グローゼの四つの貴石


    グローゼの四つの貴石


    プロローグ


 オーストリア南部、東チロル地方の山岳地帯は、険しい岩壁が幾重にも連なる。標高三千メートル級のアルプスの山々は、残雪を纏って屹立している。

 二〇一一年六月、この峰に売却の話が持ち上がった。

 売りに出されたのはグローゼ・キニガット峰とロスコップ峰。グローゼ・キニガット峰は標高約二六八九メートル。ロスコップ峰は標高約二六〇三メートル。ここはイタリアとも接している。

 売り主はBIGという公共団体。オーストリア政府の合理化策の一環として〇一年に設立された。本来は国から移管された大学や政府関連施設の、管理・売買が主な仕事だ。しかしその他に、国からは約五千の不動産を払い下げられている。その中には山林や墓地、坑道など、本来扱わないはずの物件も数多くあった。そして問題の二つの峰もここに含まれていた。

 BIGの報道官アイヒンガー氏は、

「本団体は公共機関であり、納税者に対して責任がある。二つの峰のような資産価値の低い物件は追々に処分していくべきである」

 と説明している。これらの峰は不動産鑑定家が「荒れ地」と評価して算定。希望売却価格はグローゼ・キニガット峰の山頂と周辺の二つの小峰を含む約九二万平方メートルを、約九万二千ユーロとした。ロスコップ峰は、山頂を含む約二九万平方メートルを、約二万九千ユーロとした。

 このニュースが欧州に流れると、早速ドイツの音響ソフトウェア会社が名乗りを上げた。

「ぜひ購入して山頂に会社名をつけたい」

 その他にも、中東やロシアの投資家からも問い合わせが殺到している。

 そんな風潮に、麓のカルティッシュ村村長は、

「先祖の血が染み込んだ山々を、外国に売り渡すなどとは、一体何を考えているのか」

 と憤っている。


 ――米ワイオミング州の米軍基地には、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射サイトがある。これら五〇基は全て核兵器登載型だ。この設備が二三日、一時発射できない状態になっていた。

 最初はNORADが異常を検知した。発射に関わる回路が信号を受け付けない。直ちに現場が調査された。当初は停電が原因と見られ、当該基地の部隊もこれを軽視していた。その後この件は、発射を制御するコンピューターのハードウェアの不具合であったと報告された。この問題は二六日朝に大統領にも報告された。当局はサイバー攻撃などの可能性を否定している。


 米フロリダ州南部ブロワード郡。

 ランドクルーザーを降りて、長沼はジャケットを脱いだ。太陽は真夏のものだった。こっちだ、と呼ぶのはスティーブンだ。そこは第一発見者の住む古いアパートだった。

 スティーブンの後に従って階段を上った。部屋番号を確認してスティーブンが声を掛けた。ホースンさん、先程お電話した者です。

 ドアを開いたのは生白い青年だった。ごついスティーブンが、ピザの配達人の様に低姿勢で呼び掛けている。マイアミ・ヘラルドの記者です。コイツは同僚のチョウです。俺はチャイニーズにされちまうのか、と長沼は思った。

 小さな部屋に通された。意外にきちんと片づいている。ホースン青年は、落ち着かない様子で、珈琲でも呑みますか、などと言う。いえ、お構い無く、と笑顔で断って、スティーブンが切り出す。

「早速ですが、あなたが発見なさった切手の事を、お教え頂きたいのです」

 青年は中間選挙の開票作業のアルバイトをしていた。彼は封書で投票された郵送分の箱を担当したという。蓋を開いて逆さにした。多くの封筒が机の上に積み上がった。彼は電動レターオープナーを使いそれらをカットして行った。

 ある封筒の切手が、彼の目に止まった。複葉機の線画のイラスト。しかしバランスが妙だ。これでは背面飛行になってしまう。そう思った時、郵趣少年の記憶が甦った。あの頃、郵趣雑誌の特集記事で見た事がある。背面飛行の切手、そうだこれは「逆さのジェニー」だ。

「ぼくは駄目だぁと叫んでいました」

 オォノゥってかい、と長沼は思った。何が駄目なんです、とスティーブンが訊いた。

「だってこれが「逆さのジェニー」ならば、使われてはいけないんですよ」

 切手でしょ、と長沼は言った。

「スタンプですよ」

 と青年は言った。この古い切手に現代の消印が押されてしまうなんて。

「つまりそれは骨董品だった」

 とスティーブンが受けた。

「そうです。あれは」

 と青年が説明を始めた。

 「逆さのジェニー」と呼ばれるのは切手の真ん中の空間に、複葉機が誤って逆さに印刷されている事による。周囲の版は色があるが、この複葉機は墨一色の線画なのだ。それでうっかり版を逆さにしてしまったらしい。

 エラー印刷は百枚だけ。勿論、検品でハネられて印刷所から出る筈は無かったのだが、エラー切手の常でどういう訳かワンシートだけが表に出てしまった。この未使用のひと綴りがオークションで二百七十万ドルで落札されている。

「二四セントの切手がかい」

 とスティーブンも呆れて言う。

「つまり、この一枚が未使用ならば七十万ドル以上になったかも知れないんです」

 と青年は両手を見つめて言う。大金がすり抜けた感触があったのかい、と長沼は思った。

「それで、差出人は誰だったんだ」

 とスティーブンは訊いた。夢から覚めた様に青年は呟いた。

「無記名だったんです。ですから得票にはなりませんでした。何という無駄な事を」


 州法によると投票用紙は、封筒とともに二二カ月間保存することが義務づけられている。現物は選挙管理委員会の金庫の中だ。長沼とスティーブンは選挙管理委員会を訪ねた。

 ここでは記者だなどと名乗っても埒があかない。権力を行使しなくては話しにならない。スティーブンは米軍の身分証を提示し、軍事機密調査の為と宣言して、封筒を出させた。

「複葉機に軍事機密があるんですか」

 と委員は怪訝だった。しかしスティーブンは強弁した。

「あるんだ」

 そして封筒の切手をスキャニングした。

 次に二人が向ったのは当地の切手収集協会の会長宅だった。

 切手を調べて欲しい、と先触れをしてあったので、会長は快く二人を招き入れて呉れた。

「早速ですが」

 とスティーブンがラップトップパソコンを開いた。そしてスキャニングした切手を表示した。会長の目が輝いた。

「この切手、現在確認されているのはワンシートから切り離された四枚だけで、しかもそのうち二枚は盗まれてしまいました」

 で、これはどうなんですか、とスティーブンは訊いた。

 会長の口調はやや懐疑的だった。

「封筒の印刷のラインが、切手越しに透けて見えている。という事は本物より紙が薄い気がする。そう疑って見ると、色合いや縁の特徴も本物とは微妙に違う様な」


 陽は傾きかけていた。しかし暑さはまだ退かなかった。ランドクルーザーに戻った二人は、疲れ果てていた。

「やはりDIAではあれを航空機爆破予告と捉えているのか」

 と長沼はスティーブンを詰問した。

「実際、一昨年もアブない処まで行って制圧した件があったからな」

 とスティーブンは応えた。


「大使館通信にこんな情報がありました」

 とパリの日本大使館に勤める大野からメールがあった。

 ――北極圏デンマーク領グリーンランド北東部沖に海底油田がある。これは世界最北の油田といえる。水深百~五百メートルの大陸棚にあり、面積は約五万平方キロに及ぶ。

 グリーンランド自治政府はこの海域のうち、入札対象の鉱区(三万平方キロ)を来年発表、公募を実施する。この入札に、日本の官民合同出資会社が参加する。リスクを減らすため、欧米メジャーと協働することも視野にある。


「中国のレアアース売り渋り以来、資源の確保は今の日本の優先課題だからな」

 と長沼は返信した。更に米国で拾った情報も書き加えた。

――世界遺産グランドキャニオンでは、ウラン高騰から採掘計画が急増している。現在約三千五百もの申請が寄せられている。米内務省は二〇日、アリゾナ州のグランドキャニオン国立公園の周辺でのウランの新規採掘を二〇年間禁止するための検討に入った。ここでは過去二〇年間で八鉱山が稼働している。


 などと返事を送るうちに長沼はすっかり目覚めてしまった。昨夜フロリダを発った。自衛隊生活も永く、さんざん訓練も積んで来たので、目覚めは良い。情報保全隊に配属されてからは、各国を渡り歩いて来た。ジェットラグなども力でねじ伏せて来たのだ。

 フランスの日本大使館にいる大野とは、昨年もちょっとした作業を共にした。こうして時折情報交換を続けているのは、奴が目をつける情報に、特徴があるからだ。何かが匂う。それは大野独特の嗅覚なのだろうか。途惚けた奴だが、あれで内閣情報調査室の出向要員だ。無能ではない。



    1


――アルカイダの英字誌「インスパイア」は十年七月からネット上で、PDFで無料公開されていた。勿論話題を集めているダブレットPCへのダウンロードを狙った物だった。それは毎号、洗練されたデザインで構成され、スタイリッシュにジハードへの参加を呼び掛けていた。

 その同誌の最新号にあった「ママの台所で爆弾を作ろう」という記事は、その実、身近な原料によって爆弾を製造出来るとして、その方法を詳細に記した危険な内容だった。

 だがある日、これが書換えられていた。その通りに作れば間違いなく出来る「全米一おいしいカップケーキ」のレシピになっていた。


    レポートC(十一年二月)シチェーションルーム宛

 ご依頼により「ジルベール」の件、調査いたしました。フランス内務省のギョーム氏にも全面的に助力頂いております。結果、判りました事を取り急ぎ報告させて頂きます。

 二〇一〇年七月、パリ市内の郵便局に内務省の対テロ部門工作員と名乗る者から電話があり、局長に取り継がれました。その工作員は、

「内偵していたテロ組織が、そちらの局に口座を持っていた。今般、大金を動かすという情報がある」

 と言います。

「就いてはその資金を追跡したい」と工作員は言い「極秘裡に札束に印を付け、バッグに探知装置を仕掛ける必要がある」と告げました。

 局長と工作員は手筈を相談しました。

 局長はバッグに三六万ユーロを詰めて用意をしました。それを一坦、工作員が預かりバッグに仕掛をした上で郵便局に戻すという事でした。

 工作員の仲間が受取りに来るというので、女子局員に持たせて打ち合わせた場所に向わせました。局員はカフェのトイレで、合図を寄越した女性にバッグを預けました。しかし工作員からの連絡をそれで途絶えてしまいました。

 仏紙ジュルナル・デュ・ディマンシュは、このバッグを受け取った女性をスクープしました。女優志願のティーンエイジャーで、映画のワンシーンの試技だと言われていたそうです。犯人は四十歳位の男性だった、と証言しています。

