランを検討させた。電波やメール、インターネット等「シグナル・インテリジェンス」を担当する、米国の国家安全保障局NSAの活動がモデルになった。
NSA「National Security Agency」は一九五二年創設の国防総省の情報機関だ。通信情報の収集や暗号解読などを任務とし、ワシントン近郊の陸軍基地内に本部を置く。メリーランド州フォートミードに、鉄条網や監視カメラに囲まれ、電磁波傍受を防ぐ仕様の窓に覆われた巨大な建物二棟と、ゴルフボール・アンテナがある。周囲は武装した警察官が警備にあたっている。
海外拠点はイギリスやオーストラリア・日本・韓国などの米軍基地や在外公館内に置かれている。日本には米陸軍座間基地・米空軍三沢基地などに分遣隊があるとされる。収集しているのは主に経済情報だとしている。しかし軍基地で経済情報を収集するのだろうか。
三万五千人とされる職員や百億ドルと言われる予算規模、世界に散らばる拠点の数などは今も機密だ。かつては存在自体も機密でNSAは「No Such Agency」の略だとも言われた。
国家安全保障局と中央情報局の為に盗聴を実施している「特別収集部局SCS」は、世界各地の米大使館や領事館を拠点にしている。SCSは傍受装置を大使館の建物の上層階や屋上に設置している。独自に開発した「アインシュタイン」と呼ばれるアンテナだ。これによって携帯電話や無線LAN、衛星電話の通信を傍受するだけでなく、情報収集の対象となる人物の位置情報も探知出来るという。
NSAの文書には、二〇一〇年八月十三日時点のSCSの拠点名が八十箇所以上、記されている。アジア地域では北京や台北、バンコクやジャカルタ、ニューデリーなど二十箇所の都市名が挙がっているが、日本の都市は無かった(NSAの任務を明記したリストには、外公的な優位を得るための監視活動の対象としてドイツやフランスを挙げ、経済的な優位を得るための対象として日本やブラジルを挙げる)。
そんなSCS拠点のひとつ、在スペイン・アメリカ大使館に、本国から技術者が来ていた。ホイッスラーの保守に来ました、とNSAのIDを示して技術者は言った。
マシンルームで、技術者はサーバーコンピューターの点検をしていた。システム担当の事務職が脇で作業を見ている。
「何だいそのホイッスラーてのは」と呆れた様に言う。「また聞いた事もないテクニカルタームだ。近頃はこんな暗号名ばかりだよ」
作業は手慣れていた。コマンドを連打し、幾つかのフォルダーを空にした。そして不要なログを消去している様子だった。
「いや、そんな秘密めいた事ではありません。私だって只のエンジニアで、エージェントではありませんし」
事務室に出勤すると大野は珈琲メイカーの準備を始めた。丁寧に洗ってから、正確に計って豆を入れた。フランス製の珈琲メイカーなので、温度管理はしっかりしている。きちんと量を守って淹れれば美味な珈琲を作れる、と大野は信じている。それなのに普段、禄な味がしないのは、手空きの館員が取りあえずする適当な淹れ方に任せているからなのだ。せめて朝イチの珈琲は、規矩正しくありたい、と大野は思っている。
カップを手に大野は、新聞ラックへ海外紙を取りに行った。六日付のワシントンポストを手にする。そこにも情報傍受の記事があった。
「NSAとFBIが「プリズム」と呼ばれる情報収集プログラムでインターネット上の個人情報を集めている。プリズムはブッシュ前政権下の二〇〇七年に導入されたが、今回の報道を受けて米政府が初めて公式に存在を認めた。電子メールや動画、閲覧したサイトなどの個人情報を集めるこのプログラムには、マイクロソフト、アップル、ユーチューブ、グーグル、ヤフー、スカイプ、フェイスブックなどIT大手九社が任意で協力していた」
フェイスブックも日和ったな、と思いウェブで検索すると、反論があった。
「フェイスブックはワシントンポストの取材に対し、このプログラムを関知しておらず、いかなる米政府機関にもサーバーへの直接のアクセスは許可していない、と説明している」
まぁそー言っておかなきゃね、と大野は納得した。他社はどーだろ、と検索を続けた。
「IT各社は、政府の求めに対し無制限に情報を提供していたのではないかという、国民の疑念を払拭しようと躍起だ。ヤフーは二〇〇八年、対外情報監視法FISAに基づく情報提供を不服として提訴。同社は〇七年に令状なしの要請を受けたものの「不当に広範であり、憲法修正四条に反する」と主張していた。だか判決は「令状を採っていたら、情報を迅速に収集しなければならない政府機関の時間的な妨げとなる」と却下。裁判は非公開で、ヤフーは沈黙を守っている。米国で営業する以上、裁判所の命令を無視する事はできない」
米国の企業も辛いね、と大野は思った。ワシントンポストに目を戻す。
「情報収集はFBIが行っている。FBIの「データ傍受技術ユニットDITU」でグーグルやヤフーなどからデータを集め、そのデータをNSAの分析システムに転送する。データの種類に依り、音声には「ニュークレオン」通話ログには「メインウェイ」などと呼ばれる専用プログラムがあり、これらを使って必要な情報を絞り込むという。これらは本誌が入手した元CIAワイラー氏の内部資料による」
おや、またこの人物だ。一体誰なのだろう、と大野の頭にこの名前が残った。
「マスコミは、政府の情報機関を統括しNSAも傘下に置くDNIに回答を求めた。DNIのクラッパー国家情報長官のこれまでの説明では、IT大手九社はNSAの要請に任意で応じ、電子メールや動画・音声・電子文書などの情報を提供して来た、と言っていた。クラッパー長官は六日夜の声明で「収集された外国からの情報は、広範な脅威から米国を守るために利用されて来た」と弁明した」
そうか、彼はプリズムなどというシステムの存在は口にしていないんだ、と大野は思った。しかしワシントンポストは続ける。
「NSAなどの情報機関はプリズムによる情報収集に強く依存しており、大統領向けの毎朝のブリーフィングだけでも一四七七件の情報を引用したという」
大野を国際電話で呼びだしたのは内閣調査室長だった。
「ご無沙汰しました~」
と大野は暢気に応じた。室長の声も張り詰めてはいない。基より何等かの指令ならば国際電話などは使わない。
「何かフランス大統領府で、ワインを売却して高値になったとか聞きましたが」
「はぁ、その件では職員みんなで盛り上がりました」
「日本では一本九〇万円で落札とか報道されましたよ。貴方も大使館のワイン購入担当なんでしょ。で、そのシャトー・ペトリュスってのは、美味なんでしょうかね」
「いや、本官はワインには疎く」
「パリも永いでしょうに」
「お陰様で、のんびりと過ごさせて頂いてます」
それは嘘だ。米NSC欧州部長からのミッションで、各地へ出張をしている。先般は襲撃にも遭った。それは室長も承知の筈だった。
「ご存知とは思いますが、首相が復帰された事で、塩漬けだった話が動きそうです。内閣情報局の創設とゆープランが進行してましてね。これが創設されたら漸く貴方も帰任させてあげられると思いますよ。まぁご苦労を勘案してそれなりのポストで」
「ありがとうございます」
とは応えたが、本当に自分は帰任したいのだろうか、と大野は思った。
「で、そのワインなのですが、どーしてこんなに値が吊り上がってしまったのか、ちょっと調べてみて下さい」
2
タンパのホテルの部屋に戻った長沼は、ジャケットを放り出すとベッドに腰を落とした。明日からはハワイへ移動と決まった。とりあえず部屋に散っている衣類をスーツケースに片付けなくてはならない。
使い始めたばかりのタブレット端末の釦を押した。スリープ状態からゆるゆると復帰する。ブラウザのブックマークからニュースサイトを選んだ。英国紙ガーディアン十日付の見出しが目についた。
――電子情報の傍受を担当する通信本部GCHQが、電子メールなどウェブ上の個人情報にから抽出された情報を、米国から受け取っていた疑いが浮上している。テロ対策の為とされている。
「GCHQは、米国・英国間の大西洋横断ケーブルに特殊装置を設置していた。これにより傍受された通信内容は、提携関係にあるNSAと共有され最長三〇日間保存され、分析されていた。米NSAは情報収集プログラム「プリズム」を稼働しており、この解析によって得られた情報がフィードバックされた。傍受は既に一年半ほど行われており、協力した通信会社に金銭を支払うこともあった。GCHQはこれにより一九七本の機密報告書を作成した。米政府から情報を得る事で、英国内で必要な法的手続きを回避した模様。これは本紙が得た元CIAワイラー氏の情報による」
記事の下に連なるリンクをクリックすると続報が表示された。
「この情報にヘイグ英外相は「根拠のない非難だ。法の統制や制限をうけている」と否定している」
NSAさんも名前が表沙汰になって苦労してるだろうな、と長沼は思った。
今度は「NSA」で記事を検索してみた。幾つものリンクが並んだ。ドイツ誌シュピーゲル八日付の記事を開いてみた。