 二〇一一年一月にも同様の事件が起きました。

 南部トゥールーズの郵便局に、郵政公社の社長と名乗る人物から電話がありました。社長は、

「明日、海外の商社と大事な取引がある」

 と言いました。海外の口座を指定して、二百万ユーロを送金するように、と言います。職員は指示の通りに送金の手配をしてしまいました。しかし上司がそれを怪しみ確認を取りました。

 これによって公社の社長というのは嘘であると判りました。一時は郵政公社全体が大騒ぎとなりましたが、口座は封鎖され送金は回収されました。

 内務省の調査で、通話記録が解析されました。捜査当局はこの男が、イスラエル在住の人物であることを把握しました。セルフォンの名義は「ジルベール」となっていたそうです。


 報告書をメールして大野は、一息ついた。午後の事務室内では館員たちが忙しく立ち働いていた。そんな中を大野はのんびりと珈琲など汲みに行く。

 大野は内閣調査室とNSCシチェーションルームの間の、交換出向要員だった。かつて安部内閣の時にライス国務長官との取り決めで、設置された連絡機構だった。しかしその後の両国の政府の再編成で、彼等は取り残されたのだ。結果、こうしてパリの大使館で暇な日々を送っている。おそらくは主要国の各大使館で、こんな風に暇を持て余している同僚がいる事だろう。

 そんな大野にNSCの欧州部長からまた指令が届いた。明日そちらを訪ねる人物が居る。彼の指示に従う様に。


 その人物はコンコルド広場近くのカフェを指定した。こちらから声を掛けるから、と言われたので屋外のテーブルでノワゼットを呑みつつ待った。やがてサングラスの初老の人物が遣って来た。オウノウ君だね、と男は気軽に話し掛けた。

 注文した珈琲が届くと、男はそれまでの世間噺をやめた。抱えていたタブレットコンピューターを起動し、画像を大野に向けた。それは古書の写真だった。革装で、堅牢な造本に見えた。しかし処々焼け焦げて、一部には血の跡もある様だ。しかしそれがいつの時代のものなのかは判然としない。

「タイトルは読めるかね」

 と男は訊く。目を凝らすと箔押しの痕跡は見える。しかしその文字は見慣れぬ物だった。アラビア文字なのだろうか。

「アブドラという書名だ。十六世紀頃の物らしい」

 君のスキルは聞いているよ、と男は言う。本探しが得意らしいな。昨年は「国民国家の法律」を探し出したんだろ。

 ありゃまた本探偵かぁ、と大野は思った。NSCには余程暇だと思われてるんだな。

「この本は欧州にあと四冊あるらしい。所有してるのはいずれも好事家だろう。それを買い集めて呉れ」

 と男は事も無気に言う。

「好事家の蔵書については古書肆などから情報を拾える。その先、どうやって辿り着くか?このアプリを使え」

 男は懐からスマートフォンを取り出した。外観はガンメタリックで、随分とヘビーデューティーなデザインだ。手にしてみると重みもある。懐に入れておけば銃弾も防げるかな。

「今回のミッションの為に君に貸与する。半径百メートル以内に入れば自ずと教えて呉れる」

 男が脇から手を延べ、画面上のアプリをクリックした。コンコルド広場の地図が表示された。矢印のアイコンがこの場所を示している。

「予算は十万ユーロ用意した。相場は一万だろう。二万出すと言えば喜んで売る。三万以上となったら、予算内で遣繰りしろ。無茶を言うなら奪え」

 潤沢とは言えないかも知れないが、これでまた鉄路の旅は出来るな、と大野は思った。

「そうですね、三万ユーロなら盗む予算と大して変わりません」



    報告メール・保全隊長官宛

 ご下命ありました英国交通省の件、調査結果を報告いたします。

 米国の海洋探査会社「オデッセア海洋探査」は、英国交通省と探査並びに引揚げの契約を結び、アイルランド沖の大西洋の海底を調査していました。

 その結果、十一年夏にアイルランド南西の沖合約五百キロ・深さ四千七百メートルの海底で沈没船を発見しました。

 この船は全長約百二十五メートルの「SSゲアソッパ号」という英国の貨物船でありました。第二次世界大戦中の一九四〇年一二月にインドから出航。英国に向いました。翌年二月にアイルランド沖でドイツの潜水艦Uボートに出遭い、魚雷攻撃を受けました。船は沈没し、乗員八〇人が死亡しました。この船には銀塊や銀貨約二百トンが積まれている模様。

 同社は十二年から引き揚げを開始。契約によれば、成功すれば積み荷の八割を受け取る事になります。積荷は一億五千万ポンド相当との事であります。


 保全隊に文書をメールした後で、長沼はこの話題を大野にもメールしてみた。

「儲けがデカい割に仕事が遅せ~な」

 とコメントを添えた。程無く大野から返事があった。

「その海域で実は、別な物を探してるんぢゃないですかね」



    2


 最初の収集家はアピエットの断崖に建つ城の様な館に住んでいた。

 大野は、早朝のフェリーを選んだ。南仏のトゥーロンから地中海を渡り、アジャクシオに上陸したのは午後だった。予約していた宿にチェックインして、すぐに到着の一報をした。電話の向うで淡々と話すのは噂に聞く執事という存在だろうか。先に手紙で連絡をした者ですが、というとちゃんと把握していた。翌朝の訪問をアポイントした。

 夜には繁華街に繰り出して、この人物の情報を収集した。大きな屋敷に僅かばかりの使用人を置いて、ひとりで暮しているのだという。

「屋敷の修繕に入った事があるよ」

 と酒場で逢った老人が言う。ご自慢の図書室があった。大きさも様々な古い本ばかりだった。街の図書館よりも余程大きな書架だったという。なかなか有望だ。

 翌朝は、地中海のみごとな眺めを見おろし乍ら目覚めた。手配して貰っておいたタクシーが早々に着いて、フロントから呼出しが掛かった。ホテルを出るとタクシーは、海岸線沿いの道を進んだ。山側からの影を落とす地中海は、深い青に見えた。

 タクシーは隣町のアピエットに入った。港湾を右折し、上りの道を進んだ。やがて道は一車線になり、粗末な舗装路になった。前方の山の上を示して運転手が何か言う。コルスなのだろう、聞き取り難い。しかしフロントガラスを見れば、目的地が近いという意味なのは想像出来た。

 ガンメタリックのスマートフォンのアプリを起動してみた。地図の上に対象物がポイントされ、こちらの位置を示すカーソルが動いて行く。さすが米軍製だ、確かに良く出来ている、と大野は思った。

 ファサードまでタクシーを乗り入れた。一時間後に戻って来て下さい、と頼んで降りた。大きなドアを見回し、ノッカーを見つけた。これを叩くのかな、と戸惑っているうちに、ドアが内側から開かれた。きちんとした三ツ揃いの老人が綺麗な姿勢で出迎えて呉れた。

「約束した者で」

 と切り出す大野に、皆まで言わさず老人が「オウノウ様ですね。主人がお待ちです」と綺麗なフランス語で言い、邸内へ誘なう。玄関ホールに入ると、その広さに圧倒された。ここだけでうちのアパルトマンの敷地面積に匹敵するんぢゃないか、と大野は思った。

 大きな図書室へと導かれた。こちらでお待ちを、と老人がテーブルを示して退出した。ブリーフケースを脇に置き、大野は椅子に腰掛けた。それ自体が骨董品の様だった。ナポレオン時代の物と言われても違和感はないな、と思った。すぐにメイドが珈琲を運んで来た。大野が書棚を確認する暇もない。

 珈琲を手に、巨大な書棚を見上げた。広い部屋の三面に天井まで達する書棚が作り付けられている。中段に鉄パイプを這わせ、そこに鉄製の梯子が引掛けられている。部屋の正面には扉のある書棚もあった。その中には余程の希購本が納められているのだろう。

「堪能されたかな」

 と声が掛かった。イタリア仕立てのスーツに身を包んだ白髪の老人が、扉口に立っている。優雅な微笑をたたえている。貫禄負けだった。

「いや、正直言えばどんな本があるのかも、まだ把握出来ていないのですが」

 と応える大野に、主人は鷹揚に頷いた。これで私は単なる使いだと認識されたろうな。

 そこで用件を切り出した。「アブドラ」という十六世紀の本なのですが、というと主人は、

「連絡を頂いて執事に調べさせた。確かにここにあるよ」

 と応えた。少しコルサのなまりはあるが、立派なフランス語だった。扉のある書棚から出されるものという大野の予測を裏切り、主人は手前の書棚の下段からその本を取り出した。無造作に運んで、大野の前に滑らせた。

 版型は大きめだが、意外に薄い。革と覚しき重厚な装丁の四隅には、装丁のアクセントなのか何か小さな宝石が象眼されている。表題は箔押しされていたらしく、不思議な文字の形を残している。アラビア語なのだろうか。

「手に取ってよろしいでしょうか」

 と訊いてみた。

「存分に」

 と主人が言う。大野はこの為に手袋を用意して来ていたのだが、主人さえ素手で触っていた。内ポケットに遣り掛けた手を止め、大野は遠慮無く素手で触れた。表紙を開く。本文もアラビア語らしかった。子細に検分したが事前に渡されていた写真と違いは見られない。ま、いっか。

「何処でご入手なさったのでしょうか」

 と訊いてみた。主人は表情を崩した。

「どうしてこんな本が私の書庫にあるのやら」

 怪訝な表情をした大野に、主人は言う。何か貴重な文献を購入した時に、古書店が同梱して寄越したんだろうな、抱き合わせだ。単品では売らんという事だったんだろう。

「なに、よくある事だ」

 と主人は笑った。

「それではお約束の金額で」

 と大野は屈んでブリーフケースを開いた。その中から二万ユーロの札束を出す。すると、脇から執事が盆を差し出した。いつの間に控えていたのだろう。タイミング良く出された盆に札束を置いた。

 執事はテーブルの隅へ下がり、札を改めた。それから主人の脇へ行き、ゆっくりと頷いた。主人は隣室を指さした。札束を盆に載せたまま、執事はそちらへ消えた。

「今、執事が受取を書くから」

 と主人は言った。程無く執事は現れた。金額を記入した立派な用紙を捧げ持っていた。それを主人の前に置いた。主人は懐から太い万年筆を出して、その文末にサインをした。

「もう一杯、珈琲はどうかね」

 いえ、充分です、と大野は応えた。

 玄関から送り出されると、ファサードにはもうタクシーが戻って来ていた。時間には正確な運転手なのか。九十九折の道を下った辺りで声を掛けてみた。

「あの人、何で稼いでるんですかね」

「お客さん、そのスジの方ぢゃなかったんですかぃ」

 運転手は拍子抜けした様子だった。なるほど、時間通りに配車した訳が理解出来た。するとあの執事の脇の下にも短銃くらいは隠されていたのか。


 アジャクシオの宿に戻った。トゥーロン行きのフェリーには間に合わなかったので、もう一夜、延泊を決めた。最初の収穫を、メールで依頼主に報告した。予定価格で購入。何等問題なし。