「米国NSAは各種スマートフォンの情報を極秘に収集していた。NSAは作業グループを分け、アイフォン・ブラックベリー・アンドロイドの、それぞれを担当する独自の解析チームを組織。スマホ内の情報を同期させるクラウドのサーバーコンピューターを通じて、バックアップされた情報を収集していた。収集された情報は利用者の連絡先、履歴やメールなど。GPSによる位置情報も含まれ、これはNSAの追う人物がいつ何処に居たかを示すものとして、貴重だったという」
次のリンクをクリックすると、ワシントンポスト四日付が表示された。
「国家安全保障局NSAは世界中のネットワークを傍受し、携帯電話の通話の基地局などから位置情報を特定していた。原則として国外にある携帯電話が対象だが、国内の情報がヒットする事もあるという。個人の行動の追跡やテロ容疑者の仲間の割り出しなどに使っていたという。少なくとも数億台分の情報が集められ、一日の収集量は五〇億件に迫るとした。これは本紙が得たワイラー氏の情報による」
五〇億件とはにわかには信じられない数字だった。長沼は次のリンクをクリックした。日本の新聞もこの報道に加わっていた。
――米国家安全保障局NSAは少なくとも三つのプログラムを組み合わせ、インターネットや携帯電話などの世界中の通信記録を対象に収集、分析していた。これはNSA元幹部の証言による。
「本紙米支局は元職員の分析官ビル・バーニー氏にインタビューした。NSAはサンフランシスコやニューヨークなどの沿岸で海底の光ファイバーケーブルのデータを「アップストリーム」というシステムに依って直接収集していた。ウェブの基幹ケーブルなどの設備は北米に集中し、世界各地域から送信されるデータの八割以上がこの上を経由する。こうした利点を活用し、情報を写し取っていた。NSAを巡っては既に、ヤフーやフェイスブックなどの通信業者の協力を得て情報を転用する「プリズム」が明らかにされている。アップストリームはプリズムの情報との照合から、相手先や通信時刻といった「メタデータ」を集めていたという」
本当かね、と長沼は思った。何処の組織にも職務上知り得たナリッジをリークしてしまう奴が居るけどな。漸く手に馴染んだ気がして来たタブレット端末がこの時、妙に他所他所しく感じられた。
「それにしてもこのワイラーとは何者なんだ」
明日合流した時にスティーブンに訊いてみよう、と思った。スティーブンの部隊はハワイへブリーフィングに出張する。彼等に張り着いて行動する事が、長沼に与えられた任務だった。
大使館専属のソムリエは、有名レストランに出向を依頼している。彼等の昼食は当然、賄い飯なのだろう。実力あるシェフに依る料理なのだから、簡単料理であってもさぞ美味なのだろうなと憧れるのだが、当事者にとっては、日常の事となると食傷している様子だった。
昼飯でもご一緒に、と誘うと街の定食屋を指定した。とは言えそこは彼等の厨房で最近、話題になっている店らしい。ランチタイムを外れているので、空いていた。注文をすると、ギャルソンはテーブルクロスにメモを書き込んでしまう。
「そもそもシャトー・ペトリュスはそんなに希購品なんですか」
「まぁ高級ではありますが、それでも二五〇〇ユーロ辺りですね。購入出来ないものではありませんでしょ。あの九〇年産にしても五〇〇〇ユーロ程の品でした」
頭の中で換算してみる。いずれにしろ栓を開けて飲む代物ではないな、と大野は思う。
「初日に競り勝ったあの横浜のバイヤーは有名なんですか」
「いや、聞いた事のない業者でした」
翌日に高値で競り落としたのは何処の業者ですか、と訊ねてみた。
「香港だと聞いてます」
前日の様子を見てもう一本の方を狙ったら、競り始めてしまったという処かな。
ソムリエ氏は鴨のコンフィに舌鼓を打っている。ちなみに炭酸水を飲んでいる。さすがにここまで来てワインは飲まないらしい。
「現在のソムリエのお名前は」
「オーウィン氏です。前大統領時代からお務めです」
「エリゼ宮のワイン購入予算はそんなに不足してたんですか」
「いや、そこが訝しいのですよ。実はワインの在庫は潤沢にありまして、収蔵品を売ってまで予算を作る必要など無い筈なんです」
二一日、英国のガーディアンと米国のワシントンポストは同時に、ある人物の写真を一面に載せた。米国人のエドガー・ワイラー氏、二十九歳とある。ここ数週間、両紙を始めとして各国のマスコミを賑わせた、米国NSAを巡るスクープを、リークしていた人物だった。
細面で色白、縁無しの眼鏡を掛けたその人物は「自分が機密情報の告発者である」と明言している。「私は何も悪いことはしていないので、隠れるつもりはない」
以下、記事はワイラー氏の生い立ちを記す。
「ワイラー氏は高校中退後に陸軍や社会人向け大学を経て、米中央情報局CIAで技術職員として暫く働いた。その後ハワイのNSA系列の企業で、コンサルタントとして働く。当時の年収は約二〇万ドル。ハワイには恋人と住んでいた家もある。この機関で米政府の機密文書をコピーして持ち出した。五月二十日に香港に渡り滞在を続けている」
以下は問答形式の記述となる。
――告発に踏み切った理由について。
「世界中の基本的な権利であるプライバシーやウェブ上の自由を、米国政府が極秘の調査で侵害することを、良心が許さなかった」
――米国では公正な裁判を受けられないと言いますが。
「米政府は、秘密裏の不法行為を暴露する事を、許されざる犯罪だとした。私を国家反逆者だと断じた時点で、公正な裁判をする可能性を潰した。これは正義ではない。そんな政府に自ら出頭するのは莫迦げている。私を刑務所に入れたり・殺したりしても、この真実の存在は揺るがない。刑務所の外からの方がより多くの善行ができる。真実の暴露は止められない」
更に打開策として、情報機関の活動を監督する特別調査委員会を設置すべきだと提言する。
「国家の最高機関が監視から逃れる事になれば、政府への信用は無くなる。政府に、正気を取り戻し、憲法に基づいた政策と法の支配を回復する機会を与えるのだ」
と言う。
――香港に滞在しているという事は、中国政府に情報を流したのでは。
「それなら行く先は北京であるべきだろう。中国政府とは接触していない。もし私が中国のスパイなら、今ごろは宮廷で鳳鳳を撫でていたろうに」
さらには中国での米国のハッキングについても証言する。
「NSAは世界中で六万一千件以上のハッキングを実行している。対象は数十万台のパソコンにアクセスできるインターネットの中継機だった。二〇〇九年から米国家安全保障局が中国全土と香港でハッキングをしていた事を示す文書がある。香港の中文大学や公務員、ビジネスマン、学生らが対象と記されている」
大野はロングディスタンスコールを掛け、警視庁時代の同僚に連絡を取った。元同僚も今では所轄署で係長になっていた。久闊を語り合う時間は延々と続いた。まぁそれも大使館の電話代だし、と思った。
永い昔噺の末に、やっと話題を転じ、神奈川県警の知り合いを紹介して貰った。今度は神奈川県警に電話を掛けた。横浜の酒販業者の名前を元に、その会社を調べて欲しいと捜査共助を要請した。
数日のうちに回答のメールが届いた。この業者のオフィスはペーパーカンパニーだと判った。同時に気になる事案を書き添えて呉れていた。
――横浜の引き篭もり青年がネット上で「いいアルバイトがあります」という書き込みを見た。「海外送金を代行して呉れれば、送金額の一割を報酬として支払います」
相手はこの横浜の酒販売会社を名乗っていたという。
青年は関心を持った。そこで相手とメールで連絡した。簡単な契約書が送られて来た。青年に求められたのは、自分の銀行口座に振り込まれた金から、報酬分を差し引いて海外に転送する、という行為だった。ネイザーランド辺りから振り込まれた金額は百三十万円、報酬は十三万円だったという。
この際、指定されたのが、合法的な海外送金会社のサービスだった。代理店は国内に多数ある。身分証明書を提示し、送金先を書くだけで現金を送れる。青年に依頼された送金先は香港のバイヤーの口座だった。
この様に送金代行の名目で「運び屋」をネット上で募り、手軽な海外送金サービスを使って犯罪収益をマネーロンダリングさせる方法が目立ち始めている。運び屋は気付かないうちに犯罪に荷担している。彼等は「マネーミュール」と呼ばれているらしい。マネーと動物のミュールを組み合わせた造語だという。
腰を屈めて覗き込む男の顔が、アップになっている。動画からスナップショットにした画像だ。ブラインドから漏れる外光の為に、顔はストライプになっている。CCDカメラに気付いていない様子だ。
「これは誰だ」
と問う声がする。判りません、と技術者が応える。
「顔認証で照合は出来ないか」
やってみます、と技術者は応えた。パソコンを操作している。暫くして結果が出たらしい。マッチしました、と言う。
「何処の誰だ」
「タンパのゲストIDにヒットしました。ジエイタイのナガヌマとあります」
「タンパか」
結局、ハワイでは一泊もせずに戻った。スティーブンの部隊の連中は、それでも疲れも見せていない。長沼は長期滞在しているタンパの部屋に戻った。
テレビを点けると、ディスカバリーチャンネルの番組が始まっていた。長沼はバゲージを解きつつ、その話に耳を傾けていた。
画面には陽に灼けた老人が登場していた。遠く水平線が見えている。クルーザーの上らしく、画面がゆっくりとローリングしている。テロップに「海洋考古学者トーマス・バラード」とある。フレームの外からインタビュアーの声がする。
「八五年に行かれた二回目の沈没ガレオン船探査は、実は海軍の秘密作戦だったそうですね」
学者が応える。
「海軍は六〇年代に沈んだままの二隻の原潜の原子炉が今どうなっているか、環境に与える影響がどうなっているのかを、知りたがっていました。同時に、その作業位置をソ連に知られることを嫌がりました。当時ソ連は人工衛星から私たちの動きを監視していましたから、停泊すればその場所が分かってしまいます。ですから、ソ連の目をそらすために「ガレオン船探査」を利用したわけです」
「秘密作戦のお陰で探査資金や潜水探査技術の開発に、軍の支援を得る事が出来ましたね」
「えぇ、海軍がガレオン船探査に資金提供した訳です。パートナーシップであり、取引だった訳です。当時、私は予備役でしたが、その期間だけ呼集された形を取り、現役復帰しました。そうすると、国際条約によって保護され、スパイではないと身分を保証されます。そんな事が、冷戦が終了するまで続きましたね」
携帯電話がメール着信を伝えた。開いてみるとフランスの大野からだった。途惚けた奴だが、あれで内閣情報調査室の出向要員だ。無能ではない。
「香港に居ますが、何かお土産を買いましょうか」
フランスの日本大使館にいる大野と、こうして未だメールを絶やさないのは、奴が目をつける情報に、特徴があるからだ。何かが匂う。それは大野独特の嗅覚なのだろうか。
――丁度良かった。ついでに頼みたい事がある。
長沼は返信を打ち始めた。
大野は旺角の裏通りを歩いていた。
横浜の酒販会社はダミーで、つまり香港のバイヤーなのだ。競売に掛かったシャトー・ペトリュスは二本共、同じ業者の手に落ちていたのだ。
まぁ足して均らせば二倍の価格とゆー事かな、と大野は思った。しかしどうも納得が行かない。誰かが落札を代行させていたのだ。
そこで香港まで出張を願い出たのだ。青年の持っていたアドレスを頼りに、ここまで遣って来た。バイヤーのオフィスのあるビルを見極めると、周囲を見回した。好都合なビルが通りを挟んで向いにあった。
大野はそのビルに入った。廊下には摺硝子のドアが並んでいた。いずれもオフィスらしい。狭い廊下を抜け、奥の階段を上った。屋上に出ると、向いのビルを見下ろせる場所に立った。
左から三つめの部屋が、目指すバイヤーのオフィスだ。オペラグラスで覗くと、数人の男が居る。上司の物と覚しきデスクに、細身のボトルが二本ある。
ありゃ~、こんな西陽の当たる部屋に常温で置いてるよ、と大野は思った。
遠隔盗聴装置のパラボラを開いた。それを向けると連中の会話が聞こえた。
ワインを巡って上司が何か言っている。
「有打開栓的胆子的人、還有五〇年不出現」
手にしたパイプで、ワインボトルを小突き乍ら、更に言う。
「在事態平静下来就倒売貨」
つまり偽物か、あるいは品質が落ちた不良品なのだ。正価のヴァリューは無い。それを一万ユーロも出して買ったという事だ。
その夜、大野は九竜半島に居た。弥敦道に建ち並ぶビルのうち、比較的小さなホテルが、長沼に指示された場所だった。DIAに張り着いている長沼は、ワイラーという男の潜伏先の情報を入手していた。
大野はあたかも夕食を楽しんで帰って来た宿泊客という顔で、自然体でエントランスホールに入った。ドアボーイなどにも気軽に声を掛け、また日本人らしく頭を下げた。それだけで怪しまれずに済んだ。
エレベーターで目的の階に上がった。絨毯の模様も美しい廊下に、人影は無かった。目指す部屋番号を見つけた。官給品の万能鍵を取り出した。
――部屋の中には灯りが点っている。小さな音で音楽が流れていた。ドアを開いて入って来たのは大野だ。廊下を伺いつつ、手早くドアを閉じ、内鍵を掛けた。狭くはないがワンルームの部屋だった。ドアを入ってまっすぐに居室。その先にはベッドがあり、窓脇にはデスクがある。デスクに近寄った大野は、開いたままのノートパソコンを見た。停止している。
大野の顔がアップになる。ディスプレイ画面は暗いが、その脇のウェブカメラは活きているのだ。大野はまだそれに気付いていない。
大野は部屋を改めている。デスクの椅子には、シャツが掛かっている。その下にはネクタイも見える。ベッドのヘッドボードにスイッチがあり、ラジオがオンになっている。ベッドの下には三足の靴がある。
ワードローブを開く。数着のジャケットやスラックスが掛かっている。その下にはボストンバッグがある。大野はバッグを引き出して蓋を開いた。若干の書類と、変換プラグなどはあったが、概ねは出してあるのだろう。
チェストの上には携帯電話の充電器、髭剃機などがある。小皿にナッツが残っている。チェストの引き出しを引く。そこにはアンダーウェアなどがある。その下を探っている。
大野は再び部屋を見回した。それから振り返りバスルームのドアを開いた。中を覗いている様子だが、この辺りでウェブカメラの視野からフレームアウトしてしまう。
やがて大野は室内に戻った。収穫なし、という表情だ。それからドアに向う。覗き孔から廊下の様子を伺い、ドアを開いて出て行く。音を殺してドアが閉じられた。宜しい、スパイ教本に忠実だよ、オウノウくん。
自分の部屋に、大野は戻った。日本大使館に用意して貰ったホテルだ。窓際の椅子に座り、ひと息入れる。窓からの夜景が美しい。やっとそれを見る余裕が出来た。家宅捜索などするのは、所轄署勤務以来だろう。結構緊張してしまった。
パソコンを取り出して、メールソフトを起動した。長沼に報告を書く。
「対象者は部屋には不在でした。一時的な外出、あるいは食事と見て、早々と捜索して、引き揚げました。収穫はありません」
すると長沼からロングディスタンスコールが掛かった。
「いや~、お手数掛けましたね」
と長沼は言う。久闊の挨拶もそこそこに、
「で、何か感じなかったか」
と問う。そう問われると、あの部屋で感じた違和感を、大野は思い出した。
「確かに、何か感じました。何でしょう」
と可笑しな返答になる。
空港からテジェヴェに乗り継いで、北駅に着いた。その足で大使館へ出勤した。事務室のみんなに香港のお菓子を配った。デスクに座ると、友野さんが珈琲を入れて来て呉れた。パソコンを起動した。
デスクには回覧用の公電のクリアファイルがある。カップを手にそれに目を遣った。
「陸上自衛隊の所属機関「研究本部(東京都練馬区)」から、正規の手続きを経ずに入手したとみられる、外交公電のコピーや秘密文書が多数見つかっていた事が、防衛省の内部監察でわかった」
あれ、長沼さんに関係あるかな、と大野は思った。
「公電は主にイラクでの米軍の活動状況を伝える内容。防衛監察本部の昨年五月の定期監察で発覚し、陸上幕僚監部も「秘密保全に関する訓令」に抵触する可能性があるとみて、調査や事情聴取を続けていた」
あぁ当時のものね、と大野は思った。それなら我々からは遠い。
「研究本部は陸自の部隊運用や装備開発などを研究する専門機関として朝霞駐屯地内に〇一年に創設、陸将をトップに大半が佐官や将官というエリート集団。約五百人の隊員がいる。当時、イラク派遣に絡む運用や装備などの研究を担当していたが、公電を取り扱う立場にはなかった」
あぁ、これに関する事か、と大野は手にした文書を見つめた。
「関係者によると問題とされた文書は、複写された外交公電(暗号で保護された外務省の秘密文書)数百ページ。陸自の編成・運用に関する内部の秘密文書(防衛省の「特別防衛秘密」「防衛秘密」に次ぐ「省秘」とされるもの)、海上・航空自衛隊から入手した内部の秘密情報の三種類」
なかなか優秀な情報収集能力を持ってるぢゃないの、と思う。
「防衛省は当時、中東地域を管轄する米中央軍司令部(フロリダ州タンパ)に複数の自衛官の連絡官を常駐させ、米軍との業務調整やイラクの治安情報の入手に当らせていた」
これはまさに長沼さん達の事だな、と大野は思った。
長沼は、ワイラー情報の漏洩問題についての調査状況をメールにしていた。情報保全隊の隊長宛にそれを発信すると、返信があった。
以下の報道を見よ、とあって長いテクストがペーストされ、その最後に、
「本官もこの問題に関与していた。依って保全隊の隊長職を解かれる。後任については、今後の連絡を待て」
と続いていた。まさに長沼が調査して来た情報が、この「研究本部」に蓄積されて来たのだ。かつては上司を殉職で失った。その彼を拾って呉れた隊長だった。しかしここに来て再び、長沼は指揮系統を失う事になった。
3
モンテブランはパリ近郊、ディズニーランドにも近い街だ。騒ぎが始まったのは十三日朝だった。スーパーマーケットの経営者が、仕入れから戻った折、駐車場の脇で「大きな猫のような動物」を見かけた。機転が利いて携帯電話でそれを写真に撮った。そして憲兵隊に通報した。