「どうもぞんざいな扱いに思えたのですが」

 と最後に書き添えてみた。依頼主からは労いの言葉が戻って来た。そしてその文末には、

「ヤツがその箱に突っ込んだのだ」

 と書き添えてあった。ブリーフケースから本を出してみた。剰りに古い、擦り切れた本だった。扉のタイトルはやはり読めない。そこから数頁を繰って行くと、奥付と覚しき文字の一群があった。その下に小さく手書きの文字があった。これはアルファベットらしい。しかし言語は弁別出来ない。イタリア語なのだろうか。


 大使館の事務室では和みの時間が流れていた。昼食を終え午後の始業までの僅かなブレイクタイムだった。館員達が珈琲を手に話している。

「ぼく、見てきましたよ。ジュール街のプレート」

 と若い館員が言うと、友野嬢が興味深気に訊く。何て書いてあったの。

「オウディナトゥール技師ピエール・サラティエ、七六年十一月十二日ここで生まれる」

 ほらこれ、とセルフォンの画面を見せている。おぉ、と声が上がる。

 なに何、と大野も輪に入ってみた。画面を覗き込むと、壁に填め込まれたごく普通の大理石のプレートの写真だ。これがどーかしたの。

「大野さん知らないんですか、これ偽物なんです」

 若い館員が応える。偽物って何の。

「だからこの人物自体が架空なんです」

 これも見て下さい。うちの近所です、と別な館員がセルフォンを差し出す。

「公務員カリマ・ベンティファ、八四~八九年このアパルトマンで暮した」

 こちらはサンソブール街の路地の壁に埋め込まれた大理石プレートだという。

 こんな偽のプレートが続々と、ここ数カ月の間にパリ市内で登場しているという。

 あれは何処にあるんだろーね、あれこそ見たいよね、と館員達がいう。

「六七年四月十七日、ここで何も起きなかった」

 というプレートもあるのだと、報道されているそうだ。

 午後の始業になって、大野はデスクのパソコンでウェブ検索をしてみた。

 フィガロ紙の記事にヒットした。同紙の調査ではこれらのプレートの名前はいずれも架空の人物だった。新手のアートなのだろう、と市民も鷹揚な反応をしているらしいが、プレートを埋め込まれてしまった建物の所有者には、それ処ではない。公共機関に撤去を求める声もある。しかしそれについて市は「建物の所有者がすること」と静観しているという。

 フランス人らしいなぁ、と大野は欠伸をした。


 ――同じ記事の画面を見乍ら、脅威を感じている者がある。

「ミルゥ」のデータベースに何か、システム惑わすコードが紛れている。

 オルセーのIDRIS計算センターには、次世代のスーパー・オウディナトゥール「ミルゥ」が設置されている。これには様々な書籍や新聞のデータをストレージさせてある。ナリッジに関わるヒトのニューロンの働きをシミュレートするのが目的なのだ。

 ある程度のデータベースを整えた段階で担当者は「ミルゥ」の機能をマスコミに公表した。面白がったテレビ局は「ミルゥ」をクイズ番組に出演させ、インテリタレントと競わせたりもした。確かに「ミルゥ」は、知識を問う問題では圧勝した。

 データベースの構築の為「ミルゥ」は連日、新聞各紙の電子版の記事を自動的に収集していた。そしてこの偽プレート事件の記事もまた、自動的にデータベース化されていた。

 運用者が悲鳴を上げる。

「ウィルスだ。まさか現実を伝える記事がトロイの木馬の役割を果たすとは」



    報告メール(調査継続中)保全隊長官宛

 調査を続けている「アマジグ」について、リビアにて収集した情報をご報告いたします。

 元シナゴークだったという建物を中心に実地踏査を重ねトリポリ東部へ参りました。低層住宅が並ぶ街でありました。

 当該建築物の庭にはヤシの木などが茂っており、軍事施設には見えませんでした。敷地の外周は四キロ程度。高さ約三メートルの外塀を乗り越えると、さらに内側にも塀がありました。

 本館はそのその奥にありました。建物にはかなりダメージがありました。窓ガラスは殆どが割れ落ち、外壁が吹き飛んだ部屋もありました。四月のNATOの空爆で崩壊した模様。

 建物内に侵入し捜索した処、二階の奥に事務室がありました。倒れたキャビネットに文書綴が残され、デスクトップコンピューターなども空爆で飛び散ったまま放置されていました。

 このコンピューターを解体し、ハードディスクを取り出して来ました。中身を解析した結果、入手できた文書ファイルの内容は以下の通りです。


 ファイルは〇三~〇四年頃のタイムスタンプが多数でありました。これはリビアが核開発計画を放棄した時期ですので、米英とも融和の兆候があったという事でしょうか。

ここには「米中央情報局」「英情報機関対外情報部」両機関がカダフィ政権による反体制派の弾圧に協力していた様子が英語で表記されていました。

 以下はその調書と思われます。

 ――MI6はバンコクにて、反カダフィ派のイスラム組織「リビア・イスラム闘争グループ」の指導者ベルハジを、妊娠中の妻と共に拘束。リビアに護送した。同指導者は、当地トリポリの刑務所に七年間投獄され拷問を受けた。MI6はこのグループとアルカイダの関係を疑っていたため、カダフィ政権と利害が一致した。


 このベルハジはカダフィ政権への抵抗運動で中心的役割を担っておりました。反政府活動組織では春のデモ以降、タマジグト語を暗号に使ったとあります。

 彼等は「ベルベル人」と呼ばれる民族です。遊牧民であった時代もありますが、現代では定住者などもあり、地域ごとに異なった生活をしている様です。

 リビアやアルジェリアから、モロッコなどサハラ砂漠周辺にまで広がる民族です。ここでは通り名のベルベル人としましたが、彼等自身は「自由人」を意味する「アマジグ」と称するそうです。ロマと同様の意味でしょうか。

 リビア国内に於いては、チュニジア・アルジェリア国境に近い山岳地帯や、南部の砂漠に多く暮し、数十万人がタマジグト語を話しています。

 カダフィ政権では彼等アマジグ人を「統一を乱す危険分子」とみなし、タマジグト語の本を持つこと自体が「国家への反逆」とみなされていました。

 本官は再び米国に戻り、SIPRNetのハッキングについての調査を、続行いたします。



    3


 パリ東駅からインターシティ・エキスプレスに乗った。車窓を楽しんでいるうちに終着駅に着いてしまった。フランクフルト中央駅まで僅か四時間。駅舎を出て振り返ると半円型の建物が麗しい。

 タクシーを降りたのはビジネス街だった。確かにここなのかと思って、ガンメタリックのスマートフォンのアプリを起動してみた。フランクフルトの地図上にポイントがあり、それに重なる様にカーソルがあった。

 招じ入れられたのはオフィスだった。余計な装飾は排しているが、極めてスタイリッシュなデザインだった。会社は活気があった。今回の所有者は、実業家と思われる。デスクの向うで電話を片手に商談の最中だった。手つきで大野に椅子を勧める。さすがにドイツ語では何を相談しているのかは理解出来ない。

 ドアがノックされ秘書らしき女性が珈琲を運んで来た。え~とドイツ語で謝辞は、と考え、ダンケシェンなどと口篭りつつ言った。

 気づくとこの部屋の主が、電話を終えて前に立っていた。大野は周章てて立ち上がり、握手をした。もう一度椅子を示されて座り直した。もう秘書の姿は無い。

 主の左手には例の古書があった。それを間のテーブルに置く。「これに間違いはないかね」と訊く。話が早くて助かる。

 ここでも素手で触れているので、大野はまた手袋を出し損ねた。本を手に取ってサイズや書名の窪みを確かめた。四隅で鈍く光る小石の装飾もある。同じ物の様だ。

「確認させて頂きました」

 堅苦しい表現しか出てこないのがもどかしい。

「では」と主が切り出す。「金額の交渉に応じよう」

 先にお手紙でお伝えした二万ユーロではご不満でしょうか、と問うた。

「他からの引き合いもあるのだ」

 と主は応えた。引き合いとは、意外だった。我々以外にもこれを、今求めている者がいるのか。これはこの人物の巧みな交渉術なのではないだろうか。

「それでは二万五千ユーロで如何でしょうか」

 否、と主は首を振った。

「三万」

 と言ってみた。主は人差し指を横に振って無視した。商売人だなぁ、と大野は感心した。

「この本の価値をご存知なのですね」

 と大野は話を逸らしてみた。勿論、と主は目を光らせた。彼の得意な話題を釣り上げた様だ。

「アブドラとは」と主は切り出した。「オセロをアラブの名に言い代えたものだとする説がある」

 オセロってボードゲームの事ぢゃないよな。あれは日本だけで通じる商標だ。とすると、英国の古典演劇のタイトルかな。

 主は背後のキャビネットを開き、重厚なハードカバーを出して来た。

「英国アーデン版のシェイクスピア全集の「オセロ」だ」

 高価なのは判るが、これは古書ではない様だ。ここを見給え、と冒頭の解説部分を示された。いきなり言われても何処を読めば良いのやら、戸惑った。読む振りだけした。

「この序文では「オセロ」について、アラブ伝承の物語からアダプテーションされたという説を紹介している。「オセロ」のストーリーは知っているね」

 いきなりの英国文学史の知識を問う口頭諮問だ。油断をしていた。ここは出版文化の中心地なのだ。

「え~と、ムーア人の男がヴェニスの将軍になって反感を買い、ハニートラップに掛かって失墜させられるとゆー噺だったか、と」

 ローレンス・オリビエだったか、いつぞや深夜映画で見ただけなので甚だ怪しい。大野は困惑した。それを見抜いて主は言い添える。

「シェイクピア作品はそれ以前の時代の伝承や説話を幾つも取り入れている。その事は多くの検証もあり、別に怪しむべき筋合いはない。しかし」

 と言って主は皮肉な微笑をした。

「これを主張しているのはカダフィなのだ」

 これはまた意外な名前が出て来た。

「そう、先般失脚した独裁者だ」

 あの軍人上がりの人物が英国文学に詳しかったというのか。

「カダフィはまた、シェークスピアは英国に移住したアラブ人の族長で、その名をズベイルである、と信じていたという」

「アラブの族長、というと」

「Sheikのズベイル。英語の発音ではシェイク・ズベイアとなるのではないかね」

 大野の驚きを主は面白がっている。

「なに、よくある俗説だ。「シェイクスピアは同時代の誰かであった」などという話は掃いて捨てる程あるだろう。ダ・ビンチが他の誰かであるという説と同様だ」

 跳び過ぎた話題について行けなくなった大野は、珈琲に手を伸ばした。

「つまりこの「アブドラ」はシェイクスピアのネタ本である可能性がある。そんな理由で、この本を求める客人が居るのだよ」

 そこからは値段の交渉になった。実に上手い商売人だった。大野は渋々という表情で、千ユーロづつ積み上げて行った。冷や汗ものだったが上限と決めていた四万ユーロで折り合えた。