いささかフォーカスは甘かったが、写真に写った動物はどうも虎に見えた。その写真は瞬く間に拡散された。すると地域住民に不安が広がった。憲兵隊は目撃された現場周辺を、組織的に捜索した。しかしこの日は収穫は無かった。ディズニーランドにも問い合わせたが、本物の動物を扱うアトラクションは演じられていない、との回答を得た。
翌日になっても何も見つからず、住民の不安は更に拡大した。捕獲作戦が立案され、消防隊や近隣のハンターなども呼集された。麻酔銃を手にした捕獲部隊は百人を越える規模となり、彼等は隊を組んで山林を探索した。ここに来て熱を感知するセンサーを積んだ無人ヘリコプターまでも投入された。
憲兵隊はこの日、夕刻に警戒を解除し、
「ネコ科の動物だが、虎ではないだろう。人への危険は小さい」
との見方を示した。
オランダで七月、ピカソの絵画「アルルカンの頭部」が焼却されるという事件が起きた。この絵画はロッテルダムのルーマニア人女性が密かに所持していた。それは彼女の息子から預けられた物だった。
息子を含む数人は三月、ロッテルダムのクンストハル美術館に未明に押し入った。彼等は手際良く七点の絵画を盗み出した。被害額は数百万ユーロにも上ると見られていた。「アルルカンの頭部」はこの中に含まれていた。
七月に一味は逮捕された。この容疑者のうちの一人の母親が証拠隠滅のために絵画を燃やした可能性がある。母親は捜査当局に対し、息子の逮捕に動転し、
「事件の大きさに怕くなった」
と言う。
そして絵画を住居のストーブで燃やしたと証言したという。ルーマニアの美術館などが残された灰の鑑定にあたった。この証言が事実かどうか確認を急いでいる。
「NSAの分析官は、事前の法的承認なしに電子メールやチャット、ウェブサイトの検索履歴といったネット上の殆ど全ての個人情報を収集する事が出来る。それに使われるのが「エックス・キースコア」と呼ばれるプログラムだ。これは独自の検索システムで、電子メールの文面やサイトの閲覧履歴などまで収集可能だ。これは各国の主要なサーバーに接続されている。NSAは二〇〇八年までに、このプログラムによって三百人のテロ容疑者を拘束したという。〇九年に発覚したニューヨーク地下鉄爆破テロ計画の手掛りをつかむ上でも重要な情報を得られ、NSAのアレキサンダー長官も「不可欠だった」と発言している」
この情報を発信してワイラー氏は、また身を隠したと見られる。二四日以来、滞在していた香港で、連絡を取る事が出来なくなったと、ワシントンポスト紙は報じた。
それを受けウィキリークスは「ワイラー氏の民主国家への政治亡命や渡航書類、香港からの安全な出国を支援した」と表明。しかし実際には「政府を代表する」と名乗る人物が「安全に香港を離れられる」と出国を求めたのだという。「出国を求めたのは、おそらく中国政府関係者だろう」とガーディアン紙は報じた。
米司法省報道官は「渡航先の国々に対し、法執行に関する協力を求める」と述べて来た。それに対し香港政府は、
「米政府から身柄を拘束するよう要請があったものの、提出された文書では法律の要件を満たさず、再提出を求めていた」
と反論する。元職員を拘束できる証拠が手元になく、出国を止める法律的根拠もなかったのだ。と言うのだ。
そんな情報が交錯する中でイタルタス通信が、アエロフロート関係者の話として伝えたのは、
「ワイラー氏は二四日にはキューバの首都ハバナに向かい、その後、ベネズエラの首都カラカスを目指す」
という情報だった。出し抜かれた格好の各国マスコミは色めき立った。
注目のアエロフロート機は二三日午前十一時頃、香港を発ち、同日夕刻モスクワのシェレメーチエヴォ空港に到着した。
しかしワイラー氏はロシアのビザを持っておらず、入国手続きを出来ずに居た。空港の乗り継ぎエリア内で待機しているため、ロシア側の治安当局も身柄を拘束することは出来なかった。
各国のマスコミも続々とシェレメーチエヴォ空港に降り立った。そしてワイラー氏の姿を求め、空港内を隈無く探した。と言うのも、彼等の全てが、暗殺が行われるとすれば、この場所でだろうと見ていたのだ。しかしワイラー氏の姿はついに発見されなかった。
ロシア政府はノーボスチ通信の問いに、元職員の出国に無関係である事を強調し続けた。マスコミの誰ひとりその姿を発見する事の出来なかったワイラー氏だが、二十四日午後になればモスクワ発ハバナ行きのアエロフロート便に搭乗するとみられていた。
けれど同機はワイラー氏を乗せずに離陸した。機内には約三十人の記者が搭乗して待ち構えていたが、ワイラー氏と覚しき人物は座席に居なかった。またも空振りに終わった記者たちは、陽光溢れるハバナに何の宛も無く降り立ったのだ。
エクアドルのリカルド・パティニョ外相は、ワイラー氏の亡命受け入れを検討するとして「身柄の扱いについてロシアと協議している」と述べた。その結果としてワイラー氏は、依然シェレメーチエヴォ空港に滞在している事が推測された。
これを受けてプーチン大統領は「彼は今も空港のトランジットゾーンにいる」と述べざるを得なかった。
プーチン大統領は、訪問先のフィンランドで会見し、ワイラー氏とロシアの情報機関のつながりを否定した。今回の騒動を、
「まったく予期していなかった」
と言い、米国が求める身柄引き渡しについては、
「米ロ間に協定がない」
として拒否した。
この間に米国は、ワイラー氏のパスポートを失効させた。それは皮肉にもワイラー氏を敵対するロシアに足止めする結果となった。ワイラー氏はもはやロシアから出国出来なくなった。
そこでワイラー氏はロシアに短期亡命を申請した。申請は八月一日に一年間を期限として認められた。ここからワイラー氏のモスクワ生活が始まる。
その後のワイラー情報は、英国紙ガーディアンの一日付で登場した。
「米国家安全保障局NSAが三年以上に亘り、少なくとも一億ポンドを極秘に英国情報部の政府通信本部GCHQに提供していたと報じた。GCHQはこれらの資金を、携帯電話の盗聴で個人情報を収集する試みなどに使ったとしている」
ニュースサイトのインターセプトからの報道。
「NSAとGCHQは大手SIMメーカー・ジェムアルトの社内ネットワークに侵入した。不正ソフトウェアを従業員のコンピューターに埋め込み、SIMカードの暗号鍵を盗んでいたという。二〇一〇年の三カ月で数百万の暗号鍵を集めたとしている。ジェムアルトは年間約二〇億枚のSIMカードを製造、それぞれのカードごとに暗号鍵を設定し、出荷している。米英情報機関は、盗聴したい相手の電話番号やSIMカードを特定し、手持ちの暗号鍵が使えないか調べていた可能性があるという。これは元CIA職員ワイラー氏の情報による」
英国紙インディペンデントは五日付で報じた。
「英国政府通信本部GCHQが、ベルリンの英国大使館を拠点にドイツの連邦議会や首相府の通信を傍受していた疑いが明らかになった。ドイツ外務省は、駐独英国大使を呼んで報道について説明を求めた。欧州局長が英大使に報道内容について訊き「外交施設での通信傍受は国際法違反」と指摘した。英首相官邸の報道官はこの件でマスコミに対し「諜報活動に関する質問にはコメントしない」と回答した」
記事には英国大使館の屋上に設けられた傍受装置とみられる白い円筒状の構造物の空撮写真も掲載された。写真のキャプション「この装置は二〇〇〇年に大使館が開館した当時からあり、携帯電話や無線LANの通信を傍受できるという。これは本紙が入手したワイラー元CIA職員の情報による」
4
長沼がオフィスに入ると、部隊は妙な緊張感に包まれていた。米軍のオフィスなので、長沼のデスクがある訳ではない。日米の共助協定に基づいたパスを有しているだけだ。DIAの本部内で、スティーブンの部隊に長沼は張り着いていた。彼等はひとつのパソコン画面に見入って、小声で語り合っていた。
「モーニン、エブリバデェ」
と、長沼が近づくと皆は口をつぐみ、一斉に視線を長沼に注いだ。
「何よ、どしたの」
と長沼も画面に目を遣る。部隊間の伝達情報の様だった。
――ロシア連邦保安局FSBは、米中央情報局CIAの工作員の身柄を拘束したと発表した。ロシアの一般人を米国のスパイにしようと勧誘していたとされる。
「拘束されたのはライアン・フォグル三等書記官。在ロシア米大使館の財務部員として働いていた。十三日から十四日にかけてロシアの情報機関員を勧誘していた現場をFSBに押さえられた。書記官は多額の現金、ロシア人向けのマニュアルなどを所持していた。勧誘相手に宛てた手紙も押収されそこには、経験や専門知識についての情報提供に十万ドル、長期的な協力に対しては年間百万ドルの報酬を確約。今後の接触方法なども書かれていた。ロシア外務省は十四日、フォグル書記官を「ペルソナ・ノングラータ」に指定し、国外退去を求めた」
「これがどしたの」
と問うとスティーブンが応えて呉れた。
「我々もマークしていたんだ。先に押さえられちまった。帰国した処で身柄を押さえたいが、うまく行くかな」
部下が応える。
「ラングレーを出し抜かなきゃなりませんね」
大野はパソコンに向ってワイン調査の報告書を書いていた。脇から友野嬢が声を掛ける。
「これ。この前見たのはこれではないでしょうか」
友野嬢のパソコンの画面に目を遣ると、ニュースサイトが表示されている。
「米インターネット通販大手のアマゾンは一日、無人飛行機を使った商品の配達テストをしていると公表した。GPSを備えた小型の無人機を使用し、商品を顧客の自宅に直接素早く届けるという。ジェフ・ベゾスCEOが、出演した米テレビ番組中で明らかにした。空輸により最寄りの物流センターから約三〇分で届けられる。商品を目的地で投下する方法などが検討されている。無人機で配達できるのは重さ二・三キロまでの商品。という事は同社が扱っている商品の約八六%が対象となる。同氏によると、今後も更にテストを続けるが、サービスの実用化は、関連当局の認可次第で四~五年後には実現出来るだろうという」
「アマゾンがパリでテスト飛行してたとゆーんですか」
と大野は笑った。こんな都市部では商品の投下も難しいだろうな、と思った。
「アマゾンと言えばこれ」
と友野嬢の興味はもう次のトピックに移っていた。
ブラジルのテレビ局「グローボ」による報道だった。
「ブラジルの産業情報が、カナダの情報機関により収集されていた。「オリンピア」と呼ばれるプログラムにより、ブラジルの鉱山エネルギー省の電話や電子メールなどの通信内容が収集されていた。昨年九月にはNSAが石油会社ペトロブラスを含む企業のコンピューターに侵入していたことも報じられ、油田の入札情報なども対象になった可能性がある」
おや、また新しいソフトウェアが登場したな、と大野は思った。しかしブラジルは情報を搾取されまくりだ。NSAが大西洋の海底に興味を持っているとゆーのか。
「元CIA職員ワイラー氏の提供した内部文書は、情報収集は米国家安全保障局NSAの専門部隊が関わっていた事などを示している。昨年十月、米国・英国など五カ国の情報機関員が参加した会合でこの文書が共有され、ワイラー氏はその場で入手したという」
この詳報は大野の目を引いた。ここで初めてワイラー氏の姿が公の前に登場した様に思えたからだ。
「しかし、各国情報機関員の会合って、そんなの本当にあるのかね。合コンでもあるまいし」
と大野が口に出すと、友野嬢はまた別の記事を示した。ネットサーフィンが身に着いている様子だ。
「デフコンの話題でしたらこれです」
「車載システムがハッキングされ、運転中にハンドルやブレーキが利かなくなる。こんな事態が現実味を帯びてきた。米ラスベガスで開催中のハッカーの祭典「デフコン」で、トヨタ自動車のプリウスなどを例にホワイトハッカー達が手法を披露した」
それなら既知の技術だな、と大野は思った。
「あぁMI6が持ってる技術でしょ。ハッカーにも出来る様になったんだ」
こうして先端技術は一般にも浸透してゆくのか、と遠い目をしかけ、をっとそれ処ぢゃないぞ、と思い直した。
「米国防高等研究計画局DARPAの助成を受けたツイッター社の研究者チャーリー・ミラー氏らが、プリウスとフォード・エスケープを例に発表した。ミラー氏らは車載ソフトを解析しコネクタでの接続に成功。運転手の意思に反して急加速やブレーキを利かせたり、ハンドルを動かしたりした。更にエンジンを切り、残り少ない燃料を満タンとして画面表示させる様子なども映像と共に披露した。研究結果はデフコンでの発表前に両社に送ったという」
ダルパかぁ危ないな、と大野は思った。
「システムを解析したミラー氏は「コネクタをWiFi接続すれば無線でも出来る。他の研究者も他の乗用車で取り組んでほしい」と語った。デフコンでは他にBMWのミニクーパーのシステム解析で、運転を妨げる仕組みの発表もあった」
あんな小型車でもシステムを詰んでるんだ、と大野が感心していると、既に友野嬢は別なトピックに目を移していた。
「アラファトさん、やっぱり暗殺されてたんですね」
「そんな話が出て来てますね」
大野はやっと話に追い着いた。アルジャジーラは昨年七月、アラファト氏の遺品の衣服や歯ブラシからポロニウムが検出されたと報じた。
「これもアルジャジーラの報道なんですけどね」
と友野さんはブラウザのタブをクリックした。
「アルジャジーラは六日、パレスチナ自治政府の故アラファト議長の遺骨などから、通常の十八倍以上の放射性物質ポロニウム210が検出されたと報じた。パレスチナの死因調査委員会が調査を依頼したスイスの研究機関の報告書から明らかになった。パレスチナでは、アラファト氏が二〇〇四年に原因不明の死を遂げた当時からイスラエルによる暗殺説が囁かれてきた。妻のゾウハさんはパリ郊外ナンテールの裁判所に刑事告発している。調査をしている仏捜査当局の鑑定結果は、まだ提出されていない」
「おや、フランスで提訴してるんですね」
友野嬢の示す箇所を目で追う。
「これもポロニウム」
と友野嬢は呟く。放射性物質に詳しいんですか、と問うと、
「やだぁサプリみたいな名前だと思ったんですよ」
と笑う。詳報は更に続く。
「この疑惑についてはスイスの放射線物理学研究所が既に、遺品から採取した尿や血液から毒性の強い放射性物質ポロニウムの痕跡を見つけたとする論文を、英医学誌「ランセット」に発表していた。論文は、アラファト死が使った下着や歯ブラシなどから採取した尿や血液の検査から「説明のつかない高い値のポロニウムの活動が確認された」としている。「毒を盛った可能性を示唆するもの」だが、完全な確定は遺骨の検査が必要だとして来た」
新しい毒物がトレンドになって来たな、と大野は思った。
「これを受け死因調査委員会は昨年十一月にアラファト氏の墓を開いて試料を採取した。試料を提示されたスイスとロシアの研究機関は、肋骨や骨盤、臓器部分にあたる土などから、高い数値の放射性物質ポロニウム210を検出した、とする調査結果をそれぞれ同委に提出している。ただ同委に参加する医師は、ロシアからの報告書ではポロニウムが死因になったという充分な証拠は、示されていないと述べた。報告書はこの結果がアラファト氏の毒殺説を「ある程度裏付ける」としている。パレスチナの死因調査委員会のティラウィ氏は八日の記者会見で「自然死ではない。これが暗殺であれば唯一の犯人は自明だろう」と述べた。アラファト氏の毒殺説が補強された事を受け、妻のソウハさんは「これは世紀の犯罪だ」と語った」
長沼はケネディ・エアポートに居た。スティーブンや彼の部下達と共にゲートを見張っていた。ここまでの道中で作戦は決まっていた。部下三人が既にゲートの中に居る。
「イミグレーションの前に、フォグル書記官には別室においで頂く。そこから軍専用ゲートを通って、連れ出しちまえ」
モスクワからの便は既に到着していた。スティーブンはイヤホンモニターに注意を向けていた。そして「シット」と呟いた。イヤホンの向うで部下は「出て来ません」とうろたえていた。
ロビーの向う側に、ダークスーツの一団が居た。その頭目と覚しき人物が、スティーブンに視線を据えている。そして一声挙げた。
「ヘィ、スティーブンぢゃないか」
呼び掛けられてスティーブンも目を遣った。不審な表情をしたがすぐに笑顔を装った。そして言葉を返した。
「やぁ、ラングレーの叔父貴。お元気でしたか」
二人は互いに歩み寄った。叔父貴はスティーブンの肩に手を回し、傍らのベンチへ連れて行った。長沼は、とぼけた笑顔を浮かべ日本人旅行者を装って、彼等の方へふらふらと進み、後ろのベンチに座った。叔父貴は小声で言う。
「お前等、何をした」
「いや、書記官をお迎えに上がっただけだぜ」
スティーブンも小声で応えている。
「何処かへ行っちまったぢゃないか」
「ラングレーが手を回しただろ」
「いや、違う。モスクワで搭乗した時には奴ひとりだったんだが、隣に美人が座ってたらしい。到着した時にはカップルになってて、いつの間にかトランジットのペアチケットまで持ってやがった。お二人はそのまま南米にハニムーンだとさ」
「やりゃがったな」
「お前等だろ」
「俺の隊に、女装出来る優男は居ねぇよ」
叔父貴はスティーブンの部下に目を遣り「そう言ゃそうか」と納得した。
ワシントンポスト紙はモスクワに滞在するワイラー氏の単独インタビューに成功した。しかしその交渉過程は公表されていない。ワイラー氏は約束の時間に、監視者など連れず只一人で現れたという。インタビューは食事を摂りつつ十四時間に及んだという。
「中国政府に秘密の資料は渡していない」
「ロシア政府とも関係もないし、何の合意もない」
「私はNSAを倒そうと思ったのではない。改善しようと思ったのだ」
インタビューはリラックスした雰囲気で進んだと描写される。
後日、ワイラー氏はプーチン大統領の出演するテレビ番組に、中継で登場した。このテレビ局の交渉過程も公表されなかった。スタジオに設置された大きなディスプレイの向うからワイラー氏は、大統領に問うた。
「ロシア政府は市民の通信を傍受したり、分析したりしているのか」
プーチン大統領は、いつものポーカーフェイスで、
「大規模で無差別な盗み聞きなどは許可しなかったし、今後も決して認めない」
と応えた。
一連のワイラー情報公開の件で、英ガーディアンは英当局からの圧力に対抗するため、八月からニューヨーク・タイムズと提携した。互いが保有する五万点以上の文書を共有のデータベースとした。ニューヨークタイムズの報道には非営利の調査報道専門組織「プロパブリカ」も参加を表明した。こうした経緯で、以下の情報は英国ガーディアンと米国ニューヨークタイムズが同時に発表した。