 握手の後、本をブリーフケースに納め席を立つ大野に、主は言う。

「ロンドンへはもう行ったのかね」

 英国にもありますか、と訊ねてみた。

「当然、アポン・エイボン書店ならば」

 あそこにあったのなら、もう焼失しました、と大野は応えた。


 ホテルに戻る前に、大野はビアケラーに入ってビールをがぶ呑みした。商取引は苦手なのだ。部屋に戻るとまた本を確認してみた。少し革装の色が違う気もするが、それは「時代がついている」という事なのだろう。

 依頼主のタブレットコンピューターの画像を思い出した。あの焦げ跡や血痕は古い物などではなく、カダフィが拘束された時のものなのだろうか。

 ラップトップコンピュターを起動した。内蔵している通信カードのアンテナを立てる。状況を報告する前に「アブドラ」という本についてウェブで検索してみた。僅かだがヒットするサイトがあった。欧州の古書マニアのブログが主だった。それ等は「アブドラ」の希少性とそれによる価格上昇について触れていた。「某氏が日本人に二万ユーロで売った」ともある。それに反応して購入の意志を表明しているのは米国のマニアだった。これを求めているのは、明らかに投資目的と思われる。

 収穫を依頼主にメールした。一冊は焼失している可能性が大きいという事も書いた。今回は文末に、

「結果からすると、私がぢぶんで値を吊り上げてる気もするんですが」

 と書き添えてみた。返事メールには、それを折込んでの予算だ、とあった。更に一言「収集した本は一箇所に置くな」ともあった。


 大野にはこの便利なスマートフォンが気になった。ブラウザはあるが、その他は指示されたアプリ程度しかインストールされていない。そこで他のアプリをダウンロードしてみようと試みたのだが、一般のウェブには接続されていなかった。

 そこでパソコンに繋ぎPING解析などを試みた。その結果これは独立したネットワークに繋がれている事が判った。シップル?何と読むのだろう。NSC貸与品なのだからこれは米軍関連に違いない。

「SIPRNetとわ何ですか」

 と長沼にメールしてみた。

「さすがに速耳の大野さんだ。当方も今、調査を続けている」

 と長沼から回答があった。それによるとSIPRNetとは、シークレットIPルーターネットワークの略号らしい。

「これは米軍の機密情報を共有する基幹情報システムだ。9・11当時、米政府の情報機関は「縦割り」が原因で、テロを防げなかった。その反省から、情報共有の為にこのネットワークが設置された。他省庁もこのネットにアクセス出来る。国務省もそのひとつで、〇五年までに百八十の米国在外公館がこのネットに繋がり、秘密公電が自動的に各公館のコンピューターにダウンロードされていた。アクセス可能な政府職員・軍人は五十万~六十万人にも上る」

 ありゃ~遅れ馳せ乍らやっと私にも、それが貸与された訳かぁ、と大野は思った。

「ここにはトップシークレットは盛り込まれない。各情報には複数の分類タグが付けられ整理されている。タグに関連付けされた部署に所属するのであれば、自由にダウンロードできる」

 なるほど、検索システムを盛り込んであるんだ、と大野は思った。長沼は更に書き添える。

「大野さんなら先刻承知の事だろうが、先般、何者かがここを通ってICBMを停止させた。DIAはこれを「アマジグ」と名乗る集団だろうと目星をつけている。彼等がそのハッキング技術のデモンストレーションをしたのだ」


「大野さん、これはどーゆー事ですか」

 と友野嬢に詰問された。なに、と顔を上げると万歩計の様なものを示された。

「大野さんのデスク周辺、放射線量が高いですよ」

 それは、と指さすと、サーベイメーターです、と友野嬢が応えた。本国で問題になっているので、こちらにも配置される事になったんです。

 確かにフランスは原発推進国家だ。それはともかくとして何故ここいら辺りが放射線を帯びてるのか。大野はあても無く、デスクの引き出しを引いた。

 大野の目は古書の上で止まった。

「収集した本は一箇所に置くな」

 とは言われていたが、まさか大使館内で強奪も無いだろうと多寡を括ってここに放り込んで置いたのだ。ちょっと貸して、とサーベイメーターを奪った。

 それを二冊並んだ背表紙に近づけると、針が跳ね上った。0.1マイクロシーベルトという数値の辺りを上下している。

 本をデスクの上に出した。二つを並べて、その上をサーベイメーターで探る。表紙の装丁に小石が象眼されている。その上に差し掛かると針が動く。淡いミルク色のどちらかといえば上品な輝きのある石だった。友野嬢が両手を唇の前で合わせて見つめている。

 大野は電話を取った。DCRIのギョームを呼び出した。

「放射性物質の検査をして欲しいんですけど」

 大野が二冊の本を抱えて出掛けようとしていると、友野嬢がパントリーからアルミホイルを持って来た。これでくるんだ方が良いのではないでしょうか。


 内務省関係の研究施設を紹介され、そこに本を持ち込んだ。技官はルーペで石を詳細に調べて言った。

「ユラノポリィクラァスを少量、含んでいますね」

 何語なんだか、いかにも放射能がありそうな名前だった。人体に影響はありますか、と問う。この程度では問題ないでしょう、と技官は応えた。

 大野は二冊の本を丁寧にアルミホイルでくるんだ。二つの平らな塊は、何かの料理の様にも見える。ひと安心して研究室を辞去する。部屋を出る前に思い着いて訊いた。

「産出地は何処ですかね」

「この辺りでしたらイタリアの山岳地域ですね」

 エトワールまでのメトロの車中で、大野は考えていた。カダフィは最期までこの本を持ち歩いていたのか。この官給品スマートフォンは微量放射線を感知して、その場所を地図上に表示しているのだろうか。それは、カダフィ追跡の為のツールだったのか。


「例の秘密結社「地下鉄職員組合」に繋がったな」

 と長沼からメールがあった。

 ――イスラエル建国の一九四八年、リビアには約四万人のユダヤ人が定住し、トリポリには複数のシナゴークがあった。リビアのユダヤ人は、ここに二千年以上昔から暮していた。ここから拡散して行った係累は世界各地で二〇万人にも上るとみられる。

 しかし五〇年代・六〇年代とイスラエル・アラブの間の戦争があると、反ユダヤ感情が悪化した。東部ベンガジなどではユダヤ人虐殺事件が起き、町のあちこちに「ユダヤ人に死を」といった落書きが現れたという。

 住民による排斥が横行し「食料の買い出しができなくなり、仕方無くリビアを出た」という証言も多い。一九六七年までに多くのユダヤ人が国を逐われ、イスラエルや米国、イタリアなどに渡った。

「こいつらがあの組織に入ったのだ」

 と長沼は言う。

 ――六九年のクーデターで「アラブ民族主義」を標榜し誕生したカダフィ政権も、強い反ユダヤ・イスラエル路線を執った為、シナゴークの多くはモスクなどに改装された。

「俺はこのシナゴークのひとつを踏査して来たよ。これはそこで掘り出した情報だ」

 と長沼は書き添えた。


「さっきは心配させちゃったね。アルミホイル、ありがと」

 と大野が言うと、友野嬢の関心は既に他に向いていた。

「バルト海に沈んだ難破船から引き揚げられた十九世紀のシャンパンが、オークションに出品されましたね。どんな味かしら~」

 と大使館情報の記事から目も上げない。



    4


    リポートD(十一年秋)シチェーションルーム宛

 ご指示いただきました「ジルベール」に関連する情報を報告させて頂きます。

 英国の国務相レトウィン氏が、国家機密情報を漏洩していました。官邸からも程近いセントジェームス公園の特定のごみ箱に同氏が文書を置き去る姿が、大衆紙デイリー・ミラーによってスクープされました。

 同誌の取材にレトウィン氏は「機密資料ではない」と応えたそうです。この隠し撮りが為された時に同誌記者が拾った文書は、弁明の通りで自身の選挙区民からの手紙や個人情報のリストだったそうです。

 国会でこの件を追求された同氏は、

「二度と公式文書を公園には捨てない」

 と語ったと言います。

 しかしMI5によると、同氏のこの行動は既に九月に始まっており、この十月段階までに数回の情報漏洩の機会があったと言います。その内容には国際テロ組織アルカイダのパキスタンでの動静を記したものや、英国情報機関の活動に関する報告もあり、それらがMI5の注目を惹いた様です。

 特に注目されたのは、同氏が公園のゴミ回収員に直接、文書を手渡した事例があった事でした。接触の直後、MI5によってこのゴミ回収員が探索されましたが、行方は判らないとの事。彼等も「ジルベール」側のスパイではないか、と推測しています。

 MI5による事情聴取に同氏は、リビア情勢に関する情報を買いたい、と持ちかけられたと認めています。特にカダフィの出自に関する情報を、持っていないかと訊かれたそうです。


 座席に戻ると友野嬢がガンメタリックのスマートフォンをいぢっていた。

「大野さんのスマフォ、ブランド品通販も格安ツアーも検索出来ないんですね。いったいキャリアは何処なんですかぁ」

 さすがに若い娘はこういった機器を使い慣れてて勘が良いもんだ、と思った。何を検索してたのやら、と大野はスマートフォンを取り戻す。見た事もない検索サイトが起動していた。この検索エンジンは何だろう。

 検索窓にあったのは「ウェストミンスター」。

 ――フランスを代表するファッションデザイナー、ココ・シャネルは第二次世界大戦中、ナチスの軍事情報機関のスパイ活動に従事していた。ドイツ占領下のフランスで、シャネルは愛人のドイツ軍大物将校とともに、スパイのオルグ活動をしていた。交際相手にちなんで「ウェストミンスター」という暗号名だった。


 もう一度読み返した。少なくとも戦後の記述だが、この情報源はどちらの陣営なのだろう。旧東ドイツか。

「これはシュタージ文書だ。こんなデータまでが何故ストレージされてるんだろう」

 思い着いて画面をロールバックしてみた。現れたのは保険会社のサイト。友野嬢は旅行保険を検索したらしい。

 更にロールバックすると、空軍の福利厚生部門。ここまでが軍のイントラネットで、この中に「任地での負傷と死亡について」の保険の項目がある。ここで不用意に外部のサーバーへリンクを張ってしまったのか。