「NSAは暗号の解読を重要目標としている。スーパーコンピューターを駆使して、IT企業やインターネットプロバイダーなどに協力を得て、サイトの暗号情報に侵入する為の「弱点」を設けているという。ネット上の情報の多くは「SSL」や「VPN」などと呼ばれる手法で暗号化され、第三者が傍受しても内容は読めない。この暗号化には元々、米国の団体などが作った世界的な基準があるが、NSAは設計段階からここに関わり、侵入しやすいよう「バックドア」を仕込んでいたという。これらの活動はいずれも最高機密扱いとされ、英国GCHQなどごく一部の関係者だけに知らせていたらしい。GCHQも同様の活動をしており、二〇一〇年には三〇のVPNを突破、さらに三百を破る目標を立てていたという」
ワイラー氏は再びテレビのインタビューを受諾した。NBCテレビによる取材はモスクワ市内のホテルの一室で行われた。ここでもワイラー氏に監視者が付いている様子は無かった。
かつての写真より髪型が短くなったワイラー氏は、やや緊張した口調で語った。
「当局が私の事を、只のシステムエンジニアだと言うのは間違っている。私は伝統的なスパイ訓練を受けた。偽名のパスポートを与えられ、海外に潜伏し、別の職業に就いているように振る舞った」
ルイス国家安全保障担当補佐官は、定例ブリーフィングでこの発言について質問され、
「彼は僅か十二カ月の契約社員だった」
と否定した。
裏通りのネオンサインの灯りが窓から入り込み、部屋を薄紅く染めている。ライティングデスクに置かれたノートパソコンに向う技術者の顔も、紅い。ルームライトを点ける訳には行かない。隙を見て入り込んだのだから。
ディスプレイ画面にはコマンドラインが並んでいた。
「エクゼキュート」
と技術者は呟いた。コマンドを実行すると、数多くのファイル名が表示され、スクロールしめた。それこそが抹消されて行くファイルだった。
長沼はDIAのオフィスで、業務を遂行する隊員の姿を見ていた。スティーブンがミリタリーな冗句を言っている。部下がそれを受ける。
すると部屋の隅から「ボス」と呼び掛ける声がした。スティーブンは表情を引き締め、そちらへ向った。部下はパソコンの画面に向っている。そこには何処とも知れない街路の地図が表示されていた。
「モスクワからワイラーの信号が消えました」
ゑ、こいつらワイラーを追っていたのか、と長沼は思った。まるで素振りも見せていなかったが、それならハワイで俺が家宅捜索に行ったのも、スティーブンの意向に踊らされてたのか。
「スキャニングの範囲を拡げてみろ」
というスティーブンの命令に、部下は従ったが、
「十キロ圏内にも反応がありません」
と応える。
「一瞬にしてかよ、もっと拡げろ」
とスティーブンが部下の椅子の揺さぶった。
「何か異変は無かったか。ウェブカメラ映像をロールバックしてみろ」
それに応えて別なパソコンが操作された。フォルダーの中には数多くのサムネイルが並んだ。部下がスクロールしてゆく一瞬に、長沼の目に飛び込んだ画像があった。大野がアップになっていた様に思える。
何処で撮られたものなのだろう。
5
暑熱の残る深夜の事だった。パリを見下ろすモンマルトルの一角。裏通りの倉庫の扉の前に膝まづく影があった。扉に掛けられた南京錠に細工をしている。やがて錠が開いた。男が合図すると傍らに停められていたバンから、数人の男が降り立った。いずれもボンベの様な物を重そうに抱えている。
男達は開いた扉の中に音も立てずに入り込んで行く。先に入り込んだ男が懐中電灯で照らすと、広い空間だった。そこにドローンが置いてある。懐中電灯で照らして行く毎に、次々にその機体が視野に入る。五機ある様だった。男達はその各々に歩み寄る。奥へ進んだ男が照らし出したのは、コンソールの様だった。男はその前の椅子に腰を下ろした。構造を調べている様子だった。
ローマ法王庁とバチカン市国の財務情報を監視する独立機関「聖座財務情報監視局」は二十二日、初めての年次報告書を発表した。
バチカンの二〇一二年の金融取引のうち、計六件にマネーロンダリングの疑いがあると認定した。
疑わしい取引には、カトリック教会の資産を管理・運用する宗教事業教会が関わるものもあるという。約六〇億ユーロの資産を扱うこの巨大組織・通称「バチカン銀行は」一〇年、資金洗浄に関与したとしてイタリア当局の捜査を受けた。
聖座財務情報監視局は、前法王ベネディクト十六世が十年末に設置した。跡を継いだフランシスコ法王も、情報公開を勧める意向を示している。
会見に出席した監視責任者のブルラート氏は、うち二件について、バチカン検察当局に捜査を要請したという。また六件とも「テロ資金とは無関係」と言う。
「バチカン銀行は、一般的な銀行と違って営利を目的としておらず、バチカンはタックスヘイブンではない」
と述べ、疑惑の解明に意欲を示した。
タンパのオフィスでは、長沼がスティーブンを問い詰めていた。
「このパソコンで、あんた達はワイラーの位置を追っていたんだな」
「そうだ、今迄は全て位置を捕捉出来ていた」
スティーブンは、諦めた様に応えた。
「ぢゃ、あのハワイの家へ俺を行かせたのはどーしてだ」
「ワイラー自身があんたを察知出来るかどうか、調べたかったんだ」
「で、あんた達は俺の陰に隠れて成行きを見てた訳だ」
「すまんな」
まるで反省はしていない。
「しかし、あの家では何か妙な感じだったぜ」
「何がだ」
それは、と長沼は考え込む。勘に訴えているだけに過ぎないのだ。
「同棲してた筈の女は何処に行ったんだ」
「それが全く行方不明だ」
「で、今ワイラーは何処に居るんだ。その後は探知出来てるんだろ」
「モスクワから遠くへ逃げたよ。モルドバだ」
パリは文化遺産の日で浮かれている。友野嬢が休暇明けで出勤して来た。
何処に行ってたの、と同僚に問われ、「ちょっとニースまで」と笑った。
同僚は、少し灼けてるんぢゃない、と返した。
「あらやだ、美白しなくちゃ、痕になっちゃう~」
と友野嬢は周章てて言った。
大野はデスクで大使館情報に目を通していた。
「米司法省は二十五日、米国内でロシア政府のために非合法で情報収集活動をしたとして、外交官二人を含むロシア人三人を訴追し、米国内にいた一人を逮捕した。情報収集のため、ニューヨークに住む米国人らを勧誘しようとした疑いがあるという。司法省によると、訴追された三人はいずれも、連邦対外情報局SVRの指示を受けていたと見なされている」
ロシア側のリクルーターか、と大野は思った。互いに相手国の一般人をリクルートしたいんだね。
「逮捕された男は、ロシア系銀行ニューヨーク支店の行員として入国し、米政府に届け出せずに情報収集活動などをしていたという。またロシア政府の通商代表部に勤務していた男と、国連代表部に勤務していた男も、情報収集活動を支援していた疑いがあるという」
まぁそれは通常業務でしょ、と大野は思った。
「外交官の二人は既に出国しているという。二人は外交特権により、職務について米政府に届け出をする必要はなく、米国内に滞在していた間は逮捕されることもなかった。しかし、違法な情報収集活動に関与する場合は免責の対象とならず、訴追されたという」
目立ち過ぎると危ないね、と大野は自分を戒めた。私だって情報収集活動してるからな。フランス外務省からペルソナ・ノングラータと言われる事になるかも知れないぞ。
同僚達が検索結果を見て、盛り上がっている。
「何ですか」
と大野が問うと、事故現場が写ってるかも知れないんです、と応える。そして地図サイトの航空写真をクリックして拡大して見ている。
これです、と示された隣のパソコンの画面には、こんな情報があった。
「米ネット検索最大手グーグルが運営する「グーグルマップ」の衛星写真に、交通事故現場が写っていた。サンフランシスコ近郊リッヂモンドで二〇〇九年八月、ハイウェイで多重衝突事故が起きた。衛星写真には、斜めに停車している複数の事故車両や警察車両が見え、関係者や道路脇で立ちすくむ少年の様子が写っている。指摘した事故被害者にグーグルは削除を約束した。しかし削除には約八日掛かると言う」
「何処から撮ってるんだろ」
大野は、思わず窓を見上げた。窓からは快晴の空が見えた。
「そーか、空からか」
大野は思わず立ち上がっていた。館員達は、そりゃそうでしょ、と呟いた。
「ちょっとフナァキュへ買い物に行きます」
大野はバッグを抱えて事務室を出た。
モンマルトルの倉庫ではシャッターが開かれていた。出動の準備が進んでいた。だが、リーダーらしき太めの男は苛立ちを見せていた。奥のコンソールで周章てた声がしている。どうもおかしいです、反応がありません。起動はしているんですがね。
フランス・ソワール紙二十六日付の報道。
――園遊会で賑わうエリゼ宮で二十六日午後、無線操縦の小型ヘリ数機が敷地内に入り込み、庭の一角に墜落する騒ぎがあった。このヘリは全長六十センチほど。四つのプロペラがある。ヘリは家電販売店などで千ユーロ以下で市販されている物だという。
文化遺産記念日の園遊会に招待されていた多数の目撃者によると、二十六日午後三時すぎ、数機のヘリが四方から低空飛行のままエリゼ宮敷地内に入った。そのまま庭園上空を飛び回っていたが、次第に動きがおかしくなり、やがて全て墜落した。
参会者は一時パニックになったが、警備にあたっていた職員の先導によって、安全に避難して事なきを得た。エリゼ宮や議会周辺の上空は原則として飛行機の飛行が禁じられている。周囲は警戒のため一時封鎖された。
直ちに持ち主の男性が当局に名乗り出て、操縦を誤って墜落させた事を認めた。男性は日本政府職員で、娯楽目的で飛ばしたという。職員はボージラールのアパルトマンで酒を飲み、趣味の小型ヘリを飛ばしていて制御出来なくなった。このヘリは量販店で購入した市販品で、大使館職員は酒に酔って「皆様に歓迎の意を表したくなって」飛ばしたという。
在フランス日本大使館は「職員が非番の日に個人の道具を使った事だが、事態を深刻に受け止め、信頼回復に努める」などと述べた。
米ホワイトハウスでは昨秋、刃物を持った男が建物内に侵入し、シークレットサービスのトップが引責辞任したばかり。フランスでも改めて警護のあり方が問われそうだ。
内務省はエリゼ宮とは斜向いに位置する。大野はDCRIの取調室に居た。ミーティングテーブルに座らされている。傍らには太めの男が居る。顔馴染みのギョームだった。
「君には済まないと思っているんだが、こう発表しないと治まりが付かないんだ」
「エリゼ宮のワインセラーを調査したんですね」
と大野は応えた。
「ワインセラーって君、エリゼ宮だぜ。その地下は洞窟と言っていい広さだ。カーブだよ。そのワインカーブの片隅に見慣れないカートが設置されていた。中を開くとオゥディナトゥールがあった。君の言う通りだったよ」
大野は言う。
「貴方達内務省は、テロ警備に無人飛行機ドローンを使おうと試験運転をしていたんですね。それが先般、パリ市内で頻繁に目撃された物だ。それからモンテブランでは、感熱センサー搭載機の実験の為に、虎逃亡とゆー古典的な小芝居まで演じた」
ギョームは頷く。
「しかしそんな事は、パリ市民どころかテロリストにもお見通しだったのですよ。あのロッテルダムの絵画泥棒一味にも」
ギョームの顔色が変わった。バレてないとでも思っておいででしたか、と大野は思った。
「母親と名乗る女が燃やしたと主張する画布の分析は出来ましたかね」
「まぁオランダの警察の仕事だからね。ゆっくりやってるんぢゃないか」
「それは当然ピカソではない。ピカソはとうに売り飛ばされています。女こそ首謀者で、あの画布は今回のテロの指示書ですよ」
「なんでまた、そんな前世紀の様な真似を」
「あらゆる通信が傍受されるからこそ、手書きの物が有効だったんですよ」
そりゃ皮肉な、とギョームは言う。
「貴方達はドローンに、武器を装着しましたね」
「いや、あれは致命的な武器ではないよ。只の催涙ガスの発射装置だ」
「しかしテロリストは、それを毒物とすり替えていたんです」
「どんな毒だい」
「例えばポロニウムとかではなかったでしょうか」
ギョームの顔色はますます悪くなる。
「ちょっと待ってくれ、調査官に注意を喚起しなければならない様だ」
ギョームは内線電話に飛び付いた。そして指示を与えた。
「ワインセラーの中に仕掛られたオゥディナトゥールで、貴方達のドローン五機を乗っ取ろうとしていたんです。これによって園遊会出席者にポロニウムを浴びせる計画だったんですよ」
ギョームはもはや声も出なかった。これが表沙汰になれば、DCRIなど吹飛んでしまう。
「私はおお慌てで、玩具のヘリコプター五機を買い込みました。それをエリゼ宮の周囲から浮上させました、貴方達のドローンが発進する前に。後はオゥディナトゥールが電波をジャックするのに任せたのです。ヘリはやがて庭園に飛び込んで行きました」
それでか、とギョームは呟く。
「貴方達のドローンは操縦不能になっていたのでしょう。オゥディナトゥールがエリゼ宮周辺の電波を独占していたからです」
ギョームは汗を拭う。
「そもそも何故、ワインカーブにオゥディナトゥールなどがあったんだい」
「それは前大統領の不正に関係します」
そこに繋がるのか、とギョームは言う。
「エリゼ宮のソムリエのオーウィン氏は、前大統領時代からの勤務ですよね。大統領は彼と組んで、無価値のワインに多額の予算を付けて購入していたのです。納入業者の口座には差額が不正に蓄財されました。今回の大統領への疑惑の発覚に、オーウィン氏は畏れを抱きました。そして証拠隠滅の為に、大量の無価値なワインを競売に掛けたのです。勿論、購入業者ともグルでした。そんな工作をテロ集団に掴まれてしまったんです」
何処から知ったというんだい、とギョームは呟く。
「それこそ、通信を傍受した情報でしょう。ワインセラーには大きな空きスペースが出来ました。それを利用すべくテロ集団はオーウィン氏を脅し、ワインの木箱に擬してオゥディナトゥールを搬入させたのです」
「で、大統領がプールさせた代金は何処へ行ったんだ」
「何処か巨額の資金洗浄が出来る組織へ受け渡されたんでしょうね」
「すまない」とギョームはまた謝った。「君の名誉はいずれ我々が回復させるから」
そんな事は構いませんよ、と大野は呟いた。もう内閣情報局への出世はふいになったのだから。
――香港中心部の湾仔で二八日の午後、走行中の現金輸送車のドアが突然開き、三千五百万香港ドル以上の現金が路上に散乱する騒ぎがあった。
輸送車は五百香港ドルを三十箱のケースに入れて運んでいた。午後二時前、走行中に横のドアが突然開き、このうち三箱が路上に落下。後続の車が箱にぶつかった衝撃で、うち二箱、計三千五百万香港ドルが周囲に散乱した。
目撃証言によると、通りかかった車やバス、タクシーに乗っていた人々が道路に飛び出し「大金だ」などと言いながら、拾い集めたという。周囲はお札を拾う群衆で大騒ぎになり、持ち去る人も続出。約一五二三万香港ドルが持ち去られた。
しかしその後、この事件を報じるニュース番組で警察が、拾った人に返すよう呼び掛けた。結果、二九日夕までに二七人が計約四八〇万香港ドルを届け出た。だが一〇四〇万香港ドルが行方不明のまま、まだ戻っていない。当該銀行はこの一〇四〇万香港ドルを、損失として計上した。
大使館のデスクで背を丸め、日々地味な事務処理を続けている大野に、長沼からメールが届いた。
「貴殿の出身省庁の予算から、エアチケットをご手配願えませんでしょうか。現在、本官は浪人であります故、手が出せません」
何処へ行きたいと言うのだろう、私だって身を慎んでる状況なんだけどな、と大野は思った。長沼の求めていたのはモルドバ共和国行きのチケットだった。それなら、と旅費をせびる相手を思い着いた。DCRIのギョームだ。
首都キシニョフの空港で長沼と待ち合わせた。いかに鉄道好きとは言え、ルーマニア経由では時間も読めず埒が明かない。仕方無く大野は、空路でアムステルダムを経由した。空港ロビーでロンドン便から降りて来る長沼を待った。
我々にとっては交通も不便なこの国に、ワイラーはいとも簡単に入国した様子だ、千キロを跳び越えて。今度こそ、この土地でワイラーを見つけたい。所属する組織から逃れた男。あまりに模範的過ぎる逃亡者。
冴えない表情をした長沼を見つけた。雑嚢を抱えて通路を遣って来た。DIAから色々な機材を持たされたという。会うのは久し振りだったが、会話も弾まない。所属部隊の不祥事や、表立って動かず非協力的なDIAの事などがあるのだろう、と斟酌してみる。
乗合バスを探して市内へ向った。長沼は雑嚢を胸に抱え込んでいた。男二人隣合って座るのは居心地が悪かった。午後の街並みは平坦な印象だった。
予約したビジネスホテルに入り、互いの部屋に荷物を置くと夕食に出た。
ワインは有名みたいですよ、と言うと長沼は「興味無いな」と言う。サルマレという名物料理を黙々と食べた。「キャベツだろ、これ」
長沼の部屋に行き、作戦を立てた。DIA支給のパソコンで位置と室内状況を確認し、イヤホンマイクでスティーブンと連絡を取りつつ突入する。
長沼は廊下の左右を見回していた。その隙に、大野が官給品の万能鍵で扉を開いた。モルドバでは高級とされるホテルだ。しかし廊下の絨毯も・壁紙もあまり手入れが良いとは言えない。
「開きました」
と大野が呟いた。身体を入れ換え、長沼がドアノブを掴む。打ち合わせた訳でもないのに、二人揃ってドアに耳を付けていた。立っている長沼と、屈んだ大野は、斜めに目を合わせた。
互いに指揮命令系統から外れて、こんな強盗行為をしている。一体我々は何に衝き動かされているのだろう、と思い苦笑した。これは最早、誰に命じられた任務でもない。只、ここまで追って来た男の正体を、どうしても知りたいのだ。
内部に人の気配は感じられない。
「行こう」
と長沼が言い、ドアを開いた。
狭い部屋だった。ドアの向うには居室。それもベッドで占領されていた。窓の脇に小さなライティングデスクがあり、底に澱を残した珈琲カップが置かれていた。その脇にはノートパソコンが一台。ディスプレイは開かれていた。画面ではスクリーンセイバーが脈動している。