 大野はこの裏検索サイトにブックマークを付けた。


 ギョームをパワーランチに誘った。彼が最近気に入っているというレストランを指定された。入り口で挨拶を交わした。また胴周りが大きくなったのではないだろうか。

「この間の件もあるし、勿論オマエさんのオゴりだよな」

 ギョームは遠慮無く料理を注文した。クキールサンジャッキとジャガイモに人参のピュレー。オークル色の濃厚なソースが美味そうだ。

「レクチャーして欲しいのは、シュタージ文書の件なんだが」

 と大野は切り出してみた。

「文書管理庁の問題かい」

 とギョームは応えた。

 文書管理庁は一九九〇年のドイツ統一にあわせて設置された。ヨアヒム・ガウクが初代代表となり、九〇年から翌年にかけて、五〇人以上の元シュタージ職員を再雇用した。

 この機関は、かつてシュタージが証拠隠滅のために破棄した機密文書を復元している。復元されたデータは一元管理され、誰でも閲覧出来る。というのも旧東独国民はかつて誰もが監視下にあったと言って良い。だからその自分の監視記録を閲覧するニーズは大きい。また、公職につく人物がかつてシュタージに在籍していなかったかを、調査する用途もある。

「さてそこで、だ」

 とギョームは言う。

 先般、この文書管理庁の職員四五人が異動させられる事が決まった。シュタージ出身者が役所で働いていることには長年批判があった。それを受け連邦議会が九月末、連立与党の賛成でシュタージ文書法改正案を可決したのだ。

「解雇は許されないが、同じ待遇での異動は可能」となって、他省庁への異動が発表された。しかしこれはまた別の批判を呼んだ。今だ全容が解明されていないシュタージ文書の処理が、遅れるのではないか、という世論だ。

「そのシュタージ文書だけど、一体どんな経路で出て来たんですか」

 と大野は訊いた。大皿を片づけたギョームは、口許を拭って問う。

「そもそもシュタージとは」

「旧東独の情報機関」

 と大野は即答した。よしその速さなら「ミルゥ」に勝てるぞ、とギョームは言う。

「そうだ。国家保安省の略称だ。社会主義統一党の指揮下で西独へのスパイ活動をし、また自国民の逃亡を防ぐ監視もした」

 え~と、と記憶を探ってギョームは続ける。

「九万人の正規職員のほか、非公式協力者は十八万人以上いたという。これは友人や同僚を監視していた密告者だな」

「その報告書のファイルなんですね」

 と大野は問う。ギョームは頷く。

「一九八九年十一月、ベルリンの壁の崩壊の報を聞くと直ちに、シュタージは自らの行為の隠滅を図った。ベルリンの本部や各地の支部で一斉に、文書を断裁し始めた。シュレッダーにかけ、シュレッダーが壊れると、手で引き裂いた」

 それはまた狂態だったろうな、と大野は思った。

「十二月、各地の支部を市民が占拠した。一月にはベルリンの本部にも市民がなだれ込んだ。そこには無造作に袋に詰められた無数の文書の残欠と、膨大なファイルやテープが残されていた」

 ちょっと待て、とギョームはカフェオレとケーキを注文した。そして続けた。

「これらの残欠文書はベルリンの元シュタージ本部にある文書管理庁で、袋から出される。今はここに袋が集積されている。各地で見つかった袋の数は約一万五千五百。一袋に平均二千三百枚の紙片が入っていた。破られないまま残っていた文書やカードさえある。写真やネガは百四十四万枚、映像は二千七百巻。盗聴テープなどの音声は三万一千本」

 届いたカフェオレに砂糖を三杯。ケーキは皿に四つ並んでいる。ギョームは、懐からスマートフォンを出し、暫し検索をした。

「これだ、ザクセン・アンハルト州。ツィルンドルフから北に約三百キロにある。ここの州都マグデブルクにシュタージ支部跡がある。ここの倉庫の内部にはこうした袋が約九千五百もある。管理庁で下調べして、復元可能と判断されるとここツィルンドルフに回されるんだ。復元ってどんな作業か判るかい」

 とギョームは訊く。え~とこう破片を突き合わせて、と大野はテーブルの上でジェスチャーをして「まさかそんなぁ前時代的に過ぎる」と苦笑した。

「ところが、まさにそうなんだ」とギョームは言う。「破れた紙片を組み合わせる作業をしているのは「パズラー」と呼ばれる職員だ。組み合わせ張り合わせて復元された文書は再びベルリンに戻され、専門家が研究し、そしてデータベース化される。九五年以降、手作業で復元された文書は約四百五十袋分に過ぎない」

 大野はその無力さに気が遠くなりかけた。

「しかしここにテクノロジーの参入があった。ベルリンのフロイラインホーファー研究所では、コンピューターを使った文書の復元作業が試みられている。残欠の紙片をスキャナーで読み込んで、紙の色や大きさ、形、書かれた文字といった項目を基準に、自動的にグループ分けする。するとソフトウェアが隣合う紙片を見つけ、画面上で一枚の紙に復元するんだ」

「つまり画像データに沢山のタグを付けて、データベース化するという訳ですね」

 と応えて、大野は思った。あれ、何処かで似た方式を聞いた様な。

「この会社のエンジニアのベルトラン・ニコライ氏は一九九七年、このバーチャル復元を提唱した。〇三年から研究を本格化し、〇七年には約六百万ユーロの国家予算がついた。試験プロジェクトは十一年末に終了し、ドイツ連邦議会は、本格解読作業を始めるかをどうかを十二年に決定する」

「フロイラインフォーファーと言えば」と大野の記憶に響く物があった。「MP3のエンコーダーの研究所ですね。MP3エキスパートとゆー質の良いエンコーダーを作っています。これを使えばテキストも音響データ中に入れられます」

 大野の頭の中で想像は激しく広がる。

「そーか、そんな音響と波形に関する技術のある研究所ですもんね、盗聴データから特定のキィワードを拾い出す事も可能でしょう」

「また貸しを作った様だな。オウノウさん、次も美味いもんを頼むよ」

 とギョームは席を立った。パワーランチの時間は終わった。


 長沼からメールが来た。

「どうやら大野さんの読みが当たった様だ。難破船の宝捜し噺はこれを隠蔽していたのか」

 ――〇七年、リオデジャネイロ沖約三百キロの大西洋で、油田が見つかった。埋蔵量五百億バレル超とも推定される。手掛けるのは半官半民のペトロブラス。二〇年までに生産量を、現在の約2.5倍にする計画だという。実現すれば米国の石油メジャーを上回る量になる。



    5


 朝の食堂車へ行くと、ここだよジャポネ、と呼ばれた。夕食をご一緒した老人だ。良く眠れたかね、などとご機嫌な様子。

「いや、軌間の切換えとか興味深い場所があるので、眠らない様に一生懸命でした」

 と応えると、なんじゃそりゃ、と老人は言う。深夜の三時前にスペインの軌道に入ったでしょ、と言うと、天井を見上げてトボケた顔をする。

 予算は潤沢にあったので、このエリプソス車両のグランクラスを予約した。マドリードへ行くのに電車ですか、と友野嬢には呆れられたが。

 夕暮れのオーステルリッツ駅へいそいそと向った。車両の扉口で車掌に切符とパスポートを渡すと、個室のキィと食事券を呉れた。個室内にはシャワーとトイレまである。夜の帳も落ちなんとする時刻に出発した。

 食堂車へ行くと、ギャルソンがこの老人と一緒のテーブルに案内して呉れた。軽い会釈をして座る。

「シノワかい」

 と訊かれるのは良くある事。ジャポネです、と応えた。

 ギャルソンはエスパニョラスだった。構わずフランセイズで注文した。「フランシス・デ・ゴヤ」という路線だもんな、全線スペイン語でも不思議はない、と思った。

 老人は親戚に会いに行くのだという。健啖に良く喰う。陽気に良く話す。

 個室に戻るとベッドメイクが出来ていた。さっそく寝そべったが、まだ眠る訳には行かない。楽しみは深夜にもあった。

 軌道の切換えを体感してから眠り、午前七時頃にはもう目覚めた。そして朝食。老人は朝から旺盛な食欲を見せていた。思い着いて訊ねてみた。

「お仕事は何をなさっておられますか」

 パリ市内で小さな個人商店を営んでおる。エリクシールを釜で似て小瓶に詰めて売っておるのぢゃ。パリに戻ったら一度おいで。

 個室に戻ると、岩山の裾を走り抜ける車窓を楽しんだ。

 チャマルティン駅に着いたのは午前九時過ぎだった。車掌にパスポートを返して貰うと「良い旅を」と言われた。

 駅舎を出るとすぐにタクシー乗り場があった。タクシーの窓から振り返ると、駅舎の屋上には蒲鉾型の構造物が幾つも並んでいるのが見えた。ガンメタリックのスマートフォンを出し、アプリを起動した。


 郊外の大きな屋敷だった。タクシーが門を入ってからも庭園が続き、建物までが長い上りのアプローチだった。そしてエントランスを入ると、そこかしこにアラブ風の骨董が飾られていた。何でも収集する人物らしい。あるいは骨董商の良いカモなのかも知れない。

 今回の所有者は既にこの本の価値を知っていた。こちらがハポネスであると知り、君が話題のコレクターなんだろ、と図星を指された。すると今回はコルシカの金額二万ユーロからスタートしなければならない事になる。

 書棚を見回すと確かに数は多い。しかしどうも整理がおざなりな気がする。この人物にとっては古書など、本当はたいして愛着は無いのではないか。

「処でこの本は何処で入手されましたか」

 さり気なく大野は訊いた。

「リビアの高官が持っておったのだ」

 当地に滞在した折に手厚くもてなしたら、礼にと置いて行った。しかし書名も読めない。仕方無くこの書棚に放置しておいたのだ。

 恐らくはその後、同じ官給品スマートフォンを持つ米軍の兵士が、この周囲を通り掛かってアプリが示す矢印を見つけたのだろう。まだカダフィが発見されていなかった当時だ。そこで収集されたデータに引き摺られて、今ここに来ているんだ、と大野は思った。

「それでは手放すのも惜しくはないのでは」

 と切り出してみた。金額次第さ、と所有者は言う。

「二万ユーロでしたら」

 と交渉をスタートした。三万の大台に乗った処で手打ちとなった。そちらもご満足な金額になったでしょう。こちらもリーズナブルな処です、と大野は心の中で呟き、にっこりと笑って握手を交わした。私もちょっと小狡くなったな。


 エントランスを出ると、長いアプローチを徒歩で下った。門を出ると先程のタクシーがまだ停まっていた。

「お帰りのクルマが無いでしょうから」

 と運転手は気の利いた事を言う。礼を言い、市内まで、と告げた。

 郊外の長い直線道路を暫く走っていた。大野は今回の本を手に状態を確認していた。思い着いてラップトップパソコンを出し、ディスプレイを開いた。その時、運転手がタクシーを停車した。

「どうしました」

 と問う間に、運転手は車外へ出て路肩の林に走り去った。何かが勘に訴える。大野は座席に伏せた。連続する銃声。路肩の側の窓ガラスが砕け散り、大野に降り注いだ。パソコンのディスプレイにヒビが入っている。

 大野は車道側の扉を開き、転がる様に車外に出て路面に伏せた。路肩の小屋から二人の男が現れた。どちらも拳銃を構えている。すぐに男達はタクシーの傍らに到達した。寝そべる大野に上から銃を突き付けた。

 撃たれるのだ、と覚悟した。しかしみぞおち目がけてきつい蹴りを入れられただけだった。それだけでも大野は身体を曲げてうずくまってしまった。エンジンが掛かる。男達はタクシーに乗り込んでいる。

 後部座席を探っていた男が、

「コイツは頂くぜ」

 と大野に向けて本を振ってみせた。アクセルが踏まれる瞬間に大野はその本に飛びついた。力一杯に握り締めた。嫌な音が手許でした。タクシーは急発進して行く。後部座席に引っ込んで行く男の手には裂けた古書が見えた。

 その半分は大野の手に残っていた。見る間にタクシーは遠ざかる。林からは運転手が飛び出して来た。遠ざかる自分の営業車に向って叫んでいる。それから大野に哀れな表情を向けた。ここまで連れて来い、と言われていたのか。

「ブリーフケースを持って行かれた」

 と大野は気づいた。重要書類は無いが、パソコンと財布をやられた。まだ何千ユーロか残っていた。これが強盗ならばそこそこの収益なんだろうな。しかし、と半分にちぎれた本を見て大野は思う。

「そんな単純な事ではないだろうな」

 蹴られたみぞおちがまだ痛む。


 ガンメタリックのスマートフォンで救援を乞うと、驚く程早く援軍が到着した。何処にもNSCに関わるスリーパーは居るものだ。彼等の護送で市内に戻り、ホテルの部屋に落ち着いた。そこで依頼主に電話を入れた。顛末を説明した。

 今回は略奪者が現れ、本が壊されました。手許には半分だけが残りました、と言うと依頼主は、

「奴らはどちらを持って行った」

 と訊く。どちらとは、と大野は聞き返した。

「前半分か後ろ半分かだ」

 と依頼主は言う。前半分です、と大野は応えた。

 依頼主は、それなら良かった、と言って電話を切った。

 何が良かったというのか、大野の頭に疑問が残った。

 続いて大使館に電話を入れ、強盗に遭ったと報告した。そして友野嬢に帰りのチケットを手配して貰った。また電車ですかぁ、と言われた。


 その夜、ホテルの部屋で大野は本の残欠を調べた。ほぼ真ん中にあたる頁から本は破れていた。両者で引き合った時のあの嫌な音は、革装が引き裂かれた時のものだった。放射性物質のある表紙は、あちら側にある。これで良かったというのか。

 一日掛かりでパリへ戻った。オーステルリッツ駅から大野は大使館へ直行した。誰もが「災難でしたね」と労って呉れる。あぁど~も、などと蹴られた腹を押さえつつ応えた。ワイシャツにはまだ足跡がくっきりと残っているのだ。

 自分のデスクに戻ると大野は、完本の二冊を取り出した。アルミホイルを剥ぐ。奪われたのは表紙の石。それから、と考え乍ら巻頭の頁を見て行くと、奥付に目が止まった。

 異国の文字。だがそこには僅かに手書きのアルファベットがあった。大野は目を凝らした。イタリア語なのか、いや文章ではないこれは人名と地名なのかも知れない。装丁者のサインと工房の名か。小さな文字は辛うじてカルティッシュと読めた。


 スマートフォンを取り出した。友野嬢の発見した裏検索サイトでこの名を検索してみた。

 ――オーストリア南部、東チロル地方の山岳地帯カルティッシュはイタリアとの国境地帯でもある。標高三千メートル級のアルプスの山々のうち、グローゼ・キニガット峰とロスコップ峰の二座に売却の話が出ている。

 売り主はオーストリア政府の公共機関BIG。国から約五千の不動産を払い下げられた際、山林や墓地、坑道など、対象外の物件も数多くあり、その中にこの二つの峰も含まれていた。

BIGのアイヒンガー報道官・談「本団体は公共機関であり、納税者に対して責任がある。二つの峰のような資産価値の低い物件は追々に処分していくべきである」


 イタリア国境の山岳地域。そこで作られた古書。表紙に埋め込まれた石。あの技官は何と言ったろうかユレノポリクラス?イタリア原産だというならこれも合致する。

 カルティッシュには未だ知られていないレアメタルの鉱床があるのではないか。そしてこの事実を掴んだいずれかの組織が、オーストリア政府のコンピューターをハッキングしBIGの売却資産にこの峰々を紛れ込ませた。

 ハッカーについても最近聞いたよな。長沼さんの情報だ。「ICBMを停止させた「アマジグ」と名乗る集団」これなのか。

 検索結果を表示しているガンメタリックのスマートフォンを、しげしげと見た。SIPRNetの端末。このSIPRNetにハッキングした集団だという。

「それでこのデータベースは何なのだろう」

「ミルゥでしょ」

 と言ったのは隣の友野嬢だった。もう少しで五週勝ち抜きですよ。

 何の事ですか、と訊くと、クイズ番組の戦績だという。スーパーコンピュターがインテリタレントとのクイズ対決を重ね、今週勝てば優勝となる。

「商品はエーゲ海クルーズですって」

「スーパーコンピューターが行くんですか」



    6


 また内務省の人脈に頼るしかない。ギョームに紹介の労をとって貰い、大野はオルセーのIDRIS計算センターを訪ねた。単なるジャポネの見学者とは扱われず、担当者は気真面目に応対して呉れる。DCRIの名が利いたのか。

「これがミルゥの本体です」

 ワンフロアに多くのユニットを並べたクリーンルームを、ガラス越しに見下ろし乍ら、担当者は説明する。

 米国のIBMが作った「ロードランナー」に対抗しまして、フランスIBMが総力を結集しました。CNRSとの共同開発で、ここIDRISに設置しました。予算は四年で二千五百万ユーロ出ています。

「クイズ番組に出ているのは端末に過ぎません。せっかくのタレント活動ですから多少メイクアップを施してあるのです」

 一四四〇個のデュアルコアCPUを持つ。書籍の文脈から情報を読み出すアルゴリズムを持っている。ナリッジに関わるヒトのニューロンの働きをシミュレートするのが目的なのだ。

「その為には様々な書籍や新聞のデータをストレージさせてあります。現在では百万冊程にも上ります」

 ある程度のデータベースを整えた段階で開発者達は「ミルゥ」の機能をマスコミに発表した。面白がったテレビ局は「ミルゥ」をクイズ番組に出演させ、インテリタレントと競わせた。「ミルゥ」はクイズの答えを瞬時に導き出す。知識を問う問題では圧勝した。あと一勝でエーゲ海だ。

「デモンストーレションが必要だったのです。開発にはまだまだ予算が必要です。マスコミのおかげで医療保険会社のボンポワントとの共同事業がオファーされました。医師の診断や治療法の選択に使おうという計画です」

 就職先が見つかった訳だ、と大野は思った。

「データベースの構築の為「ミルゥ」は日夜、新聞各紙の電子版の記事を自動的に収集しているのです。そしてこの偽プレート事件の記事もまた、自動的にデータベース化されていたのです」

 担当者の口調が、メグレの依頼人めいて来た。え、ちょっと待って下さい。これは事件の事情聴取でしたか。いかん、DCRIのエージェントだと思われたな。

 そこで大野はガンメタリックのスマートフォンを取り出した。担当者の目が輝く。やはりこういったガジェットはお好みと見える。ブックマークから、友野嬢の発見した裏検索サイトを起動して見せた。

 その画面を見て担当者は恐慌した。

「ボンポワント用の試作サイトだ。どうしてこのサイトにアクセス出来るんです。まだ非公開な筈だ」

「実はうちの女子職員がウェブを行き来してるうちに偶然接続出来てしまいまして」

 担当者の動揺は続く。

「それは確かにバックドアは設けてありますよ。しかしそれを易々と見つけてしまったのですか。余程優秀なサイバーエージェントでいらっしゃる」

 いや、確か通販サイトとか格安ツアーを探そうとしたのだ、と。

「このサイトをお使いでしたら、もうご存知の事と思いますが実際、手を焼いている処です。「ミルゥ」は在来のウェブとは切り離してあるのですが、何者かによってドイツのサーバーオウディナトゥールと繋げられてしまい、現在では勝手に何か大量の文書を取り込んでいます」

「ハッキングですね」

 と大野は問うた。それが文書管理庁のデータベースなのか。何故、旧東ドイツなのか。何処かイスラエルの匂いがしないか。

「始まりはルーティンワークの自動データ収集でした。「ミルゥ」は何も知らずに、偽プレート事件の報道記事を取り込んだのです。するとそのいくつかのワードや画像に仕込まれたデータがトロイの木馬となりました。全く巧妙なものです。あなた、子供の教育番組で文字がクレイアニメーション化され踊り出すのを見た事があるでしょう。丁度そんな具合です」

 大野の頭の中でガンビーが踊る。

「現在では「ミルゥ」内部にウィルスが存在している様です。アドインで外部のオウディナトゥールから操作を受け付けています。何者かが「ミルゥ」のボキャブラリーで何かの暗号を解読している様子です。我々は外部から介入するそのソフトが「パズラー」と名付けられているのを解析しました」

 大野の頭の中でまた一つの単語にスポットライトが当たった。「パズラー」とはフロイラインホーファーの文書復元ソフトか。それを暗号解読に使っているのか。

「どんな暗号を解読しているのか、トレース出来ますか」

 と大野は問うた。既に捜査官の気分になっている。やってみます、と担当者は応えた。

 翌日、担当者からメールがあった。「ミルゥ」が解読させられているのは「タマジグト語」という言語なのだという。アラブの民族を思わせる名だな。何か似た単語を見た記憶がある、と大野は思った。長沼が書いていたぞ。「アマジグ」というホワイトハッカー集団、ICBMを停止させたという奴等だ。

 こちらのハッカーはそれに対抗する勢力という事になる。「ミルゥ」を利用し「パズラー」を駆使して「アマジグ」を追っている。こいつらはおそらく「ジルベール」だ。

 正体の知れない頭脳集団の、ウェブ上の暗闘を想像して、大野は恐怖を覚えた。


    調査報告書(アマジグについて続報)保全隊長官宛

 ネット上で公開されていたアルカイダの英字誌「インスパイア」につきまして報告いたします。

 同誌は十年七月からPDFで無料公開されていました。洗練されたデザインで、聖戦への参加を呼びかける内容でした。今般、同誌の「ママの台所で爆弾を作ろう」という記事が「全米一おいしいカップケーキ」のレシピに書換えられた件では、発行者が異変に気づき、今では同PDFデータは抹消されています。

 これはアルカイダに対するアマジグからのハッキングであると推察されます。


 依頼主とメールをやり取りし、納品の期日が取り交わされた。ガンメタリックのスマートフォンを取り出し、しげしげと眺めた。これももう返却かぁ。弾丸避けにはならなかったが、コイツは役に立った。

 デスクの上に投げ出しておいた大野個人のセルフォンに目を遣った。いつの間にか充電が切れている。SIMカードはラップトップの通信カードに装着したまま、マドリードで奪われた。

 デスクのパソコンで検索などしてみた。するとウェブ上では既に、オーストリアとイタリアの国境の山岳地帯にレアメタルの鉱床があるのではないか、という書き込みが登場していた。カダフィが起死回生の手段として狙っていたのではないか、という深読みもあった。


 依頼主との会見はロンドン市内という指定だった。前夜に到着してパディントンの宿に入った。カムデン市場のアポン・エイボン書店の焼跡にも、今では新築のビルが建っていた。ここにあるべき一冊は、失われたという事だ。

 昼下がりに、市内のレストランで待ち合わせた。初老の男は今回もサングラスをかけていた。ランチタイムは過ぎて、店内は閑散としていた。談笑しつつ軽食を終えた。テーブルに珈琲が並んでから、報告に入った。

「残金は二千五百ユーロ程でしたが、これは強奪されました」

 依頼主は、決算報告には軽く頷くだけだった。

 新調したブリーフケースから二冊の完本と残欠を出した。依頼主は一応、一冊づつ改めたが、チェックした本は傍らに放り出すという粗雑さだった。

「宜しい。ご苦労だった、オウノウ君。きみのミッションはコンプリートだ」

 二冊と半分をチェックし終えると、これらを依頼主は傍らの鞄に放り込んだ。

 それから互いに珈琲を口に運んだ。英国のブレンドは妙に刺激があって不味い。

「この本は偽書だ」と依頼主は切り出した。「もう気づいていただろう。放射性物質などという物を仕込んであるんだからな」

 オーストリアの小村に欧州では有名な偽書造り職人が居たのだ。紙や活字、そして皮革や糸に至るまで時代に合わせた物を厳選して仕立てる。隙を見せない仕事ぶりは、フェイク美術品の世界では有名だった。

 偽書だったとは、と大野は思った。

「この本の内容は理解したかね」

 と訊かれ、大野はうつ向いてしまった。読めませんので、と小声で言うばかりだ。

「アラブの男が、欧州の国の将軍になる物語だ」

「シェイクスピアの書いた通りですね」

 と応えてみた。依頼主は言う。

「それは彼の現実とは、全く逆な設定だった」

 彼とは、と大野は問う。

「カダフィは首脳会議などに参加すると、会場の屋外にテントを張って宿泊したものだ。あれは自らがムスリムであるというパフォーマンスだった」

 彼の現実、と大野は反趨した。

「カダフィはユダヤ人だ。それがあいつの支配を永く続けさせた。そしてそれは絶対の秘密だった。この本の内容は奴の心のバランスを取る為のトランキライザーだったのだ。アブドラ将軍に我が身を仮託した奴は、生涯「大佐」と名乗った」

「アラブの国の支配者が実はユダヤ人だった、というのですか」

 大野は驚愕した。ユダヤ系の組織「ジルベール」がこの本を入手しようと、競ったり狙ったりしたのは、その事実を確かめる為だったのか。蹴られた胸の痛みが甦った。

「財力に飽かせ、これを造らせたのはカダフィだ。十六世紀の本という振れ込みの精巧な偽書を小部数だけ造り、それを蔵書家の書庫に潜り込ませた」

 それで何処でも入手経路が曖昧だったのか、と賦に落ちた。

「だが偽書を造らされた造本家にも抵抗感があった。だからこんな呪術的な仕掛をしたのだ。毒を吐く石の象眼。カダフィに災いあれと願ったのだ。こいつはUranopolykrasというレアメタルの一種だ」

 知っていて私に素手で扱わせたんですね、と大野は眉をしかめた。

「それがカダフィの最期を招いた。米国はNATO軍にこの放射性物質がカダフィを指し示すという情報を与えた」

 それがこのアプリか、と大野はガンメタリックのスマートフォンを懐から出した。その重みを掌に確かめた。

「それは今回の勲章代わりに取って置き給え。回線使用料は取らんから」


 宿に戻り、ラップトップパソコンをLAN接続した。新しく買った物だ。惰性の様にウェブを開いて見る。これからオーストリアの峰々の争奪戦が始まるのだろうか。大使館通信を確認した。

 ――日本の協同事業体がLNG生産をめざして調査していたモザンビーク沖合のガス田は、三十TCF(約八千五百億立方メートル)の埋蔵量があるという結果が出た。

 同団体はアフリカ大陸南東部海底の同油田を、米石油・ガス開発大手アナダルコ社と共同で調査していた。この度、結果が公表され、当初の想定の三倍の量だと報告された。世界最大級の油田となる可能性も出ている。


 一度読み流してから、改めて目を吸い付けられた。もう一度じっくり読んだ。レアメタルの象眼された偽書を、ジャポネが大金で買い漁っているという噂。それが指し示すのはオーストリアの峰々。カダフィという箔付け。そしてハッキングによってこれが売却されようとしているというストーリー。それらが資源開発関連企業の間でリアリティを持って囁かれていたのだとしたら。あるいは山の買収に走った企業もあるのかも知れない。

 日本の企業体はその隙を縫って、見事に最大級の油田を獲得した。まさにこれが今回のミッションの目的だったのではないか。レアメタルなどというのは作り噺。

 だとしたらあのサングラスの依頼主は、只のNSC幹部ではないだろう。彼はどんなステイクホルダーだったのだろう。この採掘を受け持つ企業の関係者なのだろうか。

 見事にやられたのかな。



    7


 オルセーのIDRIS計算センターの担当者から大野に連絡が入った。「ミルゥ」に仕掛けられたアドインの解析が出来たという。

「やっと「ミルゥ」をウィルスから自由にしてやれました。これで万全の体制でクイズの最終対決に臨めます」

 解析によって、木馬ウィルスが自らのパーツを呼び込んでいたサーバーのIPアドレスが判ったという。その情報を、大野はDCRIのギョームにも渡した。

 DCRIは司法警察と共同作戦を立案した。DCRIのサイバー捜査部門によってパリ市中の回線がトレース調査され「ジルベール」のサーバーの設置場所が絞り込まれた。

 強制捜査には大野も参加させて呉れた。隣国の出来事とは言え、襲撃の直接の被害者なのだから、という理由だった。

 モンマルトルの古いビルを、司法警察が包囲した。「突入」の合図で扉が破られ、四方の入り口から警察官が殺到した。ギョームと大野も遅れ馳せ乍ら、ビルに飛び込んだ。

「あんた、銃は」

 と大野は傍らの巡査に聞かれた。所持してません、と応えると、ギョームが呆れた顔をした。

 銃を構えた警察官が、廊下を進み乍ら次々と部屋のドアを破る。一階の全部屋を確認。誰も居ません、と報告が届く。ほぼ同時に二階に突入した一隊も、無人であると告げた。警視を先頭にした隊は、三階の部屋を開いて回った。ギョームと大野もその列に居た。いずれも無人だった。

 最後に到達した部屋には、人の気配が残っていた。警察の襲来を知って辛くも逃げた様子だ。

「逃走経路は判るか」

 などと言う警察官達の声が聞こえる。窓や暖炉を覗き込んでいる。

 クローゼットではタワー型のコンピューターがまだ動いていた。

「これがこいつらの頭脳か。小さいな」

 とギョームは言う。

「いや今回の敵の作戦では「ミルゥ」が頭脳ですから、端末であれば事足りるのです。クイズ番組で見たでしょ」

 と大野が言うと、周囲の警察官達から納得の声が上がった。

 窓際のデスクには古書の残欠があった。それを警察官から指摘され、大野もデスクを改めた。脇には見慣れたブリーフケースがあった。それを開く。

「あぁこれ、ぼくの財布です」

 中身は無かった。キャッシュカードさえ残っていない。他の細々とした旅用品は残っていた。大切な「フランシス・デ・ゴヤ」号の切符もあった。しかしラップトップコンピューターは無い。

「あれは無いか~。まだ部品取りは出来るもんなぁ」

「まぁともかくこれであんたの被害に対しての立件は確実になった」

 と警視が言う。単なる強盗容疑だが。

 周囲では捜査員達の現場検証が進んでいた。DCRIのサイバー技官がタワー型パソコンの画面を覗き込んでいた。脇ではギョームが興味深そうに話し掛けている。大野が傍らに立つと「色々な文書が残ってる」と言う。

 情報機関としてはかなりの収穫だった。司法警察にとっては犯人を取り逃がし敗北だったが。不満の残る警視は、周囲をうろついていた。そして暖炉の上で小さな瓶を取り上げた。何じゃこりゃ、と警視は小瓶を暖炉に投げつけた。

 残されたタワー型パソコンのハードディスクが徹底的に解析され、多くのアクセスのログが復元された。

 「ジルベール」が郵便局で詐欺行為を行い資金調達をしていた事も証拠が上がった。それらの資金で英国閣僚から情報を買っていた。彼等も「アブドラ」の噂を聞きつけて、そこからカダフィがユダヤであるという推測を持ったのだ。それが事実であるかどうかは、彼等にとっては死活問題だった。

 カダフィ政権下で弾圧されたマイノリティの中に、彼等ユダヤ系が居た。同じ様に弾圧された民族としては「アマジグ」もいた。だから彼等は「アマジグ」の動向を追っていたのだ。


「久し振りで米国に行きます。シカゴで会えますか。明日ヒトサンマルマルにお電話下さい」

 というメールが大野から届いた。しかし長沼は英国に居た。

 DIAのスティーブンに張り付いて「アマジグ」情報を追っていた。彼の行く処、何処にでも着いて回った。そんな折、彼に緊急出動が掛かった。

「やりやがった。背面飛行の切手だ」

 呼出しの通信に、スティーブンは呟いた。

 スティーブンの後に付き従って空軍基地へ入ると、彼の部隊ともども輸送機に詰め込まれた。居住性の悪い機内で、耳を聾するジェット音の中、大声で訊ねた。

「何処へ行く」

 スティーブンの口は幾つかの名詞を吐き出しているのだが、全く聞こえない。

 輸送機が着陸したのは英国中部のイースト・ミッドランド空港だった。全く乱暴なランディングだった。おまえら、もっと着陸訓練積め、と悪態を付きたくなったが、立場を考えて遠慮した。

 輸送機の中が作戦本部になっていた。英国駐在の関係者からスティーブンが受けるブリーフィングを、横で聞いていた。協力関係にある情報提供者からの信用出来るタレ込みだ、と言う。

 この空港のUPS機の積荷に、爆発物があるというのだ。離陸直前にその情報がもたらされ、危うい処で離陸停止が伝達された。ドバイ空港でも同様にフェデックス機の貨物から爆発物が発見されている。これも協力者の情報によって判った。逸早く治安当局が動き、現在どうにか安全を確保出来ているという。

 ドバイで処理を進めている治安当局からの情報では、その爆発物は高性能火薬「PETN」を使用し、プリンターのインクカートリッジに仕込んであった。ワイヤで繋いだ起爆用の携帯電話の通信回路が接続されていた。ドバイの治安当局は「アルカイダがこれまで使ってきた手口の特徴がある」と言っている。

「俺達の出番だ」

 とスティーブンは仲間に声を掛けた。装備を抱えた一団が輸送機を降りた。その列の最後に長沼も就いている。

「こらジエイタイ、引っ込んでろ」

 とスティーブンが背で言う。

「この期に及んで冷てぇな」

 と長沼は応える。

「俺達がホットな関係だった事があるか」

 とスティーブンは言う。

「フロリダでな」

 と長沼は応えた。誰かが、ひゅう、と口笛を吹いた。

 空港は封鎖され、問題のUPS機を残し、周囲の航空機は遠避けられている。UPS機の乗員は全て機外に出されている。そこにスティーブンのグループが入る。貨物室は輸送機とたいして変わらない内装だった。

「同じ爆弾ならば相当に小さい。捜せ」

 と命令が掛かり、一同が貨物の山に分け入った。対象物が小さなプラスチックケースと回路だけとなると、金属探知機も役を為さない。カッターを手に梱包を引き裂く。荷物は多いのだが人数を投入するには狭い。なるべく手早く捜索しなければならない。長沼も作業に加わっている。

 荷物の谷間から隊員の声が飛び交う。

「部屋でセルフォンが見つからない時はどーするんだったかな」

「女房に掛けて貰うんだ」

「誰かやってくれ」

「番号が判らねぇ」

「例え判ってたとしても、リミットが何コールかによるな」

 軽口の間にも手は動き続ける。コイツら度胸がある。

「ドバイから続報が入りました」

 と通信員が言う。読み上げろ、と荷物の陰でスティーブンが声を上げる。

「爆発物はイエメン発で、シカゴのシナゴークが送付先だそうです」

「みんな、ラベルを見ろ」

 とスティーブンが応えた。

 一同はサイズ不同の荷物を右・左に動かし乍ら、ラベルを読み始めた。じりじりとした時間が過ぎる。やがて奥の方から、これか~、という声がした。一同の手が止まる。

 スティーブンが荷物の山の隙間を抜け、奥へ身体を移す。

「見せろ、よし」という声の後「発見したぞ」とスティーブンが言う。

 スティーブンの命令一下、無関係の荷物が機外へ放り出された。爆発物処理エキスパートとスティーブンの二人だけを残して一同は外へ出た。長沼も残る事は許されなかった。

 貨物室のタラップの下で、一同は半円を組んで見守っていた。スティーブンが小さな声で状況を告げる。

「結束バンドを切った……、箱を開いた……、梱包材を除けた。これか。よし基板を剥き出しにしたぞ。やっぱりセルフォンの回路が使われてる。傍に数字が書かれてるぞ。おっとこの番号は何だ」

 やがて、奥からスティーブンが叫んだ。

「ナガヌマを拘束しろ!」

 半円の仲間が顔を見合わせた。そして直ちに数人掛かりで長沼を押し倒した。隊の一人が叫んだ。

「一二五八、容疑者確保!」


 長沼は手錠と足錠を掛けられた。輸送機に連れ込まれ監視下に置かれた。隊員の一人が銃を突きつけている。フェデックス機の中ではまだスティーブン達の解体作業が続いていた。やがて機外の隊員が「安全確保」を伝達した。

 暫くしてスティーブンが輸送機に入って来た。白いSDカードの様なものを、コンピューター要員に渡した。

「オマエのセルフォン貸してみろ」

 手錠のまま胸ポケットを探った。うまく掴めず、取り落とした。それをスティーブンが拾った。フリップを開いて、メールを確認している。これは何て書いてあるんだ、と訊く。

「久し振りで米国に行きます。シカゴで会えますか。明日ヒトサンマルマルにお電話下さい」

 長沼は翻訳して聞かせた。「ヒトサンマルマル」って、大野さん、こりゃ死語だろ。

「腐れ縁だぜ。俺もしっかりオマエのセルフォンの番号を覚えちまってる」

 その見覚えある番号が基板の傍にメモしてあったんだ、とスティーブンは言う。

「俺は関係ないだろ」

 と長沼は言う。コンピューター要員がディスプレイを見乍ら声を掛けた。

「解析完了しました。データを送り検索を要請した処、このSIMカードのキャリアはフランスで契約者はオウノウという人物だそうです」

 え、大野さんかい、と長沼は呟いた。

「そうだ、お友達のオウノウさんだ。そのSIMカードが起爆装置に装着されてた。このメールに従っておまえから通話があると、起爆する仕掛けだった。どーゆー事か、お友達も呼んでしっかりご説明願おうか」


 ――爆発物の発送元となったイエメンでは、外相が「アルカイダ系の関与の痕跡がある」と述べた。〇九年の米旅客機爆破未遂などとの類似性からイエメンを拠点とする「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」が事件の背後にいるとの認識を示した。首都サヌアの各地に検問を設け、警戒体制を強めた。


 米政府はイエメン発の貨物を運ぶドバイ発ニューヨーク行きの旅客機を空軍機で護衛した。また複数のUPS機をペンシルベニア州の空港などで捜索した。そして各地の空港で厳戒体制を敷いた。

 UPS社とフェデックス社は共に、イエメン発の貨物サービスを当面停止すると発表した。


 オバマ大統領はホワイトハウスで緊急会見した。

「今回の複数の爆発テロ未遂事件は、米国に対するテロの確たる脅威だ。アラビア半島のアルカイダが米国に対するテロ攻撃を続けているのだ」

と指摘した。その後、

「情報機関や捜査当局が卓越した能力と決意で職務を遂行し、事件を未然に防ぐことによって米国民を守った」

と有権者にアピール。

「今後も、アルカイダとその関連組織を破り、あらゆる暴力的な過激勢力を根絶することに対し、我々の決意は揺るがない」

と結んだ。


 大野はワシントンDCにやって来た。欧州部長に呼び出されたのは一年ぶりだろうか。シチェーションルームと呼ばれているエリアの、地下三階の会議室に入ると、不機嫌な顔をした長沼が座っていた。脇にはスティーブンも立っている。ご無沙汰でした、と大野は笑顔を向けた。

「ロングタイムノーシーって、あんた」

 と長沼が呟く。膝の上に置いた両手には手錠が掛かっている。

「あれ、何かやっちゃいましたか」

「オウノウさん、あんたコイツに電話掛けるようにって、メールしたかい」

と訊いたのは、スティーブンだった。

 部長と長沼も大野を見つめた。

「それがこの処メール出来なかったんです。マドリードでパソコンを奪われまして、SIMカードをその中に装着しておいたものですから」

 本を奪う為に襲い掛かったのは「ジルベール」だった。しかし連中は大野の壊れたパソコンには関心が無かったのだろう。タクシーを乗り捨てた時に、奴等は大野のブリーフケースだけを持ち去った。

 市内に放置されたタクシーを発見し、その座席からパソコンを回収したのは、あのとぼけた運転手だった。そして彼こそはAQAPの構成員だったという事になる。パソコンのアドレスブックから長沼の電話番号を知るのは訳もない事だったろう。


 大野は彼等にユダヤ組織「ジルベール」との攻防を語った。その最後に登場したのが「アマジグ」だった。これについては長沼の方が詳しかった。

「あなた達はこの組織を利用していますね」

 と大野は言った。

 何の事だ、とスティーブンは食って掛かる。

「最初のデモンストレーションはICBMのハッキングによる停止でした。ここで実力を見せた組織は貴方達にアクセスして来た。そしてあなた達のリクエストに応えもう一つのハッキングを見せたのです」

 大野は部長を指さして言った。長沼が引き取って続けた。

「例の「全米一おいしいカップケーキのレシピ」だろ。あれは「アマジグ」がアルカイダのサイトにハッキング出来る能力をアピールしたんだ。あんた達もそれで納得した。だから今回の爆弾事件では彼等を全面的に信用して、情報を買った」

「私はその他に、オーストリアの公共団体のメインコンピューターにハッキングしたのではないかと疑ってるんですねどね」

 と大野は言う。何だそりゃ、と長沼が顔を向けた。部長は無言だ。

「我が国は、地下組織の力なんぞ借りる事は無いぞ」

 とスティーブンは反論した。大野はあくまで穏やかに言う。

「そうですね」

 相手はいわば秘密結社だ。国家はそんな団体と正式に手を結ぶ訳にも行きません。だから「敵にもしない・しかし同盟も結ばない」そんな緩い契約を結んだのでしょ。

「そりゃ、どーゆー事だ」

 と長沼が訝る。大野はガンメタリックのスマートフォンを取り出した。ジェネラル・イッシュウ。勿論米軍の連中ならば、これが何だか判る。大野はそのパネルから裏検索サイトを起動した。これはスティーブンにも何なのか判らない様子だった。

 大野は「ミルゥ」のデータベースで検索した。

「これでしょ」

 と画面に表示された情報を、一同に示した。

 ――十九世紀の難破船から引き揚げられたシャンパンが、オークションで落札された。

 フィンランド沖のバルト海に沈んだこの難破船は、フランスからロシアに向けて航海していたとみられる。今回出品された物は、十年夏に引き揚げられた百四十五本のうち一本で、コルクなどの特徴から老舗ヴーヴ・クリコの一八四一年ものと見られる。落札価格は史上最高額で一本三万ユーロだった。


「落札者を装っているのは、あなた達政府の職員だ。出品者を演じて貰う為、前以て相手にはシャンパンを預けておいた。実は品物は動かしただけに過ぎないんでしょ。最高落札者は、堂々と三万ユーロを渡しシャンパンを回収したんですよね」

 この百四十五本は全て相手に預けてあるのでしょう。そして今後も、ひと仕事終える度に、買い取る真似をして資金を渡すという手筈、と大野は得意気に言う。

「つまりこれが、放浪民族の結社「アマジグ」への報酬だ」



    エピローグ


 オーストリア南部のカルティッシュ村。

 国内外の話題を集める峰の売却問題に対し、村長自らがテレビや新聞で窮状を訴え続けた。

「国の誇りを売り渡すのか」

 それ迄にも村は、BIGに掛け合って峰々を購入する道をあれこれと探ったが、人口約八五〇人にして予算規模一三〇万ユーロの小村では、どうしても手が出なかったのだ。

 寒村の村長がテレビで見せた切実な訴えは、人々の心を打った。国内でも「国の誇りを売り渡すのか」との批判が高まった。

 日々高まる国民の声に、ついにミッテルレーナー経済相は、

「二つの峰がオーストリアの手に留まるよう努力する」

 との声明を発表。国内の公的機関や自治体に限定して、売買交渉を受け付けるという考えを示した。これにより海外の買い手は撤退を余儀なくされた。

 十月初め、二つの峰の去就が決まった。森林管理局によって、BIGの提示額での購入が決定されたのだ。

                                  了

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