耳に装着したイヤホンマイクは米軍官給品のスマートフォンに接続してある。そして回線はスティーブンと繋いだままになっている。
「お前が見えてるよ」
と耳許でスティーブンの声がする。ディスプレイの脇には小さなCCDカメラが付いている。このパソコンはDIA本部でハッキングされているのだ。
その間にも大野は、家宅捜索を続けていた。
ワードローブにある三着のジャケット。その下には中位のボストンバッグ。ベッドの下には三足の靴。チェストを開けば、アンダーウェアなども入っているのだろう。バスルームには歯ブラシと髭剃機。ここもまた家宅捜索の教練通りの現場だ。それが訝しい、模範的過ぎるのだ。
長沼はマウスに触れた。デスクトップが表示されたが、それとて当たり前のメーカーの壁紙だ。長沼はウィンドウズを終了させた。すると耳許から、
「ワイラーの反応が消えた」
と声がした。今までこの部屋の何処かに居たというのか。そんな筈は無い。ひと目で見渡せる程の狭い部屋なのだ。
ドアをノックする音がして、扉が開いた。そこには小柄な人物が立っていた。「クライブと言います」と、この人物は名乗った。「ナガヌマさんですね、やっとお目にかかれた」
ベッド脇から大野も顔を向け、あぁどーも、と挨拶をした。
クライブと名乗った人物は、椅子を引き寄せて座った。そして語り始めた。
――大西洋や太平洋を渡る海底ケーブルの末端からデータを取り込む「アップストリーム」というシステムがあります。NSAは傍受によって多くの通信をスキャンしテロ情報を探しているのです。
ある経緯から、私はこのシステムの運用チームに技術者として加わりました。そこでこのアップストリームに疑似的なAIを付け加えたのです。「ディープラーニング」というアルゴリズムの応用です。この疑似人格を我々はホイッスラーと名付けました。析出した不穏な情報を、彼が音声や文章によって伝えられる様にしたのです。これはNSAの作業にとっても大変有効でした。
ホイッスラーは時には自分で判断して、マスコミへも情報を流しました。そこまでプログラミングしておいたのです。お疑いになりますか。いや、既にディープラーニングの応用で、マスコミに於いては経済やスポーツの記事が生成されています。大学では論文の採点までこなしているのですがね。
そんな状況下、十一年に日本で震災が発生しました。あの時に太平洋側のケーブルが破断したのです。復旧までに他の回線などを迂回させていたのですが、その過程でホイッスラーの動作に不備が生じてしまいました。回線がグラウンドループ状態になっていたのです。
方向を間違えたホイッスラーは、我が米国政府のサーバーコンピューターに侵入し、多くの情報を析出してバッファに溜め込んでしまいました。私のプログラミングが頑迷だったのですが、このデータは簡単に消去出来ません。外部に伝達した事を確認する迄、ホイッスラーがデータを手放さない仕様にしておいたのです。
我々はデータの処置をあれこれ試みました。それはホイッスラーにとってはハッキングです。危機感を持ったホイッスラーは、自分自身を基に別人格を生成したのです。つまりそれがエドガー・ワイラーという人格でした。ホイッスラーは、ワイラーにあの人相の画像まで設定していました。画像データも数億とありましたからね。取り放題です。
ワイラーはSCSのサーバーに自分自身をインストールし、そこから陰謀情報を発信し始めました。彼にとっては、それこそが主要な機能ですから。我々はこの失敗を糊塗する為に、身代わりとなる実体の人物を用意しました。それがあのハワイや香港の住居であり、あのロシア人リクルートの件でした。
我々はワイラーのデータを各地に追い、発見する度に抹消しました。けれど、ワイラーはそれを察知すると他国のSCSのサーバーに、自分自身を転送しました。香港からモスクワまで追った処で、我々はワイラーを漸く消去できたと思ったのです。
しかしその時、既にワイラーはロシア側に捕捉されていました。FSBはこのワイラーを利用し始めたのです。お気付きと思います。SSLのハッキングだとか、SIMメーカーのハッキングだとか、ましてCIAのエージェントだったとか、最近のワイラーの発言はいささか毛色が違っていたでしょう。今のワイラーは違う人格になっています。それにロシア側は、身代わりの実体も用意したのです。テレビ出演をご覧になったでしょ。それがあのロシア外交官にリクルートされた人物でした。
あなたがワイラーを追っているのは判っていました。我々はウェブ上でロシアン・ワイラーを追い続けて来ましたから。これ迄にロシア連邦圏内のワイラーは全て抹消出来た筈です。そう、あなたが見つけたこのノートパソコンのワイラーが、最後に残った一人だったのです。
そこまで語って、クライブはノートパソコンに手を延べた。USBメモリーを挿して、電源を入れ直した。違うOSで立ち上がったらしく、馴染み深い起動画面すら表示されない。だた、コマンドラインが坦々と続いていた。暫くハードディスクが空回りを続けた。抹消プログラムを稼働させているのだ。
その様子に目を落としつつクライブは言う。
「彼を追い乍ら、私はずっと考えていたんですよ。ホイッスラーは何故エドガー・ワイラーという名前を作り出したのかと」
大野はそのスペルを思い浮かべた。
クライブが続ける。
「彼はホイッスラーからhとstを除いた。それをエドガーに加えるとどうなるのか」
パソコンはハードディスクを激しく回転させている。
「それはヘッド・ギア・セットという意味だったのではないか。彼は頭に填め込まれたギアを、苦痛に感じていたのではないかと思うのです」
やがてパソコンは、咳き込む様に再起動した。そして哀れなビープ音と共に貧相なフォントで、
「No System File」
と表示して停止した。それがワイラーの最期という事になる。
エピローグ
NSAの組織の拡大は今も続いている。ユタ州ソルトレークシティから約四十キロ南の町ブラフデール。新興住宅地の外れから、麦畑の中に浮かぶ四角い建物群が見える。NSAが建設した「ユタ・データセンター」だ。
十二億ドル以上をかけた総面積十三万平方メートルの巨大施設は九月に稼働予定だったが、電圧トラブルで完成が遅れているという。
ここでは十の二十四乗にあたるヨタ・バイトのデータが、分析可能だという。元NSA幹部の証言によれば「全世界の通信データの百年分が保存できる」そうだ。この施設は、膨大なデータを永続的に保存し、必要な時に引き出して分析する狙いがある。
ワシントン郊外のNSA本部ビルには、極秘チーム「特注アクセス作戦室TAO」がある。元職員の証言によれば、要員は米軍出身者や分民ハッカーら五千人以上。外国のネットワークに侵入、暗号を解読しデータ通信を写し取るハッキングが任務だという。
同じ敷地内に二〇一〇年、米軍の専門部隊サイバーコマンドが併設された。初代司令官は陸軍大将キース・アレキサンダーNSA長官が兼務する。
サイバー空間で軍と情報機関は関係を密にしている。
「対外情報監視法」略してFISA。令状なしの傍受を、一定の条件を満たせば合法とした法改正を進めたのは、ブッシュ政権だった。これには当時上院議員だったオバマ氏も関与した。民主党予備選まではこの改正案に反対の姿勢を取っていたオバマ氏だが、指名を確実にしてからは賛成に転じたのだ。大統領間で伝達されて行く事案。それはヴァーチャル空間に形成するラシュモア山の彫像の様だ。
オバマ米政権は、九月に退任したロバート・マラーFBI長官の後任に共和党系のジェームズ・コミー氏を指名した。この処のNSAへの批判もあり、共和党からの理解が得られ易い人選を、と考慮したとみられる。
オバマ米政権は、機密情報を流出させた政府関係者を、スパイ防止法違反容疑で次々に摘発している。米軍制服組で統合参謀本部副議長を務めた、ホス・カートライト海兵隊大将が新たに捜査対象となっている。イランへのサイバー攻撃を巡る機密を漏らした可能性があるとされた。
同氏の弁護士は「ホスは米国の英雄だ。彼が国を裏切ったとほのめかす内容は、いかなることでも莫迦げている」との声明を出した。
大西洋の天候は良く、風も凪いでいる。波間に中型船が停泊している。船首は北北西に向いている。船員達は交代で昼食を摂っていた。
船長はデッキで海面を見ている。傍らでは作業員達が立ち働いていた。海中に続く長いケーブルを引き回し、その先に繋がる機器に見入っている。海洋考古学の探査船なのだ。
海中に下ろされたケーブルの下では、潜水夫達が作業を続けていた。彼等は海底に埋まる宝箱を発掘している……のではない。海底に横たわる通信ケーブルの保守点検をしているのだ。
海は静かだった。船長は思わず欠伸を漏らした。我々の研究は順調である。資金はイタリアの銀行から潤沢に送金されている。その出資者が誰かなどは一切関知していないのだが。 了
陰謀のノワゼット 麻平織 @3gatudo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます